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読書

BB弾、「お前はもう死んでいる」、安東量子『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)

自分を規定しない場所から発せられる言葉はその人の公的な活動しか知らない人にはとても自由で魅力的に聞こえるけどその人の愚痴とか色々聞かされて知っている人には「またそのパターンかよ、つまらねーな」となったりもする。実際、本人もつまらないことには自覚的で相当な後ろめたさを抱えていたりするが(裏話は誰にでもある)優れた編集力だか嘘つき力で面白くないおもしろ黒歴史としてそれを披露することでとんとんにしている。

安全な場所から遊んでもらいたい相手の方へ当たらないようにBB弾を放つみたいなことも年を重ねるごとに上手になる。実際に当ててしまった相手のことは「お前はもう死んでいる」と心の中で葬り去る。俺だって傷つけたくなどない!だから殺しちゃう?思うだけなら自由だ。そうだそうだ。これだっていずれ俺だけのプチブラ歴史として披露されるのだろう。なんの立場でもない俺俺立場は責任取らなくていいから地獄は相手が担うのだ。

BB弾は私が小6か中1のときにすごく流行った気がする。単にその年代が使いたくなる代物だったのかもしれないが。バカをしがちな友人が実際に人に当てて指導されたりしていたがそいつの環境を考えればやりたくもなるよなと思わずにはいられなかった。私もバカでダメな厄介者だったから共感しただけかもしれない。「お前はもう死んでいる」も流行った。いまだにケンシロウの言葉だ以外のことを知らない。友人は父親の後継にはなれなかった。なりたかったのかなりたくなかったのかは知らない。本人にそんなことを考える余裕があったかどうかも知らない。BB弾は世界に対するなんらかの抵抗だったとは思う。

思春期をとっくに過ぎても規定されることを嫌い何者でもない俺でいるという選択もしやすい時代になった、という言い方は嘘っぽいがとりあえずそうだとして真面目でも不真面目でもいられるなんにでもなれる俺で生きていくのも自由。ただどんなあり方も誰かに地獄を味あわせる免罪符にはならない。どこかで私たちは変更を迫られる。

黒歴史か、都合のいい言葉だ。トラウマのせいで進まない時間を過ごす人を葬り去り自分だけ時を進めてそんなことはおきなかったといいたい人にとっては。

友人は「まじめにふまじめ」だった。これはゾロリのこと。以前勤めていた小児発達クリニックの子どもたちにも大人気だった。高校生になって偶然再会したときすっかり背が伸びて誰だかわからなかった。何かを話したが内容は覚えていない。今は何者かになったのだろうか。リアリティを持って語るために自分をある立場に定める。私もいまだその途中だが今日も地獄側から考える。写真は地獄というより鬼。歌舞伎町の鬼王神社の狛犬。すごくいいと思った。節分のときも「福はうち、鬼はうち」っていうんだって。

あ、あとリアリティといえば『海を撃つ 福島・広島・ベラルーシにて』(電子あり、みすず書房)の著者、安東量子が昨年末に出した新刊『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)がとても良かった。アメリカを異文化と書きたくなったがフクシマはどうだろう。広島は?長崎は?著者は広島出身で福島で被災した。

「原発事故がおきて社会は大混乱に陥った。なかでも困ったのは、あらゆる関係のなかで意見が対立したことだった。生活の隅々にまで入り込んだ放射線のリスクをめぐって、家族でも、ご近所でも、職場でも、人と人とのコミュニケーションが存在する場面という場面で、意思疎通が難しくなり、しばしば修復不可能なほどにいがみ合うことになった。地元の野菜を食べるか食べないか、子供を外で遊ばせるか遊ばせないか、洗濯物を外に干すか干さないか、そんなあたりまえのことについて言い争う羽目になる日常の暮らしにくさは、経験してみないとわからないかもしれない。」ー3章より引用

著者は2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故のあと、地元で住民のみなさんと地道に放射線量を測定し、福島県内でダイアログ・対話活動をしてきた。事故後の大混乱の中、人間関係の修復という最も重要で困難、しかし不可欠な目的にとってその実践の積み重ねは大きな役割を果たしてきたのだろうと想像する。

その著者がいう。

「意見が違うことはしかたない。まずそれを受け入れた上で、なにかひとつでもいいから共有できるものを探すこと」

「内容はなんだっていい。その人が大切に思っているものをなにかひとつ、些細なものでもかまわないから、ひとつだけでも分かち合うことができれば、意見は対立したままであったとしても、関係をつなぐことはできる。」

この本は、核開発拠点のひとつだったアメリカのハンフォード・サイトで行われた原子力会議に招かれた著者の冒険譚のような一冊だ。著者のコミュニケーション哲学の実践を知れば知るほどその困難な現実に胸が苦しくなるが残るのは絶望だけではない。私は泣き笑いしながら読んだ。そして私たちが大きな組織に向けて細々と続けている運動のことも思い浮かべた。励まされた。あとがきに山本貴光さんに大変お世話になったと書かれていたが、推薦文はその山本さん。

「原子力を語ると、どうして話が通じなくなるのか。それでも分かりあえるとき、何が起きているのか。これは、そんな絶望と奇跡をめぐる旅の記録である」

まさに。読めば実感されるこの文章。多くの人にお勧めしたい。

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読書

金沢とか書物とか

金沢の和菓子だー、と他人の写真をみて羨ましがっている。美味しいお饅頭をいただきながら。熱いお茶でポカポカ。このまま身体が冷めませんように。薄手のダウンも脱いだり着たり。

金沢にはじめて行ったのはまだ新幹線が通っていないとき。調べたら2015年開通だからその前。まだフランス語を習っていて先生に金沢をどれだけ歩き回りいかにその価値があるかを少ない語彙で熱く語ったので2014年かも。精神分析の訓練にはいるので時間もお金も作らなくちゃでやめたんだ、フランス語。訓練終わったらまたやりたいと思っていたけど今はボクシングの方がやりたい。ケイコ(映画)のせいだな。

金沢は本当に天国みたいなところだった。と書いて金沢にはじめて行ったのはもっとずーっと前じゃん、と気づいた。20代の頃だ。福光屋さんの前で「ここなんだろ」と覗いていたら中に入れてくれていろんな段階のお酒を試させてくれたんだ。数年前に行ったときはすっかりきれいでおしゃれなお店になっていた。古き良き時代じゃった。と感じたのはその部分だけで何度行っても金沢は和菓子とごはんと美術と哲学と自然の宝庫だよ。また行きたい。

金沢といえば昨年『世界を変えた書物』(著/山本貴光 編/橋本麻里) という素敵な図録がでた。2012年金沢から始まり各地を巡り2022年金沢に戻り閉幕した展覧会『「世界を変えた書物」展』に合わせて出版された書物だ。内容については前にも書いた気がするのでためし読みもできる小学館サイトでぜひチェックを。自然科学分野を中心に、今となっては偉人のみなさんたちの「初版本」をたくさん見ることができる。まさに金沢という地にぴったりの知の集積と連環。文字は山本さんの解説しか読めないけど(原典はラテン語とかだもの)解説を読むと「へーそうなんだ!」とワクワクしながら眺められる。こういうのをこんなぎゅっとコンパクトに解説したり、こういう本を編集できてしまう知性もどうかしてるのではというくらいすごい。

私は今日も眠くてしかたない。寒さでシャキッとすることもなく色々巻き付けて縮こまるのみ。春よーとおき春よ♪待ってるから早くきて。今日も暖かくして過ごしましょうね。

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俳句 読書

句友とか『青春と読書』とか。

「花の郷 バター」

美味しそうなお名前。美味しいです。町田の社会福祉法人花の郷さんのクッキーをいただきました。

おー、句友の句がNHK俳句に!加藤シゲアキが好きな句と言っている。句も人も素敵な友がたくさんです。大好きな千野千佳さんも北斗賞の佳作に入ったし。みんないつもすごい。千佳さんの三句は昨日『月刊 俳句界 2月号』で読んだ。特別だけど普通、でもやっぱりなんだか特別、今回もそんな景色が爽やかでした。

そして私たちの俳句の先生、堀本裕樹先生が毎月連載されていた「才人と俳人 俳句交換句ッ記」は最終回。ゲストはやはり又吉直樹。やっぱりとてもよかった。載っているのは集英社のPR誌『青春と読書』です。

そしてこの2月号には山本貴光さんが今野真二『「鬱屈」の時代を読む』(試し読みあり、集英社新書)の書評を書いておられます。前にゲンロンカフェでお二人の対談をみましたけど日本語の言語学についてとても楽しくおしゃべりしててホヘーすげーと思いながら楽しみました。ということで読み始めたらこりゃまたすごい。言葉を丁寧に探索していくのが言語学なわけだけどこの本は言葉にならない、あるいはまだ言葉としての形も持っていないものがどう言葉になっていくのかという言語化のプロセスを本当に豊富な文献の引用を通じて緻密に記述、描写してくれています。普段やりがちな雑な言葉の使用(例えば「レッテル」貼り)に対する反省も促される一冊になりそうです(まだ途中)。

ちなみに今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行のときは山本貴光さんと往復書簡を交わされていました。それはこちらで読めます。

今日も色々(雑かな)あるでしょう。鬱屈した「気持ち・感情」はなかなか言葉にならないかもしれないけれど言葉を大切に人を大切につまりは自分を大切になんとか過ごしましょう。

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読書

なんとなく本のこと。大原千晴『名画の食卓を読み解く』TOLTA『新しい手洗いのために』

三浦哲哉『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)を手にとったついでにそのそばに並べてあった大原千晴『名画の食卓を読み解く』(2012、大修館書店)も取り出しておいた。著者は「食文化ヒストリアン、骨董銀器商」ということで2016年まで南青山に『英国骨董おおはら』というお店を構えていたらしい。銀食器の魅力的なこと!この本をなぜ買ったのかは例のごとく覚えていないが表紙よくないですか?「1 一五世紀 フランス王族の宴」の扉絵「ベリー公のいとも華麗なる時祷書(1月)」(ランブール兄弟、1413-1489ごろ)とのこと。この本はまずここに描かれた食卓を読み解くところから始まる。この絵って羊皮紙に描かれてるんだって。前に山本貴光さんが八木健治『羊皮紙のすべて』(青土社)を紹介していらいてそれ以来注意が向くようになってしまった。

さて、この本、16世紀中期フランドル農民、英国中世修道士、紀元前4世紀末古代エトルリア、16世紀フェラーラ候家などなど21に及ぶ様々な時代、様々な国の食文化の歴史を通じて語られる内容の幅広さに驚く。それこそいろんな食事が並べられた食卓みたい。各章の扉絵をどう読み解くかも含めてとても興味深いな、と改めてパラパラ。

今だったら「3 食卓で手を洗う」とかから読んでもいいかも。もうすっかり当たり前になったこの習慣、と書きたいところだけど食卓では手を洗わないよね。「欧州貴族の宴席では、中世以来一七世紀中頃まで、多少儀式的な色彩を帯びながらも、これが当然のこととして行われてきました」とのこと。そしてこの章の扉絵は「バイユーのタペストリー」の一部分。ここでみられます。ひえー、全長70メートル。絵巻物みたいにしてしまってあったのかな。わからないけどウィキペディアによると「バイユーのタペストリー(仏: Tapisserie de Bayeux)は、1066年のノルマンディー公ギョーム2世(後のウィリアム征服王)によるイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)の物語を、亜麻で作った薄布(リネン)に刺繍によって描いた刺繍画」とのこと。すごすぎる。この本では「ウィリアム征服王と異父弟バイヨー司教オドのテーブルで手拭きの布を手に、水の入った容器を捧げ持つ家臣」の部分が取り上げられています。このながーいタペストリーからこの部分を取り出したのもすごい。本文にはタペストリーの説明はないのだけど料理を指先でつまんで食べていたこの時代、この役職は非常に重要で花形だったそう。ウィンブルドンで女子の優勝選手に手渡されるのも銀の水盤!そしてこの習慣がどこから生まれたか。そこにはやはりキリスト教徒の関連があるのですね。なにげなく行うようになった日々の習慣も歴史を遡れば「やりなさいって言われたから」という類のものではないということかもね。

となるとTOLTA『新しい手洗いのために』(2021、素粒社)も思い出す。TOLTAは世田谷文化学館でやっている「月に吠えよ、萩原朔太郎展」でもとても面白い試みをしていましたよ。

なんとなく本のことを書いてしまった。

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趣味

とりあえず

今回は投句しないことにした。いつもは「投句することに意義がある」と大慌てで作った10句を速達で送っていたけれど。

と書き出してみたけれど保育園にいかなければ。そこにいけばどうにかなる。「きちゃえば全然元気なんです」登校しぶりの子どもの状態か。私は学校にもいかずバイトばかりしていたし「きちゃえば元気」な子どもの状態はわかるようでわからない。

とりあえず動かねば。

(何時間たったかな)

とりあえず動くことに成功し、いってしまえば仕事きっちり(したと思う。子どもたちかわいい。先生方がんばっておられる。)、今日は昼間に時間をとりやすい月曜日ではないかと神保町へ。

目的は大学時代からの友人のやたみほさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展「アミエとキリエ」。場所は神保町の大きめの通りに面したブックハウスカフェ。子どもの本の専門店、ということでぐるっと見わたすだけでも楽しい気持ちになりました。小さなギャラリー的スペースもいちいち魅力的。今度じっくりめぐりたい。突然の訪問にも関わらずやたさんもちょうどカフェにいらして近況報告。この前、時間があいたときに「今ならいける!」といつもと違う電車に乗ったはいいが神谷町と間違っており結局いけなかった。でもそのときはやたさんもこられない日だったからラッキー。同じくやた作品ファンの店長さんもいらしてお話できました。イロキリエ作家、松本奈緒美さんの作品(特に鳥!)もとても素敵でみんな連れて帰りたいと思ったのですがすでに売約済の赤いシールが。でも私もお気に入りの鳥さんと出会えました。展示の期間が終わったらお引き取りするの。楽しみです。大きな本屋さんのとても小さなスペースに手作りのぬくもりというか、超絶不器用の私には信じがたい技術と労力があふれていてほんとすごいと改めて思いました。超絶器用といえばやたさん、松本さんはもちろん、山本貴光さんや國分功一郎さんが紹介している『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)を思い出しますね。最近読み始めました。久しぶりに漫画を読むのと老眼が進んでいて読みづらいなと思っていたのですが、とても面白い。山本さんは『世界を変えた書物』(著:山本貴光 編:橋本麻里)の紀伊國屋書店新宿本店限定特典のリーフレットのなかで「もしもその科学の知識や技術がなかったら・・・・・・」というところでこの漫画に触れておられます。このリーフレット自体もとてもおすすめ。「思いやりってなに?」という方にもぜひ手に入れていただきたい。山本さんの文章自体にそれを感じられると思う。國分さんの最近のお仕事『スピノザ 読む人の肖像』『國分功一郎の哲学研究室』にも丁寧に地道に長く関わっていくことの価値を教えてもらっているしみなさんに感謝。「とりあえず」の毎日でもなんとかね、と思えますように。この後もがんばりましょう。

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精神分析、本

わからないから

8月14日のイベントにお招きする川柳作家の暮田真名さん、言葉といえば私的にはこの人たちである飯間浩明さん、川添愛さん、山本貴光さんの鼎談を目当てに『ユリイカ』2022年8月号(青土社)を買った。最初に読んだのは鈴木涼美「ギャル的批判能力は時代おくれなのか」、あと山本ぽてと「語尾とうしろめたさ」。お目当てから先に読むとは限らないのさ。この二人のも注目していたけれど。

鈴木涼美さんが「一億総ライター的なSNS社会」と書いている。確かに。でもSNSにいるのはほんの一部の人たちでもある。実際、私の周りはSNSのアカウントを持っていてもほとんど使っていないし、臨床心理士資格認定協会に対する働きかけを行う(返事はまだない)時にもそれを思い知らされた。今再び話題になっている宗教や宗教二世のこともSNSによってこれだけ公にされる時代になったことは驚きだが、臨床で地道にそれらと関わってきた身としてはそこで公にされることの意味や影響については日々考えさせられる。報道されることもそれはその人のあるいはその出来事の一面である可能性については当たり前と思っている。事件は一人では起こせないのだ。そして自分がそこにどのような形で関わっているか、いないかなは誰にもわからないのだ。もしかしたら自分のつぶやいた一言がなんらかの影響を与えていたらとか考えたらきりなく物事は繋がっていくがそれはあり得ないことでは決してないだろう。

社会運動の研究家の富永京子さんがSNSでのたやすい共感についてツイートしていたが確かにSNSにはなにも知らないのに口調だけみたら(SNSは視覚的だね)親しい間柄みたいなのもたくさんある。

千歳烏山の小さなアパートに住んでいた頃、夜男性の声で電話があった。寝ぼけていた私は誰だっけと思いながら知っている人と思って適当に返事をしていた。相手がそういう口調だったから。そのうちに相手が適当なお世辞を言って「ごめんね」と電話を切った。あれはなんだったんだろう。SNSで生じていることもそんなに変わらないだろう。そういうことがもっと簡単に、人から見える場で行われるところはだいぶ違うけど。

人には決して他人にはわからない、自分にもわからない領域がある。勝手に悔やまれたり悲しまれたり「共感」されることに激しい怒りを喚起されることもある。わかろうとすること自体が結構暴力的なのだ。土居健郎が「わかる」ことにこだわり、藤山直樹は土居が序文を書いた著書で事例によってその侵入性を示した。『精神分析という営み ー生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)の最初の症例がまさにそうだ。人は簡単ではない。わかること、わかられることに一面的な価値を与えることはできない。だからなにというわけではない。ただそうなんだと思いながら、その人自身にも触れられないこころの領域を想定してそれを尊重したい、そうしながらそばにいたいな、そうするしかないもんね、わからないから、と私は思うのだ。

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精神分析、本

悩める朝に

明るい。朝はとりあえずカーテンを開ける、というのは大切なことですね。内側がどうであれ外側くらい大切にしないと。

この前、ゲンロンカフェでやっていた安田登さんと山本貴光さんの「心を楽にする古典講義──『古典を読んだら、悩みが消えた。』刊行記念」イベントをアーカイブで見た。

昨年夏には安田登×玉川奈々福×山本貴光「見えないものの見つけ方」イベントにもいった。それは『見えないものを探す旅 旅と能と古典』刊行記念イベントだった。

安田登さんはとてもたくさん本を書いているんだな。今回の『古典を読んだら、悩みが消えた。』もとてもユニーク。今ちょっとエネルギーがないので書きたいことも書けないけど出版社のページをぜひチェックしてみて。と言いたいのだけど目次が載っていないのが残念。

「自分より強くてイヤなやつがいるなら」「自分の気持ちをうまく言葉にできないなら」「自分は陰キャだと思うなら」「コミュニケーションで失敗しがちなら」などなど私たちがよく悩む事柄に対して古事記、和歌、平家物語、能、おくの細道、論語を解釈しながら応えるという超難易度高い人生相談を安田さんは誰にでも読める形で実現してくれました、というかわいい表紙(中の漫画もかわいい)のすごい本。読んでいるうちになんか昔見たことあるあれ、聞いたことあるあれって本当はこういうことだったんだ、とか思っているうちに悩みにも別の意味が与えられて「まあこれでいいのかな」と思えると思います。お悩みがなくても私は夢の話とかすごく面白かった。能は特に興味深いなと感じます。ゲンロンのイベントで「みんな必ず寝るけど必ず起きるでしょ」(超雑な抜粋です、アーカイブでチェック)というようなことを安田さんが話していたのだけどこれ本当にそうで、この流れで話されたこともよかった。本では能は“「残念」を昇華する芸能”と書かれていてフロイトのいう個人的な無意識の産物とは違うよ、というようなことが書かれています。今は精神分析は個人のこころを集団的なものとして扱う視点があるので安田さんの書いてあることは本当にそうだなぁと思うのでした。

なんだか文章がバラバラしてしまうな、今朝は。いつものことか。私が悩んでいることもこの本にあるから読み直すことにしよう。

そうだ、昨年のイベントでは能の「忘却と疲労」のお話がとても印象的でブログにも書いた。コロナ禍だったけど現地で見られてラッキーだった。少人数で間近で見られた安田さんと玉川奈々福さんのおくの細道の実演は迫力とユーモアがあったし、一緒に声に出して読むのも新鮮だったし(今回のイベントでもやってたね)、山本さんがお天気のせいか何かで電車が止まっちゃって遅れちゃったことが起きたのもおくの細道の世界と相俟って面白かった。

朝から楽しかったことを思い出せたことに安心した、今。こころを集団として、全部私だけど全部私だけではない部分で構成されていると考える。変化しつづけていると考える。いろんなことは「変わらない」と感じられることの方がずっと多くて「もういやだ」ということばかりかもしれないけどこころを集団的かつ力動的なものと捉えれば綻びや虫喰いを見つけたときこそ変化のチャンスかもしれない。とはいえあまり思い切らずにいこう。行動化っていうのはあまりよくない、私たちにとっては。

ふー。なんとか今日も過ごしましょうね。東京は気温もちょうどよさそうです。

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読書

詩集『ひのひかりがあるだけで』さわださちこ

最近の家電はなんでも音楽だな、と洗濯が終わった音を聞いた。「最近の」とかいっているが最初にそう思ったのはもう随分前のはず。月日が流れるのは早い。

昨年春、友人が編み物で作った作品を届けにきてくれた。私たちが卒業した大学に講師として勤めながら作品を作り続ける彼女と昔話をするなかでさっちゃんが自然豊かな土地へ引っ越したと聞いて驚いた。彼女たちは以前二人で詩集を出していた。その詩集は賞を取って授賞式のときの二人が写ったポストカードを私も持っている。詩集もいただいた。『ねこたちの夜』という詩集だ。

毛糸で編まれた薄い紺色の夜に大きな三日月の下、影を作ってたたずむ猫の表紙がとてもかわいらしく、掌サイズのそれを開けばさっちゃんが願う通り” 今の自分が本当にかきたいことを、子どもにもわかるやさしい言葉で”書いた言葉がたっぷりの余白に優しく配置されていた。詩集は余白が多いのがいい。そういえば山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて2 世界でひとつの本になるの巻』(本の雑誌社)に詩集は出てきただろうか。詩集の余白は余白という文字な気がするのでそこに書き込むとしたら上書きになってしまう、など一瞬思った。

「ああ 今日も

きみに おはようが言えた

そのことが こんなにもうれしい」

ー「こまる」より抜粋 『ひのひかりがあるだけで』さわださちこ

さっちゃんの10年ぶり2冊目の詩集からの引用だ。昨日、帰宅したらポストに入っていた。ありがとう。さっちゃんの字、変わらない。

やっぱり表紙は猫。今回はやぎ公さんというさっちゃんが惚れ込んだという画家さんが描いている。

「ねこで よかったね

なんにも しんぱいしないで」

ー「ねこは」より抜粋

クッションにすっぽりとおさまりなんの心配もなさそうな顔で眠る猫が本当にシンプルな線だけで描かれている。さっちゃんの猫でよかったね、こんな素敵な詩集にも登場してるよ。

ウクライナの猫たちが浮かんだ。先日、瓦礫となった街を紹介する記者が放送中に猫を見つけ戦争が始まって以来はじめて笑ったというようなことを話していた。

さっちゃんの優しい視線を思い出す。さっちゃんはいつも微笑んでいた気がする。のんびりとはっきりとしたことをいうイメージ。きっと今もそうだ。私の友達はマイペースでのんびりとしている人が多くてこうして作品を作る友達は特にそうだ。

「だれにも おそわることなく できたこと

そして やすみなく つづけてきたこと

すーはー すーはー

すって はいて すって はいて」

ー「いき」より抜粋

さっちゃんは「子どもにもわかる言葉で」というのをいつも心がけている。この場合の「わかる」は知的な理解という意味ではないだろう。あなたの生はいつも肯定されている、それが伝わりますように、というさっちゃんの願いだ。私はそう思っている。

<詩集>

ひのひかりがあるだけで』さわださちこ 詩・やぎ公 画

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読書

習慣

本を読みながら歩いてくる小学生がいる。片時も目を離せないかのように、もうすっかりその世界に入っているかのように、すれ違ったことにさえ気づかずに(多分)そのままの姿勢で歩いていく。

うまく避けるものだな、あるいはこちらが避けているのか、人間の視野は広いんだか狭いんだかわからないからな、など思いながら私も歩き続ける。

大きなリュックを前に抱えて指で小さくトン、トンとしながらiPhoneを見ている人がいる。それは最近の私。iPhoneに入れたKindleで本を読んでいるのだ。そんな習慣なかったのに。いちいち老眼鏡を出すのもめんどくさいから歩きながら読むなんてことしなかったのに。不思議だ。なぜか。

ひとつはそうでもしないとなかなか本を読む時間がないということ。ただこれは私がなんでもかんでも読みたくなるからであって、むしろ早く読んでおしまいなさい、という本を落ち着いて読むべき、と毎日自分に注意しているけれどなかなかいうことを聞かない。

もうひとつはiPhoneを新しくして容量が増えたのでたくさん本を入れておけるようになったということ、本来メインで使おうと思っていたKindle paperwhiteよりも動作が早いということ、索引に載っていない自分的キーワードで検索したいときが多い私にとっては大変便利であるということ、そのままツイートもできるし(私のツイートは大体メモ置き場)何よりiPhoneの画面は小さくて(文字も大きめ設定)1ページに収まる文章が少ないということ。「もうひとつ」と書いたのに一気に書いてしまった。

あ、なぜ1ページに収まる文章が少ないとよいかというと英語で読むときは構文がわかりやすいし、没頭しすぎて轢かれたりぶつかったりすることもなく適度に外に注意を向けていられるから(もちろん意識的に注意もしている)。

デメリットについては以前すでに書いた。マルジナリアを使えないことと段落番号をどんどん振っていく作業がしにくいこと。

まあ、こんなことを書いている場合でもないのだが、今夜は数年前から続けているオンラインのフロイト読書会のアドバイザーをつとめる日でPC前に待機していたので、習慣って変わるんだな、と思い、もちろん他にもさまざまな要因が絡みあってのことだとは思うが、これからも変わるであろう習慣の記録として(というのは今思いついたことだけれど)なんとなくピン留め的に書いてみた。

参照

『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(2020、山本貴光、本の雑誌社)

https://www.webdoku.jp/kanko/page/4860114450.html

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精神分析

終わりのない仕事

なんだかひどく疲れる。見て見ぬふりをできるものもあればできないものもある。難しいのは見て見ぬふりができるのは最初からしっかり見ていない場合であって、二度見とかしちゃってきちんと目に入れてしまったら見て見ぬふりなどできなくなることだ。見て見ぬふり、というのは他の記憶とまぜこぜにしてなかったことにできる程度にしか見ない、ということではないか。もしそうできない場合は見て見ぬふりは失敗し、むしろしっかり見てみるまで気になってしょうがなくなってしまったりするのではないだろうか。

精神分析の訓練の間はものが書けない、と妙木先生がおっしゃっていた。どこかに書いてもいらしたと思う。これはとてもよくわかる。別に訓練が終わったら書けるかというとそうでもないだろうし、訓練中に書いている人だってもちろんいる。

でもおそらく妙木先生が言っているのはそういうことではない。ものすごく書ける彼でさえそういう状態に陥るのだ。

精神分析は自分の人生を差し出すような試みである。何かを形にする行為ではない。

吉川浩満さんが山本貴光さんとの共著「人文的、あまりに人文的』でロビン・G・コリングウッド『思索への旅ー自伝』を取り上げている。コリングウッドが提唱した「問答倫理学」は、命題や作品に接するときには、「誰それはこれをどんな問題に対する解答にしようとしたのか」と問うような態度のことらしい。

私はいつも通り精神分析という体験と結びつけて考えているわけだが奇遇なことに(?)コリングウッドは哲学をやる以前は考古学をやっていたそうだ。フロイトもまた考古学には強い関心を向けていた。

やっているのは常に問題の再構成だ。そして「問題」とは、精神分析でいえば現在の在り方であり、過去の出来事なのだろう。そしてそれを語るさまざまな症状を持った(人は誰でも症状を持つ)その人の身体と言葉、暫定的な私という存在が「解答」なのだろう。一体、私という暫定的な解答は今のところどんな問題を示しているのか。

もちろん精神分析ではこれは一人の作業ではなく精神分析家との作業として思考される。技法としてはそのはずだ。それをなすべく、精神分析家も一定の訓練を受けており、自分自身も精神分析家との間に自分を差し出した経験を持ち、それがどんな出来事か知っており、解体しそうな患者にそれと気付かせないように抱える腕を持っているはずだ、理論的には。

そしてそれもまた錯覚であり、幻想であることを知らせるのもまた精神分析なのだろう。終わりのない仕事だ、生きている限りは。

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精神分析、本 読書

『ウィトゲンシュタインの愛人』を読み始めた

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦訳、国書刊行会、2020)を読んでいる。隙間時間にパラパラしているのでなかなか進まないけれどとっても好きな書き方でワクワクする。

Kindleの不便なところ、あ、これ早く読みたくてあまり得意でないKindleで買ってしまったのだ。そうそうKindleの不便なところ、1、マルジナリアに書き込みできないこと。2、紙の本とページが対応していないところ。

デバイスや設定によってページ数も変わっちゃうし。大きい字にできるのは老眼にはありがたいけど。

でもこの本はKindleでよかったかも、私には。

主人公の語りはさながら自由連想。夢を語るように自由に景色を行き来する。この世界はこの主人公だけのものだ。今のところ圧倒的に孤独な。身体の変化だけがかろうじて時間に一貫性を与えているようだけどそれもずいぶんぼやけてきたらしい。豊かな知識で一見饒舌な語りだがとてもとても乾いている。何が燃えても彼女には風景の一部だ。しかし時折情動に突き動かされたかのような様子も見せる。一体、この話はどこへ進んでいくのか。進むのを拒むように揺れ動く景色。

こういう書き方が私はとても好きだ。好きな接続詞がいくつも出てくる。あぁ、この書き方がとても好きだ、と読み始めてすぐに思った。そしてKindleでよかったと思った。

もしかして、と思って、ちょっと先走って検索してしまった。やっぱり、と嬉しくなった。好きな接続詞がたくさん使われている。こういうときKindleって便利だ。どんな単語も検索ができる。

もちろん翻訳だから元の単語はわからないけど、木原善彦さんの翻訳は山本貴光さんと豊崎由美さんがとてもいいといっていたからとても信頼できる。信頼の連鎖。

本の読み方は色々あるが、山本貴光さんが『文体の科学』か『マルジナリアでつかまえて』で私と同じような、いやもっとずっとマニアックな方法で本を全方向から楽しんでいるのを知ってとても共感した。無論あちらはプロの文筆家でありプロのゲーム作家なのでその緻密な方法には驚くばかりだ。

山本さんは吉川浩満さんと「哲学の劇場」という動画も配信していてそこでも本の読み方について話していた。

ちなみにこの『文体の科学』もすぐにほしくてKindleで買ってしまったけど山本さんの本は紙の本で買うべきだった。わかっていたはずなのに欲望に勝てなかった。せっかく載せてくれている資料がKindleだと全然楽しくないことを学んだからいいけど。失敗から学ぶことばかりだ。

ばかりだ、と二回使った。

早朝から家事を済ませ、こうして短時間書く作業はとても楽しい。この時間に読めばよかった、と今気づいたけど。

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『グラディーヴァ』と手紙

グラディーヴァ ポンペイ空想物語 精神分析的解釈と表象分析の試み

前に書いたように『グラディーヴァ』にもいくつかの翻訳がある。種村訳はフロイトの『妄想と夢』論文とセットで種村氏と森本庸介氏の論考も読める。こちらはヴィルヘルム・イェンゼンの小説と訳者山本淳氏の表象分析のセット。

フロイトを読むときは時間が許す限り関連文献も読んでいる、というか読みたくなってしまう。このグラディーヴァ本のオリジナリティは、「『グラディーヴァ』をめぐる書簡」について書かれているところだ。作品と解釈をめぐり、イェンゼンと精神分析家が、あるいは精神分析家同士が交わした15通の手紙が取り上げられている。シュテーケルからイェンゼン、ユングからフロイト、フロイトからユング、イェンゼンからフロイト、フロイトからイェンゼン、といった具合に。

手紙というのはその内容だけではなくて、書かれ方、送られ方、受け取られ方などいくつかの側面から手紙の書き手についても教えてくれる。

置かれている立場、その人のペース、リズム、パーソナリティなどいろんなことが手紙には断片的に現れる。フロイトが出した手紙に淡白な返事を出すユングとか、フロイトを立てつつも苦言を呈するイェンゼンとか、せっかちですぐ反応がほしくなってしまうフロイトとか。

「応用精神分析」という用語はラカンによってその意味を変えたが、フロイトを読むときはフロイト自身のテキストとそれを取り囲む政治、社会、文化、思想などの文脈の双方を参照する必要があることは間違いない。

手紙はその双方の橋渡しをする。イタリアに強い思い入れがあるフロイトがイタリアから出した手紙は岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』でも読めるはず(またもや発掘が必要)。

それにしてもなんでも分析対象にするものだ。今となっては、私たちが家族や身近な人を精神分析することは危険というのは共通認識だが、文学や芸術に対する分析ってどうなのだろう。危険ではないだろうけど、なんだか偉そうだよね、と思ったりもする。小さい時から文学に助けられてきたせいかもしれない。

私は大学生の時、夏目漱石の病跡学をやりたいと思っていたが、それも偉そうだったかも。夏目漱石は実家に全集があって、今でも文庫で持ち歩くことはよくあるほどに好きだから触れたかったのだとは思うけど。今だったらどうかな。精神分析は治療としてだけでいいかな。文学とは山本貴光さんの『文学問題(F+f)+』みたいに関われたらいいなと思うけど、あれはすごい本だからなぁ。私は人に対してあのようなエネルギーを注いではいるような気はするが。

またもやとりとめなく書いてしまった。朝のウォーミングアップ終了。身体も動かさないと。

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精神分析

「適切な」

バンクシーがロンドンの地下鉄で書いた絵を清掃員の人が気づかずに消していたというニュース、バンクシーも計算済みで描いているのですよね、多分。「交通局は、マスクなどの着用を促すメッセージを伝える適切な場所を提供したいとコメント」とニュースにあったけど、これはバンクシーに対してってことかな。バンクシーは「適切な場所」が地下鉄だったのでしょうけど、ねずみがくしゃみしているわけだし。

バンクシーって男性?女性?今「彼」とかくか「彼女」と書くか迷ったけど、それもどっちでもよくしておくことが大事なのかしら。

「適切な」って言葉、私も使うけど使いながらいつも微妙な気持ちになります。そういえば最近はKYって聞かないかも。空気読めないってなに、と思っていたので良いことのような気がします。ところでKYは看護のテキストだと「危険予知」という意味です。危険予知トレーニングは「KYT」。言葉はそれが置かれる文脈や文化でいくつもの意味になるから面白いというか厄介というか・・。

人もそうかもしれません。一例ですが、吉川浩満さんが山本貴光さんとやっている YouTubeチャンネル「哲学の劇場」で東浩紀『哲学の誤配』を「2020年上半期の本」としてあげていました。そこで話されていたことです。彼らと(私も)東浩紀さんはほぼ同年代で、昔からの読者としてその多彩な言論を知っているわけだけど、この『哲学の誤配』は韓国の人が韓国の読者のために東さんにしたインタビューなので、彼がどんな人か知らない人も彼のこれまでの活動をシンプルに追える構成になっていて、それがかえって東浩紀という人の本質を浮かび上がらせるよね、というようなこと(ちょっと違うかもですけど)を話しておられました。

東さんは彼自身が自分はそもそもデリダ研究者で、と自己紹介しなければならないほどその像が断片化してしまっているようで大変そうだな、とただの一読者ですが思います。少なくとも人をそういうふうに捉えてしまうと対話するのは難しいだろうなあと。ちなみに「哲学の誤配」(白)とセットで出たのは『新対話篇』(黒)。彼はゲンロンカフェという対話の場を提供している開業哲学者(他にそんな人いるのかな)で、同じく開業して生活している私はそこにも親近感を感じています(心理士は開業している人はそこそこいます)。

対話はその人の全体から編み出される言葉のやりとりだから、対話相手によってその人の像が変わるとしても、それは決して断片にはなり得ないと思いませんか。奥行きや広がりは生じるとしても。でも、もし、断片化するために人の話を聞くということがあるとしたら、それはその人に対する受け入れ難さがあるからかもしれないな、とも思います。確かに「私の知らないあなた」と出会うことを避けたり、自分がみたいようにしかみない、ということも私たちの日常かもしれない。

言葉も人もそれが置かれる場所、いる場所によってその姿を変えてしまう。でもだから私たちは流動的で、潜在性をもった存在でいられるのかもしれないですね。いつも決まった場所で決まった言葉の範囲内で生活しなさい、それが「適切な」あり方、とか言われたら私は嫌、というか辛いです。

今日も雨ですねえ。足元お気をつけておでかけください。