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精神分析

話したり読んだり。

そういえば昨日は雨だった。今朝はすっきり。ニュースをみていると不安ばかり募るがそれらを無駄に膨らますことなく現実に即して考えていきましょう。それにしてもとぐちぐちいいたいこともあるがそれについて考えたところで特に不思議なことはおきていない、というかいつものことにほかならない。でも身近な人に話してみることは大事。話すと「そっか、いつもそうだもんね」とか「そういうことか」となるから。反論したくなるときはなにかしら攻撃性が動いているときかもしれない。それについてはまた別の時間と場所が必要かも。

週末に読んだイギリスの精神分析家のマーガレット・リトルは安全感を第一に考えたけどそれは彼女の病理だけでなく誰もが守られる環境にないなか生きねばならなかったなかでの実感だろう。リトルのウィニコットとの治療体験を逸脱の側面ばかりからみるのは誤読だろうと私には思える。時代と歴史、治療文化を知り想像すること。薬どころか居場所をどうするかという問題は切実だった時代。朝ドラではコロナ禍の医療機関の様子をみせた。あの頃の異常にも思える色々な態度を思い出して暗澹たる気持ちになった。本当にひどい言葉と行動が「普通」に表出された時期だった。毎日毎日考えあぐねた。誰もが不安や不快感を抱える状況であったとしても何を言葉にして、どう行動するかは個別のものだからとにかく時間をかけてそこにたどりつくことが大事だった。それも身近に話せる相手がいたからできたことだけど。

来年度のReading Freudで読む『心理学草案』のために複数の日本語訳で読んだら結構大事なところが全然異なる意味で訳されていて困った。ドイツ語の辞書もひいてみたけどドイツ語ができる人にとってはこれは意訳としてOKなのでは、だとすると、など結局正解にたどり着けない。なのでどっちの読み方もあり、ということにしている。みんなで読む中で別の語彙がみつかるかもしれないし。

冬の服も今週で終わりかな。終わりだといいな。週末はあたたかいみたい。楽しみ。花粉はいつまでだろう。起きるなりくしゃみする日々。それぞれ色々大事にしましょう。

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精神分析

雨、焼き菓子、言葉

雨。窓に水が滲んでは流れてく。

今朝は神奈川県秦野市「アンドリアン」の「プッチーネ」、プチに優しい甘さが詰まっている。焼き菓子はベーシックなものがいいですね。そして最後の丸子紅茶。村松二六さんは天才。昨年、亡くなられたが彼のところに学びにいった茶農家さんはたくさんいるからきっと受け継いでもらえる。この甘味はほかにはない。最初にいただいたときから飲むたびにびっくりしている。

色々と言葉にならないことがあるが言葉にしなくてもいいこともたくさんある。言葉にするとやらなければいけないことが増えるから言いたくない、という人は多いが、自分で出した言葉が自分に圧力をかけてくるというのは面白い。私は自分に対してはその機能は存分に使いたいのでできるだけ言葉にする。もちろんいつも同じような言葉はそういう機能を持たないので色々工夫もする。自分で出すものはすぐ他者化する。単なる排泄物も他人にとっては重要だったりする。そういうの楽しめたらいいけど大抵は苦しくて仕方ないからやりたくないんだよね。それもわかる、とかいっていると仕事にならないけどどんなふうになりたいかはその人次第だから良いも悪いもない。

今日は何を着ましょうか。寒いから雨など着にせずモコモコしようか。風邪ひかないようにしましょう。

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精神分析

山笑ふ、ファインバーグ理論

土曜日。数日前は雨の予報だったのがくもり時々晴れになった。雨は明日らしい。昨晩、「富士笑ふ」から始まる俳句を読んだ。さっきふと「富士笑ふ」は「山笑ふ」の季語として使っているのか、と思い至った。私が見る山はまだ雪で白いところもあり、春色ではないが道はうっかり春。色に近づいて写真を撮ることが増えた。山菜の天ぷらが食べたいな、とも最近ずっと思っていた。どこかで「ふきのとう」と聞いたから。ふきのとうをはじめて見たときはそのかわいさにやられた。一方で山菜つみに出かけたら熊に、とかいうニュースも思い出す。時折ハイキングにいくと低山であっても熊が本当に怖い。熊鈴をつけていてもビクビクする。この前も気配を感じてドキッとしたら黒づくめのハイカーだった。にしても今やどこでも出会いかねないわけで、食べ物があれば冬眠もしなくなるというのだから人間も罪深い。でもだからといって襲われたくない。

フランスの精神分析家、ファインバーグの論文を読んでいて’appropriation and intrusion’という言葉にあった。意訳すれば「親殺しと子殺し」とも訳せるか、など思ったりした。ファインバーグが提示した “Oedipal configuration and its narcissistic dimension”(エディプス的布置とそのナルシシスティクの次元) という概念は、少なくとも3世代以上、つまりこれまでの父と母と子の三者関係を超えてエディプス的布置とナルシシスティックな結びつきを凝縮させて考えたものらしい。そう考えればファインバーグが展開した「事後性 (Nachträglichkeit)」の概念も生きてくる。ここにも編み込みの要素がある。今編み込みがあみこのテーマだから少しずつ深めましょう。オグデンが『生を取り戻す』で参照しているファインバーグの「二重運動」も関連して重要と考える。

さあ、今日もがんばりましょう。花粉がおとなしくしてくれますように。

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精神分析

おかめ桜

のっぺりだけど明るい空。春はどこかうるうるしている。朧。昨晩は月が雲にぼんやり。今晩が満月らしい。昼間の陽射しには夏を感じた。春分の日は三月二十日。昼が長くなっていく。桜の蕾もいまかいまかという様子になるその頃。すでに早咲きの桜は満開。遠くからでも鮮やかなピンクに近づくとおかめ桜が満開だった。しばらく近くで眺めていると蜂がたくさんいることに気づいた。おかめ桜はイギリスの研究者によるカンヒザクラとマメザクラを交配した品種とのこと。根府川で根府川おかめ桜というのをやっているのか。行きたい。二十三日まで。また早川の漁港で朝ごはん食べていくのもいいな。小田原でも遊びたいが、久しぶりに小田原文化財団 江之浦測候所にも行きたい。と脳内計画だけ立ててみる。長年かけていろんな街を知った。まだまだ知らない街があること、絶対に行けない街があることを実感することも増えた。知識的には当たり前のことも身体を通して実感することで生じる情緒というのが詩(俳句)になったらいいのに。言葉にするということは本当に難しい。

今日もやることがたくさんあるが地道にがんばろう。

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精神分析

花火、焼き菓子、カルマ

空がなんにもない薄い色。東の方はうっすらピンク。夜明けにいちいちきれいきれいと思っていた冬とは全然違う。東京の天気、予報は晴れ、気温もぐんぐん上がるらしい。きっとこの格好では暑いだろうけどオフィスにいる分にはそんなに変わらないだろう。ちょうどよくひんやりしているだろうから。この前、オフィスの窓から久しぶりに神宮の花火を見た。前はもっときれいに大きく見えていたのに小さくしか見えなかった。そしてたぶん花火の種類も変わった。経済的なこともあるかしら。あんな高層ビルあったっけ、という建物も気になったけど、花火が低くなったせいなのか、それが新たに建ったのかはわからない。

今日は飛田給のウルソンさんの焼き菓子「ひばりのさえずり(マーブルケーキ)」。府中にもあるお菓子屋さんらしく飛田給はクラフトビールのお店とセットであるらしい。いくつか焼き菓子をもらったのだけどなぜかこれだけ「ひばりのさえずり」という素敵な名前がついている。他は「オレンジ」とか「フィグ」とか素材が書いてあるのに。小さめの焼き菓子で硬さも絶妙でどれもきれいな焼き色で美味。いろんなところに素敵な洋菓子屋さんがあるねえ。私の街にもある。自分の街にいる時間にはあいていないからなかなか行けない。

今、「夜のパン屋さん」を思い出した。枝元なほみさんが亡くなってしまった。若い頃、レシピに随分お世話になった。枝元さんはご本人がそう呼ばれることをどう思うかはわからないけどアクティビストの一面があったよね。すごい人だと思う。私にとっては中野のカルマで働いていた、というのも心に残っている。中野で働いていた頃、みんなで行った小さなお店。当時の中野は小さくてちょっと入りにくいようなお店がたくさんあった。カルマも一瞬入りにくかったような気がする。美味しくて素敵な店だった。今はお店は鳥取に移ったらしい。

昨日はフランスの精神分析家、Dr. Haydée Faimbergの論文を読んでいた。読むべきものはほかにあるが自分の興味を追っていくとたどり着いたから少しずつ読む。本は高くて買えないからpepで読める論文で。pepも全部読めるプランに入りたいけどこれもすごく高い。入ったら入ったでそんなに読まないかも、ということを考えるとまあいいかとなる。

そんなこんなで木曜日。がんばりましょう。

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精神分析

訳語のこととか。

この空の色はなんというのか。グレーと水色の間くらい。今は雨は降っていないみたい。昨晩は降ったりやんだりだったみたい。あと少しというところで少し降られたけどリュックの折りたたみ傘はださなかった。今日もこれから次第に雨になるらしい。 

『ウィニコットとの精神分析の記録 精神病水準の不安と庇護』を再読している。マーガレット・リトルが自分の治療体験を書いたものだ。神田橋先生の訳でsubjective objectが「個人的対象」と訳されている。これはObjectiveとの対比だから「主観的対象」のほうが適切だし、大体はそう訳されているだろう。英語併記だから問題ないけど。翻訳はしてくれるだけでありがたいというのはあるが、 時々もやもやしてそこから学ぶことも多い。先日『自閉スペクトラム症の人たちが生きる新しい世界 Unmasking Autism(デヴォン・プライス 原著、堀越英美 翻訳、翔泳社)を読んでいてAutismは全部ASDと訳されていると知った。訳注に書いてあった。著者自身はアイデンティティファーストの言葉“Autistic”を選んでいるが、アイデンティティ・ファーストの言葉であろうとパーソン・ファーストの言葉であろうと「それぞれのASD者が自分自身を表す用語を尊重するよう最善を尽くした。(中略)言葉の好き嫌いについて明確なスタンスを持っている読者もいるだろうが、私が心がけてきたように、自らを名付ける語り手の主体性を尊重していただければ幸いだ。」とのことだった。たしかに問題はそこではない、といえる論点を著者は提示している。

今日は暖かくなるらしいのにまだ暖かくない。鳥が鋭い声で鳴いている。通り道の梅が長く咲いていて、毎年鳥たちに大人気。昨日もメジロが梅を散らしていた。梅の蜜はおいしそう。

今日もいいことありますように。

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東日本大震災から14年

東日本大震災から14年。忘れることはまだほとんどない。一方、被災地の今に思いをはせることは少なくなっている気がする。私は震災後まもなくからなんどか異なる被災地にNPOなどいろんな形で出向いてたが、泊りでボランティアにいかせていただいた相馬広域こころのケアセンターなごみというところがある。先日、当時、大変お世話になったなごみのセンター長の米倉さんからご案内をいただいた。昨年度公開の映画 「生きて 、 生きて、生きろ」の 出演者の方のご協力のもと、なごみのスタッフが依存症の方の回復までどう関ったかをいくつかの過程に分け、それを解説とともに教材として編集したDVD「被災地の依存症者への関わりから読み解く~生きることを支えるヒント~」が完成したとのことだった。お礼のお返事をするとすぐに試写版を送ってくださった。米倉さんとほかのスタッフが依存症の方の家に通い、交流しながらなんとか自死を防ぎ、医療につなぎ、その後の生活のケアも続ける様子がその方の回復とともにとてもわかりやすく編集されていた。関わりというのは技法ではない。瞬間瞬間の賭けのようなところもあるが、それを信頼できるのは長年の継続的な関わりがあるからだ。米倉さんがこの方とのかかわりを振り返る言葉はとてもシンプルだが胸打たれた。被災後まもなくからこうした組織を整えながらずっと活動を続けている方々がおられることを私はこうして思い出させてもらっている。私が行ったときのなごみはコンパクトな場所だったが今は活動の領域も建物も大きくなったらしい。当時、仮設住宅へ一緒に連れていってくださった福祉士さんやケアマネさんもお元気だろうか。なごみにうかがったときは震災からちょうど一年が経っていたが、そこにはまだ多くの方がいらした。その方々と専門家のみなさんに私が支えられるばかりだった。

 NHKでは、昨年放映された被災地の心のケアの最前線のアウトリーチの現場を撮った

「地域局発 東北ココから 心の扉をたたき続けて~福島・アウトリーチの現場から~」

も見逃し配信で視聴できる。3/15(土) 午前5:36 までとのこと。ぜひ。大船渡にも能登にも思いをはせつつ。

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精神分析

Botella夫妻の論文を読んだり。

春の夜明けは冬とは違う。昨日は一昨日よりは暖かかったがひんやり感が強かった。今日はポカポカ感を感じそうな空だが実際はどうだろう。

確定申告、終わったと思ったらまだだった。予定が狂ってしまった。原稿も。今週は次のセミナーのための本を読みたいのに。どれも一度は読んだことがある文献だが、一冊は誰かに貸したきり。誰に貸したかも覚えていない。いろんな本がこんなに入手困難になるとは思わなかったし、対面で貸し借りする時代だったから返し忘れる、返され損なうということは多かった。今ほどオンラインでやりとりしていなかったし。

César Botella&Sára Botellaの『The Work of Psychic Figurability』(Routledge,2005)の一部をセミナーで読んだが事例がないと面白くない。事例を少し聞く限りとてもきちんと書いてありそうだから事例とともに学びたいがKindleでも高いし英語だし色々余裕がない。最近、フランスの精神分析の文献を読むと欲動論ばかりが意識されたが、今回は欲動は前面に出てこない表象の話。フロイト『夢解釈』がいかに重要かということを改めて思う。『心理学草案』における「飼い慣らされていない想起」(要確認)が飼い慣らされるまでに生じる幻覚は「ネガティブ」と関連づけて考えることができると思うが、夢解釈でフロイトはそこにトラウマの視点を持ち込み(言い方が適切か不明)夢を見させる心的装置がどんな場所かということを快原理、つまり願望充足の観点から論じた。一方、フロイトもその後『快原理の彼岸』で論じることになるが心的装置にはより原始的なメカニズムが存在すると考え、表象以前の情動、反復強迫によって現れるそれらにどう関わるか、それは「夢作業」とは別のものである、ということが今回のBotella夫妻の論文で学んだことだった。なのでこれはおそらく臨床ありきの技法論文集。とりあえずフロイトを読み続けないといけないと思い、セミナー後から『精神分析入門講義』と『続・精神分析入門講義』を読んでいる。地道にやるしかないなあ。

今週もがんばりましょう。

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精神分析

ジャグリングボール、chatGPT

うっすら朝焼け。ラジオ体操の音に乗りながら俳句待機。コーヒーで身体がすぐに暖まる。今日は昨日より気温も高いのだろう。部屋ももう暖かい。ラジオ体操は習慣化していないが週一筋トレの成果で体幹と脚力は強くなっているとわかる。が、握力の衰えを感じる。よくものを落とす。トレーナーさんもそう言っていた。プロでもそうなら私なんて当たり前にそうだ。なのでその辺に転がしていたボールを手に取る。これも昔マッサージ用かなにかで100均かなにかで買ったのだろうか。そういえば、ジャグリングボールはどこへ行ってしまったのだろう、というかどこに置いたのだろう。20年以上前の話だが、最初の職場の先輩がジャグラーだった。ヨガ歴の長い先輩もいた。時間があればみんなでやっていた。私は球技好きなのでジャグリングもボールは割とすぐにできるようになりいい気になって専用のボールを買ったのだ。先輩方とは今も仲がいいが、ジャグリングは何年もしていない。握力が衰えてもバランスよく使える身体でいたい。探そう。

原稿の修正が辛い。書くときは一気に書いているけど時間が経ってからの指摘に対応できる記憶力がない。自らの思考プロセスを追えないので、指摘に対して安請け合いすると文脈が変わってきてしまう。しかも英語をこなれた英語に、とAIに手伝ってもらいながらしているうちに内容に間違いが出てしまったりする。ようやくよくわからないままchatGPTを使うようになったが日本語訳はいまいちな気がするが英訳は自分で書くよりはるかにいい。外に出すのは英語の校正も英語と精神分析の両方に通じた人にお金を出してお願いしたけど、大きくは修正されなかったのでAIと協力していくのは有意義だ。なんせ私にどの英語がこなれているかがわからないからAIと人のハイブリッドで助けてもらわねばならない。先日はzoomと対面のハイブリッドミーティングだったが雪国はコロナ禍で広がったこの形式は助かるものとして引き継がれているのだろうか。

とりあえず575作るか。昨日はたくさん作ったが自分でみてもいまいちなものばかりだった。それってよっぽどいまいちでは、と思うが俳句は読む人によって評価は変わるので見てもらうのも大事。句会に出る余裕がほしい。いずれいずれ、と先延ばしできる楽しみがあるのはいいことだ。どうぞ良い一日を。

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精神分析

河合俊雄からの思い出話。

ひんやりした空。今夜は雨と雪の予報とのこと。靴どうしよう。寒さはこの週末が最後と言い聞かせてしのごう。桜の時期にまた寒くなるだろううけど。

河合俊雄『村上春樹で出会うこころ』(朝日選書)を読んでいた。燻銀という感じがする。経験を積めば積むほどいろんな人に会うわけで、そうすると複雑なことの複雑さを実感せざるをえないわけで、そういうトーンの文章。俊雄先生は村上春樹より少し年下だろうけ春樹をどリアルタイムで読んできた世代だろう。私でさえかなりの初期の本からそうなのだから。若い頃、このはな児童学研究所か山王教育研究所で俊雄先生のセミナーに出ていた。俊雄先生ご自身に関するエピソードも講義も非常に面白かった。当時の私にとってユング派も精神分析も家族療法(短期療法)も動作法も療育も箱庭もそれほど重みづけは変わらずいろんなところへ出向いていた。当時は山王教育研究所に通っている友達も多かった、というかそこで友達になったりした。なにかで勉強会に参加しはじめた縁で長谷川啓三先生が名古屋で行っていた家族療法のセッションに参加させていただいたのもとても勉強になった。ベイトソンのダブルバインドと笑いの研究がしたいとか言っていたが、いまだにベイトソンとベルクソンを間違うくらいだからしなくてよかったと思う。千葉心理教育研究所の関連で神田橋セミナーや神田橋合宿にも行ったし、光元先生の箱庭体験にも参加してた。当時、すでに精神分析家の治療に週一で通い始めていたが、そこでの問題を箱庭で指摘されたことにも驚いた。どの治療もその道のプロがやればアセスメントは同じらしかった。今日、うちわの会での講演を頼まれて、そういえば分析家になったらそういうことをやらねばだった、と思い、こんなことを思い出したのかもしれない。

やることが多いというより一つ一つのことに時間が必要なものが多いがこの土日も地道に進めよう。まずは散歩がてら郵便局に荷物をとりにいこう。7時からやってくれてるから。みんなみんなお疲れ様。良い週末を。

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お菓子 仕事 俳句

確定申告、橋本多佳子の句集

昨日は雨が降った。昼も夜も降ったらしい。昼間、外に出たら道路が濡れていた。傘をさしている人もいたからほんの少し前まで降っていたのかもしれない。

雨は大船渡の火災を少し鎮めたらしい。もっと早く降ってくれればと思わざるを得ない。土の中にはまだ熱源があるとのこと。完全に鎮まりますように。すぐに大きく細やかな支援が入りますように。私もできることを探そう。

確定申告、ああそういえば、と後回しにしているものを次々思い出す。よくわからなくて後回しにしていたものだから友達に教えてもらいながらする。毎年、こうして、いろんな人と愚痴を言い合いながらする作業だ。開業仲間が多いのは心強い。こういうのはいろんなものの持ち寄りと分け合い。期日には間に合うだろう。色々納得いかないが。お金をもらわずにすごく労力かけているものには何もくれなくてお金をもらった分からは取られていく。なんなんだろう。仕事ってお金にならない部分がかなりあるけどね。

以前も書いたがコロナ禍、オンラインで話していた句友が教えてくれた橋本多佳子の句集をちょこちょこ読んでいる。馬車の時代を経験しているんだな、と思う。私はその音も揺れも映画やドラマの中でしか知らない。

仏蘭西租界

春曉の路面かつかつと馬車ゆかす
 
春曉の街燈ちかく車上に過ぎ
 
幌の馬車春曉の街の角に獲し

春曉の外套黑き夫と車上
 
春曉のひかり背がまろき馭者とゆけり
 
春曉の靄に燐寸の火をもやす

これらは多佳子が夫と上海、杭州へ旅したときのものだ。昭和10年5月、これが夫との最後の旅となったという。

毎日10,000歩以上歩いていた日々は終わったが週平均だとなんだかんだそのくらいになる。意識して歩いているわけでもいろんなところに移動しているわけでもないのに不思議だ。鳥たちは実物でも写真でも実によく歩く。飛べるのに。飛ぶ方が労力いるのかな。

今日は頒布のみのお菓子屋さんを営む友人のフロランタン。北杜市での生活も長くなってきた。

「バタークッキーの上に、キャラメルアーモンドが乗ったクッキーです。リッチなバター感の歯応え良いクッキーが、香ばしいキャラメルアーモンドをまろやかに包み込みます。」

と紹介されている。この紹介プリントもいつも嬉しい。そしてこのフロランタン、とっても美味しい。花豆のケーキも最高だったがこっちはまた別の感動がある。そしてプレゼントにつけてくれた丸子紅茶のこの自然な甘みはすごい。ほんわか。今日はよく晴れそう。外も光に覆われ始めた。週末、良い1日になりますように。

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俳句

朝の会話、斎藤志歩さんの俳句

曇り空。房総のお土産「旅するプリン」のいちごミルクの色は鮮やか。パッケージのイラストもかわいい。

昨日、朝、カーテンを開けたらベランダや向こうの家の屋根にうっすら雪が積もっていた。夜のうちに雨へ変わったのに思ったより白かった。滑らないようにあまりゴツくない雪対応のブーツを履いて玄関を出たら道路は普通の雨上がりの道路だった。久しぶりに履いたせいか親指のところが痛かったのでいつものスニーカーに変えた。寒かったけど手袋をしなくてもひどく悴むこともなかった。大きなポケットに突っ込んでいたからかもしれないけど。

そういえば先日、電車で向かいの角に立っていた小さな女の子のところになん駅か過ぎてから乗ってきた多分高学年の女の子が歩み寄った。小さな女の子は嬉しそうにすぐそばで手を振った。この二人のおしゃべりがとてものんびりでかわいらしかった。雪を見たことがない小さな子にスキー場で降るんだよと教える大きな子。スキー場も行ったことがない、と少し黙る小さな子。どんなブーツを履くのという質問も素敵だった。またしばらく間があって、大きな女の子が優しい声でいつもの男の子はと聞くとまたまたしばらく間があってあの子は雨の日は遅いのと小さな子がいい二人で少し笑いあった。通勤の電車でこんなかわいらしく穏やかな会話を耳にできるとは。

言葉の良さでいえば昨日の朝日新聞「(あるきだす言葉たち)」の「烏貝」という斉藤志歩さんの連作もとても素敵だった。私は穏やかで静かな句が好きなので斎藤志歩さんの俳句はどれも大好き。言葉の引き出しが多いのは間違いなのにそれをたくさん使っている感じが全くしない。第一句集『水と茶』(左右社)はタイトルもいいが良い句集だった。岸本尚毅さんの帯も本当にそうだなというものだった。

夕東風へ黒板消しを打ち合はす 斎藤志歩 ー『水と茶』より

黒板消しを打ち合わす文化は1992年生まれの斎藤さんにもあった。今もあるだろうけど減っていくだろう。夕東風はもう少し寒い時期の春風か。夕方の空はどんな色の日だったのだろう。黒板消しの出す色付きの煙が溶けていく空は。斎藤さんはすごく寒い日にすごく寒がっていてもあったかい空気を出せそうな人で、一度お会いしたことがあるが、雰囲気も俳句と同じだった。新聞に載ってくれて嬉しい。みんなに読んでもらえる。

鳥たちが何か言っている。きみたち、今日ちょっと遅いよね。私もか。良い一日になりますように。

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精神分析

雪が降った。

昨晩の帰り道は怖かった。アスファルトがうっすらと白くなりはじめてからは早かった。横を通り過ぎる車も雪に慣れていないせいか私が滑らなくても向こうから寄ってきそうで、緑道を歩いたりした。沈丁花はまだ雪に埋もれてなくて赤が鮮やかだったけど香りはあまりしなかった気がする。雨の日はむしろ香り立つのに。

確定申告が終わらない。本当に少しずつしかやっていなかったからだけど。あと少し、あと少し、が続いている。税金嫌だなあ。がんばって働いても、働かせてもらってる、みたいな立場。働かせてもらってる、という側面はあれど、政府のそれは私のそれとはだいぶ違うと思う。

本物っぽい鳥のぬいぐるみをパイプ椅子型の小さなスマホ置きに座らせたらふんぞりかえった人間みたいになった。一時期、大人になってもぬいぐるみと会話をしている身近な人をやや白い目で見ていたが、今は私も普通に会話する。新井素子さんは「ぬい」とよんで4000個のぬいぐるみをかわいがっているが、夫の手嶋さんもいつのまにか会話ができるようになったという。今や人間よりコミュニケーションしやすい存在、というか以前からそうだったのだろう。移行対象としてではなくそういう存在として。

早く出なければ。毎回少しの雪でも外出を控えろと言われる理由がわからなくはない。東京は本当に雪に弱い。気をつけていきましょう。

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Netflix 言葉

折々のことば、アカデミー賞

昨日は少し雪が降った。ものすごい厚着をしていたので寒さは少ししか感じなくてすんだ。今日も夜は雪の予報。たくさん着こんでいこう。

鷲田清一の朝日新聞「折々のことば」を読んだ。『宮田珠己の楽しい建築鑑賞』からの引用。「スルーしていた風景」と出会うことは難しいが、これまでスルーしていたことに気づいたときは見えたときで、それはそれまでとは別の見方ができるようになったということだから少し嬉しい。

第97回アカデミー賞の授賞式があった。「ザ・レディ・イン・オーケストラ NYフィルを変えた風」が短編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。この映画は、ニューヨーク・フィル初の女性コントラバス奏者オリン・オブライエンの軌跡を追ったものだ。Netflixでみて気に入っていた作品だ。オリンが入団したのは1966年、レナード・バーンスタインが常任指揮者だったとき、というのもなんだかしみじみする。オリン・オブライエンは2021年に引退。指導や演奏活動は続けているらしい。彼女がたったひとりの身内である姪に、友人に、教え子に話す言葉はどれも力強く印象的。この映画で、映画になる要素をたくさん持っている人であることを知ったが、それをこんなコンパクトな映画に仕上げたのがすごい。

長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされていた伊藤詩織さんの映画はそれに関するニュースしか見ていないし、論点が多すぎて、というか論点を増やすようなことが次々に起きて何かをいうことは難しくなっていると思う。個人の権利や尊厳はどんな職業であっても守られてほしいし、女性同士は特に守りあっていくために慎重にならねばならないことがたくさんある。衝動か、必要なスピードか、というのは当事者でも区別がつきにくいように思う。

気持ちが暗くなるようなニュースばかりだが、今朝は山梨の友人の花豆のケーキと静岡の丸子紅茶をいただいた。今日もそれぞれの土地で暮らす人たちの小さな日常が守られますように。

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精神分析

記憶

鳥たち元気。今日は久しぶりの雨。花粉は落ち着くかな。

先日、久しぶりに旧古河庭園へ行った。旧古河邸(大谷美術館)も行った。昔、家庭教師や学童保育の巡回相談をしていた地域だ。長く通ったが、その後経過した時間の方が長くなった。思い出すのはあの昔ながらの道の路面の店とか、そこをまっすぐいくと薬局があってとかだが、それらの記憶もやはりかなり色々なものが省略されていた。記憶力の低下を感じてからこれまでは覚えていなくても何も気にしなかったものまで覚えておきたくなっている気がする。その場に行けば思い出すことだってたくさんあるのだから放っておけばいいものを。とはいえ忘れたくないという気持ちまで忘れるということもありうるのでいろんな不安を矛盾の多いやり方でどうにさしようとする愚かさもまた悪くないのだろう。古河庭園には家庭教師先の子との苦い思いでもあるが、それが水辺で起きたことは覚えているがそれが起きそうな水辺を見つけることができなかった。

それにしても最近電池切れが早い。気候に対応できていないのかもしれない。今日は月曜日。がんばろう。

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俳句 精神分析、本

俳句、サラ・コフマン

お天気がイマイチ。昨日は光がいっぱいだった。

NHK俳句は堀田季何さん。「けりをつける」の「けり」って切れ字の「けり」だったのか!句友の名が!すごいなあ。でも私も先日、句会で出した二句両方に特選と佳作をいただいたので、最近の地道な習慣にご褒美をいただいた気分。引き続きがんばろう。

昨日は止まると寝てしまいそうだ、とちょっとカフェに寄って作業を始めたらそこで眠ってしまった。サラ・コフマンのフロイト読解が参考になっているので読んでいるのだけど文章が難解。私の読解力の問題もあるだろうけど、この文章はイマイチではないだろうか。難しい。サラ・コフマンはフロイトの読解方法をフロイトに適用する。フロイトの自己分析に厚みが出る。そしてコフマンは夢と遊び(芸術)を大切にしていると思う。たださすが哲学者。しつこい。エピグラフは

「好ましき事はすべて、三つでやってくる」。ジャン・パウル

あ、読んでいたのは『人はなぜ笑うのか? フロイトと機知』(人文書院)です。ひたすら「三」にこだわっている。精神分析は二を抜け出すための三だけど三を分解していくことも大事。そのためにはこのこだわりも大事か。

今日はどんな一日になるかな。いいことありますように。

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精神分析

三寒四温、サラ・コフマン

2月はあっというまに過ぎた。空はうっすらピンク。身体のメンテナンスは難しい。三寒四温は何十年も経験してきたのに。とりあえず白湯を飲んだ。

本を読んでいるとなんだこれはと少しゾッとすることがある。俳句でも時折そういう句に出くわす。たった17音で、というか、小説でも短編でそういうものが多いから短文の効果かもしれない。

年齢のせいか、元からか、色々なことをすぐに忘れてしまう。そして相変わらず探し物に時間がかかる。いつもそれでかなりの時間をロスしている気がするが、ぼーっとしている時間を少しそれに充てたと考えることもできる。

サラ・コフマンを読んでいた。フランスの哲学者でデリダと同じグループにいた人、という以前に、ユダヤ人として迫害を受けた人だ。父親は子どもたちを複数の家に匿わせ、自身はアウシュビッツで死んだ。『オルドネル通り、ラバ通り』はサラ・コフマンの自伝的作品である。私が読んでいたのは彼女のフロイト研究の一冊『芸術の幼年期―フロイト美学の一解釈』である。訳者の解説で明らかにされるフランス語の原題における多義性も興味深い。サラ・コフマンはニーチェ生誕150年の日に自ら命を絶ったという。これは「偶然ではない」とする意見もあるようだが偶然とは、ということから考えさせられもする。

そにしてもあくびばかり。今日もがんばろう。

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精神分析

母ー子ども研究や乳幼児観察。

ぼんやりした朝の空。今日はどんなお天気になるのだろう。花粉のせいか目が痒いしくしゃみが出る。まだ薬を飲むほどではないけど、今はいい薬が色々あると聞いている。

今朝はいつもより時間があるが色々とやることがある。メールの返信も溜めてしまった、というか、Gmailの調子がおかしくて受け取れていないメールが何通かあり困った。何かしらおかしなことは起きる方が普通なので別にいいんだけど、と思うことはできるけれど相手あることは片方だけがそう思っていても、というのもある。難しい。

先日、国際精神分析学会(IPA)の Health CommitteeがやっているOff the Couchを聞いていた。Ilene Lefcourtは1982年に0歳から3歳の子供と親のためのセンターを作り、長期に渡りグループを指導したりしてきた人らしい。NYで開業しているとのこと。精神分析家とは書いていないけど精神分析的なアプローチを用いて研究をしているのだと思う。

今回のテーマはChildhood Memories: their impact on mothers and their 0–3-year-old children

母親の記憶が早期の子供にどのような影響を与えるか、という割とベーシックな話に思えたが、母親にここまで焦点を当てる研究というのはそんなに多くないかもしれないと思い直したりした。数多くの母子の関わりを抱えていける組織を作ること自体がすごいことだ。日本でもタヴィストック・クリニックで訓練を積んできた先生方がその訓練の重要な一部である乳幼児観察という方法を取り入れ、小グループがいくつかある。私も脇谷順子先生のグループの最初のメンバーだった。私にとって乳幼児観察はとても貴重な体験だった。生まれたばかりの赤ちゃんを毎週一回、ご自宅で観察させてもらう、ということは両親、兄弟姉妹、祖父母との関わりも含まれているわけで、環境の重要性はもちろん、環境というものの複雑さを学んだ。私もそこにいて視線を送っているだけで環境の一部なわけで、人の視線や小さな動きの大きさも知った。それらは安易に子供にとってどうこう、とか言える類のものではない、ということを強く思えたのが一番いいことだったと思う。外側の人間と母というのはまるで異なるものなので、そこに対する敬意は当たり前に大事。乳幼児観察は観察者の内面の動きが重視されるがIlene Lefcourtの研究が対象にしている母親の語りはまずは非常に個別的なものとして聞き取られる必要がある。母親を「〜親」と名付けるだけでない仕方を臨床家は展開していく必要があるので勉強になった。

鳥たちは今日も元気そう。がんばろう。

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精神分析

わからなさを維持。

朝焼け。大船渡の火事を思い起こす。震災を乗り越えてきた地域ではないだろうか。早く鎮火しますように。

昨日は二・二六事件の日だった。89年が経った。少し前に高橋是清邸のその部屋に立った。その時の印象が強く資料をいくらか読んだが、一体何が起きたのか、という戸惑いが随所に見られた。何かの信念に突き動かされて動いてもあれはなんだったのだろうと愕然とする場面がある。人の人生は短いはずなのに、と思う。

高橋ユキさんのnewsletterに書かれる事件の記録にも人間ってと思わざるを得ない。人間の暴力性を根源的なものとして、それをどうにかしようという機能が人間には備わっているのではなかったか。その場の快楽が目の前の相手をモノ化する場面は大なり小なり経験しているが、その極端な例がいつも書かれていて辛い。が、人はわからない、ということを維持しつづける助けになる。すぐにわかったような気になる、というのも暴力と近いだろうから。

今朝は、鶴巻温泉で買ってきてくれたというデコポンと「桜の小径」というお菓子を緑茶と一緒にいただいた。穏やかで暖かい毎日を望みながら動ける人になりたい。

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精神分析

動作法

日の出がだいぶ早くなった。今朝は月が見えない。

丸山千秋先生、昨年六月に亡くなられていたのか。知らなかった。まだ東日本大震災よりもずっと前、成瀬悟策先生の動作法の研修会にでているときに丸山先生に直接動作法を実施していただいたことがある。震災前だと思うのは、丸山先生と同じくその研修会の講師をされていた冨永良喜先生のお名前をその後よく聞くようになったのが震災後だったから。冨永先生の『動作とイメージによるストレスマネジメント教育 基礎編: 子どもの生きる力と教師の自信回復のために』はSCの講演にも友達との勉強会にもよく使わせていただいた。あの研修会では変わらず「エライ」先生のセクハラ発言に辟易する場面もあったが丸山先生や冨永先生のお話や実践に感銘を受けた。丸山先生の身体に触れる際の自然な気遣いが心に残っていたので気持ちが冷え込むこともなかった。成瀬先生に厳しく何か言われても穏やかに微笑んでいらしたのも印象的。穏やか、というか苦笑かも。74歳でご逝去とのこと。当時の先生は今の私くらいの年齢だったのだろう。当時の私は精神分析的心理療法と動作法の両方を熱心に勉強しはじめた頃で、同じく成瀬先生の指導を受けた最上貴子先生に個人的に指導を受けようと思っていたが日程が精神分析的心理療法のスーパーヴィジョンと重なってしまい受けられなかったのだ、たしか。何者になるか、というのはこうしたちょっとした偶然によって方向づけられる、という体験を何度もしてきたが、この出来事は心に残っている。私はクリニックで自律訓練法を実施するのが好きで、身体に関わる心理療法はしっかり学びたいと思っていた。その後も色々と驚かされる体験を現場でしてきてその興味を失うことはなかったが精神分析の訓練が始まればそれに没頭する以外なかった。訓練とはそういうものだ。とかいってそんなふうに思えたのは訓練中盤からだけど。私にとっては誰かを理想化して入った世界ではなかったし、いろんなことに興味があったからどうなっていくのかなあ、自分、と思っていたけど結果的に「委ねる」ということを覚えたのは精神分析のおかげであり、その結果として精神分析家になったのだからとりあえずこういう道だったのだろう。それも「いまのところ」かもしれないけど、ここに至るまで本当にたくさんの先生にお世話になったのは間違いない。そのプロセスでいろんな横のつながりもできた。私たちの世代は頭で考えるより実際のフットワークが軽かったのかもしれないな、と指導者として若い人たちの愚痴を聞いていると思う。でも今には今のがんばりかたがあるし、ネットワークづくりのツールは当時よりずっと多い。私は私が与えられてきたもの、培ってきたもので学び続けられたらと思うが、みんなも自分で作ればいいんじゃないの、とあまり彼らが求めてなさそうな言葉を返したりしている。誰かのお膳立てに乗っかっているだけだと不満も溜まりやすいと思う。自分でやると自分が責任を取らなければならないのでやるべきことは適度に誰かを頼り、協力していくことになる。身体のメンテナンスも必要になる。私が休んでばかりでは困るから。動作法は身体のメンテナンスにとてもいいと思ったなあ。今はどんな広がりを見せているのだろう。またお話を聞きたいし、実践をしたい。筋トレにも活かせると思うし。

今日もがんばろう。

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精神分析

それぞれ。

東の空にほそーい月がきれい。昨日は梅をたくさん見た。場所に限らず白い梅の方がずっと多いように思う。ピンクの梅はとても印象が強いからちょうどいいけど。この週末はこの冬一番寒かったように思う。「ように思う」ことばかりでどれもこれも変わりゆく印象の、しかも私の短い長期記憶の濃いところでいうと、というお話。この寒さを乗り切れば暖かくなる、と思うと我慢できるけど、これから長い冬が始まる、とかだったら辛いなあ。雪国の人はどんな気持ちで過ごしているのだろう。きれいな写真を送ってきてくれるから普通に生活の中で身につけた方法で淡々と日常として過ごしているのだろうけど。私はスキーとか旅でしか雪国を体験したことないし、スキーで吹雪とか体験してるけどなんだかんだ無事だったし、雪かきとかしても一年に2、3回で、この冬なんてまだ一回もしていないし、どうしても「大変だろうなあ」と思ってしまう。でも雪国の暮らしが長くなってきた友達は東京で近所で暮らしていたときと同じ感じだし、それぞれの大変さがあるよね、ということなのかもしれない。美しいもの、といったら断然雪国の景色の方が思い浮かぶけど。壮大さあっての小さきモノという対比もある。

生活といえば、先日外でお酒を楽しむイベントがあって、お料理も地元のお店が出していたのだけど、隣のベンチにいたカップルが慣れた感じですごかった。寒い中、みんな身体揺らしながら列に並んでお料理を待っていたのだけど、彼らは、カップの豚汁とパックのごはんを机に出し、さらに煮卵、乾物系つまみなどなど準備万端。水やお湯も完備。豚汁に煮卵を入れて食べていたのも新鮮。梅酒もパックで持っていてペットボトルの水に注いで水割りにしていた。コップ要らず。でも今回のイベントではワイングラスがレンタル式で100円かかった。彼らはそれを知ると、一個ので2回買いにいけばいいよね、とそこにはきちんと時間をかけていた。でも一人の方はほとんど梅酒しか飲んでいなかった気がする。外でのイベントで持ち込み禁止とかではないからこういうのもありなんだな、と学んだ。地元の人たちなんだろうな、と思った。私たちははじめての街だから地元が出しているお店のお料理が食べたいし待つ気にもなるけどお酒だけ目当てだったらこういう楽しみ方もあり。色々なお酒を試飲できる会場もあって、会場によって人の捌き方が全然違って、片方は寒い中震えながら並んで、もう片方は列の作り方が違ってスムーズだった。自分がこういうイベントを開催することはないだろうけど勉強になる。効率を求めるなら色々工夫はあるけど、それがされていなくてもそれにはそれの良さが生まれるけどね。長い列で寒さに震えている間に振る舞われた「社長の酒」とか美味しかったし。イライラしている人ももちろんいたけど、その人をあとから別の場所で見かけたときはごきげんだったし、気分を切り替えられるって大切。まあ、切り替えられてなくてもそれはそれで「あのときさー」という思い出話にもなるか。

今週も頑張りましょう。

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精神分析

里山ハイキングへ行ったり。

よく晴れている。昨日は東武東上線沿いに遊びにいった。風が強くてネックウォーマーを耳まで引き上げてしのいだ。2時間くらいで戻ってこられる低山と城址にハイキング。きれいな池から始まる登山口までも駅から30分くらい歩くのだけど梅はまだ咲きはじめ。地域によって違うねえ。そんなに遠いわけでもないのに。白サギがかっこよく佇んでいたり、烏瓜がまだいい色のまま絡んでいたり、里山の景色は足を止める場所がいっぱい。

以前住んでいた上板橋に準急が止まるようになっていた。というより、当時各駅停車しか止まらなかった、という自分の情報が正確かどうかもわからないし、おそらく「準急」というものはなかった、と思う。みんなで森林公園に遊びに行ったりしたなあ。今回はもっと先へ。山は電車代だけで遊べるとはいえ旅費はかかるね。降りたあとの美味しいものにもね。最近、少しだけ有酸素のトレーニングも取り入れている成果がどのくらい出たかはわからないが寒さが疲れに一番きたかも。電車の広告で久しぶりにキッコロとモリゾーを見た。「愛・地球博」のキャラクター。キッコロとモリゾーのメモ帳とか使い切っていないから今もその辺にある。かわいいからなんとなくそばに置いている。「愛・地球博」は楽しかった。もう20年になるけどあの子たちはまだご活躍なのね。

そうだ、翻訳のチェックしないとだ。その前に机のをきれいにせんと。頑張りましょ。

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精神分析

Reading Freud最終回。

早起き。おはようございます。今朝も月がきれいです、

昨日は、2024年度のReading Freudの最終回でした。今年度は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)を精読しました。2019年からはじめたこの回ですが、メンバーを変えての2度目の鼠男と狼男。今はこう呼ばれた二人の患者さんがどこの誰でどのようなその後だったかも大体明らかになっています。フロイト自身もそうですがフロイトの患者ともなると色々大変ですね。来年度は初期に遡って『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店)から「心理学草案」を精読します。これまでもフロイトを読んできた人たちと丁寧に学んでいきたいと思っています。メンバーがみんな女性なので、主に男性の集団から生まれた精神分析の言説に対する違和感には素直でいられるかと思いますし、それを内容の難しさのせいにしないようにアシストしていけたらと思うので私もがんばって勉強します。

今日もコレット・ソレールの本を読みながら、ラカンの患者でもありずっとラカンのそばにいたソレールがラカンとの同一化の外に出るのは大変な困難だろう、と思いました。何度通り過ぎてもまだその内側にいる、という体験は誰にでもあると思いますが、本来、精神分析はそこではないどこかへいつのまにか出るはずの治療です。でもそれには自分の分析家との本当に密な関わりのほかに、多くの人との関わりが必要です。ソレールはラカン理論からラカンの「真意」とか精神分析の「本質」を取り出したいのかもしれないけれど、私みたいに、本でのラカンしか知らない女の分析家たちが、ソレール自身の言葉を読み繋いでいけば、ラカンとは離れた場所で、ソレール独自の思考を受け取ることができそうに思うので引き続き読んでいこうと思います。私は女性が精神分析家を志すことは、精神分析における同一化に抗うプロセスを作り出す役割を担うことであると思っているので、地道にやっていこうと思います。

どこまで行けるかよりどこへ出られるか、それを楽しみに今日も過ごすつもりです。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

作業

今日はあまり色がないまま空が水色になりつつある。でも東京の予報は晴れみたい。風がないといいなあ。

あまり行かない図書館で少し作業をした。机が広いと作業が進む。私は本やら何やらをすぐに広げてしまうからスペースがあったほうがいいのだなあ。この前、カフェの小さい机で作業してたらイヤホンを片方落とし、拾おうとしたらケースを落とし、もう片方も落とし、いつもだったら起き上がるときに机の裏に頭をゴツンッてやって机の上のカップも落とすから、ゆっくりゆっくり拾い上げた。次々変な動きを繰り出してしまったがイヤホンさえ無事ならいいのだ、この場合。不器用だったり落ち着きがなかったりすると色々大変。療育を学んでおいて本当によかった。自分に役立てるって素晴らしい。

作業といえば、確定申告で色々チェックしてたら電気代が意外なことに四月が高かった。三月ってそんなに使ったっけ。自分の印象では一番使っているのは一月二月なんだけどな。五月六月はとても安い。エアコンをほとんど使わないものね。東京電力は領収書を紙で送ってこなくなったから(送ってもらう場合は有料)きちんと意識できなくなった。水道代は2ヶ月ごとに紙でくるから比較もしやすくて季節もそういうところから感じ直したりするのだけどね。税金の督促状とかになると季節を感じている余裕はなく小さく積み重ねてきた生活に絶望感を持ち込まれてすごく嫌な気分になるけど。税金の督促だけは差し押さえまでの期間がものすごい早いし、ほぼ脅しだよな、と感じた。こういうところだけ、と思わせないような政治をしてくれてるならともかく。

今日も地道に、みんなにとっていい未来を考えつつ過ごそう。自分のことをまともに考えることが一番近道だと思っているけどまともってどんな感じ、というのはそれぞれ。良い一日になりますように。

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精神分析、本

コレット・ソレールの本など。

毎日、起きるとカーテンの向こうに月を探す。月の位置で大体の時間がわかる。昨晩、少し本読もうかな、と机の前に座ったけど読もうとしている本がラカン派の本だったせいか、ページを開いただけでボケーっと腑抜けていた。このままウトウトするのは目に見えていたので温めておいたお布団に潜りこんであっという間に寝た。遅い夕食が消化されていない感じが気持ち悪かったけど変な格好で寝てしまうより安全だった。

昼間もラカン派分析家のコレット・ソレール(Colette Soler)の 『What Lacan Said About Women: A Psychoanalytic Study 』を読んでいたらぐったりした。フランス語でなく英訳だけど。ある程度ラカン派の言葉に慣れてきたとはいえ、これ賞をとってるんだよね、これラカンに馴染みがないと結構読むの大変だよね、と難儀した。部分的、あるいは表面的には理解できるけど。ソレールはフロイトを独自の仕方で超えていくラカンを女性の側から掘り下げている。pas-toute、La femme n’existe pas.で表現される女性(ファルス享楽ではないJouissance Autreとともに)として女性に例外的な位置を与えたラカンの考えを我々はどこまで押し進めることができているだろうか、というのがソレールの問い。精神分析家の言説を変えるにはフランス精神分析、特にラカン派の勉強が欠かせないことはわかった、という段階の私には困難が多いが勉強しましょう。そうしましょう。

今朝はかわいいイチゴかな。ベリー系の焼き菓子とお茶。ほっこりしました。BGMは挟間美帆のLive LIfe This Day.挟間美帆の仕事も素晴らしい。どうぞ良い一日を。

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精神分析

色々

半月。東の空の薄いオレンジがきれい。昨日はデコポンを半分食べた。

すべきことが色々ある。細かいノルマはようやくto doリストで管理することを覚えた。手帳には色々書きすぎて管理不能になっているが大きな手帳にするのは嫌なのでタスクは即時こなす、という方法で対処したいがそれが難しいから今があるので別の対策をしよう。スマホを使いこなせないのは損かも。ヴィンテージと言われる私のMacも動いてくれてはいるがたまに心配な空白画面のまま止まったりする。Windowsのほうが仕事向きだからオフィスのはWindowsだけどこれももう長くなってきた。パソコン高いしどれがいいかわからないからこのままがんばってほしいなあ。

確定申告が見通したってきたなと思うと漏れがみつかって時間をとられる、というのをくりかえしている。支出も収入もシンプルなはずなのにこういう作業苦手。でも今年はスムーズなほう。やっぱり訓練終えてから余裕ができてる気がする。単に移動移動でバタバタするのが減ったというのもあるし、不思議な体験をたくさんした。ワークスルーは事後的にいろんな形で生じるらしい。長い時間かけたもんなぁ。

今日もいいことありますように。そういえば北海道の友達が送ってくれた雪の中の白鷺の写真がとてもきれいだった。雪国での暮らしが長い人は緊迫感と余裕を上手に乗りこなしておられる。すごい。

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俳句

句友

起きたらカーテンの向こうに月が見えた。久しぶりにきれいな夜明けも。

昨年、句友を二人喪った。プライベートは何も知らない。お一人は少し年上でお一人は結構年下なのでは、と推測している。俳句と選評だけを通じたつながりだった。私はお二人の句が好きだった。そういう人は多かった。DMでのやりとりは亡くなる当日か前日まであった。それぞれが所属する結社誌に彼らへの追悼文が書かれた。私は会ったこともない彼らの俳句を読んでは泣いた。自分でも不思議なくらい悲しくなった。わたしたちが、というより、少なくとも私は、なによりも言葉によって人を愛したり憎んだりしているのかもしれない。あの絵文字を送りあってから3ヶ月が経つのか、と結社誌の巻頭を飾るその人の俳句をまた読んだ。そうそう、こういう俳句を私たちとのオンライン句会でも書く人だった、とまた泣いた。私が一日一句を突然始め、習慣化できているのも彼らのおかげなのだろう。

アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』に言語活動の表象(シンボル)として象形(フィギュラチフ)芸術と書字(エクリチュール)に関する記述があるのだが、と書いていたらピンポンが。こんな早朝に。色々あるもんだ。

とりあえず無事に過ごしましょう。

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精神分析

風、音楽、本


風の音がすごい。昨日は昼間、とっても暖かくて、厚手のだけどパーカーだけで出かけられた。でも今日からまた寒いって聞いていた。ということは夜は冷えるぞ、と朝はいつもの厚手ダウンも着ていた。こんなに風は強くなかった気がするけど予想通り夜は寒かった。ネックウォーマーに顔を引っ込めて歩いた。亀のイメージ。新宿中央公園の亀たちに最近全然会えていない。冬眠させてるのかな、と思いながら通り過ぎてるけど。昔、家庭教師先の亀が干上がって死んでしまったと聞いて、そんな過酷なことがあるのか、と思ったけど冬も過酷だよね、きっと。

朝、Spotifyでおすすめされたものを再生したらエズラ・コレクティブのBody Language feat sashakeable。最高だな。昨晩、ぼんやりしきった頭でアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』を読んでいたのが伝わったのかな。この本、面白いんだよ。読みやすいし。

先日のブレストを経てこれも読んだ。自動翻訳でざっと読んだからすでに忘れてしまったがディディエ・アンジューへのインタビュー集、“A Skin for Thought: Interviews with Gilbert Tarrab on Psychology and Psychoanalysis: By Didier Anzieu. London: Karnac Books. 1990. ”の書評。

読みたかったアンジューの論文が見つからなかったから検索にかかったこちらをなんとなく読んだ。

Kennedy, R. (1991) A Skin for Thought: Interviews with Gilbert Tarrab on Psychology and Psychoanalysis: By Didier Anzieu. London: Karnac Books. 1990. International Journal of Psychoanalysis 72:747-747

興味深そうな本だけど買うほどではないかな、これを読むかぎり、とは思う。が、ロジャー・ケネディーが引用しているアンジューのエピソードのひとつは心に残った。これをもって、だから「皮膚ー自我」という考えを中心に据えたのか、というのは安易からもしれないが関係ないはずもない。

I was not allowed to risk myself in the outside air without being smothered under several layers of clothing: sweater, overcoat, beret and scarf. The envelopes of care, concern, and warmth with which my parents surrounded me, one upon another, did not part from me even when I left home. I carried their load on my back. My vitality was hidden at the heart of an onion, under several outer coverings (p. 3).

Roger Kennedy は英国精神分析協会の訓練分析家でConsultant Child Psychiatrist, Chair of The Child and Family Practice in Bloomsbury, a private multi-disciplinary clinicとのこと。英国精神分析に詳しい先生方にどんな分析家かお聞きしたい。

Kennedy, R. (2007). The many voices of psychoanalysis. Routledge/Taylor & Francis Group.

これは読んでみたい気もするがその前に色々読む必要がある。まずは最優先の仕事から始めましょう。どうぞ良い一日を。

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精神分析

新宿御苑、ブレスト

日の出が早くなった。鳥たちも元気。

先日、オフィスからトコトコ、新宿駅を超えて、新宿御苑へ寄った。入園料が500円になってからはあまり行っていなかった。入園料200円からの驚きの値上げについてブツブツ話しながら入るとあっという間にそんなこと忘れた。見事な木々。私はそれなりに自然に馴染んだ暮らしをしていると思うが、木ってこんな色だったっけ、こんな肌してたっけ、と驚きがいっぱい。ものすごい生命力と一本一本の個性を感じた。もちろん新宿御苑の場合、見映えよく整備されているというのもあるが植物が大切にされている感じはした。日本庭園の方から回ったけど大きな薩摩寒桜が遠くからみても鮮やかなピンクを放っていて大きなカメラを持った人もたくさんいた。かわいいメジロも素早く飛び交っていてかわいい。池にもいろんな鳥がいてびっくり。こんな身近にいつも見ない鳥がいるんだ。色々見事だった。18歳の頃から新宿駅を拠点としているが、その日は新宿駅周りの変遷も懐かしく追えた。人との思い出も多い。なんとか無事に年を重ねてこられてよかった。

昨日は朝早くから少人数でブレストをしたら疲れた。それぞれがそれぞれの患者さんと継続的に育んでいる関係の中で「突然」と感じられることは実はそんなに「突然」ではないのでは、とそのプロセスをおうとやはりそこには着実な積み重ねとその中での様々なズレがあることがわかったのもよかった。普段、ひとりで探求していることを共有できる場があるのはいい。理論的な基盤をもって論理的にそこでの話し合いに厚みを持たせていくことは個別のスーパーヴィジョンではできないし、理論的な基盤を共有していないとこのスピードではできない。私たちの脳はものすごい量の情報を瞬時に処理しているわけだからものすごいスピードをもってものすごいじっくり考えるということを続けていく必要があるのだろう。今回は私が場のマネージをしたけどいれものがあったら入る、というあり方ではなくいれものづくりからできる人と一緒に色々やっていけたらと思う。もうひとつのブログにオグデンの論文のことも載せたし、美味しいものもいただいたし、ある程度満足の日曜日だった。今日もいい一日にしませう。

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精神分析

俳句、保育園、マップ

昨日の朝、もうあの朝焼けは見られない、とか嘆いていたが、ネット上にはきれいな朝焼けの写真がたくさん流れていた。私が見逃していただけらしい。

毎日一句以上俳句を作る習慣、作ったら縦書きアプリに移している。それが2月8日で止まっていた。1週間、なんて早いんだ。そして今日の締切に間に合うように出そうと思っていた任意の選評はできあがらず。取り上げる句は決まっていたのに結社誌が手元にないので確認ができない。すっかり忘れていた。

20代の頃からNPOで一緒に活動してきた人が保育園を立ち上げてからもう何年になるのだろう。無認可の小さな小さなおうちのような保育園がすっかり大きくなって職員も知らない人が増えた。私は当時から顧問臨床心理士みたいな形で関わってきたがコロナ禍ではオンライン、それ以降は年間の回数を減らしてもらいながら関わりを続けている。幸運なのは私の後任に私よりずっと保育現場のことをよく知っている人が入ってくれたこと。やっぱり毎日のように0歳から5歳の子供たちに関わっている人の方がいいと思う。これからもそういう人で繋げてこの領域の心理士の成果が広く知られたらいいな。保育士の仕事の大変さを保育を利用しない人たちにも知ってほしいから。本人たちがいくら声をあげても届かないなら客観的にそれを記述したり報告したり権利を主張する手伝いをする必要がある。私は二回りくらい外側からそれをお手伝いする感じならできるだろう。

今日もなんやかやで休みがないがみんなでやる作業を楽しもう。お散歩は行ける。昨日もらった手書きのトコトコマップは島崎藤村ゆかりの場所をめぐるもの。市川市の文学者関連マップも充実しているんだよね、と思いながら見ていた。こういうの作るのって楽しいよね。

良い1日になりますように。

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精神分析

言葉、求人

今日もぼんやりなオレンジ。冬の朝はもう終わったんだ。

久しぶりにドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』をめくった。娘の誕生の場面から始まる言葉の旅。多言語話者の父親をもつドミニク・チェン自身だが、彼がここで紡ぐ言葉は単なる話し言葉ではない。ロマンチックな本だなと思った印象があるがいい本だった。また少しずつ読むか。

隙間時間にする作業が遅々として進まず。しかし求人の手伝いは一気に進んだ。これまで関わってきた領域が幅広いのでこの時期はいろんな求人のお願いがくる。雇われる側には納得できる額の報酬が出るいい職場と出会ってほしいし、雇う側には普通に仕事ができる人と出会ってほしい。

さてさて。今日は年数回のお仕事の日。忘れないように行かねば。どうぞ良い一日を。

(ここは日々のよしなしごとを書き連ねる場なので精神分析にご興味ある方は私のオフィスのウェブサイトをごらんください。)

(精神分析理論のことなどに触れた記事は別のブログ「精神分析という遊び」に少しずつコピペしたりしています。)

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精神分析

俳句二句。日本精神分析協会学術大会プログラム発表。

東の空がオレンジ色にならない。東京の天気予報は晴れみたいだけど。昨日、俳句を作り忘れたことに気づいてさっき慌てて作った。昨日はとても風が強かったことを思い出して「春嵐」で一句。そして身内とスキー教室の話をしたけどスキーは冬の季語なので「牡丹雪」で一句。これで少し昨日を取り戻した気分。TVerでプレバトの俳句のコーナーだけ見て色々勉強になったのに実作を伴っていなかった。いけない。実作が一番大事。

帰宅したら高校時代の友人からまた引っ越しのハガキが届いていた。転勤がある仕事は大変だ。また岡山か。慣れた土地なのはきっと安心だろう。そうだといいなと思う。

今年6月の最初の週末に行われる日本精神分析協会の学術大会のプログラムが発表になった。広報の仕方について思うところがあるけど何回か言っていることなのでまあいいか、とも思う。でもそれではよくないと思うのでまた言おう。手続き上のことは情緒を乗っける前に事務的にやらないと。今回は私は仲間内でパネルを立てた。私が候補生になったのはコロナ以前だったので福岡支部(関西や広島の方も大体福岡支部)のみんなとも実際に会って色々話し合うことができていた。コロナ禍、コロナ以降もオンラインの勉強会などで繋がり続けた。そういうなかでサクッと集まったメンバーで興味を共有できた話題で企画した。そういう相手がいることを本当に幸運に思う。

もう週末。てんやわんやだががんばろう。

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お菓子 精神分析

月、ポッドキャスト、お菓子

昨晩も月がきれいだった。一昨日も満月みたいだったけど昨日が満月だったらしい。2月の満月をアメリカでの先住民はSnow Moonと呼んだとのこと。日本では春の月は朧月とか言ったりするけどまだ冬の月に近い輝き方かも。昨日は強い風をマスクで避けながら少し春を感じた。

いろんな発表の準備をしなくてはならないけど隙間時間に読みものをしているだけでは「これで行こう」という糸口が全然掴めない。いつもそうこうしているうちに〆切間際になって追い詰められてようやく思いつくという感じだけどそのパターンを変えていきたい。マイケル・パーソンズ、G.コーホンなど独立学派の分析家のpodcastを聴いたりしたがいまいち発想が広がらない。パーソンズが取り上げていたミケランジェロ・アントニオーニ監督の『Lo Sguardo di Michelangelo( The Gaze of Michelangelo)』は見てみたい。

パーソンズの取り上げ方はこんな感じ。

 The title of the film is: Lo Sguardo di Michelangelo — ‘The Gaze of Michelangelo’. This is splendidly ambiguous. Which Michelangelo? Buonarrotti or Antonioni? Who is gazing at whom? Patient and analyst, in their different ways, ask themselves the same question. Both, of course. The two Michelangelos are gazing at each other.

 

今週末はタイプロ。メンバーが決まる。そもそも元々のメンバーのことをあまりよく知らないのできちんとみていたわけではないがみると泣いてしまう。SNS上は盛り上がるのだろう。

煎餅工房さがえ屋さんと老舗ショコラティエ「サロンドロワイヤル」さんのコラボ商品「おこめショコラ【ホワイト】」をもらった。サクサク甘く美味しかった。

今日も東京は晴れみたい。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

「普通に」、犬

朝焼け。少し薄いオレンジ。

紙のようなプラスチックのような袋に入ったチョコレート。黒と白の二つ。黒が普通のチョコで白がホワイトチョコレートだと思いこんでいた。少し前に黒い袋を切って開けて食べた。普通においしかった。今朝は白い袋を切った。白いチョコが見えるはずがまた黒。どうやら黒の中でもブラックとミルクとかで味が違ったらしい。こっちも普通においしかった。「普通に」と書いてしまうのは意外だったから。普通だったらあえていう必要なさそうなものなのに言葉の使用ってそういうもの。サクサクのクッキーにチョコをかけたお菓子は一番好きな組み合わせのひとつ。美味しかった。

祝日は大掛かりな片付けの手伝いに一日使った。よく働いてぐったりしたが合間でおいしいものも食べたしいい時間だった。筋トレ成果はこういうところに出る。寒いなかでの作業も少し動けば暖かくなる。重たいものの移動で頼りになる。疲れても犬と遊ぶ元気がある。

その柴犬はその家の子がまだ小さかった頃にきた子だからもう15歳くらいか。嘘みたいに落ち着きがなくずっと赤ちゃんみたいな犬だったけど今や耳も遠くなってボールを投げればすぐに咥えに走るものの追いついて口をちょっとつけたらもうOKという感じで何も咥えずトコトコトコと戻ってくる。たまにしか会ってこなかったのに作業中もずっとトコトコついてきて時折ちょっと首を傾けてじっと見つめてくる。飼い主には「邪魔しかしないんだから」と小言を言われていた。確かに足にまとわりつくように歩くから作業しづらいのはあったけどそれもかわいい。今はもうむやみに飛びかかってくることもないのはちょっと寂しいけどよく無事に年月を過ごしてくれた。まだその家の子が中学生のときだったか高校生のときだったか、犬の散歩がてらいろんな話をした。みんな少しずつ変わっていくけどきみがこの場所にいつづけてくれることでみんなの時間が重なるんだよ、ありがとね。私も我が家にいた犬を思い出す。その子はとてもクールでこんなトコトコついてこなかったけどお散歩の紐をみると狂喜乱舞していた。きみと入り込んだとうもろこし畑はもう大きな家が立ったよ。それだってもう何年も何年も前の話。あそこもあそこもあそこも今はこんな風になってるよ。ずっとそうやって変化を共にしていきたい相手がいることに感謝。

今日は少しだけ空が暗い気がする。良い1日になりますように。

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精神分析

梅園、日常言語哲学の本

青梅市の吉野梅郷、紅梅苑さんの「紅梅饅頭」をもらった。吉野梅郷の梅はまだあまり咲いていないそう。同じ東京でもそんなに違うものか。私はすでに少しの寄り道でたくさんの梅を楽しんでいるけど。吉野梅郷の梅まつりは今月15日からとのこと。行ってみたい。私は熱海梅園の梅祭りがとても好き。河津桜も一緒に楽しめるし、はじめていったとき、お天気もすごくよくてお花はもちろんきれいだった。でも一番記憶に残っているのはお好み焼き。食べやすくラップロールみたいになっていたのも新鮮だった。水戸の偕楽園の梅はどうだろう。バレンタインデーの時期に連続して偕楽園に行っていた数年があるがいつも3分咲きくらいだった。芝生に寝転がれるくらい気持ちいいお天気の日もあった気がする。バレンタインデーと偕楽園はなんの関係もないのだがなぜその頃に行っていたのだろう。水戸の高級納豆を買ってきたこともある気がする。いや、高くて買わなかったかもしれない。さてさて紅梅饅頭をいただこう。梅のかたちの柔らかなお饅頭。ちっちゃな梅がこんな立派なお菓子になりました。美味しい。お裾分けしてもらった中国のお土産のかわいい缶に入った金木犀の烏龍茶と。冬でも水分をきちんととりましょう、という話をトレーナーさんとした。烏龍茶はカフェインが入っているからあまりよくないのだろうけど食べ物と一緒のときは好きな飲み物をいただこう。

アヴナー・バズ『言葉が呼び求められるとき――日常言語哲学の復権』(飯野勝己訳、勁草書房、2022年)を読んでいた。『謝罪論』を出した古田徹也さんの選書リストで見つけた。オースティン、ウィトゲンシュタインらが展開した「日常言語哲学」ってこういう立場にあったのか。副題が「日常言語哲学の復権」なのはそういうことか、と全然知らなかったことがたくさん書かれている。古田徹也の本から入った私は普通にメジャーなものとしてそれを認識していたけど学問の歴史を知ると見えてくる景色が変わる。勉強は大事。

今日もすっきりとした空。テレビで見る雪国の様子に毎日驚いている。東京の暮らしとは全く異なる。雪崩のニュースもその後どうなっただろう。被害が大きくなりませんように。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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俳句 料理 精神分析

サバカレー、フランス語、忘れ物

朝です。ご近所のおうちたちがオレンジ色に照らされています。朝から印度カリー子さんの「3ステップで作る!ちょうどいいサバカレー」を作って少しいただきました。味見程度と思ったのにおいしくて食べてしまった。さばの水煮缶はカリー子さんが使っているのと同じものにしたけど塩加減は私は相当少なくていいかも。あ!今気づいたけどレモン汁を入れるのを忘れた。ガーン。まあ、すごく簡単だからまたすぐ作りましょう。ココナッツミルクも余っているしね。

最近フランス語の勉強をサボっていたことがバレてしまった。隠し立てしていたわけでもないけど指摘された。Duolingoを毎日やることでヨシとしてしまっていた。もちろんそれでは読めるようにも話せるようにもならないとわかっている。やらないよりは当然マシだと思う。うーん。YouTubeを使って勉強している人が多いことは知っているが私は本当に動画が苦手。映画とかは別。注意力散漫だから画面上の情報が多いYouTubeが苦手なんだと思う。なので帰りの電車で情報を集めポッドキャストで教材をチョイス。そんなことをしていたら一日一句作るという習慣が早くも崩れそうになった。気づいたら夜。というか昨日は結社誌のための10句を選んだことでやった気になっていた。

冴え返るとは取り落とすものの音 石田勝彦

いい句だ、と書くなり少し不安になる。写しまちがえていないだろうか。せっかくの句を私の書き間違えのせいで変なリズムの句にしてしまっていないだろうかなど。いつもそうだ。書いたあと、何度も確認してしまう。自分自身の句にもそのくらい気配りができるとよいのかもしれぬ、がとりあえず2句作っただけでよしとした。今日も実景から作ろう。

先日、一緒にエレベーターを降りた人が突然カバンをゴソゴソしはじめた。忘れ物を探す仕草はみな同じ。私は忘れたことに気づかずいろんな人にお世話になってきたが気づくときはそうなる。こうなるよねー、と思いながら待っていたら見つかった。よかった。

よく勉強した週末だった。それでも普段より余裕があるのは助かる。習慣作りも地道にがんばっていこう。今週も良いことありますように。

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精神分析、本

掃除、筋トレ、読書会

暗い。まだ朝とはいえない。昨晩の夕暮れも、月も、とてもきれいだった。梅がたくさん咲く公園に寄って写真を撮ったけれど私が実際にみた夕焼けの色よりずっと明るい写真になってしまった。写真よりきれいよ、と付け加えればいいだけ、といえば、だけ。だって大抵の人は思い出そうとすれば思い出せると思う、あのきれいな色、というかあのきれいさを。

早朝からTHERMOSのマグをきれいにした。THERMOSは何回かいただいたことがありキッチンの棚を掃除していたら放置していたマグがでてきた。大きめで気に入ってたやつ。新しいのがやってくるとこうやって放置されてしまうのだからかわいそう、というか私のマネージメントが悪い。ちょっと台となる椅子が必要だけど振り向けばすぐ開けられる棚なんだから活用すれば忘れないはず。工夫してみましょう。

さて、毎日のタスクは精神分析、俳句、料理。細々とでも真面目に探求する習慣ができた。筋トレは週1は必ずという習慣。週1でも筋力ってきちんとつくのね。まだひとりで懸垂できないけどキレイな姿勢を維持したまま近いことはできるようになった。懸垂ができることが大事なんじゃなくて肩甲骨を上手に鍛えると可動域が増して肩こりもなくなるから辛くないわけ。元々はぎっくり腰にビビってヨガをはじめ、それはとても効果的で、うまく転べるようになったから怪我も減ったのだけど歳とってくるともうちょっと具体的にしっかり各部位の筋肉を鍛えた方がメンテナンスになるな、と思って筋トレをはじめた。プロのトレーナーさんについてもらっているので無駄がない。最初の頃は私の身体どうなっちゃってんの、という感じでできない動きも多く、行くの面倒くさいなと思ったこともあったけど汗をかかない私が汗をかく人に変わってきた気がしたり、身体がヘロヘロになると余計なことを考えなくなったり、重いものを持つときも「あのトレーニングよりはマシ」と思えたり、基本となる部分が色々変化するのでそれはすごくモチベーションになる。ジムに通っていた時期もあるけどヨガ以外はぼんやりストレッチマットで本とかを読んでいてもったいなかった。筋トレの効果は精神分析効果と似ている。自分の可動域を広げる。そのためにはどこを使うのか、何をとりあえず棚上げするのか、など。私はやるからには真面目なので(以前の自分との比較においては)誉めてもらえるのも嬉しい。誉めてもらえる、というか自分で自分に「がんばれ」と言いながらダンベルこなすこともあるし、「さっきよりできた気がする」とちっこい感覚を自分で評価していることも多い。「自己肯定感」が高いというやつか。日常ではこの言葉を使いたくないのだけど筋トレ中の自分のことだけはこの言葉で描写したい。できなくてもめげない。ベイビーステップ上等。この歳になればできなさの方を多く体験してるのだからスマートにできる自分なんて期待していない。思いがけずできちゃったぜ、というときの嬉しさの方が楽しい。

楽しいといえば昨晩の読書会は楽しかった。そのうちもうひとつのブログの方に書くけど、予習しておいたはずなのにその場になったら一体何が書いてあったんだっけ、と全く思い出せずみんなとあれこれ言っていいながら読み直すような感じになってようやく「ああ、そうか、この著者はこういうことが言いたくてこの形式で書いているんだ」となった。みんな精神分析実践をしているから単に知的な理解に留まらないのはとてもいい。今日はまた別の勉強会が午前午後とあるけどがんばりましょ。どうぞ良い一日を。雪の地域のみなさんはどうぞお気をつけて。

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写真 精神分析、本

サバカレー準備、逃避読書

朝。ここ数日は本当に寒くてすぐにベッドに戻ってしまう。

昨日はサバカレーの準備をがんばった。印度カリー子さんが使っているサバ缶は成城石井にあった。ココナッツミルクを探すのに手間取ったがカレールーとかと同じ場所にあった。ココナッツオイルはいろんなオイルの棚にあるけどミルクはいろんなミルクの棚にはない。冷やさなくていいしね。お店の人に聞こうかな、と思ったけど今後も自分で探せるように自力で探した。ということでがんばったような気がしている。

読むべきものが英語だとつい日本語の本を読んでしまう癖がなおらない。逃避癖のひとつ。でも細々と学ぶ中で千葉雅也と國分功一郎の『言葉が消滅する前に』(幻冬舎新書)はクロード・アジェージュの『絶滅していく言語を救うために ことばの死とその再生』(白水社)へのオマージュか?とか思ったり、とっても敬愛する俳人岸本尚毅の『文豪と俳句』(集英社新書)で岸本尚毅の俳句を通じた文豪たちへの眼差しの優しさにじーんときたり、手元にある本たちの読みがアップデート(?)しているのはいいことだ。

図書館でも俳句か哲学の棚にいくことが多い。昔は精神分析の本もそのそばにたくさんあったのにね、と精神分析の書物の少なさを少し嘆きつつもその時間は至福。最近は持っておきたいけど高くて変えないなと思っていたリオタール『言説、形象(ディスクール、フィギュール)』(法政大学出版局、三浦直希訳、合田正人監修、2011)を読んでいた。ここでも取り上げられるフロイトの夢作業、だけではないのだけど哲学者が精神分析を利用する仕方には学ぶことが多い。臨床とはかけ離れるけど内容と形式、欲望と言葉の関係には注意を払い続けることが必要だと思うし。

それにしても今日は花粉をとても感じる。困った。雪国で暮らす友が写真を送ってくれたが大変なことだ・・・。きれい!と素直に思えない年齢になってきた。大変さをたくさん聞くし、冬にも北に旅してた頃に何度も泣きそうになった経験も重ねてきた。そこで生活をしている人たちがよく休める時間とか場所とか協力とか色々あればいいと思う。どうぞ良い一日を。

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お菓子 精神分析、本 趣味

パイ、カレー、読書

朝焼けはまだ。今日は「市ヶ尾パイ」。パイだけどしっかり。硬い。美味しい。

あ、色々していたら空が白くなってきた。日々、時間の使い方を模索しているができたら空に合わせて動きたい。日曜は雨だったが帰り道はやんでもやっとした空に月が浮かんでいた。ここ数日はその月が少しずつ大きくなっていくのを見た。習慣を変えるというよりも作るという感じ。一番はきちんと自炊する時間をとりたい。大体20分くらいで作れるものばかり作ってるけど目指すは印度カリー子さん。カリー子さんはすごい人ですごく運動もするからあれだけ食べられるというのもあるし多分胃腸も丈夫なんだと思う。私は毎日カレーが食べたいというわけではないがあのパワフルで優雅な食事スタイルは見習いたい。三浦哲哉さんの影響もあるが自炊は楽しい。美味しい。昔はあれだけ面倒だったのにね。不思議。まあ、スパイスは増やしたから1週間に1回は印度カリー子レシピから作りたい。サバカレーと無水チキンカレーのレシピは保存してある。

昨晩は週末に読むアンドレ・グリーンの論文に出ていた言語学に関する本を調べようとしていろんな本を引っ張り出したが私が探しているものは全然見当たらず。この領域はすごく幅広いのだなあ。面白い分野というか精神分析理論を細かく検討するために深めたいのだけど理解に時間がかかるから死ぬまでにどのくらい深まるのだろうか。まあ、こういう時間もちょっとずつ読もう。すぐ忘れるのにどうしてこんなに勉強するんだろうねえ、不思議だ。でもどっかで役に立つのだろう。がんばろう。

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お菓子 俳句 読書

フィナンシェ、伊達公子の番組、中村哲の本

神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾のパティスリー グランウールのお菓子をもらった。まずは抹茶のフィナンシェからいただきます。あずきが入っているのね。わりとさっぱりしていていいかも。カフェインレスのコーヒーとね。最近のカフェインレスのコーヒー、紅茶はとてもおいしいのね。ありがたい。パティスリーグランウールのお土産には秋冬限定の「時間ショコラ~トキショコラ~」という素敵な名前のお菓子も入っていた。立春をすぎたとはいえいよいよ冬みたいな寒さだものね。俳句も春の季語で作ろうとするとあたたかみが増してしまいちょっと実感とそぐわないと思ったけど「春の霜」とか「春の」をつければ本当は春なんだけどね、という感じもでるかなと思ってそうした。立春前は「日脚伸ぶ」とか「日向ぼこ」とか冬だけど春が近いですよ、みたいな感じのお天気でしたね。

昨晩、Eテレで伊達公子の「最後の講義」という番組をやっていた。聴講していたのはみんな女性。ある方が今後子どもを持ちたいとかなった場合にキャリアが中断することについての質問をしていた。こういうとき、やっぱり質問する側は緊張してしまうし、不安が溢れてしまうし、涙ぐんでしまうんだよね。その不安が具体的でなくても、今直面していることではなくても、こういうときの情緒って口に出してはじめて感じるものでもあるんだよな、とこれまでお会いしてきたいろんな女性患者さんのことを思った。トップクラスの人の話を聞くってとても大事よね。トップクラスではなくても自分と同じような体験をしている人の話を聞くことはとても大事。それ以前に人の話から学べる姿勢を持っていることが大事だけど子どもでも大人でもまずはその部分が育ってきて、すると「テレビでこういうのやってて」とか「友達が何なにって言ってて」と自分のあり方を考えるときに人を参照することが増える。暖かい文脈で。まずは暖かさをいっぱい知って少しずつ人の話を聞ける自分を育てていくことが大事なんだなあといつも思う。この仕事しているから特にだと思う。

私は中村哲さんの言葉からたくさんのインパクトを受けてたくさんのことを学んでいる。澤地久枝が聞き手となった『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』も読みたい。澤地久枝もいい。『完本 昭和史のおんな』は上下合本がほしいけど書籍代がかかりすぎているのでセーブ。合本でなければどこかにあると思うし探すべし。洋書が高すぎるんだよねえ。はあ。高いからきちんと読むのでそういう意味ではセミナーとかにお金かけるよりずっとお得だとは思ってるけど。あ、そうだ。週末までにもっと読まねばならないものがあるのを忘れていた。それも英語だったかなあ。そのチェックからせねば。もっとかしこくなりたいけどしかたないね。今日も自分の持ち物で一生懸命やりましょう。ためいきまじりだけど。鳥が鋭く鳴いて去っていった。元気ならいいな。暖かくして過ごしましょう。

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散歩 読書

白州正子の番組とか

まだ早い。洗濯物を干した。

昨晩、白州正子の番組をやっていた。私は鶴川のクリニックに勤めていたから、というわけではないが武相荘にも行ったことがある。鶴川は本当によく歩いた街だった。駅の両側はすぐに山なので散歩していたらいつのまにか人の家の畑に入ってしまって呼び止められたこともあった。クリニックは駅前だったが武相荘は結構上の方だ。小田急線鶴川駅から徒歩でも行けるが行きはバスをお勧めする。入場料がすごく高いな、と思ったがせっかくなので行った。とてもいい家でさすが正子と次郎という感じだった。実家に白洲正子の本があったので文化人であることは知ってはいたが鶴川でご一緒するとは。次郎のことはドラマなどで見ていたがかっこいい人ということ以外いつもあまり残っておらず、私は正子にしか興味をもてなかった。正子は14歳で女性として初めて能の舞台に立ったことでも知られている。昨年、もっともインパクト受けた小説『大使とその妻』の「貴子」は白州正子を思い出させた。昨晩の番組のナビゲーターはなんと細川護煕。エピソードもさすが。最後の方しか見られなかったが面白かった。

昨日は週末の読書会に向けてダナ・バーステッドブリーンの本の一章を読んでいた20ページくらいかな。英語だとものすごく読むスピードが遅くなるので全然進まず。しかもその速度だと内容が入ってこず。困った。著者がこの章で何を言いたいのに辿り着くまでで時間切れ。困った。

乾燥がひどい。唇もかかとも。花粉もねえ。私の大好きな街、帯広の雪のニュースに驚いているし心配でもある。1日で100cmって。53年ぶりの積雪量(積雪深?)ということは以前にも経験した人はいるのだろうけどみなさんどうしているのだろう。被害がでませんように。雪崩とかも起きませんように。

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俳句 言葉

冬帽子、女が書く場

今日は朝焼けが見られる。すごく寒くなるというのは明日から?今日から?今年は筋トレで代謝が上がった、とか言っているけど私の厚着は尋常ではないので単に厚着のせいかもしれない、と昨日少し不安になった。昨日電車でそばに立っていた男性二人(無関係)が電車の揺れによろめいた。二人とも似たようなあまり見かけないよろめきかただったので思わずパチクリみてしまった。一瞬笑いそうになってしまったが失礼なので一句したためた。「ドリフかよコケる男の冬帽子」(季語=冬帽子)。ドリフももう通じないのかもなあ。

ボーヴォワールとか読んでて、というか女が読むこと、書くことについて興味と必要性を感じている私はふと心理学や精神分析の雑誌に有名ではない女の投稿欄がつくられたことはあったのだろうかと思った。新聞の投書欄とかは今もあるよね。昔の雑誌はそういう欄多かったと思う。以前、金剛出版から出ている『臨床心理学』に「女性の発達臨床心理学」という連載があってこれは書籍化もしたと思う。そういうテーマに特化した連載もいいけどもっと気軽に投稿できる場、というか、やっぱり現場を一時的に離れている人が気軽に、「日常という視点から」学問を語る場はあった方がいいのでは。フロイトだって日常生活から学んだわけだし。SNSはもう良くは機能しないと思うし、私は信頼できない媒体を育てるような課金とかもしたくないし、その場を使うこともできるだけ避けたいと思ってる。でも私はこうやってダラダラ書くのがほぼ趣味だし、特に誰に見てもらいたいというのがない人はこういう個人の場でいいと思うけど、多くの人はもっと知ってほしい気持ちを抱えているわけで、特に女性にはそういう場が少ない。育児しながら、障害や病気を抱えながら専門家として感じていること、学んでいることはたくさんあるはずで、それを短いエッセイやコラムやSNSとは異なる「つぶやき」コーナーに投稿してもらえたら心理学と日常生活はもっと多様に繋がれると思う。今は決まった人ばかりが書いているけど人はものすごく異なる体験をそれぞれがしているわけだからそこからの実感を専門的な視点で言葉にしてみるという場を作れたらいいなと思った。ストレスマネジメントとか、ブランクからの復帰の様子とか、女であることの大変さ、とを女だから体験したこととか共有してもらったら研究にも臨床にも別の視点を持つことができるかもしれないしさ、とな。これも虚子が「台所俳句」の雑詠欄をつくって女性たちを俳句の世界に引き入れたことは大きな業績だよなあ、と思ったから。和歌の世界には錚々たる女性メンバーが育ったのに俳句は男ばかりだったからねえ。今や女の方が多いわけだけど。とにかく今はまだまだ場を作ることの方が大切な時代であって女の場所はとにかく制限されているという自覚を援助職である専門家こそ強く持つべきではないかと私は思っているのだな。ウェブ記事よりまずは専門家向けの雑誌のコーナーとしてやった方がいいと思うんだなあ。慣れていないことをやるときはある程度小さい集団を対象としたほうがフィードバックも感じやすいし書いた側の安全感も守りやすいと思うから。私がオフィスでやっている勉強会は男性もいるけど女性の方が多いので彼女たちが主体的に言葉にできる場を作っていかないとなあと思うことも多い。自分で開拓するにはハードすぎると思うよ、現状。声の大きい言葉の達者な人たちでなくてもこの仕事は言葉で伝達されているものなのでその表現を拾う場が増えたらいいなと思う。モデルって大事だから。

今朝は雑炊を食べてぽっかぽか。暖かくして過ごしましょうね。

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イベント

立春、高橋是清

冬の朝の空。立春だけど。この時期が一番寒いのは毎年のこと。梅が咲く頃、桜が咲く頃に暖かい数日間があり、咲き始めると一気に寒くなる。まさに三寒四温。少しずつポカポカしてくるはず。カラスが泣きやんだ。早朝、ずっと鳴いててそのリズムに二度寝してしまった。でもうとうとしながらもカーカーってずっと聞こえていたから二度寝の質はイマイチ。それでも昨日は寝不足のなか出かけたせいかよく眠れた。

熱い紅茶とイチゴ。小さいアルフォートを一つつまんだ。起きるなり高橋是清のことを考えてしまった。昨晩もずっと考えていた。俳句にしようと思って。「江戸東京たてもの園」に高橋是清邸を復元したたてものがある。二・二六事件の現場となった寝室に立ちながら陰鬱な気分になった。彼はあの日、布団の上に座っていたという。話を聞こうじゃないか、と言ったとか言わないとか。しかし即死。青年将校たちに率いられた部隊には貧しい農家から出てきた人たちも多くいたという。高橋是清も幼い頃に養子に出されてからひどく苦労した人だった。私は唐津へ行った時に旧唐津銀行で高橋是清の教え子の辰野金吾のことを色々教えてもらい高橋是清のこともずっと心に残っていた。なので復元とはいえその家のその場所に立ってなんともいえない気持ちになり、それについて考え込んでしまった。今日はもう行かねば。

立春であることを支えに寒さを乗り切ろう。

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言葉

雪予報、専門用語

カーテンを開けたら雪ではなかった。昨晩、友達との帰り道、この気温だと雪にはならなそう、と話しながら友達がiphoneをみたら雪予報だった。これから急激に気温下がるのかもね、と言いながらさらにいろんなおしゃべりをして帰った。今日のお出かけのため私もiphoneをみたら予報は雨マークだった。どっちかな、と思いながら夜更かしをした。あまり気温が下がっている気配は感じなかった。そしてさっき。ベランダの手すりにうっすら雪が積もっていたりして、と思いながらカーテンを開けた。雨。この数時間でたしかに気温は下がっているようには感じた。この冬は筋トレの成果か、寒さで体調を崩すことが少なくとても嬉しかったが、今朝はちょっと本当に寒いかも。暖房をつけて電気ひざかけもかけた。お湯も沸かした。今日は朝焼けは始まらなそう。とても静かなので少し窓を開けたら雨の音が意外と大きくてすぐに閉めた。暖まった部屋がまた少し冷えた。

レッテル貼りを防ぐために専門用語を使わずに話すのが得意な人と苦手な人がいると思う。私は自分の特徴に近い症状については可能。精神分析でかなり細かく自分の特徴がわかったというのもあるし、似たような部分を持つ友達や長い付き合いの友達との間でこれまでの自分の変さを言語化してきているから。人はわからないことほど大雑把な言葉でくくる傾向があると思う。なので専門家ではない人が専門用語を使う気持ちはわからなくもない。専門家ならなおさら日常語で話す必要があるとも思う。具体的なエピソードとともに生じている感覚や動きを共有できる相手がいることは本当に心強い。ひとりひとり全く異なるものを誰かと比べてどう、ということはできないけど、この感じってこういうことでは、と具体的なエピソードから実感を捨てずに抽象度をあげていくと馴染みの理論に辿り着いたりもするがそうやって辿り着く理論と知識として取り入れる理論はまったく異なるだろう。

うう、寒くなってきた。せっかくの冬空だからとカーテンを開けたけどまだ閉めておこう。少し遮るものがあるだけでだいぶ変わると感じることができるのもきちんと寒い日があるからだ。強い刺激はつらいことも多いけど、そこからいずれ生じる気づきもあるからそういうのを待ちたい。とても眠くもなってきた。NHK俳句が始まるまでウトウトしよう。鬼はーそと、福はーうち。

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お菓子 イベント 俳句

豆、習慣

今朝は朝焼けの様子が少し違う。雲が多く空はまだら模様。昨日焚いたお香と朝ごはんの匂いが混ざっている。そんな変でもないけどちょっと変。今朝のデザートは苺。嬉しい。しかも美味しい。果物は当たり外れが少し心配だけどこれは美味しい。もう春なのね。今日は2月1日。立春は3日。ということは明日は節分。もうお豆食べてしまった。お正月が終わってすぐにスーパーには鬼の絵が書かれた豆菓子が並び始めた。私が買ったのは「でん六」の「マメにするのだ!アソート」。赤塚不二夫のキャラクターが書いてあったから。昨日食べたお豆はレレレのおじさん。レレレのレー。お掃除する人を見かけると「レレレのレー」が浮かぶことがあるけどなんか失礼な気がして楽しくなることを一瞬控える。掃除してるのおまえじゃないじゃろ、ってね。でも大好きキャラだわ。

1月16日から1日一句は作ってもう10日以上過ぎた。なんか習慣化してきた。私はこれは精神分析の効果だと思っていて、分析家になってから習慣化したことがいくつかある。いつも締切前日に速達で出すか、オンラインだったら締切時間ぎりぎりに出すかだった俳句が習慣化するとは。句会に出る習慣もつけたいけどこれは時間を確保するところからだから難しいので結社にこだわらず行けるものに行こうと思う。この前出た句会は平日昼間だったせいか年上の方が多く、私が俳句をする前にイメージしていた俳句の世界が広がっていた。全国的にも俳句はまだ高齢の方に馴染みのある文化かもしれないけど私が所属する結社は私より若い人たちもたくさん活躍しているし、というか書いていて思ったのは私もすでに若くないわけで私がいう若いは少なくとも20代ではない。俳句は短いのがとにかく魅力なので好きなんだけど読むには漢字が難しいのと語彙力が必要なので調べる習慣がついていないと大変。辞書をひく習慣がオンラインで辞書使うようになってからいまいちうまくいかないんだよね。というより複数のことを同時にすることができないから辞書引き始めるとずっと辞書読んだりしはじめてしまうわけで、オンラインだとそれもせず別の何かを調べ始めたりしてしまうからなんだな。とまずは自分の今の行動の癖を知るところから別の習慣作りははじまるはず。作る分には自分の持ち物でやればいいという面もあるけど私の場合はインプット足りない。語彙力って使えないと意味がないとまでは言わないけどあまり意味がないわけで言語化とお勉強ができるかどうかがあまり関係ないのと似ているところがあるわけです。私はお勉強も平均的なうえに言語化するときの語彙が乏しいわけで日常生活に支障はないけど俳句生活には支障がある。これは続けていきたい趣味だから多分積み重ねでなんとなく今よりはましにはなっていくとは思うけど作る習慣もまだ1ヶ月経っていないからどうなることやらだわね。忙しいとかいってないで今日も何か見たらパッとつくろ。

2月かあ。早いねえ。なんとかやっていきましょう。

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俳句

ガザ、日向ぼこ、荻外荘

夜明け。とてもきれいなオレンジを見られた。これは多分ヒヨドリの声。カラスの鳴き声だけは確実にわかるのにね。

鵯のこぼし去りぬる実のあかき 蕪村 「蕪村遺稿」

パレスチナ自治区ガザ地区、19日に発効されたイスラム組織ハマスとイスラエルの停戦合意に基づく人質と拘束者の交換が行われているとのこと。人質解放の場にガザの群衆が集まって事故が懸念されるとのことなんだけどみんなどんな気持ちで集まっているのだろう。これは「集まっている」というのだろうか。そもそもの居場所はあるのだろうか。ガザはもうすぐ31日になる時刻か。夜は眠れるのだろうか。

村上鬼城の俳句に

うとうとと 生死の外や 日向ぼこ 鬼城

がある。季語「日向ぼこ」には生死を読んだものが多い、と聞いて私もこの前そう思った、と思った。耳が悪く、貧困に苦しんだ鬼城にとっての「生死の外」は、「日向ぼこ」は、どんな心地のものだったのだろう。その人にしかわからない感覚が言葉に包まれることの大切さを思う。

荻窪の小児発達クリニックに勤めていた頃、お昼は外で過ごしていた。美味しいパン屋さんもお弁当屋さんも近くにあった。図書館の公園で食べてそのまま時間ぎりぎりまで本を読んだり太田黒公園まで足を伸ばして散策したりした。クリニックはのちに駅の反対側に移ったので荻窪は駅の両側ともわりと詳しい。クリニックを辞めたあとも保育園巡回の仕事で荻窪にはそれなりにきていた。しかしどんどん忙しくなりオフィス、保育園、自分の分析、またオフィスという生活でごはんを食べたりお散歩したりする余裕は無くなっていた。荻窪はその間に随分変わった。私がいつも買っていた美味しいパン屋さんは駅そばの人気店になった。先日、久しぶりに荻窪で降りた。気に入っていたカフェやごはんやさんはまだ元気そうに営業していたけど注意の張り紙が増えていた。どこも色々大変なのだろうか。今回は角川庭園が目的地だったがまずは大田黒公園をのんびり散策し、復元待ちだった荻外荘へも寄った。大田黒公園の梅にメジロがいて梅の花びらを落としながら頭をあっちこっち動かして蜜を吸っているのがかわいくてたくさん写真を撮ったが動きまくるから目がつりあがったり歪んだような写真ばかりになった。さて、荻外荘は近衛文麿が昭和12年から昭和20年12月に自死するまで過ごした邸宅である。昨年、近くを歩いたときはまだ工事中で公開が始まったら行こうと決めていた。昭和15年7月、東條英機らと「荻窪会談」を行った部屋の壁紙や調度品、近衛文麿が自決した部屋の「黙」という字、いろんなものが視覚に残りなんともいえない気分になった。近衛文麿は服毒自殺、東條英機は死刑、岸信介は釈放、と辿っていると暗澹たる気持ちになる。「黙」でよかったのか?

色々考える。それぞれの平和が普遍的なものでありますように。

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俳句 読書

朝ごはんとか俳句とか。

まだ暗い。カラスが大きな声で鳴いている。今日はスッキリ晴れるみたい。

朝ごはんが大好き、ということを何度か書いたことがある。堀井和子は『ぱっちり、朝ごはん』(河出文庫)に「1日3食、朝ごはんでもいい!」と書いている。「私も!」と一瞬手をあげそうになったが最近の私は朝ごはんにあまり力をいれていない。早朝に「つくおき」をするせいでそれをちょっとつまんでしまいむしろ夜ごはんっぽくなっている。あんなに大好きだった私の朝ごはんはどこへ行ってしまったのだろう。

「私は1日3食、朝ごはんを食べてもいいくらい朝ごはんが好きで、夜は明日の朝ごはんを楽しみにして寝る。」

と堀井和子はいう。わかる。私も同じことを言っていた。かつては。とはいえ、堀井和子の場合、パンは自分で焼いているし、記憶に残っているのは南仏だし、とっても素敵な感じで私の朝ごはんとはだいぶ違う。それでも私は朝ごはんを楽しみに寝ていた毎日を取り戻したい、というのも食卓に置きっぱなしにしていたこの本をパラパラしたから思っただけではあるけれど。

この前、橋本多佳子の句集で

雪しまきわが喪の髪はみだれたり 橋本多佳子

という句を見つけて「雪しまき、カックイイ!」と思って一句作ってみたがどうひっくり返してみてもぼやんとした句にしかならなかった。その後、岸本尚毅が朝日新聞に書いていた記事を読み写生についてちょびっと考え「雪しまき」なんて雪国で生活したこともない私には使えない季語なんだからカックイイとかで作ってはならぬ、と別の句にした。我ながら単純だが反省したらすぐに実行すべし。体験が言葉を強くすることは毎日体験中だもの。

週末は数年ぶりに一年一回の会が復活する予定。コロナの間に変わったこと変わってないことなんであれ再び共有できることの幸せを噛み締めたい。良い週末に向けてがんばろう。

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俳句 読書

冬らしさ、宇多喜代子『俳句と歩く』を少し読んだ。

今朝は少し空の様子が違う。冬らしいというのはこういう空のことかもしれない。天気予報は晴れみたい。昨日の西日もいかにも冬で新宿方面から西へ向かう人はみんな片手をあげて強い日差しを遮っていた。ものすごい発光。この前、とてもよく晴れた日、少し川沿いを散歩した。前から来る人のボタンとかランニング中の人の袖の一部とかみんなどこかしら光っていて冬だなと一句作った。しばらく歩くと小さな白い鳥が川縁をぴょこぴょこ歩いていた。多分ハクセキレイ。その歩みに合わせてその水浴びを観察した。尾羽をぴょこんと水につけては飛び上がるくせに川縁ぎりぎりのところを歩いててとてもかわいい。今日はあったかいから入っちゃおうかな、でもお水は冷たいからな、みたいな逡巡に見えた。これも句にした。でも途中から「尾羽ぴょこぴょこみぴょこぴょこ」→「尾羽ぴょこぴょこ日向ぼこ」とかなってしまった。音は気に入ってるけどパクリだしねえ。この前、ちょっと図書館に寄ったら宇多喜代子『俳句と歩く』(角川俳句ライブラリー)を見つけてパラパラした。鈴木しづ子を探し疲れ果て出会った老人の一瞬と宇多さんの一瞬の描き方にグッときた。戦争を知っている世代にしかわからない記憶の作動がある。そして養蚕の話。蚕を飼うことも桑の葉畑も私にとって当たり前の景色で、体験だった。でもそれもいつの間にか見えなくなった。宇多喜代子さんは昭和10年生まれ。私がこれからどんな長生きをしたとしてもあんな語り方はできないだろう。これからもし私も戦争を体験するとしても。とても薄っぺらい時代を生きてきたのかもしれない。だから先達の語りに惹かれるというのはある。読書の恵みは計り知れない。みんないい本と出会えますように。

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精神分析

アクアライン、俳句と精神分析?

空が白い。遠くの方はまだうっすらオレンジ。起きたら喉がパリパリ。熱いお茶を淹れた。今日も「保田どら」と一緒にいただこう。房総はアクアラインが開通した頃、よく行った。身内が房総の小さな町で社会学のフィールドワークをしていたからその思い出話と共に。神奈川県川崎市と千葉県木更津市を繋ぐなんて当時はすごいと思った。それほど土地勘があったわけではないがそれまではフェリーで行っていた場所だ。アクアラインは最初は料金が高すぎて海ほたるもガラガラだった。フェリーの料金はどうだったか忘れたがもうそのルートは廃止されているだろう。いずれにしてもバブルの頃に構想された計画はその後のまさかの不況を想定できたはずもなく(できたのかもしれないが)運用は大変だっただろう。近所でも道路予定地として放置されている土地がいくつも見られるがこれはいつ計画された道路のためのものなのだろう、といつも思う。この土地は私が通った馴染みの店が立っていた場所でもあるのに。立ち退かせるときだけ素早くその後は見通しなし、というのはどんな場合でもよくあるが人の住処をなんだと思ってんだ、という感じはある。本人たちが納得したとしてもそれまでの生活を変え、お客さんを含め関わりの深かった人たちと離れる体験はそんな簡単じゃないはずだ。もちろん「あのときは大変だったけどで結果的にはよかったんだよ」という声もあるだろうし、ぎりぎりまで実現可能性を検討してから動くのでは遅い、というのもわかる。しかし、一気に動く動力を蓄えるためにはそのよな熟考が必要であることもまた事実だろう。

10日ほど前から一日一句は俳句を作っている。二句、三句作る時もありだいぶたまってきた。しかし、これはただの言葉遊びでは、という駄句ばかりで句友たちの素敵な俳句との差が自分でも明らかにわかる。とはいえ継続は力なり。でもやっぱり私は精神分析くらいしか没頭できないのでは、と思い、俳句と精神分析で検索をしてみた。最初にヒットしたのはなんとラカン理論の俳句への適用。ラカン理論が利用しやすいのはわかるが・・・、と思いつつ読んでみた。著者はイアン・マーシャルさん。ペンシルバニア州立大学アルトゥーナ校の英文学と環境学の教授らしい。ソローの『森の生活ーウォールデン』から俳句を抽出している本も書いているらしい。面白そう。とりあえず最初にヒットした文章Jouissance among the Kire: A Lacanian Approach to HaikuをみたところABSTRACTはこんな感じ。

「本稿では、精神分析理論を俳句に適用し、俳句が言葉以前の世界との一体感への回帰の試みとしてどのように捉えられるかを探究する。これは、ジャック・ラカンが「想像界」と呼んだ状態への回帰の試みとして考察される。それは言語というメカニズムを通じて行われ、ラカンによれば、言語こそが我々を「象徴界」へと導き入れ、そこで我々は自己と世界との分離を認識し始める。さらに我々は「現実界」に生きており、そこでは自己の外にある対象は欠如の象徴として認識される。結局のところ、俳句は私たちを欠如と一体、分離と結合という可能性の狭間に置く。優れた俳句は、並置されたイメージを提示するために断片的な構文を用いながらも享楽の可能性を私たちに提供する。これは想像界への瞬間的な回帰であり、俳句の瞬間に関連付けられる世界との一体感への突破である。しかし同時に、優れた俳句は、俳句に詠まれるイメージのように、自己の外にあるものが欠如の象徴となり得ることも私たちに想起させるのである。」

ふむ。そうかもしれないが、ふむ。ソローと俳句の本が読みたい。

Marshall, Ian, “Walden by Haiku,” The Haiku Foundation Digital Library, accessed January 27, 2025, https://www.thehaikufoundation.org/omeka/items/show/3305.

光が溢れてきた。カーテンを開けて過ごしましょうかね。どうぞ良い一日を。

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お菓子 俳句

保田小学校と秋桜子

夜明けの空。配色も月の配置も完璧でとてもきれい。

『桜の園』大千穐楽か。ケラリーノ・サンドロヴィッチが2020年版、幻の『桜の園』の稽古場最終日の写真をSNSに載せてくれてる。すごく楽しみにしていた舞台。まさかコロナという感染症によって全公演中止になるとは思わなかった。ケラさんによるチェーホフ四大戯曲。全部見られた人が本当に羨ましい。

千葉県安房郡鋸南町保田の道の駅は「保田小学校」というそうだ。そこのお土産をもらった。この道の駅、給食メニューが食べられたり、教室のような宿泊施設もあって楽しそう。日帰り入浴もできる。金次郎もいる。びっくりしたのは校歌の歌詞が水原秋桜子だったこと。私は昨日、日々を吟行とするためにということを考えていて小川軽舟の『俳句入門』(角川俳句ライブラリー)の第11章「「吟行」をどう生かすか」」をパラパラ読み、そこで紹介されていた秋桜子の第一句集『葛飾』をほしいな、と思ったばかりだった。なので秋桜子がなぜ保田?と驚いてしまった。さっき調べたら「町報きょなん」のバックナンバーを読めるサイトがヒットし、そこに秋桜子と保田のつながりが書いてあった。

保田小学校校歌について

伊丹信太郎と秋桜子について

なるほど。小学校は平成26年3月に閉校したそう。こうして道の駅として地域の交流の場になったのはとってもいいこと。ここは元小学校らしく子供の遊び場もきちんとあるらしい。一時期、全国の「道の駅」に出かけようと思って色々行っていた時期があったのだけど最近は行った場所にあったら行く、という感じでこだわらなくなっていた。でも地域交流の拠点としてその町の歴史を受け継ぐ大事な場所だから今度からもっときちんとまわろう。いつもその地域のお野菜やお菓子やお惣菜やお酒ばかり見てしまうから。今回のお土産は「保田どら 保田小びわつつみ」。水色のランドセルの形をしたお菓子。千葉県産びわあんをかわいく包んだ小さいお菓子。かわいくておいしかった。

今週も色々いいことあるといいですね。良い一日を。