少し蒸し暑い。窓を開けた。風がない。除湿運転をはじめる。このエアコン、手をかざすとメニューが表示されるリモコンなんだけど電池がすぐなくなるので不便。昔ながらの方はリモコンの電池も全然なくならないし、機能は少ないかもしれないけど全部見えている分、使いこなせている気がする。まあ、壊れたから新しいのにするしかなかったんだけど。これも私もあと20年くらいもってほしいな。
今朝は埼玉県杉戸町の銘菓「日光古街道」緑茶味と冷たい麦茶とキウイ。キウイ、すごく美味しくなってる。嬉しい。
先日、森鴎外の記念館に行った。千駄木の坂の途中にある。ぎっくり腰みたいな脚から腰にかけての痛みが強くてちょこちょこすり足しながら歩いていたら同じような歩き方のご老人とすれ違った。ぎっくり腰のときも軽いうちは少しでも動かしておかないとどんどん固まっていく感じがあるから痛いのを克服した気分になるためにもちょうど沿線にいたので寄ってみた。常設展は大体知ってるけど何度見ても面白い。正岡子規や高浜虚子はお手紙にもきちんと俳句を書いている。特別展は「本を捧ぐ―鴎外と献呈本」。鴎外に贈られた本32冊と鴎外が贈った本10冊とそれにまつわるエピソード。呉秀三からの本もあった。こういうのはそれぞれの字体とか紙の使い方を見るのも楽しい。
7月のフォーラムのための討論は原稿を全部いただいてから書きたいけど待っている時間がないから個別の反応みたいな感じになってしまうと思う。一応「死の欲動」を巡ったものになるのかなあ。わからないな。
さて、それよりずっと以前、私のReading Freudで読んでいる「心理学草案」(=「科学的心理学草稿」)のこと。改めて読むとなんだか曖昧に使っていた「力動的」「局所論的」「経済論的」とは、ということがみえてくる。
«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。»p5(388)
「心理学草案」におけるフロイトのこの狙いは達成されなかったけどフロイトはずっと科学的であろうとしたり、生物学を捨てることもしなかった。欲動という概念はこういうことを考えるときに生きてくる。神経症だって身体と情緒の間をいくものだろう。「心理学草案」を読むことでフロイトがしようとしてきたことを俯瞰で捉えることができるかもよ、ということで今月もがんばりましょう。
フロイトは『フロイト全集6』の「性理論三篇」(1905)でWisstrieb、つまり知識と探求への欲動を示した、というメモを見つけたけどこれも欲動のことを考えていたときのかな。Wisstrieb、アブラハムを経由してクラインがそれを受け継いだが、クライン派の乳児は性的な空想に苦しんではおらず、攻撃性と共に知りたがっている印象がある。そこには母の去勢、母の死、というテーマがある。だからあとが大変というか、ウィニコットで有名なgood-enough motherはクライン派の中では乳房の修復欲動によってようやくその輪郭を現す、というイメージを私は持っている。最早期の格闘とモーニングワークともいえるか。辛い。というか、私はなんでこんなことを書いているのか。もっと目的を持った作業をしないと原稿が書けない。
そして通勤本は坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』。これも本の話。こういうのはいいよねえ、という場合の「こういうの」を言語化できないけどする必要もない。言語化、可視化にはなんとなく逆らっていきたいかもしれない。特に理由はないが。
暑いなあ。熱中症に本当に気をつけましょうね。