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俳句

石川啄木って

はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

石川啄木

ひとしごとして石川啄木のことを書いていたら寝てしまった。寝よう。

起きた。コーヒー&羊羹。昨日は八つ橋をいただいたのでそっちにしようかと思ったけど可愛いオレンジ色っぽい羊羹にした。羊羹って自分では買わないけどいろんな羊羹があるんだね。美味しい。

句会で毎回お題を出すのだけどこの前私が出すことになってなんとなく「啄木忌」にしたの。学生の頃、友達の函館のご実家に遊びに行ったときに友人の父親がドライブに連れて行ってくれてその時に立待岬にある啄木のお墓を教えてくれた。函館を満喫した旅だった。イカもさばいたし。イカ釣り船はすごく酔うからやめときなと言われてやめた。多分そのときのことがどこかで心に残っていたんだと思う。でも実際俳句を作ろうとしたら私啄木のことそれ以外何も知らないのでは、と気づき色々調べてみたわけです。そしてあーこの人は結構ダメな人だなあと思ってしまった。色々あったのはわかる。でも全ての人に色々はある。なぜこうなっちゃうの、ということが多すぎないか、啄木。そして父。女たちのことは彼らの行動を受けてどう行動したかという描写の方が多いのでよくわからないが、啄木に関してはもうちょっと考えて行動しようよ、というエピソードにあんぐりした。樋口一葉と同じで20代で亡くなっていることを思うと若さのせいもあるだろうし才能があり過ぎたからからというのもあるかもしれない。そうかもしれないが、若くても若くなくても才能があってもなくてもそれはそうなるという予測は大抵の人はつくからやらないんだと思うよ、ということをやり過ぎているように思うよ、啄木。でも友達や周りの人に恵まれたみたい。若山牧水が啄木の臨終間際の様子を書いている文章を読んで泣いてしまった。金田一京助もその間際までそばにいたのだものね。看取ってくれる人がいるのはせめてよかったと思うけどそこには父もいたんだよね。そして妻(啄木の母)をなくしたばかりなのに子まで失うとは、という和歌を読んだという。これも若山牧水の文章に書いてあったのかな。調べたばかりなのにどこに何が書いてあったか忘れてしまったけどそういうエピソードを学びました。

だから俳句の歳時記とかで「啄木忌」の例句はこういう感じなんだなあと納得した。

便所より青空見えて啄木忌 寺山修司

うつうつと夜汽車にありぬ啄木忌 藤田湘子

など。

啄木忌は4月13日。その日は盛岡にある啄木記念館は無料だそうです。盛岡を旅したときに行けばよかった。盛岡駅からバスで15分って書いてあったかな。その前に俳句を作りながら啄木をしのぶことにします。

今日は水曜日。なんとなく疲れを自覚しはじめる曜日ですね。みなさんもどうぞご無事で。ご安全に。

写真はこの本より引用。

『情報の歴史21–象形文字から仮想現実まで』

監修:松岡正剛監修

編著:編集工学研究所&イシス編集学校

発行者:編集工学研究所

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コミュニケーション 散歩

カフェとかで

早朝、海外から届いたメールにほっこり。普通の目で見たら昨日は何も進まなかったけどveryスモールステップの目で見たら「そういえばこれをやった」ということをひとつ思い出した。ほっこり効果。暖房をつけると白桃烏龍を飲む前に暖まった。白桃烏龍を飲んだらあっつくなった。朝の気温が上がってきたんだね。

午前中、時間があった日にのんびり散歩をした。道端のかわいい看板に惹かれて入ったカフェがとても素敵だった。隣のカップルはバスで砧公園にいくと言っていた。砧公園は世田谷美術館があるところだけどとても広いし大きな桜の木も何本もあって本当に素敵。この前行ったけど藤原新也の展覧会がもうとっくに終わっていたことに驚いた。私が行ったのは一月はじめだったか、忘れてしまったけどもうあれからこんなに時間が過ぎたのか。

そうそう、砧公園を出て高級住宅街をしばらく歩くとひっそりと社会福祉法人が運営しているカフェがある。私が行ったときはダウン症の方が配膳をしてくれた。「彼の練習のためにお時間いいですか」ととても優しい声の女性に聞かれた。素朴でのんびりした時間を過ごしたけど他のテーブルにコーヒーをおこうとした彼がソーサーを持つ手がどうしても斜めになってしまい「危ない危ない」と言われながらお客さんたちに手伝ってもらっているのをみながら彼が運びやすいカップはどんなのかなあなど考えていた。そういえばお散歩途中に寄ったかわいいカフェのカップとソーサーはとってもおしゃれだったけど色が違うこともあって「これセットなんだよね」と思わず確認してしまった。不器用な私にはよくあることなんだけどこの日もカップの持ち手に指を入れるときに大きくユラってなっておー危なかったーとなった。私に持ちやすいカップ&ソーサーってどんなのだろう。

さあ、今日も長い。みんなはどうかな。それぞれのペースを模索しながら無理せずやれるといいですね。鳥たちは今日もマイペースだなあ。実はそうでもないのかなあ。ではまた。

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精神分析

樋口一葉の記念館へ行った

月曜日。朝イチで速達を出しにいくこと。ひとつ苦手な仕事を終えた。眠い。

台東区立一葉記念館へ行った。場所は『たけくらべ』の舞台となった龍泉寺町、現在の地名は台東区竜泉。日比谷線入谷駅から歩いたがウェブサイトにはお隣の三ノ輪駅の方が最寄りとある。日比谷、入谷は韻が同じなので何度か聞き返した。樋口一葉を取り巻く人々の中でも韻が同じ人がいてそれも何度か聞き返した。一葉には歌塾「萩の舎」で出会った伊藤夏子という友達がいた。一葉の本名は「奈津」だが和歌の筆名は「夏子」だったようで周りには「伊なっちゃん」「樋なっちゃん」と呼び分けられていたというエピソードもよかった。「萩の舎」に入った頃の二人はまだ15歳くらい。一葉は24歳でなくなったのでそれから10年ほどしか生きられなかったがその間に書かれた作品の多さにも驚くし、一葉が体験した苦労にも驚いた。これについては昨年、中央公論新社から伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』という面白い本がでた。装画は丹下京子さん。句友でもある京子さんのイラストはユーモラスでほのぼのしててとても好き。

今一葉記念館では企画展「樋口一葉と和歌 ―かなの美―」が開催されており「萩の舎」で一葉が交流した人たちの和歌も見ることができる。私には自力で読みとることができないくずし字だがとってもきれいな字でどの短冊も美しく文字も絵画と同じように楽しめるものだなあと思った。一葉の記念碑もある記念館の前の公園はソメイヨシノがチラチラと散っていてご老人が犬に盛んに話しかけているのを耳にしながら写真をとった。iphoneだからなのかもしれないが写真が光で白っぽくなることが増えた。季節が進んでいるなあと思った。素敵な時期に行けてよかった。

その後の小さな句会では司会をしてくださった方がなぜか突然告知タイムをもうけてくれたことでその方もびっくりのお知らせをふたつも聞くことができた。句友のみなさんは賞をとったりしてもあまり自分から発信されないけどこうしてみんなで驚いたり喜びあう機会があってよかった。

いろんなことがあるけれど素敵なこともありますように。新しい1週間もなんとかやっていきましょう。

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精神分析

地獄、花曇

熱田の宮まんじゅうは何にでも合う。今日は大好きな白桃烏龍と。

なんでまた自分だけ子供になって散々嘘ついてる相手にいい子いい子してもらってるわけ、本当に毎回毎回よくそういうことできるよねといえばそういう人だからああいうことが起きたんでしょと嗜められる。

いろんなことは矛盾しているようで矛盾してないんだよ。こっちの矛盾はあっちでは矛盾ではない。投げやりな謝罪はいつのまにか「あんなに謝ったのにいつまでいってるの?自分だけが傷ついたと思ってんの?馬鹿じゃないの?」くらいに変わってるもんだよ。何が起きても「お互い様」ってやつ。人がたくさんいるってそういうことじゃん・・・。

そうなの?だから毎日「地獄だな」と思っちゃうのか。地獄知らないのにしっくりくるのはあれは人間の世界をかなり正確に切り取ってるからか。本当の裁きの場に持ち込む負担はものすごいから避けたいとしてもどうしても仮の裁きの場がほしくなるだろうしね。でも地獄ではなぜか裁かれるのはそこに出向いちゃった方だからずーっと煮たり焼いたりされながら死なずに生きることを求められて「でも大丈夫、神様がいるよ」みたいなノリに半笑いしながら疲れた心身を委ねることもありうるよね。自分の罪も抱えながらずっと絶望してればそうなるか・・・。半分死んでるような状態がこれからもずっと続くのか。本当に辛い。

ということを素直に言える相手がいるとしたらそれはやっぱり人がたくさんいるってそういうことなんだなと思えるかもしれない。でもいえない人はどうだろう。人を壊すのは孤立だという人は多い。人間誰しもひとりとはいえ「本当にひとりだ」と感じる出来事が起きない限りそれは日々の色々に紛れてそんな際立ってこない。じわじわと忍び寄るその感覚を自分でかき消し誰かの心身を傷つけてでも「そんなはずはない」と思い込もうとする機制も人は持ってる。自分で自分を欺く。本当に矛盾だ。そしてそれは矛盾ではない。地獄でケアを語ることだって可能だ。殺した相手のうめき声を聞きながら次なる相手の相談にのっていた事件もあった。「そんなことする人に見えなかった」と聞くとき「だったらどんな人だったら」と思う。戦争をしているのも同じ人間だ。なんだって自分とは無関係ではない。無関係だと思えるとしたらたまたまそう思える環境にいたということではないだろうか。そこには被害と加害という単純な言葉では捉えられない犠牲も献身も愛も憎しみもある。今日もぐちゃぐちゃの気持ちを抱えながら「日曜日なのに」と文句を言いながら(あるいは言われながら)自分ではどうにもならない「これ」をどうやり過ごそうか。自分ではどうにもならないのだから願うのみか。祈るのみか。

昨年、九品仏でみた紅葉が見事だった。総門を入ってすぐの閻魔堂にはそれなりに人がいた。あの辺は桜もきれいかもしれない。閻魔堂、地獄を安全に外在化させている場所といえるだろうか。あるかどうかわからないものを外在化というのは変だけどこころだってそういうものだろう。私はあの日門に近づくにつれ見えてきた紅葉に一瞬強い苦痛を忘れた。人がたくさんいる世界にはたくさんの人工物も自然もある。どうにかこうにかやっていこうとする人ができるだけ安全にそれらに守ってもらえたらいいなと思う。

今日は花曇。良い一日を。

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散歩 読書

「あー」

4月1日になってしまった。昨日終わるはずのことが何も進んでいない、ということは・・あー。もう毎日「あー」だよ。いってるだけでなにも進まないじゃんね。人には原稿催促とかしてるのに。いけない。

昨日、夕方オフィスのそばを歩いていたら途中の駐車場でお財布(たぶん)をポーンっと空高く投げた人がいた。「たかっ!」と思って横目で見ながら通り過ぎるとその人はそれを上手に受け取って何事もなかったかのように車へ入っていった。大人になってもやるんだねえ。そんな気分になったんだねえ。どんな気分だったんだろ。駐車場でお金払ったあとについやってしまう癖とかなのかな。私は長らく何かを空高く投げてないな。子供たちと遊ぶときはやるけど。小学校からの帰り道、給食袋とか投げながらみんなで帰った気がする。あれ投げやすいもんね。その人を見ながら小学生のときたまたま目に入った手頃なサイズの石をそれがドブ川とかに落ちちゃうまで蹴りながら帰ったことも思い出した。

今朝は東海道土産の「宮まんじゅう」をいただきます。これスタバのナッツのクッキーと味が似てるの(と私は思うの)。熱田は古称が「宮」で熱田神宮の門前町、東海道五十三次の宿場町。東海道をずーっと歩き続けている人からのお土産。箱に書いてあるのは廣重の浮世絵。夜の馬追い神事なんだけど最初見たとき、何かの戦いかと思っちゃった。美味しいですよ、コーヒーとも合います。スタバでも和菓子出せばいいのにね。おー、熱田にスタバある!「ミュープラット神宮前店」。私なら店舗限定でコラボするな。あとひつまぶしの何かとかと。昔、熱田に行ったときに蓬莱軒というひつまぶしのお店へいって待ち時間に熱田神宮を散歩した。そのあとも学会で名古屋に行ったときに行ったなあ。そのときは名古屋に住んでる友人ご家族にも美味しいものご馳走してもらったんだ、そういえば。いろんな土地の食べ物をその土地でいただくって贅沢ね。冬は南へ、夏は北へ、春は真ん中らへんと日本全国旅してきたけどまだまだ全然知らない食べ物がたくさん、ということはわかってる。お仕事がんばって備えなくては。胃腸も丈夫にしなくては。これは無理だな。でも大丈夫。昔からだから不調の時の対処に慣れているのですね。合う薬を持ち歩くとか。あとはどのくらいそれが対処すべき不調かもわかるようになってるかな。わからないときもあるけど。

3月は高橋ユキさんの『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う 』(小学館)の文庫版が出てすぐ買って読んだけど(特製しおりも素敵ですよ)、そこで取材中の高橋さんがおなか痛くなっちゃう場面があるのですよ。あそことても共感した。私も以前はいろんな現場を回ってたからはじめての場所でそうなるとほんと困りますよね。緊張とかもあるのかしらね、と思うけど。この本は本当に面白いですよ。高橋さんもいっていたけど誰にも共感できない。理解しようとすればするほど謎が増えていく。人間をきちんと捉えようとしてその単体ではなく出来事を含めながら追っていくとこういう感じになるんだなあと臨床家としての実感とも相俟って何度もパラパラしてしまう一冊になりました。おすすめ。

しまった。熱田神宮の門前、ということでベルクソンの門前にたったぞ、ということを書こうと昨年たくさんでたベルクソンの本とかイベントのあれこれに思い巡らしていたのに全然ベルクソンのこと書いていないじゃないか。いつものこととはいえここまで一言も触れてないとは(見返した)。あー。毎日「あー」ではじまる朝なのです。4月もきっと色々ありますね。あーとかうーとか言いながらなんとかやれますように。どうぞお身体は優先的にお大事に。

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あれはなんだったんだろう 散歩

絡まる空回る、でも。

31日になってしまった。どうしようどうしよう。あー。と言っていてもやるしかないのだけど。あー。

今日は暖いですね。バタバタ動いたからかしら。暖かいといいな。今年も北沢川緑道をお散歩しながらお花見をしました。シモキタはどんどん変わっていくけどここはあまり変わらない。整備はされたけど自然っていうのは変えようがないというか人間が作るものとは変わるスピードも違うし人間の勝手で変えようとしてもなかなか難しいからバッサリ伐ってしまおうみたいな発想になるんじゃないかしらね。本当にひどいと思うけど。何様、と同じ人間なのに思う。同じ人間だから何かできたらいいのだけど。むー。なぜにこんなに無力。

人間に対しても何もできないのが基本だなとは思う。相手を変えることはできない。どんなに苦しくても相手を消してしまうことはできない。相手はこちらを意識から消してしまったりできるみたいだけど、と思うときほど苦しい。事件化されていない多くの事例で何が人を傷つけるって知らないふりなかったふりされることですよね。というかこの人は自分がしたことに対して問題意識を持つことにどうしても耐えられないし、相手の気持ちを想像する負担に耐えられないらしいということに気づいてしまうと絶望しかない。何事もなかったように自分の存在を認めてもらうことに専念しほしいものは手に入れる、そういう努力は惜しまない姿を見るのは苦しい。一方なかったことにするにはそのくらいしないとというのもあるのかもしれない。美味しい想いをしつづけながら誰かから搾取したことをまるでされた側の妄想みたいにいったり人の身体を傷つけたのに被害を受けたのは自分だといったり。そしてこういうことは第三者からは「よくあること」と言われたり。悲しいことに本当に変わらない、こういう世界。うんざりで悲しくて救いがなくてでも支えはあって。でもその支えだって色々で。絡まりつづけ空回りしつづけでもなんだか続いていく毎日。耐えられないのに進んでいってしまうから耐えてるような感じになってる毎日。こうやってなんとか引き伸ばされているような時間とか命とかを「だったらいいじゃん」で済ませてしまわないように今日も目の前の相手との責任や色々を忘れてしまうことがありませんように、と自分に言い聞かせる。責任と尊厳。意識していけたらと思う。

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精神分析

けん玉、布マスク、ポストコロナ?

紅茶の抽出時間中、ごちゃっとしたテーブルのオレンジの陶器の入れ物にさしてあったけん玉をなんとなくやってみた。一回で真ん中に入れるのに成功。私、これだけ得意。この真ん中にさすのって名前があるのかな、昔なんか言ってた気がすると思って検索したらありました、玉をけん先にさす技=とめけん。そういえばけん玉って剣を玉にさす遊びなんだよね。これが剣であることを忘れとった。お、そうか、最初からwikiを見ればよかったのか。日本けん玉協会のサイトが先に目にはいったからそっちをみたのだけど面白いよ、いろんな技がある。「とめけん」はこうやって膝曲げないと合格にならないのかな。私は小手先だから不合格かも?こんな朝に一発で入れたのに?もしそうだったらガーン。

さて、wikipediaの「けん玉」には

けん玉(けんだま)は、十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」で構成される玩具。日本をはじめ、世界各国で遊ばれている。なお表記には剣玉、拳玉、剣球、拳球などがあるが、21世紀初頭では「けん玉」が一般的。

とあります。へえ(読んでる)。

けん玉、オフィスに置いておいて練習しようかなと思ったけど注意力ないくせにそれだけ集中しそうだからダメ、と思って元の場所ではなくごちゃっとしたテーブルの上に置いたら昔小さい子がビーズで作ってくれたヘアゴムがあった。布マスクはもういらないかな。短期間だけど大変お世話になりました。不織布不織布ってなってからはオンラインでも売り切れ続出だった布マスクの受容もあっという間になくなっちゃったね。誰もがはじめて体験する事態では何が正しいか間違っているかなんてわからないからいろんなことが起きた3年近くでしたね。布マスクをオンラインでみているうちにそれまで何度か利用していた着物のはぎれでスカートを作ってくれる個人のサイトが閉じていたのに気づきました。とても残念。どのスカートもいつも周りの人に褒めてもらっていました。ありがとうございました。お互いの住所と名前を知っている関係だけど一度もお会いしたことはないしこれからもお会いしないのでしょうね。不思議。私は旅好きだから旅先ですれ違ったりするでしょうか。そのスカートはいてたら気づくかな。いつもバックパッカー旅だからスカートはかないけどその土地へいく機会があったらはいてもいいかもしれません。

昨日も渋谷の混雑について話しながらこの3年近く、この街にいかに人が少なかったかを実感した。慌てて行かなくてはいけない場所にもスイスイいけた。今は歩くスピードも混雑に委ねるしかない。でもコロナ前だってそうだった。コロナで仕事も家も失った人たちにもお会いした、しばらくして会えなくなったりもした。突然の転校や転居を強いられた子どもたちもいるし、突然会えなくなった人たちもいた。今はみんなどうしているだろう。また会えるのだろうか。多分会えない。生きていれば?元の生活に戻っていれば?どうだろう。悲しいけどそれは本当には「元」ではないから難しいかもしれない。でもどこかですれ違うかもしれない。そう思うのはこれまでも偶然びっくりするような場所で友達や知り合いとすれ違うことがあったからかもしれない。地元に帰ると幼稚園のときからの友達に声をかけられたり、名前とか全然思い出せないけど知っている人に呼び止められたりもする。これは小さいときからそうか。田舎はそういうものか。新宿や渋谷も偶然見かけたりすれ違ったりすることが割と多い気がする。とても笑えない状況を作った人が楽しそうにしているのを渋谷で偶然見かけたことがある。向こうにしてみたら楽しく笑うためにいいっぱなしやりっぱなしにしたわけだろうけど人はあっという間にさっぱりしちゃうんだなともっと辛くなった。事実をなかったことにしないという想いを強くした。コロナ禍で見えたものも見えなくなったものもある。失ったものや得たものとどう関わるかはそれまでのプロセスと現実の状況が大きく影響するだろう。なかったことにして「前を向く」?そうする人もいるだろうけどそれはその人のひとつの選択であってそうすべきことかどうかそれがよきことかどうかは他人が決めることではない。どの気持ちも状態もその人がどう感じどう捉えているかでしかないし判断をするならそれはある特定の事柄に対してでありその人全体をジャッジすることなどできない。特定の出来事もある人は忘れ、ある人はとどまり続け分断も乖離も進むかもしれない。それでもせめてひとりにならないように。これまでのなにかが支えてくれますように。それでもなんとか、と日々繰り返し呟きながらなんとかやっていきましょうね、わたしたち。

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読書

白桃烏龍、國分功一郎『スピノザー読む人の肖像』を読んだ。

白桃烏龍が今朝も美味しい。今我が家にあるお菓子でこれに合うお菓子がない。白桃烏龍と一緒にもらった小さなかわいいドライフルーツは合いそうだけどもったいないからまだ開けたくないし。でも何かちょっとお菓子をと思って小さい葉っぱ型のチョコを食べた。小さくても味はチョコだからなぁ。別々に美味しい。

國分功一郎『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)をようやく読み終えた。政治家であり哲学者であるライプニッツに対するスピノザの政治的嗅覚が描写される冒頭はワクワクする。スピノザという人間がどういう人だったか直接的に書かれているところはどこもワクワク読める、といっても本をオフィスにおいてきてしまったので引用とかしたいけどできない。でも問題はその人となりを形成しているであろう彼の哲学的思考だ。この本は2011年1月に出された國分さんの博士論文を元にした本『スピノザの方法』と繋がっている。私はその頃から國分さんの講義を何度か受けているのでなんとなく聞いたことがある言葉もたくさん出てきた。もしその経験がなかったら多分読み終われなかった。そのくらい難解。特に『デカルトの哲学原理』に関する部分は頭がだいぶおかしくなった。國分さんはこういう思考に持ち堪えながら実践も続けている哲学者なんだな。若者たちを惹きこむアニキ的魅力に溢れているし、地域の声を驚きと共感を持って聞く聴力もすごい。これらは私が理事をしていたNPOにきていただいたことがあってその時に思ったことなんだけど國分さんの聞く力は聴覚から違うのではと思うくらいすごいですよ。哲学者としての激しさも人間らしくて怒りを具体的な実践に生かしていく様もすごいのはみなさんご存知の通り。その人の頭の中はこんな複雑なあれこれを何年も何年も巡らしているわけでしょ、すごすぎる。國分さんもライプニッツやスピノザと同じく政治家でもある哲学者なのね。実践って本当に大変なことだと思う。読むだけならもっと楽しかったり面白かったりする哲学に関する本はたくさんあるけれど、言ってることとやってることがあまりに違うと「誰にだって事情はある」と思うしかないし、やってることがあまりに心ないと「語るだけなら心などね」と思う、しかない。もちろんそれが自分に関わることだったらそんな悠長なことは言ってられない。そういうときに國分さんみたいに実践する哲学者のあり方と思考は勇気をくれる。國分さんは『スピノザの方法』のあとがきで

「誰かと一緒に読む」あるいは「誰かと一緒に考える」とはどういうことなのか考えねばならないと思っている。

と書いた。それを実践しているのがこの“読む人スピノザ”を読む國分さんと一緒に読んで、考えることをさせてくれる『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)なんだと思う。とても大変な本だけど新書で持ち歩きやすいしとりあえず読み進めて読み終えてまた読んでを繰り返していると馴染んでくる。私はこの本は立ち止まってしまうことが多くて苦労したけど頭がおかしくなる感じは「誰かと一緒にいる」ってこういうことが起きるってことだよなと日々の仕事における感触と同じで読み進める動機になった。現実は厳しい。「誰かと一緒」に心が伴ってしまうことに耐えきれないと本の部分的な引用ばかりして上手になかったこと、みなかったことにしてしまう場合もあるけどそういう都合のいい使い方はできないこの本は実践に必要な思考の練習の場を提供してくれているという意味でも貴重。私は苦労したけどみなさんはどんな体験をなさるでしょう。興味のある方は読んでみて。一緒に考えていきましょ。

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精神分析

膝痛

またここで寝てしまった。寝ようと思って立ち上がる予定が座ったままそこで眠ってしまった。膝が痛い。大失敗だ。こんなに関節が痛くなることが自分に起きると思っていただろうか?ここまでとは思っていなかったと思う。加齢でも怪我でも病気でもなんでもありうるだろうけど専門家に聞くのが一番ということで病院にいこうと思う。が、時間がない。どうしましょう。作る以外にない。仕事をする時間が減るということはそのまま収入を得る時間が減るということであり、開業設定で臨床をするというのは本当は身体の予防もきちんとしないといけないわけですね。まぁでもこういうことの積み重ねが何度もないと学ばないのも自分ということで病院へいきましょう。旅に出られなくなるとか嫌だもの。この前、いくつかの県の物産館へ行ったら行きたい場所が増えちゃったし。

私がいく整形外科はとっても混むのだよなあ。とってもいい先生なんだけれども、というかいい先生だから混むのだろうけど。小さな町のお医者さんという感じなんだけど、もう何年前かわからないけどこのブログにも登場してもらったと思う。声が大きくて明るい先生で、診断の手順が細やかで質問が的確で触り方も丁寧。私には専門的なことはよくわからないけど診察を受けている間に自分の骨のこととか自然に理解できて仕組みを自然にみせてくれるお医者さんは信頼できるなあと私は思う。あれだけの数をみていればパターン的になる先生もいると思うが患者が症状を説明できるように質問をして訴えをよく聞いて除外診断のための画像診断とかあれこれとかもしっかり説明つきでしてくれて他機関へのリファーに関するあれこれも信頼できる。だからそこへ行きたい。が、ものすごく混む。待ち時間に外へ出ていることは可能なのでPCを忘れてはならない。ああ、でもできたら行かないですむのが一番。そのためにも行かねば。ああ。

どの世界でも数を見るというのは大事、と素朴に思う。本などで診断基準を学んでも実際をみないとそれがどういうものかは自分のイメージでしかない。それはまずい。思い込みの診断は当然してはいけないけどある程度数をみて全体を掴んでおかないと個別の違いもわからない。だからセカンドオピニオンがあったりするし、心理職の場合、スーパーヴィジョンやコンサルテーションの利用は当然だし、医者と仕事している場合も適切な連携が大切だろう。

私はこの仕事に関しては多様な領域で相当の数の人と経験を積んできているが臨床心理士だからどうこうみたいな厳しい意見を見かけたりすると100年後もそれは正しいのかなと考えたりする。もちろん自分の考えに対してもそう思っている。一方、一点だけ100年後とかではなくて今を常に見直すべきと思っているのは性的搾取に関わる事柄だ。女がなぜ今こうか、男がなぜ今こうか、これについてはたくさんの文献も体験も臨床経験も合わせて丁寧に書かねばならないことなのでこういうスピードでは書けないが「しかたない」「そういうものだ」と無意識的にこれまでのあり方を変化することを嫌う力には違和感を感じ続ける身体と心でありたいと思う。

それにしてもこの痛み困った困った。3月もあと3日?困った困った。今日もバタバタと過ぎていくのだろうけどとりあえず準備しましょうか。みなさんも自分の状態をモニタリングしつつ必要なケアを受けつつお過ごしになれますように。どうぞお大事に。

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月曜日

朝日で起きたつもりだったのにぼーっとしている間に部屋が暗くなってる。PC使う分には問題ないけど暗いなー(電気つければいいじゃん)。もうこんな時間。ぼーっとしているときが一番時間の流れが早い気がする。ぼーっとすることができない人たちともたくさん会ってきた。したことがないからその感覚がわからない。やってみようとしてできるものでもない。ぼーっとするってこんな感じ?とやってみても課題をこなしてるみたいで全然ぼーっとしていない。まあ、どれもこれも主観なので「ぼーっとしてた」と本人が感じればそれがそうってことかもね。

はあ。眠いし身体は痛いし何もしたくないけど月曜日がきましたよ。白桃烏龍のお茶をいれてようやくPCの前に座れた。もらったの。これ大好き。美味しい。昨日はとても寒かったですよね。結構な雨だったし。東京は地下道が多くて本当に助かるなあと思った一日でした。雨を避けて歩いていたらこんなところにこんな道が、こんなお店が、という出会いもあって楽しかったです。

夜は資料を突き合わせながらやっぱり何かを強く感じたときはそれを正確に残しておく努力をした方がいいなと感じました。残すといってもSNSに垂れ流すとかではなくて。権利や尊厳を損なうような行為に関しては特に。いろんなことがなかったことにされていくなかいつまでもそんなこといってる自分がおかしいのではないか、と思わされることがしばしばだったとしても残しておくとその時に生じた事実に立ち戻れるのであとから「残しておいてよかった」と思うと思います。それがなかったことにされるプロセスなんてあっさりしたもので「人って取っ替え引っ替えできるんだ」という絶望に落とし込まれることもありますし、その感覚がvividなうちに残そうとすることは辛くて苦しくて死にたくてしかたないかもしれないけれど。

今週もなんとかやっていきましょう。

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ペアいろいろ

昨年、下北沢の「日記祭」へ行った。書き手とおしゃべりしながら買えるスタイルなのだがペンネームとはいえ不倫相手とのことも綴られた日記を書いた人とお話しするのは不思議な気分だった。その人もそれを夫に読ませたい気持ちがなくはないようだったし不倫相手に妻なり恋人なりメインのパートナーがいるわけではなさそうだったのでそれがもし広まったとしてもその人的にはあまり問題ないのだろう。その後の経過もネットに公開されていたし編集者など別の視点を通さない売り方をあえて選ぶとしたらやはり読まれたい気持ちが強いのかもしれない。わからないけれど。また、編集者さんや校正者さんも自分の日記を手売りしていて、ある編集者さんの日記には私が好きな本がたくさんあがっておりその人が編集した本だと知った。それまで編集者と作家って密着しながら関係や利害をうやむやにしているというイメージがあったけど(そういう方が身近だったから)そうではない人もいると知って安心した。その人が担当するのは心理職が読むべき専門書以外の本が多く、今年に入ってからもすでに数冊出しておられる。4月以降も次々に出すらしい本たちも要チェック。

さて、ペアでやる仕事は非対称の二者に引きこもり第三者性を失うことも多い。搾取したり排除したりする自分をその敵意の対象ごとなかったことにする代わりに別の対象に「素敵です」「最高です」とかお互い言いあいながらする諸々を「なんでも仕事」としているペアもいる。彼らはお互いの依存でナルシシズムを維持し、互いのわかりやすくエモい自分語りに対する共感と賞賛を示し、自分が受け入れられないもの(まさにその人そのものにも関わらず)へは偉そうに傍観者的な態度で評価を平然と行う。恐ろしいなと思う。colaboに抗議するSNS上の人たちと何が違うのだろう、ということをnoteにも書いた。第三者性を失い、バウンダリーのないナルシシズム的二者(=私たちだけが正しいの世界)がいう「第三者としては」という態度の尊大なこと。とても嫌な気持ちになるが彼らの幼稚で尊大なあり方はcolaboに中止要請がなされるような世界では主流だと思われるので観察と記録は大切だろう。一方、主流ではなくても地道に、ごく自然な思いやりでお互いの仕事や立場を守りながら着実にいい作品を作り上げていくペアの仕事が大切にされる世界も一方ではあるのだからそれらが支えてくれるだろう。

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外は雨

友人からLINEがきた。前日には間接的にしか触れられなかったものが目の前にきた感じがした。大学時代の悲しい別れを思い出した。いろんなことがバラバラと思い浮かぶのを感じながらノロノロと動いた。電車で隅っこに立ってぼんやりしていると急に込み上げてくるものがあったがそのままにしておいた。

元気にしているだろうか。亡くなった人に対して思うことがある。お墓参りから帰ってきた家族と「お父さん(お母さん)、元気だった?」「うん」と言葉を交わすことがある。心の中に住み着いているその人たちは割といつも元気な気がする。

お花を買いにいきたい。でも外は雨。大量の写真を買ったばかりの外付けHDDにダウンロードしながらすでにこの春たくさん撮ったお花の写真を眺めた。お花を買いにいく代わりに何枚かをSNSにあげた。

外は雨。雨音に時々鳥の声がまじる。さまざまに耐えがたい気持ちをただじっと感じながら穏やかな想い出に助けられる瞬間もありますように、と願う。

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精神分析

再読中

早朝から『ホロコースト最年少生存者たち 100人の物語からたどるその後の生活』(柏書房)を再読。冒頭の写真から重たい気持ちになるが本書は精神分析が陥りがちな問題について考えるにも必読の一冊だろう。なかでも心的外傷(トラウマ)の語りを聞くことにまつわる困難は本書で多く引用されるアンナ・フロイトやジュディス・ケステンバーグのエピソードから学ぶことができる。

先日、この本の書評を書かれた甲南大学の森茂起先生の最終講義があったそうだ。気づいたときには登録期限が終わっていた。タイトルは「フェレンツィとの出会い―臨床・科学・アートの狭間を歩む」。森先生とフェレンツィをつなぐのはトラウマ理論だと思うがどんなお話だったのだろう。聞きたかった。

フェレンツィは1873年ハンガリーに生まれた精神分析家でユング(1875年生)と同世代だ。二人ともフロイトとの人間関係から語られることが多いが、その臨床とそこから導かれた理論はオリジナリティに溢れておりフロイトの理論にも影響を与え(「とりいれ」という用語はフェレンツィから、など)どちらも精神分析の限界を考えるときに特別な視点を提示している。日本で精神分析を学ぶ人が一番読んでいるフェレンツィの論文は「大人と子どもの間の言葉の混乱──やさしさの言葉と情熱の言葉」(1933)だろうか。これは森先生たちが訳されたフェレンツィ『精神分析への最後の貢献ーフェレンツィ後期著作集』に収められている。この本はそれまで断片でしか紹介されてこなかったフェレンツィの後期の思索を追える一冊で、フェレンツィが死の前年まで書いていた『臨床日記【新装版】』と一緒に読まれるとよいかもしれない。こちらも森先生の翻訳だ。フェレンツィは当時の精神分析の世界では受け入れがたかった心的外傷についての理解を広めた。この頃の精神分析については『心の革命 精神分析の創造』(REVOLUTION IN MIND) ジョージ・マカーリ著、遠藤不比人訳(2020.みすず書房)も参考になる。

あ、時間がなくなってしまった。再読を続けよう。

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あれはなんだったんだろう 仕事

「あれはなんだったんだろう」を問い続ける。

WBC決勝は仕事中にちょこちょこと経過と結果だけ聞いて夜テレビで後半だけみたけどやっぱり最初から見ないと盛り上がらないね。準決勝は見てたから一日中「いい試合だったねー」といい続けていた。

今日は木曜日か。土曜日からもう5日目か、とあえて数えたくなるのは土曜に自分が作ることになった文書があってそれを今日までにやらねばだから。毎日なにかしら資料作ってるけど種類によって負担がまるで違う。今日のは書き始めてしまえば時間はかからない気がするが気持ちの負担が大きい。ただどうにかなると思えるのは差出人が二人でもう一人にチェックしてもらえるから。信頼する人が控えていてくれる安心感は大きい。週末も様々な負担にともに静かに持ち堪えてくれる人たちと昨日届いた文書に関する話し合いのための話し合い。すでに結果が出ているものは結果に対しては無力でもそのプロセスに対しては無力ではない、ということで地道に活動してきた。大体の仕事は「あれはなんだったんだろう」を少しずつ明るみに出していくことだ。今起きていることが結果だとしたらそれはもう仕方ない。でも「人生は続く」。これからのためにやっておけることはやっておく。「人生は続く」。昨日はなぜか数人のTLや他の場所でこの言葉をみかけた。戦いの中でたとえ無力でも、ということだった。傷つきを避けることはできない。心ない人はどこまでも心ないし、なにが相手を傷つけたのかまるでわかっていない場合も多い。「ごめん」「なにに謝ってるの?」「・・・・」というやつだ。傷つくというのも色々で自分の欲望が少し邪魔されたと感じるだけで不快さを募らせて勝手に被害的になっていく場合もある。ほとんど空想の世界で膨張したそれを合理化&知性化し押し付けてくる言動は本当にひどいもので押し付けられたほうが精神や生活に支障を来すことも多い。実際に病院に行ったり時間をとられることも多いなか相手は平然と楽しそうな姿をSNSにあげていたりするのもよくある現実だ。わかっていない、あるいは分かりたくないのだからこういう地獄のような出来事が生じるのも必然か。この場合も相手を変えることはできないという意味では無力だ。わかっていても傷は痛み続けるしとても辛いだろう。その中でなにがなくともできることがあるとしたらなかったことにしないで人生を続けていくことだろう。「あれはなんだったんだろう」を問い続けることだ。昨日目にした彼らの言葉は多くの失望と絶望を今も体験しつつ書かれたものだった。痛みや傷つきに終わりがないのであればそうする以外ないというだけのことだがそうつぶやきながら実際に地道な戦いを続ける彼らを尊敬する。私は戦うまではいかないし戦ってもいないのに戦いに巻き込まれるのもうんざりだしそうされることで随分消耗してきたので回復しながら交渉とそのための準備をする感じ。支えは多い。どうにもならなくてもどうにかなるという感じもする。

というわけで文書を作りましょう。みなさんはどんな感じですか。自分の気持ちも身体も大切にすることに価値を見いだせますうに。搾取には抵抗していけますように。今日も一日。どうぞご無事で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 俳句

俺俺倫理に抵抗す

鳥が鳴いてる。句友が増えていく。年齢も職業も知らないで俳句を巡ってやりとりしているだけの人も多いがむしろその言葉選びにその人らしさはでているようにも思う。句会はクローズドだけど俳句は誰にでもできるし私がいる句会はどれもとてもオープン。楽しいし勉強になる。

noteで「あれはなんだったんだろう」解明のため俺が倫理みたいな人を取り巻く家族やそこそこ歳をとった永遠少女や飼い犬のことをネタとして書きつけるときはとても嫌な気持ちになる。気持ち悪いパターンが一切変わらないから。一方で言葉豊かな句友たちと話しているといろんなことに気づく。普段使いの言葉で身も蓋もなく景色を描写する。読み方も自由なので自分では気づけなかったであろうことにもたくさん気づく。こんな豊かさを背景に搾取と依存によって退行を維持する人たちのことを考え続ける。考えるのが嫌でというかそのキャパが少なすぎて不快なものはすぐに外に押し付けてしまうのだろうから大人がやるべきことをやりましょう、という感じ。西村賢太みたいに書きたいけど全く無理なので逆に身も蓋もないことを書いて俺俺倫理に身の回りの人が騙されないように注意しないと。しないとってこともないけどこれからを生きる世代がせめて人の身体を弄ぶようなことをしないように、そうされないように、とかすごく最低限のことを考えてしまう。そういうことが普通に起きているから。どんなに知識が豊富で口がうまくても言葉がパターン的で深みがなくなんか自分のことばかりと感じる人と関係が近くなったとき、違和感さえ否認しなければ悲しい思いをしなくてもすむかもしれない。いろんな要因で自分で自分を騙すことをする私たちだから事態は変わりにくいけどまずは知ることで抵抗、対抗。退行するなら専門家のいる安全な場所で。何がなくともやっていきましょう。今日もどうぞご無事で。

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人のこころ

袴田さんの再審開始確定はよかった。でもよくない。こんなに長い間、心身を拘束して、身の回りの人の生活だって変えて、もう想像を絶する。姉の袴田ひで子さんももう90歳。お二人が生きておられたのは本当によかったと思う。人が人を裁きコミュニケーションの場を奪い尊厳を奪う。簡単にできてしまう。本当に恐ろしいことだと思う。世田谷事件の遺族である入江杏さんは未解決殺人事件の遺族として時効撤廃とともに冤罪防止を願っていたのでほっとしたとツイートしていらした。この事件のことも忘れることができない。あの辺は土地勘があるからなおさらだった。高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』をまた手に取りそうだ。人の心なさ、恐ろしさ。尊厳ってなんだろう。尊厳を傷つけられたときに生じる仄暗かったりドロドロした重たい闇のような感情、理不尽に晒され消耗しながら冷たく残酷な鬼と化していくこころ、知らない人はいないだろう。そんなものは自分にはないとしれっと軽薄に過ごしている人もたくさんいるだろうけれど。それが心なさ、恐ろしさというものだよ、とそれらを投影された人が感じ、支えのなかでこなしていければいいが。

毎日毎日本当にひどいことがたくさん起きている。でもそれだけではない。袴田さんを支え続けた人たちの涙、笑顔。どれだけの想いを抱えてきたのだろうか。全く想像がつかない。この複雑で残酷な毎日を生き続けていくことの困難を否認しなければ訪れるかもしれない希望を身をもって教えてくれる人たちに少しでも早く穏やかな日々が訪れますように。こう書くだけで本当にそれを穏やかといっていいのか、あまりにひどくないか、という気持ちに再び覆われるが、彼らがそう感じられるならそうなんだから何も知らない他人が再びそこに侵入するようなことはあってはいけないのだろう。

今日の東京は曇りみたい。明日は早くも花散らしの雨らしい。毎年そうだ。日々が過ぎる。季節が巡る。さまざまな人とさまざまなことに思いをめぐらせながら今日も一日。みなさんもどうぞご無事で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

お喋り、バッティングセンター、月曜日

よく話しよく笑った週末だった。大切な話もたくさんできてやっぱりこういう場が大切だね、と頷きあった。話している内容というより話すこと自体の大切さ。「普通」に言いたいことが言えるって当たり前ではないんだ、という感覚はポストコロナという感じもした。コロナ禍における「あれはなんだったんだろう」を相対化できる時期がきたのだろうか。まあしたくもないか。まるでなかったことにして進んでいく世界を前に置いてけぼりの感覚を維持している「あれはなんだったんだろう」状態のまま「人間って・・・」と考え続けるのは私の仕事でもあるし心身を守るすべでもある。「きっと今日もまた」と予想していたくせに傷ついたり衝撃を受けたりする体験に慣れることはないが慣れないことで維持されている自由や倫理だってあるだろう。違和感や不快感を対象まるごとなかったことにして平然と口にされる自由や倫理なんてそれこそ不快だけどそういうのに蝕まれながらもなかったことにだけはしないということも大切だろう。

久しぶりにバッティングセンターへいった。ゲーセン兼バッティングセンターだけどゲームをやりにここにくる人もいるのだろうか。バッティングの合間とか待ち時間にやる人の方が多そうというかゲーム台の前の椅子に人はいてもゲームをしている人はあまりいなかった。バッティングは二打席目はそこそこ当たったがなんかもう姿勢とかもろもろどんなだっけという感じだし腕がすぐに疲れてしまってそのあとやったストラックアウトなんてバウンドした球で2枚抜けただけだった。球技全般得意だったのなんてもう遠い昔のこと。身体がバキバキだ。そうでなくても加齢による身体の悩みは増えるばかり、と同時に同年代のみんなの共感と持ち寄られる情報の質は高まるばかり。不注意による怪我の多さとかはほとんど共感を得られなかったけど。バッティングセンターは自打球にさえ気をつければいい狭くてやることがシンプルな安全空間だから私には向いてる。常に運動不足だからまた行こう。東京は水曜から雨だって。雨の日でもバッティングセンターなら行けるね。時々こうしてバッティングセンター熱が高まると歴史とかも気になってきて「バッティングセンター 歴史」で検索してみた。やっぱり調べてる人っているんだねえ、何事も。『日本バッティングセンター考』(カルロス矢吹/双葉社)という本が見つかりましたよ。本紹介を読んで全国のバッティングセンターにいってみたくなった。今度旅に出るときは必ずその土地のバッティングセンターやそれっぽい娯楽施設をチェックしよう。これまでの旅を思い返しても田舎の3,4,5階くらいの総合スーパー的な施設のぽかーんとしたスペースに卓球台があったりしたもんな、そういえば。もちろん見つければやる。卓球もバッティングと同じで娯楽とトレーニングの境界が薄い気がする。たまにめちゃくちゃ上手い人が打ち合ってたりするもの、そういうスーパーの一角で。温泉卓球とかもそうね。

とか書いてるうちに月曜日、という言い方も変だけど休みはおしまい。「きっと今日もまた」という失望や絶望に沈んだとしてもいずれ回復できるようにこころの隙間を残しておけるといいですね、お互い。とりあえず今日をご無事に。

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精神分析

ひとりとみんな

いいお天気。朝からきちんと食べてしまった。おなかいっぱい。

10年以上仕事をともにしている人たちと集まった。仕事ではバタバタと準備をしながら必要な確認事項を交わすくらいの余裕しかないがこの関係になるとそのほんの数分の中のさらに短い時間でも普通にお茶しながら話すのと同じくらいの濃さがあるしこういう時間に支えられている。それでも実際にゆっくり会えるとなるとそれはまた全く別の楽しさがあって「嬉しい!!」と連発したくなる気持ちもみんな同じだ。

ひとりでオフィスを構えて仕事をしていると当たり前だがなんでもひとりでやるわけだがこうしてたまに会ういろんな人との繋がりが緩やかに豊かにあってくれることでひとりでやれているんだなと実感する。社会人になってはじめて勤めた職場の同僚もいまだに支えてくれる。

人のこころの恐ろしい部分、ずっと苦しめられ続けるであろうことは今後も変わらないだろうけどそこだけで生きているわけでもない。いろんなシビアな局面にも自分で対応しなくてはいけないがどんな行動にもこれまでの私のあり方が出るだけだからいろんなふうにやってみる。そして何かまずいことが起きたらまた助けてもらいながらやり直す。その繰り返しかな。ひとりでやることとみんなでやることの豊かな連動を、孤独になればなるほどそうではないと静かに支えてくれる力を今日も忘れないでいられますように。

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精神分析

嫌だった。怖かった。

雨か。昨日は雨予報だったわりに夜遅い帰り道もそんなに降られなくてよかった。天気予報知っていたのに水に弱いスニーカーで出ちゃって「やだなぁ」と思っていたから。帰り道に濡れる分にはまあいっかとなるけど。どうして天気予報を気にするわりにすぐ忘れてうちを出るときのお天気に靴を合わせちゃうのかしらね。なんでも「あーあ」で済ませられるからかしらね、放っておいても乾くとわかってるからだよね。

そうそう、この前、とても暖くなるという予報だった日、中は薄着にして薄手のダウンを羽織った。毎日夜遅くまで仕事してるから帰り道の寒さをいつも警戒してる。ただでさえいつも人より厚着してるけどこの日もそうだった。ホームへの階段をあがってパラパラと並んでいる人の前を黄色い線に気をつけながら歩いていたら背の高い初老の方が私が通り過ぎる瞬間にすごく大きな声で「あつそう!!」と言った。すごく嫌な感じに聞こえたけど反応せず通り過ぎてあとから振り返ったらこっちを見ててすぐに背中を向けた。「暑そう」って言ったよね。「あ、そう」とかじゃないよね。しかも怒鳴りました?さすがに私に対してですよね?背の高い人が低い私の頭上から野太い声で。その勢いでホームに落ちそうでしたなんてことはなくてよかったけどああいう場合無視する余裕があったわけではなく単に無反応になることで危険を回避しているだけなので怖いのですよ、ものすごく、本当は。知識としてでいいから知っておいていただきたいのだけど。それに私は私のために厚着しててしかも全く暑いとか思っておらずむしろちょうどいいじゃんと思っていたのです。私の感じ方など興味がないと思いますがそういう人もいると知っておいていただきたいのです。知識で反応を遅らせることはそこそこできるので。とにかくもし私が厚着することで不快さを感じたとしてもそれは自由なのですが、反射的に大きな声でそれをぶつけてくるのはやめてください。これがご自身と同じような見かけの方にでも同じことなさいましたか、というのもよくある質問なのだけど私くらいの厚着の方、そばにおられましたよね。もちろん私だからだろうと思って私は言っています。背の低い女の私はしょっちゅうこういう嫌な目に遭うのでほとんどパターンでこういうこと書けてしまうのだけどそんなことはできなくていいことですししたくもありません。でも書いておきます。気持ちの負担で時間を奪うにも程度があります。どうかお気をつけて。何歳になってもできることってあると思いますよ、機械的にで構わないのです、本当に。

と思ったことがあったの。嫌だったー。怖かったー。もう!!今日はまずは足元から気をつけましょうね。安全に気持ちよく過ごせますように。

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精神分析

シモーヌ・ド・ボーヴォワール『決定版 第二の性 Ⅰ 事実と神話』(河出文庫)を読んだり。

カラスが遠くで鳴いている。スズメはすぐそばで。薄暗い朝。雨が降るのかな。昨晩、いつもの帰り道で桜が咲いていた。もうすぐもうすぐと蕾が膨らむのを見上げながら通り過ぎていたけど今年も変わらず咲いた。何事もなかったかのように。

「多分本当にわからないんだろうなあ、そんなことありうるのか、あるんだろうなあ」と私の理解を超えたわからなさにどうにか耐えながらこれも仕方ないあれも仕方ないと何も言わずにいた。一番嫌なことだけは伝えた。それが一番嫌だったんだろうだなあ。それが氷山の一角であれ、その下に広がるものと繋がっていることくらい本人の無意識は掴んでいるのだろうから。ただ人は健康を守るために良い部分、悪い部分を別々の人に投影して悪い部分を押し付けて切り離すという病的なことができてしまうのでチャンチャンと。病院に通う必要がない病気で健康を保つってことをしているのが私たち。あえて病気と書いているけどこれを病的な防衛機制とよんでいるのが精神分析。精神分析は異常と正常をスペクトラムと捉える、ということを学びはじめから何度も何度も教わった。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール『決定版 第二の性 Ⅰ 事実と神話』(河出文庫)をため息をつきながら読んでいた。これは長く復刊が待たれながらなぜか実現してこなかった本。今回は新潮文庫版に改訂を加え河出書房新社から出版。翻訳チーム『第二の性』を原文で読み直す会の井上たか子によるあとがきから読むのもいいと思う。なんにしても早めに買うべき一冊ではなかろうか。4月にはⅡも出るそう。冒頭のエピグラフはピタゴラスとプーラン・ド・ラ・バール。プーラン・ド・ラ・バールという人は『両性平等論 』(叢書・ウニベルシタス)という本を書いているのか。これも読んでみよう。それにしても「ド」が「怒」に変換されるのを見ると女たちは怒ってきたんだなと改めて思ったりする。

「私は長いあいだ女性についての本を書くことをためらってきた。この主題はいらだたしい、とくに女にとっては。それに新しくもない。」

書き出しから魅力的な本書は訳文の読みやすさはもちろん内容の面白さに最初から惹き込まれるがため息もたくさん出てしまう。はあ。

そして、ボーヴォワールの精神分析に対する評価を私はとても正当だと思うし、それを取り上げて書く仕方も好きだ。

ここでは冒頭に引用されたピタゴラスを引用させてもらおう。

秩序と光と男を創った善の原理と、混沌と闇と女を創った悪の原理がある。

ーピタゴラス

どこにもかしこにも存在するスプリット。それをどう曖昧にこなしていこうか。いくつものスプリットに引き裂かれたこころをどうかき集めていこうか。いびつでもそれなりに正気を保って生きていく力なら大体の人に備わっているはず。善とか悪とかうるさい、と思いながら言いながら今日も何とか。

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精神分析

「気のせい」「おまえのせい」

また作業しながら眠ってしまった。というか何も進まないままただここで眠ってしまった。身体が痛い。歯が痛い。歯は関係ないけど歯軋りのせいかも。マウスピース作ってもらったけど全然使ってない。歯って治療を始めるとなぜかほかの歯も痛くなりませんか。私がお世話になっている歯医者さんはすごく優しくて説明も丁寧なのだけど痛いものは痛いというのが現実の辛いところですね。でも優しいのはありがたいですね。痛い、辛いということをわかってもらえるありがたみってすごい。

痛みというか不快さに耐えるというか傷というものに関わり続けていくことが精神分析の基本的な作業なのだと思うけど耐え難いものは耐え難い。自分の身体のことなら自分で引き受けるしかないが、と一瞬思ったがそんなことないね。むしろそれこそ「どうして自分が」となるかもしれない。相手あることであればそこで生じた不快さは関係という観点から考えることができるかもしれないけど身体は痛いとか辛いとか八つ当たりするとか理不尽を叫ぶとかいうことはできてもその痛みは常に自分で抱えこまなくてはいけないものとして内側に存在しつづける。ものすごいナルシシズムに巻き込まれたとき、心もそんな状態になるけれど。だから辛いのだろう。いないものとして扱われる、いらないものとして扱われる、何事もなかったかのように平然と生きている相手に蝕まれ続ける世界。それでも物理的な距離をとることができたり時間が過ぎていくことにじっと身を委ねることができるという点では身体に対するなすすべなさと比較したらマシかもしれない。でもなあ、余命宣告されその期間を生きながらえもういつどうなるかはわからないと余命も測れない宣告(?)を受けながら生きておられる(た)人たちを知っているがそれはそれで本人も家族も拍子抜けしたと笑い、それで痛みが減るわけでは全くないのに死に対する態度が変わっていくような例もある。人ってわからない。自分のことも全然わからない。やはりたとえ具体的なことはできなくても痛みや苦痛を「気のせい」とか「おまえのせい」とかにしないことされないことの力の大きさたるや、ということになるだろうか。

今日もあれこれ。みなさんはどんな感じ?ずーっと辛いとかいうことのありませんように。世界を呪いたくなるような瞬間からも部分的に回復できますように。きっと「気のせい」でも「おまえのせい」でもないよ。東京はいいお天気。今はこの部屋は陽射しでいっぱい。でもここで「えー今日は雨なのー」みたいなこと書いて玄関を出たらピッカピカの晴れということもあるからこのあとはどうかな。いろんなことわからないけどなんとか今日も一日過ごしましょ。またね。

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精神分析

西村賢太「疒の歌」、深瀬昌久展など。

二度寝してしまった。いつも途中一度は起きるけど今日はきちんと2回寝たという感じがする。今朝の地震、またかと思いながらいずれくるであろう大地震のことを少し思った。映画「日本沈没」は私が生まれた年の映画で小さい頃に再放送?ビデオ?かなにかでみたがいまだ思い浮かべるのは特定の一場面だ。誰かと離れるということ、小さな私にはそれが一番怖いことだったのだろう。

西村賢太「疒の歌」を読んでいる、とnoteにも書いた。やまいだれって自動変換ででないからウィキからコピペ。「疒」。私にはもっとも馴染みのある部首ですね。臨床、という言葉はそれと共にある言葉だから。

本当にあったことを嘘のこととして細部を積み重ねながら書いていきたいなと思って読んでいるが、西村賢太はすごいな。というか貫多、十九歳、すごい。面白い、というのもなんだかだが「駄々っ子気質の完璧主義者」、めんどくせーと思いつつこういう人いるいる、自分にもあるある、となる。共感したくないがせざるをえないというのは精神分析で防衛解釈をされたときの感じだ。直接言われないだけマイルドだから面白がっていられるが。

あ、深瀬昌久展のことを書こうと思っていたのに。場所は恵比寿の東京都写真美術館。写真は本当に面白いな。うつすものがなければ始まらないが時代と土地の力に圧倒されるのは文学より写真だ。写真家がカメラに憑依し一体化してしまうまでのプロセスを決して多くない数の写真なのに細かく見せられたような気がした。過剰さはないがインパクトのあるとてもいい展示だった。そこから色々と考えさせられたことを書こうと思ったが時間切れ。やることが多い。あれだけ嫌だった確定申告がはじめてみたら意外とあっさり終わったことに何か間違っているのではないかと不安を感じるがまあとりあえず出そう。何かあれば後から言ってくるだろう。何もありませんように。

それにしても今朝は地震が続く。どうかみなさんもご無事で。ご安全に。

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俳句 言葉

滑らかに。

領収書全部やっつけたぞ、と思ったけどamazonで買った本が未入力だった。あーあ。どこかでわかっていたはずだぞ。あーあ。私の支出はとてもわかりやすく家賃、書籍、訓練費、その他という感じ。ほかにほしいものも必要なものもないから問題ないけど。あ、甘いものにお金使いすぎなのは問題かも。オフィスのある西新宿は新宿の雑踏は越えるけど歩けばコンビニ、セブン、ファミマ、ローソン全部にあたる。ミニストップも遠くない。こんな環境で我慢とか無理、とか環境のせいにしたくもなるけど変わらない自分なりに少し工夫をしましょうね、と思うのですけどね。春は、夏は、秋は、冬は、と全部の季節を言い訳にできちゃうからなあ。加齢が最も現実的なストッパーかも。

今日は3月14日火曜日。日めくりは「花種を蒔きて呪文を掛けておく 太田土男」つちおさんって読むのかしら。お名前とピッタリの一句。花種は春に蒔く種のことで夏か秋に咲く花の種ですって。どんな呪文を掛けましょうか。すごく先のことより少し先の季節に向けて欲張らずに。うーん。呪文というとなんか怖い花が咲きそうだけど種を蒔く人が掛ける呪文なんだから花に何かを託すわけだよね。何を託しましょうか。適当に呪文めいた何かを唱えながら種蒔きすること自体楽しそうでいいことありそうだからそれだけでもいいか。でも「無事に咲いて」と願うのだって小さくない願いかもしれない。だからどうかそれまで無事にいられますように、呪文が守ってくれますように、って考えるとどんなのがよいかしら。とかいっている間にきっと季節はどんどん先へ。どうにもならないこともたくさんあるけどとりあえずとりあえずでどうにかこうにか生きていけるように願う言葉をそのまま呪文に。大江健三郎さんが光さんと一緒にうちの大学にいらしたのはいつだったか。仙川あたりによくいるけれど見かけても声をかけないでください、と上品におっしゃっていたっけ。なんだかいろんな人が引き伸ばしてくれた時代が終わりに向かっているようでとても寂しいけれど亡くなったことではじめてその言葉を知る世代もあるでしょう。少しずつ少しずつ。断絶よりは滑らかに。

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散歩 読書

日記

先日、編集者の天野潤平さんのツイートを見て聞いてみた小沼理さんのポッドキャストがとてもよかった。一緒に少し涙ぐんでしまった。

ハッシュタグの「いちなが」とは小沼さんの2020-2022年の日記を本にした『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』(タバブックス)のこと。

https://twitter.com/onumaosamu/status/1577859428883521536?s=20

「わたしは思い出す」とは「大地震後の11年を生きた、ひとりの女性の育児日記」。さっきツイートしておいた。

私は毎日書いているという点では日記っぽいここでの文章を読み返す作業はしていないがいずれするかもしれない。少なくともバラバラと創作や画像を置きっぱなしにしているnoteよりは読み返す可能性は高い。毎日書いていれば私なりのその日その日が現れているだろうし少なからず生き延びるために書くという側面があるから。生き延びるというとなんだか大仰だとすれば今日もとりあえずこうしているなあ、という観察を記録する感じかな。たしかに生き延びることを意識的に課題としながらなんとかやっている日々はあれど。

先に挙げた二つの日記はまさに「日記」だ。何が起きたとしてもそれぞれの日常というものはある。「奪われた日常」という表現が持つベクトルとはまるで異なる、何がなくとも失われたり何かが生じたりするその日その日を綴った結果、自分がそこで生きていたことを意識した、そんな感じか。

昨日、コキアと菜の花がたくさん咲いている場所の無人直売所でみかんを買った。そばに「みかん」と書いてあったからみかんだと書いているが、これはネーブルだな。皮が剥きにくいし。同じ場所に「ネーブル」「八朔」とも書いてあった。「八朔」はドンドンドンと3つ網におさまっていたのがそうだと思う。別の直売所では売っている方もそれがなんなのかすでに曖昧なのか柑橘というものは桜と同じようにしっかりそれが何という名前を持っているものとそうでないものがあるのか「みかん?」とクエスチョンマークつきの看板を出していた。道にもところどころオレンジのみかん的なものが落ちていて、カラスがその断片を加えてバッサバッサと飛んでいく姿もみた。黒にオレンジが映えていた。いろんな種類の桜もみた。遅咲きの梅もまだまだ咲いていた。菜の花は完璧に主役だった。Twitterにも載せたが桜の花びらが菜の花に落ちてまるで蜜を吸っている虫や蝶々みたいでとても素敵だった。小さい子たちに混じってローラーコースターにも載った。お尻が痛かった。もう色々軽やかには動けない。ということでこんな時間までダラダラしてしまった。動かねば。

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精神分析

「みんな」、use、伊万里

何歳になっても誕生日をお祝いしてほしい人だったな、とある人を思い浮かべた。私もいろんな記念日は忘れてても誕生日くらいは覚えているけど自分からお祝いしてほしいとか思わないから不思議だった。しかもその人は「みんな」にそうしてほしいみたいだった。そういえば親たちの誕生日を親から仄めかされ(なくても日付ちょっと怪しいながら覚えているけど)たことってないと思う。自分が誰かを生み出していると自分の誕生についての認識が変わるのかしらね。そんなはずないか、とも思うけど誰かが心の中にいるって自分自分ってなる暇をなくす(悪い意味ではなく)のかも、ここにもbeingとdoingの違いがあるんだろうな。今日は別のある人の誕生日。本人も忘れている可能性が高いし私もいざ会ったら伝えるの忘れそうだから書いておこう。おめでとう。

ウィニコットのuseの概念を精神分析を受けることで実感したわけだけど自分の心の中に人がbeingしていないと安心して人をuseできない。搾取という意味でのuseでもなく、クレーンとしてのuseでもなく。

秋にウィニコットの書き物について話す予定があるんだった。この辺の論文を取り上げようかな。ああ。今積んでいることをどうにかせねば。

さっきNHK俳句で佐賀県伊万里市の方の俳句が入選していた。伊万里市は行ったばかり。あの居酒屋知ってるかな。2月で閉店するといっていた親子でやっている細長いカウンターだけのとっても味のあるお店。いつもはご夫婦だけでやっておられるみたいだけどあの日はとても混んでいてお子さんが大活躍だった。もう80いくつだから、と父である店長は笑っていた。常連さんにすごく惜しまれながら。すごいことだ。たまたまだったけどちょうど空いた席に入れてもらえてよかった。そういえば隣の新婚カップルとのやりとりも可笑しかったな。みなさんお元気でありますように。

河津桜はもう葉桜に変わりましたね。いよいよソメイヨシノも開花かな。花粉で辛い方も多いと思うけど今日もご無事によき春を。

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読書

3月11日(土)朝

3、11を意識するなかでの早朝の地震。みなさん、大丈夫でしたでしょうか。それまでの出来事の体験の仕方によって同じ出来事をどう体験するかは異なると思いますができるだけ安心できる状況にありますように。

俳人の池田澄子さんのこととか写真家のトモコスガさんのこととか何冊かの本のことが頭にあるのですが早朝から次から次へと注意が移り変わってこうして椅子に落ち着いてもすぐに別のことでぼんやりしてしまいオハナシニナリマセン。いよいよ手首の痛みが強くなってきたのも困り物です。友人から良い理学療法士さんを紹介してもらったので伺ってみようと思います。

今年の冬も少ない数の洋服を着回している間に春になってしまい昔からあるのに一度も着なかった服が大部分でした。少ない数のそれらをおしゃれ着洗いで洗濯してしまったのでようやくそれらからどれか選ぼうかなと思っていますがしばらく暖かい日が続きそうだから花冷えのときまでそれもお預けとなりそうです。

森茉莉が『記憶の繪』の中で「関東大震災」「震災風景」という短文を書いているのをご存じでしょうか。森茉莉は「例によって私は地震でも平然として、」と書き始めたしかにそれは特別なものとしては扱われません。森茉莉の書く出来事はうとうとしながらみるやけにリアルな夢のようでもあり現実に対して頑固に距離をとっているようにも私には感じられます。書き物にするというのはそういうことなのかもしれませんが大きなことを大したことないとするわけでもなく、情緒的でありながらもいつもどこか少し別のところへ気が逸れている様子を私は好ましく感じているのだと思います。

最初に思い浮かべていた何冊かの本とは別の本のことを書いてしまいました。誰に頼まれて書いているわけでもないのでそれは全くの自由なのですがなんだか不思議な感じもします。

先のことはわからないことだらけで見えないこと知れないことは不安を生じさせるかもしれませんが私たち自身が有限の存在であることを考えれば、などと考えているうちにこんな時間。急がねば。急げる余裕があるのは良きことなのでしょう。それぞれの土曜日を安心してお過ごしになれますように。

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あれはなんだったんだろう

3月10日(金)

今月も発表か。その機会があるのはありがたいが・・・と思ったが今日ではなかった。しかも今日までのことをやっていないことに今気づいた。色々気づくのが遅いのもいつものことすぎて、え?雨?窓を開けた。風もすごい。なぜ?いや特に不思議はないか。そんな日もあろう。アイフォんで天気予報をみたらちょうど私が出る時間は雨だそうです。ということは東京の多くの人にとってそうかもしれませんぞ。気をつけてまいりましょう。

山梨県北杜市でケーキ屋さん(配送のみ)をしている友人のケーキが届いた。花豆のパウンドケーキがシンプルで美味しく3つの花豆が散らばった断片もかわいい。花豆が地元で有名なことを自閉症の人たちと週末過ごしていた場所で教えてもらった。その美味しさもそこで知った。

川内倫子さんの写真集『やまなみ』はやまなみ工房という福祉事業所の方々を撮ったものであの光は私が彼らと過ごした場所でも体験したものだった。もちろんこういう雨風も。

耐え難いことがますます耐え難いことになる仕組みといえばいいのだろうか。あれはなんだったんだろう、と一年近くブログを書き続け、公開しない場所でも書き続け少しわかってきたことがある。痛みの最中にSNSとかで発散するのではなくある程度長文でその状態を書くことをしている人は多いと思うが、複数の形式で書きつけておくのもいいと思う。私が忘れない。それがすごく大事なんだと確認するような日々は今も続いている。いずれさらに別の形にしたい。

明日は3月11日。また石巻へいこう。南三陸、相双地区、塩釜へ行こう。震災直後、一年後、数年後に行った地域だ。たくさん労ってもらった場所だ。どうしてあなたの方が、と思うかもしれないがこっちもあっちもごっちゃになって一緒にいればそんなことが自然に起きてお互いに涙声になったりするものなんだ、ということも知った。

少しずつ。癒えない傷も少しずつ。

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読書

高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』文庫版を買った。

高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』(小学館文庫)を購入。渋谷駅を出てすぐの大盛堂書店でサンバイザー広告を出していると呟かれていたので頻繁に前を通るのに最近寄っていなかった大盛堂へ。半蔵門線を出てこの階段でいいのかなといくつもある地上への階段を適当に登ったら地上に出るなり大盛堂。「おお!これがサンバイザー広告!」と結構感動した。小さいのに写真でみるよりずっといい感じにヴィヴィッドだった。本自体は文庫の中でもかわいらしいサイズ。レジ前に積んでくれていたのですぐに手に取れた。店員さんがサイン本かどうかも確認してくれた。「しおりも入っていますか」とおずおず聞いてしまった。入っていると知っているから大盛堂にきたのになんだか不安になってしまった。


noteにも書いたけどノンフィクションは伏線回収とか不可能なので好き。現実の複雑さ、解決しなさがそのまま描写される。特にこの著者の書き方が好き。変な興奮も強い主張もなくごく普通の感覚とスピードで真相を追う(という表現はしっくりこないのだけど)感じがすごいと思う。私はニュースレター「高橋ユキの事件簿」も購読しているが、noteでも本書が書籍化するまでの流れも読めるし、弁護士ドットコムの連載とかいろんなところで著者の記事は読めるので本書とあわせてぜひ。主に裁判の傍聴席から、そして本書のように現場から、裁く目とは異なる視点で事件を丹念に追う著者の作業はSNSとかでサクッと記事や写真を拾って上から目線でなにかいう作業とも呼べないようなお手軽作業とは全く異なりとても貴重だと思う。そこでは実際の人がきちんと生きている。この本の現場は山口県周南市。小さな小さな村で起きた殺人放火事件。私は今回文庫化にあたり著者が再び現場を訪れ加筆した新章から読み始めた。現場へ行きたいと思った。事件の現場としてではなく。当たり前だがどんな土地の生活にも歴史がある。小さな村で多くの人が殺害されたあとも生活は続いている。今まさにこの瞬間も。

私は学会や旅で日本全国行っているので事件の現場を訪れることも多い。あえて訪れる場合もあるし、偶然犯人と同じルートをいっていたという場合もある。当事者ではない自分がその生々しい事件が起きた後の場所に立つときの、解釈できない出来事にとどまらざるをえないあの感触は独特だ。著者はそこにただとどまることをしない。真相を知ろうとする。自分の生活を維持しつつ取材に向かう著者の胆力のみならず現場や当事者に対する配慮ある距離感にもじんわり様々なことを感じさせられるこの一冊、少し不気味で(先入観のせいかも)美しい著者お手製のしおりと共に手に取ってみるのはいかがだろう。私はおすすめしたい。

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精神分析

なんでもないことはなんでもないこと。

お湯が沸いた。低めの音でパチンといった。いろんなこと着々とやっているつもりが終わりがないし新しくやるべきことはどんどん入ってくる。まあなんとかなるよね、結果的に。なるのかな。

なかったことにする人って本当にどこまでもどこまでも終わりなくその活動を繰り返すんだなあと眺めている。それでもうまくいかなくなったら忘れられる権利とかを軽薄に持ち出しそう。もはやそういうのは「活動」だなと思う。加担する人も似たような人ばかり。まずはカップルを形成して似たようなことをするところから。依存も排除もひとりでではできないものね。そういうのは数が増えても依存と排除であって協力でもなんでもないので搾取と侵害をさらにひどい形で繰り返しているだけじゃないかなと思うけど。「活動」に対する「運動」というのもある。私たちの運動の相手は政治家であり同業者なわけだけど別のなかったことにする人グループを見ているとその人たちのあり方とよく似ている。膨れる集団。なんにしてもなかったことになどできないのだけどね。そうしない人が生きているうちは。

冷凍ごはんを冷凍庫からガタガタと取り出す。タッパーで冷凍しているからベリベリと少し蓋を開けて電子レンジにいれる。その間に納豆をかき混ぜる。あの音はなんて表現したらいいのかな。さっき一度鳴った電子レンジが早く取り出せとばかりにもう一度なる。はいはい覚えていますよ。納豆まで準備してごはん忘れたりしないと思う、さすがに。そのうちそうなりそうだけど。

近所のコンビニみたいなお店が早くもなくなるのでコーヒーを買ってきた。閉店で安くなっているとかではないけど安いドリップコーヒーはそこで買ってたから。私はいつもそれを「おいしいコーヒー」と言い間違えるけど「いつものコーヒー」だぞ、と心の中で確認しているときに「うまいコーヒーだよ、いつものコーヒーじゃないよ」と言われて驚いた。ありゃ、どっちにしてもまた間違ってた。

関係が良好だとなんでもないことに何度でも笑える。なんでもないことは実際になんでもないことでしかないのに、という一言を言いにくくなるような圧力を受けることもある。どうでもいい一言にまで正確さを求められようになったらその関係は支配関係かも。それを怖いといえなくなったらその関係はとても悲しく辛くて苦しいけど離れた方がいいかもしれない。怖いし愛情も混ざってるから離れがたくて頭が真っ白になる瞬間が増えて解離を起こすときもあるかもだけど相手のことを思うならなおさら離れた方がいい。そういうことをする人は大抵なかったことにする人でそういうことをさせない人が必要だから。怖くて悲しくて辛い気持ちは心身が回復したら別の形で見て見ぬ振りをしない人に向かって伝えていこう、ということを別の場所で書いた。

今日は20度まであがると教えてもらった。「すごいね」といったが何がすごいかはわからない。相手も「ねー」と言っただけ。イラッとされて「なにが?」とか聞かれる人もいる。どうだっていいじゃん、ということにまで憎しみを向けられるようになった、愛情なんてそんなもの?そんなことないよ。最初から搾取の文脈に使われてしまったのかもしれない。攻撃性というのは関係性を使って複雑に表現されるから。自分だけがそうされたから自分が悪い、なんてことはない。そう思わされることはいっぱい起きるだろうけど断じてそんなことはない。似たようなことが真逆の形をとっていたりするのは普通のこと。

なんでもないことに溢れている小さな日常がきちんとなんでもないこととして扱ってもらえますように。朝から苦しむなんてことのありませんように。願うばかりでそうでない現実は世の中に溢れていると知っているけどそれでも願う。

東京はよく晴れていますよ。それぞれの場所でどうぞご無事でご安全に。

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精神分析

早朝

自分が書いたものに向けられた批評のやりとりに対するご本人の理性的で論理的な応答をみた。実際現場で困難を引き受けながら仕事をしている人の強さだと思った。性的搾取についてコミュニケーションをたつことでなかったことにした人が公私混同パートナーとフェミニズムに触れていた。自由や倫理と同じく見るだけ知るだけ語るだけなら実際のあり方などどうでもいい(というのが世の中か)、とさっきと真逆のことも思った。深夜のSNSでは、すごく面白い書評を書く人が書評している本をつい買ってしまうけど〜、とちょっと可笑しい投稿があった。その人も独特の書き手だけどこんな感じのことも書くんだと新鮮だった。最近はどんな本を書いているのだろう。

暖房をつけっぱなしでうとうとしてしまった。まだ鳥の声がするには早い。

確定申告が嫌すぎてまだできていない。これに関してはSNSが非常に助けになった。私の好きな書き手である女性たちが「したくない」「辛い」と書く仕方が面白くて励みになった。だからといって進んでいないけど。そして彼らがなぜこんなに辛いのかということを確定申告の意義まで遡って検討しているのもとても共感した。頭ではわかっていても行動には結びつかないことは多い。理性は感情にたやすく負ける。

カラスが鳴いている。鳴き始めたというのか?カラスって夜も突然鳴くからいまいちわかりづらい。スズメたちが起きるまでお布団にいようかな。暖房ついていてもなんか肌寒いよね、この時間。今日もいろんな人たちに困らされたり励まされたりしつつ進まないものたちを抱えつつなんとかやれたらいいですね。

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精神分析

今はこう。今はここ。

右側の髪の毛を重く感じた。頭がすごいことになっているときもそんなふうに感じないのに。にしても髪が少なくなった。女性でも髪は減る。昔は黒くて豊かな髪ともてはやされたのに。今思うとああやって黒髪がやたら褒められるの変だよね。ワカメが好きだからとかさ。と書きながらもしかしたらすごいことになっていたりして、と鏡を見たけどまあ普通だった。多分寝ているときに変な格好をして髪と地肌が引っ張られたのだろう。

またどうでもいいことを書いているが昨晩もハラスメントや暴力がなくならないわけについて具体的な出来事に基づいて考えた。そうしたら眠れなくなったが今日も起きられた。意地でも行動を変えないことで自分には責任はないという態度を維持する「ひどい人」をそうとは知らずサポートしてしまう「いい人」たち。とても誠実に女性に寄り添うフェミニストだってそこには含まれる。見えないものを知ることはできない。恐ろしい世の中だな。というか世の中はこうやって恐ろしくなっていくんだな、といえる素材が揃ってきた気がする。揃えたくなくても日々そういう状況を目や耳にしてしまうのが現状。具体的な流れのパターンが見えてくると眠れなくなるほどに苦しいときも一定の冷静さは保たれていると感じる人もいる。そのあり方が解離である場合もあるが人はどうにかこうにか生き延びようとするものらしい。

出来事が起きれば考えざるを得ないはずだが考える力を奪われつつ進行する事態は多い。それまでたくさんお世話になってきたとばかりに人を無邪気に信頼し続けられるような関係ばかりならいいけど現実はそうではない。信頼していたのに、と生活自体が一変してしまう人だっている。そうまでなってもすぐには立ち上がれない。すでに思考停止になっているから。苦しくて眠れない日々を過ごす間もそれを公にしない限りは同じ人物と誰かの無邪気で楽しげな信頼関係を見せつけられる。SNS時代だ。自分もかつてはそうだったと問題をずらしてやり過ごす人だっているだろう。利益が絡み契約がはっきりしていない関係はもっと難しい。「仕事だから」「だから?」と。

「仕事だから」に限らずそこに含まれる物言わせぬ圧力に「だからなに?だったらなにやってもいいわけ?」とはいえないことともしばしばだ。圧力を受け続け少しずつ蝕まれてきた。もう限界、と立ち上がりたいがまずそこから回復しなければならない。そしてその間にも搾取は続くだろうし、その人となにも知らない周りの人たちは、という繰り返しもあるだろう。累積外傷という言い方はしっくりくる。よって悲しいこと苦しいことに終わりはなく大抵悪いのは弱い立場の人という構造は維持される、のか?現状はそうか。本当はそこで生じていることはそんな単純なことではなく気持ちもぐちゃぐちゃぐるぐるとものすごい複雑なのにまず単純な構造にしないと思考停止の仮死状態が続いてしまう。それでも何度も襲ってくる痛みを消せるわけではないのであまりの負担に「次行こー」「前を向こう」と自らを励ましてはズタズタになって戻ってくる人もいる。矛盾する感情に疲労し無気力で動けない日々を過ごしている人もいる。だからまずはシンプルに。自分に扱える範囲を一緒に探そう。でもそのプロセスはあくまで自分の気持ちを殺さないためのものだからそれを忘れてしまわないようにしよう。なんで自分こんなことしてるんだっけ、とひとりで迷子にならないように。「今はこう」「今はここ」少しずつ少しずつ。

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精神分析

寝不足、聞き方、当たり前

寝不足のまま冬が終わった、とか書けるのは朝が暖かくなってきた証拠だ。寒いうちは寝不足よりも寒さに気を取られてびびっていた。毎年寒さにびびりすぎているがそれ以外になすすべなしなまま今年も寒さが緩んできた。慣れないことに慣れた。毎日まだ暗いうちから起きて何かはしているがそんなだったら寝ていたほうがいいのではないかというグータラな時間を過ごすことも多い。むしろその時間がほしくて起きてしまうのか?わからん。まあ寝不足にも色々あって不安と疑惑に苛まれ真夜中に目を覚ましスマホをみて予想通りのことを目にし予想通りにも関わらず苦しくて眠れない、という日々を過ごす人もいればなんとなく寝たり起きたりしているうちに朝になっているけどそれなりに元気みたいな寝不足もある。私がお会いする方の多くは睡眠に関してなんらかの困難を抱えている。使われる薬は同じだとしてもそれについての描写は様々だ。とはいえ、それでもやはり睡眠や食事は生活の基本なのでほかに話されることとは少し聞き方も異なりサクサクと抑えておかねばならないことを聴取したりする。何年も医師にも並行してかかっている人でも医師の前では「お変わりありませんか」「はい」みたいなやりとりをしてしまい、あちらが色々選択肢を準備してくれたとしてもなんとなく全部「大丈夫です」とか言ってしまう人も少なくない。こちらで話を聞きながら「お医者さんに言ってみました?」「(首を横にふる)だって先生(医師)忙しそうだし」という人もいれば「なんていえばいいんですか」といつもそこからみたいな場合もある。そういわれると「あ、そこからだったか」とわかるので助かる。

私は精神分析だけやっているわけではないというか精神分析を求める人というのはそう多くないのでいろんな形でいろんな方とお会いしていくわけだけど話をよく聞いてその人がなにを言いたいのかを教えてもらうのはお互いにとって有意義だと感じるしなんらかの驚きがたくさんあるので驚く(楽しいとか面白いとかも違うかなと思って)。精神分析はよくわからないけどむやみに嫌味や批判の対象にされやすい。否応なく相手がいる場所で自分の言葉を発し続けることで自分のモヤモヤや自分でも受け入れ難い考えと出会って(相手がいるってそういう機会だから。)それに対する自分の態度に「あれ?」と思ってSNSとかではなくずっとそこにいる治療者に違和感をぶつけてみたりしながらいい悪い正しい間違ってるとかの基準ではない見方で自分が他人や状況をどう体験しているかに気づいていく。あえて目的というなら今とは違う目と耳と身体で体験し言葉にしていけること、だろうか。ダラダラダラダラしゃべっていても「なんで自分こんなダラダラしゃべってんの」と気づいて止まって「ああそういえば」と一見全く繋がりのないことが想起され話されたりする。それの連続。よく勘違いされるように過去に因果関係を求めているわけではなく、過去から続いている今の自分がこんな苦しいのはこういう見方や行動と関係あるのかということを聞き方を知っている治療者の前で話すことで体験、吟味しなおし、たとえ今こんなにダメな気持ちで何もできないとしても自分がダメとか誰かのせいとかそんな単純なものではないんだなということにじっくり触れていく。それが衝動的な行動化や身体化の予防にもなっていく。そのための手助けをしている。そしてそのための訓練をしている。確かにエヴィデンスとは馴染みにくい方法ではある。でもそれについて実践的に学んだことやある基準を満たしている分析家のもとでそれを体験したこともない臨床家(こんな前置きつけずとも「臨床している人が」)が国際的に実践と研究が積み重ねられ続けている技法に対してとても学問的とは思えない口ぶりで何か言っているのをみると当事者の言葉や体験を大切にするって仕事だとしても本当に難しいんだなと思う。エヴィデンスが足りないという理由で「正しく」ないもの、自分にとってなんとなく「良い」とは感じられないものはどう扱ってもいいわけではない、というごく当たり前のことがせめて共有されるといいと思う。そこには人間がいるので。

今日は夜は雨が降るの?今こんないいお天気なのに?洗濯物はどうしましょう。花粉も飛んでるから外出さないほうがいいかしらね。みんなもう起きたかな。寝ていない人も寝不足の人もいっぱい寝たけど寝足りない人もどうぞご無事で。できたら元気で。

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短詩 読書

『アンソロジスト』、時実新子『小説新子』を読むなど。

時実新子という川柳作家がいる。現代川柳の暮田真名さんが早稲田大学大学院で研究しようとしている対象だ。ということを以前伺った。

紀伊国屋書店で待ち合わせをした。お目当ての『アンソロジストvol.4』(田畑書店)を見つけた。川柳の本が増えている気がした。暮田真名『ふりょの星』は相変わらず平積み。表紙の吉田戦車の絵はやはり最高にかわいい。吉田戦車の川柳とか面白そうだ。『走れ!みかんのかわ』(河出書房新社)とか組み合わせ可笑しいでしょう。彼は音程はどのくらい意識しているだろうか。暮田さんは今号の『アンソロジスト』「スケザネ図書室」に「音程で川柳をつくる」という短文を寄せている。暮田さんが教える仕事が増えるにあたり「でっちあげていかなければ」とでっちあげた「作句のルール」のひとつだ。でっちあげというわりに超真面目に実践が紹介されているのが暮田さんらしいズレだと思う。超音痴の私にはやはり難しそうと不安になったがここで挙げられている方言がそうであるようにイントネーションというのは音痴のもつ特性とは少し別のところにあるような気がするからなんとかなるだろう。五七五に五七五を意識せずに言葉を入れ空席の数にはまる言葉が聞こえてくるのを待つようにすればいいらしいっすよ、先輩、という感じですね。

この『アンソロジスト』を指にはさみ(薄いのだ)平積みを眺めているとどーんと目に入ってきたのが『小説新子』(小学館)。そう、最初に書いて忘れていたわけではないよ、川柳界の与謝野晶子と言われた情念の女。この方、第一句集も『新子』。自分をどどーんと出してくる。ペンネームではあるけれど。

いやあ、すごかった。見も知らぬ家へ嫁へ行く『嫁ぐ』で幕を開ける新子の半生。暮田さんは新子をどうやって扱うのだろう。この人でっちあげ要素ゼロではありませんか。あまりにストレート。結婚の約束までしてくれた初恋の人を追い返した母。親には親なりの理由がある。

河口月光 十七歳は死に易し

読み始めてまもなく最初に登場する川柳だ。つまりこれは新子が十七歳で嫁いでからのお話である。

この続きは今度書こう。同時代のいろんな女が思い浮かんできてしまったのでキリがなさそうだ。女の言葉というものがあるかどうかは知らないが言葉から意味を外してなお残る情念みたいなものがあるとしたらそれをどう表現しよう。

なんてことを意識的に考える時間は今日もないがこう書いておけば突然どこかで何か思いつくかもね。花粉が辛いけどまたね。元気で。

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精神分析

カタカタカタカタやっているが一向に進まない。なぜ。書いては消しているからか。なのでサボってこうしている。そんな場合ではない。ああ。

まず思考停止し、再度読み直し、またしばし停止し、自分の読み方が何か違うのではとまた読み直し、やや混乱しながら大変な不快さに襲われるニュースが多い。「教育・人材力強化調査会」を検索してみたら役員一覧をツイートしている人がいた。ああ。心なんて見えないものの扱い方がわからないのは仕方ないにしても身体はその人のものであってなんてことをわざわざ書くのも思考停止を防ぐためでしかないのかもしれない。

なになにができる身体、できない身体で分類するのはたやすい。そうしたい、したくないという欲望も当然持つ身体だが自分自身でもそれに気づくことは難しかったりするからまた厄介。

しまった、うとうとしてしまった。作業に戻ろう。

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精神分析

紅茶、目覚め、ひどい人

お湯沸かしてる。ティファール系は沸くのも早いけど冷めるのも早くない?ポンと沸いた音がする。美味しい紅茶をいただいたのでそれにしようかな。「素敵な一日になりますように」というメッセージ付き。おお、個包装ひとつひとつにも書いてある。これみんなに分けるにもいいですね。ありがとう。「3-5分後」というハイフンが短すぎて35分後かと一瞬目を疑った。そんな特別な紅茶なのか!?と。そんなはずないじゃんね。冷めちゃうよ。うわぁ、きれい。ジャーマンカモミール、ジャスミンフラワー。ジャジャ繋がりだね。最初の職場で「ジャージャージャー炊飯器ー♪」という所ジョージ的ソングを披露してバカにされつつ喜ばれたのを思い出しますね。ああ、とってもいい香り。全然目が覚めなそうだよ。美味しい。

目が覚めるのは嫌なものを見るとき。目が覚める以前に眠れなくなる。ひどいことを言う人が公の場にいるのは政治家からしてそうだけど個人的にひどいなあと思っている人が倫理とか自由とか語っているのを知ると、いや知っていたけど、ああこの世は地獄だなあと眠れなくなるよね。私のいうひどい人は悪いものはout、楽しいもの美味しいもの知識的なものだけinする人のことなんだけどそういうのってひどいけど誰の周りにはおられるでしょう。誰かにとってはとってもいい人として。

視界からは消せないけど見せないようにしてくれてありがたい、というようなことをハラスメントを受けた方が呟いていたけど見える形で存在しつづける「悪」とは簡単にはいえないひどい人に対してはどうすればいいのでしょう。こちらが目を閉じれば?ひきこもれば?SNSもみない、周りの人も気を遣ってくれる、そういう努力をしてもしても消えることなんかない痛みはどうしよもない?また「自分が何したのかわかってないのか」とか言われてこっちのせいにされておしまい?そうやって繰り返す?

苦しいですね、こういうの。終わりが見えない。視界から消すことも今の時代は本当に難しい。言葉はどんどん見える形になる時代だもの。長い間眠れない日々を過ごしながらなんとか持ち堪えている人にこの紅茶を渡したい。メッセージつきは嫌かな。「素敵」なんて言葉みたくないかもしれないね。それがいかに言葉でしかないかを体験してしまった人にとっては。とってもきれいでとっても美味しいこれを共有したいけど思い出したくない香りかもしれないね。トラウマという言葉で括ることなく傷ついた体験を細やかに共有することは難しいけれどどういうことが起きるとどういうことが生じやすいかを知ることは役に立つだろうか。私たち専門家は知ってはいるけどだからといって傷つきを予防したり回避したり他の人より素早く楽な方に向かわせるなんてできない。そういうことが難しい場合があるんだよ、ということを実感を持って知っているだけ。

さあ、やるべきことやらないと、と毎日思うだけでなにも進んでいないけどなかったことにはできないからね。どうにかなることを自分に期待しよう。

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精神分析

小さな間違い、矛盾、積み重ね

チョコレートを食べすぎている。肌にもでちゃっている。というか肌の調子はここ一年ずっと悪い。本当にひどくなったとき以外何もしないからきちんとせいという話か。メイクをほとんどしないから肌に負担かけてないと思い込んでるけどそんなはずない、というのを何十年繰り返しているのでしょう。なのにまたチョコもらっちゃった。しかも美味しい。困る。

昨日、クリックポストで本が届いた。あまりに薄くて間違って空っぽのまま送られてきてしまったのではないかと疑ったくらい。きちんと入ってたよ。薄い本。読む余裕がなくてまだ起きっぱなしだけど今日持ち歩こうか。クリックポストってどうしてクリックポストっていうのかしら。1クリックで送れるよ、とか?そんなはずないよね。ポストに入れないとね。なんとなくクイックポストかと思ってた。プロセス上どこかがクイックなんだろう、と勝手に。このくらいの間違いなら誰のことも傷つけなさそうだからこのくらいの間違いの繰り返しで生きていきたいと思ったけどこういう小さな間違いの積み重ねがいろんな問題の構造化に繋がっているのかもしれないとも思った。積み重ねられる何かって怖い。いい方向に構造化されてほしい。いい方向への関係がほしい。悪循環はもう目にしすぎてる。方向転換のために何が必要か模索せねば。小さな間違いに注意を払うところからか、自分の。ああ。

人新生の本でラディカルなことをいっていた斉藤幸平さん(ご本人は何かで「あえて」といっていたけど)、神宮外苑再開発認可取消裁判の原告になったのか。原告何人くらいいるんだろう。各界の専門家60名くらいか。ほんと力を持つ人は口ばかりではなくこういうことに力を発揮してほしい。色々偉そうなこというけどおまえはどうなんだよ、なにやってくれんだよ、ということを常に問われる立場になるということなんだろうから、ああいう本を書くということは。対立関係を作らないための構造について熱く語っている人がいつも同じ人やサイドをスピーディーに支持している様子をみると言葉ってむしろ・・・と思ってしまうときもある。身体へのアプローチとの矛盾があるとなおさら混乱する。嫌いな相手の身体を触ることに対してものすごい葛藤を抱えながら仕事をしている人もいればそれとこれとは別でした、はいすいませんでした、みたいな人もいるけど他人の体験を体験することは自分を通してじゃないと難しいからそれに対して何かをできるのも自分。通じ合えないのはしかたない。でも他人との小さな積み重ねを自分の良い方向への動力にできる人はたくさんいると思う。この場合の「良い」も曖昧なものだけれど。今日もよくわからないけど良さの方向へ偶然が導いてくれますように。みんなの自分じゃどうにもならないこともそんな方向へいけますように。

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俳句 短詩

高浜虚子、暮田真名、千野千佳

すごいな。世界が光で溢れてるじゃないか。とかいってまたぼんやりする。こんな時間になっちゃった。もうどこまでサボれるかチャレンジみたいになってるな。いつになったら少しはまともに動けるようになるんだろう。

3月、本当に大変なことになるぞー。でも今日はまだ2月、とかすぐに「ダイエットは明日から」的な言葉が出てくる。自分で自分の首をしめるということを人間は平気でするのですね。私だけかな。

これよりは恋や事業や水温む 

きょっしーの句です。高浜虚子ね。これは卒業する学生たちに向かって送ったんだって。ほんと、こんな気持ちになりたい。角川書店の『俳句歳時記 春』にも収録。私は同じく角川の『合本 俳句歳時記 第四版』Kindle版で知りました。

一を知つて二を知らぬなり卒業す 高浜虚子

これもほんとそうだねえ。虚子の句は俳句に興味がなくても楽しめる人が多いと思うな。いい句だと思いません?自分でも作れそうな。もちろん作れないのだけどそう思わせてくれる親しみやすさが虚子の句にはある。ふらんす堂の高濱虚子句集『遠山』は新装版が出てるから興味をもたれた方はチェックしてみてくださいね。私は暮田真名さんに教えてもらって買ったのだけどコンパクトなのがまず素晴らしいし、楽しい句集です。俳句の魅力はなんといってもその短さ!と私は思っている。短歌とか「長いなあ」と思ってしまう。暮田さんは川柳の人だけどいっぱい読んでるから俳句の話も楽しくできる。同じ575だしね。川柳は77もあって暮田さんの77は面白いよ。

余力があれば荒廃しよう 暮田真名

77。私は荒廃する余力もないというか荒廃ありきみたいになってるな。荒廃したら余力はないよ、これも77だけどそりゃそうだろうみたいなのは現代川柳ではないんだなあ。ちなみに暮田さんのは歌人の大橋なぎ咲さんとのユニットによるネットプリントの総集編『当たり』に収録。『遠山』と同じくコンパクト。紅白でかわいい本です。

私と川柳の偶然の出会いを作ってくれた千野千佳さんが先日、星野立子新人賞に輝きました☆

花筵たたまんと立つ二人かな 千野千佳

これ『角川俳句』3月号に収録された受賞作のうちからのたった10句の中のたった1句なんだけど「花筏」と誤植。「はないかだ」はたたまないでしょ。コピペすれば間違えないわけだけどもう1句、誤植があるのです。なんでかな。多分読めば「あれ?」ってわかるのでこれも興味のある方はみてくださるとよいかも。「大きさ」ではなく「大きな」が○です、とだけ書いておこう。早く訂正してほしいな。

今は梅が満開。あと1ヶ月もすれば桜。二人でたためるくらいの花筵でお花見もいいかもですね。私は大体歩き花見だけど。北沢川緑道とかきれいです。

千佳さんと暮田さんのユニット本を作りたいという夢があるのだけど余力どころか、という感じだからだれかー。素朴で新鮮。正直でユーモラス。虚子みたいなお二人です。

なんかカラスが怖い鳴き声をあげている。怖さにも色々あるよね、とまた暗い気分になりそうだから楽しい気持ちのまま切り上げよう。またここで会えたら会いましょう。

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短詩

ラーメン、そぼろ、越生など。

起きても起きてもまだ早いというのを繰り返してようやくいつもの時間。もう真っ暗ではないね。本当に起きましょう。これから寝る方もいるか。工事の方とか夜集中的にやったりしているものね。寒いのに大変。お疲れ様でした。もうすぐ暖かくなると聞いたけどもうすぐっていつかしら。もう寒いのはいいよー。

久しぶりにラーメンを食べた。麺を半分にしてもらったとしても私のおなかには重たいのだけど白菜とお肉とスープがおいしかった。温まるしたまにはいいね。隣の人が食べていたそぼろごはんは半熟卵入りでとても美味しそうだった。そぼろって美味しいよね。子供の頃から好き。ひき肉の苦手な人っているよね。あのポロポロ感がいやというのを聞いたことがある。私はあのポロポロとお箸を逃れていく感じも好き。味が好きだからがんばって追いかける気になるだけか。

朝は何を食べようか。越生のお土産だな。埼玉県入間市越生町越生。越生梅林という有名な梅林があるんだって。いいなあ。いってみたい。越生は梅の時期ではなくて躑躅、五大尊つつじ祭りへ行ったんだ、そういえば。もう随分昔だな、多分。越生は太田道灌ゆかりの地なんだよね。あそこで太田道灌父子ってすごいんだなと思ってあの後別の場所でも太田道灌の何かをみてどこにでも現れるなあと思った記憶があるのだけど別の誰かと勘違いしてるかもしれない。

お父さんの道真は宗祗たちとも交流があった人。彼らの連歌会は『河越千句』という連歌集になってる。この「河越」ってあの「川越」とつながってるのかな。

梅が香にくもらはかすめ夕月夜 宗祗 

梅園に草木をなせる匂ひかな 心敬(『河越千句』)

梅さきぬなほ山里を思ふかな 道真(『河越千句』)

なぜ今連歌の方に関心が向いたかというと句友たちが連句をしているというのもあるし連歌発祥の地と言われる甲府市にある酒折宮に行ったばかりだからというのもある。連歌は本当はこうやって抜き出すものではないのかもしれないけどなんにしても越生の梅は素晴らしいということは伝わってきますね!ということで越生の梅干しと梅×レモンケーキという謎のお菓子と梅は関係ないけど実がなる繋がりということでなのかわからないけどユズガッツという「坂道に効く!」と書いてあるお菓子をもらったのでした。梅干しはシンプルだけどお菓子たちは遊んでるなあ。きっと美味しいでしょう。コーヒーを淹れましょう。

色々ためてることを毎朝思い出して嫌になってしまいますね。それで寝たり起きたりしてたのかしらね。やらねばでもやりたくないの繰り返しで。とりあえずお菓子お菓子。

お天気は?私のアイフォンによると東京は晴れ。最高気温10℃。寒いやん。明日は最高気温が高めみたい。とりあえず暖かくして体調崩さないようにしましょ。まだ雪に覆われた地域の方は雪解けが待ち遠しいですよね。私は雪国のことが全然わからないのだけど気をつけてお過ごしくださいね。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析、本

プリズム、やり直し

鳥が鳴いてる。カーテン開けられない。飛んでいっちゃうから。でもカーテン開けないと見えない。生活はジレンマだらけだな、とか急に大きそうなことをいってみる。鳥の世界の方がずっと広くて大きいけど。

すぐそばでスズメの大きな声がした。一羽じゃ出せない大きさ。『スイミー』(好学社)を思い出した。そっちの方を見上げる。いた!小さな木にいっぱい止まってる。一緒にいた人は最初気づかなかった。まさかこんないっぱい木と同じような色したのが止まってるって思わなかったみたい。毎日そこがねぐらなの?こんなに風が強いのに一晩中そこでそうやって丸まって寝るの?大好きなスズメのことも全然知らない。

まさかこんないっぱいいるとは、そうなんだよね。こっちは大体いつも同じ目線でしかものをみてないから向こうにとっては当たり前のこともすごく新鮮でびっくりちゃうことがあるんだよね、という話もした。よくよくみるように知るようになってから全然見え方が変わったものや人について話し、話しているうちにそのものや人のことをもっと共有したくなったといって色々教えてくれた。私は私でまた別の印象を持つわけでそうするともっとそれらについての見え方って変わる。プリズム♪YUKIの曲、よく歌ってたな。

♪いじわるな人がとやかく言うけれど 私は、どこかでまちがえたかしら?♪

今日はまちがえないぞ。この前すっぽかした予定を移してもらったの。すっぽかしたのだから移してもらったとは言わないか。すっぽかすつもりはなかったのだけど。すっぽかすつもりですっぽかす人だっているでしょ。日曜日に何も予定がない日はないはずなのにその日は「何もない!」と勘違いしてプチトリップに行ってしまった。そしたらLINEが。がーん。アイフォンに入ってない。入れたはずなんだけどなんかアイフォんのカレンダーに同じ予定が二重で出ることがあってその一個を消すと両方消えちゃうみたいなの。どうして?同期の問題?動機の問題?いやいや。だっていつもすごく楽しみにしてる予定だもん。そこでやり直しの機会をいただいたわけです。ごめんね、みんな。お詫びのお土産あり〼。お詫びのお土産って言うのも変か。でも本当ごめんよ、ありがとう。

昨日も海外でトレーニングしている友人からのメールでさ、とまた私側の忘却による不義理があったわけですが何度でもやり直せる関係の相手だからきっと大丈夫。ごめんなさい。

やり直せない関係は自分か相手が死ぬ場合以外、本来あるのかしらね。コミュニケーションを断たれることはやっていきたくないというコミュニケーションだからやり直す以前。基盤が壊されてしまうわけだから。やり直しには共有された何かが必要だものね。精神分析の防衛機制の分類は本当に有用。そういう分類でも使って仮の理解しなくちゃ耐え難い心ない反応にもたくさん出会うものね。こころが壊れないように、殺されないようにできることを実際に死にそうな人たちと一緒にいて自分たちが共有できそうなのは言葉だから言葉中心にできることを探って作り上げてきた治療文化を外側からわかったように語る人もいるけどそれはそれでコミュニケーションする気がないというか知的に素早くコミュニケーションできる人としかコミュニケーションしたくないとか色々あるのかしらね。私はコミュニケーションは時間をかけて続けていくものとしか思っていないので「正しさ」について何かいいながら何かの方法を「これぞ正しき方法」みたいに教えている人とやっていくのはいまのところ難しそう。どんな丁寧な物言いでどんなに信頼されていても陰で人を切り捨ててるような人がそういう教えによってお金をもらっていたりもするわけで、でも現実ってそういうことに溢れてる。教員のセクハラとかもそうだろうし。私たちの仕事だってある人にはこうである人には全く別物だろうし。だから実践を通じて訓練するわけだけど。ほかの人にいっても「まさかあの人が」と一面的な見方しかしてもらえず偏った聞き方しかしてもらえないようなコミュニケーションは死にたくなるほど苦しいしそうやって傷ついた人たちと関わるような仕事だから今日もいいとか悪いとか正しいとか間違ってるの前に何度でもやり直せるための条件について考えましょう。それを壊してくる圧力や暴力のことも同時に。

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コミュニケーション

ガシャーン

コーヒーで熱くなったので今日も寒いらしいことをすっかり忘れて薄着で出ないようにしないと。一度出ちゃうと振り返ればうちだとしても戻るの面倒になって「ま、なんとかなるか」と駅くらいまではいいけどホームで「やっぱりもっと着てくればよかった」となることを何度もしているのだから学びましょう。今日も着膨れていこう。外の世界は春の季語だらけだけど私の身体はまだ冬の季語だらけ。

この前、3ヶ月後には2歳になる子とたくさん遊んだ。ひらがなとか数字に合わせた絵が描いてある正方形の積み木を横に積み重ねるのではなくて縦に重ねていたらその子もなんなくその上に重ねはじめてみんなでびっくり。みんなで手をたたいてすごいすごいとするのを見上げるがその子はそれを偉業とは思っていないらしくクール。一方、積み木が崩れたときの興奮は素晴らしくかわいらしくみんなで「ガシャーン」と言いながら口に手を当ててびっくりするポーズを何度も何度もやった。絵本の蝶々の片方の羽を引っ張ってちぎってしまったときはびっくりしてしばし思考停止していたようだったのに積み木に対しては崩し残した積み木も手ではらいのけ完膚なきまで崩してから例のポーズを楽しく繰り返す。大人でもひとつひとつの仕草とかいろんな特徴を知るのは楽しいけど小さい子のには驚かされることばかり。自分も通ってきたはずなのにね。

本当に毎日色々あるけどなんとか過ごそう。まずは忘れずに暖かく!

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

子育てとかこれとあれの違いとか。

小さい子と遊ぶとそれ以外のことはなにもできなくなる。子供1人で大人が3人以上いればひとりが遊んでもうふたりがしゃべっている時間もあるが結局全員の注意は子供に注がれている。楽しくて楽しくてなんとか眠らないようにいろんなことをする子供がおかしくてかわいくてみんなで笑う。ようやく腕に抱かれて眠りそうな子供のそばであとのふたりは声を潜める。小さな身体でチュパチュパと音を立てながら眠りに落ちようとする姿に懐かしさを覚える。懐かしいと愛しいはセットで生じる。子供がいる大変さを語りながら子供に時間をとられながら子供と一緒によく笑い子供の仕草に驚き発達を心配し「そうか」と何かを発見しということを子供のそばで繰り返す。自分のしたいことすべきことは全く進まない。それでもなんとか進める。大変としか言いようがない毎日だがそれはネガティブな意味だけではなくとにかく予測不可能だということが想定される毎日だからだろう。私は子供と関わるのは仕事でも趣味でも生活でもあるのでわりと役に立ちありがたがられるしいろんな親たちといろんな子供と遊びながら話をしてきた。子育てを語るというより子育てをしているその人が語ることはそばにいる子供の語りでもある。彼らの親の語りでもある。ひとりの人に生きている歴史、生きようとされている歴史、そういうのが大切にされればいいなと思いながら話を聞く。当事者として語ることと第三者として語ることは当然異なる。当事者のくせにあっという間に第三者として語れてしまうこともある。子育てをしている人にはそれができない。だからきついということもあるだろう。なかったことに、いなかったことにできたらどんなに楽か。負担を引き受ける方の願いは大抵望ましくないものとされる。おかしなものだ。どうして自分だけ逃れらられると思ってるんだろう、実際逃れられてしまうのだろう。前者は個人の問題で後者の社会の構造のせいだとかざっくりしたことをいっておこう。戦争が起きている世界のすぐそばで心はもちろん身体的な搾取を行う一方で人の相談にのって感謝されたり大きなこと、丁寧なきれいごとをいって大きさを問わずメディアと共謀しナルシシズムを満たされている個人は子育てをしている人の横で何も見えていないかのようにしてでも見えているから急に怒鳴ったり暴力を振るったりしながら外では「いい人」でいる人と何が違うのだろう。あれはなんだったんだろう問題がこれとあれは何が違ったんだろう問題として私の中で変換されがちな今日この頃。やるべきことやりながら感じたこと今日も色々書きつけていきましょう。

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精神分析、本

ジェンドリン『プロセスモデル』を読んでいた。

 

ユージン・T・ジェンドリンの『プロセスモデル 暗示性の哲学』(みすず書房)を読んでいた。ジェンドリンといえば来談者中心療法(Person-Centered Therapy)の創始者、カール・ロジャースの統合失調症に対する治療に関する研究であるウィスコンシン・プロジェクト(Wisconsin Project)のメンバーで、その後フォーカシング(focusing-oriented therapy)を開発した人。ウィーン生まれ、ナチスを逃れてアメリカへ移住、シカゴ大学で哲学のPh.D、その後ロジャースのいるウィスコンシン大学精神医学研究所へ。私が若い頃は村瀬孝雄先生とかまだ生きていらしたけど大体の臨床心理士は特定の治療技法の訓練システムに入るなら海外へいく必要があった(ABAだってそうだったから諦めたし)時代だったから日本で学ぶならその技法の「大家」と言われる人のセミナーに出たりという感じで、特定の技法というよりいろんな治療法を満遍なく取り入れていた牧歌的な時代だったと思う。CBTと精神分析の対立は一部ではあったみたいだけどどちらも日本でトレーニングを積んでいる人は少ない時代だったし(精神分析は今もだけど)私の学習環境や臨床環境は極めてのどかで恵まれていたと思う。今も当時の同僚は友達として助けてくれる。私にとってフォーカシングもそういう技法の一つだったのだけど村瀬孝雄の話を聞くために講演会に行ったらちょうど亡くなってしまってそれ以来フォーカシングは遠くに行ってしまった気がする。私は精神分析のトレーニングに入ったし、身近な友達もそれぞれ別の技法へ向かってフォーカシングを使った臨床をしている人がいなかった。あれから30年近く経って私が唯一ジェンドリンといえば日本では、ということで知っているのは末武康弘先生だけど今回の『プロセスモデル』は末武先生たちの翻訳。難しい本なはずなんだけど意外と読みやすく感じるし註が勉強になるしフロイトとかウィニコットとか出てくると嬉しい。

中身について書こうと思っていたのに思い出話を書いてしまったらまあいいかという気分だな。みすず書房のサイトとかをご覧くださいね。フォーカシングの背景をなすジェンドリンの哲学が詳細に書かれているから。私はもう技法としてフォーカシングを学ぶ余裕はないけれどどの技法もその技法がどうやって生じてきたかを学ぶことはこうやってしていくと思う。ジェンドリンは体験と体験過程(ing系が大事ということ)を分けてフェルトセンス、IOFI(instance of itself)という普遍原理を想定し意味創造プロセスを理論化しようとした人なのだと思う。それは人間だけではなく生命体全体の進化に関する心理学でもあった(雑すぎるので興味がある方は本をお読みくださいね)。インタラクションファーストであるのに言葉を持つゆえの不自由さを持つ人間の知覚以前の場を身体に見出してそこで暗示されているfelt meaningに触れていくことが新たな意味の想像へ繋がるという身体とシンボルの橋渡し的なことをジェンドリンは考えていたのかな、というのが私の単純な理解。とにかく知覚以前を「暗示性」という言葉で明示していきたいという感じ?そうそう、翻訳の副題「暗示性の哲学」なんだけど本文中では暗示はインプライとカタカナで表現されている箇所が多いのも印象的でした、とかいってパラパラ読みだからあくまで今のところの印象。

誰かのいっていることにはその背景があるって考えるのは普通だと思う。誰にでも個人の歴史を超えた歴史が備わっているわけだから。だから何というわけではないのだけどそういうこと考え出すとこっちではこんな苦しくてでも本当にそれはどうしようもなくて何をどうしたところで何かが終わることなんてないんだみたいな辛さに覆われてしまうときがある。大抵は目の前のことに追われているからそれに呑み込まれずにすんでいるけどそういうときに本がベストセラーになったりする学者とかそうでない人がラディカルな物言いしていると「あなたはご自身もそこに含まれているって覚えてらっしゃいますか」と言いたくなるし、逆に一方では「ただの言葉」であるそういう表現に対してその人の人生全部乗っかってないと嘘つきだみたいにいう人にも「あなたその人の誰ですか」って言いたくなる。なんで生活を共にしているわけでもない人に一貫性押し付けられなきゃいけないんだよ、しかもその一貫性って矛盾だらけのおまえのだろうが、と汚い言葉遣いで言いたくなったりね。人間って矛盾だらけだから苦しんで苦しんでそれでもなんとか生きてるんじゃん?と思わないですか?だからなんかもう本当に辛いけどなんとかやろうねくらいのちょっと思考停止したことしか言葉にできなかったりするわけです。たしかに言葉は頼りないよ、ドクタージェンドリン。でも新しい体験に開かれているはずだよね、人間も。完全に自分に都合のいい読み方をしている部分だけ書いてしまった。みんなはどうかな。今日はお休みですか?お休みの人もそうでない人もどうぞご無事で。体温調節も難しいけどお気をつけてお過ごしくださいね。

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映画

『別れる決心』をみた。

腰が痛い。眠すぎて変な格好で断続的に寝たり起きたりしたせいだ。理由がわかる痛みならきっと大丈夫。

『別れる決心』という映画をみた。友達や知り合いがみたいすごいと呟いていたのでぽっかり空いた時間ができたときにパッと予約してしまった。他にみたい映画があったことをそのときは忘れていた。朝イチで映画館へ。6番のスクリーンへいくとキムタクと綾瀬はるかの映画のチラシが貼ってあった。うん?ここじゃないのか?前を歩いていた人もそんな感じで引き返していったけど私はまあここだろうと入っていた。でも引き返してくる人がいる。え?ここじゃないの?と思って引き返すと係の人がいて聞いてみたらほへ?という顔をされたあとすぐチラシに気づき慌てて謝ってここであってるよ、チラシを変えてなかっただけですから、みたいな雰囲気で私に伝え走り去っていった。こういうののチェックってルーティンではないのかもしれない。ある程度の期間やる映画が多いものね。

映画に関してはなんの前情報もなくただ周りで話題というだけでいったけど途中からあぁだから「別れる決心」かと切なくなった。

なんでこうやってすぐに惹かれちゃうかね、と思いつつすぐに手出したりしない(出せる関係でもない)のがかえってエロティックでロマンティックでよかった。にしてもこの音とカメラワーク、パラノイックでやや倒錯的。私はこういうの好きだけど。主役の二人がとっても魅力的。一方は移民(というのかな)で援助職で女で一方は自国の優秀な警察という設定がすでに多くの悲劇を孕んでいるがだからこそ惹かれてしまう部分も警戒し続け注意を向け続けることが愛という言葉を使わない愛みたいに感じられるのも暴力と殺人はどの規模でもどちらにも常に願望として存在しそれが身近だからこそ別のものに執着するのもどれもこれもよくわかるなあ。特定の言葉を使わないこと、霧で見えないこと、いろんなことを曖昧にぼかしてこそのロマンスだなあ。証拠隠滅しても残ってしまうものがあるからジレンマも生じるし。しっかしこの警官は優しくて頼りになるんだかならないんだかわからないとはいえ愛すべきキャラだけどなかなか狂ってんなと思わされましたね。普通の顔してそんなこと言ってるみたいな。暴力と殺人から離れられない点では追う方も追われる方も変わらないのね、特にそこに「愛」みたいなものがあると、みたいな場面もあったけど死ぬのはいつもこっちだなという感じもした。主人公二人はそれぞれ狂気に触れる生活で自らも狂気を纏いつつ知的で理性的で戦略的なのはサスペンとして面白かった。周りの熱い反応と比べるとだいぶ冷めているけれど背景とか考えるとこの映画は社会的な意義も大きいのかもしれないなあとか思ったりもした。別れる決心ってしてもしてもなかなかね。育ってきた環境とか切り離しがたい運命的な何かより人の方が別れやすいはずだからなんとか死なずにいく方向で愛し合ったり別れたりまた愛し合ったりできたらいいんだろうけどこの映画でも死ぬ方は終わりだし残された方はまたそういうチャンスがあるのでしょう、今は死にたくなるほどの慟哭にあるとしても。人間って、と思った。

すごく思い入れがあるわけでもこの映画の何かに詳しいわけでもないけど感想をタラタラ書いてしまった。眠いけど今日もなんとか。

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コミュニケーション 精神分析、本

三木那由他さんの本のこととかを少し

昨日、三木那由他『グライス 理性の哲学』(勁草書房)を開いていたはずが持ち歩いたのは小さくて軽い古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)で読んでいたのはもはや紙ではなくkindleの三木那由他『話し手の心理性と公共性』(勁草書房)。三木さんは文庫じゃないのは両方勁草書房なのね。書いてみてようやく意識することってあるね。

書くことに関する本も山ほどあるねえ。私も辛いときほど小説を書きたくなって小説を書くための本とか何冊か読んでるけど書き物に生かせるほど読んでも書いてもいないねえ。でも小説でなくても、こんな駄文ブログであっても、書くことで自分をどうにかこうにか保とうとしているところは多かれ少なかれある。ひどいことって色々あるから。個人の体験で外側に見えているのってほんの一部。いろんな話を何年聞いても、まだ本人が知らなかった本人のことがたくさん出てくるんだから。そのプロセスでまとまらなかった断片がなんとなく居場所を得たりもするから量的な問題ではないけれど。言葉はいつも必要だし、コミュニケーションに関する本、言葉に関する本も出続けるよね、そりゃ、という感じかしら。言葉にできない、ならない出来事って尽きないけど。悲しいことに。苦しいことに。物言わせぬ圧力をかける側が相談って大事だよねとばかりに周りに上手におはなしして同情共感されているのをみたりするとそれはそれで地獄だったりするし(私は「地獄」という言葉を使うたび九相図を思い浮かべています。あれについてはまた別の機会に。)コミュニケーション大事だよ、相談大事だよ、と言いつつそのあり方によってはそれ自体がまだ誰かの傷口を広げるわけだ。そういう困難や不均衡は生じるわけだけどそれこそ言葉を持ってしまった以上そういうのは仕方ないのでそれぞれがどうにかこうにかやっていくために今日もまた言葉に困り言葉に助けられながら。

三木那由他『話し手の意味の心理性と公共性』はグライスの意図基盤意味論(これは『グライス 理性の哲学』で詳細に書かれている)に対する批判から共同性基盤意味論を立ち上げることによってコミュニケーションにおける話し手の意味の公共性に注意を向けさせる本である(と思う)。そこでは共同的コミットメントによって誰かと出会い、共にあることが重視される。私はこの考えはウィニコットのshared reality、サリヴァンのconsensual validation と重ねて考えることができると思って読んだ。精読すべき本だと思うので近いうちにしよう。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 読書

知識

早朝から國分功一郎さんたちのUTCP公開セミナーをみていた。2月18日(土)午後に行われた柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)の合評会の映像のアーカイブ。1:28:55あたりから本編、というのが面白い。動く國分さんがいるのに何も聞こえないし何か始まる気配がないから私のパソコンがおかしいのかと思った。会場には柄谷行人ご本人がいらしていたとのこと。いいねえ。そのあとご本人からのフィードバックもいただけたのよね、きっと。私はまだ読んでないけどDの到来か。こういう話だけ聞いていると面白いような気がしてしまうけど知識も教養も足りなすぎるからまずはとりあえず読むだな。いつもそうだ。

言語論の講義を受けて発表もした。話題にでた三木那由他『言葉の展望台』(講談社)を再読しようと思ったが読みやすいそっちはいつでも読む気になるだろうからモチベーションが落ちないうちに途中までしか読んでいなかった『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』を開いた。あ、話題に出たのは『会話を哲学する コミュニケーションとマヌピュレーション』(光文社)のほうか。昨年刊行された『実践 力動フォーミュレーション——事例から学ぶ連想テキスト法』(岩崎学術出版社)の刊行記念に監修者の妙木浩之先生が寄せた文章にもこの本は登場する。

コミュニケーションは断たれてしまったら何も生じない。それは未来にとっては危険なことだ。いくら本を読んだところで知識を身につけたところで実際のあり方をずっと問い続けて自らも実践していくことがなければ言ってるだけの人たちと変わらない。言ってるだけであっても言えてるだけマシかもよとも思うが。文章を書くその人がどんな人であろうと読んだり聞いたりすれば助かる人も多いだろうからそれはそれで一つのコミュニケーションのあり方なのだろう。そういう乖離を見せつけられる距離で絶望を繰り返しさらにコミュニケーションを断たれたとしても(ひどいことは大抵最後までひどい)知識は知識だ。とても冷めた気持ちで言葉を物質として淡々と取り込む工夫も必要だ。三木さんの本を読むとなおさらそんな気持ちになる。動けないという意味で時間が止まる。思考が停止する。それでも時計は動き続けひどい人はひどいまま今日も元気だろう。冷めた気持ちで淡々と。いずれ使えるように素直に取り込んでいこう、それが誰から発せられたものであっても、正しいと言われる知識であれば。

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散歩 趣味

小島善太郎記念館とか。

オフィスから少し足を伸ばしていけるとしたら、って突然なんの話かといえば梅園の話。私のオフィスは京王新線の初台駅が最寄りだから百草園とか(駅も「百草園」)小田急線の参宮橋も10分くらいで行けるので梅ヶ丘駅の羽根木公園とかがお勧めかな。百草園は急坂をゆくので運動不足の人はこちらへ。百草園の少し先、えー、せっかく登ったのにまた下るの、という感じで降っていくと小島善太郎記念館というのがあってそこは今次女(昭和2年生まれ)の方が館長をされてて皆さん大変丁寧に説明をしてくださいます。おばあちゃんのうちへ遊びにいっていろんないいもの見せてもらいながら思い出話を聞くみたいな時間を過ごせますよ。百草園方面に戻るにはさっき下った坂をまた登らないとだけど。山道よりアスファルトの坂の方がきついけどがんばって!駅から少し歩くけどモグサファーム直営のジェラートのお店もいってみて。街道だから歩きやすいし辿り着いていただくジェラートは特に美味しいから。でも食べる場所は外のベンチだから晴れている日がいいんじゃないかな。今日とかよさそう。いいなあ。私も行きたい。

さっき書いた小島善太郎は洋画家で多摩の方の絵をたくさん書いているのだけど記念館には私が実家から眺め慣れていた妙義山の絵も数枚あってそうそうこの雰囲気と思った。八王子市夢美術館もおすすめされたからいってみたいなあ。

論文の精読とかして頭が働かないから、というか、これをもとに話し合うのにすでに力尽きているってどういうこと?こういうこと。素敵な景色と美味しいもので楽しくのんびりしたい。あ、でも今日じゃないけど楽しみな予定をひとつ思い出した。あーあ、とため息つきつつやるしかないね。みんなはどうするのかな。それぞれの日曜日、良いことありますように。

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未分類

ロケットとかロボットとか。

どうにもならないことにもういい加減にしてくれよという気持ちでため息をついていたらすごく時間が経ってしまった。やばいやばい。そんなことでやるべきことを回避している場合ではない。実際マジでいい加減にしてと思っていたりするわけだがやめられない行動、変えられない習慣に対して他人がエネルギーを使うのは合理的ではない、と思うべきだ、と言い聞かせる。無心に読まねばならぬものたちがたくさん。ざっとは読んだがただ読んだだけなのでほとんど何も残っていない。発表の資料作っただけでなんかすでにやった気分になっていた。それとこれとは別だよ、と自分に言い聞かせないと動けない。自分に言い聞かせることが多すぎて大変。

昨日、H3ロケット、発射できなかったんだ。昔、沖縄のJAXA(言い方合ってるかな)へ行ったとき、誰もいないライブラリでいろんなビデオ(だったと思う)を見た。種子島にも行きたいな、とその時から思っているけどまだ行けていない。私はロケットというものがどうしても現実のものと思えていない。何をしに宇宙へというのも読めばわかったような気になるが「で、何のために?」とまた最初の疑問に戻ってきてしまう。ロケットとロボットはいまだ私の中では絵本や小説の中のものなのかもしれない。

この前、バスを待ちながら小さなペットショップのもっと小さな檻に入れられた犬を眺めていた。犬はよく見えなかったのだけどその店全体をまじまじと眺めることを私はこのバス停を使うたびにしている。「何のために?」という問いはニンゲンナニサマと自分が思うという矛盾から距離を取るためのものかもしれない。だとしたらずるいね、私は。オマエも人間だろ、という話。

そらー、うちゅー、と見上げているだけの毎日だけどこんなことしている間にも人間は・・あとが続かない。色々ありすぎる。

とりあえず目の前のことをなんとか。みんなは今日は?もう起きたかな。まだ早いか。土曜日だもんね。東京はいいお天気。昨日よりは寒くないかなあ。どうぞ暖かくしてお過ごしくださいね。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

「問題」「事件」「よくあること」とか。

寝不足だけど眠くはない。この場合、寝不足というのはショートスリーパーの人でもこのくらいは寝るんじゃないの?みたいな基準と比較しているだけなので私が眠くないのなら全く構わないのかもしれないが多分どうせきっとこの後すぐ眠くなって移動とかが辛くなりそう。

ここでも何度も使っている表現がある。特定の人をさしているようでそうでもないみたいな書き方も頻繁にしている。昔、私の先生が本を出したときに「この本を読んだ先生の患者さんは皆さんご自身のことだと思うのかも」といったら「そうかもね」と先生は笑った。ものすごくたくさんの人それぞれと膨大な時間を過ごして記録を書き続ける生活をしていれば人のある程度普遍的な部分というのを描写できるようになるので読む側はどこかしらに自分と先生との関係や自分の特徴を見出す。というか人ってなんかどこにでも自分を見出すでしょう。八百万の神と多くの人は抵抗なく共存していて自分の性格とか運勢とか言い当てられちゃったりするわけだし。

私は自分を含めた女が身体と心を傷つけられたと感じた、感じている、感じ続けている場合の状態をいろんなふうに書いているのだけどほんと言葉っていかようにもとれるよな、と思うことがしばしば。たとえばひろゆきみたいな人のことを書くことでひろゆきを問題視するリベラルで無難な「いい人」のことも書いているみたいなことがよく起きていると感じる。そういう重なり合いがセクシュアリティに関する出来事を「問題」としたり「事件ではない」とか「よくあること」としたりすることと関係あると思っている。境界線はどこかしら。巧妙に発信し、巧妙に誤読するというように意識的にやることもできるけど何も考えずに読んだり聞いたりしているのに相手の意図や別の人との受け取りと全く違ったということだって生じる。特定の人のセクシュアリティをひどく傷つけると同時に別の人のセクシュアリティに良きものとして絡んでいく社会的には人気者、なんていくらでも聞いたことがあると思うけどこういうのを実感を持って考えていくと法律の壁や連帯の難しさとかものすごくいろんなことに陰鬱としてくるんだな。社会的に裁かれることもなく平然と賞賛と共感をえる小さい社会でのインフルエンサーでももっと公の偉い人、すごい人でも誰か特定の人のセクシュアルなこころを踏み躙りつづけている可能性というかそういう実態があることを描写し続けることは大切だと思う。

さて、週末は前意識と無意識の間で言葉がどのように変容していくかを考えることになりそう。痛みの多い毎日に防衛一方で過ごすのは自分のこころを殺しているようで辛すぎるけどそうでもしないと外に出ることもできず身を潜めるしかない人もいることに思いを馳せつつ今日も。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

見えないことの扱われ方

山梨銘菓「くろ玉」、かわいいし上品な美味しさだった。

どうしてこの人のやることは支持されてこの人のやることは事件にされたのだろう。行為としてはほとんど同じなのに、と話すことがある。ここでも「あれはなんだったんだろう」シリーズで書いたと思うけど主にセクシュアリティに関することは思弁ではなく具体的に個別的に考える必要があるのでいくらかの加工をしつつ残しておくことが大切だと思う。女の身体が絡む場合はいつという時間の観点も必要だろう。「年齢とか関係ない」とか気楽にいえる人はそれはそれで幸福かもしれないが人の痛みに鈍感でいられているということかもしれない。

友達と話したりnoteに創作をしていると支配や搾取の芽は欲望がある限りそれぞれが持っていると感じる。同じような体験を繰り返すことで前の体験をなかったことにしたり、抑圧を強めることで別の仕方で表現したり、それらの構造を探りつつ目の前の相手との関係で葛藤したり、それぞれのあり方でそれらの現れ方や外からの評価は全く異なると感じる。でも一番感じるのはそれが問題や事件として認識されるかどうかはそれまでの環境が少なからず影響しているということ。環境というよりは構造といった方がいいかもしれない。

SNSにみられるパターン的な共感、同調の行為は自己顕示欲を見知らぬ人に満たしてもらうことを可能にしただけでなく、かわいいと思えなくなったら捨てられてしまうペットのように扱われる人、そう扱う人を増やしたかもしれない。「まさかそんなことをする人とは」というほどにも近くない「良い」部分だけで関わり合える関係における共感、賞賛はそれを受ける人には気持ちよく、そうでない自分、そうでない関係を葛藤的に否認したりしながら様々なネガテイブな気持ちと関わり合う面倒を減らす効果もあるのだろう。ひとりをポイ捨てしても多くの人が変わらず好きでいてくれている、という量の問題。トロッコ問題を意味のない問題設定としていたあの人も自分のこととなるとそんな感じだった。大丈夫、みんながいる、という場合の意味も変わってきているのかもしれない。

二次被害、三次被害という言い方をすることがあるがその言い方ってどうなんだろう。たとえばポイ捨てされた人が傷つき続けるか、回復するかは確かにその相手がその件で社会的にどう判断されるかも関係するだろうし、その人が元々持つ資源や環境やその後のケア的な何かと出会えるかどうかも関係するだろう。一方、二次三次とかでなくただずっと継続して膨らむばかりの傷つきもある。これは何よりもその出来事の終わり方が関係しているのではないかと思う。心身を密に付き合わせるなかで積み重ねてきたものをどう扱われるのかというのはその人の人生を左右するでしょう。周りからは決して見えないことに対してお互いがどう責任をとるのかということでもある。難しいけど今日も生きていかないとね。いかないとってことはないけどなんとかがんばろ。

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あれはなんだったんだろう 言葉

実験、「あと」、「被害」

資料を作らねば、と毎日言っていて、それなりに作っているのだけど次から次へと。ここに書くようなことと違って吟味が必要なので時間がかかってしまう。がそういう作業が背景にないとこんなところでこんな実験みたいなことをしていても意味がない。私にとって、だけど。ここは実験場所だったり自分の状態を確かめる場所にもなっているから。言葉が出てくるスピードとかトーンとかは自分にしか感じられていないのだけれど内容よりもそっちの方に意識を向けて今日のそれがどうであってもしいつもと違うならどうしてかということをなんとなく考えながらこうしている。バスケ部時代に連日とてもきついフットワークをやっていた。身体の動きとしてはもう染み付いているから、というか新しい動きが加わるときにそれまでの動きがいかに染み付いているかがわかるのだけど、そういう自動的に動く身体を基盤とした行為に無意識が宿っている気がするのかもね。身体の調子が悪い時って意識的には何も考えてないみたいな状態になりにくいもの。バスケで怪我したときみたいに庇いながら動く

とどうしても全体のバランスが悪くなるし。というか当時結構な怪我してても部活休まなかったのはどうしてだろう。普通休むだろ、と今なら思う。いろんなおかしなことをしてしまってるよね、毎日。きっと今日も何かしらするでしょう、あとから思えばどうしちゃったんだよみたいなことを。その「あと」がいつになるかわからないけれど。

ここ数ヶ月、被害と加害ではなく「被害」についてずっと考えている。臨床では加害者臨床ということがあるのだけど被害者臨床とは言わない。普段の臨床で被害か加害かで考えることも少ない。そんな単純ではないから。それでもある出来事から「被害」と呼びうるものが確実にあることを知ってそれについてずっと考えている。その人がそういえばそう、みたいな言葉の使い方ではなくてむしろそういう風な言葉の使用を含めてその言葉が使われる意味を考えている。

あ、資料作らねばだった。あと少し。東京は今日は晴れ。昨日も晴れだったっけ?とにもかくにもどうぞお元気で。怪我とか風邪とかにも気をつけてお過ごしください。