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言葉 読書

地震、読書

揺れた。昨日から地震が多い気がする。そして早朝に地震が多いと感じるのは阪神・淡路大震災のイメージが大きすぎるのか。今朝も同じくらいの時間だった。あのときその場にいたわけでもなく、当時テレビもなく、時間差で知った地震だったが友人たちが住む地域だったので連絡を取り合ったりなにより気持ちが落ち着かなかった。被災した方々の思いはいかばかりか。

昨日の朝、水村美苗の『日本語で書くということ』(ちくま文庫)を少し読んだ。夜、ウィニコット協会にだす原稿を書いていると「こんなところにも文庫積んでたんだ」と本棚の隅のスペースに目が行った。せっかく書き始めたのにすぐにこんなだ。手に取ったのは前田愛『増補 文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)。また似たような本を手に取ってしまった。夏目漱石はどちらにも登場するのだけど断片だけでも面白いような気がする。すでに読んでしまっているからそう思うだけかもしれない。覚えているわけでもないのに不思議なものだ。この本にも「言葉と身体」という章があり、そこを開いた。久しぶりに開いた。「この本にも」と書いたのは言葉と身体は精神分析では切り離せず常に議論の対象だから、なのだろうか。それだけではないかもしれない。「コードとコンテクスト」とかよりはずっと身近だしこうしてなんとなく開くのにちょうどいいのだ、と思って読み始めたらまた結構読んでしまった。この章では蓮實重彥の「横たわる漱石」という論文が引用されている。私はこの論文は『夏目漱石論』(講談社文芸文庫)という本で読んだことがある。「横たわる漱石」は『夏目漱石論』では第一章なのでよく覚えている。日本史の教科書で旧石器時代と縄文文化にばかり詳しくなるのと同じで(私だけではないと思う)最初の出会いには何度も立ち返ってしまうものだ。だからあえて「過去は振り返らず」みたいなことをいうわけでしょう。こういう適当なことを書き始めると止まらないし使い方よくわかってないけど「知らんけど」で適当に終わらせることになるから気をつけねば。この章だけでもやっぱり面白い。『伊勢物語』の和歌の読み方もとても素敵な章であることも思い出した。手に取ってみるもんだ。いや、いつでも読めるのだから今やるべきことを。それもそうだ。ちなみにこの本と一緒に積んでいたのは野谷茂樹、石垣りん、郡司ペギオ幸夫、山口昌男、丸山圭三郎。だからウィニコットの書き方について考えていた時に読んでいた本ってこと。色々無意識で繋がってるんだ、きっと。でもなんでもかんでも繋げるのはもっと時間があるときにやらないと。毎日自分で自分を叱っているけどやっぱり自分で自分をはあまり効果ない。でも誰かに叱られるのも嫌だしなあ。締切とか時間的な区切りで約束しておくことは大切だ。ああ、これもそろそろ時間切れ。あくびばっかりでるけどがんばりましょう。

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読書

2月29日(木)

足元の小さなヒーターが一生懸命作動している。ありがたい。とはいえ寒さもピークを過ぎただろうか。相変わらず真冬のモコモコした服装で出掛けてはいるが。iphoneの天気予報を見た。帰る頃には雨マークも。乾燥が解消したり花粉が飛ばないのならそれはそれでいいことだ。雨の日の靴選びに、というより空模様を読めないせいで雨に弱いスニーカーを履いていて何度も失敗している。それを解消しようと長靴だけが増えてしまった。適切な時に履かなければ意味がないのだが空模様が怪しいぞというときは長靴を履いてしまうようになったら失敗は減った。大雑把に対処していくのはオシャレではないが不快でない方がいい、私の場合。今朝はカラスの声が大きい。ゴミの日じゃないけど。いや、ゴミの日ではないからか。

水村美苗の『日本語で書くこと』を読んでいた。好きなんだ、水村美苗の文章。2009年に出版されたエッセイ集に少し加筆修正がなされて2022年に文庫化されたものだ。装丁は安野光雅。小説を書くことについて書きながら自由自在に本の案内もしてくれている。色々と読むべき本はあるがこういう本に出てくる本は特に信頼して読めると思う。私は手当たり次第に本を読んできたが結局はこういう本に出会うのであってまずは王道と出会うことで歴史を知るということが大切なのだろう。途中、読書に耽っていたらこんな時間になってしまった。今日も長い。頑張ろう。一日得した気分の二月でも気は抜けない。明日から三月。もう手遅れかもしれない、という気分にもなるがまだ遅れてないからなんとかしよう。長靴はこう。

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読書

本と本屋と

おなかがすいた。でも今朝も飲み物だけ。外が明るい。洗濯機をかけていたのを忘れていた。先日名古屋駅にくっついている高島屋の8階にある三省堂浅田彰『構造と力 記号論を超えて』を買った。この本自体は持っているが文庫版には千葉雅也による解説がついている。それ目当てだ。ものすごくスッキリした解説。なんらかの枠組みを提示されることで本はグッと読みやすくなるがどんな枠組みを提示されるかが非常に重要。本当に助かる。それにしても久しぶりに充実した本屋へ行った。私が最も使う新宿の本屋たちは私にはどんどん使いにくくなっていると感じていたので嬉しかった。千葉雅也たちがではじめた頃の新宿ルミネのブックファーストは現代思想の本も充実していてたくさん買った覚えがある。そこも先月閉店したと聞く。池袋はどうなのだろう。リブロで千葉雅也の選書フェアなどで色々買ったがそこももうない。ジュンク堂などは相変わらずだろうか。この小さな街に越してきた頃には駅近くの本屋のほかに本当に小さな本屋が数軒あった。今は私が一度も寄ったことのない本屋が一軒だけ残っている。街の本屋に専門書は求めていなかったし夜遅く帰ってきてもパッと寄って本を見られる環境はとても恵まれていた。

本屋へ行くと子どもたちが読んでいる本も気になる。まだ二語分がではじめたくらいのこどもたちと本をよむのも楽しい。重たそうなのに片手で引き摺るように持ってきて自動的に膝に座る。膝が足りない時は少し一触即発の雰囲気になるがみんなに見えるように絵本を少し上に掲げるとすぐにそちらに目線がいく。とても集中してみえるのに「おーしーまい」となると我先にと次の絵本を私の目の前に差し出してくる。本屋でも子どものスペースが充実しているところは多い気がする。名古屋三省堂はどうだったか。意識してなかったけどとにかくどのフロアーも人が多く活気があった。

今日も風が強いのだろうか。どうぞみなさんお気をつけて。

アイデンティティ・ポリティクスを超えて――『構造と力』文庫化を機に/浅田 彰

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2月27日(火)朝

今年は梅の木に遊ぶメジロをたくさん見ている。ちっちゃくすばしっこくすぐに幹に隠れてしまう。何枚も何枚も写真を撮るけどはっきりメジロだとわかる程度に写ってくれることはほとんどない。私は残念だけどメジロは元気。良いことだ。スズメ、ムクドリ、ヒヨドリ、シジュウカラ、私がぐったりしている間にみんな少し遠くへいってしまったみたい。しまった、また眠ってしまった。ずーんとだるいが色々やらねば。今日は秩父土産、阿左美冷蔵のとろっとろの水羊羹。お腹痛いけど黒みつが美味しくて少し食べてしまった。かき氷で有名なお店だそうなので夏に行ってみたい。

昨日聞いたポッドキャスト。私の興味あるところ。

Episode 153 : Female Sexuality in India Today: Through an Analytic Lens with Amrita Narayanan, PsyD (Goa, India) FEBRUARY 25, 2024

この人のこの本も欲しいけどKindleでもすごく高い。

Women’s Sexuality and Modern India In A Rapture of Distress” by Amrita Narayanan

富永京子さんのポッドキャストも聞いた。なんて表現したらいいのかわからないのだけどとても良いのですよ。おすすめです。

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2月26日(月)朝

鳥の鋭い声。鳥がいなくなる世界はくるのだろうか。人間よりは長く絶滅しないでいてくれるだろうか。机に突っ伏したり座ったまま眠ってしまったら顔がひどい。むくみとくま。くまっていうのかな。元々浮腫みやすいけど目の下がぷくって晴れることが多い。後で逆立ちしないと。何年もしていないけど。でも昔みたいに身体が動くわけではないからひとりで逆立ちとかして怪我したら嫌だから公園の鉄棒とかでグルングルンした方が循環良くなるかしら。それももうできないか。寒いし。鉄棒、冷たいし。つぶつぶのついた軍手をしてまでやることでもないし。昔、実家にしっかりしたぶら下がり健康器があった。今もあるのかもしれない。椅子に乗っかってバーを掴んでブラーンとする。結構すぐに疲れる。内臓も伸びている感じがする。大人になってうちにも欲しいなと思ったけど実家にいる間にだって数えるほどしかぶら下がらなかった気がするし絶対ハンガー代わりとかにしてしまうからいらない。結局一番いいのはベッドでまともな格好をして眠ることだ。二度寝でそれをさせてほしいけど時間が許してくれない。だめだ、気づくとうとうとしてしまう。ご褒美のような時間がとても贅沢で少し涙出たけどずしんと来るものでもあったかもしれない。いい一日になりますように。

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精神分析

フロイト読書会、秩父土産、語尾

今年度最後のフロイト読書会Reading Freudを終えました。来年度メンバーも募集中。音読で丁寧に読んでいく機会はなかなか持てないと思うのでぜひ。音読で通読したあとはフロイトが生きた歴史、政治、家庭、理論を絡めながら解説を加えつつ精神分析のはじまりを振り返ります。おそらく精神分析の印象はだいぶ変わると思います。メンバーの皆さんからは単なる理論や読み物ではなく「難しいけど奥行きを感じられるようになって楽しい」など嬉しい感想をいただいています。ご案内はオフィスのウェブサイトブログ「精神分析という遊び」をご覧ください。ご参加お待ちしております。

秩父のお土産をもらいました。秩父は東京からもワンデイトリップで気楽に行ける素敵なところです。今みたいにきれいになる前に泊まりで行ったことがあるのですが駅前のホテルがとてもとても怖かったのを覚えています。今はなくなってしまいました。それはそれで気になります。これまで全国の安いホテルに色々と泊まってきましたが秩父は最も思い出に残っているホテルのひとつです。あとは萩と田辺のホテルでしょうか。最近だと中津川かな。これらは全く異なる理由で心に残っています。そういえば中津川は安くなかったです。かなりネガティブな意味で心に残っちゃったから残念ですが勉強になりました。素敵な居酒屋と老舗和菓子屋さんたちに癒されたので無問題ですが。そうそう、お土産は「秩福かりんとう」「長瀞ポテトチップス 鮎の燻製風味」「源作印・赤」、あととても素敵な水羊羹。どこのって書いてあったか。いただくときにきっとまた書くでしょう。ちなみに埼玉県秩父市のイメージキャラクターは「ポテくまくん」。「秩福かりんとう」のパッケージにもいます。かわいいです。にしても秩父に限らずだと思いますが山は花粉が凄まじいようですよ。ついにきてしまいましたね。

それにしても眠いです。春ですものね。今日は移動が長いからそこで眠れそうですが寝過ごすのも怖いですよね。でも怖いと思ってれば起きられるでしょうか。今ふと「〜ですかね」といって「かね、なんていわない」と指摘されたことを懐かしく思い出しました。たしかに、という文脈だったので恥ずかしくも思ったのですが語尾になにをもってくるかは大切ですね、たしかに。印象がだいぶ変わると思うのです。生身の人の言葉は生き物なのでその人の生活と切り離すことはできませんし興味深いです。さて、いきますね。またここで。どうぞ良い一日を。

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精神分析

ウェビナーにでたり。

今日はそれほど寒くない、と思ってiphoneの天気予報を見たら気温自体が高めなわけではないみたいだった。ロンドンタイムの夕方から始まるウェビナーに出ていたので寝不足。しかも英語だったのであまりついていけなかった。移民であることや肌の色の違いによる差別やフォビアが顕著な国での臨床のリアルを聞くのは苦しいため抵抗もあったのかもしれない。まさにそういうところで耳を傾け続けなければいけないのだが。記号論専門のスピーカーはブエノスアイレスにおける心理学の存在感や精神分析的に聞くということについて話されていたようだが活発な議論を聞きつつ眠りこけてしまった。周りのみんなも今日も朝から仕事だがきちんと聞いていたらしく終わった直後にやりとりをしていた。すごい。

頭の中が空っぽなようなごちゃごちゃなようなよくわからない感じになっているのは考えるべきこともやるべきこともあるのにちょこちょこ強く感情を揺さぶられる出来事があるからか。そういうときは大抵、読んでるだけ、言ってるだけの世界なんて滅びればいいのに、と思うとき。一方、それは他人事でもないのでなんともモヤモヤした気分になる。それと同時に今日の予定が頭の中で蠢いている。せめて忘れ物をしない、という小さなところから始めなければならない。ごちゃごちゃしてるときは書くスピードも遅くなるからもうやめとこう。何も考えずに書ける以外のことは書かない場所にしてるから。こういう引っ掛かりってリスクに繋がるからまずは止まること、考えること、と自分に対して思う。

今日は東京は晴れ。良い一日でありますように。

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映画 読書

カカオとかテンペストとか。

鳥が鳴いているのを耳で探しながら聞いていたら二度寝してしまった。しっかり夢も見た。最近の夢はみんなで一緒に動きながら何かをやっている夢が多い。どうにも眠いので普通の濃いめのアールグレイを入れた。ハーブティだとまたまったり眠くなりそう。冬の間にもらったチョコがなかなか減らない。今日はこれ、今日は・・・と食べ続けているような気がするのだけど。今日は剥き出しになっていない金の包みにくるまっているのにした。どうしてこれだけくるまっているのかしら、と思って開けてみたけどその特別さはよくわからなかった。ただ、甘い!びっくりした。このちっこいのにどれだけの甘味を詰め込んだのか。句友でもある和田萌監督の映画『巡る、カカオ〜神のフルーツに魅せられた日本人〜』の「うま味」の話をまた思い出してしまった。あれもみんなで何かやる話。映画のおかげでカカオがすっかり身近になった。先日、筑波実験植物園の熱帯資源植物温室でもカカオを見つけた。そこは本当に暑くて迷い込んだ先で知り合いにあったような気分だった。

昨晩は河合祥一郎によるシェイクスピア新訳シリーズの第15弾『新訳 テンペスト』を読んでいたらあっという間に2時を過ぎていた。私が演じながら読んでいるとミランダがちょっとバカっぽくなってしまう。父プロスペローに「聴いているか」と問われる理由が単に集中できず眠りこけてしまう自分と重なってしまう。ミランダはいい子なんだけどあまり思慮深くないというか男に囲まれた世界で育つって苦労も多かったんだろうなと思ってしまう。キャリバンは当時王女が嫌なやつのあだ名にしていたエピソードがあるほど不快な人物として描かれているがものすごくイキイキしている。ミランダの母親が全く描かれないのに対しキャリバンはおふくろの存在を軸に言葉を紡ぐ。自分の言葉は育てられたものでもあるゆえ誰にも奪われるものかという矜持を感じる。舞台で観たい。戯曲は面白いな、と思ってもう一冊読んでしまっているのが町田康『口語 古事記』。これはいい意味でずるい面白さで戯曲ではないのだけどなんか近いものを感じる。軽みとイキイキさがにているのかもしれない。

さて、今日も休みという感じはないができるだけ色々進めよう。東京寒い。でもこのくらいの寒さはなんてことないはず。どうぞ良い一日を。

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精神分析 音楽

昨日とか今日とか明日とか。

ジンジャーやシナモン、いろんなものがブレンドされたハーブティーを飲む。今日の天気予報だと寒そうだけどどうなのだろう。部屋にいる分にはそんなに寒さを感じない。ハーブティーのおかげか。♪明日という日が今日にはまだ気配もなく近づいてくるようで♪とラジオから流れている。優河という人の『思い出』という曲らしい。「思い出」を今日と明日の関係で言い表すことは確かにできそうだけど近いスパンだとまだまだ形になるには遠くて流れていくものをどう捉えたらいいかわからなかったり見過ごしたりやり過ごすのに精一杯だったりする。いつか「思い出」になるのだろうかと苦しむこともある。セラピーに来る方はどうにか思い出さないようにしてきたことが今の苦しみに入り混じっていたりするから今を過去の方向へ受け流していくことが難しい。精神分析は過去に遡るものと思われているが、こちらがそうしているわけではなくて言葉だけで行っている自由連想法という方法がそういう方向性を持っているということ。何かを言葉にするというのは今を過去においていくことだけどそれを受け止める他者がいる場合、その流れは滞り、今話した言葉の重みが増す。そしてそれが記憶の重たい部分を刺激する。自分ひとりであれこれ考えて辛いときは今から離れられないという状態なわけで人に話すことで一時的に楽になることが多い。しかしそれを継続的でやっていくと臨床の関係では巻き込み合うことが必ず生じるので言葉は相手を求めはじめる。それを対象希求という言葉でいってもいい。その希求に対して即座に何かが提供されることはほぼない。赤ちゃんでさえおっぱいやミルクを待って大泣きしながら「待つ」わけでどんな相手でも自分の思い通りになることはない。なるとしたらそこには双方相当無理なことをしていることになる。しかし、大人になっても大泣きしてそれが得られないことに猛烈に怒ったりする心性はあるわけだ。少し先の自分と相手に期待して今をやり過ごせるかどうかは、習慣にもかかっている。習慣を支えているもののひとつが外の時間の流れだ。今日は雨らしくまだ空は暗いがそれでもさっきより明るい。カーテンを開けて待てば今よりずっと空は明るくなってくる。眠ったら明日がまた来てしまう、と眠れない一夜を過ごしてもやっぱり明日だった時間は来てしまった。そんなとき、カーテンを閉め切って一日中パジャマで過ごすことで時間を引き伸ばすという方法ももちろんあるだろう。しかしもし普段通り仕事や活動に従事できるならいつものかなり縮小した形であっても習慣的に行っている行動をした方がいい。もしその習慣がなく定期的な区切りが自分の中に持てずにいるなら何かしらの区切りを外との関連で持った方がいいだろう。定期的な通院やカウンセリングがそういう部分で役に立つこともある。相手あることというのは常に自分に圧力をかけてくるものだし、外に出るというだけでその気配に不快を抱く場合もあるだろうけれどちょっとした空気の動き、光の変化に気持ちが変わることもある。外をちょっと感じることで持ち堪えるきっかけが生じるというのは家を飛び出したりお手洗いに立ったり鳥の声に気づいたりしたことがある人、つまり大抵の人なら体験していることだろう。今日が昨日になることも明日が今日になることも私たちに止めることはできないが、今日とか明日とかいう言葉で時間の流れを区切る知恵を持った自分たちのことは信じるに値する。なんとか今日も一日。どうぞご無事でご安全に。

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2月21日(水)朝

毎朝迷うほどの種類のお茶が我が家には今ある。今日は寒くなるのではなかったか。まだ寒くない。昨晩は帰るときは行きの服装では寒かったのでいつもリュックに小さく詰めている薄手のダウンを羽織った。冬の間、暖房効果のためにというより外はまだ暗いだろうからとカーテンを開けずにいたが今も開けていない。今外はどんな感じなのかな、というのをカーテンの向こうの気配から推測する遊びをしている、心の中で。まだ暗いと思ったらめっちゃ明るかった、夜明けがこんなに早くなってる!とかはまだ全然なくてむしろ逆で日が長くなってきたと思ってたのに朝の空はなんだかどうしたいのかな、という感じ。冬の朝の方がすっきりしてピンクとブルーの混じり合いと凍てつく雲がきれいだった。晴れが多かったからだろう。今、晴れが腫れとなっていたのに気づいて直したのだけど最近どっか腫れたっけ、しかもそれどっかに書いたっけ。腫瘍という言葉は使った。あと書いてないけどこの前松屋でシュルメクリだっけ、あれを食べたらあれグツグツさせながら出てくるのね、びっくり。いつ食べればいのだろう、と思ったけどお店の人から何も言われなかったしいつでもいいのだろう、でもこのグツグツ怖い。どうしよう、と思ってグツグツがおさまってから食べたのだけどあちちであった、案の定。なのに一度食べ始めるとなんか止められず途中口の中の上の方がプクって膨れたから焦った。またやってしまった。口の中の火傷。口の中だから治りは早いだろう、と思ってしまう私は甘いのだろうけど怖いは怖い。氷の入ったコップを手に取り氷だけ口に含んで冷やす。一体何をしているのだろう、カウンターだけのちっこい松屋でいろんな人の出入りを眺めながら。この日は隣の席の男性がバッグで1席取っている上に逆側に長い足を不自然に伸ばしており3席分を占めていた。足が邪魔という感じの長さがなんだか羨ましい。私がバッグの隣に座ると何かをしてくれようという動きをするのだがこの松屋の椅子は動かないのよ。ありがとう。なんだかいっぱい食べていたな、そんなに細いのによう食べるのう、と思っていた。小さくカーブしているカウンターだから視界に入るのよね。そうそう、シュクメルリの正しいお名前を調べよう。お!あってるじゃん!松屋でラジオだか掲示だかで「これで忘れないよ」みたいな感じで名前の説明があったおかげかな。自然にそれに従っていたのかな。私は本当に固有名詞覚えられないからなんだか嬉しい。この前なんてなんだっけな、ああ、忘れた。ずーっと勘違いしていてその食材の専門店だと思っていたら読み間違えていただけで注文するときにその食材のを頼むときに「○○にきたんだから食べないとね」と言ったら「だから○○ではないって」と笑われた。みんなでやりとりしてる時からおかしいなと思っていたけどまさか今の今まで間違っているとは、と呆れられつつそれをいただいたのだけど肝心の○○が思い出せない。これは間違える人いるでしょ、と言いたいのだけど。まあいいか。なんかすごいどうでもいいことを書いているね。資料プリントアウトしていきますよ。今日は東京は雨っぽい。みんなの住んでいるところはどうかしら。鳥たちはお元気らしい。私たちもなんとかがんばりましょう。

ちなみに今朝読んだブログ。

PRE-OEDIPAL FREUD AND THE LOST SIBLING

Author: Mary Adams

ここで著者はThe trauma of being a replacement childに注意を促す。長男を失ってすぐの両親から生まれたジェイムズ・ジョイス、生後すぐに亡くなった姉をもつルイーズ・グリュック、そして一歳のときに弟を亡くしたフロイトなど語られない喪失を体験した家族のなかで彼らがなにをどう表現したかなどが書かれている。

Why is the concept of the ‘replacement child’ not more widely used?  

とあったが日本の臨床では神話的にも焦点化されやすい部分だと思うけど用語としてはどうなんだろう。「代わりの子」?「取替子」だと意味が違うし「生まれ変わり」もなんか違う。私もその文脈で症例つきの論考を書いたことがあるがそのような用語としては使わなかった。ちなみに書いたのは「こころに寄り添うということ 子どもと家族の成長を支える心理臨床」の「第5章 親子並行面接という協働」です。

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2月20日(火)朝

この時間はすでにいろんな音がするなあ。雷おこしを食べた。歯にくっつきそうで怖かったけど大丈夫だった。歯医者嫌いだから歯医者にはよくいく。なんだそれ。歯医者は予防と治療がはっきり分かれてる。治療を受けたくないから予防する、つもりがクリーニングに行くたび不具合が見つかったりする。予防のつもりが治療することになってる。いやー。でもそういうものだね、いろんなことは。誰かを通してみないとわからないことがたくさん。友達と話しているうちに「病院にいったほうがいいのでは」と言われて精神科へ行ってみて「薬より心理療法では」と言われてこちらへくるという方も多いし。「そのくらい自分でどうにかしたら」という場合もあるし、「どうしてそこまで放っておいたの」という場合もあるし色々だけどね。私の場合、歯医者嫌いならそんなにお菓子食べるなよ、それが1番の予防になるでしょ、ってことなんだろうねえ、多分。ああ、辛い。

歌人で、俳人で造本作家の佐藤りえさんが発行している個人誌『九重』4号を読んでいた。俳人の今泉康弘さんが佐藤りえ論を書いている。お二人ともすごい。幻想怪奇俳句集『良い闇や』(2022)には夏目漱石『夢十夜』を踏まえた句があるとのことでその句に対する今泉康弘の評もいい。それが漱石のものと知っている必要はまるでない。佐藤りえが解釈した世界とそれをさらに解釈する今泉康弘の対話の姿勢が素晴らしいのだ、きっと。そもそも解釈というのは対話のすえに生じるものであるから多分そうなのだろう。漱石のものと知っている必要はないとはいえ『夢十夜』は本当にすごいよ。私は文学と臨床の両方に関わる病跡学をやりたいと思っていた時期が長かったのだけど土居健郎の『漱石の心的世界』とかにも影響を受けたのだろうねえ、覚えていないけど。あの本には『夢十夜』は入っていない。それはすごくまともな判断な気がする。どこか別の場所で書いてるかもしれないけどね。

さあ、色々大変だ。がんばろ。

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精神分析、本

マクドゥーガルとかボノーとか。

週末はフランスの女性分析家たちの本を読んだ。

ひとつはジョイス・マクドゥーガルJoyce Mcdougall(1920-2011)のThe Many Faces of Erosの最後のパートPartⅤ Psychoanalysis on the couchのChapter13 Deviation in the Psychoanalytic Attitude。患者との関わりを逐語的に抜き出し主に同性愛に関して多面的な理解を示しながら進んできたこの本だがこの章でのマクドゥーガルは珍しく症例なしで怒っていた。この時代にエロスの領域の臨床を語ることは困難も多かっただろう。いざ臨床場面になってしまえば同性愛のみが大きなテーマになることはなく、マクドゥーガルの症例の記述をみればそれは明らかなのだが、その背景で彼女が何と戦いつつ何を願いつつ臨床をしてきたかを垣間見るような章だった。

もうひとつはエレーヌ・ボノーHélène BonnaudのLE CORPS PRIS AU MOT : CE QU’IL DIT, CE QU’IL VEUT『言葉にとらわれた身体 現代ラカン派精神分析事例集』(誠信書房)の3章 身体に支障をきたすこと(透明な身体、動揺)10章 身体の出来事(症状と語る身体)。ラカン派には珍しく症例中心のこの本が身体とシニフィアンの関係を重要視していることは書名からも目次からもわかると思うが、事例の記述の仕方はIPAの精神分析家たちの書き物と比べると非常にコンパクト。シニフィアンが刻み込まれた身体の出来事を享楽する患者のあり方はよくわかるが治療者の関わりや逆転移はほぼ見えないというか見せない。個人的には患者の症状の背後になんらかの「知」を想定し、それに本人が気づくことを大切にしているんだな、と思った、というかそれって無意識の意識化ってこと。私が読んだこれらの章は非ー意味として身体に書き込まれたパロールをエクリチュールとして関われるようにするという事例が多かったように感じた。

マクドゥーガルは国際精神分析協会(IPA)所属の精神分析家でエレーヌ・ボノーはJacques-Alain Miller率いるthe École de la Cause freudienne (School of the Freudian Cause)のメンバー。 全く異なる書き手の二人は依って立つ理論がまるで異なるが、アンドレ・グリーンが対立するのはECFの人たちらしい。誰が誰の何に向けてものを言ったり書いたりしているかは歴史や背景を知らないとわからないことが多い。ラカン派は自我心理学に対する敵意は顕にするがそれはもうみんな知ってるから言わなくてもいいよという感じがする。読みながら「それって自我心理学のこれでも説明できるじゃん」と思ったりしたがその系列で育ってきたわけではない理論にそんなことをいっても仕方ない。私も最初に中心的に学んだのは自我心理学なので用語には馴染みがあるが臨床を考える時にはだいぶ思考の流れが違うのを感じるのだから安易に置き換えてはいけないなと思った。

なんか眠くてほぼ寝ながら指を動かしているが二度寝したい。でもいかなくては。鳥さんが鳴いておる。今日もがんばろう。

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精神分析 読書

言葉とかそれ以前とか。

急がねばなのにのんびりしてしまった。「しまった」が「島田」になってしまった。島田さんという大先輩がいた。その人のおかげでどんな場所でも果たせる役割があることを学んだ。しかも明るく伸び伸びと。昨晩は読むべき論文の上で佐藤りえさん発行の文芸個人誌『九重』3号を広げたら止まらなくなってしまった。小津夜景さんも書いていた。やっぱりいいなあ。

”のびのびと発想する一番の秘訣は「無責任になること」ですが、人ってなかなかそうはなれない。”

と小津さんが書かれていた。本当にそうですね。

かささぎのこぼす涙をおつまみに 小津夜景『花と夜盗』より

もそういう感じ。4号の今泉康弘さんの作品もいいです。川柳のような雰囲気もあるけど景色が見える。あるはずのない景色まで不思議なく見えるのが不思議。

はあ。素敵な言葉たちと触れるのは幸せ。なんだけどやらねば。つくばのコート・ダジュールのパルメザンチーズサブレも美味しかったからがんばらねば。間に合わないよー。

フランス精神分析の本を読んでいる。ラカンは晩年、フィクションの次元なしに真理は成立しない、という言い方ではなく「嘘つきの真理」という言い方でラカンのいう「現実的なもの」を位置づけた。が、この時点で嘘になりえないものなどないという感じがするのでどっちが外部かという話でもあるか。ともにこぼれ落ちるものを掬い上げるとき分析主体がというより分析状況は「歴史化する・ヒステリー化する」ことを試みてるらしいがこれも「現実的なもの」に形を与えようとする行為なのだろう、か。

とかね、こういうややこしいことを考えてると言葉の美しさが取りこぼされていく感じがするでしょう。私のまとまりのない思考でぐちゃぐちゃ考えるのはそこそこ汚い行為ですよ。嘘も意地悪もいっぱい。言葉以前の世界に言葉に戻ろうとしてるんだから仕方ないけどね。適当なこと書いてないでやろう。ああ、もう少し何か食べたいけどちょっとやってからにしなさい。はい。どうぞ皆さんも良い一日をお過ごしください。

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精神分析

季語「絵踏」

今日はとても大切な日なのに喉がイガイガ。とりあえず温かい飲み物をいただきましょう。生姜紅茶かな。

この前、オンライン句会のお題に「絵踏」という季語を出した。その句会はそれぞれがお題を出してそれを使っても使わなくてもよいのだが意外とみなさんこの季語を使ってくれた。絵踏(えぶみ)は江戸、徳川時代、正月から3月にかけて行われた宗門改めのこと。島原城のキリシタン史料館で色々な資料を見たりガイドさんの説明を受けたりしながらとても悲しい気持ちになると同時にどうにか信仰を守ろうと奮闘する人たちの炎のような情熱を感じたことを思い出す。平戸、津和野などでも資料を読んだが拷問の激しさこそが信仰の強さを示しており、どちらにも激化する心に言葉を失った。人から何かを奪うことなどできないからこそ人は暴力的になる、しかしどちらも同じ人間なのだ、という事実がどこにもいけないような気持ちにさせたのだろうか。私とて人間を降りるわけには行かないからただ悲しんでも憎んでも罰しても罰せられてもいられないのである。

「誰かが見ている」というのは症状としてもありうるが絵踏させられるものと踏まれるものの視線のやりとり(あるいはその回避)を感じる「絵踏」の句をあげておこう。

踏絵してキリストの眼のなくなりぬ 滝沢伊予次

まなざしを髪でかくして絵踏かな 鷹羽狩行

絵踏する女こつちを見てをりぬ 阪西敦子

見放された、いや見放そうとしているのは自分だ、でもきっと許してもらえる、いやそんなことはないというような、強烈な罪悪感、奪おうとするものを憎むことすら憚られるような信仰と愛。阪西敦子さんの句の女の視線にはドキッとさせられた。

一方、俳人の確かな視線が注がれた一句はこちら。

苗代の泥足はこぶ絵踏かな 正岡子規

生活の中の小さな光を奪おうとうするのもまた人であることにどうしようもない悲しさと苦しみを感じつつ、今日も一日。どうぞご無事で、ご安全に。

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あれはなんだったんだろう 未分類

なんともいえない感じとか。

なんともいえない空模様。冬でも春でもなく。雲を見ても「冬だな」とか「春だな」とか思わないし。お花や光には「春だな」と感じるのだけど。あと鼻水。花粉だよねえ、これ。乾きもひどいのにどうして鼻水だけは出るわけ。人間ってほとんど水分だから?だったら外に出すだけではなくこの喉の渇きや肌の乾燥も自分でどうにかしてほしい。自分の水分、自分にとどまって。あと風。春一番。これを超えたらやっと春!そして桜。桜が咲いたらすぐにまた1日だけ雪!とかなるのかしらね。暖かい冬には大雪が降る、とこの前の雪の日に聞いた。冬が寒くないのは私には嬉しいけど温暖化は止まらなそう。JAXAに行ったときも温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」の模型の前で説明してもらったけど地球はどうなることやら。そして人もどうなることやら。私もどうなることやら。

昨晩も句友のリマインドのおかげで俳句を出せた。毎回ぎりぎり。それでもこうして作る機会を作っておかないと、というか、最近になってようやく継続的に句会にでたりする意義がこれまでとは異なる実感を伴ってわかったというか継続的、定期的なお稽古事の価値がわかったというか、精神分析みたいな毎日のお稽古みたいなことをしていながら今更何を、だが、精神分析のおかげで色々わかったというのもある。時間がないんだよなあ。

ブラタモリの女性アナウンサーの起用に関する記事に対してある人がああいう男女の起用の仕方に怒っていた。基本的に女を見下している設定だということが制作側にはわからないのだと思うのだけど女の方もそれを文化として取り入れて振る舞っているから他人事だと色々いえても自分のこととなると全く気づいてなかったりする。どっかで自分だけは別という意識が働いてしまうのだろうねえ。身内じゃないし。書いたり喋ったりするのがうまいとそっちでなんとなく補える面も大きいだろうし。それはお互いを見下している側面があるわけだけどそれも一緒に生活したりしない部分的な付き合いだと美味しいとこどりしてればいいだけなので関係性が変わることはないし。前に、常識を覆された!みたいなことをしょっちゅう言っている他人のモノ好きな男女の話を実際のエピソードをもとにして別の場所で書いたのだけど、その人が「そのあとどう動くかが大事ですよね!」みたいなこと言っててやっぱりこういう人に限ってこういうこと言うんだなあ、と思った。人にひどいことした人に限って「失敗が大事!」とか言ったりするでしょう。なんでも「失敗」として位置付けてるんだろうねえ。された方は「あれはなんだったんだろう」とずっと闇の中に置いてけぼりになったりするのに。「前を向こう!」と同じノリがひどいなあと思う。まあ、自分にはできないことをいうのが私たち、というのも本当だろうけどあまりに自分たちのことを棚上げしているのはどうかと思う、それでお金もらってたりすると。仕事でなければある程度は好きにして、っていうところあるけど公私混同はそういう意味でも難しいですね。私は男女比率を考えていなそうなイベントとかいかにも権威に媚びている場所には行かないか、行ったら何かいうかしているけどそういう私でも全然意識できていないところが多いわけでこの前富永京子さんのポッドキャスト聞いて涙が出てしまった。この話も書きたいけどやることやらねば。富永京子さんは本もおしゃべりもおすすめなのでチェックしてみてください。良い一日になりますように。

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カールおじさん、言葉、大会

今朝はつくばのコート・ダジュールのエンガディーン。このお菓子ってエンガディネとかアンガディネとか少しずつ呼び方が違うけどエンガディーンははじめて聞いた。ロボットの名前みたいでかわいい。ライディーンみたいな。ライディーン、よく知らないけど。サブレ生地はいつも美味しい。キャラメルがベタベタしすぎないでいい感じ。美味しい。くるみの苦い部分が当たってしまった。喉が苦い。紅茶で中和。やっぱりお菓子はティーとね。「それにつけてもおやつはカール」のリズムで歌おうとしたら合わなかった。「やっぱり」ではなくて「それにつけても」だった。「それにつけても」にした人すごいな。軽やかさが違う。今は関西以西でしか買えない、ということは関東よりこっちの子供たちはカールを知らない世代になるのか。奄美大島の地元スーパーで久しぶりに見かけたよ、おじさん、とか書いても「は?おじさん?カールおじさん?だれそれ」とか言われるのかな。あのかわいいおじさんを思い浮かべてもらうような説明ができるかしら。「カールの精」とか言ったら絶対あの姿にはならないし。歴代CMかわいいな(思わず見てしまった)。前に日本語も片言の英語も通じない人と面接をしたときにお互い絵で伝えようとしたのだけど私のが下手すぎていっぱい困って泣いている患者さんを苦笑いさせてしまったことがあった。カルテ情報もあったからだけどなんとなく色々お話しして終わった感じになったけど。精神病院での仕事はものすごく忙しかったけど日常の言葉の世界とは別の基準で動いていたと思う。クリニックもいくつか経験しているけど医師に「言葉は難しいかもしれません」と言われて依頼される場合が何度かあった。これにはいろんな意味が含まれるのだけどこっちも「はい。とりあえずお会いしてみますね」と普通に受けていた。社会的に通じる通じない、わかるわからないの基準ではない関わりが臨床には溢れてる。精神分析だって言葉言葉言葉みたいに思われるかもしれないけど、というか実際にそうなのだけどその言葉が通じる通じない、わかるわからないの基準で使われているかというとむしろ「わからない」が出発点になる。これは体験でしかわからないから説明できないけど興味深いものです。あ、日本精神分析協会第42回学術大会(2024年6月8日〜9日)の案内が出ました。今年度は協会に所属していない臨床家のみなさんにも開かれた大会になるのでぜひいらしてください。私は候補生としての登壇はこれが最後かな。最後だといいな。5月の登壇が言語的には一番不安だけど「言語の問題にこだわらないで、私たちは臨床家だよ」というのが共有されているのはありがたい。このことはさっき書いた言葉が通じる通じない、わかるわからないという水準とは異なる使用をされていることの延長。臨床の言葉というのは本当に興味深いしいろんなことを教えてくれます。今日もなんとかがんばろう。

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バレンタインデーとか。

バレンタインデー。この時期にだけ出るチョコを見にいこうと思っていたのに全然行かないまま当日になってしまった。しかしすでにいただいたものもあるので今朝はベルギーのホワイトチョコとあまりハートに見えないショコラのフィナンシェ。半分こしてもハートが割れた!みたいにならないようにかしら。でも失恋の場合のハートってギザギザに割れるよね。あれ、最初に考えた人すごいと思う。ハートにリボンかけちゃった人とか。自分の身体にリボンかけちゃうのは具象的すぎてロマンがないけど象徴の力は大きい。昨晩締切の俳句もお題の一つがバレンタインデーだった。8音もとられるが元々17音だからあと9音もあるといえばある。省略の文化は逆に盛りだくさんにもできるけどシンプルなのが一番。私は俳句も作り手の情緒が滲み出ているような句は苦手。私の仕事でいえば治療者の悲しみとか苦しみとか情熱とかが近いところから患者に伝えられているイメージ。アメリカでカウンセリングを受けていた人のお話とか聞いたりビデオで見たりするとお互いにすごい情緒的だったりする場合もあるけど「情緒」という言葉の幅を考えてしまうな。俳句の場合は季語が雄弁だからそこに上手にお任せできたらいいのよね、きっと。季語とそれ以外という関係を患者さんの無意識と意識の交流と関連づけてあれこれ考える。無意識に委ねられるとだいぶスッキリすると思うけどその前にいくつもの段階がある。最初の難関は他者と出会うこと。他者と出会うことなしに自分と出会えないというのはかなりハードルが高い、人間関係というのは。お互いに変化する生き物だから出会ったつもりがもういないということも起きる。そこをつなぐのが信頼。それは無意識から生じるもの。そこに潜在的な力を見出せるかどうか。私はノンフィクション作家の高橋ユキさんの記事を読むようになってから臨床が裁きの場になっていないかをとても警戒するようになった。加害者臨床という言葉があるがそれだって組織的に行う場合とたまたま出会う関係では随分違う。たまたま出会う関係の場合、その人が加害者という分類をされた人であっても見立ての仕方はそれほど変わらないだろう。ただ目的をどこに置くかというのは重要だろう。精神分析は受けたいからといって始められるものではない。それはどの治療だって同じなはずだ。アセスメントありき。患者さんのニードがどこにあるかを把握すること。治療プロセスで「求めてたのはこれではなかった」と気づくこともあるが治療法に関してはまずは治療者がその体験をしてその効果や副作用や弊害を実感していることが大切。設定を決めるのは治療者の方であるべき。ここからはガイドがいないと入れません、という道をいくようなものだからこういう場合はこういうことが生じやすいが果たしてそれは「どんな感じ」なのか、ということがわかっていないとかなり難しい局面を知的な作業に押し込めるだけになりかねない。他者として自分を差し出すのは誰が何を言おうと簡単であってはならないのは患者も治療者も同じことだ。日本のバレンタインデーは他者に対して自分が出せるお金という観点からみても興味深いものがある。お金といえば最近メールで詐欺にあいそうになった。時間がないから書かないけどクレジットカードの有効期限が切れているから確認して、ってメールでまんまと乗りそうになった。「あれ?きれてないはずだけどなあ」と思いつつ騙されそうになるのだから怖いもんだ。不特定多数の人からお金を巻き上げて一体何をしたいのか。その行為自体が快楽なのか。子供が親のお財布からお金を取るのとはだいぶ異なる心性だと思う。忙しいときは文面も自分に寄せて読んでしまいがちでしょ。「あれ?」と思ってもなんとなく自分にとって筋がとおる方で読んでしまうというか。気をつけましょうね。怖い怖い。「あれ?」という直感を大切に今日も一日。どうぞご無事で。

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うま味とか。

寝るのが遅くなってしまったせいかスッキリ起きられなかった。それでも目覚ましなしで遅れずに起きられるけど。

今朝のお菓ティはつくばのコート・ダジュールのバレンタイン用のお菓子、いちごのフィナンシェと桃風味のアールグレイ。flavored teaはアイスだと割となんでも美味しく感じる気がするけどホットだと合う合わないが出やすい気がする。風味って難しい。和田萌さん監督の『巡る、カカオ』で「うま味」の説明に苦慮するシーンがあるのだけど最後は「Umami is Oishii」と言っていた気がする。確かに!と思ったあとすぐに「おいしい」は通じてもそれが「うま味」を指すとは限らないからわからないんだよなぁ、とOishii is Umamiは通じだとしても逆は難しいか、うーん、となった。後日、友達と美味しいものを食べながらその話をしたら「アミノ酸なら通じるんじゃない?」と言われた。それも「なるほど!」と思ったがすぐに「アミノ酸のことだよ」と言われても「ああ!あれを日本語ではうま味っていうのね!」とはならないよなあ、と思った。味の説明は難しい。三浦哲哉『自炊者になるための26週』(朝日出版社)がいろんな言語に訳されたらいいな。

はあ、やることいっぱい。ついつい、というレベルではなく遊んでしまうから進まない。東京は電車が便利で乗り継ぎに苦労することなくいけてしまう区域が広すぎる。特に神奈川、埼玉、茨城は行きやすいよね。なのに方言ってきちんとある。県境と方言って本当のところどのくらい関係しているのかしら。なんかそういうのどこかで読んだ気がするけどそれすらどうだったかな。

はあ、がんばれるかなあ、とかまたため息ついてるうちにダラダラ別の話をはじめてしまいそう。やりましょう、そうしましょう。今日は火曜日。忘れないように。私はすぐ間違うから気をつけましょう。みんなは大丈夫かな。どうぞ無事にお過ごしください。

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マーロウとか灯台とか。

チロルチョコを二つもらった。気になっていた「よいとまけ」チロルチョコと「フォンダンショコラ」。「よいとまけ」ってハスカップ味なのね。北海道土産の定番なんだって。セブンイレブンではほかにも「よいとまけ」バージョンのお菓子を見つけたけどなんだったかな。マーロウのコーヒーとドレッシングももらった。逗子のお土産。昨年、私が逗子の友人と行ったら満席だった居酒屋へ行ったんだって。偶然。私たちは満席だったから狭いエレベーター前のスペースを挟んですぐお向かいのイタリアンにいてみたらちょうど二人席が空いててそこへ行った。とっても素敵なお店だったのでそれはそれでラッキーだった。居酒屋さんの方も美味しかったとのことなので今度はそっちも行きたい。お店の話を聞いて「それってあそこ?」とわかるくらいの知識は逗子に対してはある。駅前の狭い範囲だけど。あとはいつも車で連れて行ってもらったりしてるから。プリンで有名なマーロウは40周年なのね。はじめていったのは若者のノリがまだあった大学生の頃だった。誰かが三崎にマグロを食べにいこう、と言い出して車を出せる人が出して、城ヶ島でウツボに騒いで、くろば亭で店の前のイカの泳ぎ方に興奮して、駐車に苦労しながら葉山のマーロウへ行って想像よりずっと大きくて高いプリンを買って車の中だかどっかで食べたりした。その後も何度かマーロウのプリンはもらっていてビーカーの形状も変わったりして、我が家は菜箸立てたりするのに使ってる。この前、ちょうど一つ、落として割ってしまったところ。あれは一体何年前のビーカーだろう。三崎のくろば亭も当時から人気店だったのかわからないけどその後別の街でも見るようになったし王道をドライブしたわけね、若かった私たち。みんな元気かな。まだ会っている友人もいるし、何をしているかは大体わかる範囲の人たちだから会おうと思えば会えるけど。城ヶ島は小学校の修学旅行で行って大好きになった。あの地形には大感動だった。灯台は大人になってから行っただけかなあ。小学生のときも行ったのかなあ。全国を旅してると灯台にもいっぱいいくことになるのだけどどこも素敵だよねえ、灯台。昨年夏に巡った下北半島の尻屋埼灯台は灯台自体も景色も素晴らしかった。寒立馬のことを書いた時にも書いたと思うけど。近場だと観音崎灯台がいいかなあ。見学ができるからというのもあるかな。地震があった石川県珠洲市の禄剛埼灯台も行ってみたい場所なんだけどどういう状態なんだろう。船の運航とかに影響出てるのかな。後で調べてみよう。地震のその後のニュースも見たり読んだりしているけど時間が経てばまた別の困難が現れる様子で胸が痛む。どうかますます手厚い援助がありますように。今日も一日どうぞご無事で。

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のんびり、メンバー募集

布団のヌクヌクが素晴らしすぎて全然出られなかった。良いベッドって本当に素晴らしい、買ってよかった、とかすごく昔の買い物に急に感謝したりした。ソファとかで適当に寝てしまったときとは眠りが全然違う。ここに越してきたとき、ベッドと本棚はベランダから吊るして入れてもらったんだったな。本棚は自分のは割とシンプルに大きいだけだったんだけどどうしても使ってほしいという立派な本棚を譲り受けてそれが重厚で大変だった。今思えばそれをリビングに置けばよかった。書斎にしている狭い部屋に本棚は全部押し込んじゃったから大変だったんだな。すいません。もう書斎はいっぱいだから各部屋にラック本棚も作ったけどそれでも本は増え続ける一方だからねえ。うむ。幸せなことだわね。今日はのんびりのんびり。朝のお菓子はFLOのラムレーズンサンド。かなり甘いけどペロリ。そうだ。午後の勉強会にお菓子持って行こう。臨床はひとりでやり続けるものではなくて同じ専門家の目を時折いれていく必要があるからみんないろんな形で同業者と勉強を続けている。自分がしていることを正直に見てもらうってそれなりに傷ついたりもするからやっていない人も多いし防衛的にならざるをえない部分も実際たくさんあるけどそういう自分を照らし返してもらうためにも必要。「私は私」でできるものではない、臨床は。他人の人生に関わっているわけだから。今日のグループは臨床経験豊富で裏表のない楽しい人たちと。どういうグループも役に立つけど日曜にわざわざ入れる予定は余計なこと考えないでやれるものにしたい。そうだ、来年度、第2日曜の事例検討グループに1名空きがあるので臨床をしている方はご検討ください。初回面接をほぼ逐語で検討してしますが、初回面接にいたるまでに初回面接における二人の関係を規定するあれこれが動いていることも実感します。それは自分ってどうしてもいつもこうなんだろう、という反省モードを引き起こしますが個人の反省は自分が治療を体験するなりなんなりで大切に扱う必要があるでしょう。グループではなにがどうなってこうなったかという仮説を立てていきます。このグループは私がやっているので理論的基盤は精神分析ですが、不安、抵抗、防衛、そして転移、という概念はどの治療にも役立つものですし専門用語は必要な場合以外は使っていません。このグループは発表者の方が「外から言うのは簡単だよね」といいたくなることはいまのところ起きていません。誠実に臨床に取り組もうとしている人は評価目線で他人事のように事例に接する余裕は持っていません。少なくともそうなってしまったらそれは自分の問題である、という認識を持っているものです。グループ力動というのは本当に興味深いもので一対一の関係とは全く異なる豊かさをもたらしてくれます。小グループなのでお一人2、3回発表の機会があります。とてもいい助け合いの場になっていますし、発表の仕方について考えを深めることもできると思います。ぜひお申し込みください。

もう一つのほぼ更新されない(だから多分誰も認知していない)そっちがメインだったはずのブログに募集のご案内を書いてしまったのでそれを貼っておきます。フロイト読書会もとっても面白いし他の読書会が難しくてあまりついていけないという方にも結構面白いじゃんと思えるようなグループになっています。合わせてご検討ください。

東京はいいお天気。各地で梅まつりが始まっています。いろんな種類の梅がかわいくて私も色々いきたい!甘酒とかビールとか飲みたい。大抵は各地の商店街がお店出しているので楽しいです。地元だとクリニーング屋さんが焼きそば券をくれたりします。寒いけど春です。どうぞ良い休日をお過ごしください。

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「自我とエス」から100年

The International Journal of Psychoanalysis, Volume 104, Issue 6 (Decmber 2023)が届いたのでパラパラした。

2023年はフロイトの『自我とエス』出版から100年ということでEducation SectionはHoward B. LevineのOn looking into The Ego and the Id 100 years afterから始まる数編の論文だった。昨年出版されたFred Busch, Natacha Delgado編のThe Ego and the Id 100 Years Laterと合わせてチェックしておきたい。どちらも様々な国や学派の人が書いている様子。フレッド・ブッシュは自分の編著にもジャーナルにも書いている。精神分析を体験すると歴史の重みを知りそこに触れざるをえない静かな衝動に突き動かされるようになるが精神分析家になるというのは個人の歴史を超え、精神分析そのものの歴史を遡らざるをえない状態になることなんだ、という実感を強めている。隙間時間に細々と資料を読んだり周りとテキストでやりとりしながら現在に至るまでの様々な出来事に思いを馳せる。日本でいえば私は後期の土居健郎、小此木啓吾をリアルに知っている世代だ。土居健郎は直接指導は受けていないが小此木啓吾には慶應心理臨床セミナーで講義を受けていた。ゴシップ的な話も多いこの界隈とは離れ、精神分析家小此木啓吾という視点から彼の思索を眺めるとその引き出しの多さと中身の豊富さに驚愕する。そして小此木先生は日本語がうまい。美しいというよりかっこいい。私はドイツ語版Das Ich und das Es、英語版The ego and the Idと比べると『自我とエス』という題名はセンスがないと感じている。小此木先生だったらエスを日本語にするとしたらどう訳していただろうか。そうやって参照したくなる。2003年に亡くなったので昨年で20年が過ぎたのか。早い。『自我とエス』出版80年後。土居健郎が語られることは多いが小此木啓吾を語るとしたら、という空想をする。私をご指導くださった先生方はもう高齢だったり亡くなっていたりする。語りえないこと、語れないことを語ってほしいとは思わないがどうか先生方が内に、外に、体験した精神分析の歴史を学ばせてください、と以前よりずっと強く思っている。

はあ。やるべきことを思い浮かべたらため息が出てしまった。やるしかないが。ああ、やるしかないが・・・。みんながんばりましょう(巻き込んでる気分)。どうぞ良い一日をお過ごしくださいね。

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チグハグとかゴチャとか。

昭和初期からやっている老舗の商品だけを引き継いで営んでいるカフェに連れていってもらった。想像していた外観と全く違った。白を基調とした洋風のお部屋で和のものをいただくという感じ。これが友人の家とかだったらそんなチグハグな感じを受けないと思うのだが店だとなんだかチグハグしていて面白かった。家はもっと雑多に色々あるものね。チグハグするほどひとつひとつが際立たないのが生活っぽさというのかもね。ごちゃっとせざるをえない。今だって目も動かさず視界に入るものだけみてもごちゃっとしてる。名刺とかお香とか取り替えたばかりの電池とかユースキンとか髪ゴムとか。所ジョージのガレージみたいなところはごちゃっとしているけど統一感がある。ああいうゴチャもある。チグハグは会話にも使う。ゴチャやグチャはあまり使わないでしょう。臨床の言語には使うけど。私がここに書く文章はチグハグもゴチャもあると思う。グチャはあまりないかな。とか書いているけど「ゴチャ」はさっき私が自分で使った言葉でチグハグと同じ水準で使う言葉ではないな。「ごちゃごちゃしてる」とかいうならともかくね。こういうズレ感はいっぱいありますよね。面白い。「ズレ感」って比較的新しい用語?というかさっき「昭和初期」って書いたときも思ったけど私の「比較的新しい」は平成初期だったりする場合もあるからな。私にとって「昭和初期」もそれなりに昔だけど、自分も昭和を10年以上過ごしていて明治、大正に生まれた人とも出会ったりしてきたわけで、平成とか令和の新しさの方が際立ってしまうのよね、自分の中で。それにしてもこうやって指が動くままに書いていると言葉を意識が後から追う感じになってその変さに気づきはするのだけど、いや気づかない時もあるけど、まあいいかとなるね。精神分析では週4、5回、分析家のそばに横になって(横に横になってと書くと変な感じかも)自由連想をするわけだけどこれはね、とても難しいよ。「自由ってなんて不自由!」と実感するのが自由連想だから。でも「そう感じたらそういえばいいんだよね」ということをそういうインパクトから学ぶのも自由連想。何年もかけてようやく力の抜けた感じが出てくるのだけど性格はあまり変わらないかもしれないけど力抜けていると色々楽にはなりますよね。週一、対面の心理療法でもそういうことは起きて身体化もなくなったりするけど精神分析の場合はなんか言語の構造が変わる感じがある。途中、身体化が激しくなったりだいぶおかしな状態になることもあるけど。私はなったし結構みんななると思う。外身はなんとか保っていても内側は嵐、しかしそれは精神分析家との間で生じつつそこにおさめられる、密な設定はそのためだからなんとかなるという感じ。なんとかならない局面を作るのも人との関わりだけどそれをなんとなするのも人との関わりだから分散と凝集は両方大切。なんだってどっちかってことはないからいろんな人がいろんなことをしているわけでどっちかに強く向かうとしたらそれはそれなりのリスクがあるのかもしれないね。時間と偶然性に多くを委ねる精神分析はハイリスクなのかな。でも生活するってほとんどそういうことだからむしろ生活療法では、とも思う。世界に目を向けると精神分析もあまりにそれぞれで驚くけどそれのどれを大きな流れにしていくかというのは政治的な話でもあるから色々難しい。いろいろ難しいけど今週も無事に金曜日まできた。無事ではないが今こうしていられる範囲では無事。みなさんもどうぞご無事で。お元気で。

そうだ。この前、メモ的に書いていたフロストの詩とそれを読むオグデンのことをほとんど更新されていないメインのブログに書いた。結局メモのままだけど載せてしまった。

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当時

少し時間ができたので少し歩くところで待ち合わせをした。時間がなくなって通ることもなくなったその道は昔自転車で家庭教師に通っていた道だった。中学のときから不登校になり家の状況もなかなか複雑で当時、その子と定期的に会えるのは私だけだった。当時はまだポケモンが100をちょっと超えたくらいしかいなかった。その子のおかげで私はポケモンに相当詳しかった。いろんなことはもう忘れてしまったがその子は不登校を経験した子が多く通うという高校へ進学した。学校へ行けるようになり私との関係も終わった。そう思ったある日、その子の祖母から電話がかかってきた。当時はまだ電話が主な連絡手段だった。ものすごく慌てた様子だった。その子がいなくなったという。私は祖母に状況を確かめつつその子がひとりでいなくなるということがあるだろうか、いや、誰かと一緒にいなくなるようになったのだろうか、など考えたりした。しかしよく考えればその時間はそれほど慌てなくても大丈夫な時間でもあった。

数時間して母親から電話がかかってきた。無事だったという。はじめて母の声を聞いた。それまでのお礼を言われた。とてもいい子だった。あまり言葉のやりとりはしなかったけど私たちは小さく、よく笑った。静かに淡々と過ごしてもふと愉快な出来事が生じたりするのだから一緒にいるというのは面白い。なぜか二人で体験した修羅場もあった。時折祖母に誘われるままに台所で一緒にごはんをいただいた。祖母の時代の風習に驚きつつ、家庭の文化の継承についてとても興味深く思ったのを覚えている。

私も母にお礼を言った。おばあちゃんにも本当にお世話になったことを伝え、くれぐれもよろしくと伝えた。その電話以降、やりとりはあっただろうか。なかった気がする。お元気だろうか。もうすっかり大人の年齢になったに違いないその子は当時すでに私よりずっと背が高かった。ご家族みんな元気でいてほしい。いろんなことを教えてくれてありがとう。

今日もいろんな心と出会う。わかるわからないのお話ではないところで静かに昨日やこの1週間の話を聞いたりする。話はいつのまにか状況から離れていつもの心の話になるだろう。プロセスが全て。精神分析においては。生活と同じ。

東京は今日は晴れらしい。どの地域の方もどうかお元気で。良い1日でありますように。

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雪のあと。

隣の家の雨戸が開く音。今日はお互い遅いですね。私は資料作りに時間がかかってしまった。二度寝してしまったし。何度寝でもしたい。東京の雪はあっという間に溶けた。昨日の朝は雪かきも少ししたが夜帰る頃には隅に追いやられて盛り上げっている雪以外はほとんど消えていた。朝と日中はいろんな雪だるまを見た。小さな子が球体を作って持ち上げようとしても持ち上がらない。「重たい」「重たいね」とお母さんと言い合っている。お母さんは赤ちゃんを抱っこしてその様子を見守っている。その子もなんどもがんばるがどうしても持ちあがらない。「重たいね」と私も呟きながら通り過ぎる。ちょうど横を通るとき、その子が「えいっ、えいっ」と小さな足で自分で丸めた球を踏み始めた。イライラしている様子はないが悔しかったのかもしれない。自分で作ってそれが使えなければ壊す。なんかすごく大切なプロセスのような気がした。小さな足では壊すのも容易ではないようにみえたが。今度雪が降る頃にはこのくらいの重さなら持ち上げられるかなというプロセスが働くだろうか、それよりもこのくらいの球なら軽々持ち上げられるようになる方が早いかもしれない。子供の成長は早い。

雪を見ながらロバート・フロストの詩を思い出し、フロストを愛する精神分析家のオグデンのことと一緒にちょっと書いていたのだが別のところにメモ的に書いていたので暇があったらまとめたい。ちょっと、かなり余裕がない。もう行かねば。

どうぞみなさんもよい1日を。寒さにもお気をつけてお過ごしくださいね。

(メモ的に書いてるのはこんな感じ)

昨晩、雪を眺めながらロバート・フロストの詩を思い出した。ひとつStopping by woods on a snowy evening,もうひとつはDust of snow.

サンフランシスコの精神分析家であるトーマス・オグデンはフロストを好んで引用し、その解釈を行ってきた。彼にとって詩を読むことと分析実践において患者の話をきくことはほぼ同じである。彼は近著”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

8章 Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson.でもロバート・フロストの最も有名な詩を取り上げている。Stopping by Woods on a Snowy Eveningがそれである。

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雪が降った。

グループLINEに時間差で雪の写真があがる。東京の同業者たちの帰り道だ。みんな似たような時間まで仕事をしている。関西は雨だったという。同じ東京でもいろんな道があるものだ。向かい風に傘を傾け、前傾姿勢で駅へ向かう人、タクシーから降りようとする人が先に外に出した傘先、ポケットに手を入れ足元を確かめるように見る人、そしてそれを見るその人の隣の人、誰もいない住宅街、電燈が雪と同じ色をしている。青い電車が通り過ぎるホーム。平面をいろんな色の平行線が横切る素敵なデザイン画になっていた。私は足跡はあるが人気のないまっすぐな道を歩きながら写真を撮った。その写真に友人がthe vanishing pointという言葉を使ってコメントをくれた。消失点のことだ。街道と高速道路がまっすぐに走るこの道は平行線がいくつも並びそのずっと先でそれらは交わってみえる。交わることなんかないのに。北海道の人はこんな雪に傘なんかささないと聞いた。私も隙間時間に傘をもたず非常口に出てみた。あっという間に服に白い点々ができた。東京の雪はべちゃっとしている気がする。部屋の中からはもっと粉雪みたいに見えたのに。家の最寄駅もはじめてきた街みたいになっていた。まだ残るクリスマスのイルミネーションが再び存在感を増していたが、ポツンとした様子に見えた。皆が傘を開きその横を無言で通り過ぎる。立ち止まって写真を撮ろうとすると前にいた人が先に立ち止まった。その人の邪魔にならない場所からシャッターを切る。携帯で撮るとシャッターを切るという感じは薄い。傘が邪魔だが手ブレしないようにちょっと耐える。ピコン♪いい写真が撮れた。いつもの散歩道も歩いてみた。とてもとても素敵な景色で小さく声があがった、私の中で。小人さんたちが喜んでいたみたい。雪が嬉しくて小さなふわふわの手袋とふわふわの帽子でいくつも雪だるまを作っていたあの子は中学生になった。「まだ雪嬉しいのかな」というと「嬉しいみたいよ」と雪だるまマークと共に母親から返事が来た。「みたい」がその子が大きくなった証。わからない部分、わかろうとしなくても大丈夫な部分、そもそも触れえない部分、そういう場所を大切にされてきた子も自分で必死に守ってきた子もどうか良い一日を。

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雪の予報の日の朝

今日は雪が降るそう。雪に弱い地域(東京)に住んでいると警報と言われてもあまり対処方法がないけどとりあえず手をポケットに入れないでいいように厚手の手袋をする。普段全く使わないですんでいるのは幸運だが痛んでいるのではないかと懸念されるスノーブーツを履く。使わないと痛むでしょ、靴。あれ、結構ショック。スノーブーツとかはいいの買ってしまってるし。能登地震で家族を亡くしたという方の話を読んだりした。話してくれるだろうかと現地に入り、なぜ話してくれるのかと思う。矛盾する心の聞き手に対して「彼ならそれを望むだろう」と言いながら語り出す人など。地震から1ヶ月、ただただ呆然とするような状況を生き残り遺品に触れる。少し前までただ静かにそこにしまわれていたものが剥き出しになり遺されたモノとなる。「これはあのときの」と一緒にいられたら一生口にしなかったかもしれないモノとの思い出が想起される。語れば涙が出てしまう。語れば気持ちが動いてしまう。聞き手が躊躇するのは被災地へ入り自分自身も心揺さぶられる中、語らせてしまうことで生じる心の揺れをどこかで予測するからではないか。多かれ少なかれ人はそういう経験をしているだろうから。うとうとしてしまった。資料に目を通しておかないと。どうぞご無事で。

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立春

立春。昨晩、お菓子を食べ過ぎた。今朝も我が家のお菓子たちの前にしばし佇んでみたがさすがに手に取る気が起きなかった。そんな日もあるのか。とかいってこう書いている途中に「やっぱり」とか思って取りにいきそう。東風解凍、はるかぜこおりをとく。ほんとかな。たしかに昨晩、遊歩道の梅が満開になっているのに気づいた。そこにこの色の梅あったんだ。雪国に春がいち早く届きますように。

NHK俳句、そうか、もう選者が変わる時期か。いつもなにかやりながら流し見してるけどなるほどねえ、と勉強になる。俳句も学問だねえ。だからいい句ができないのか・・・。勉強は嫌いではないのだけどなんせ地頭の限界が来るのが早い。集中力の限界はもっと早い。アプリとか使っていると自分の特徴がよくわかる。この前、携帯に入れたアプリを人に試してもらいながら私の場合こうなる、というのを説明した。笑われた。なんでそうなっちゃうの、という感じだよね。理解されにくいことをしてしまうことを笑われたり不思議に思われたりしてきたけどおおむね受け入れられてはきた。よかった。でもこの歳になるとそのなんとも衝動的で不器用なやり方を私なりに制御する、あるいは利用するやり方も身についてきたよ(と以前迷惑や心配をかけた人にご報告したい気持ち)。その時々で落ち込んだりもするけど引きずることはない。身の丈を知るって楽になるってこと。昨日の英語でのミーティングはみんな違う国で暮らしていて英語が母国語ではない人たちの方が多かったのでチューニングに苦労した。どれも新しい情報として入ってくるから処理に時間がかかり思わず喋れない英語を口に出してしまうということはなかった。喋り出したらよくわからないことを言い出してしまったというのはあったけど。英語話すのがとても不安と言っていた私よりずっと達者な候補生の方も安心したことでしょう、きっと。モデレーターの方はおいおい大丈夫かよ、と思ったかもしれないけど。でも、精神分析は母国語で実践しているわけだから英語できないとかは全然気にしないで大丈夫、そういう人たちでやりとりするから面白いんだから、みたいなことを言っててにっこりになった。多分そう言ってた。私が無駄にポジティブなだけではないと思う。

昨晩も最悪な姿勢で寝てしまったので痺れがまずかった。寒かったけどきちんとする余裕がなかった。身体の外側も内側も動けなくなるのは避けたいから気をつけないと。2月、3月は特にダメ。締め切りがあるでしょ、確定申告とか。ああ深刻。。。みんなみんな健やかでいられますように。外で鳴いているのはどなたかしら。ジョウビタキに会いたいな。またね。

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bandwidthがないとか。

昨晩は「不適切にもほどがある」をみてようやく一日が終わったという感じだった。移動はあるが隙間がないという一日だった。いつもなら移動時間も隙間時間として使えるのだがいつもと違う仕事をすると切り替えがうまくいかず細々ながら毎日続けていた英語の勉強も途切れそうになった。アプリが「連続記録が危ないです!」みたいなことを教えてくれるのだがこれ多分日にちじゃなくて24時間計算になっていて何時になると1日が経ってしまったことになるのかわかっていない私は毎日危ない危ない言われてるのに切迫感をもてない。ただ「危ない」と言われたから「おお、急がねば」と思ってやるという感じ。そのアプリで「余力がない」という表現を学ぶ4分動画があったから見てみた。bandwidthという単語を学ぶ回だった。周波数の範囲を示す言葉で帯域幅と訳すと知った。「帯域幅」という単語は見たことあるけど使ったことはなかったと思う。bandwidthはそこから派生して「余裕」という意味も持つとのこと。I don’t have the bandwidth for〜みたいに使う。常に余裕がないので学んでおこうと思って身始めたのだがこのbandwidthの発音が難しい!最初はAIがこの単語だけ拾ってくれなくて「まぁいいか、きっと使わないし」とやややさぐれていた(やが多いな)。が、ああ、thだけじゃなくてaもか、というかバンドとワイドかと気づいたらAIにも通じる発音ができた。我ながら気づくのおそっ、とびっくりしたが気をつけるポイントが二つあるとわかったら修正できた。最初はthがここの位置にくると発音難しいな、と思っていたのだがaの発音が間違っていたのかもしれない。単語の組み合わせとして理解するとうまく発音できてしまうのも不思議なところ。使いこなせない単語を学んでいる場合ではないのだがこういう余裕ならあるってことだな。今日も大変だ。頑張ろう。

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言葉とか時間とか。

人の心身を雑に扱い言葉と時間を奪った人がやたら饒舌に忙しさを強調しながら好き勝手な時間を生きていられることの理不尽は常識らしい。そういう人ほど言葉で稼いでいたりする。メディアにいる人は自分のコントロール力をどう考えるだろう。差別も排除もしない側でいるつもりらしいが自分がやってきたことは棚上げし、この世界ではこんなことよくあることと心の中で呟きつつ「すいません!」でなかったことにできると思っている人もいるが。そういうのを「なんでも勉強」とか「いい経験」とか「今となっては言ってくれたことに感謝」とか嘘を言わず、雑に扱われた体験をそのまま言い続ける人が出てきてよかった。それはそれで時間は奪われるが言葉の力を取り戻せる可能性はある。それでも「あの人は別枠」とか思うまでもなく、自分には優しくて面白いからファン!と無知や否認で支えたい人のほうが多かったりするのでおそらく世界は大きくは変わらない。人を雑に扱う相手ほど変わることは望めないし(人から学べないからそうなるしそういうことは本にも書いてないので)、そもそも相手を変えることなどできないという当たり前の意識も持たず自分に合わせないおまえのせいでこうなってるくらいな感じで嘘と腕力を行使する人とは距離をとった方がいい。自分の言葉と時間を取り返すためにはまずはそこから。近くにいれば見えないから見たくない人はずっとそばにいようとしがちでしょ。傷つけられれば傷つけられるほど離れるのは難しくなる。どうか自分の感覚を失う前に普通の思いやりを持つ人と出会えますように。

さて、今日はつくばのお菓子を半分と奄美大島のかりんとうを少し。甘味といえば黒糖。黒糖といえばかりんとう。美味しかった。生姜紅茶と。生姜はすりおろして入れるのが一番温まるけどパウダーでも効く気がする。生姜の味が好きだから単に気持ちが温まるだけかもしれないけどそれはそれで効果だよね。移動が多い1日だけどブーツでいこう。冬用のスニーカーも持ってるけどちょっと生地が硬くて痛いんだよなあ。それであまり履かないから伸びないというのもあるのだろうね。昔、塾講師のバイトしていたときに生徒と駄洒落を言い合ってて「箱根には履き慣れた靴をはこーね」と言っていた子がいた。あの子ももうとっくに「子」ではないというか、私と10歳くらいしか変わらなかったのでは。元気でいてね。駄洒落楽しもうね。皆さんもどうかお元気で。ご無事でお過ごしください。

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ナボナとか。

最近、朝は亀屋万年堂のナボナを半分。詰め合わせをもらったの。久しぶりに食べた気がする。定番中の定番お菓子ですよね。前に自由が丘に自閉症の子の家庭教師をしに通っていたことがあってそのときに店の前をよく通った。あの店舗で買ったことはあったかな。その子の家に行くまでのスーパーでお菓子を眺めてはちょこちょこ買いぐいしてたけど。なにかとよく行ったなあ、自由が丘。最近は美術館へ行ったくらいかな。あとは乗り換え。彼ももうすっかり大人なんだなあ。お母さんもお元気かしら。楽しかった。元気で暮らしておられますように。

最近なにかと「話し合いましょう」「炙りシメサバ」「それが組織」と歌っている。ムッチ先輩が素敵。明日だね、「不適切にもほどがある」。歌いながら炙りシメサバって英語でなんていうの、シメサバって外国でどのくらい食べられてるの、とか言いながら。話し合いと殴り合いが同列なのも面白い歌詞。確かにねえ、じゃないか。

もう2月。週末の英語でのミーティングにビビっていたのは2週間前。がーん。2週間でどうにかなるはずはないが早すぎる。英語で読むことはDeepLに助けられつつ日常的にやってるけど話すのは全く別。AIとやってみたけど本当に簡単なこともスムーズに出てこなくてびびる。サボっていたオンライン英会話をまたサボってるけどやりましょう。気づいたのだけどAIと話すのも叱られたような気分になったり落ち込んだりするもんだね、結構。オンライン英会話の先生に厳しい評価されても楽しくおしゃべりできちゃったらそれはそれでよしとなるし。よしっ、じゃねーよ、と思われているかもしれないけど人間と話すというのは奥深いねえ。AIが登場してから「人間」という単語を使うときに「AIではなくて」というのを頭の中でカッコ付きにしている。「AI」と「人間」ってそういう関係でいいのかしら。そういう対比もしうるということかな。「話し合い」と「殴り合い」みたいな、ってことはないか。

うーん、持ち帰ってきた荷物を今日もそのまま持っていくのだなあ。そんな日々ってどうなのかしら。大変よ、2月。がんばれたらよいが・・・。あ、明日印鑑忘れないこと。明日のことは今ではなくて明日思い出させてほしいのに。でももうリュックに入れてある気がする。今夜に限ってリュックから出してしまったり、リュック変えてしまったりしないこと。もう、自分の管理が一番難しい気がする。ひとのことを言うのは簡単なのにね。ゆったりやりましょう。寒い地域の方もどうぞお元気。ご無事でお過ごしください。

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1月31日(水)朝

寒い。暖房のあごは?外れてる。がばーって温風を出してくれている。がんばれー。紅茶あつっ。いつもこれで火傷する。火傷といえばいつかの元日に三重県伊勢の二見興玉神社に初詣に行った。その途中かどこかで振る舞われたとても熱い甘酒を喉に流し込んでしまった。すっごくチビチビ飲むつもりが手元が狂った。多分カップが熱すぎたのだろう。あの時は大袈裟ではなく生命の危機を感じた。火傷というのは本当に怖いものだ、ということを火傷を中心にみる科の病棟に勤めていた看護師さんから何度も聞いていた。口の中も喉も爛れた。どうやって回復したのか覚えていない。ただ強烈な体験だったのは覚えており、この前も女ばかりで話していたときにその話をした。なんの話の流れだったか。「構造式まで書いてある」という言葉が出たのを覚えている。彼女たちは化粧品の話をしていた。すでに医療現場にいる私たちとこれから医療の道へ進む若者とでいろんな話をした。彼らは化粧品にすごく詳しかった。今は消したり上げたりする技術があるとはいえそれにお金かけるなら予防をがんばりたいと若者が話していた。成分を吟味してしっかりスキンケアをしているそうだ。皮膚科でドクターズコスメを扱っている看護師に化粧品をプレゼントされその成分をみながら大喜びしていた。なになにが入っているとなになにが入っているのと違ってどうこう、と大変わかりやすい説明をしてくれたが「なになに」が耳慣れずひたすら感心するのみだった。趣味で化粧品検定1級もとったという。実際ノーメイクの肌はツヤツヤピカピカでびっくりした。思春期にニキビに悩まされた話はみんな持っていて当時からこんなに詳しければと悔やんでいた。彼女は結構いろんなことを悔やんでいたな、そういえば。大雑把に「高校生なんてそういうもんだよ」とか話しながらと書いていたらうとうとしてしまった。ほんと5分くらいだ。今朝はこの前会ったばかりの友人たちとお別れする夢を見た。単にしばらく会えないという話で夢のようだったのに。結構別れを惜しんだ気がする。起きだけ起きて昨晩何も進まなかった資料作りを今のいうちにせねば。しかしん眠い・・。どうぞよい水曜日を。お過ごしください。

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奄美の本屋さんとか。

昨晩、机の上に辻村深月を見つけた。鹿児島県奄美市名瀬入舟町の本屋、棚田書店で買ってきた本だ。入舟町という名からわかるように漁港が近い。宿泊したのもその近辺だったがそこに海があることを忘れるほど磯の香りがしない。自然の循環がうまくいっていて腐敗臭が生じないからだときいた。棚田書店は同じく近所にある本屋、あまみ庵とは全く雰囲気の異なるこざっぱりしたいわゆる街の本屋だ。小さな店内に過不足なく並べられた本たちは生活と観光が自然につながっている様子で好ましかった。棚田書店に寄る前に長居したあまみ庵のインパクトが強かったが棚田書店にもたくさんの奄美に関する本があった。このスペースにこれだけの本を揃えているのか、と見れば見るほど充実していた。おそらく近所に住んでいる父子が必要なものをサクッと買って帰っていくのを見送ったりしながらそこそこ長居した。そんな高くない本棚の向こうには大きな倉庫に繋がるドアが(扉があったかなかったか)開かれていて広いスペースに段ボールがたくさん積まれていた。教科書なども売っているとのこと。お口は小さいのに中が大きい、とおばあちゃんに言われていたという人のことを思い出した。そのとき買おうと思っていた本があって探したのだがそれはなかった。なんの本だったか。特に奄美で買う必要はなかったと思うが本屋に長居できる時間は貴重だ。なんの本だったか、やはり思い出せない。その代わりというわけではないが辻村深月の本を買った。瀬戸内海の島に暮らす子どもたちと大人たちの物語だが島つながりなのだろう。島にまつわる本が多く目に入った。辻村深月は子どもの心を描写するのが本当にうまい。特に女の子の。しおりが挟んであるところまで読んだ。ひとりひとりの心を知ればそんなに大雑把に人をモノのように消費することなどできないはずだがそう思わされる出来事が多い。辛いときほど時間をかけて静かにしていようと思う。どうか今日もご無事で。よい一日でありますように。

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幸福な時間とか。

胃腸が疲れている気がする。お菓子を食べる気がしない。昨日美味しいものを食べすぎた。もたれたりとかそういうのではなく単に使いすぎた感じというのが嬉しい。みんなその小さなイタリアンをとても気に入った。食材も珍しく本場ローマの食べ方を再現したお料理は見た目もお味も素晴らしかった。美味しいお店のシェフがおすすめしてくれたと友人が教えてくれたご夫婦でされている小さなイタリアン。私が6月に資格を取れたらそこで貸切パーティをしようという話になった。嬉しい。イタリアの特産物や食事情に合わせて店を閉める時期もあるそうで今年はそれが6、7月になりそうとのこと。6月末にパーティをしたかったけど夏になるかな。無事に取れますように。

お菓子を食べる気になった。食べる気にならない→食べる気になった、までの間が短かっ。岩手のお土産「かもめの玉子」。みかん味があるのね。知らなかった。このお菓子はやっぱりかわいいし美味しいねえ。さっきまで感じなかったひんやり感を感じて熱いお茶を飲んだ。昨晩、おなかいっぱいになったあともみんなでいろんな話をしていたら急にひんやり感を感じてそろそろ帰ろうかとなった。とてもたくさん話した。大切な話、嬉しい話、日本と世界の話、たくさんたくさん。満席だった店内はいつのまにか赤ちゃんのいるグループだけになっていた。お店の人と貸切計画について話しながら赤ちゃんと目があった。ニコッとするとニコッとしてくれた。周りがそれに気づいて大人たちともニコニコしあった。「みんなのアイドル」と言われていたその子はかなり小さいのに色々わかるようでお名前を呼ばれると小さな手をパッとあげて「わかるんだよねー」と言われていた。大人の「バイバイ」という声に合わせて私に小さな手を振ってくれた。あら、わかるのー、と私も思った。バイバイと手を振り返した。幸福な時間だった。

クドカン「不適切にも程がある」もみた。クドカンドラマリピート率の高い私は今回も満足。まさか歌い出すとは。そしてツッパリはかわいい。

外は光がいっぱいだけど能登はまだまだ過酷な避難状況が続いている。東日本大震災の教訓が生かされていないことに憤りを感じる、と支援のプロたちが話していた。本当にどうして生かされないのだろう、と思いつつ自分の学びのなさに胸が痛む。あれだけの被害が出てもシステム構築の機会にならないとしたら私たちは一体何からなら学べるのか。人の心だけでなく行動に突き動かすものはなんなのだろう、ということを最近ずっと考えている。どうか暖かく柔らかな居場所が確保されますように。どうぞご無事でお過ごしください。

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言葉とか。

長風呂した。NHK俳句で伊集院さんの言葉になんか涙ぐんでしまった。言葉にこだわるのは面白いよね。前にケースカンファレンスに英語で症例を出したときにこの日本語はどの英語がしっくりくるかわからなくてそういってみたらその場でみんながあれこれ考えてくれてとても面白かった。普段から英語で喋ってるのはオーストラリアとインドの人でモデレーターの韓国、台湾の人たちも英語ペラペラだけど英語は第二外国語。参加者もみんなそう。その中で英語でしっくりくる言葉を探す作業はそのプロセスがとても面白かった。まだ言葉が拙い小さい子たちと話しているときと似た感覚。治療場面でもそうか。お互い何いってるかわからない瞬間っていっぱい訪れてるのよね、本当は。いちいちわかろうとすることよりもそのままきいてる。Netflixで “Love on the Spectrum.”という番組を見つけた。そこで使われていたりいなかったりする言葉の世界も本当に胸を打つものがある。

It’s a documentary series about young adults on the autism spectrum navigating dating an relationship.

と説明すればいいのかな、と友人に送ってみた。悪くないか。コミュニケーションのための言葉というのはひとりのものではないから一人と二人の間を探索することが大切になるのだと思う。ウィニコットが強調した中間領域は絶対に残しておく必要がある触れられない場所のことも示していると思うし、フロイトがいった陰性治療反応は精神分析ではどうしても起きてしまうけど起きてしまうからといって防ぎようのない世界への手がかかりをくれたと思う。昨晩は私がやっているReading Freudの会だった。精神分析を体験しなくてもそれに魅力を感じ、その理論を使用することに慎重なメンバーのみなさんは自分が当事者であることを忘れない。常に自分も「そっち」であるという意識は臨床をしていれば誰もが持ちそうなものだがそうでもない。言葉で非対称を語るのはたやすいがどんな非対称か。権威という言葉をたやすく使うことで誤魔化されているものに目を向けた方がいいかもね、などなど。やることが多いから頭がそっちに行ってしまって落ち着かないけどそこから逃避してこんなこと書いているわけですね。困った困った、自分。今日もいろんな人と会う。みなさんも良い1日をお過ごしください。

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ちょbit a ちょbit

今朝はつくばのコートダジュールの「くりくりぼうず」。かわいく愉快な黄色い袋の個包装。栗がくりくり坊主を手にしている。食べるんかい。昨晩、友人から送られてきた深夜ラーメンの画像を思い出してフフフとなった。かなりの中年になっても変われない俺ら。俺はラーメン食べないけどお菓子の量でいったら似たようなものだ。夜に色々やらねばでかろうじてやるべきものを積み上げる。だけどいつもそこまで。朝にちょこちょここなすのみ。bit a bit.ちょびっと、ちょびっと。英語の勉強もこんな感じで全然進まない。この前ラーメンの友人が教えてくれた英会話アプリでAIさんがゲームをしようとかいってルールを言ってきたんだけどよくわからなかった。やっているうちにわかるかなと思ってAre you ready?と聞かれてI’m ready.と答えてはじめてみた。決まった文句からはじめて、お互いに経験したことのないことを当てっこするみたいなゲームなんだけどいまだによくわからない。お互いに話したことは画面に文字化される。ゆっくり読めば理解はできるが会話のスピードが早く確認したい画面がどんどん上に消えていってしまう。よくわからないままなんとなくyour turn.とか言われてなんか言ってみる。なんて言えばいいんだっけ、と何かを曖昧な発音で言ったらなんか全然わからない文章が文字化された。たしかに発音上はこう言ったかもしれないがなんだこれは。自分で言ったことが意味のわからない言葉に変換されていた。しかもゲーム相手のAIさんはそれを聞いてhaha(じゃなかったかも)と笑い「うまいこと言ったな。やられた!」みたいなことを英語で言ってきた。これは文字になったからわかったけど肝心の英語を覚えていない。よくわからないが私が不意打ちを喰らわして勝ったらしい。意味わかんねー、と思いつつ形だけイェーイみたいな気分でいたら次の何かへ移っていった。最後は適当にロンドン行ったことある?いいとこだよね、みたいな私にでもできる会話をして終えた。あれはなんだったんだろう。どこどこ行ったことある?という質問はお決まりで楽ちんなのだがAIさんにこれまで行った場所でどこが一番好きか聞かれたからケンブリッジと答えたらやたら細かくそこでやったことや見たものを聞かれもう30年前なので覚えていませんといったら英語を直された。ああ。全てにおいてこんな感じ。bit a bit.ちょびっと・ちょびっと。

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フロイト読書会とか。

連日月がきれい。満月は今夜みたい。オフィスを出る頃には月は遠く空の上の上の方にいる。夕方に薄くて丸い月を見つけられたらラッキー。そこにいましたか、となる。

昨晩は遅い時間からのフロイト読書会だった。新しいメンバーも入ったそろそろ指導的な立場になりつつある中堅たちの週一の集まりにアドバイザーとして月一くらいで参加している。私たち候補生にも週一とかでフロイトを読む会が訓練として義務付けられていればいいのに。セミナーは月一回あるし、いろんな候補生と自主的にいろんな勉強もしているが訓練として位置付けられていないと都合に合わせてスケジュールを組むことになるからなかなか合わない。3人くらいなら合うから3つくらい勉強のグループを作ってるけど月一とか3ヶ月に一回とかになってしまう。私は8時から仕事を始めるから朝1時間でもあったらいいのに、と思う。実際に精神分析を体験しながらフロイトを読んでいる人が体験はしなくても精神分析的にものを考えている人たちにフロイトの理論を伝えていかないとフロイトを読むということはますます難しくなると思う。ラカンを読むのは精神分析を体験していたとしても読みにくいし現代思想の流れで読むことも意義があるような気がするけど、フロイトは精神分析を志す人には必読なわけで、それはラカンとは比べものにならない。しかもゲーテ賞をとるくらいの文章を書く人であり、読み物としてとしてわかりにくいわけでもない。素直に読んでいけば文章としては理解できる、と私はいつも言っているのだが違うのかな。みんな文章自体の理解を何かが邪魔するような読み方をしている時が多い気がする。というかもう何年前だか忘れてしまったが初期のこのグループはフロイトを読むのが本当に苦痛そうだった。内容の理解が難しいというのはもちろんあるが、その理由のひとつに自分が知っている現代の精神分析理論の用語で理解しようとするからというのがあったと思う。私は読書自体がそういうものではないと思うし、私たちが知っているわずかな知識をもとにするのではなくてフロイト本人がその概念なりなんなりができるプロセスをを書いているわけだからそれに素直に沿っていって文章として読みにくいところはチェックしてとりあえず普通にただ読むということを続けていくのが一番シンプルに現代につながってくると思う。フロイトほどの天才はそんなに多くないわけだからまずはきちんと乗っかろう、というようなことを何度も言ってきた気がする。創始者と生涯をかけて語らうように関わり続けて自分の新しい言語を作るラカンほどの人もなかなかいないわけで、多くの場合、自分の狭い世界に巨人のイメージだけを住まわせて必要なときだけでてきてもらうみたいな使い方になりがちなわけだけどまずは実物と出会って手のひらとか肩に乗せてもらおうぜ、と思う。多くの物語が最初はデカくて異質で逃げ出すことしか考えられなかった対象と格闘するうちにヒョイっと肩に担がれてそこから見える景色に大感動する場面を描いているではないか。このグループの初期メンバーは肩に乗ることに成功した人たちだと思う。まずはそこに辿り着くのが大事だよね。フロイトの概念がどのように変遷してきたかを理解しているから議論もふわふわしないし丁寧。すごいことだ。継続は力。昨晩読んだのは『性理論のための三篇』(1905、岩波版フロイト全集6)。この三篇は、倒錯、幼児性欲、思春期におけるその変化の3つに分かれている。フロイトが「対象」というのはモノではなく人なのはたしかだけど社会的なお付き合いの範囲の人ではなくあくまで基盤は欲動の話。しかし3つ目の思春期における男性と女性の分化を語る段階になると錯綜しはじめる。281ページ以降は別の言葉で書き直した方がいいのではないのかと思ったりする。そのためにも何度も何度も咀嚼しないとだけど。精神分析は社会的な人間関係を描写するには向いていないと私は思う。精神分析でしか起きないことを精神分析だから起きることとして記述していく技法論も大事だけど精神分析家もびっくりしてしまうようなことが起きるのが精神分析なんだということを前提とする必要があると思う。予定調和なことは一切起きない。日常生活が本来そうだろうけど。とにかくよく読み終えました。二度目?三度目?また読みましょう。私主催のリーディングフロイトも卒業生が出るからきちんと募集しないと。ああ。やることが多すぎる・・・。がんばろう。能登の地震後のニュースがひどいけど考えさせられることも多い。人間って・・・というのは大抵私って・・・ということでもあるのできれいごと言わないように自分に注意したい。早く暖かくなりますように。

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1月25日(木)朝

今朝は寒い。暖房をつけた。顎が外れたみたいに開いた吹き出し口から風が勢いよく出る音が聞こえはじめる。色々やって戻ってきたらモーター音が弱まるのが聞こえた。ちょうどよく暖まったがPCで作業するために冷えとり靴下を履いた。暖かくなる電気足置きマットも買ったがあまり使っていない。むしろ100円ショップで買った小さな踏み台の方が活躍している。そこに足を置いて距離を地面と距離をとる方が効果的な気がする。台自体が冷たいのでそこからも着る毛布の足元を調整して距離をとるけど今朝はベッドに着る毛布を置いてきてしまったからちょっと冷たい。靴下のおかげでそのうち忘れるだろう。ぼんやりコーヒーを淹れていたら溢れそうになった。慌ててドリップパックを持ち上げると思ったより多くは入っていなかった。今朝も善行のCafe花笑の焼き菓子。今日はベリーティーパウンドケーキ。さっぱりしていて美味しい。「さっぱり」って「して」よりも「していて」とか「した」とかのほうがしっくりくる。状態をしっかり言ってあげたい感じなのかしら。それとも文法上そういうものってこと?あるいは耳慣れているから?

昨日1月24日の俳句日めくりカレンダーの俳句は

寒卵一つ怒涛の前に置く 中村正幸

季語は寒卵。「かんたまご」と読む、と知っていたのになぜかぼんやり「カンランひとつ」とつなげて読んでしまってなんかリズムが、と思って「ああ、寒卵じゃん」となった。最初からそう書いてあるじゃんね。ダメな俺だぜ、と思うと軟式globeの「そうだよアホだよ」が思い浮かんでしまう。なぜかYouTubeで流れてくるからたまにみてうけている。小室ファンだったからか?

さてこの一句がなぜか気になりいつもはしないのに調べてみた。そうしたら同じ作者で

絶海のしづけさにあり寒卵 

が出てきた。雰囲気が似ている。中村正幸は昭和18年愛知県生まれ。平成12年から「深海」を創刊し主宰を務められているとのこと。この二句を見ると「寒卵」がまるで美術作品のように見えてくる。直島の海の前に置かれた草間彌生の「南瓜」みたいな。あれは台風で壊れてしまったけど復元されたらしい。この「寒卵」はハンプティダンプティみたいな脆さもないだろうなあ。すごく逞しい。今みたいな一番寒い季節に産まれた卵。新宿の京王百貨店では物産展「石川・福井 物産と観光展」が始まった。売り上げの一部は被災地に寄付されるという。29日まで。ぜひ行こうと思う。

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カンバーグとか。

寒い、眠い、ウトウトを繰り返しているうちにこんな時間。小さなクッキーを半分食べた。あとでうなぎパイも食べる。お茶はすっかり冷めてしまった。先日、岡野憲一郎先生の「行動化」についての講義でオットー・カンバーグのことを久し振りに聞いた。アメリカの大御所精神分析家でありボーダーラインの治療といえばカンバーグだった。1928年生まれ。まだお元気。岡野先生が講義で話された臨床体験は私も初期に体験してきたものであり当時の臨床は身体的にも相当なエネルギーを使ってとても大変だったが若かった自分には必要なハードさだった。今はエネルギーがなくなった分、病理の理解とか動きのパターンとかが身についているのでコンパクトに動けるようになった。昔は「若い」というだけで頼りなくみられることに複雑な気持ちを感じたこともあったが実際頼りなかったと思う。経験しないとわからないことだけれど臨床は経験するしかないことだから真摯にやっていればそのうち遅ればせながらという形にはなってしまうけど色々わかるようになるよ。日本の心理臨床は幅広過ぎて自分が何をしているかわからなくなってしまいがちだけど経験を積み重ねるというのは自分が何をしているかわかるようになってくるということなので頑張ろう。特定のアプローチに沿ってやっていない人も多いわけだけどそれはそれでそういうアイデンティティとして自覚できるわけだし、まずは現在の自分って何者?今後どうなる予定とかどうなりたいとかある?と問いかけておくことが大事なのかもね。労働環境を変えていくのも自分たちだし。

精神分析家候補生を志す皆さんには

I’d like to introduce you to a book.
Otto F.Kernberg writes a one chaper of this book..
The title of the book is
“ Dear Candidate: Analysts from around the World Offer Personal Reflections on Psychoanalytic Training, Education, and the Profession.”
This book is a good guide to candidates.

なぜ突然英語かって他の人に送ったものコピペだから。英語は使えないと本当にダメだなということで英語でやりとりするグループを作ったの。高いお金かけて国際学会とかいったのに観光だけになったら本当にもったいないし先がそんなに長いわけでもないから精神分析家になって、訓練分析家になってというプロセスをたくさんの人と交流しながら積み上げていけたらいいな。私はそんな感じ。みんなはどうだろう。今日もがんばりましょう。能登だけでも早く春が訪れればいいのに、と思うけどせめて春の気配だけでも感じさせてくれるものがあるといいのに。花粉とかは嫌だけど。難しい。春を待てる気持ちになるような実質的な支援ができるだけ手厚くされますように。どうぞご無事でお過ごしください。

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季語「宝船」とか。


毎朝毎朝きれいな空。俳句が降りてこないかしら。空、雲、月、星が全て季語になっているのは冬と夏だけかな。「冬の空」とか「冬の雲」とか。春と秋は「星」が季語ではないかも。昨晩はオンライン句会の選句の締め切りだった。「夏雲システム」というオンライン句会のために作られたすごいシステムがあるのだが私たちも初期からそれを利用させていただいている。私たちは選句締切と同時に作者と点数が公開される設定にしている。今回も面白い句が多かった。参加者それぞれが題を出す型式でやっている。出された季語は使っても使わなくてもいい。今回は「宝船」という季語がお題のひとつにあり、それを使った句が大変面白かった。宝船というのは大抵七福神がたくさんの宝物と乗っている帆をいっぱいに張った船の図案。めでたい初夢を見るために枕の下にしいて寝たりするものだ。今回は宝船がやってくる様子が見えてくる句が大変面白く、穏やかだったり賑やかだったりするその来方がその人ならではの言葉で書かれていた。七福神そのものを書いていなくても大体全員揃っている船を思い浮かべる人が多いだろうけど今回は帆がなくなってしまった句があって愉快だった。江戸時代とは紙も印刷方法も異なるからな、と書けば想像がつくだろうか。意外性のある句こそ面白いのだが日常はあえて言葉にすればどれも結構意外なので見たまま切り取っておくというのは面白い作業だと思う。と書いて私の俳句熱が高まるわけではないのだがこの文芸を面白いと思う気持ちは変わらない。この小さな句会はいまや結社の実力者である人たちが集まっていて私だけなんだか場違いな気もするが私が作ったので彼らの力の抜けた俳句に出会えて嬉しい。こういう句会はそれぞれが実験的に使えるから良い。俳句は賞が絡む文化だから結構体育会系なのだ。私は実際は体育会系育ちなはずなんだけどそこでもゆるゆるダラダラだったせいか俳句においてもそうなっている。今回は選評にも「面白い」という言葉が多かったのも面白かった。俳句は空を見なくても(見えちゃうけど)花の名前を知らなくても読めば浮かんでくる景色が凝縮された17文字なのでお得だ。最中みたいのにお湯をかけると中から色々出てくるお吸い物があるでしょう。あんな感じ。読むってそういう楽しみ。知識はとても大切だけど人との関わりが言葉を見つけさせる。私の仕事も幸せなことにそういう仕事だ。色々な人の言葉を聞き、彼らだけが知っている景色を知る。私たちは同じものを見ていても全く違うものを見ているものだ。切り取り方というのは本当にそれぞれで語り方もそれぞれ。フロイトが驚きを持って患者の言葉に耳を傾けることが大切だと言ったのはあえて言わずともそうなってしまうのが精神分析でありとても自然なことを言葉にしただけなのだ。見えたものをそのまま言葉にする俳句と同じ。私もこんなに長く会っている人なのに毎回驚かされたりしているのだから驚く。人の心の世界はわからないからこそ、自分で喋ってみてそんなこと考えていた自分にびっくりということがよく起きる。醍醐味と可能性。傷や事件は心に不自由をもたらすけどそれはまた別の話、というか時間がなくなってしまった。

今朝はしょうが紅茶と善行の洋菓子屋さんのショコラオランジュでした!美味しかった。

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1月22日(月)朝

明るくなってきた。二度寝してしまったうえにのんびり朝風呂してしまった。とはいえ寝不足。今日はアルフォートと紅茶。フォートナム&メイソンのかわいいティーバッグをもらった。世の中にはかわいいものが溢れていると都会に出るといつも思うが混み過ぎていて立ち止まることはほとんどない。いつも通過してばかり。寒いし、いつも見ている範囲で足りてしまっているというのもある。たまたま最寄り駅が同じ同業者と私たちの住む小さな街の満足度の高さを話したばかり。この街に来てから長いがチェーン店の根付かないこの街を「地元の金銭感覚がわかっていないんだよ」と昔からこの街で商売を営んでいる人に聞いたことがある。今はチェーン店もいくつかあるしおしゃれな店も増えたがローカル感は強い。一方昔からある店の店員さんの高齢化は見ればわかる、というか私がここでとった歳を考えればあの店の人亡くなったのかな、最近見ないけど、という会話が増えるのは当たり前だ。長く店を営むというのは大変なことだろう。コロナ禍に閉じた店もあるし復活した店もある。どうにかこうにか乗り切ったように見えていてもこの数年間の影響がすぐに出るとは限らない。人間関係でも「すいませんでした!」とかいえば色々チャラにできると思っている人がいるが人が受けた傷というのはそんな簡単ではない。ということをわかっていない人が多いのだから絶望が深まる。先日、女性ひとりでやっている小料理店に行ったがどれもこれもとても美味しく、ひとりで切り盛りしていると聞いて驚いた。私の仕事もそうだが偶然の出会いからはじまるのがほとんどな仕事に特有の困難というのがある。しかも女ひとりだと。だからなおさら人や情報を消費することだけうまい嘘つきとか政治家とかには腹が立つ。消費がうまい、というか相手の気持ちなど考えていないから平然とそういうことができる人がいるということだけど。世の中は理不尽に溢れているが今日も落ち込んだり嫌な気持ちになったりしながら普通にやろう。店での出会いや友人たちや先生方との会話みたいに積み重ねられている良きことも多い。本当にひどい人が平然としている社会は本当に気分が悪いが居場所はある。というよりまずは居場所を、と被災地のことも思う。

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音読とか俳句とか

待ち合わせまでに時間があったので少し本を読み進めておこうと思った。はちみつ紅茶を入れて濃厚チョコレートを二つ食べた。ランチをする余裕があるかどうかわからなかったから中途半端にお腹を満たしてしまった。読むのは専門書だ。発表に向けて音読しながら読む進めている。最近はずっと音読をしている。なぜなら眠ってしまうから。

この14歳の被分析者は制止の問題は扱えるが回避の問題は扱えない人だった。著者はどちらの問題も享楽としてまとめる。フランス精神分析だからそうなるのだろう。この本は身体と言葉の関係にまつわる本なのでこの症例でも問題となる身体が登場する。

「たしかにシモンは身体を持っている。しかし、彼にとって身体は重荷であり、まるで荷物のように担がなければならないものである。」p73

彼が身体に感じる違和感や回避の傾向を覆い隠してきたのは両親が彼に与えた「早熟な」というシニフィアンだ。彼は普通の子どもたちがやるようなことは全て拒否していた。

「早熟な子どもはなにもせずとも学んでしまう。」p74

「主人のディスクールの目的はみなと同じようにさせることである」というラカンのディスクールにも彼は従わない。

彼の症状を規定するのは

「まずは<他者>のパロールと関わりのある享楽である。もうひとつは、<他者>の身体と関わりのある享楽である。」

「いわば、分析のなかで「語られた」症状が、「沈黙させられた」症状を覆い隠している」p74

だから「身体は重荷」なのだ。シニフィアンによって身体は外部に置かれたままである。

この少年はやるべき勉強をしないで「無用で意味のない勉強」のようなものをやり続けることで「あらゆる強制を拒む」。すごくよくわかる、といいたくなる振る舞いを彼はし続ける。先伸ばしにすることで「もう遅い」という状態を享楽する。

NHK俳句を見て書くのを中断してしまった。今日の選者は大好きな村上鞆彦さん。南風俳句会の主宰。ゲストは松田ゆう姫さん。松田優作は彼女が1歳の時に亡くなったのね。自分の声が好きというのは素敵。俳句も声に出すと感じが変わるものね。音楽性のある句も紹介されていて面白かった。今日も長いぞ。素敵な俳句作れないかな。降りてこい!東京で降っているのは雨。

能登言葉親しまれつつ花の旅 虚子

能登は輪島、一本松公園にあるという虚子の句碑も見にいこう。夏に。厳しい冬がこれ以上何事もなく過ぎていきますように。

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1月20日(土)朝

つくばワイナリーの「TSUKUBA ROUGE」をもらった。とても美味しい。あっという間に眠くなってしまったが。

月面着陸、軟着陸は成功とのこと。これはとても凄いことなんだろうなあ。「神酒の海」のそばに降りると言っていたけど月でいう「そば」ってどのくらいの距離なのかしら。月感覚が全くわからないわ。

きたやまおさむ新刊 『「むなしさ」の味わい方』 をいただいた。早速序章を声に出して読んだ。この本は一般向けだから「きたやまおさむ」なのね。芸能人でもある北山先生ならではの素材が最初からたくさん出てくる。永六輔から近松門左衛門の「虚実皮膜の論」からご自身の「治療室楽屋論」から縦横無尽。「間」と「むなしさ」を語るにはこれだけ言葉を尽くす必要があるのか、とやはり思う。月面よりも遠い場所。言葉でしか辿りつけない場所、というか時間か。北山先生は「間」は「魔」でもあると書き、「虚しさ」は「空しさ」と並べて書いている。ないものの「味わい方」を書いてしまうのがウィニコット研究者でもある北山先生らしさでもあると思う。

私は友人のチョコレートケーキの最後の一欠片を味わいました。「欠片」も「ないのにある」言葉ね。昨日の俳句日めくりカレンダーに「滝の欠片」という言葉が入っていたように思うのだけど違ったかな。いい句だなと思ったのに忘れてしまった。俳句日めくりカレンダーを毎年もらうのだけど今年度から慣習は神野紗希さん。宇多喜代子さんの解説が大好きだったから少し寂しいけど神野さんの優しく丁寧な言葉選びも好き。そういえば先日届いた結社誌には夏に青森に行ったときの句が載っていた。もうそんなに経ったのか。記録としての俳句というのはいいものだと思った。夏以降、本当に余裕がなく毎月のオンライン句会の投稿しかしていない。3つあるうちの2つにしかできていない。しかもいつも当日。俳句好きなのに全然仲良くしていない。余裕ないってよくない。何気に韻を踏んだ気分。朝はこれでよしとしましょう。昨年の俳句の日めくりカレンダー、1月20日は「極寒のちりもとどめず巌ふすま 飯田蛇笏」。うう。ほんと極寒な感じ。今日の東京は雪の予報が雨に変わったみたい。能登で物資の運び込みや移動をされているみなさんも体調にお気をつけて。支援する側はつい自分は大丈夫と思いがちだと思うけど疲れたら風邪をひきやすくなるとかはみんな同じですものね。お大事にお過ごしください。今日もどうかご無事で、ご安全に。

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言葉の体験

若い頃、明治生まれの人の話を聞いたことがあった、と思うのだがあまり覚えていない。大正生まれの人の話は結構聞かせていただいた。100歳を超えた方の話を今もたまに聞くことがあるが大正13年生まれの方が今年100歳か。そろそろそういう機会もなくなってくるのだろう。私もだいぶ歳をとった。20代の頃に患者さんの年齢が高いと少し身構えていた頃が懐かしいが人は何歳になっても心理療法を求めるのだと今は知っている。60代、70代になってもだ。フロイトは精神分析の適応を随分狭く考えていたが彼自身のことを考えれば適応年齢などないだろう。日本精神分析協会は訓練分析家が候補生の訓練分析を委託されるのは75歳までとしているがスーパーヴィジョンはその限りではない。年齢で区切るのはそれが訓練だからであり協会の仕事でなければ自分で決めればいい。私もそうだが定年のない仕事に区切りを入れるのは自分。とはいえ予期せぬ出来事で続けられないことも生じるだろう。子供の頃に被災した30代の方の言葉を読んだ。シンプルな感情表現と感謝の言葉はものすごい力を持って迫ってきた。涙が出た。彼や彼の周りの方の人生が続いていることを本当に良かったと思うし、彼が失ったものを思うと言葉もない。大正生まれの人の話を聞くときにただじっと聞くだけの時間が多くなるのは相手がお年寄りだからではなく彼らの歴史に区切りを入れることが憚られるからかもしれない。彼らは聞いてくれてありがとうと言ってくれる。しかし抱えられるのはこっちだ。こんな歴史を生き延びてきた人たちがいる。それをどこか軽妙に語る。「若い人にはわからないでしょうけど」と言われると実際に若かった頃は複雑な気持ちになった。しかし今はその言葉に彼らの痛みだけでなく気遣いも感じる。だからじっとみみをすます。病院に勤めていた頃、古い建物の狭い部屋ですごく近い距離で患者さんの話を聞いていた。最初は戸惑ったが長く常勤で勤めていらした先生に陪席させていただいたり自分で経験を積むにつれその距離はとても貴重なものとなった。教科書的にいえば全く理想的な空間ではなかっただろう。しかしあるものでどうにかするのも人の自然なあり方だろう。私たちは手を伸ばさなくても触れられるほどの距離で言葉を体験した。予約制ではなく希望制だったのに押し黙ったまま時間を過ごす人もいた。言葉の体験にはそういうものも含まれる。みなさん、どうされているだろう。お元気でいてほしい。私は元気になんとかやっています。今日も無事に過ごせたらいいですね。被災地のみなさんもどうか孤独でありませんように。人に、自分に失望してしまうことのありませんように。

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震災とか精神分析の言葉とか。

昨日1月17日は「阪神・淡路大震災」から29年が過ぎた日だった。朝からいろいろなことを思い出しつつ言葉にしなかった。場所は遠かったが友人が多かった。その後、何度か訪れている神戸で感じたこととか中井久夫先生はなぜこうも神格化されたかなども考えた。精神分析の文献しかわからないが中井先生の訳語は特殊だ。精神分析実践をしている人にはピンとこないという話は内輪ではされるが結局その訳語が受け継がれてしまう。言葉というのはなんと権威に弱いものか。というかどうして人は誰かに力を与えてしまうのか。本人が欲しようが欲すまいが。震災のとき、中井久夫と連絡を取り合った精神分析家の土居健郎は近い感じがする。私が土居健郎に近い人たちから臨床を学んできたせいもある。というか近ければ近いほどその人自身の何かを引き継ぐというよりその人が大切にしてきた歴史を見直すことになりそれは結局日常言語とは何かということを考えるということにつながっていくのではないだろうか。「甘え」という言葉は誰にでも通じるゆえに辞書にものり、外国でも何度も検討される言葉になった。そうだ、日常言語で思い出した。ウィニコットフォーラムの発表を原稿にせねば。ウィトゲンシュタインのことをもっと明確に盛り込まねばならない。毎日友達に支えられなかなか取り組めない雑務も少しずつやっているが全然追いついていない。書くことは好きだからなんとかやろう。翻訳もまたやりたくなってきた。辞書を訳してこれは超重要な作業だと思った。知ってはいたがこういう実感を持ったのは私が精神分析の文化の中にいてそれを受け継いでいこうと決めたからだと思う。精神分析臨床と本の言葉を離れさせてはいけない。ラカンの言葉が臨床と離れて使用されることで精神分析が特定の位置からしか語られなくなった側面があるのは残念なことだがラカンに十分親しみながらも議論と実践のなかでラカンと袂を分かち自分たちの言葉で精神分析を語り直そうとするラカン派以外のフランスの精神分析家たちの本を読んでいると臨床家としてのラカンに逆に親しみが持てる。文化を語り継ぐという先生方がずっと話してきたことにようやく実感が持てるようになってきたのかもしれない。長いトレーニングが必要だったわけだ。今日も能登は寒いだろうか、と書きつつ、阪神・淡路の震災のことも同時に思い浮かべる。当時、当日のことを書いた人たちがSNSに改めてあげていた文章にあった光景も想像する。どうか長く続くトラウマに苦しむ人も見通しのつかない今にどうにか立とうとしている人もご無事で、ご安全に。

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お菓子、現代ラカン派の本

地面と距離を取るのに失敗した。眠気に勝てず寒さ対策、姿勢対策を怠った。それでもこれだけどさどさと身体にかけてれば芯から冷えているということはなく恵まれているなと思う。今日は寒い場所にいる時間が長くなるかもしれない。気をつけねば。

今朝は信玄餅もどき、といっては申し訳ないがそんなようなきなこと黒蜜をかけていただく小さなお餅。包み紙はキッチンにあるが見に行くのが面倒。何度か見たのに忘れてしまった。埼玉のお菓子をいただいた。いつもいろんなお菓子をいただくのはその方がお寺の方だから。いいなあ、というのも違うか。黒蜜はどの時間に食べても美味しいなあ。

平日は忙しくてメイン仕事と移動で終わる。昨日は風が強かった。顔が冷たいと本格的な冬と感じる。温暖化は怖いが寒さも怖い。雪国の友人の話を聞くたびに私には住めないと感じる。みんな怪我とかにも気をつけて。

昨日は『言葉にとらわれた身体 現代ラカン派精神分析事例集』(誠信書房)を読んでいた。昨年、邦訳が出てラカン協会でもイベントがあった。フランスの精神分析の勉強会で一緒の人が面白かったと言っていた。原書名はLE CORPS PRIS AU MOT: CE QU’IL DIT, CE QU’IL VEUT.これってWhat he says, what he wants?この部分が「事例」ということか。そう言われたらそんな気もする。私たちがセッションで考えていることってこの二つだものね、大体。
読んでいたのは「3章 身体に支障をきたすこと 透明な身体 動揺」を読んでいた。

エレーヌ・ボノー(Hélène Bonnaud)は最近活躍中の分析家と聞いた。身体の症状を単に症状としてではなく身体の出来事として語るのが分析で語られる言語なんだという考えのもとに事例の理解がされている様子。身体と言語はお互いに巻き込み合う関係だと思うけど身体自体は何もしていないんだよね。何かを表す舞台になっているだけで、というとマクドゥーガルの本にも繋がってくるのかしら。

今日は遅くなってしまった。東京はいいお天気。能登は地震が続いている様子。今日もたくさんの支えが向かうことができますように。

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フランスの精神分析家の年齢など。

姉妹と兄弟とでは関係が異なると感じるし、文学作品でもそういう違いを感じさせるものは多いが、セクシュアリティの扱いが変わるにつれこのような括りも再考を迫られるのだろうか。精神分析でいうセクシュアリティは幼児性欲から始まっており、それは欲動に関わるものである。精神分析という枠を超えて理解するのは難しいし安易に使用するべきではないだろう。

先日も触れたがアンドレ・グリーンをメインに据えたジャック・アンドレ企画のセミナーが収録された講演集『フランス精神分析における境界性の問題』ではメラニー・クラインのスプリッティングを受け継ぐ英国対象関係論とフランス精神分析は異なるというのが前提としてあるようだ。演者の一人、精神科医であり精神分析家でもあったDaniel Widlöcher (8 June 1929 – 14 December 2021) は第四章「境界例における分裂(cIvage)と幼児性欲」において幼児性欲が形成される諸段階における様々な分裂を記述している。

ところでこの本の訳書が日本で出版されたのは2013年でジャック・アンドレが「日本語版に寄せて」でAndré Green (12 March 1927 – 22 January 2012) とPierre Fédida (30 October 1934 – 1 November 2002)に対して追悼の意を表している。その後、ダニエル・ヴィドロシェ、ジャン=リュック・ドネ(Jean-Luc Donnet,2 March 1932 – 19 Octobre 2022)も亡くなった。ジャック・アンドレとカトリーヌ・シャベールは1947年生まれ。日本の精神分析家でいえば北山修先生(1946年生まれ)と同じくらいだ。私たちのトレーニングを引き受けてくれた先生方もだいぶ歳をとった。日本は訓練分析家の数も少ないから雑務といえるような仕事も含め負担が大きい。この講演集みたいに精神分析理論をガッツリ述べるような機会よりももっとふんわりとした外向けの企画の方が多い。先生方から教えていただいたことを精神分析という現場において熟成させていかないとなあと思う。

途中、いろいろ家事をしたらもう鳥が鋭く鳴く時間。今日もがんばりましょう。これまでも様々な被災地へ支援に行った人たちはすでに淡々と被災地へ入り活動している様子。なるほど、それが必要だった、と学ぶことも多い。今日も少しでも多くの注意が注がれますように。関心が減ることがありませんように。

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1月15日(月)朝

ぼんやりしているといつのまにか明るくなっている。高校のときの友人がついに広島に引っ越したそうだ。友人は夫の転勤に伴って数年に一度引っ越していたが高松在住期間が思いがけず長くなった。遊びに行ったこともある。高松は全国の中でも上位に入る好きな街だ。高松なら精神分析の需要もなくはないと思う。東京でも需要が多いわけではないが遠くて近い関係を築きやすい距離が人との人との間に保ちやすい風土がある気がする。広島はすでに精神分析の文化がある土地だ。昨年11月に行ったばかりだがまた行きたいし行く機会はあるだろう。私は今日もくるっと近隣の区を回りつつマイオフィスで仕事。今日も長い一日になる。

志賀町はまだ断水が続いているのか。そこに大雪。全く知らない街だけどこれまで旅してきた雪国の風景を重ねつつ震える。もう15日。支援が足りるということはない。できるだけ早くできるだけ多くできるだけ丁寧にと願うばかり。

ラジオを聴いている。ラジオも聞き流しているだけだし、こっちの手は完全に止まっている。なのにお菓子だけは食べ終わっている。うーん。オフィスでの仕事はイレギュラーなことが起きない限り問題ないが、他の仕事と隙間時間の使い方を変えていかないとまずい。いろんなことに注意は向いているが進めなくてはいけないことを進めていない。この前、カフェで待ち合わせをしたときに混んでいるかもなと思って早めに行ったらすごく混んでいた。待ち合わせにはまだ時間があったので並んでみた。立ったまま本を開いた。ペンを持ちながらだったのでやりにくかったし周りも騒がしかったが集中できた。騒がしさに関しては気になる時と気にならない時がある。というより刺激の質によるのだろう。音楽を流すでもなくイヤホンをしているだけで静かになるがまだそうすることが習慣になっていない。その状況では本を読むことが優先順位一位となったのだろう。いつまででも並んでいたいとか立ったまま読んだ方がいいのではとか少し思ったけどそういう部分的な要因ではない。どこでも眠れるのと同じくらいどこでも本は読んでいるけど読むべきものを読んでいるかというとそうでもない。あ、こんな時間。今週もきっとそんなこんなだけどとりあえずがんばりましょう。

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フランス精神分析の本とかNetflixとか。

寝不足。電化製品に頼ってヌクヌクしすぎている結果だ。全然ダメだな、と思いつつテレビまでつけてる。作業のために必要なものは全てうちにある。だからうちで没頭すればいい。それを邪魔する誘惑も全てうちにある。うーん。お菓ティがまずい。いやお菓子もお茶も美味しすぎてまずい。昨日、カフェに行ったら周りのみんなは一生懸命勉強していた。私も隙間時間に少しでも勉強しなくてはと思って行ったのだけど「ココア美味しい」とヌクヌクぼんやりしていたらすぐに時間になってしまった。「だって雪だったし」とか理由はなくもないが今日は晴れる予定だとしても「だって寒いし」とぼんやりし続ける理由なんていくらでも作れる。誰も困らないのだけど。いや困るかもしれない。やっぱりやらねば。

本は少し読んだ。ラカン派ではないフランスの精神分析家アンドレ・グリーンの理論を少しずつ咀嚼しているので読んではやめていた『フランス精神分析における境界性の問題
─フロイトのメタサイコロジーの再考を通して─』も読めるようになってきた。

・1996年11月〜1997年5月
・ジャック・アンドレ主催、サンタンヌ病院でのセミネール
・目次は講演順、演者による加筆修正あり

第一章 唯一の対象
──ジャック・アンドレ
第二章 境界例の生成と状況
──アンドレ・グリーン
第三章 境界例は精神分析家にとって夢の患者なのか
──ピエール・フェディダ
第四章 境界例における分裂(clivage)と幼児性欲
──ダニエル・ヴィドロシェ
第五章 境界性機能様式:いかなる境界か
──カトリーヌ・シャベール
第六章 境界性患者、境界性状況──ジャン=リュック・ドネ

155ページに高名な精神分析家たちの講演が詰め込まれた贅沢な一冊だ。そしてどの論文も無駄がない。講演会の記録の加筆修正だからか。無駄な前置きもない。いや、無駄と思うのは私だからそれが本当に無駄かどうかはわからないのだけど「どうしてこの部分が必要だったのかしら」と思う読み物もあるから。そしてどの演者も立ち返るのはフロイトでありラカンではない。ただフランスで精神分析を営むにはラカンの影響を受けずにはいられない。そもそもフロイトへの回帰を強力に促したのはラカンであり、ラカンのフロイト再読はやはり何度も通るべき道でもある。さて、この講演の中心であるグリーンはラカンのセミネールに強く影響を受けラカンと対立し論争を繰り広げることができる人だった。そして袂をわかった。彼は英国対象関係論の系譜とは異なる形でウィニコットを読みこむと同時に、フロイトの第二局所論の読み直しを続け、欲動に新たな役割を与えた。フロイトの快原理、ナルシシズム論はこれによって深まる。

と書いていたがいつのまにかNetflixを見てしまっていた。いけない。今日こそがんばろう。

能登はどうだろう。安東量子さんのmastodonでの言葉がこれまでと今回の震災で生じていることを考えるヒントをくれる。被災地のみなさんが自分に合った音量で発信を続けられる環境づくりが進められるますように。それは常にこちらの態度次第だということが忘れられることのありませんように。

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1月13日(土)朝

今日は「あんぽ柿の日」なのか。福島県伊達市梁川町五十沢地区で製造、販売されたのが始まり、という一説があり、昨年は出荷が始まって100周年だったそう。それを記念して五十沢のいさざわの「いさ」=13、ということで12月、1月、2月の13日は「伊達のあんぽ柿の日」と制定したそう。美味しいよねえ、あんぽ柿。柿自体も柿のお菓子もお料理も大好き。伊達市のHPはあんぽ柿のみならず果物が美味しそう。

しまった。ぬくぬくしていたら二度寝してしまった。お料理の夢を見ていた。いつも食べることばかり。今日は何をいただきましょう。朝はケーキ屋さんの友人のナッツのケーキ。細かく砕いたいろんなナッツが少し大人味の生地にたっぷり。いろんなすっごく美味しい。ドトール協賛みたいなことが書いてあった安いのにおいしそうなドリップコーヒーと一緒に。

山崎まどかの書評を読んで野溝七生子の自伝的長篇『山梔』を読みたくなっている。気になっていたのだ。毒親などの言葉を私は使わないが母と娘の関係は私が出会う人たちが抱える解決しようのないメインの問題でもある。解決というよりはそこをどう生きるかを選択していく、そのプロセスを大切にする、これまで大切にされたことのない自分の生き方を。こういう書評も彼女たちの生き方にある種の救いをもたらすのだろう。著者はすでに亡くなっているとしても似たような少女は今も存在するから。

FacebookのKarnakのページが流れてきてBrett Kahr’s Top Ten 2022からの一冊が紹介されていた。へーと思った。そういうシリーズがあるのか。精神分析家がおこなう精神分析的心理療法における逆転移の諸相が書かれた本も勉強になりそうだが私は今はthe Institute of Group Analysis LondonのトレーニングアナリストであるJohn Schlapoberskyが1969年、学生時代に南アフリカで逮捕、拷問、拘留されながら書いた日記の回想録らしい。When They Came for Me: The Hidden Diary of an Apartheid Prisoner という本。

まあこれもそのうち。今日は分析家の古典をもっと正確に読めるようにがんばらねば。

別のところにも書いたが「全住民避難」のニュースを聞きながらいろんな気持ちになった。私は当時理事をしていたNPOで3.11の震災の後、福島県双葉町から埼玉県加須市の旧騎西高校に集団避難したみなさんのところへ毎月「遊びの出前」を行っていた。そのNPO仲間が作った保育園で仕事をしに行ったついでに色々話していたのもあっていろんなことを思い出してちょっと調べたら当時の活動がいくつかの記事になっていた。知らなかった。その一つ。記録になるから保存しておこうと思った。

今日もどの時間帯にもできるだけ細やかな視線が被災地に注がれこれまでの震災から学んだことが活かされた支援がされますように。どうかご無事で。ご安全に。

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1月12日(金)朝

お茶が熱い。熱くて美味しい。お茶の緑はきれい。今日は「吉祥最中まねきねこ」のこしあんと。

64年前の1月11日のPEANUTS、かわいい。チャーリー・ブラウンとライナスの会話。”OUTRAGEOUSLY HAPPY!”というのいいね。南町田クランベリーパークにスヌーピーミュージアムというのがあって、と調べてみたら今リニューアル工事中なのね。アートディレクターは天才、祖父江慎さん。大好き。これまでのでも十分楽しかったけどどうなるのかなあ。祖父江慎さんのお仕事はどれもワクワクだからいろんなところにびっくりの工夫がされるのだろうなあ。楽しみ!

テーブルの上に2018年の名刺サイズのカレンダーがある。2018年は平成30年だったのね。平成って31年までだったっけ。新潮社って書いてある。昨晩、本をどさどさと置いたときに落ちてきたのかも。表面は塩野七生『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』の宣伝。「古代ギリシア 賢人たちの言葉」が書いてある。2017年12月15日発売だったのね。この本は読んでいないけどこの頃になにか本を買って本屋さんでもらったのだろうね。これって栞にもなりますよ、ってことなんだよね?どうやら私はそう使っていたらしいけど。さてさてアリストテレスさんは何を言っているかな。「論理的には正しくても、人間世界でも正しいとはかぎらない」。どういうこと?正しい間違い問題とか成功失敗問題とか苦手。私は昨日ライヘンバッハの言っていることを理解したくて本を読んでいたのだけど合理的と論理的は違うんだよね。人間世界ってここだよね。論理と人間って分かれてるの?人間世界は論理的であるだけではどうにもならないこともあるってことだとしてもなんかよくわからないな。教えて、アリストテレス。さてプラトンさんは?「驚きは哲学の始まりである」。うんうん。これはフロイトがいう「驚き」と同じかしらね。だったら理解できる。とか書いているとキリがないですね。ほかにはアリストファーネス、アレキサンダー大王、エウリピデス、ソクラテスの言葉が載っておる。

ケーキ屋さんの友人からのお手紙に小淵沢にはもう雪が積もったと書いてあった。寒いのだろうなあ。神田橋先生の合宿でみんなで小淵沢に行ったのっていつだっけ。もう20年以上前になったりする?SC仲間に誘われて入った箱庭の体験グループのメンバーだったかな。楽しかったなあ。あ、30歳の頃だ。箱庭に当時の自分が問題としていたことが出ていて「おー、箱庭もプロに見てもらうとこうなるんだなあ」と思ったのを思い出した。私は当時明確に精神分析家を目指してはいなかったけど精神分析は受けると決めてすでに分析家に会いに行ったりしていたからその体験と合わせて思い出した。みんな元気かな。

能登の地震に関連した話、あまりにひどいことが多いですね。あまりにひどくて何か書く気もしないけど権力者たちには論理的であってほしいと思う。言葉だけでなく論理的に行動してほしいと思う。