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精神分析

終わりのない仕事

なんだかひどく疲れる。見て見ぬふりをできるものもあればできないものもある。難しいのは見て見ぬふりができるのは最初からしっかり見ていない場合であって、二度見とかしちゃってきちんと目に入れてしまったら見て見ぬふりなどできなくなることだ。見て見ぬふり、というのは他の記憶とまぜこぜにしてなかったことにできる程度にしか見ない、ということではないか。もしそうできない場合は見て見ぬふりは失敗し、むしろしっかり見てみるまで気になってしょうがなくなってしまったりするのではないだろうか。

精神分析の訓練の間はものが書けない、と妙木先生がおっしゃっていた。どこかに書いてもいらしたと思う。これはとてもよくわかる。別に訓練が終わったら書けるかというとそうでもないだろうし、訓練中に書いている人だってもちろんいる。

でもおそらく妙木先生が言っているのはそういうことではない。ものすごく書ける彼でさえそういう状態に陥るのだ。

精神分析は自分の人生を差し出すような試みである。何かを形にする行為ではない。

吉川浩満さんが山本貴光さんとの共著「人文的、あまりに人文的』でロビン・G・コリングウッド『思索への旅ー自伝』を取り上げている。コリングウッドが提唱した「問答倫理学」は、命題や作品に接するときには、「誰それはこれをどんな問題に対する解答にしようとしたのか」と問うような態度のことらしい。

私はいつも通り精神分析という体験と結びつけて考えているわけだが奇遇なことに(?)コリングウッドは哲学をやる以前は考古学をやっていたそうだ。フロイトもまた考古学には強い関心を向けていた。

やっているのは常に問題の再構成だ。そして「問題」とは、精神分析でいえば現在の在り方であり、過去の出来事なのだろう。そしてそれを語るさまざまな症状を持った(人は誰でも症状を持つ)その人の身体と言葉、暫定的な私という存在が「解答」なのだろう。一体、私という暫定的な解答は今のところどんな問題を示しているのか。

もちろん精神分析ではこれは一人の作業ではなく精神分析家との作業として思考される。技法としてはそのはずだ。それをなすべく、精神分析家も一定の訓練を受けており、自分自身も精神分析家との間に自分を差し出した経験を持ち、それがどんな出来事か知っており、解体しそうな患者にそれと気付かせないように抱える腕を持っているはずだ、理論的には。

そしてそれもまた錯覚であり、幻想であることを知らせるのもまた精神分析なのだろう。終わりのない仕事だ、生きている限りは。