多くの同業者の実感と違うかもしれないけど、学校や病院みたいな他職種のみなさんの中にいると心理職はいいとこどりというか立場を曖昧にしておけるミステリアスな存在だと思うんだな、私は。それに対して外部に伝わりやすい名前をつけないと給与面での交渉はできないと思うけど、とりあえずそう思う。
一回30分とか50分とかいう枠のあるところもあるけど、なくてもやれることはたくさんあるし、隙間産業という人がいるのもうなづける。私が今、しっかりした設定の精神分析臨床をプライベートなオフィスで営めるのは、これまでのいろんな現場での流動的、中間的、ある程度可塑的なあり方を許容されてきたからだと思う。そこでの試行錯誤がないまま開業したらなおさら「精神分析とは」みたいな迷子になっていたかもしれない。
心理職は、家族と違うのは当たり前だけど、教師や医師や看護師とも違って、「心理教育」はするけど叱ったり、お説教したりする親役割をとることはない。どちらかというといいお兄さん、お姉さん、おばさん、おじさんみたいなちょっと立ち位置をずらした曖昧なところにいて、生徒や患者から「先生にこう言われた」とか愚痴や不満を聞いて、気持ちの一時預かり所みたいなことしながらお互いの仲介のような役割をとったりしていると思う。
しかも病院とかだと来院してはじめてそういう立場の人(心理士)がこの集団の中にいるってことを知った、というような患者さんも多いわけで、いつもは背景に紛れていて、必要とされたときにふわーっとそこから現れでてこられるような仕事だと思うのだ。前に別のところでも書いたけどスクールカウンセラーが週一回という設定なのも逸脱を防いだり、必要な子に開いておける仕組みになっていると思う。もちろんこちらの活用の仕方次第だけど。
私は組織内の心理士としては、ミニマムな存在でありながら使われるときは勤務時間内にしっかり(持ち帰りとかはせず)役割を果たす、という移行対象的な存在でいたい。(しつこいけど)勤務時間内にその人の固有性にちゃんと使用され、しばらくしたらその人にとってはもう必要ない存在にきちんとなるべく、中立性とか平等に漂う注意とか精神分析が大切にしてきたことをどこでも大切にする。
こういう存在に名前をつけられれば仕事として成立すると思うけどこういう考え方は少数派かな。ある意味、社会から少し逸脱した場所で、役割ありきではなく、荘子の「哀れみ」のような、人を基礎付ける何かを大切にできる存在として動きすぎず静かにそこにいながらしっかり使われる、心理士としては(分析家とは違ってという意味)そういうことを続けていきたいと思ったりしています。