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精神分析、本

両性具有とか更新とか

洗濯をして麦茶を作ってクラッカーつまみながら珈琲飲んでNHK俳句を少し立ち見してゲストにあんな服も違和感なく着こなしててかわいいな、コメントもいいなと思ったり、「雷」って季語はいいね、とか俳句やってるのにこの語彙はどうかと思うけどそう思って、またバタバタして今なんだけどどうしましょう。仕事もしていたはずなのだけど進んだ形跡が見当たりません。どこ?

そうそう、昨日ブログ書きながら思い浮かんだのは最近読んだ舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 ー七〇年代のジェンダー』(筑摩書房)、私でも知っている曲ばかり出てくる実感から己のジェンダー規範を振り返ることもできる本の文庫化(単行本は2002年、晶文社)。北山修先生の「あの素晴らしい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」も取り上げられていた。北山先生、「戦争を知らない子供たち」を書いたの20代なんですね。著者がそれに驚いた口調で書いていて私はそれを読んで驚いた。この本、ジェンダーの視点から聴き直すとこの歌詞ってそう読めるんだ、すごいな、そんなふうに聴いたことなかったよ、ということばかりでとっても面白いです。桑田佳祐の歌詞の両性具有性とか確かに!と思った。両性具有という言葉で書いてあったかどうかは忘れてしまったけど。そうだ、忘れないうちにここにメモしちゃうけど両性具有性についてはプルーストを読みたい、とずっと思っているのに断片しか読んでいない。精神分析との関連で、と思うのだけどプルーストとフロイトってお互いのことを知らなかったそう。ほんと?同時代人で二人ともこんな有名で、ユダヤ人という文脈で重なるところもある。ちなみにフロイトの方が15歳年上。プルーストは51歳で亡くなってるけどフロイトは1939年、83歳まで生きた。2019年にプルースト研究者の中野知律さんと精神分析家の妙木浩之先生が登壇した「プルーストとフロイト」という市民講座に出た、そういえば。中野さんの「失われた時を求めて」の話がすごく面白くて私もがんばって読もうと思ったのにあれから3年かあ。一日1ページでも読んでればそれなりに読めてたはず。文庫、持っているはずなんだけど。どこ?

どうにもとまらない歌謡曲 ー七〇年代のジェンダー』を読んだ影響でApple Musicで1970年代の歌謡曲を聴きながらこれを書いている。今かかっているのは山本リンダ「狙いうち」。この曲のことも書いてあったと思う。

男女という近代的二元論というのかな、その差異によって排除されているものに目を向けるのはもちろん続けていく必要があって、そのために「両性具有」という言葉を使い続けていくのが大切な気がする。精神分析はいまだフロイトの時代のそれが一般には広まっていて実際その父権的な態度から自由になったとはとてもいえない。前にも書いたかもしれないけど、だからこそ国際精神分析協会(IPA)の中にはWomen and Psychoanalysis Committee (COWAP)という委員会があって、社会、文化、歴史との関連におけるセクシュアリティとジェンダーに関する研究などをサポートしている。精神分析概念の修正と更新のため。

これも連想になってしまうけど「更新」といえば、先日、吉川浩満さんが『樹木の恵みと人間の歴史 石器時代の木道からトトロの森まで』というNYで樹木医みたいな仕事をしているウィリアム・ブライアント・ローガンという人の書いた本を書評(「失われた育林技術を探す旅」していた。なんかプルースト的。萌芽更新という言葉をキーワードにした評で私もその言葉にとても惹かれた。それでちょっと調べて驚いたのは「萌芽更新」の英語ってcoppicingでupdateではなかった。意外だった。ちなみに「間伐」はthinning。児童文化の授業でこの「間引き」についてすごく考えたことがあって今も時々考えるのだけど元は樹木を守りその恵みを与えてもらうなかで生まれた言葉なんですよね。 

ジェンダーとセクシュアリティ、差異が排除の理由になどなるはずないのにそうなりがちな現状に対して有効なキーワードを持っていくことが大事そう。

そういえば結膜下出血と汗と涙について書こうかなと思ったのを忘れてダラダラ書いてしまった。まあいいか、日曜日だし(いつものことだとしても)。それぞれに良い日曜日を!

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趣味

『貴婦人の来訪』を見ての連想

細身の背の高い若い男性が子供の笑顔のまま踊るように大きく回った。同時にやはり華奢で背の高い無邪気そうな若い女性が嬉しそうに大きくスカートを翻した。さらに地べたに座りこんでいた芸術家が描いていた垂れ幕がパタパタパタと波打った。電車が通り過ぎたのだ。この貧しい街の駅には決して停まることのない特急が。もちろん舞台に電車はやってこない。音と光と彼らの動きが特急が通り過ぎたことをvividに表現していた。人間の身体はすごい。

やや冗長で噛み合わないはじまりをみせた舞台は主演の登場を得てこれから起こる不穏な出来事へと緊張感を増していく。誰も止めていない。しかし視線に囲まれている。自分が動けば引き止められる。自分はここから逃れることはできない。目の前にようやく止まった各駅停車に乗り込むことがどうしてもできない。混乱し絶望に支配されていく様子を相島一之が巧みに演じていた。

大学生の頃、重度の自閉症の青年たちが暮らす施設へ出かけて週末を共に過ごしていた。ある男性は次の一歩を踏み出すまでに何十分もかかった。彼らは大きな声を出したり楽しそうな音を出しながら笑うことはあっても言葉はでなかった。突然顔を近づけてきて手をひらひらさせながら何度も私にぶつかりそうになるくらいの距離まで頭を前後に揺らす間、彼は私をじっと見ていたけれどそれは私を通り抜けて背後に向かうような視線で私に何かを見出そうとする目ではなかった。数年間、彼らと時間を共にし、さまざまな場所に出かける中で私は彼らと随分馴染んでいた。彼らには彼らのペースと決まりがあった。それらは私たちにも多かれ少なかれあるけれど。私はいつも通り静かにそばにいて、彼は大きな身体を小さく何十回か前後に揺らしたあと一歩を踏み出し一緒にお散歩に出かけた。音、光、場所、差異に敏感な彼らにとってこの世界はとても住みにくいだろう。元気だろうか。私たちは同年代だったから彼らももうおじさんだ(男性ばかりだった)。ご家族はご健在だろうか。みなさん、元気でいてほしい。

どうしても電車に乗り込むことができない。誰も引き止めてなどいないのに。そこに視線があるだけで。カフカだ、と思った。この戯曲はスイスの劇作家、フリードリッヒ・デュレンマットの『貴婦人の来訪』であってカフカの『掟の門』ではない。これは人間が持つ普遍的な心性なのだろう。苦しい。あなたをそこに押しとどめ、進むこともひくこともできないままそこで死ぬように仕向けているのは一体誰なのだろう。

そういえば、昨年8月、最終回を迎えた吉川浩満さんのscripta (紀伊国屋書店、電子版あり)での連載『哲学の門前』がこの8月、単行本になって登場するそうだ。日常的に「掟の門」性と付き合い続け思索を重ねてきた著者がひとりのモデルとしてその付き合い方の断片を見せてくれたこの連載がさらに多くの読者を得てそれぞれが門前で死ぬことなく生きるすべを見いだせたらいいと思う。どうにかして生き残ろう、みんなで。

デュレンマットの戯曲における主人公は「逃げろ」と言われてもそうすることができなかった。誰も引き止めていないのに、身体的には。私たちを捉えるのは実際の腕だけではない。言葉、過去、思い込み、誰かを思う気持ち、あらゆる出来事から私たちは自由ではない。街の住民の貧困は彼の命と引き換えに救済された。しかしそれは果たして生きている、豊かになったといえるだろうか。

たくさんの人がでてくるこの舞台、どの人物の造形も見事だった。殺人がサイコパスによってではなく葛藤できるはずのひとりひとりの個人の集団心性に基づく狂気によって行われるとき、それは決して他人事ではないという気持ちにさせられる。私は終始、共感ゆえに舞台上の人物たちに嫌悪感を感じていた。愛が裏切られたゆえに苦しみ続け富の力で復讐を実行しようとする今や老齢の女性を演じた秋山菜津子はいつものことだが素晴らしかった。悲しみ、切なさ、かつて愛した男の棺を慈しむように抱く姿には心揺さぶられた。後半は終始涙ぐんでいた。

制作に知り合いがいる、しかもオフィスからお財布ひとつで仕事の合間に行けるという理由でいったので後から知ったのだが『貴婦人の来訪』は「新国立劇場 演劇 2021 / 2022シーズン」のシリーズ「声 議論, 正論, 極論, 批判, 対話…の物語」のひとつとして上演されたものだった。それに関する対談記事も観劇のあとに読んだ。

「正論」、患者からもよく聞く言葉だ。それって何、だから何、「正しさ」って何?私たちがもっとも囚われやすいそれに今日も私自身、惑わされるだろう。私が感じていること、考えていること、伝えたいこと、どれもこれも間違っているのではないだろうか、こんなことを言ったら嫌われてしまうのではないだろうか、たとえそれが「正論」でもそれは防衛であり攻撃である可能性を含むだろう、だから怖い。伝えればまた心閉ざされてしまうかもしれない。触れ得ない関係になるかもしれない。

コーヒーをこぼしてしまった。ほとんど飲み終わっていたが私は数cm分飲み残してしまう癖がある。PCはスタンドに立てていたので濡れたのはテーブルだけで済んだ。よかった。早速心が揺れたのだろう。すぐにこんなになってしまうのだから困ったものだ。少し敏感になっているのかもしれない。不安が強まっているのかもしれない。気をつけて過ごそう。すぐに忘れてしまうだろうけど。これまでもこれでやってきたのだからなんとかなるだろうとも思う。

こぼしたせいかコーヒーのいい香りが再び広がっている。なんだかなぁ・・・。今日からまた新しい一週間だ。週末の様子は月曜日の様子でわかると保育士の先生たちが言っていた。家族と過ごした時間が小さな彼らにとってどんなものだったか思いを馳せながらいつも通りの保育をする先生方を思い浮かべる。私もなんとかいつも通りやれたらいい。みんなもなんとかそれぞれのペースで、あまり掟や決まりにこだわらず縛られず過ごせたら。大きな地震があった地域の方もどうぞお気をつけて。

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読書

中吊り、立花隆、ノスタルジー、そして偶然性

「週刊文春」が2021年8月26日発売号を最後に中吊り広告を終了するという。

たまたまだが、先日読書会にきてくださった(オンライン)『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』著者の吉川浩満さんが「私の読書日記」という連載を担当している号である。さすが(?)「偶然性」をおす吉川さん。

ちなみに吉川さんが連載に参加したのが2020年8月27日号だという。これもTwitterで知った。そして執筆陣のひとりに立花隆の名前がある。ご存知のように立花隆氏は2021年4月30日に亡くなった。多分「週刊文春」の中吊りが終了することも知らずに。いや、知っていたのかもしれない。わからない。彼もデジタルを使いこなしていたのだろうか。私の記憶(イメージにすぎないかも)ではいつも紙媒体を手に外にいるか、積まれた本のなかでやはり紙媒体をもっている姿しか思い浮かばないのだが。

そういえばこの立花隆追悼のムック本(っていうのかな)にも吉川さんは書いているという。これもTwitter情報。

今回、「私の読書日記」は「ペンギン、恋愛、偶然性」ということで数冊の本がとりあげられている。紹介されている本は吉川さんのツイートをチェックすればわかる。私からもおすすめしたい本がとりあげられている。

私は「週刊文春」を読んでいないのでそこになにが書いてあるかはわからないけれど、紹介された本の訳者の方のツイートなどをみると「こういうことかなぁ」と推測できたりする。というように、やはり時代はデジタルなのだ。自分の目で確かめなくても誰かが断片を呟き、書き手、売り手、ファンたちがそれをすぐに拡散し、画面をみれば1分もかからずそれらを目にすることになる。そういう時代だ。

いや、そういう時代なのか?

大体私は読んでいない。どうして断片から想像してわかったような気になっているのか。まったく違うことが書いてある可能性だって十分あるではないか。でもなぜか本屋に走るような衝動も生じない。読もうと思えば「週刊文春」は電子版をはじめたらしいし(中吊り広告にかかった費用がかなり浮くらしいし)。いや、電子版も読まなそうだ。私の好奇心はデジタルの情報である程度満たされてしまった。食べ物の絵を見て空腹を満たすのとはわけが違う。断片であっても複数の人間が呟いていれば紙媒体の情報とそれほど変わらないだろう、内容だけを掴むのであればの話なら全部を見る必要はないのかもしれない。

中吊り広告はどうか。

両手で吊革につかまって中吊りを見上げている姿を目にしたことがある。当時は話したこともなかったけれど今はお世話になっている先生と偶然同じ車両に乗っていたのだ。先生は力の抜けた様子でぼんやり中吊りを見上げていて少し子どもみたいだった。この日を境に私の先生に対するイメージは刷新!、というほど大げさなことではないが、なんだか中吊りのテンションってこういう感じがする。実際、いろんな話をするようになった今は中吊り以前のイメージは私の投影にすぎなかったとわかる。

また、私はあの見上げる形式の広告が満員電車での小競り合いの数パーセントを減らす役割を果たしていると主張したこともある。私は背が低いので電車内で痛い目にあいやすい。そんなとき近くの人が中吊りに魅入ってくれているとほっとしたものだ(まだ過去ではないが最近満員電車に乗っていない)。

中吊りには独特の魅力がある。TwitterなどSNSはわりと正確な引用がされていることが多いが(発信元が書き手、売り手、ファンの場合)、中吊りにあるのは「見出し」ばかり。毎号異なる出来事についての見出しが躍っている、はずなのに毎号同じテンションを感じるのも面白いところだ。写真の大きさの違いや並べ方も戦闘的で興味深く、序列を知らせつつも勝敗の決まらぬ世界がそこにはある気がして読者の投影を気楽に引き受けてくれる。私の場合は、それをみても駅の売店や本屋に駆け込もうとはならないがちょっとのぞいてみたいな、という好奇心を維持させる効力がある。誰もが見出ししか知らないのに「見た見た」とお昼のおしゃべりがもりあがったことだってある。要するに情報の重みづけがとても効果的にされているのだろう、今思えば。

うん。やはり業界トップクラスのこの最後の中吊り広告はみておかねばならない。デジタルでではなく、本物を、つまり電車の中で。しかしコロナか(禍)。

立花隆は亡くなり、中吊り広告も終わる。だからなに、というわけではないが、若者に「昭和?」ときかれて「そう」と答える私はそんなにすぐには新しいものには馴染めない。変化を感じるたびにノスタルジックになる。それにしても「昭和?」って聞き方もどうかと思うが。同じく昭和生まれの仲間は取入れ上手で古いものとも新しいものとも上手に付き合っているけれど、私は紙媒体が好きだ。

3.11から間も無くして佐々木中さんの講義に出たことがある。彼は書物の価値を真剣に語っていた。もちろん彼の『夜戦と永遠』におけるルジャンドルを引用した議論はもっと複雑なものだけれど、確かに震災からまもなくの5月、私が石巻で目にしたのは横倒しになった家と水溜りに散らばった年賀状だった。映画「つぐない」において引き裂かれた二人を繋いだのは手紙であり、二人を引き裂いた罪悪感に苦しむ主人公が生きるためにしたのも書き続けること(=読まれ続けること)だった。

話が逸れた。中吊りにはお世話になったんだな、とこう書いてみて思う。出来事はできるだけ正確に伝えてほしい。それはどの媒体に対しても同じことだ。しかし、中吊りは中途半端で大雑把な情報を派手な形で切り取ることで大衆である私たちの注意を引きつけた。だからこそ私たちはそこに含まれるある種の嘘っぽさを前提にそれと触れることができた。中途半端な優しさより嘘とわかる優しさのほうがこちらを戸惑わせないこともある。これは恋愛の話でもあるかもしれない。

吉川さんが取り上げた本『南極探検とペンギン』。こちらはぜひお勧めしたい。ロイド・スペンサー・デイヴィス著, 夏目大翻訳、原題はA Polar Affair: Antarctica’s Forgotten Hero and the Secret Love Lives of Penguins。ペンギン’s affair相当びっくりな本で、生と性を語るのは精神分析以上に南極とペンギンなのかもしれない、と思わされたりもした。

こちらはツイッターと違って推して知るべし、ではない断片からは描けない世界が広がっていた。本来は全ての出来事がそうに違いない。「偶然性」に身を委ねること、おそらくペンギンだって恋愛だってそうなのだろう。

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精神分析

「理不尽な進化」メモ

8月8日「理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ」(ちくま文庫)オンライン読書会メモ

理不尽な進化 増補新版 ─遺伝子と運のあいだ 』

吉川 浩満 

著者の吉川浩満さんにもご参加いただいたこの読書会、終わるなり「面白かった!」などなど肯定的な感想をいただきました。オンラインイベントは反応も早い!ありがたいことです。吉川さんのお人柄に惹かれた方も多かったようですね。むべなるかな。

吉川さんにもご参加の皆さんにも楽しい時間を共有していただき感謝感謝です。職種、領域関係なく面白いものは面白いと感じられるのは素敵なことですね。どうもありがとうございました。

さて、この読書会に向けてTwitterなどでメモっていたものをまとめてみました。断片寄せ集めの私のためのメモですが、本をお読みになった方の想起のヒントにはなるかもしれないので一応。

まずは、読書会と関係ありませんが、ドーキンスにつながるファラデー『ロウソクの科学』 W・クルックスによる序文。かっこいいので。

「この講演を修得する子どもは、火についてアリストテレス以上に理解する。」「科学のともし火は燃えあがらねばならぬ。炎よ行け。」

かっこいいです。

その伝統のレクチャーに『利己的な遺伝子』のドーキンスが登場し、それが本になったのが『進化とは何か ドーキンス博士の特別講義』。その解説も吉川浩満さん。

吉川さんは解説の最後で「知的好奇心の追求は旧来の価値観との対決へといたらずにはいられない。ときとしてそれは探求者を既存の善悪を超えた場所へともたらすことすらあるだろう」と書かれています。この時すでに『理不尽な進化』を書かれていた著者が誰かを思い浮かべるとしたら『理不尽な進化』の主人公グールドだったのではないか、など考えました。

さて、唯物論でも神秘主義でもなく、還元か創発でもなく、日常(=社会)に潜む問題とお付き合いするために、私たち素人と科学を橋渡ししてくれる吉川さん、そしてコンビ(「哲学の劇場」)での共著も多い山本貴光さん。お二人は「素人」でいつづけることで日常的な問題と学問を繋げ、どっちかに落っこちない対話の仕方を教えてくれます。

おすすめの共著本『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社)『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)

吉川さん多趣味!音楽、卓球p209、ハーレーダビッドソンp 213

勝手に作成、プレイリスト

「地上の星」中島みゆき p18

It’s Only Rock ’n’ Roll p21 by The Rolling Stones

Theme From Jurassic Park by John Williams

The Long And Winding Road p25 by The Beatles

「生命の歴史は、より優れた存在へと向かう一直線の道のりなどではまったくない」

Dinosaur Act by Low

肉体関係 By クレイジーケンバンド p37

人にはそれぞれ事情がある By 真島昌利 p85

シークレット・エージェント・マン RCサクセション p130

問いの答えだけでなく、問いの意味そのものを考え直してみるとそれまでとは違う眺望が開けるかもしれないよ、というのが著者のいつもの姿勢。ここでも一貫しています。

序章

進化論は万能酸(デネット)15

文庫版p28~30の「用語についてー若干の注意点」

総合説、ネオダーウィニズム(基本)

自然淘汰 natural selection

ちなみに主要登場人物は

ラマルク、ダーウィン(基本)、

デイヴィッド・ラウプ、

ハーバート・スペンサー、

スティーヴン・J・グールド(この本の主役)、

リチャード・ドーキンス(超有名)、ダニエル・デネット

など。

三葉虫のクレーム電話(想像して) p24

失敗から学べ→「みんな何処へ行った?」©️中島みゆき

生き残りより絶滅から、勝者より敗者の側から

→ラウプ どうして99,9%は絶滅?

<序章~第二章のテーマ>p27

悪かったのは遺伝子?それとも運?という疑問を携えて生物の歴史を眺めてみると異なった眺望が開かれるかも。

<第三章~終章>

思考課題(=どうしても考えることを強いられてしまうような問題、避けて通れない問題)

→【見立て】これまでとは異なるパースペクティブから生物の歴史を眺めてみる。その時に手がかりにするのが絶滅。絶滅は遺伝子のせい?それとも運?という疑問。思考課題に取り組むことで素人に誤解や混乱を呼び、専門家たちに反目と争いをもたらす進化論に潜む共通の要因が見えてくるかも。それこそが進化論の尽きせぬ魅力の源泉では?(p27)

第一章の表層⑴

①地球上の生物種の99,9%は絶滅する(事実!)

②アメリカの古代生物学者ラウプ登場「大絶滅-遺伝子が悪いのか運が悪いのか?」(平河出版、渡辺政隆訳)

Extinction: Bad Genes or Bad Luck?(序文グールド)

③ラウプの「絶滅のシナリオ」3つ

1、弾幕の戦場

2、公正なゲーム

3、理不尽wantonな絶滅

「生物史の名士たちをも滅ぼすそのような難事業が可能なのは、ある種の生物だけを生き延びさせるという選択性と、生物の能力や実績などおかまいなししにルールを押しつける気まぐれさを兼ね備えた、このシナリオ(=理不尽な絶滅シナリオ)」(p74)

だけど「絶滅現象、とりわけ大量絶滅事変による理不尽は絶滅は、生物進化の歴史において重大な役割を担ってきた」(p78)、

つまり「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(イノベーション)のための作業場(ワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである」(p78)

だったら、進化のイメージが「もうちょっとだけ(本書の言う意味で)絶滅寄り、理不尽寄りになったらいいな」。「生存寄り、競争寄り」ではなくて。

でも「アンフェアで理不尽なもの」にたいしてどうやってフェアプレーを?「五輪競技ならいざ知らず」(p82−83)

そこで進化論の内容理解の水準で、第一章で見てきた絶滅に関する事実と考察がどのような意義を用いるかを考えてみよう。(p84)

まずは「誤解を理解する」(第二章冒頭p 92)ことから始めよう。「私たちは進化論が大好きである」(序章冒頭)、でも「私たちは進化論を根本的に誤解しているのではないか、私たちが愛しているのはじつは別のなにかなのではないか」というのがここでの問い直し。

私たち素人はこの第三のシナリオを見ないように、なかったことにしようとしているいるのではないか、なぜか、それはめんどくさいから。(ここ好き。p85)

なぜまたいかにして誤解してしまうのか(p93)を知るために進化論の中心アイデアであるダーウィンの「自然淘汰説」を吟味し直す第二章。ここでは、自然淘汰説にたいする私たち素人の理解の理解と誤解の理解をしてみよう。

ここ確認。「理不尽さ」=運と遺伝子の絡み合いにつけられた名前。(p90)

【問い】「誰が生き残るのかの優劣の基準は?」

→【模範解答】

「自然淘汰によって生き残る者=適者=(適応したものというより)結果として生き残り、子孫を残す者(あるいはそう予想される者)。

私たちが進化論のイメージに投影しがちな人間的観点からみた強者や優者とは関係がない。」

進化の理不尽さ=ゲームのルールが勝手に変更される事態(p96)

でも何度言っても取り違える。(p99) 模範解答があっても誤解はあらたまらないのはどうしてか。「誤解が生じるそれなりの事情」があるから、と著者は考える。(p100)

哲学的問題、哲学的困惑に対しては「新たな事実を探し求めるのではなく、問題そのものの成立と構成を明晰に理解しようと努める」(p102)

誤解のもとー「言葉のお守り的使用」鶴見俊輔。これは仕方ない。どうしても進化論をそうにしか用いることはできない、と著者。

①論理的な理由 自然淘汰のキャチフレーズ「適者生存」 スペンサー(p112) トートロジー(p120)

トートロジー問題が「進化論のお守り化」の根っこにあるので、いまとなってはまともに検討されることもないのだけど「この本の目的のためには何度でも時代遅れの議論を蒸し返す」(p122,123)としてトートロジー問題を詳細に吟味。

「適者生存」survival of the fittestが論理学的な厳密な意味においてトートロジーであるかどうかとか、どのようにすればトートロジーを回避できるかというようなことではない。疑惑のターゲットとなっているのは、「適者」(適応した者)であるかどうかは「生存」(生き延びて子孫を残したかどうか)を抜きにしては決められないの?ということ。(p124)

やっぱり「私たち素人はそうした学問的な限定を解除したうえで進化論を利用しようとする」。希望、絶望、楽観、悲観等を投影していただけの日常使用の進化論用語を(まるで法則であるかのように)宇宙の森羅万象(スペンサー)にたいして無制限に適用しがちだから。(p136)

「トートロジー的なものとしての適者生存は、むしろ進化論(ダーウィニズム)の経験的研究を可能とする条件」(三浦)だから「部分と全体を混同してはならない」(ソーバー)(p126-127)

②歴史的経緯(p145)

非ダーウィン革命 ボウラーの指摘。ダーウィン登場→ねじれた受容。「非ダーウィン革命」

ラマルクの発展的進化論「生物は決まった目的・目標に向かって順序正しく前進的に変わっていく」。社会ラマルキズム。

→より一般化&拡張、スペンサー!「適者生存」の発案者。宇宙の森羅万象を説明する壮大な進化思想。社会ダーウィニズム。スペンサー主義。158

→総合説(ネオダーウィニズム)1940年代、自然淘汰説復活!生物進化を自然主義的に説明する道を拓いた。

でもどっちの進化論も進化中。分業体制あるいは解離的共存 (p167)

①科学理論(検証可能な仮説形成のための基準としての自然淘汰説) ⇄    ②世界像(「世界とはこういうものだ」というイメージ。「言葉のお守り」(情報量ゼロ)として機能)

なぜ共存できるか。→進化の理不尽さの排除。「理不尽さからの逃走」

科学か、おとぎ話か。

第三章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか

素人の誤解から専門家の紛糾へ。地上での地図作成から地下水道をめぐる闘争へ。グールド(異端)vsドーキンス(主流派)&デネット(強い。p209の紹介秀逸)

「適応主義」と呼ばれる方法論をめぐってなされた論争は「本当には終わっていない」「争点そのものは生きている」(p178) だからまた蒸し返すぞ、と著者。

進化の理不尽さをめぐる論争(第一章)→私たち素人の「理不尽からの逃走」(第二章、私たち素人)→理不尽をめぐる闘争(イマココ第三章、専門家)

スティーヴン・ジェイ・グールド(アメリカの古生物学者・進化理論家)ー「適応主義adaptationism」批判ースパンドレル論文(共著者、リチャード・ルウォンティン)(p182)

・実際の生物の歴史は偶発的な事件や事故に満ち満ちており、すべてが自然淘汰のおかげなどということはできない。いまあるような生物の多様性がかたちづくられるのには、自然淘汰以外のさまざまな要因が関与してきた p183 →自然淘汰による適応のみを重視するのではなく、それを制約する非淘汰的な要因にも目を向ける多元主義的アプローチを提案 p203

・「適応主義」=「パングロス主義パラダイム Panglossian paradigm」ー最善説的先入観(p194)では? cf.ライプニッツ

リチャード・ドーキンス(イギリスの動物行動学者)の反論(p196)

・問いの組み替え、ハチの「コンコルド行動」(p202)

→総合説/ネオダーウィニズムの適応主義はパングロス主義ではない。p204 おとぎ話が取り組んできた問いにたいして、科学的な答え(科学的ななぜなぜ物語)を与えるものとしての適応主義プログラム(真打ち登場)

ダニエル・C・デネット(アメリカの哲学者)の追い討ち(p208)

グールド「なぜなぜ物語はいらない」、ドーキンス「なぜなぜ物語は必要だ」、デネット「むしろそれ以外になにがあるんだ?」進化論における適応主義の意義は、それがヒューリスティクス(発見的方法)であること!

著者の好きなものたち登場:卓球,犬209、かっこいいカブトガニ、ハーレー

エリオット・ソーバー再登場「リサーチプログラム」としての適応主義プログラム(進化論)。「彼(グールド)が本当に「なぜ」という疑問を問いかけ、それに答えたいならば、適応主義者になるしかないのだ」(デネット)。。。

適応主義=ダーウィニズムにおける機能主義の別名(p225) 

ダーウィン以降の生物学とエンジニアリングの結婚(デネット)p230 、手順=アルゴリズム

Ex.チャーハン (p234)

ドーキンスからグールドへ「偽りの詩」「ロマンに満ちた巨大な空虚」(p247)

最強の進化生物学者は「適切な用法・用量をお守りください」ができる注意深さを備えている。(p248)

でもグールドは負けを認めない。「グールドは戦う土俵をまちがえたのだ」(p252)

→土俵を分けるとしたら「生命の樹」「自然淘汰」という現代の進化論の柱で?スケールを変えてみればグールドにも軍配?

本書の目的は論争が私たちに提起する思考課題を理解すること。グールドが「依存しつつの抵抗」©️斎藤環、不利な挑戦をやめなかった理由は?(p256)

グールドの敗走は、第二章で論じた私たちの誤解や混乱と無縁ではないのでは?むしろ鏡像では?

終章 理不尽に対する態度

グールドの地獄めぐり

「グールドの敗北を知ることは、私たち自身を知ることでもあるのだ。これがこの終章のテーマ」(p264)

グールドが貫いた「理不尽に対する態度」

適応主義による歴史の毀損に抗して、ありうべき歴史の擁護と回復を行うこと。(p267)

①現在的有用性ー生物が持つ特徴がなんの役に立っているのか

②歴史的起源ーそれがどのような経緯でそうなったのかということ

①② の区別

地雷=「説明と理解」論争

グールドの問題(p292)  方法論と存在論のカテゴリー錯誤

オーギュスト・コントの実証主義p298、ハイデガー、ガダマー「真理と方法」p302

先入見

グールドが守りたかったものー歴史と偶発性(p316)

p322 進化という語(ダーウィンも色々考えちゃうよね)

理不尽にたいする態度 p330からはじっくりお読みいただければ。

科学と、素人である私たちの事情などほぼ関係がないとしても「関係がない」からこそ生じる往復運動に関わることで「見たいものを見る」危険を回避できるかもしれません(p245&P392~参照)。

そういえばこの本はどこの棚に置かれるのか、といえば、ちくま文庫の棚だと思うけど、単行本の時はどこに置かれていたのかな。「アートの本にもサイエンスの本にもしたくなかった。アートもサイエンスもという本にしたかった」p424

文庫版のための書き下ろし、付録「パンとゲシュタポ」は力強い宣言のよう。重たくも希望あり。

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ご案内『理不尽な進化 増補新版 遺伝子と運のあいだ』読書会

私は、専門家と素人が緩やかにつながっていくことを大切に考えています。この仕事をしていると、日常がいかに感情の投影で満たされやすく、それによって私たちが苦しめられやすいかを実感させられます。世界を「ありのまま」みることは不可能でしょう。私たちは人間としての自分を通じてしか世界と触れることができませんから。また「認知バイアス」という先入観からも私たちは逃れることができないでしょう。

そこで登場するのが専門性です。「私たちには認知バイアスというのがあって」と看護学校の講義で話したときに「こんな日常的なことに専門用語がついているとは知りませんでした。救われました。」という感想をもらったことがあります。

これって私だけ?なんで私だけ?という疑惑や不安が生じたときに専門性(主に科学と呼ばれるもの)がそれに別の見方を与えてくれることで私たちは少し楽になれることがあるみたいです。

とはいえ、私たちは大体の領域において素人なので、専門性と触れるには仲介してくれる人が必要です。私が講義をするときは私を媒介として学生は心理学や精神分析学を学びますが、私も他の分野においては学生と同じく素人です。はてさて、身近にそんな人はいないものでしょうか。

幸運なことに、私は、素人である私たちと科学を仲介してくれる信頼できる人物を思い浮かべることができます。文筆家であり編集者でもある吉川浩満さんはその一人です。2021年4月に出版された『理不尽な進化 増補新版 遺伝子と運のあいだ』(筑摩書房)もそのような本として読むことができるでしょう。

素人である私たちが学問と向き合うときに出会う困難に寄り添いつつ、素人は素人なりに学問と付き合えるとその方法を示してくれた文章として秀逸だったのは、吉川さんがscripta summer 2021(無料、電子版あり)で連載されていた『哲学の門前 最終回 ―門前の哲学』です。彼はそこで、<門前の小僧>たる「素人」である私たちが<掟の門前の男>(カフカ)のようになることなく<掟の門>と付き合うことの大切さを驚くほど平易な言葉で書いてくださっています。

私はこれを吉川さんが頻繁にご登壇されるゲンロンカフェの創始者である東浩紀さんがいう「観光客」的なあり方を思い浮かべたりしながら読みましたが、<掟の門>性と付き合う<門前の小僧>という描写は、学問を前にしてまだ子どもである私たちのイメージと重なりますし、「ひとりひとりそれぞれ」という感じが伴っていてとても好ましく感じました。

また吉川さんの他のご著書でも一貫している「素人」であること、それ自体に価値を見出す姿にも励まされます。

哲学がもつ「高度に専門化された学問分野であると同時に、万人に開かれた問いと答えの広場でもあるという性質」は私の専門である心理学、精神分析学にも備わっていると思います。私たちはときに仲介役にもなりますが、多くの場合、仲介してもらいながらその広場へ向かいます。

そんなわけで今夜は、様々な立場で人の心と関わる援助職で集まり、吉川浩満『理不尽な進化 増補新版 遺伝子と運のあいだ』(筑摩書房)の読書会をします。お迎えするのは、著者の吉川浩満さん。「わからなさ」に閉じこもることなく自由な議論ができたらと思っています。

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終わりのない仕事

なんだかひどく疲れる。見て見ぬふりをできるものもあればできないものもある。難しいのは見て見ぬふりができるのは最初からしっかり見ていない場合であって、二度見とかしちゃってきちんと目に入れてしまったら見て見ぬふりなどできなくなることだ。見て見ぬふり、というのは他の記憶とまぜこぜにしてなかったことにできる程度にしか見ない、ということではないか。もしそうできない場合は見て見ぬふりは失敗し、むしろしっかり見てみるまで気になってしょうがなくなってしまったりするのではないだろうか。

精神分析の訓練の間はものが書けない、と妙木先生がおっしゃっていた。どこかに書いてもいらしたと思う。これはとてもよくわかる。別に訓練が終わったら書けるかというとそうでもないだろうし、訓練中に書いている人だってもちろんいる。

でもおそらく妙木先生が言っているのはそういうことではない。ものすごく書ける彼でさえそういう状態に陥るのだ。

精神分析は自分の人生を差し出すような試みである。何かを形にする行為ではない。

吉川浩満さんが山本貴光さんとの共著「人文的、あまりに人文的』でロビン・G・コリングウッド『思索への旅ー自伝』を取り上げている。コリングウッドが提唱した「問答倫理学」は、命題や作品に接するときには、「誰それはこれをどんな問題に対する解答にしようとしたのか」と問うような態度のことらしい。

私はいつも通り精神分析という体験と結びつけて考えているわけだが奇遇なことに(?)コリングウッドは哲学をやる以前は考古学をやっていたそうだ。フロイトもまた考古学には強い関心を向けていた。

やっているのは常に問題の再構成だ。そして「問題」とは、精神分析でいえば現在の在り方であり、過去の出来事なのだろう。そしてそれを語るさまざまな症状を持った(人は誰でも症状を持つ)その人の身体と言葉、暫定的な私という存在が「解答」なのだろう。一体、私という暫定的な解答は今のところどんな問題を示しているのか。

もちろん精神分析ではこれは一人の作業ではなく精神分析家との作業として思考される。技法としてはそのはずだ。それをなすべく、精神分析家も一定の訓練を受けており、自分自身も精神分析家との間に自分を差し出した経験を持ち、それがどんな出来事か知っており、解体しそうな患者にそれと気付かせないように抱える腕を持っているはずだ、理論的には。

そしてそれもまた錯覚であり、幻想であることを知らせるのもまた精神分析なのだろう。終わりのない仕事だ、生きている限りは。

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精神分析と絶滅

吉川浩満『増補新版 理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』(2021,ちくま文庫)を読んでいると「グールドよかったね」と親戚でもなんでもないのに思う。

語られること、読まれることで生き続ける、という意味ではグールドのような登場人物だけでなく、作者も作品もそうかもしれない。当人が願っているかどうかはともかく(むしろ大きなお世話である可能性すらあるがこれはこれで読者の営みなのでご容赦を)。


吉川さんがこの本で最初に登場させるラウプの3つのシナリオでもっとも有力と思われるシナリオ=「理不尽な絶滅」。詳細はぜひ本書をお読みいただきたいが、ここでは例によって「絶滅」から「精神分析」をちょっとだけ考える。自分に引き寄せて読む悪い癖だけど癖はなかなか直らない。

精神分析は語ってくれる人を持ちづらい誰かが自由連想を試み、治療者がそれを受け取ろうとする試みを続ける限りは生き残るだろう、と私は思っている。

精神分析を絶滅危惧種という人もいるし、実際そうなのかもしれない。が、精神分析そのものは特に実体ではないので、絶滅しようもないのでは、とも思う。もとよりそんな大きな集団でもない。

誰かに向けて自分を語る、その行為がなくならない限りはこの営みもまた細々と続いていくのではないだろうか。

それにしても、精神分析がどうというより、誰かに向けて自分を語ること、その場所が保たれること、この状況下ではまずはそれを願うべきかもしれない、とも今思った。

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『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』からの連想

吉川浩満さんの『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)が即重版決定だそうです。パチパチ。おめでとうございます。

ちょうど「食い違い」や「論争」について考えていたときに再読の機会を得たのは幸運でした。というか、これらは常に身近すぎて考えざるを得ないことなのですが。

この本は2014年刊行の名著の文庫版です。生物の進化を「生き残り」ではなく「絶滅」という観点から照らし直す本書、サイズと装丁はかわいらしいですが、増補新版ということで収録された書き下ろし付録「パンとゲシュタポ」のインパクトもすごく、直線的な思考にうねりをもたらしてくれます(私にはありがたいことでした)。

やはりこれは読まれるべき本です。

私はなんでも精神分析を通じて考える癖があるのでバイアスがかかっていると思いますが、正反対の読み方とかはしていないと思います、多分。でも自信がないので一応その可能性は残しながらの再読と連想です。

ここではただ連想を書いているだけというか、この本を読んだら結局また精神分析のことを考えてしまったというだけなので、本来なら省いてはいけない文脈を省いてしまっています。

だからぜひ読んでいただいて共有したいのですが、この本に登場する科学者たちの「個人的事情」=「学問=科学と人生の無関係の関係があらわになる場所」=「「ウィトゲンシュタインの壁」が立ち上がる場所」は彼らがそこで体験した引き裂かれるような痛みを感じさせます。

そしてそこを私たちが目指す場所として位置付け、私たちの態度を問い、May the Force be with you(そうは書いていないですが)と著者は祈ってくれているようです。

おそらくこの本を書くこと自体、その痛みにどうにか持ちこたえるプロセスだったのではないでしょうか。今回の文庫化を期にさらに多くの方がこの本と共にあらんことを、と言いたくなります。ダークサイドの話は今回書き下ろされた付録「パンとゲシュタポ」をぜひ。

さて、すでに別のところで呟きましたが、吉川さんが終章で示した「理不尽にたいする態度」(文脈必要ですが突然取り上げます。すいません)はあれかこれかではない思考、簡単に言えば多様性を集団が維持するための手がかりとなるように感じます。

私たちは「この世界に内在しつつ、世界に関わっている者」同士、互いを少し侵食しながら語らうことをやめられないでしょう(今「寄生獣」という漫画を思い起こしましたがそれはまたちょっと別の話ですね)。

だからこそ「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という「理不尽にたいする態度」はたとえそれに対して勝利を謳うものがいたとしても「負け」にはなり得ず、自分が生きるため、同時に相手の内側で蠢き続け動かし続けるための動力として機能するのではないでしょうか。

私は精神分析を「信頼」し実践している立場なので他者の体験あるいは出来事に大雑把な言葉を与える人には「執拗に」物申したい気持ちになることが時々あります。実践においては私は物申される立場でもあります。

精神分析においては自分の分析家がその対象として最もふさわしく、自分の情緒は分析家の身体とこころ(転移ー逆転移の場)を通過して自分に帰ってくるため(おおよその対人関係はそうかもしれませんが)、最大限自由であろうとするならばそこが安全ということで、カウチ 、自由連想という設定の必要性もそれと関連しているように思います。

同時に、最大限自由であるということは、そこが危険で苦闘の場にもなりうるということでもあり、カタストロフィックな体験によって自己が変容するというモデルをとるならば、その場は常に両方の性質を持つと考えられるでしょう。

ちなみに本書においてカタストロフとルビがふってあるのは「大量絶滅事変」であり、「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(ルビはイノベーション)のための作業場(ルビはワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ルビはディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである。」(p78)と書いてあります。規定はプロデュースなのですね、なるほど。

精神分析においてカタストロフは自分の内側で生じます。

そして、そこでの体験をトラウマにせず生き直しの機会として体験するためには実在する第三者の介入に対して脆弱ではない、二者関係における第三者性をお互いの内側に宿らせることが必要になると思われ、そのプロセスは必然的に長期にならざるを得ないかもしれません。

さらに、精神分析における出来事は常に事後的で予定調和はあり得ないという考えを維持するのであればそこは名付けようのない場所であり、現象の描写にしかなり得ないはず、と私は考えて文章を書いたりしています。

突き当たる壁をなかったものにせず、そこに留まろうとするプロセスにおいて両者の間に常に蠢いている他者、私はこれが「理不尽にたいする態度」が形を得たものとイメージしました。対話を志向するとき、そこを別々の二人の場とみなすのか、互いの一部が重なり合う場とみなすのか、前提はプロセスを左右するかもしれません。

そしてウィニコットが言ったように、という連想になっていきそうですが、時間がきてしまいました。再び良書に出会えたことに感謝します。それではまた。

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「適切な」

バンクシーがロンドンの地下鉄で書いた絵を清掃員の人が気づかずに消していたというニュース、バンクシーも計算済みで描いているのですよね、多分。「交通局は、マスクなどの着用を促すメッセージを伝える適切な場所を提供したいとコメント」とニュースにあったけど、これはバンクシーに対してってことかな。バンクシーは「適切な場所」が地下鉄だったのでしょうけど、ねずみがくしゃみしているわけだし。

バンクシーって男性?女性?今「彼」とかくか「彼女」と書くか迷ったけど、それもどっちでもよくしておくことが大事なのかしら。

「適切な」って言葉、私も使うけど使いながらいつも微妙な気持ちになります。そういえば最近はKYって聞かないかも。空気読めないってなに、と思っていたので良いことのような気がします。ところでKYは看護のテキストだと「危険予知」という意味です。危険予知トレーニングは「KYT」。言葉はそれが置かれる文脈や文化でいくつもの意味になるから面白いというか厄介というか・・。

人もそうかもしれません。一例ですが、吉川浩満さんが山本貴光さんとやっている YouTubeチャンネル「哲学の劇場」で東浩紀『哲学の誤配』を「2020年上半期の本」としてあげていました。そこで話されていたことです。彼らと(私も)東浩紀さんはほぼ同年代で、昔からの読者としてその多彩な言論を知っているわけだけど、この『哲学の誤配』は韓国の人が韓国の読者のために東さんにしたインタビューなので、彼がどんな人か知らない人も彼のこれまでの活動をシンプルに追える構成になっていて、それがかえって東浩紀という人の本質を浮かび上がらせるよね、というようなこと(ちょっと違うかもですけど)を話しておられました。

東さんは彼自身が自分はそもそもデリダ研究者で、と自己紹介しなければならないほどその像が断片化してしまっているようで大変そうだな、とただの一読者ですが思います。少なくとも人をそういうふうに捉えてしまうと対話するのは難しいだろうなあと。ちなみに「哲学の誤配」(白)とセットで出たのは『新対話篇』(黒)。彼はゲンロンカフェという対話の場を提供している開業哲学者(他にそんな人いるのかな)で、同じく開業して生活している私はそこにも親近感を感じています(心理士は開業している人はそこそこいます)。

対話はその人の全体から編み出される言葉のやりとりだから、対話相手によってその人の像が変わるとしても、それは決して断片にはなり得ないと思いませんか。奥行きや広がりは生じるとしても。でも、もし、断片化するために人の話を聞くということがあるとしたら、それはその人に対する受け入れ難さがあるからかもしれないな、とも思います。確かに「私の知らないあなた」と出会うことを避けたり、自分がみたいようにしかみない、ということも私たちの日常かもしれない。

言葉も人もそれが置かれる場所、いる場所によってその姿を変えてしまう。でもだから私たちは流動的で、潜在性をもった存在でいられるのかもしれないですね。いつも決まった場所で決まった言葉の範囲内で生活しなさい、それが「適切な」あり方、とか言われたら私は嫌、というか辛いです。

今日も雨ですねえ。足元お気をつけておでかけください。