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ジャズ

昨晩は大きい地震があった。みなさん、ご無事だろうか。

ずっとチック・コリアを聴いている。生きているのか死んでいるのかわからないほど、というより、ずっと生きているような錯覚を持っていたことに彼が死んで気づいた。いや、実際生きていたんだけど、ほんの数日前まで。

まだ79歳だったんだとも思う。まだ若いじゃないか。

私が初めてCDで聴いたジャズは家にあったマイルス・デイヴィスだった。チック・コリアのこともそれで知った。

大体のCDはレンタルの店にせっせと通ってカセットテープにダビングしてウォークマンで聴いていた。ジャズやロックはイトーヨーカドーの一角だったか新星堂だったか輸入盤を安く手に入れることができ、バイト代でせっせと集めた。

東京に出てから多くの時間を費やしたのもレコファン、池袋HMV、シスコ、渋谷タワーレコードなどだった。新宿レコファンでバイトしたかった。よく通ったカフェもずっとジャズが流れていたがあれはどこだったか。

日本での公演情報も目にしていたけど当時の私には高かった。ブルーノートには憧れ続けた。今思えばハードロックのライブにはすごくお金をかけたのだからチック・コリアもいっておけばよかった。大人の世界と思って敬遠したのだろうか。

BGMとして聴いていても時折焦燥感をもたらすのが私にとってのジャズだったけどジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク、そしてチック・コリア、彼らは違った。聴き続けることができた。

生き続けている、そういう錯覚は聴き続けることができるという身体感覚と無関係ではないだろう。数年経ってチック・コリアの名前を聞いたときに「あれ?亡くなったんだっけ」とか言いそうだ。

昨晩のような地震があると、3月11日が近い、という感覚とともに過去に再接続される自分がいる。誰かの死を抱え込んで生きている、という感覚は以前このブログで墓の俳句と土居健郎に触れたときにも書いたと思う。

こころを抱えこころに抱えられて生きている。

地震が続きませんように。