「だけど精神分析はフロイトを読まなきゃできません。フロイトを読まない人は精神分析はできません。ここが違います。」
と藤山直樹先生は『集中講義・精神分析 上 精神分析とは何か フロイトの仕事』(岩崎学術出版社)で書いている。私もそう思う。なのでもう何年もフロイトを読み続けている。コロナ禍に安くてオンラインの読書会がたくさん開かれるなか、私はコロナ以前から小さなオフィスで対面でフロイトだけを音読、精読する読書会を主催してきた。これだけ丁寧に読む会はあまりないと思う。少なくとも私が体験してきた会にはなかった。精神分析そのものを体験、実践する人は少ないが、私はせめてフロイトを対話的(「対話」って嫌いな言葉になってしまったが)に読める人を増やしたいという気持ちを持っていた。分析家の先生たちと「フロイトだったら」という話をするのは楽しい。時代が違うのなんて当たり前で実践においてそれらはすでに古典で、そのまま受け継いでいる人はいない。それでも現在の精神分析を作ってきたのはフロイトと、そして患者と素手で取り組んできた人たちであり、それをしなかったら精神分析は生きている何かではなく部分使用される古物みたいになってしまう。まあ、特になくなってもいいと思っている人も多いとは思うが、現在も長くて高いこの治療を受けている人たちがいることも忘れないでほしい。相変わらず苦しくても以前よりずっと楽な自分で生きられるようになったという実感を得ている人がいることも事実である。彼らは週の半分以上、分析家のところへ通いながら今の自分を認識するということがどのくらい困難かを知り、その困難を通じて出会った自分のどうしようもなさに絶望しながらもそれまでよりずっと楽だと感じ、実際に外側での適応は自然とよくなり、大きくは変われない自分ながらも人を頼り人を憎んでも関係が切れないことに安堵し以前よりずっと人(自分を含む)を信頼しながら安心して生きている自分を発見する。そういう人たちの信頼が精神分析を生き残らせてくれているともいえる。やはり地道な実践ありきだなと思う。フロイトと真摯に向き合える人も人に対する信頼感が高めなように感じる。たいして読まずに批判めいたことをたやすく呟ける時代にそんなことは当然せず、自分がやっている「精神分析的」臨床とは別のものとして、しかしそれを振り返るものとしてフロイトの言葉を聞くように読み「精神分析だからこうなるのか」という発見を素直にしている様子をみるとホッとする。今年度の私のReading Freudの回は「ねずみ男」と呼ばれる症例について書かれた論文から読み始めた。1909年出版の5大症例のひとつである。あ、洗濯物ができてしまった。今日はいいお天気みたいだから干しっぱなしでいきたいから干してこよう。フロイトは自宅で精神分析を行っていたので患者はフロイトの生活の断片と出会っていた。「ねずみ男」と呼ばれたこの患者はフロイトにとってかなり特別な患者でフロイトに食事まで出されている。それだけでなく最初からややこしいことをたくさんしているこの治療は詳細な記録が残っている唯一のもので今だからわかるフロイトの限界を知ることができるという点でも貴重だ。私はまず生活、そして仕事、今日もその繰り返し。がんばろう。