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忘却と疲労

ブラインドの傾きを変えると部屋が少し明るくなった。でもほんの少しだけ。今日も雨。のっぺりした薄いグレーの空が遠くの方まで広がっている。色々なところで色々な音を雨がたてる。降りこんでくる感じではないので窓を開けたままにする。

この一年以上、移動範囲、行動範囲をごく限られたものにするという不自由に驚くべき順応力で、それぞれが「我慢」をし、新しいウィルスに、というか事態に対応してきた。

保育や介助、介護が必要な世界では物理的な距離を取ることはそれ自体が相手の生死に関わる。それでも見えざる力による行動制限のなかそれらを行うことはこれまでごく自然にされてきた「ケア」に対しても躊躇や再考を促した。赤ちゃんを抱っこしないことなどありえない保育園を巡回している私も保育士の皆さんとさまざまなことを話した。身体に関われなければなにもできないという苛立ちや焦燥感は、ニードとニーズの境界を明らかにした側面もあるかもしれない。ここで今、自分ができることはなにか、関わらねば死んでしまうとしたらなにをどうやって?関わらないでなにかを成しうるならどうすれば?

触れたそばから拭き取られ消毒を求められる日常は、私たちの生活の一部をひどくのっぺりしたものに変えた気がする。今朝の空みたいに。「しかたない」という言葉が理由になる日常で、どうにか、少しでもできることをともがくのはひどく疲れる。しかしそれをしないとコロナにかからずとも生活が危うくなるかもしれない。どうすれば、どうすれば、と頭を働かせようとすればするほどぶち当たる無力感。もうどうしようもないのでは、という疑念が確信に変わっていくのを感じつつもそれを止めるにはあまりにも希望が足りない。あまりに自由が足りない。だんだん頭がぼんやりしてくる。オンラインで笑いあって画面を閉じたあと、また空虚と出会い無表情の自分と出会う。まるで生きるか死ぬかの二択を常に突きつけられているロボットみたい、と感じることもあるかもしれない。でも私たちにはこころがある。といったところで「こころ」って?と思うなら感覚でもいい。とにもかくにも私たちはひとりひとりみんな違う。感じるのは自由なはずだ、と自分で自分に言い聞かせる・・・

人間にあってAIにないもの、世阿弥において無主風から有主風を生み出すもの、それは忘却と疲労だと能楽師の安田登さんはおっしゃっていた。記憶については私もこの一年で数冊の本を買った。多方面からの知見が続々と積み重ねられている領域だ。しかし、なるほど疲労か。人間を人間たらしめているもののひとつにそれがあるとしたら、私たちは見えざる力による制限に疲れ、ぼんやりと曖昧な状態にあることでカッコつきの「正解」に向かって突き進むことを回避できているのかもしれない。

「疲れた」、この言葉がこれだけたやすく共有できた日々などあっただろうか。すぐに励まされたりなにかいわれることなく「ねー」と疲れた声を出しあえる基盤をこの事態はもたらした。「消毒疲れ」といっても説明なく通じるようになった。「疲れた」、力なく、ダラダラと、無力と疲労を表現すること。私たちはそうやってこれまで積み重ねてきた記憶が新しい情報や枠組みに乗っ取られることから自分を守ってきたのかもしれない。新しい情報は進化において定着してきた記憶よりも忘却されやすくはないだろうか。今日の稽古も疲れた。もう途中から師匠の言葉が入ってこなくなってしまった、でも身体は動く。自分には染み付いた記憶がある、と。

それぞれのペースでそれぞれの日常を。取り返すというよりは少し別の仕方でぼんやりと過去に浸りながら。変えられてしまうのではなく急がず少しずつ変わっていく自分を感じられたら。多分、この期間、それぞれがなんとかやってきたという事実が支えてくれる。そうだったらいいなと思う。

ちなみに安田登さんの新刊『見えないものを探す旅ー旅と能と古典』もおすすめです。試し読みはこちら