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戦争に関する番組をみたり。

早朝から歩いた。曇り空だけど蒸し暑い!

この数ヶ月、ずっと戦争に関するドキュメンタリーをちょこちょこみていた。ヒトラー、チャーチル関連の作品を見終えたあとは「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争」のシリーズなどをみていた。昭和館とかにたくさん資料があるからまた行かなとな。デジタルアーカイブはこちら

昨晩は地上波で『火垂るの墓』をやっていたのでそれもみてしまった。何度見ても目を背けたくなるが、好きなシーンもたくさんある。後半の節子がひとりで遊んでいるシーンはもうどうしようもなく尊い。尊厳を守ろうとする子どもたちが守られることを当たり前としないのが大人の世界なのかもしれないが、それでも本当にこういう尊い子どもたちはこれからも生まれてくる。

NHKスペシャルもエゴ・ドキュメントという当時の日記や手記の引用や分析から太平洋戦争の知られざる側面に迫っていたが、『火垂るの墓』をみるとアニメーションの力はすごいなと思う。いろんなドキュメンタリーを見ているときはひたすら言葉をなくす感じというか、思考停止になる感覚ばかりで、何を見たり聞いたりしても何も感じなくなっているのは私ではないか、という不安に襲われたが(それこそが戦争という現実の怖いところなのだろうと思うが)アニメーションはというか『火垂るの墓』はひとりひとりの人間の重みがずっしり伝わってきて、それは思考を促すもので、想像力が勝手に刺激される感じがする。だから見るのはとても辛いのだけどまだ感じられる自分は何を感じ、何を考え、どう生きていくのかということを考えさせてもらえる。それは全然知的な理解ではなくて、単に情緒を伴った人間の自然な振る舞いなのだろうけど。自然さや本来さなんてすぐに失われて、実はそっちが本質だった、みたいな言い方に導くのが戦争なんだと思う。たとえそうだとしてもそれに抗うように人間はできているという信念を貫いていきたい。

それにしてもお盆の期間、東京は人が少なかった。いつもなら夕方にいったらほぼ何もないような安い八百屋さんにもしかして、と思って寄ってみたらいいものがまだ少し残っていて買えた。大好きな無花果まで安いのに残っていた。この前、スーパーで高くて諦めたばかりだったからテンションがあがった。ハチミツとかでドレッシング作って無花果のサラダにしてみたり楽しんだ。時間があるときにやっておきたいことはたくさんあるけどバタバタするのももったいないからのんびりできて幸せだった。八百屋さん的にはちょっと苛立つ状況なのかブツブツおっしゃっていたけれど。安く売るというのは全部さばくというのが条件だろうからなあ。私は買えてありがたかったけどヤキモキする時間帯ってあるのだろうなあ。

お天気はどうなるのかしら。みなさんの地域はどうでしょう。大雨の影響が大きかった地域のみなさんも元気でありますように。

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ウィニコットとか米田翼『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』とか。

夜はいつまでもおなかいっぱい。遅い夕飯が胃腸に良くないことはわかっている。昼間なら胃腸の調子に気をつかえるが夜はもうだめ。つくおきもしない方がいいのかもしれないがしなかったらしなかったでお惣菜を買ってくるに違いない。いろんなことを上手にコントロールできたら私はこんな仕事についていない。だってもしそうできたら困る人はいなくなるだろうからこの仕事はいらないと思う。お勉強として消費する分にはいいかもしれないけど。臨床は相手がいないとできない。困りごとのない世界、自分で自分をコントロールできる世界なんてないからお金も時間もかかる仕事の世話になる。だったらそんなのなければいいのに、と思うかというと私は思わない。人間は時間もお金もかかってしまう厄介な生き物なんだ。だって可能性がいっぱいだから。人間だけでなはくて生命あるものはみな。だったら生命をどこまで拡張して考える?動物まで?宇宙まで?

私はウィニコットは多くの赤ちゃんや妊婦さんと関わるなかで有機体の起源を考えていたと思う。母と子のユニットという考えがひとつの到達点になったのだろうけど、それは単に自己の起源を他者と未分化な場所に位置づけただけではなく、有機体の可能性を母胎という宇宙、あるいはマトリックスに見出したからだろうと思う。ウィニコットは常に「可能性」について考えていた人だったと思う。

そんなことを考えいてるときに何かヒントがほしくて開いたのがベルクソン・イヤーにベルクソン研究者の皆さんが魅力的な時間論を展開するなかで独自の生命論を展開していた米田翼さんの『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』。この本はベルクソン『創造的進化』はもちろん、古典の丁寧な読解の仕方も勉強になる。

著者はいう。

「たとえ絵空事であっても、ベルクソンの創造的進化論を徹底するのであれば、我々は「あらゆる法則は突然変化することがある」ということを肯定すべきである。」

本当にそうだと思う。

「ベルクソンは我々が住まう現実世界そのものに決して空虚ではない「可能性」や「偶然性」を植え付けているのだ。系外惑星における未知の生物たち、あるいは地球上で眠りに落ちていった植物や動物たち、彼ら・彼女らが歩んだ道のりは、ひょっとすると我々が歩いた道のりだったのかもしれない。この「ひょっとすると〜かもしれない」が「空虚ではない」と言える理由は、ただひとつしかない。それは、これらすべての生物たちは、起源においては我々と一致していたということである。ベルクソンの進化論が提示する世界観・存在論では、可能世界に住まう私と(行動の履歴まで)よく似た対応者(counterpart)よりも、この現実世界で私とはまったく別の道のりを歩んできたミツバチたちの方が、よほど私とよく似ているのだ。」

痺れる汎生命論。進化に対して「絶滅」という表現を使うよりずっと現実的。

「ありえなそうなことが、本当にありえないかどうかは、それが実際に生じるまで誰にもわからない。」

維持したいのはこの姿勢で、なぜなら、というところに生命の起源を探究する意味があるように私は思っている。

今朝も暑い。洗濯物を干しながら窓を開けたけどびっくりするくらい何も吹き込んでこなかった。今日も涼しい場所を探して過ごしましょう。良いことありますように。

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ベルクソン、フロイト

早朝、窓を開けたら一番きれいな色をしているときの光に会えた。ただの強い日差しに変わってしまう前の爽やかなピンク色。昨日はそんなに汗をかかなかった。外に出るたびに「あぢぃ」となっていたけど長時間でていることがなかったからかな。熱中症にならないようにせねば。水分水分。

ここでも何度か書いている平井靖史さんの『世界は時間でできている -ベルクソン時間哲学入門-』が昨日3歳になったそう。ベルクソンに関してはこれと『ベルクソン思想の現在』檜垣立哉、平井靖史、平賀裕貴、藤田尚志、米田翼が私の愛読書となっている。2022年のベルクソン研究者たちの盛り上がりはすごく楽しそうで、そのネットワーク作りをしている平井さんの仕事ぶりも魅力的で私もようやく門前にとどまることができた。

アンリ・ベルクソンとフロイトは同時代を生きて神経学に同じような関心を向けながら心について考えていたにもかかわらず接点がなかった。ジャン=リュック・ジリボンがベルクソンの『笑い』とフロイトの『不気味なもの』を並べて読解することで見出した「不気味な笑い」という論考が2016年に平凡社ライブラリーから『笑い/不気味なもの』としてでており、二人をつなげる試みはなかったわけではない。ベルクソンに魅力を感じながらも長い間近づけなかった私もとりあえずこの本は買っていた。

日本の精神分析でいえば、小此木啓吾が哲学少年としてベルクソンを読みこむだけでなく、フロイトが導入した失認agnosieなど神経学的な問題に臨床で関わる中でベルクソンの『創造的進化』に影響を受けた学者たちも参照しながら自我発達理論と発達神経生物学の延長として精神分析における自我心理学の発展について述べている。小此木先生が見出した日本の若い(当時)医者や心理士は私たちに精神分析と精神分析的なものをごっちゃにしたままとはいえ、海外の最新の知見はもちろん、ご自身の臨床に基づいた精神分析的思考をたくさん教えてくださった。私はその世代に直接、精神分析やスーパーヴィジョンを受けてきた世代なので、小此木先生の批判されるべきところも知っているが、小此木先生の仕事に戻れば、精神分析を学際的な領域として楽しめることも知っている。今「自我心理学」と聞いたときに神経学からの発展として話す人は少ないように思うので、私は私の世代で言えることを幅広い視野から次の世代に伝えていければいいなと思う。

最近はビオンの自伝に感動したのでそればかり話している気がするが。今日はフロイト『心理学草案』。せめてここまで戻る場を作れてよかった。

今日も暑そう。気をつけながらがんばりましょう。

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とうもろこしを茹でたり。

カーテンは開けない。エアコンって素晴らしい。喉にこなければもっと素晴らしいかも。洗濯をしてとうもろこしを茹でる。キウイも食べる。この1週間も身体の学びが多かった。何を知ったというよりどんなに調べてもわからないものはわからないとか、それでも予防というのは大事だとか、適切な対応というのはこういうものなんだなとか、日々の学びを特に身体を通じて学んだということ。

この前『ベルクソン思想の現在』をKindleで読んでいたのだけど第3章「創造的進化」藤田尚志×米田翼(司会:平井靖史)のところがやっぱりいい。分析哲学でいう「傾向性」(disposition)の勉強、私もしたい。米田翼さんの解説を読むと、これはウィニコットが考えるポテンシャビリティと近いように思う。ヴェターという人は「潜在性potentiality」としてそれを「個体がもつ「〜できる」という能力を端的に示す性質、いわば個体に局在的な可能性」定義しているという。私は植物が持つこういう傾向をASDの特徴の一つとして発表したことがあるのでそれを深めたいなと思ったのだよ。

とうもろこし茹で上がった。鮮やかな黄色。杉戸の「すきすきすぎーと」美味しい。クリームチーズ。

今日もいいことありますように。