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イベント 精神分析 趣味

ミーティング、昇華、思春期

昨日はいつも以上に動かなかった。移動先で午前も午後もミーティング。やっとお昼だー、めんどくさいけど外へ出ねば、と動こうとしたら「たくさんあるから食べない?」と美味しいパンをもらえた。コーヒーもフリー。なんかいつもみんなありがとう、という気持ち。腰が固まっちゃうと大変だから少しは動いたけど夕方まで地上に降りなかった。ミーティングでは関西、九州のみんなと直接会えていろんなお話を聞いたり考えたり話したりした。振り向いたり乗り出したりヒソヒソしたり遠くに手を振ったりオンラインでは失われる動きや奥行きを実感して話せるってとっても素敵。以前は当たり前だったこと。コロナによって奪われた時間。でも直接会えることをこんなに大切だと知ったのもコロナがあったからともいえる。「おかげ」とは絶対に言えない。ウィルス自体にはなんの罪もないけれど。そういうわけで口はいっぱい動かした。耳もいっぱい使った。いろんな気持ちにもなった。揺さぶられるほどではなかったけど。もはや自分の反応を予測するよりも反応が起きてから「ああ、またこうなってる」という感じでコントロールできるものとも思ってないから気楽。それにしてもみんな色々ある。ありすぎる。ありすぎるそれらをいちいち人に言ったりしない。言う相手だって自然と選ぶ。それが普通だってことを何度も思い出す。言う相手がいるのはいいことだ。そういう相手がいるから特定の相手が必要であることの意味もわかる。同世代とは介護、自分の身体の不調など「そういう年だよね」としみじみすることも増えた。協力しあってやってこうね、楽しもうね、そんな言葉を言い合うことも増えた。難しい状況をいかに楽しむかのスキルもいいかげん高くなってきた、はず。精神分析で自分に時間もお金もかけて散々向き合ってきたつもりだけど向き合うことの重要性とそれによって得られた変化を忘れるような困難や余裕のなさもたまに生じる。そういうときに必要なのは孤立していないこと、というより無理をしていないこと。もはやここまで、というかのように自分を諦め、逆にどこまでいけるのかと自分を委ねたあのものすごく大変な時期を思い出せばスピードは落とせる。余裕はできる。誰かがそばにいてくれると感じられる。自分に軸ができてくる。ルイーズ・ブルジョワの「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」の「地獄」は10年間の精神分析のことでもあるのでは、と自分の体験と重ねて思う。精神分析における「昇華」は研究の難しい概念だと思うけど森美術館も展覧会で繰り返し流されていたビデオでブルジョワが何度もsubulimation と言っていた。2002年、晩年のブルジョワが描いた絵と文章でできた絵本のような作品のお話。

“I feel that if we are able to sublimate, in any way we do, that we should feel thankful. I cannot talk about any other profession, but the artist is blessed with this power.”

とブルジョワはいう。父を諦め(おそらく母のイメージも変わっている)地獄から帰ってきて作品作りを再開し、その後も長く生き、作品を送り出し続けたブルジョワの感謝は特定の対象ではなく生きることのそのものに向けられているのだろう。週末、東京にきていた友人にルイーズ・ブルジョワ展を勧めたら行っていたからまたおしゃべりしたい。

昨日はイギリスの精神分析家のMargot WaddellのOn Adolescenceを少し読んだ。Waddell先生の”Inside Lives – Psychoanalysis and the Growth of the Personality”をなんと借りっぱなしだった。週末にお会いした先生に。昨日、家に帰って友達に頼まれた本を探しているときに見つけた。がーん。お借りしてから2年くらい経っているかもしれない。割と頻繁にお会いしているのに忘れていた・・・。それでWaddell先生のことを思い出したのでもっと新しい文献をチェックしたのでした。思春期臨床は私にとって大切な領域。小学生低学年の子や幼児さんと絵描いたりドールハウス使ったりするセラピーも好きだけど思春期の子供は私も通ったはずなのに全く忘れていた強度で大切なことを伝えてくれる。大人になることって連続しているようで全然していないんだよね。今日もがんばろう。

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イベント 精神分析 音楽

イマニュエル・ウィルキンス、vessel、托卵

空がすっきりした青になってきた。今朝は栗のお菓子と熱いお茶。あったかい。昨晩からアルト・サックス奏者、Immanuel Wilkins(イマニュエル・ウィルキンス)の前作『The 7th Hand』を聴いている。「Lighthouse」という曲に毎回ひっかかる。気に入っている。

今回も柳樂光隆さんのインタビューを読んでから聴いているのだけど今回の記事はイマニュエル・ウィルキンスの

「僕は「vessel」(器)、もしくは何かをアーカイブし、伝えるチャンネルとしての「body」(体、塊、物体)という概念に対する強いこだわりがある」

の言葉から奴隷貿易によってアメリカに渡った黒人がどのようにその文化を継承してきたかなど広い視野へ導いてくれるものとなっている。

精神分析ではビオンの「コンテイナー」を使うことが多いけれど「vessel」という言葉もより身体と近くていいなと思ったりもした。ビオンが見ていた臨床素材が違いすぎるので「コンテイナー」は意識して使わないようにしている。あまりに簡単に使われるようになってしまったものはできるだけ使わないで敬意を保ちたい。

先日、上野の「鳥」展で知ったことをあれこれ披露しようとするたびにすでに忘れていることの多さと記憶の曖昧さに気づく。知ってはいたが何度も気づく。例えば「鳥って方言があるんだって」「へえ」「・・・・」と私が面白いと感じた鳥に関する知見を紹介できない。托卵とメスによる性別コントロールについてはそこそこできたが、托卵のことは知っている人が多いのね「鳥」展にはちょうど鳥が別の鳥の卵を捨てる瞬間の写真もあった。これヒナの段階でする場合もあるみたい。鳥には鳥の進化があって、うわあ、人間と同じ、と思うこともあるけど、人間がこれではまずいだろう、と思い直すことも多い。なんのために言葉を持ってなんのために思考できるようになったかといえば鳥たちみたいに生きられないからなわけでしょう?違う?持っているものの有限性が異なるのに都合のいいとこだけモデルにするのも違うでしょ、と思う。まあ、色々自分にだけ都合良すぎだろ、と思うことが多いからそんなことを思うのだな。それぞれがつたなくてもなんでも自分の言葉で自分の中の矛盾を抱えていけますように。

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イベント 読書

朝ごはん本、松谷武判展

ぼんやり。空の白みが増している。あと一ヶ月で冬至か。急に寒くなった。こうなるのではないか、と思っていたが今年はいつもより身体のメンテナンスをしているから大丈夫なのでは、と思っていたわけでもないがやっぱりダメだった。必要なこと以外ほぼしなくなる。紅茶とお菓子を手にする前に河出文庫『ぱっちり、朝ごはん』を手にとった。黄色の表紙に目玉焼きとハムとトマトとレタスとブロッコリーが載ったお皿が描いてある。ざ、朝ごはん。山崎まどかさんが西荻窪の「こけし屋」の朝市のことを書いていた。懐かしい。憧れの朝市だったが一度も行けないまま店は閉じた。「こけし屋」のモーニングには何回か行ったことがある。西荻窪でコンサルテーションの仕事があるときは毎回それを楽しみにしていた。この本はいろん人が思い思いに朝ごはんについて語っている大変魅力的な本だがこれを読んでもおなかはいっぱいにはならない。今日の私はこれを読んだらなおさらおなかがすいた、さあ、朝ごはん!という気分にもならない。とりあえず暖かいところでじっとしていたい。

オフィスの最寄りは京王新線の初台駅というところでバレエや音楽会などが開かれる新国立劇場がある。私のオフィスは東口で劇場に併設するオペラシティと呼ばれるビルが近い。オペラシティにはカフェやレストランや銀行などがある。あ、そうだ。昨日振り込みに行ったのに別の店へ寄ったら忘れてオフィスへ帰ってきてしまったので今日こそいかねば。それはともかく、今3階のアートギャラリーで「松谷武判 Takesada Matsutani」展をやっている。このギャラリーは良い展示が多く、なによりオフィスから近いのが素晴らしく今回も行った。予想していたよりずっとインパクトが強く、唇と乳房とペニスをひたすら連想させるような膨らんだりめくれたりしているものたちは生々しさはなく、解剖学的だったり、水墨画のようだったり、こういう多彩さもあるのか、と大変面白かった。このギャラリーは広くないので途中で疲れることもなく、結構話題の展示でも平日の変な時間に行く私は混雑に出会ったことはなく、今回も一つのスペースに一人でいられる時間が長くひたすら作品と一緒にいて大変満足した。平面にはできないこの展示をひたすら写真に撮るのも楽しかった。やっぱ写真には、と確認しながら写真でも悪くないか、と思ったり。次回の展示も面白そう。寒くても通り道なら行く気にもなる、きっと。

昨日はメルツァーを通してフロイトを読んでいた。少ししか読めていないが再読なので発見があった。今日も少し読もう。良い一日になりますように。

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イベント 精神分析 趣味

ルイーズ・ブルジョワ展、共有

きれいな空。まだ濃い。熱い紅茶が美味しい。

六本木の森美術館でやっている「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」へ行った。もっとゆっくりみたかったがエネルギーも足りなかった。かなり疲れたがとてもよかった。27年ぶりの日本での展覧会ということだが、私はこの人の名前は知っていた。彼女が精神分析に長く通っていたので精神分析の文脈で。ジュリエット・ミッチェルが結構最近も取り上げてきた気がする。そしてメルツァーとの共著で有名なメグ・ハリス・ウィリアムズも彼女について書いている。ジュリエット・ミッチェルはフェミニストだとは思うけど、精神分析的にはラカン派でもなさそうだし、いまいち位置付けがよくわからない。メグ・ハリス・ウィリアムズはメルツァーと共著を書くくらいだからクライン的に作品を解釈するわけだけど、私は今回実際に作品をみて乳房とペニスの結合はこうやって表現できるのか、とすごくびっくりした。布と糸を使うのも彼女の人生にはずっとあったものなのだろうけど意識と無意識をそれらで表されるとものすごく新鮮でちょっと考えてみたいことが増えた。

昨日はネット上でもみんな谷川俊太郎の話をしていた。本当にたくさんの投影をうけている詩人なんだなぁ、と少しおかしかった。普段の人間関係で共有というと片方しかそれを喜んでいない場合もあるがあそこまで歴史も長く懐の深い音の世界だと誰もが密かに好きでいられる部分をもてるのもいい。おおざっぱな判断と解釈はみんながいっていることを自分の発見として自分だけが満足となる場合が多いけど特別なときだけではない感覚は共有できなくても全然いいが表面的ではないのでじんわり共有できる場合も多い。谷川俊太郎の詩のように押し付けがましくなくいきたい。あれこれ大変だが今日もがんばろう。

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イベント 写真 散歩

出不精ながら

今朝は河口湖チーズケーキガーデンの特売抹茶ケーキ。チーズは入っていないから余った抹茶で作ったりしてお安かったのかしら。安かったんだって。ポロポロするけどそのポロポロもちまちま食べたくなる美味しさ。いい香りだし。河口湖の紅葉の名所「もみじ回廊」もそろそろかな。東京もだいぶ色づいてきましたね。立冬を過ぎたとはいえようやく秋になったのでアクティヴになりたいけどなんか暑かったり寒かったりで今日はお出かけ日和だみたいな気分にならないというか、元々出不精なだけだけど、色々行きたいな、と思うばかり。でもこれは行っておかねば、というものでオフィスから行きやすいところには立て続けに行きました。もっと寒くなったらいよいよどこにも行きたくなくなるから。

上原沙也加さんの台湾を舞台にした写真展は馬喰横山駅から数分。近いのに迷ったから汗かいたけどオフィスのある初台からは一本。

細井美裕さんの初個展「STAIN」は神宮前2丁目。神宮前にはオフィスから西参道を歩いて明治神宮へ入り、明治神宮を抜ければ着くのだけど神宮前2丁目は駅からちょっと遠い。千駄ヶ谷駅から行くのとたいして変わらない気がする。あの辺は好きな通りなんだけど私の中では目的なく歩いていると出るような場所で全然通りを覚えられず毎回迷い、今回もギャラリーのすぐそばを何度も通り過ぎて汗だくになった。なんでこの季節に汗かかなあかんのか、と思いつつ。

そして瀬尾夏美さんたちNOOKの事務所「Studio 04」でやっている「現代・江東ごみ百鬼夜行」。江東区西大島の大きな団地の一階。西大島も初台から一本。

どれも行ってよかった。世田谷文学館とかはもっと行きやすいのだけどちょっと変わったところにいきたい欲望も働いてしまう、でも行きやすいところ、と思ってしまうし。絶対行きたい展示があと二つあるけどこれらは遠くはないが面倒・・・。来年「美」について語る機会をもらったので美しいもの、こと、にはたくさん出会いたい、というか体験から考えたいが。

新宿中央公園が毎日きれいだからいいか。今日は雨なのかな。でも晴れてきたかな。いいこともあるといいですね。

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イベント

満月、白湯、李禹煥

窓を開けたら涼しい風が入ってきた。お布団は厚くしたけど服は夏のままでまだ大丈夫。朝はバタバタ動くからなおさら。今日の空はどんな感じになるのでしょう。昨晩は満月がピッカピカで信号待ちで空を見上げてたらいつのまにか隣の人は先に渡っていた。知り合いでもないのに追いかけるように渡った。帰り道はいつもみたことあるような人たちと信号待ちになるのだけど昨日は全然違った。いろんな人がいた。まだみんなシャツ一枚とかで薄着で金木犀が咲く頃はこんな服装だっけと思った。

最近は白湯がちょうどいい。とはいえ冷める前に飲んであちちっとなるのもいつものこと。私の美容師さんも同じことやるって言ってた。なんか待てないというか熱いの飲みたいんだよね、火傷するのに、と話した。

先日、千葉市美術館で思いがけず李禹煥の作品「刻みより」にあった。もうすごく前だけど高松の友達と直島の李禹煥美術館に行って大好きになった。あそこは安藤忠雄建築で作品とすごく合っていた。寄せ付けない感じとウェルカムな感じの両方を受け取った気がする。もっと別の言葉で友達には伝えたのだけど。李禹煥の作品にも似たような印象を持つ。「刻みより」は木の板の表面にたくさんの削り痕を残した作品なんだけど傷痕には見えない。むしろ森の樹の肌みたいな歴史と温もりを感じた。直島に行くフェリーにもまた乗りたいな。約束の場所とは違うフェリー乗り場で顔を覗き込まれて久し振りに会う顔に一瞬戸惑ってびっくり嬉しかった。友達は何度も直島に行っているのでいろんなところを案内してくれた。海も山も細い道も家も島の公共施設もバスも点在するアートも美術館も全部楽しかった。タオルを首に巻いて歩くことの楽ちんさも覚えた。今日はストール持ってこうかな。喉のいがいが一歩手前な気がする。まずい、と思ってすぐに気をつけると翌日は治ってるという繰り返し。ぜひこのままいきたい。白湯は白湯として熱いまま飲まないようにしよう。今日もいろんなお話をいろんな風に聞けますように。