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精神分析

みかん、未完、逃避

雨の音。車が水を巻き込みながら走る音が聞こえる。なんとなく聞き入ってしまっているうちにもうだいぶ時間が経ってしまった。山口県のみかんを食べることにした。むいてきた。甘い。なんというみかんだったか。何度か口にしているし、さっき見たばかりなのにもう忘れてしまった。みかんを噛む音で雨の音が消える。みかんの汁は口の中を濡らすにはとてもいいけど雨みたいに降られたら嫌だね、ベタベタになってしまう。どうでもいいことを考えながら食べ終えてしまった。また雨の音。

週末、あまり行かない街を散歩していてインスタでフォローしている本屋さんや雑貨屋さんの実物を見た。なんか知っている名前、と近づいてみて調べてみたらフォローしてた、みたいな。こんな小さい本屋さんなんだ、すごくいい場所にあるんだな、あれ、入り口は小さいのに中が広い。お客さんもたくさん、などイメージはどんどん塗り替えられ、そこがそこでどうして営みを続けていられるのかを知った。文脈って大事だ。南方熊楠は「未完の天才」といって途轍もない範囲で膨大な量の仕事をしたが何を成し遂げた人かと聞かれたら答える方は困ってしまう。熊楠は生活の糧のために何かをしていた人ではないから、ということもできるわけだが形にすることが必ずしも何かを成し遂げるということではないわけでこれだけのことをやって生きて死んだのだから存分にやり遂げたともいえる。自分が研究対象になっている時点で成し遂げないことで成し遂げることを目論んだ人なのでは、無意識でと思ったりする。精神分析だった同じだ。ゴールは特にない。自分の中に変数が増えていくばかりでそれがいい感じで動き出せば人生は結構いい感じだ、と思える、ただそこまでが途方もなく感じる、というやつ。何を書いているのか。色々無になることで考えないようにしているうちに現実の方が近づいてきた。はい、ここまでですよ、ここから先はやるしかない以外に進むことはできないし戻るという選択肢はありません、という現実。世知辛いわー。でもね、人はそこからまた逃げ道を見つける。でも少し先に進む。だってそれしかないのだから。こういうところはうまくできてるよなあ、人間も、環境も、と思う。環境は変えようがないものあってそれは本当に辛いことなのだけどあえて自分で作っていく環境というのもあるので、そこだったら本当の本当に追い詰められたり破壊されたりすることはないので練習場所にできる。逃げまくったり失敗しまくったりしてもどうにかなる世界。赤ちゃんの環境を広くしすぎないこと、目が届く範囲、手が届く範囲であることが大切なのと同じ。赤ちゃんはこれから育つためのパターンを身に付けないとだから精一杯自分を出しまくってこの先はいけないのかとか学んでいくわけだけど大人は自分を出しまくるのはかなり限定的な場所でやってそういう限界を学んで同時に自分の可能性を知っていく必要がある。どうせ自分は、とかいったところでどこにもいけない。が、どこにもいきたくない場合もあるのでそういう言葉が悪いわけではない。あ、また書き続けてしまった。逃避だな。がんばりましょう。