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精神分析、本 読書

『ウィトゲンシュタインの愛人』を読み始めた

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦訳、国書刊行会、2020)を読んでいる。隙間時間にパラパラしているのでなかなか進まないけれどとっても好きな書き方でワクワクする。

Kindleの不便なところ、あ、これ早く読みたくてあまり得意でないKindleで買ってしまったのだ。そうそうKindleの不便なところ、1、マルジナリアに書き込みできないこと。2、紙の本とページが対応していないところ。

デバイスや設定によってページ数も変わっちゃうし。大きい字にできるのは老眼にはありがたいけど。

でもこの本はKindleでよかったかも、私には。

主人公の語りはさながら自由連想。夢を語るように自由に景色を行き来する。この世界はこの主人公だけのものだ。今のところ圧倒的に孤独な。身体の変化だけがかろうじて時間に一貫性を与えているようだけどそれもずいぶんぼやけてきたらしい。豊かな知識で一見饒舌な語りだがとてもとても乾いている。何が燃えても彼女には風景の一部だ。しかし時折情動に突き動かされたかのような様子も見せる。一体、この話はどこへ進んでいくのか。進むのを拒むように揺れ動く景色。

こういう書き方が私はとても好きだ。好きな接続詞がいくつも出てくる。あぁ、この書き方がとても好きだ、と読み始めてすぐに思った。そしてKindleでよかったと思った。

もしかして、と思って、ちょっと先走って検索してしまった。やっぱり、と嬉しくなった。好きな接続詞がたくさん使われている。こういうときKindleって便利だ。どんな単語も検索ができる。

もちろん翻訳だから元の単語はわからないけど、木原善彦さんの翻訳は山本貴光さんと豊崎由美さんがとてもいいといっていたからとても信頼できる。信頼の連鎖。

本の読み方は色々あるが、山本貴光さんが『文体の科学』か『マルジナリアでつかまえて』で私と同じような、いやもっとずっとマニアックな方法で本を全方向から楽しんでいるのを知ってとても共感した。無論あちらはプロの文筆家でありプロのゲーム作家なのでその緻密な方法には驚くばかりだ。

山本さんは吉川浩満さんと「哲学の劇場」という動画も配信していてそこでも本の読み方について話していた。

ちなみにこの『文体の科学』もすぐにほしくてKindleで買ってしまったけど山本さんの本は紙の本で買うべきだった。わかっていたはずなのに欲望に勝てなかった。せっかく載せてくれている資料がKindleだと全然楽しくないことを学んだからいいけど。失敗から学ぶことばかりだ。

ばかりだ、と二回使った。

早朝から家事を済ませ、こうして短時間書く作業はとても楽しい。この時間に読めばよかった、と今気づいたけど。

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精神分析

「適切な」

バンクシーがロンドンの地下鉄で書いた絵を清掃員の人が気づかずに消していたというニュース、バンクシーも計算済みで描いているのですよね、多分。「交通局は、マスクなどの着用を促すメッセージを伝える適切な場所を提供したいとコメント」とニュースにあったけど、これはバンクシーに対してってことかな。バンクシーは「適切な場所」が地下鉄だったのでしょうけど、ねずみがくしゃみしているわけだし。

バンクシーって男性?女性?今「彼」とかくか「彼女」と書くか迷ったけど、それもどっちでもよくしておくことが大事なのかしら。

「適切な」って言葉、私も使うけど使いながらいつも微妙な気持ちになります。そういえば最近はKYって聞かないかも。空気読めないってなに、と思っていたので良いことのような気がします。ところでKYは看護のテキストだと「危険予知」という意味です。危険予知トレーニングは「KYT」。言葉はそれが置かれる文脈や文化でいくつもの意味になるから面白いというか厄介というか・・。

人もそうかもしれません。一例ですが、吉川浩満さんが山本貴光さんとやっている YouTubeチャンネル「哲学の劇場」で東浩紀『哲学の誤配』を「2020年上半期の本」としてあげていました。そこで話されていたことです。彼らと(私も)東浩紀さんはほぼ同年代で、昔からの読者としてその多彩な言論を知っているわけだけど、この『哲学の誤配』は韓国の人が韓国の読者のために東さんにしたインタビューなので、彼がどんな人か知らない人も彼のこれまでの活動をシンプルに追える構成になっていて、それがかえって東浩紀という人の本質を浮かび上がらせるよね、というようなこと(ちょっと違うかもですけど)を話しておられました。

東さんは彼自身が自分はそもそもデリダ研究者で、と自己紹介しなければならないほどその像が断片化してしまっているようで大変そうだな、とただの一読者ですが思います。少なくとも人をそういうふうに捉えてしまうと対話するのは難しいだろうなあと。ちなみに「哲学の誤配」(白)とセットで出たのは『新対話篇』(黒)。彼はゲンロンカフェという対話の場を提供している開業哲学者(他にそんな人いるのかな)で、同じく開業して生活している私はそこにも親近感を感じています(心理士は開業している人はそこそこいます)。

対話はその人の全体から編み出される言葉のやりとりだから、対話相手によってその人の像が変わるとしても、それは決して断片にはなり得ないと思いませんか。奥行きや広がりは生じるとしても。でも、もし、断片化するために人の話を聞くということがあるとしたら、それはその人に対する受け入れ難さがあるからかもしれないな、とも思います。確かに「私の知らないあなた」と出会うことを避けたり、自分がみたいようにしかみない、ということも私たちの日常かもしれない。

言葉も人もそれが置かれる場所、いる場所によってその姿を変えてしまう。でもだから私たちは流動的で、潜在性をもった存在でいられるのかもしれないですね。いつも決まった場所で決まった言葉の範囲内で生活しなさい、それが「適切な」あり方、とか言われたら私は嫌、というか辛いです。

今日も雨ですねえ。足元お気をつけておでかけください。