うむ。ラベリングというかその出来事をなんと呼ぶかで事実認識が変わってしまうことは多々ある。私の仕事でいえばなんでも「アスペ」というとか。対話でなら「どんなところをそういうふうに」と聞けば解きほぐされて別の言葉になっていくわけでプロパガンダのような言葉にたやすくのっからないようにせねば。SNSは批判によってその言葉を知らしめてさらに使い勝手をよくしてしまうところがあるから怖い。
雨ですなあ。嵐になると聞いていたのだけど嵐はこれからでしょうか。滑りのよい南側の大きな窓をそっと開けて確認。あ、サンダルを避難させねば。使っていない陶器の鉢にポン。いい陶器だけど何年も使っていないからこんな入れ物扱いされている。いやいや、サンダルは大切な日用品。しっかり守ってあげねば。このサンダルが遠くに行ってしまっていないということは嵐はまだきていないということ。交通機関、乱れないといいですね。
問題を解きほぐした言葉で記述しなおし、それを歴史に位置づけ、記録されていない声の方、そしてそこには沈黙も含まれることに注目し、それらをたやすく「トラウマ」と呼んだり過度にイキイキした記述にしないように気をつける。
そういうことをする中で石原真衣のアイヌ研究、赤坂憲雄の東北学はとても勉強になった。東日本大震災の前に書かれた『東北学/忘れられた東北』の意義はますます大きい。昨年岩波書店から出た文庫は5本の論考を加えての再版で著者曰く「定本」とのこと。増補5「旅と聞き書き、そして東北学」には当時、福島県立博物館の館長として震災の記憶を記録するために奔走した著者が職を解かれたという記述に驚いた。しかし著者は奥会津ミュージアムという幻想のミュージアムを立ち上げる。今それはウェブ版で見ることができるのだがこの集積場(アーカイブ)について、特に災害との関連でそれについて考える際に参考になる本にも出会った。高森順子『残らなかったものを想起する──「あの日」の災害アーカイブ論』(堀之内出版)。この本はそもそもアーカイブとは、という視点を持ちながらメディアごとの実践が具体的に披露されている。したがって執筆陣も多様だ。アイヌ研究者の石原真衣は「語り」によって当事者の声を残しているが、アーカイブのあり方にも慎重であり、アーカイブとはなにか、何を成し得るものか、あるいは何をしてしまうものなのか、という視点は当事者を中心に考えながら立ち上げていく必要があるのだろう。記録は消費でもあるため何かをしゃぶり尽くす人を自分がしゃぶり尽くそうとしているということも生じやすい。その意味でもどうやったって想起されないものたちへの静かな関心も維持されるべきなのだろう。いろんなことが大変で難しいがまずは春の嵐に対してどうしましょう、という感じの空模様になってきた。毎年のことのはずなのにいつも同じ戸惑いばかり。どうぞご無事でご安全に。