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精神分析、本

ため息まじり

寝不足のままファミレスで作業。日曜朝のファミレス、この時間は男性のひとり客ばかり。とても静か。自分で特別感出していかないとやってられない。

そういえばさっき上から何か降ってきたからきゃーっと思ったけど髪にもリュックの表面にもなんの痕跡もない。リュックを前に抱えて中途半端にあけておいたから中に何か入ってしまったのかな。きゃー。何か中で育ってしまったりしないでね。

鳩が鳴いてるなあと思いながらうちのそばの角を曲がったら真正面から別の鳩が羽広げてきてびっくりした。ちょうど角のおうちの木に留まろうとしているところだったのだけどなんか迷っちゃたみたいで一度留まろうとしたのにバサバサって変な感じにまた飛び上がってそばの別の木に留まった。ああいう判断ってどうやってされてるんだろう。というか真正面から鳥が羽を広げた姿みるのって結構インパクトあるよね。

その後に上から何か落ちてきたら鳩の落とし物とかよく書かれているものかと思うじゃん。あー。中も大丈夫だと思うのだけどだったらなおさらあれはなんだったんだろう。

少し前に中年男性が要求するケアについて「ほんとそう」と思うツイートを見かけたのだけど、一生懸命ものや時間を与えて時にはちょっと手も出したりして愛情めいた関係を築いてそれを社会的評価に変えている同世代の中年の商品にはお金が回らない世の中になればいいなと思う、特にそれが男性の場合。女ひとりで開業している身なので現実的な言い方になりますが。構造上の問題に上手に乗っかってまるでフェミニストかのように振る舞うことが上手な人も身近にいるけど「そういうのいいかげんやめたら」と言いたい。色々くれてなんでも教えてくれる賢くて優しい人たちだったりするととても言いにくい場合もあるけど言うこともある。それとこれとは別というかそんなものより、と。でもすでにビジネス絡めながらそういう人と依存関係築いてきた女性たちは自らが中年になってもそういうこと言わないでむしろ言う方のことを「あなたにそんなこと言うなんてひどい」みたいなメッセージ送ってたりするから「うん?お連れ合い?いや、だったらそんな甘めのこと言わないか」とか「社会なんて変わらないっすよね」となるのも無理はない。私は「この人たちって」と個人に対して思うほうだけど。それ以前に言われたくないこと言われるとすぐ怒ってしまう人とはコミュニケーション自体が難しいし。うーん。それに比べて患者さんたちは誠実だなと思うことが多い。切迫した問題があって、自分のことを考えざるを得ないからというのもあると思うけど素因の違いもあるのかな。ほんといろいろ難しすぎてまいるけどそういうの考えること自体も仕事だからまいりながらやりましょうかね。

先日プレシアドの『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(法政大学出版)のことを書いたときに名前を出したヴィルジニー・デパントの『キングコング・セオリー』(柏書房)みたいな書き方ができたらいいけどできないので読んでほしい。関係ないけど私は柏書房の本に好きなのが多い。女性や弱者への一貫した眼差しを感じる本を色々読んだからかな。

フロイトの『夢解釈』にはものすごくたくさんの夢の例が出てくるのだけどフロイトが理論を確立するための素材としてそれを使用しているからとはいえ生理や妊娠、中絶、同性愛などに対する記述は中立的という話になった。少なくともたやすく価値判断を混ぜ込むことをしていない。そうだ、土居健郎が価値判断について書いているところについても書こうと思っていたのに数年が立ってしまった気がする。まあいずれ。フロイトは権威的、家父長的な部分ばかり取り上げられてしまうけれどその後の技法論に繋がる中立性の萌芽はこういうところにあるのか、とかもわかるからフロイトも読んでほしいよね、精神分析を批判したり同じ名前で別のことをしようとするのであれば、という話もした。

京大の坂田昌嗣さんが昨年の短期力動療法の勉強会がらみで短期力動的心理療法(short-term psychodynamic psychotherapy:STPP)の実証研究の論文を教えてくれたけど n = 482, combined(STPP + antidepressants) n = 238, antidepressants: n = 244だもの。積み上げが違う。これまでの研究も遡ってみたけど実際にSTPPを長く実践してきている人たちの研究みたいだし。たとえばDr E. Driessenの業績

STPPは精神分析の理論を部分的に使用しながら患者のニーズに合わせて発展してきた技法だけどpsychodynamicという言葉を使っているわけでそのほうが幅広い臨床家に届くよね。これ力動系アプローチなのに反応があるのはCBTの人たちからというのも今の状況だとそうなるか、と思ったりもした、とかいう話もした。とりあえずこういうことをざっくばらんにかつ細やかに話し合える場づくりはしているつもりだから維持するためにもなんとかやっていかないとだなあ。ため息混じりの日曜日。でもまだ朝。みんなにいいことありますように。

cf.

短期力動的心理療法に関する本や文献についてはオフィスのWebサイトに書きました。ちなみに勉強会当日のテキストは


ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
妙木 浩之『初回面接入門―心理力動フォーミュレーション』(2010,岩崎学術出版社)
でした。

妙木浩之監修『実践 力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト』(2022年、岩崎学術出版社)も加えておきます。

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精神分析、本

『個性という幻想』『実践力動フォーミュレーション』

ツイートもしたが自分のための備忘録。精神分析関連の本。

12月の精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)は岡野憲一郎先生による「サリヴァンとコフートと自己心理学の流れ」の講義。私は司会を務めるので2022年10月に出たばかりのサリヴァンの本を読んでいる。KIPP主催のサリヴァンフォーラムに申し込むのをすっかり忘れていたが出席された方に聞くとサリヴァン(Sullivan,H. S 1892―1949)のオリジナリティはもとより阿部先生が大変個性的でとても面白い会だったそうだ。サリヴァンの翻訳といえば中井久夫先生のイメージが強いが、阿部先生が今回訳出された日本語版オリジナルの論集は個人の病理を実社会に位置付けるサリヴァンの主張の源泉を感じさせてくれるものだと思う。各論考の冒頭にある《訳者ノート》が大変ありがたい。

個性という幻想』(講談社学術文庫)
著: ハリー・スタック・サリヴァン
編・訳: 阿部 大樹

「本書は初出出典に基づいて新しく訳出した日本語版オリジナルの論集である。ウォール街大暴落の後、サリヴァンが臨床から離れて、 その代わりに徴兵選抜、戦時プロパガンダ、 そして国際政治に携わるようになった頃に書かれたものから特に重要なものを選んで収録した。」(14頁)

ちなみにこの本に収録された12編のうち11編は、日本で唯一未訳の著書“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences”(1964) にも収められている、とのこと。

“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences” は1934年から1949年に亡くなるまでのサリヴァンの社会科学に関する17の論文を集めた著作らしい。題名からすれば精神医学と社会科学の融合となる。

サリヴァンは当時、米国精神分析の中心だった自我心理学に対してインターパーソナル理論を用いた精神分析をトンプソン Thompson,C.らと模索した。これがその後1960年代からのシェイファーらによる自我心理学内部からの批判とどのように連動したのか忘れてしまったかいまだ知らないでいるが、自我心理学に対する批判がその後の米国精神分析の多様化を導き、関係論の基盤となった。この辺は岡野先生のご講義で確認してから書いたほうがよさそう。書いてみるとなんだか曖昧。

次は、筆者の皆さんからということで編集者さんから送っていただいた実践の本。感謝。

実践力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト法』 (岩崎学術出版社)

「事例から学ぶ連想テキスト法」の実践の記録。

第1章で土居健郎 『方法としての面接 臨床家のために』 (医学書院)に立ち戻らせる妙木浩之先生のさりげなさ。わかるわからないの議論をはじめ、「見立て」とは何か、ということを考えるときに土居先生のこの本は必須なのだ。

そして妙木先生考案の「連想テキスト法」とは、「事例概要を構成するナラティブ(物語)を一度分解し、さらに再構築するための方法」であり、フロイト『夢解釈』、ノーベル経済学賞受賞の心理学者ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の合わせ技として説明。「三角測量による客観性も、また同時参照によるリフレクションも働かない」よくあるスーパーヴィジョンの形式ではなくそれらを可能にする方法として考案された「連想テキスト法」はグループでの事例検討会に最適であり、私も妙木先生のフォーミュレーションのグループの初期メンバーとしてこの意義は確信して自分のグループの基盤にしている。

実践編に入る前の妙木先生の説明(1章)はもちろん必読だが、理論がないところにフォーミュレーションは成り立たないので基礎として知っておかねばならない精神分析的発達論のまとめ(3章)も役に立つ。実践編では主要な病理毎に一事例取り上げられ、その連想テキストが提示されその結果どのようなアセスメント/フォーミュレーションがなされたかが記述される。「ヒステリー」 の症例が取り上げられている(5章)のは力動的心理療法の歴史を考えれば当然だが価値がある。基礎を押さえつつ書くためのモデルとして手元に一冊置いておきたい。

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精神分析、本

両性具有とか更新とか

洗濯をして麦茶を作ってクラッカーつまみながら珈琲飲んでNHK俳句を少し立ち見してゲストにあんな服も違和感なく着こなしててかわいいな、コメントもいいなと思ったり、「雷」って季語はいいね、とか俳句やってるのにこの語彙はどうかと思うけどそう思って、またバタバタして今なんだけどどうしましょう。仕事もしていたはずなのだけど進んだ形跡が見当たりません。どこ?

そうそう、昨日ブログ書きながら思い浮かんだのは最近読んだ舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 ー七〇年代のジェンダー』(筑摩書房)、私でも知っている曲ばかり出てくる実感から己のジェンダー規範を振り返ることもできる本の文庫化(単行本は2002年、晶文社)。北山修先生の「あの素晴らしい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」も取り上げられていた。北山先生、「戦争を知らない子供たち」を書いたの20代なんですね。著者がそれに驚いた口調で書いていて私はそれを読んで驚いた。この本、ジェンダーの視点から聴き直すとこの歌詞ってそう読めるんだ、すごいな、そんなふうに聴いたことなかったよ、ということばかりでとっても面白いです。桑田佳祐の歌詞の両性具有性とか確かに!と思った。両性具有という言葉で書いてあったかどうかは忘れてしまったけど。そうだ、忘れないうちにここにメモしちゃうけど両性具有性についてはプルーストを読みたい、とずっと思っているのに断片しか読んでいない。精神分析との関連で、と思うのだけどプルーストとフロイトってお互いのことを知らなかったそう。ほんと?同時代人で二人ともこんな有名で、ユダヤ人という文脈で重なるところもある。ちなみにフロイトの方が15歳年上。プルーストは51歳で亡くなってるけどフロイトは1939年、83歳まで生きた。2019年にプルースト研究者の中野知律さんと精神分析家の妙木浩之先生が登壇した「プルーストとフロイト」という市民講座に出た、そういえば。中野さんの「失われた時を求めて」の話がすごく面白くて私もがんばって読もうと思ったのにあれから3年かあ。一日1ページでも読んでればそれなりに読めてたはず。文庫、持っているはずなんだけど。どこ?

どうにもとまらない歌謡曲 ー七〇年代のジェンダー』を読んだ影響でApple Musicで1970年代の歌謡曲を聴きながらこれを書いている。今かかっているのは山本リンダ「狙いうち」。この曲のことも書いてあったと思う。

男女という近代的二元論というのかな、その差異によって排除されているものに目を向けるのはもちろん続けていく必要があって、そのために「両性具有」という言葉を使い続けていくのが大切な気がする。精神分析はいまだフロイトの時代のそれが一般には広まっていて実際その父権的な態度から自由になったとはとてもいえない。前にも書いたかもしれないけど、だからこそ国際精神分析協会(IPA)の中にはWomen and Psychoanalysis Committee (COWAP)という委員会があって、社会、文化、歴史との関連におけるセクシュアリティとジェンダーに関する研究などをサポートしている。精神分析概念の修正と更新のため。

これも連想になってしまうけど「更新」といえば、先日、吉川浩満さんが『樹木の恵みと人間の歴史 石器時代の木道からトトロの森まで』というNYで樹木医みたいな仕事をしているウィリアム・ブライアント・ローガンという人の書いた本を書評(「失われた育林技術を探す旅」していた。なんかプルースト的。萌芽更新という言葉をキーワードにした評で私もその言葉にとても惹かれた。それでちょっと調べて驚いたのは「萌芽更新」の英語ってcoppicingでupdateではなかった。意外だった。ちなみに「間伐」はthinning。児童文化の授業でこの「間引き」についてすごく考えたことがあって今も時々考えるのだけど元は樹木を守りその恵みを与えてもらうなかで生まれた言葉なんですよね。 

ジェンダーとセクシュアリティ、差異が排除の理由になどなるはずないのにそうなりがちな現状に対して有効なキーワードを持っていくことが大事そう。

そういえば結膜下出血と汗と涙について書こうかなと思ったのを忘れてダラダラ書いてしまった。まあいいか、日曜日だし(いつものことだとしても)。それぞれに良い日曜日を!

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『ピグル』

Twitterで東畑開人さんが、青山ブックセンター本店のブックフェア「180人が、この夏おすすめする一冊」で北山修先生の『心の消化と排出』を挙げていた。北山先生の本から「おすすめ」を選ぶとしたら私もこの本を選ぶ。「夏」っぽいとは思わないけど。

北山先生の『錯覚と脱錯覚』も私に大きなインパクトを与えてくれた。ウィニコット の『ピグル』とセットで読むべきこの本も「夏」かといえばそうでもない。

2歳の女の子とおじいちゃん先生ウィニコットとの交流が描かれた『ピグル』、16回のコンサルテーションの間にピグルは5歳になった。最初は1ヶ月に1回、二人が会わない時間は少しずつ増えていく。それでも1年に3,4回というのは私が保育園巡回に行くペースだ。3歳、4歳ともなればその頻度でも「また会えたね」となる。

ウィニコットはピグルと会わなくなった4年後に亡くなった。これからを生きる子どもと死の準備をする大人。妹の出生によって母親の不在を体験したピグルはウィニコットを一生懸命使い、持ちこたえ、生き残るウィニコットを発見し、「私」とも出会っていく。ピグルの名前はガブリエルだ。

1964年7月7日、6回目のコンサルテーションの冒頭、ウィニコットは「今回は、ピグルではなく、ガブリエルと言わなければならないとわかっていた」と書き、そこからの記録はすべて「ガブリエル」に代わる。そして帰宅したガブリエルも母親に「ウィニコット先生に、私の名前はガブリエルだよって言いたかったの。でも先生はもう知ってたの」と満足そうに言った。母親からの手紙でウィニコットはそれを知る。

子どもの治療の重要な局面だ。二人は通じ合っている。

夏の休暇前のセッション、「私はサンドレスと白いニッカーズを着てたの」とひなたに仰向けに寝転がるガブリエル、私はこの場面が好きだ。子どもが安心して空想に浸れること、複雑な情緒を体験する場所はいつもこうして開かれている必要がある。

そして夏の休暇後、二人がはじめて会う7回目のセッション、ガブリエルは「ウィニコットさん」とよそよそしい。「先生」ではないウィニコットの休暇に対する抗議のように「だれにも一緒にいてほしくなかったの」とひきこもっていた自分を知らせるガブリエル、このとき、彼女は3歳になったばかりだが、大きくなった。ウィニコットの記録を読むとそう感じる。

精神分析は週4日以上会っているので休暇の意味は大きい。たまにしか会わなくても会えない日々のことを想うのだから、この二人のように。

いない人のことを想う。いたはずの人のことを想う。そうやって描かれる私たちは大抵いつも現実と違うけれど、想うことだけが私たちを生かすこともある。

この夏、『ピグル ある少女の精神分析的治療の記録』(ドナルド・W・ウィニコット著、妙木浩之監訳、金剛出版)を読んでみるのはどうだろうか。彼女が青い瓶を目に当てて「ウィニコット先生は青いジャケットを着て、青い髪をしているのね」というように、本を読むことで(もはやなんの本でもいいかもしれない)この暑さを違う色に染めてみたり、2歳の頃の目で世界を見直してみる。この夏は、そんな旅もいいかもしれない。

(翻訳作業についてはオフィスのサイトに少し書いてあります。)