昨日は台風に備えて早朝から色々連絡をいれながらオフィスへ向かった。オフィスまでの道のりは静かな雨が降っているだけで嵐の前の静けさなのかなんなのかよくわからないままこのくらいの雨だったらいいかな、と少し遠回りした。なのに犬を散歩中の人に信号無視をするなだの前を見て歩けなど怒鳴られてびっくり。出会い頭にぶつかりそうになっただけで前見てたし信号無視してないし悲しかった。朝っぱらからなんなのさと思いながら早くからあいているはずのパン屋さんまでさらに遠回りしたが開いておらず!こっちのほうがショック!色々備えて一週間最後の日だからなにかおいしいパンないかな、と寄り道したのに。朝っぱらというのは朝の腹、つまり空腹、つまり早朝のことをいうのだよ。だから夜っぱらとはいわないんだよ、夜もおなかすくけどそういう問題ではないんだよ。あさごはんはとっても特別だったのに。たまにしか通らない商店街はどこも開店前でまだ昨日を引きずっている感じだった。そういえば台風が過ぎたらしき昨晩の空には明るい月がでていて、時折黒い雲に隠れる様子も素敵だった。
毎日定点観測している木槿も雨のせいか時間のせいかしぼんでいた。木槿は一日でしぼんでしまうお花。でも蕾が続々と控えているので毎日咲いているように錯覚する。ムクゲって漢字だとゲシュタルト崩壊しないのにカタカナだとなんだか間違っているような気がしてくる。ふわっふわの花びらのなかには小さな蟻が集まる。あれってムクゲの香りというよりアブラムシが出す蜜を求めてくるんだってね。ありんこは本当に糖分に目ざとい。目ではないか。触覚か。いくつかのハーブを嫌うとかいうけどあまり効果がないともきく。私は香水とかずっと苦手だけど蟻はだんだん大丈夫になってくるのかしらね。好きなものはずっと好き。嫌いなものもわりと大丈夫、みたいな感じで。こういう感覚だとしたらわからなくはないけどね。私だって毎日同じ香水を嗅いでいたら数か月後には自分が使うようになってたりするかもしれないってこと。慣れとは違うけどレシピ動画とかいっぱいみてても茄子大嫌いな子供がおかわり!みたいなのもよく流れてくるし、好き嫌いの感覚なんて意外と、って部分もあるのかもしれない。絶対音感とか絶対の感覚を持っている人はまた別だろうけど。
思うだけなら自由というのは見るだけならただと似てるけど境界を意識する必要は常にある。思うだけ、というのはおそらくありえない。それを話すだけ、というのも行為なので。どこで誰に話すかもとても大事。精神分析はお互いの境界に敏感にならざるをえない学問。なぜなら心がどれだけたやすくお互いを侵食するかを実感させられる実践を続けてきたから。だからこそメタで考える力が必要になる。心がどれだけ複雑で多様な動きをみせるかを知っておく必要がある。昨晩のReading Freudは十川幸司訳の「メタサイコロジー論」(講談社学術文庫)の「抑圧」論文を読んだが、「欲動と欲動の運命」で定義された「欲動」に基づいた「抑圧」の記述、表象と情動量の区別、短い論文に詰め込まれた緻密な思考の痕跡を追った。情動の議論はフロイトの臨床観察から導かれており、その素材が狼男、ドーラ、鼠男であることは症例を読んだことがある人ならすぐにわかる。私たちも何度も読んでいる症例論だがフロイトの思考にできるだけ近づいてこれらの論文を読み直す必要を感じた回でもあった。自分の物語をフロイトに押し付けるのではなくフロイトを読み続けることがこの回の目的なのでそう感じられてよかったと思う。
今日は長い移動がある。がんばろう。台風の被害があった地域にも適切な支援が早く入りますように。

