お湯を沸かして残りのカポナータを温めてゴミ捨てにいった。涼しい。昨晩はタオルケットでは寒いくらいだった。雨は上がっていたが湿気がすごい。鈴虫。通りにはまだ誰もいなかったが家の中で人々が起きているような気配があった。今日は隣の家の窓が開いていない。土曜日だから少しゆっくりなのだろうか。ゴミ箱はすでに結構いっぱいだった。開け放したままの玄関に戻って昨日面倒で捨てなかった除湿器の水を捨てた。いっぱいになっていない。しょっちゅうかけていたからか。でも表示は湿度76%。この数字の方が溜まった水の量よりリアルなはずもないが体感はこっちに近い。空気はどれだけ水を閉じこめておけるのだろう。溢れてこぼれ落ちたものが雨か。メタファーとしても涙と近い。再び除湿器をONにした。「ワイド」「4時間」、あといくつか設定があったが変えるのはタイマーくらいだから忘れてしまった。
なにもする気がするせずただ眠れなかったというだけの寝不足をなんとか取り戻した。元々睡眠時間は長くない。どこでも眠れるからだろうか。昔は電車のドアの隅っこに立ったままガクンってなることも多かった。見かねて席を譲ってくれた人もいた。年上の人だった。「ベッドで寝なさい」と言ってもらえるのは子どもだけか。大人になってもそういう部分は子どものときのままという人もいるか。そうやって親と子供みたいなパターンになっていくこともあるのかもしれない。自分の性質の強い部分を強化する相手は対象として選択されやすいだろうから。
先日、音楽評論家の方にこのブログを引用されてびっくりしてしまった。閲覧数が平均より増えるとなのかなんなのかわからないのだけど通知がくるのだ。「読まれてます!」という通知はnoteだったか。いろんなところに書き散らしているのでそれぞれの文言を忘れてしまった。引用はその方の記事について書いたからに違いないけどその人のだから、と辿ってきた方々にこんな文章でなんだか申し訳ない気もした。きちんと考えて書くような文章は公にしない文章の方が多い。考えたからといって大した文章が書けるわけでもないが姿勢として。考えるでもなければ溢れてくるとか?というわけでもない。キーボードに手を置いて起きたばかりのことを書き始めると自然に浮かんでくる他愛もないことを書いているだけだから時間切れで突然終えてしまうことも多い。でもその人の記事がとてもよかったということが伝わったのならそれはそれでよかった。そういえば昨日はすごく久しぶりにブログを書かなかったな、と思ったら書いていた。寝ていなかったから時間軸が狂ったのかもしれない。
少し前に『中央公論』2022年10月号掲載の大山顕さんの文章を読んだ。漫画『東東京区区』のかつしかけいたさんが写真の色づけに関して紹介していた。
寝なかったその日にベッドで一瞬見た夢がカラーでも白黒でもなかった気がしたのとインスタで結構見かけるモノクロのポラロイド写真の数枚が重なって思い浮かび、写真の色づけに連想が飛んだ。
大山顕さんは写真家だ。記事はネットで途中まで読めるが私は全文を読みたかったのでKindle Unlimitedで読んだ。「戦前・戦争写真のカラー化は何を見えなくしたのか――色づけが生み出すスペクタクル」という記事である。写真に残された記憶を色付けによって現在の自分たちと「地続き」「身近」にすることについて彼はこう書く。
ー「地続き」「身近」にしないことの重要性があるのではないか。自分に引き寄せて感じたり考えたりすることは、いつでも良いことなのだろうか。遠く隔たったことを、そのままにして考え続けていくことが重要な場合もあるのではないか。そうでなければ、「当事者」が最も「正しく」なってしまう。ー
夢はどちらにでもになりうる。見たのは眠っている自分だけで最初から「正しく」などありようがない。
触感が強く残った一瞬の夢だった。精神分析状況は夢見と覚醒を行き来する場だ。今日はひたすら覚醒している必要がある時間があり言葉を信じて使う必要もある。勝手に自分たちと「地続き」にしない。私はそれを心がける。