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寒くなった

急に寒くなりましたね。困ります。こうなるのではないか、と思っていたけどやっぱり嫌です。近所の散歩道の金木犀は小さな金平糖のようなお花をすっかり散らして地面を染めていたオレンジもすっかり消えてもうすっかり他の木々に紛れなんの香りも放ちません。あと少ししたらそこが金木犀だったことも忘れてしまうのでしょう。来年も「金木犀は?まだ?今年遅くない?」というのでしょうか。少しずつ少しずつ花咲くのが遅くなりいつのまにか冬の季語とかになっていたりするのかもしれません。でも季語はわりと正確に季節を表していて昨日「ああ、金木犀が終わると冬が来るんだな、きちんと」と思ったのでした。あと1週間で立冬。きっとその頃、ちょうど「ああ、冬だあ」と思う風や空と出会うのです。毎年そうですから。

昨晩、また少し水村美苗の『大使とその妻』を読んでいました。私がさっき書いたような季節の変化がとても細やかに描かれています。小説は現実よりもずっとスピードが速く、季節もどんどん変わっていきますがこのお話は軽井沢の家からの定点観測という感じで主人公が毎日どんな道でどんな景色を見ているのかいつのまにか浮かび上がってくるような繊細な筆致が素晴らしいです。主人公の心の静けさやその静かな心が泡立つような瞬間の捉え方も水村美苗らしくて素敵です。少しずつしか読めてないけどそのスピードで十分な本だと思うので今日も夜、少し読みたいと思います。海外の言葉に塗れながら日本語についてずっとずっと考えてきた著者は主人公そのもの、ではないのでしょうけど思考と言葉の紡ぎ方は多分こんな感じでこのあとの展開と同時にそれを描写する日本語も楽しみです。

外は雨らしく時折大きな雨粒が落ちてきたような大きな音がします。落ちてくる間に重なり合って大粒になったりするのでしょうか。それとも落ちた場所の素材が立てる音でしょうか。しばらくしたら晴れると聞きました。しばらくがどのくらいかを聞くのを忘れてしまったけどどちらにしても傘は必要そう。どこかに忘れてきてしまわないように折り畳みがよいでしょうか。そういえば先日いつもお世話になっている方に「あなたが上着を忘れる季節」と言われました。脱ぎ着が多い季節は管理が難しいけれど季節の出来事として捉えてくださるならありがたいことです。確かに患者さんでも「またこの季節がきてしまいました」と調子の悪さや良さを伝えてくださる方も多く「でも昨年は」と少しずつ馴染んでくるその季節の自分の良き変化を感じたり「やっと寒くなった」と久しぶりの体調の良さを喜んだり。ご自身の身体の調子に耳を傾けることはとても大切。それを大雑把位に「いつものこと」とするよりは「金木犀がすっかり散るといつも」とか言ってみたいものです。今日も温度調節できる服装が良さそう。私は足と首を冷やさないように気をつけたいと思います。どうぞみなさんもお身体お気をつけてお過ごしください。

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お菓子、音楽、お昼

曇色。水色ともグレーともいいがたい。空以外だったらなにがこんな色をしているかな。柿を剥いた。大きい柿。スーパーの柿はもう種なしばかりだからつるんとしてる。種子があると動物の顔みたいでかわいいのにね。のにね、といってもない方がいいけど。ほんのちょっとだけ渋いところがあったけどほぼ甘くて美味しかった。今日は高倉屋珈琲でポイントが溜まったらもらえるクッキーをもらったのでそれも。「おいしいよー」と言われてコーヒーと一緒にもらったのだけどほんとおいしい。私の好きなサクサク具合。ポロポロするからお皿が必要なやつ。あ、また高倉屋って書いてる。正しくは高倉町珈琲店。失礼いたしました。私の行動範囲にもあるといいのに。

KNEECAPを聴き始めたらすぐに止まってしまった。何度も止まってしまう。Spotifyがおかしくなったのかな、と試しにサマラ・ジョイにしてみたら普通に聴ける。それはそれでおかしいな。またKNEECAPに戻る。今度は聴ける。うむ。全然違う感じの音楽にすれば何かが変わる、というわけではなかった。当たり前だ。当たり前?仕組みがよくわからない。もう止まらないでほしいな。パソコンの問題だったらもっと嫌だけど。KNEECAPのラップはアイルランド語がわからないけど、というか英語でも部分的にしかわからないけど、ずっと聴ける。色々して戻ってきたら終わっていた。どうして途中で突然席を立ってしまうのだろう。目的なく書くからか。音楽はLiam Gallagher John Squireになってる。これは今日の天気と逆をいく軽やかさ。またKNEECAPに戻る。今日はこっちの方がいいな。時々ずっとラップ聴いていたい感じになるんだよね。エミネムの『8 Mile』の頃、ちょうど身内がLAにいてUniversal Studios Hollywoodに行った。でっかいポスターがドーンと貼ってあった。私はエミネム大好きだったのでずっと眺めていた。でっかいからずっと眺められていた。映画に詳しくないけどすっごい楽しかったな。日本のも行ってみたい気もするけど混んでそうな場所は避けがちな近年。オフィスのお隣の新宿さえ西しか行かないし。西口は高層ビルと新宿中央公園が主だけど外でごはん食べられるスペースがたくさんなのは素敵。この時期は雨でなければ昼頃はお外にたくさんの人。ずっとオフィスにいるのも息が詰まるよね、多分。私もいろんな職場に勤めてきたけどお昼まで一緒にいる必要なくね?と思うことは何度もあった。なんでこんな狭いところでみんなで食べる必要があるのじゃ、家族とだってこの距離で食べないよ、という場所もあったし。慣習みたいになってる職場ってあるのよね。でも義務でもないしその時間はお給料出ない(雇われている間は全部時給生活だった)のになぜ、ということで私は色々街を探索しながらいいお天気の日は公園のベンチで食べてた。一緒が楽しい職場もあったけど。怒る人がいないときはみんなプチ料理したり。それぞれ自分が楽な形を日々模索する方が面倒な場合もあるか。確かに私もたいしておいしいと思っていないお店に惰性でいくことも多いものね。それはそれでそのお店のいいところってことになるし。

水村美苗の『大使とその妻』を少しずつ読んでる。どうしても「大使館」と打ってしまうな。今も間違えた。すごくよくてずっと読んでいたいのだけど時間がない。でもこのペースでいいのだ、これは。静かにゆっくり進む。今日も気持ち的には余裕をもっていけたらいいね。お風邪など召されませんように。

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飯能のお菓子、グループ

少しの朝焼けがあっというまに曇り色になった。窓の外に広がる街はまだ静か。暑い紅茶を入れた。TWGのENGLISH BREAKFAST TEA。コットンを使ったティーバッグがとってもおしゃれ。お味も美味しい。自分でも買えるのかな。チェックしてみよう、とこの前も思って忘れている。お菓子は埼玉県飯能市洋菓子屋さん「夢彩菓 すずき」の極上バームクーヘン。今日はクリームチーズ味。昔、私も行ったことがあるけど飯能銀座通り商店街の入口の老舗。飯能は日帰りで遊びにいくにはちょうどいい。と書きながら思い浮かぶ景色が秩父と混ざっている。両方西武線の観光地。西武線の特急が好き。

昨日も作業が進まなかった。初回面接を検討する少人数のグループはとってもよかった。ある程度経験のある人がまだそんなに経験のない人に自分の通ってきた道を思い出しながら、しかもまだまだ遠い道のりを教えるのではなくて一緒にいい感じにしていこうという感じで丁寧に言葉を使っているのがとてもよかった。偉そうに言えば成長を感じた。私はもう指導的な立場になってからも長いけど自分の場合は老いを感じる。まあ成熟とでも言っておこう。この仕事は極めてロボット的なところがあること、理論ではなくて患者の言葉に対して極めて論理的であること、直観は才能っぽいところあるけど地道に基礎を辿る臨床をしていれば起きることにそんなに差異はないということ、なども話せた。

今日はどんな一日になるのかなあ。雨降ってる。ひどくならないといいけど。気温はこのくらいなら着込むほどでもなくていいかな。気をつけて出かけましょう。

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秋空、ジョン・バティステ、書評

曇。空が薄くて高い。のっぺりした感じはない。どこまで行ってもなににも触れることのできない空間がずっと広がっている。大地からはいろんなものが空に向けて伸びているけどほんのほんの一部。すごーく下のほう。人がいる大地に爆弾を落とす飛行機の高さも大したことない。人間のやることなんて大したことないのにどうして人を殺せるのだろう。個人として見ていないからだよね。その人の属性が自分にとって異質だと許せないんだよね。しかもほとんど思いこみで。いろんな鳥の声。雀とカラス以外にも椋鳥とかヒヨドリとかいるのだろうけど声で区別ができない。ジョン・バティステ(Jon Batiste)がグリーンディ(Green Day)のHolidayに合わせてピアノを弾いている映像がインスタで最初に出てきた。すごい。はじめて聞く曲にこんなふうに即興で。彼の声はほんと独特でそれだけで物凄いインパクトある。昔と声の出し方もかなり変わっていると思う。偉大な宗教家のイメージ。繊細なカリスマという気もする。映画『アメリカン・シンフォニー』を見たからかな。

昨日はやっと書評を送ることができた。ラカン派の勉強は大変だった。私はラカン派が批判の対象としがちなIPAの分析家だけど仲良く議論していきたいもんだわ。IPAの分析家が制度に依存してガチで精神分析考えていない感じがいやなんだろうね。そんなことないよー、と言えるようにがんばらないと。感想文のような書評になってしまったけどラカン派をほとんど読んでいない人たちに一緒に読もうという気持ちでは書いたよ。分析協会のほうでも書くものがあるのだけどそっちはこれから。締切間近だからすぐ頭切り替えないとだけど無理でした。ということで敬愛する水村美苗の『大使とその妻』を読んでいた。最初から小さい驚きがたくさんで細やかな描写にいちいち心打たれている。大事に読みたい。やることやりつつ。はあ。がんばりましょ。NHK俳句も見るかな。どうぞ良い日曜日を。

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考察、電話、デミアン

曇。今朝は色々順番が違う気がする。何かが困るわけではないけど寝不足で少し調子狂ってるかも?何をしていたわけではないのに。

今年、学会発表するのだけど私史上最速で書いた自分の抄録の考察の少なさに笑ってしまった。私はわりといつも考察短めだと思うのだけどそれにしても、と。自分的にはずーっと考え続けて何度も同じところに戻ってきてそういうものを書くからさらっとしてしまうけど次回からもうちょっと書きましょう、と思った。あと時間をかけて書きましょう。丁寧に。俳句も。

なんかよくわからない出来事が多いというか人にはいろんな思惑があるのだな、というのはわかるがわかりにくいそういうものに関わっている余裕はないのでぼんやりしたことには関わらないようにしている。必要だったら留守電いれるでしょう、みたいな気分。最近は電話使わないね、本当に。家の電話で長電話して叱られる体験ってもうないのだろうね。映画や小説には残るだろうけど。平和、だったのかも。束の間のコミュニケーションの時代。戦火が飛び交ってる渦中の人が携帯電話でそれを映し助けを求める。そういう切迫感はすぐに届いてすぐによいことがなされるといい。

家の電話で長電話してた頃にヘッセの『デミアン』も読んだ。衝撃的に面白かった。戦争も精神分析も経たシンクレールもといヘッセ、いや、デミアンはシンクレールにいう。

「おそらく非常に大きな戦争になるだろう。しかしそれも始まりに過ぎないのだよ。新しいものが始まる。新しいものは、古いものに執着する人間にとっては恐ろしくなるだろう。」

今思えば精神分析的な思考を私は文学作品からものすごく取り入れていたのだろう。

「なんじがあるところの一切、なんじが意志するところの一切、なんじがしなければならぬことの一切はは、自分自身から出発する。」
「おのれにかえれ」「自然にかえれ」

さあ、今日もまずは自分。がんばろー。

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金木犀、金平糖、「現実界」

雨。音が強まったり弱まったり。降ったり止んだりみたい?寒くはない。昨日もノースリーブに薄いカーディガンだった。それでも途中暑くてでもこの時期に袖なしも変?と思って脱ぐのではなくて腕まくりしてた。難しいわ。もう十月も後半というのに。急に寒くなるとかしないでほしいな。オフィスに上着が溜まっていく。朝寒くても夜は全然、みたいな日が続くと着て帰るのを忘れてしまう。今日はどれか着て帰ってこよう。金木犀は一気に香らなくなった。一気に香るものはそういうものなのかしら。オレンジの小さなお花がまだいっぱいついている時から香りはなくなってた。今はその色に地面を染めてる。この雨できっとぺったりになってる。誰かが金平糖みたいなお花と書いていて本当にそうだなあと思った。多分何度もそのたとえって聞いたことがあるのだけど金平糖というのがいいのよね。食べ物としては苦手、というかパクパク食べるものでもないのだろうけど旅先とかでつい見入ってしまうお菓子でもある。お茶をしている身内には金平糖とか色々かわいい干菓子がセットで入っているのをお土産にすることが多い。金平糖の形、あの突起がついているだけではきっとダメなんだよね。私は苦手なあの砂糖っぽい透明さがあるからあんなかわいいんだよね。とってもきれいでかわいくていただいても嬉しいのだけど食べる気にならなくてずっと冷蔵庫に入っていることとかある。私もお茶を点てていただけばいいのよね。身内だから習うという手もあるけど時間を割く優先順位を考えると上位にはこないなあ。筋トレは上位にくるからトレーナーさんについてもらってるけど。座ってるの苦手だし、やったことあるけどあまりに不器用で手順も全然覚えられなくてダメダメ生徒になるのが目に見えてるしね。やっぱり点てていただくのがいいわね。金平糖がちょっとだけ入っている干菓子セットをお持ちしてお願いいたしましょう。はっ!私はラカンの現実界について書く気満々でいたのにこんなことをつらつら書いてしまった。やっぱりフロイトの『心理学草案』がもとになるんだよ、ということで来年、私のリーディング・フロイトではそれにトライ。私も勉強中だから値段も下げる。精神分析は「意識」の外で働く「無意識」についてずっと記述し続けてきた。ラカンはそれを精読したどり直すことで再定義していく。そこから「現実界」が編み出されていく。フロイトはエネルギー量の制御のために「自我」の機能を語ったけどこれだってラカンにとっては「意識」ではない。フロイトははっきりそうは書いていないと思うけどその辺もチェックしないとね。ラカンは無意識概念を再定義する中でフロイトの「原抑圧」の概念を使う。無意識の中にさらに無意識を読み込むわけだ。この辺はメタサイコロジー論を熟読しながら辿った方がいい部分。十川先生の訳が文庫で出たのは本当によいことだった。すぐに戻れる場所という感じ。私は精神分析を精神分析家としても患者としても体験してきたわけだけど現実界って感覚的にはすごくよくわかる気がするんだよね。そこにあるものだよね、ないんだけどあるんだよね、あるいはかつてあったんだよね、という感覚で捉えている。そこに精神分析が歴史を大切にする理由もあるわけで(痕跡でもあるから)精神分析は子供の頃のこと根掘り葉掘り聞いてそこに原因を見出す、みたいな話ではないのですね。意識を扱っているわけではないから。だから夢や夢と同じものとして捉えられる分析状況が大事になる。それをどう作り出すかそこで何をしていくかとかもそこから始まる問いになる。などなど色々確認しながら進みましょう。今日もがんばろう。

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蚊とか。

秋の朝の空の雲の美しさ。知らない人の足音のひとりひとりの違いの判別。単に「の」をたくさん使いたい気分。今日も薄着で大丈夫そう。薄着でいられるのはいいけどまだまだ毎日刺されてる、蚊に。長いスカートの日も足首を刺される。なんなんだ。もっと楽に刺せる人おるでしょう。でも蚊にとっては大きなスペースなのかもね、長いスカートと足首の間。しっかし小さいのに威力あるわ。

秋の蚊のよろ〳〵と来て人を刺す 正岡子規

秋の蚊は季語。秋の深まりととも弱々しくなるというけどもたもたくるわりに逃げるのも遅いから結局居座るみたいになってこっちが刺される。むー。

前にここで(あ、なんか急にフォントが変わった。どう反映されるかわからないからこのままにしておこう)フロイトとラカンの「愛」について書いた。最近ラカンをたくさん読むようになって十川幸司&立木康介がいうようにラカンは本当に愛の分析家だった。愛といっても日常で使う愛ではなくて。

そうだ、原稿書かなきゃ。なんでいちいち忘れるんだ?締切間近なのに。意味わからん。がんばろう。気持ちいいお天気になるといいね。昨日は変なお天気だった。どうぞ良い一日を。

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秋、外ごはん

東京の日の出は5:55。まだまだ暗い。今日は曇のち雨みたい。朝焼け見られないかな。カラスが鳴いとる。みんな朝早いね。昨日の空はこれぞ秋空という感じでずっと眺めていられた。オフィスのそばの玉川上水旧水路のベンチも公園も人がいっぱい。ひとりで何か食べている人や三人でお弁当食べている人やはじめて会ったらしい犬にすっごく懐かれている人やその犬や「幸せねえ」と声をかけている飼い主さんやビニールシートから元気に立ち上がる子どもとか木陰でバイクを止めて何かしている人とか。犬にすごく懐かれていた方とお連れの方は民族衣装なのか全身オレンジで遠くからみたらオレンジの三角コーンとオレンジの金木犀が連なっていて素敵だった。はじめての相手にこんなにすりすりするものなのかぁ、かわいいなぁ、とグレーのモジャモジャの小さい犬に優しい視線と声かけをしているみなさんの会話を聞きつつ通り過ぎた。玉川上水もいつもいく新宿中央公園も西新宿のビル群も座るところが多くていい。外ごはんに最高の季節でしょう。今日は雨で無理かもしれないけど最近外ごはんしている人がとっても多くてなんか楽しい。気持ちいい空の下で色づきはじめた木々を眺め穏やかな雰囲気を感じながらのんびり食べられたら時間としては短くても心洗われる。私もこの前キッチンカーでアジアごはんを買って公園のベンチで食べた。少し離れたところでくつろいでいた人が雑草のお掃除をするからと移動をお願いされてて私もそのうち移動しないとかなと思い前もって近くのビルのベンチにできる場所へ移動。そこにも人がちらほら。ありんこが近くまできては何にもありつけずうろうろしていたおいしかったな、あのキッチンカー。8種類くらいから4種類選べるアジアンセットみたいなのにしたんだけどどれも美味しくて豪華だった。でも最近はキッチンカーも高いね。物価高いから仕方ないのだろうなあ。一人でやるのも大変だろうし。

昨日、隙間時間に書き物を少し進めたんだけど、ちょっと本を見返したらなんか全然違う理解が生じてしまって書き直すことになりそう。急に「ああ、こういうことが言いたかったのか」ってなることないですか。なんか急に別のまとまりが立ち上がってくる感じ。これが誤読じゃないとありがたいのだけど私の限界ってことでこれでいこう。もう新しい理解生じてこないでね。書き直す暇ないから。つらいよー。今日も長いぞ。がんばろう。どうぞよい一日を。

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柿、懸濁など。

朝焼けが今日もきれいだった。今は随分秋の空。もう暑くなることはないかな。今の空もきれい。鱗雲だ。

柿が結構熟してて剥きにくかった。でも甘くて美味しかった。ちょっと小ぶりだったからずっしり大きな柿も食べたいな。そういえば私が通るような道には大きな柿はあまりなっていない気がする。柿の大きさって何によって決まるのかな。スーパーには大きなのも売ってるけど。もう少し注意深く柿の木観察をしてみたら意外と普通になってるかもね。

この前、「懸濁」って書いてある目薬をもらった。「懸濁」という言葉は普段は使わないねえと話した。薬剤師さんはしょっちゅう使うそう。「よく振り混ぜて点眼」とも書いてあった。今気づいた。注意書きは注意が向くきっかけがないと気づかないもんだね。自分で「よく振る!」とかマッキーの細い方で書く方が絶対忘れない。大体、今は老眼で小さい文字が見えないしね。まあ、口頭できちんと説明もしてもらって「懸濁」という文字のインパクトで覚えていられるけど。

この前、ラカン派ではないフランス精神分析の勉強会でウィニコットの父軽視について話したのだけど精神分析でいう父母って実際の父母をそのまま指しているわけでは全然ない、ということが精神分析を勉強している人の中でもわかっていない人が多いのではないか。逆に本当に実際の父母だと思って読んだらこんなの絶対変だよ。ラカンを読んだ方がそういうことは自然にわかるかもね。想像と象徴の絡み合いで説明できるから。そういえば昨日も隙間時間にラカン読んでてラカンはこの時期この言葉使わなくなってるんだ、そういえば、ということに気づいて書いている文章を修正したりしてたんだけど理論は個人内でも当然変わって行くもので同じ言葉が違う意味に使われるようになったりその言葉は絶対に使わないというこだわりがあったり、ラカンだったら造語も多かったりしてそこが面白味だからフロイト、ラカン、クライン、ウィニコット、ビオンは基本的なものとして時間かけて読んでいきたい。私はクラインとラカンが足りないな。クラインもかなり読み込んだ時期があるけど忘れてしまってるし。忘れたとしても訓練入る前にいっぱい読んでおいてよかった。今は時間がない。隙間時間に読むとつながりがつく前に時間切れになるから何度も同じところを読むことになってしまう。社会は教科書の最初しか詳しくなかったのを思い出す。周りで社会大好きっ子がいて朝、社会の教科書を読む余裕があった日は「今日はいい日」ってなるんだって。今ならわかるのだけど子供の頃は私は教科書でそんなこと思ったことなかったな。国語の教科書だけは渡されたらすぐ全部読んでたけど。あと道徳。道徳を学んだかどうかは相当疑問だけど読み物は好きだったな。社会の教科書もそのノリで読めたらよかったなあ。後悔、したところでねえ。今クイズとか出されても知らないことが多いけど今はとりあえず勉強はなんでも楽しいってなってる。いいことだ。今日もがんばろう。

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ヌバイア、週末

朝焼けがきれい。南側の大きな窓をそっと開けたら冷たい風。そっと閉めた。隙間くらいを残して。キッチンの窓を開けたらやっぱり冷たい風が足元にスーッと入ってきた。こちらは開けっぱなしにしてハーブティーを入れてお菓子を準備。時折鳥が鋭く鳴く。友達に渡しそびれたチョコがここに。でも今日も「箱根の坂」。河口湖のお土産も増えたけどそちらは来年まで持つ、といっても来年もすぐそこ。ああ、と少しどうしましょう、という気持ちになるけどこんなのもう何度目?という感じなのですぐに落ち着きを取り戻す。やることやりなさい、と自分に言い聞かせつつ。

今日はヌバイア・ガルシアの番組がbbciplayerであるらしい。ヌバイアのインスタで流れてきた。日本からは見られないけどウェブサイトだけみた。と思ったらYouTubeで見られた。番組の全部ではないかもしれないけれど。素敵だなあ。放っておいたら2020年のTiny Deskのヌバイアも自動再生。このアルバムもかっこよかった。ヌバイアの確かな意志は音からしっかり感じ取れる。話し方も好き。静かなリズムがずっと流れている感じ。これをやり出すとあっという間にこんな時間なわけですね。いかんいかん。

週末はいろんなことが詰まっていた。身内でも友人でも知らない人とでも個人でも集団でもいろんな風に会っていくと常に新鮮な気づきがある。別れたあと、振り返るようなメッセージを送りあいながら素敵なセリフの数々を反芻したり。誰々が何々って言ってたよ、の中身が喜びにつながる言葉ばかりだとしみじみ嬉しい。本当にそうだなあ、という言葉たち。「夕陽がきれいに見えるからカーテンを開けよう。」と閉め切ったカーテンを開ける瞬間をみんなで共有するとか。小さい子の不調にみんなが静かな注意を払って小さな声で時折何かいうとか。今日もあったかい瞬間がたくさんあるといいね。寒くなってきたから冷たい言葉はなおさら聴きたくないもんね。暑い時は大体の言葉を受け取る余裕が減っているという思うんだよね、相対的に。そんなことないか。適当なことを書いていないでもう行きましょう。どうぞ良い一日を。

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10月20日

風がある。窓から顔を覗かせると少し寒い。部屋は暖かい。まだ何もつけなくても大丈夫。昨日はノースリーブに七分袖カーディガンを羽織っていた。10月後半でそんな服装なんて。今年は全然わからないなと思って重ね着するための夏服はまだ片付けていない。片付けてもすぐそこにあるけど。気温差があるからリュクに小さくたためる上着も持ち歩いてるけどこのくらいの薄い重ね着でずっと過ごせたらいいのに。一番楽なのは袖なしだけど日光で肌がボロボロしてしまう。どの時期も肌に色々あるわん。

今日はいつも以上にぼんやり。NHK俳句は「栗」。栗おいしいよねえ。でも外で食べるかお裾分けしてもらうか買うかばかりで自分で茹でないなあ、栗。今年の夏は枝豆も茹でなかったしなあ。青菜は茹でるけど今年は電子レンジ使ってる気がする。今はパスタも少量の水で茹でられるし。パスタもうちで作らなくなったなあ。まいにちのようにパスタ作っていた時期もあったのに。お水をたっぷり使ったあと捨ててしまう(きっと捨てずに有効活用している人もいる)お料理ってほかに何があるかな。冬って水いっぱい使うけど捨てないお料理ばっかり。おでんもお鍋も。やっぱり温まるには水分大事。

この前、テレビで『アリス・イン・ワンダーランド』を少し見た。赤の女王、とってもかわいくて笑ってしまう。白の女王はアン・ハサウェイ。何みても超魅力的。演技力だなあ。ティム・バートンの世界にピッタリだった。ミュージカルもやるんだよね。みたい。何かで見られるのかな。私はそういう情報を探すのが下手すぎる。精神分析の文献以外全然上手に調べられない。というか精神分析のはひたすら量にあたってるうちに出会っているだけだから何も上手じゃないか。

いいかげん終わらせねばな仕事が二つ。10月いっぱい。移動が長いからそこでがんばるか。ああ。難しいんだよなあ。道は見えてきた気はするけど。ま、がんばりましょ。風邪ひかないように服装気をつけて過ごしましょ。良い一日を。

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今日は全然風がない?東の空の低い位置に雲がお釈迦様の寝っ転がり姿みたいな形をしている。涅槃仏雲、なんてないだろうねえ。こう考えると雲の名前ってうまくつけられている。動いて形を変えるものを名づけるのって楽しいけどそれなりの時間はその形でいてもらわないと固有名詞にはなりにくいものね。子供が空を見上げるたびに「きょうりゅう!」とかいう感じで瞬間瞬間を楽しみつつそれがゆったり姿を変えていくたびに名前を変えるのもいいけどね。今書いてて思ったけどあの子たち(保育園で見てきた子たち)、雲を恐竜っていうこと多かったような気がする。でもそれよりお空に飛行機を見つけるほうが早くて多かったかな。大人よりずっと早く飛行機の音に気づくから先生たちといつもびっくりした。「コーキ」「うん?なに?」「コーキ」目線の先を見ると音が聞こえはじめる。「あ、ヒコーキ」空を見上げたままうんうんうなづきすぐに空を指差す。「ヒコーキ!」とみんな口々にいう。東京の飛行機は最近低いところを飛ぶ。音も大きい。でも彼らは大喜び。遠ざかっていく飛行機が見えなくなるまでずっと見ている。そういえば飛行機雲というのも素敵な雲だね。子供の頃、不思議で不思議で消えてしまうまでずっと見ていた、いや大抵は消える前にうちについたり授業が始まったりしていた。でもふわぁって消えるときもあるよね。空がのっぺりしている。私の涅槃雲はどこへ?朝の東の空って特別な色と景色。南側の大きな窓のカーテンを開けて窓を開けてまず左方向を眺める。そして毎日小さく感動する。すぐに全体に溶けてしまうけど特別な時間。そういえばもうあと二ヶ月もしたら「初日の出」とか言い出すのかしら。年末年始は大体南の方で過ごすけどあまり初日の出に関心がないなあ。旅先では早朝から散歩しているから場所によっては会えるね。

今朝は朝なのにナイトタイムというハーブテイーをいれてしまった。昨日はお天気のせいか体調がガタガタだったからとりあえずカフェインを避けている。でもリラックスしすぎて仕事を忘れないようにしないとだわ。大丈夫、普通忘れない。お菓子は箱根のお土産、菓子処「ことほぎの木」の「箱根の坂 」。定番お土産。今日はいちご味。かわいくて美味しい。

飛行機の音!と思ったけどこれコロコロの音かも。この時間、キャリーバッグをコロコロさせていく近所の人がおられるの。普段使いみたい。私はお仕事に行きましょう。みんなも元気で。

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満月、白湯、李禹煥

窓を開けたら涼しい風が入ってきた。お布団は厚くしたけど服は夏のままでまだ大丈夫。朝はバタバタ動くからなおさら。今日の空はどんな感じになるのでしょう。昨晩は満月がピッカピカで信号待ちで空を見上げてたらいつのまにか隣の人は先に渡っていた。知り合いでもないのに追いかけるように渡った。帰り道はいつもみたことあるような人たちと信号待ちになるのだけど昨日は全然違った。いろんな人がいた。まだみんなシャツ一枚とかで薄着で金木犀が咲く頃はこんな服装だっけと思った。

最近は白湯がちょうどいい。とはいえ冷める前に飲んであちちっとなるのもいつものこと。私の美容師さんも同じことやるって言ってた。なんか待てないというか熱いの飲みたいんだよね、火傷するのに、と話した。

先日、千葉市美術館で思いがけず李禹煥の作品「刻みより」にあった。もうすごく前だけど高松の友達と直島の李禹煥美術館に行って大好きになった。あそこは安藤忠雄建築で作品とすごく合っていた。寄せ付けない感じとウェルカムな感じの両方を受け取った気がする。もっと別の言葉で友達には伝えたのだけど。李禹煥の作品にも似たような印象を持つ。「刻みより」は木の板の表面にたくさんの削り痕を残した作品なんだけど傷痕には見えない。むしろ森の樹の肌みたいな歴史と温もりを感じた。直島に行くフェリーにもまた乗りたいな。約束の場所とは違うフェリー乗り場で顔を覗き込まれて久し振りに会う顔に一瞬戸惑ってびっくり嬉しかった。友達は何度も直島に行っているのでいろんなところを案内してくれた。海も山も細い道も家も島の公共施設もバスも点在するアートも美術館も全部楽しかった。タオルを首に巻いて歩くことの楽ちんさも覚えた。今日はストール持ってこうかな。喉のいがいが一歩手前な気がする。まずい、と思ってすぐに気をつけると翌日は治ってるという繰り返し。ぜひこのままいきたい。白湯は白湯として熱いまま飲まないようにしよう。今日もいろんなお話をいろんな風に聞けますように。

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「にらさき咲咲」とか。

空が暗い。雨は降っていない。鳥たちが今日は遠い。少し前と同じ遠さ。ここ数日、どうしてとても近い場所で鳴いていたのだろう。そういえば大学の森も動物園の森も鳥たちがたくさん鳴いていた。高いところで。きれいな声で。森の鳥は姿は見えない。都会の鳥はすぐそこに見える。

山梨県韮崎市本町の「洋菓子アルプス」の大村智博士ノーベル賞受賞記念クッキー「にらさき咲咲」をもらった。大村智博士は韮崎市生まれとのこと。新型コロナの時に「イベルメクチン」が話題になったけどあれを開発した人。私設美術館も持っていたのね。すごい。今は韮崎市に寄贈されたそう。「洋菓子アルプス」さんの前を通りかかったら「にらさき咲咲」の試食をどうぞってしてくれたんだって。そして急にノーベル賞とっちゃったから最初は(プリントではなく)シールだった、などのお話も聞かせてくれたそう。お土産も嬉しいけど土産話はどこのでも面白い。私も知らない街でお菓子屋さんを見つけるとそこで一番有名なお菓子を一個だけで悪いかなと思いつつ一個だったりひとパックだったり買ったりするのだけどそういう人は地元の人じゃないな、とわかるのね、多分。どっからきたの、と聞かれてお茶とか出してくれることもある。そういう場所で聞くお話はとっても興味深い。今までで一番面白かったのはどこかなあ。花巻で宮沢賢治ゆかりの場所を回ったときは結構いろんな人にお話を聞いたけどあそこはすごく観光地だし話したいことたくさんだ、きっと。すっごく入りにくく出にくいところもあったな。どこだったか・・・。たまになんかいい感じと思って入ったカフェでお店の人にまさかお客さんがくるなんてという感じで驚かれることがある。あれも面白い。大慌てで材料買いにいったりね。お手伝いしますよー、と元カフェ店員の私は思ったりもする。

さあ。今日も長い。頑張りましょう。

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朝焼けがとってもきれいだった。あっという間に薄くなってしまうけどそのあとに広がる水色もきれい。今日は少し雲があるかな。最近、鳥たちが近い場所で賑やか。生活の仕方を何か変えたのかしら。柿をスルスル剥いて食べた。小さな柿。鳥たちも木の実に合わせて活動しているのかも?

gmailの調子がずっと悪い。フォントが変になってしまうし、iphoneだと立ち上がらないこともある。フォントはgmailに限らずか。改行やコピペすると大文字になったりする。画面上ではわからないのだけど送信したあとの画面でわかったりする。困った。

ポムポムプリンとコラボしたチロルチョコを食べた。生姜紅茶と。冷蔵庫にはチロルチョコがいっぱい。一個で十分すぎる甘さ。

ラカンを読みながら言語と身体、欲動と情動について考えている。精神分析は言語が治療に役立つと信じているというか大体の治療法はそうなわけだけど言語の効果をどこまでも探求し続けているのが精神分析。ペラペラだけど上手なおしゃべりに癒してもらえる部分、というか人が受け入れやすいのはそういう形式のものなのでそれはそれで大事で、患者さんでもそういう本などをお守りにしながらそれではどうにもならない部分をどうにかしようとやってくる。どっちも必要。いろんなものが必要。こっちの人とは気づかなかったことがこっちの人となら気づくという感じで人はいろんな人の間でいろんな出来事を体験していく。もちろん周りに誰がいてもいつも同じ反応ばかりしている場合もある。人の心はたやすく侵入されたくない部分も持っている。一方、誰かにたやすく明け渡さない自分で大切な人を大切にしていくには誰かと密な体験を積むことが必要なので侵入が避けられることはないといっていい。キレイゴトをいうのは簡単。自分はいつも「正しい」側にいるというのが前提のような言葉って簡単。でもそれは相手と距離が確保されているからたやすいのであって密になってくるとそういう言葉は薄っぺらくなる。だからレトリックに走る。書き言葉だとちょうどよくても目の前の相手には嘘っぽく聞こえる。それを語り方で調整しようとする。私もそう。自分で話しながら嘘っぽいなあと思うときがある。そういう時は通じていないのが助かるけど。もし私に権威があったらどんな言葉も通じる言葉に変換されてしまうかもしれない。臨床続けている限り気づくことはできると思うけど。精神分析家の場合、理想化されるのなんてほんのひとときで頻繁に会って同じこと繰り返していればお互いにお互いに侵入的になることもあるしいろんなことが起きる。何度もやり直す。先のことはわからない。生活と同じ。なんなんだろうね、楽になっていく感じって。今日もあれこれ頑張りましょ。

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千葉へ

突然千葉へ行った。数年前まで高校のスクールカウンセラーをしに千葉へ通っていたがそれ以来。あれからもう何年が過ぎたのだろう。千葉のそごうはまだ残っている。周りも栄えていて特別感がないのがかえっていいのかもしれない。先日、上野で田中一村の展覧館に行ったが千葉市美術館所蔵の絵も多く飾られていた。一村は奄美大島に向かう前に千葉に長く住んでいた。その時期の絵も素晴らしく、上野へ貸し出されていない作品を千葉市美術館で見ることができた。こちらの方は人も少なくゆっくり見ることができた。やはり一村の絵は時間をかけて見るのがいいような気がする。企画展「Nerhol 水平線を捲る」もとてもよかった。千葉市美術館コレクションとのコラボレーションもやっていて李禹煥、ダン・グラハム、菱川師宣、恩地孝四郎などまで見られて嬉しかった。モノレールで千葉市動物公園にもいった。園内案内マップがシンプルすぎて面白かった。ちょうどクラフトビールのイベントもやっていて賑わっていた。ここはレッサーパンダの風太くんで有名な動物園。あれは2005年のことだったのね。もう21歳で国内最高齢らしい。小屋の中で丸まっていた風太くん、動物園の生活でなかったらどんな感じの生活だったんだろうね。動物たちをなんとなくかわいそうに思いながらも見始めると離れることがなかなかできなかった。なんでこの動き、あ、飼育さんがきたのか、とか彼らの行動をずっと追ってしまう。細かい動きもとても興味深い。動物行動学とか本当に面白いだろうね。私もそっちを選んだ生活だったら今とは全く異なる生活だったのだろうね。いつもと違う環境に出向いたせいか昨晩は目が痒くて起きてしまった。花粉もあるのだろう。金木犀もようやく強く香り始めた。眼科にいくか迷うな。今日は火曜日。無事に過ごしましょう。

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言葉とか。

早朝、鳥たちが面白いほど賑やかでずっと声を聞いていた。カーテンをそっと開けて覗いたら番いがみえた。何を伝えているのだろう。『葬送のフリーレン』で魔族が使う欺くための言葉というのがすごくよくて、というか、なるほどと思って、ひとつひとつの単語の重みとかその言葉が無意識に作用する力について考えていた。いつもそんな間にブログ書いてるんだけど今日は祝日と気づき二度寝した。二度寝する前に洗濯機かけておいたから干した。いいお天気。

私はかなり意識して使う言葉というのがあるけど「気持ち悪い」とか「シスターフッド」がそうかな。「気持ち悪い」は明確にネガティヴさを伝えるために意識して使うし「シスターフッド」は本当に貴重なものとして使う。とこれはフリーレンを見たからではなくSNSを見たから思ったことなんだけど、なんにしても人が使う特定の言葉だけに敏感に反応する世界になったもんだ。長い文章、長いやりとり、お互いの間に紡がれるものとしての言葉の力とはまったく別の力に脅かされたりそれによって争ったりするなんてしたくない。なんかそういうつまらない反応で使えなくなった言葉って結構ある気がする。もちろん使い続ければいいのだけどたやすく反応されることがわかっている言葉を使うのはめんどくさい。その点、「気持ち悪い」という言葉が持つ普遍的な嫌な感じはすごいね。できるだけ人に対しては使いたくないけどね。

隣に積まれている分厚い本たち、どうしましょ。私は読んでもすぐに忘れてしまうからなあ。昨日の課題テキストも既に読んだことがあるものだったのに勉強会があることから忘れていてお昼いつもよりいっぱい食べちゃって眠くて最後の方でようやく覚醒してKindleに似た文献あったかなあ、とチェックしたらその論文そのものが入っててもう既に読んだことあるやつじゃんと気づいてしかもめっちゃ線引いてあるじゃんと知ってやっぱ自分信用ならんわってなった。とりあえずフロイト『心理学草案』読み直さねばと思った。

どうぞ良い一日を。

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同窓会

地震で起きた。被害はなくともこれまでの体験や感覚の違いが地震のあった今日を形作るのだろう。疲れが残りませんように。

昨日は大学の同窓会だった。昨年から再び繋がりはじめた同期と「変わらない」と言ってしまうことに笑う。老眼や更年期の話をしてしまうことに笑う。「こっちはもうそのターン終わった」など。長年生きていると色々あるね、と笑う。コロナが私たちに繋がらねばという切迫感を生んだのはある。無事でよかった。色々あっても無事でよかったと思う。最近、肉親を見送ることについて別の人とも話した。私よりずっと年上のその人の死を私は意識しているけれどその人は亡くした肉親の話をしていた。長生きしてくれたおかげで楽しく見送れたというような。時間があるというのは辛いこともあるけど時間のおかげで変えられる認識もある。私は精神分析において精神分析家が長生きするという誰にもどうにもできないことがもっとも重要だと思っている。常に死を考える。その中でなんとなく生かされている。大切な人たちをどう大切にできるかというのは瞬間瞬間の行為であとから相手が判断するもの。それが失敗だろうとなんだろうと相手に委ねることが大事なんだと思う。時間をかけて紡いでいかれるものを大切に。みんなといろんな話ができて本当によかった。小さな女子大がいつまで生き残れるかは深刻な問題だがあれだけ恵まれた環境が失われるとしたらそれこそ学問の敗北だと思う。児童文学、児童文化、発達心理学と錚々たる先生方から自由に、多様に学べた体験が今の私を生かしているという実感があるだけに静かに制限なく好きなことを学べる環境が守られることを願う。

ああ、昨日はいっぱいお菓子も持ち帰ってきた。その中からクッキーとラスクを紅茶と。美味しい。ホッとする。あとでお礼のLINEをしよう。今日もいいことありますように。

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おはよう。早起きをしても家事したりぼんやりしたりしているうちにどんどん時間が過ぎる。空がきれい。水色のバリエーションは多いね。昨晩、空に何もないと言いながら空を眺めてるうちに星をいくつか見つけた。冬の星座になっていくね。いつもの道のどっかの鏡状のところに月が映った気がして空を探したけどそこが狭い道で空が狭くしかみえないからではなく多分あの角度で映り込む月などないから月ではなかったんだ。どうしてすぐに視覚にとらわれるのかしら。大体どこで見たのかもあっという間に忘れてる。月は今どこかしら。というより地球は今どんな感じかしら。今日も晴れらしい。嬉しいな。

最近隙間時間は乱読ばかりでラカンとラカン派の本を読むのをサボっていたのだけど再び読み始めたら数ヶ月前よりだいぶ読みやすく感じた。ラカンを読むとキルケゴールを読みたくなる。ラカンと中世の思想はとても面白い対話になっていてもっと勉強したくなる。デリダとの論争はお互いどこを目指してるのかわからなくてあまり面白くないと私は思う。

今すごく羅列的にいろんなことを書こうとしてしまったけどそういうときはやめるにかぎる。私の場合。今日はいいことある予定。みんなにもいいことありますように。

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いいニュース

起きてすぐにカーテンを開けた。窓も開けた。東の空がきれい。この色はすぐになくなってしまう。

昨晩、オフィスを出て携帯を見たらノーベル文学賞にハン・ガンとあってびっくり!すっごく嬉しくなってハン・ガンの作品を日本に広めてくれた人たちにもすごく感謝したくなって涙が出そうになった。私は賞にあまり関心がないと思っていたけど自分でも不思議なくらい嬉しかった。韓国文学の歴史はあまりよく知らない。私が読むようになったのはここ3年くらい。このブログでも数冊感想を書いていると思う。韓国は日本とは異なる深刻な問題を色々抱えていることもそれらから学んだし学生時代、ケンブリッジの寮で仲良くなった同世代と少し上の韓国のみんなから教えてもらった韓国の風習は本の中にもあった。私は韓国文学独特のユーモアが好き。シニカルぎりぎりの内省的な一人語りも好き。会話のテンポも好き。すごく悲しいのに力強いのも好き。これを機に盛り上がり続けてほしい。

学会に向けて苦手な新幹線のチケット予約を完了。今回は司会の仕事はないけど別の役割と発表がある。それ以外はどこへいこうかな。俳人がよく使っている店や庭園には行きたいな、とは思っている。精神分析も学術的な議論が盛り上がればいいなと思う。

学びの多い毎日だが頭を抱えたくなる問題もある。抱えるほどではない。水漏れもシャワーホースの交換をしてもらって直った。一気にやってきた寒さにもなんとか対応。「先生には辛い季節になってきましたね」と言われた。寒がりすぎなのを大体の人は知っている。あったかいお茶がとても美味しい。近所の美味しい和菓子屋さんのお饅頭も美味しかった。今日も昨日みたいな素敵なニュースと出会えるといいな。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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すべきでないこと。

まだ夜を残したような雲もあるけどすでに朝日を含んだような雲もある。隙間を埋める水色がきれい。

知らない人の咳が聞こえる。急に寒くなって体調を崩している人も多いかもしれない。鳥たちは元気かな。

昨日は五ノ井さんがカウンセラーの資格をとったという声に対する心理士・師たちの助言?に驚いた。世界で認められるほどに闘い抜いた人がさらなる努力をして得たものに対して、その喜びに対してなにをいっているのかと目を疑った。私は知らないアカウントの人たちなので誰か身近な人がいいねしたからタイムラインにあらわれたのだろう。いやな気分だ。他人の人生に対して自分の価値観を押し付けることに自らが抵抗するすべをもとうともしない人たちに五ノ井さんは傷つけられ大切な時間を奪われたのではなかったか。人は反復する構造に傷つけられる。人としてすべきこと以前にすべきでないことがあると私は思う。

先日ソメイヨシノが咲いていたと書いたが同じことをいっている人をみかけた。やっぱりそうだよねえと思った。金木犀の香りがうっすらとしかしない今年、地球どうなってる?フロリダには巨大ハリケーンがきてるというし。注意を向けるならこっちだろう。被害が出ませんように。

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冬景色へ。お菓子と紅茶。連鎖。

昨晩は寒かった。部屋の中も少しずつ冬景色になる。膝掛けとかが増えていくから。グラスよりマグカップになるし。出しておいたけどあまり使わなかったガラスのお皿もしまおう。昨年は枝豆によく使ったけど今年はほとんど茹でなかった。雨の音がずっとしている。能登を思う。何もできないのにただ思い浮かべて、映像をみて、何もしていないことを自分も政府と同じだなと思う。できることをどんどんしていこう。

朝は紅茶と文明堂のカステラ巻き、ハニー味。ハチミツ大好き。お料理にも使いたいけど買ったら買ったで使い切れる気がしなくて買っていない。固まってしまうと厄介だしこれまで幾度となく失敗している。それにしてもこのカステラと紅茶、どちらも美味しいがなんか合わない。別々だとたしかに美味しい。この紅茶が不思議な美味しさだからなんだろうなあ。これだけでメインという感じ。中国茶みたいな硬い茶葉というか中国のなんだけど中国語で書いてあることが自動翻訳でもよくわからなかった。「紅茶」と書いてあるからそうなのは間違いないのだけどこういう茶葉の紅茶もあるのだね。お店もどこのなんだろう。置きすぎちゃったと思っても出過ぎないし、とっても美味しい。また出会えるといいなあ。

被災地支援はスムーズになされないけどネガティブな感情の連鎖はたやすくなされる。どうして他人に起きたことにたやすく便乗するのだろう。どうしてそれをいつのまにか自分のことのように語るのだろう。自分がやってしまったことに関しては「みんなこういうことされたら嫌だと思うんだけどご本人はどうですか」みたいな感じで自分はしていない方にたやすくまわったりするくせに。そんなことは本人が本当に感じていそうでそれを伝えたいのに伝えられなくてということが明らかだったらいえばいいだけでそういう状況でも関係でもない人がそういうことをしているとキレイゴトで罪悪感をスプリットするのもたやすいなと思う。自分の中のことは自分の中のものとして大事にするために精神分析はあるのでそれは他人のことは他人のこととして大事なのであって、都合のいいときだけ自分はあなたとともにあるみたいな態度を取ることを私はしたくない。そうやって不必要にネガティブな連鎖が生じていくことに警戒する。そうやって時間とエネルギーを割くべき事態から注意をそらしているだけではないかと思う。私は今日もたやすく「共感」しない方向でがんばろ。みんなも良い一日でありますように。

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水漏れ、南アフリカのジャズ

昨晩、寝ようかな、と洗面所を使ったら足元に違和感。水漏れに気づいた。気づいてよかったのだがどうしたらよいものか、ととりあえず下の棚から洗剤などを取り除いた。いざ出してみると使っていないのも結構ある。もらった柔軟剤とか。私はあまり柔軟剤が得意ではないから使わないのだよな、など思いつつ作業。最近、シャワーヘッドがおかしいなと思って掃除をしたときにおかしなことになったのかなと思ったけど調べると水受けタンクというやつに結構水が溜まっていた。でも水がどこから漏れているのかわからない。水浸しになった部分はためておいた古いタオルできれいにした。もう一度水を出してみたら、あ、水受けタンクとやらからポタポタと水が落ちてくる。底に穴が開いているらしい。が、あんな量になるものか?わからないが水を使わなければ何も起きないことを確認して、水受けタンクの水を抜く。細いストローみたいなホースがくっついていたのでそれを洗面器に下向きにおいたら水がチョロチョロ出てきた。とりあえずタンクの中を空にした。これで水漏れは大丈夫らしいけど結構水浸しになったからタンクの穴のせいだけではないのかもしれない。いややわ。でもそれなりに早い対処ができたと思おう。あとはプロにお願いしよう。水が使えるだけ幸せなことだよな、とそっと思った。

被災地に手伝いに行きたいが今は難しい。被災地に音楽は流れているだろうか。個人的に聴く手段があれば好きな曲を聴けるかもしれない。侵入的に感じない音楽なら助けになるのだろうか。南アフリカのジャズピアニスト/作曲家/シンガーのタンディ・ントゥリ(Thandi Ntuli)の音楽を聴きながらこういう音楽ならと被災地に届くことを願ったりする。柳樂光隆さんのnoteでインタビューを読んだが南アフリカで生まれ育ち学び何者かになることの難しさと希望が丁寧に語られていた。歴史をいずれ愛せるようにと願うような優しく美しい音が多くの人に届けばいいと思う。嘘つきの言葉でさらなる絶望に突き落とされても自分を取り戻す作業を続けていける勇気をみんなが持てたらと思う。

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田中一村展へ行った。

『田中一村展』へ行った。場所は上野の東京都美術館。公園口から出れば近いのだが遠回りして散策しながら行った。公園内に入ると大きな木がたくさん。鳩がたくさんいた。その中にポツンと男性がいた。餌をあげてるのか、と思いながら歩いていると鳥たちが何羽もそこから飛び立ってきた。大きなパンみたいな餌を加えたカラスもいた。少し怖かったがこれだけ木があると彼らはすぐに居場所を見つけられるらしくまたすぐに静かになった。上野公園には新宿中央公園にもあるアメリカデイゴが咲いていた。この木って一気に花を咲かせないのかな。艶やかな大きな花を咲かせるから遠くからでも気づけるのだけど近づくとお花はどこ?ってなる。一方、ジュウガツザクラは葉っぱがなくなってて白い花が雪みたいにチラチラしていた。儚さはどこからでもみえた。儚さはあけすけにするものではないとはいえ勝手に儚さを見出したのは私か。一般的な印象でもあるが。そしてなんと春になると大勢の人が訪れるソメイヨシノの道でソメイヨシノが数輪咲いていた。狂い咲きか。やはり気候変動のせいなのだろうか。心配。いつ咲いてもかわいいけどなんでこれも数輪だったのかな。外界への反応が枝ごとに違うわけでもなかろうに。

『田中一村展』はすごいボリュームだった。1階から3階までたくさんの作品が並んでおり、私は一階ごとにベンチで休憩して少しウトウトした。3階の展示会場内のソファは混んでいてみんなで分け合っていた。すごく有名な絵は3階にあったのだけどみんな疲れるよね、とちょっと面白かった。田中一村の作品は昨年今年の年末年始、奄美大島へ行ったときに出会った。奄美パーク内にある田中一村記念美術館はとてもゆったりした作りで一村が描いた奄美の自然を実際に堪能してから巡れるので全然疲れなかった。大勢の人の列や背中を見ながら巡るのではなく自分のペースでただただ一村の作品と向き合える時間はとても素敵でその作品の繊細さと荒々しさの両方を感じながら彼の人生に思いを馳せることもできた。今回の東京での展覧会は大盛況だそうで、奄美の田中一村記念美術館の館長がラジオで「一村も喜んでくれていると思う」と生前あまり評価されず大きな展覧会を開くことはなかった一村の活躍を喜んでいた。

今日は誰からいただいたか忘れてしまったが中国茶みたいな包装の紅茶と「やわらか」という柔らかいクッキーみたいなお菓子をいただいた。この紅茶美味しい。温かい飲み物にほんわかする季節。昨日の上野公園はサルサのイベントが熱く繰り広げられていて気温の割に夏の雰囲気だったがそれも楽しかった。今日は月曜日。今週もがんばりましょう。

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日曜朝

窓を開けた。窓から首だけ出したらちょっと寒い。換気分だけ開けたままにして閉じた。エアコンと細長い換気扇の掃除をせねば。どうやってすればいいのだろう。取扱説明書を探さねば。みつかる見通しがたたないが型がわかればネットで見つけられるだろう。昨晩は髪も濡れたまま半袖で寝てしまった。寒がりなのに学ばない。一方で暖房もちょっとつけてしまった。遠赤外線パネルヒーター暖話室。なんかちょっとふざけた名前だったよなあ、と思い出そうとしていたのだが同じ会社の「夢暖房」しか思い出せずそれで検索したら「暖話室」の写真で出てきた。両方同じ会社。「夢暖房」は「床暖房」とかけてるのかな。「暖話室」と同じレベルでは難しいか。なんかないかな、とか考えているだけであっという間に時間は過ぎる。

蟄虫坏戸虹の欠片は入れてある 佐怒賀正美  

第四十七候「蟄虫坏戸 (むしかくれてとをふさぐ)」は自動変換されない。蟄虫戸は一文字ずついれれば出てくるけど杯みたいな時はなんて読むのかわからないから変換もできずまず蟄虫戸の三文字で検索。すると蟄虫坏戸が出てくる。そこから坏をコピーで取り出す。検索画面に貼る。すると最初に出てくるのは

AIによる概要

これ、いつからから最初に出てくるようになった。前はWikipediaのページが一番前にくることが多かったように思うのだけど。

「坏」には、次のような意味があります。

  • 壊す、壊れる、悪くする、悪くなる、ひどく~である
  • おか、盛り土
  • 物を盛る器の名

「坏」で「つき」と読む古代の飲食物を盛る器は、碗より浅く皿より深いのが特徴です。材質は土器や陶器、木製などがあり、脚の付いたものや蓋のあるものもあります。

とのこと。「つき」と読むのかと「つき」をうつと確かにあった。蟄虫坏戸の場合は「盛り土」の意味になるのかな。「坏孩子」だと「悪ガキ」って意味なんだって。漢字は面白い。

今日は福砂屋のカステラとほうじ茶。この前、もらった。小さなかわいい箱に入ってる。二つに切れてるのがいい。あっついほうじ茶おいしい。この季節がきたかあ。ミネラル補給のために作った麦茶が消費されない。なぜミネラルかって足がつりやすいから。マグネシウムとミネラルが良いと聞いたから。酸化マグネシウム

NHK俳句、今日は堀田季何さんの回。面白いなあ。具体的、読み手に連想が湧くように作るって本当に本当に難しい。

島すべて熊蝉領や朝より 小澤實

すごい。熊蝉の領地になってる島。季何さんの説明わかりやすいし面白い。いい句を季何さんが類想句に変えてあとから元々の句を見せるやり方いいね。全然違うー、とわかる。わかるー、のだが自分で作るとなると本当に難しいのよね。聞いてるだけなら自分でもできそうなのにね。まあなにができずともがんばりましょ。

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夢現

ブログを途中まで書いたつもりがパソコンの電源すらいれていいなかった。鳴らしっぱなしで寝てしまった携帯の音楽がブツっと切れたのでパソコンに戻るつもりがはじめてもいなかった。自分に驚愕。携帯いじる前に本を読んでいたのだけどそれが書く動作として脳に認識されていたらしい。なんという誤作動。昔、夢の中で学校に行ってしまいすでに本当に行ったつもりになっていたことがあった。あれも自分に驚愕した。そんな夢現で人生を送ってきてしまったとして、これまでもあれもこれも夢や思い込みだったとしたら・・・したら?どうってことない、今のところ。私はまだそれを実感できていないから無事。さっきのあれはまずかった、くらいの認識でいられる。本当はこういうことが幾重にも起きていて自分だけが気づいていないのかもしれない。

洗濯があと11分でできあがるというのでちょっとだけベッドへと思ったら朝まで眠ってしまった。朝といってもまだ真っ暗だけど。今日の日の出は5時40分。まだまだじゃ。少し放置してしまった洗濯物は無事に干された。ごめんよ。キミたちがいやーな絡まり合いとかじっとりした状態の世界からパリッと爽やかに空へ舞う絵本とか書いてあげたい。放置したのは私だけど。あ、少しうとうとしてしまった。よかった、パソコンついてるし、こうやって文章残ってる。まだ窓も開けていない。いや開けたまま眠ってしまったのだ、とまたうとうとしながら考える。のんびりしてる。でも少し疲れているのかもしれない。そうだ、〜行こう、の感じでベッドへ行こう。空が少し明るくなってきたけれど。

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伊香保、世田谷、徳冨蘆花

南側の大きな窓を開けた。向こうのほうに真っ白な大きな雲。朝日に照らされてきれい。今朝の東京の日の出は5時39分。私が起きたときにはまだ真っ暗で日の出が遅くなったと実感した。これまでは少しずつ感じていた変化が一気に次のステージにいくように感じることがあるが今日はそんな感じがした。「あ、冬の手前だ」みたいな。シャワーを浴びて色々窓を開けてコーヒーを淹れた。那須高原のお土産のプリンのリングケーキと伊香保のコーヒー。徳冨蘆花ゆかりの伊香保、千明仁泉亭のコーヒー。

「蘆の花は見所とてもなく」と清少納言は書きぬ。然も其見所なきを余は却って愛するなり。」(明治33年「自然と人生」)

盧花の蘆はあしのこと。学生時代、京王線の千歳烏山に住んでいて蘆花恒春園も近かった。千歳烏山の塾でバイトをしていたが大体の生徒は芦花公園を利用していた気がする。そのくらいこの二駅は近い。世田谷文学館は芦花公園駅が最寄りなので蘆花恒春園とセットで行くのがよし。

徳冨蘆花にとって

「伊香保は私共にとつて大切な生の策源地と何時の間にかなつて了ました。」(大正7年「新春」)

ということで明治31年にはじめていってから昭和2年、千明仁泉亭で亡くなるまで計10回訪れたそうだ。

徳富兄弟は仲が悪かったみたい。蘇峰は「徳富」のままで、蘆花は筆名「徳冨」なのもその現れ?あ、違うか?本名はどっち?まあ外からするとどっちでもいいのだが蘆花はちょっとこだわったらしい。二人とも別々にトルストイに会っているというのがすごいと私は思う。どうやったら会えるの?トルストイに会う、ってフロイトに会う、とかよりインパクトが大きく感じるのだけどなぜだろう。『夢解釈』より『アンナ・カレーニナ』の方がずっと幅広く読まれてるだろうし。蘆花がトルストイに会った時はもうキリスト教からは離れていたのかな。ちょっと変わった人だよねえ。芦花公園はオフィスのある初台と同じ京王線沿線だし時間があるときに久しぶりに行ってみようかな。紅葉もきれいな時期?まだこれからかな。どんぐりはいっぱい落ちてるけどね。

あ、また急に眠気がきた。昨晩はフロイトの読書会ついでに色々調べ物をはじめてしまい、その時も急に眠気がくるまで起きていた。今は寝てしまえないから動こう。なんで今朝は徳冨蘆花のことをこんなに書いたのか・・・。フロイト読書会の復習めいたことを書けばよかった。まあよい。なんでも心の向くままに。どうぞ良い一日を。

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鳥、本。

西の空がきれい。うっすらオレンジ。秋色なのかも。風は入ってこない。鳥たちが元気。東京は住みやすいかい?緑はあるけど山に入ったときに聞こえる鳴き声とは聞こえ方が違うよね、当たり前だけど。自然災害のときは鳥たちにとってどこが一番安全か、というより自然災害以前に自然を破壊してしはいけないね。ごめんよ。本来キミたちが住むはずだった環境とはもう出会えない時代の鳥なのかもしれない。私は戦争を知らない子供たちの一人だった(もう大人になってしまった)のだけどこれは知らなくて幸運だった。でもその影響は法や制度や時代の態度を通じてものすごく受けているということを今になって学ぶ。昨日は橋川文三『ナショナリズムーその神話と論理』である程度浮き沈みした気持ちとなるほどそう考えられるのかという頭になってから原武史の『平成の終焉』を読んだ。図書館にちょっと寄ったからそこで。私は原武史の鉄道の本が好きで持っている。天皇制に関する原毅の記事は新聞とかで読んできたので内容は想像の範囲内ではあったけどものすごい圧力の中で書き続けているということをあとがきから感じた。天皇制について語ることをタブーにしてはいけないね、こうやって戦ってくれる人がいるのだから。橋川文三の本も見たかったけど見当たらなかった。みる棚や検索の仕方が間違っていたかもしれない。今日は立花隆編『南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由』を持ち歩く。ちょっと読んだけど明快。精神分析の本を読みつつ、IPAという精神分析の組織のニュースなどを訳しつつ、1日のほとんどを臨床に費やしながらこういう本を読む。安易につなげない読み方を意識する。今の時代を生きているということを意識する。ほとんどのことは無意識だけど少しずつ繋いでいくための言葉を育てられたらいいなと思う。

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越冬、日本思想

曇り空。虫の声が減った。七十二候では蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)だから?春頃の蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)と対となる言葉。でもこの場合の「虫」は蛇かな。秋の虫は死んでしまったのかしら。そのままどこかに身を潜めて冬を越せる虫もいるだろうけどあんなに高らかに鳴いていた虫たちはどこへ?「卵で越冬」というけどそれは卵を産みつけてその子が越冬するということだよね?まさか自分が卵に戻ってしまわないよね?でもさなぎになるときは幼虫は溶けてしまう(わけではないのか?)のだから卵を産みつけるというのは卵になると言えなくもないか。人間の場合、子供産むこともできる人はできるけど言葉を残せるというのが「卵で越冬」とニュアンスに近い気がする。

最近、日本の戦中ー戦後思想を学ばなくてはと思っている。2024年4月からの朝ドラ『虎に翼』が男性中心ではない人権を一貫して描いたわけだけど、多くの人が胸打たれたのは自分がしてほしかったのにされてこなかったことに光が当てられたからだと思う。そしてそれが法という言葉に、あるいは人と人とのやりとりで言葉になっていくことの良さと難しさ、その葛藤を描いたのも個々人が何に価値を置いているのかは人それぞれであり、それが明確になることで協働が可能になり、言葉にすること自体が次世代に対するその人の態度になるという点で、ここでも言葉は卵だった。もちろんそこから生まれるものはまた別物になるわけだけど。言葉も人も難しい。引き継ぐのは構造だけではない。『虎に翼』で主人公は個人の権利を十分に守られながら育った女性だった。つまりそれは当時の社会を取り巻いた思想から距離を取れたということだと思う。彼女たちは当然法律以外の本も読んでいる知識人だと思うが、少なくとも主人公は本は本として読むことができた人なんだと思う。ある思想への強い傾倒は個人の怒りから生じる場合が多いと思うが、自分の言葉が大事にされている人はひとつの思想に依存することをせずに済む。だとしても当時の空気を作ってきた様々な言説があり、その背景にも様々な哲学や思想があるわけで、それがどんなものだったか、男性ばかりが著者のそれらについて考えてみたいと思った。丸山眞男(1914年生まれ)とか鶴見俊輔(1922年生まれ)とかは読んできたけど私は彼らの背景を知らないし色々繋がっていない。そしてとりあえず法と宗教、日本の場合だと天皇制を絡めて考えられそうな本ということで南原繁(1889年生まれ)、橋川文三(1922生まれ)を読んでみた。もっと読みにくいかと思ったら全くそんなことはなく、橋川文三の本は書き方からして学びが多い。が、読んだそばから忘れていくので日本の思想の歴史が私の中で繋がるのは相当先だろう。私自身の背景をなすものとして意識して学んでいきたい。

今日も眠い。なんとかがんばろー。

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服、ペリカン、『ウィル&ハーパー』

昨晩もTシャツで寝てしまった。今日もひんやり。寝具も冬に向けて変えていかねば。今年は夏用のひんやりマットみたいな仕様にしたのだけど効果はよくわからないけど多分あったのだろう。これはこれで冬に使ってもいいのだろうけどその上にあったかいもの色々重ねるのも変な話。きちんと交換しましょう。今年も少しずつ更衣してさっきもTシャツを片付けながら今年も失敗したなあと思った。今年こそいろんなのを着回せる仕組みを作ろうと思ったのに。秋冬はがんばろう。今日は薄手の七分袖ロングニットと八分丈ヨガパンツ。七分とか八分とかいまいちよくわかっていないけど全部覆われていないのは動きやすくて好き。でもまだ蚊がいてこのちょっと出てるところを刺してくるから油断禁物。かといって虫除けスプレーも上手につけないと服についてしまったら嫌だし。この時期の蚊は素早くないけど迫力あるししつこい気がする。そうそう、っていうほどのことではないのだけどさっきキッチンでコーヒーを入れていたら鳥がそばにいる気配がした。キッチンの窓をまだ開けていなかったから影を探そうとし他けどどこかいってしまったら嫌だなと思って静かに背中でその音を聞いていた。そうしたら雨が窓を叩くような音に変わった。え?雨?鳥?と思って迷って窓を開けたら鳥が飛びたつ影が見えた。あーあ。残念。ベランダにも鳥がくるけどそういうときに限ってまだカーテン開けてなかったりする。今は西側の大きめの窓からグレーの空が見えて時々鳥たちが通り過ぎる。鳥といえばこの前Twitterで

ペリカンは秋晴れよりもうつくしい 富澤赤黄男

という句を引用した。ちょっとおもしろびっくりする句。ペリカンと秋晴れを比べて断言してしまうのか!と。ペリカンというと私がすぐに思い出すのはサンタモニカ。普通にすごくそばにペリカンがいて普通にバッサバッサ飛んでいった。すごい存在感だった。うつくしいと思うよりびっくりだった。Netflixでやっている『ウィル&ハーパー』の最後に二人が語り合う海辺ってサンタモニカだと思ったけど違うかな。この映画はトランス女性であると親友にカムアウトしたハーパーが親友のウィルとロードトリップに出る話なんだけどとても良かった。悲しくて苦しい現実もそのまま見せてくれる一方で脚本家とコメディアンの熟年の技も見せてくれる作品だった。アメリカっていうのは、と可笑しかったり悲しかったりした。

それにしてもおなかがすいた。今日もがんばりましょ。

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睡眠

眠い。まだ寝ていればいいのだが起きて洗濯機をかけた。この一ヶ月、トロトロトロトロ眠ることが多い。暇さえあれば寝てしまうので何も進まない。睡眠というのは謎も多いが薬が効く場合もあるし状態のバロメーターになるし話のネタにもなるし夢見の場所でもある。「昨日眠れなくて」「最近寝つきが悪くて」「昨日変な夢を見て」「昔から」「昔は〜だったのに」など表現は色々だけど、これからの睡眠について話されることはあまりない。

これから睡眠の話をしよう、と書こうとしてなんかそんな本あったな、と思ったが『これらかの「正義」の話をしよう』というのはサンデル。『ここは今から倫理です』は漫画。意外と「これから〜の話をしよう」という作品はないのか。それはそれなのだが「これからの睡眠」は「今日は眠れたらいいのだけど」とか「修学旅行で眠れるかな」とかいう形で語られてはいるか。でもそれも過去の睡眠の体験に基づいているから未来単体で語られる睡眠は死に近いかもしれない。こんなダラダラと書いている場合ではない、と隣の家の雨戸が開く音で気づく。まだ眠っていてもいい時間なのに。

昨日からシャインマスカットがあるのだ。シャインを「社員」に変換されてしまった。急にイメージ変わるからやめて。「されて」をカタカナに変換するのもやめて。またひどい眠気が襲ってきそうな雰囲気。一気に寝落ちする場合ともやもやっと眠気が襲ってくる場合と、とかなると単に睡眠の話というより意識状態の話。「今日も朝が来てしまった」という言葉もいろんな状態の人によって使われるな、とか書き出すとキリがないのできちんと起きよう。おはよう、朝の空。今日は暗いね。グレーだね。お互いパッとしないわね。がんばりましょう。

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鳴き声、言葉、本

シャインマスカットおいしい。小鳥くる、、、黄緑に輝く大粒シャインマスカットを俳句にしようかと思ったが無理だった。「小鳥くる」は大好きな季語。ちょうど外で鳥たちがジュワジュワ鳴き出したから合わせられないかなと思ったけど難しい。朝の鳥は集団で飛ぶ時間があるらしい。夕方もあるだろうけど朝はちょっと違う感じがする。朝はバラけて夕は集まるからかな。そういえば昨日公園の木々の中を歩いていたらアブラゼミがまだシャーシャー言っていた。今年は夏の終わりがわからなかったもんね。なんだかかわいそうに、と思った。でもきっとアブラゼミには関係のないことね。メカみたいな身体をしっかり使って力尽きていく。気候変動で寿命が変わったり土の中での生活が変わったりしたとしてもやることは同じ、みたいな雰囲気だものね。人間界は困ったものでね、と蝉に語りかけたくなる。私は仕事できても最長30年だと思う。早く訓練分析家になって後進を育てないといけないと思う。だってこの日本の政治状況をどうにもできない中で生き残り変えていくには考える人を育てるしかないわけでしょう。ただただ普通に生きている人を邪魔しないために、邪魔されないために考えながら動く人が必要。それは知識人になることでは全くない。それぞれが他人の言葉に反射的に反応する前に自分の言葉を育てていくこと。それが誰かから見てどんなつたなくても自分の言葉にならない声も含めて徹底的に大切にしてみることが必要だと思う。精神分析は知らない相手と関係を作っていく自分を体験する中で自分が最も知らない相手であることに気づく方法。もちろん被分析者も分析かも同じようにそういう体験をするわけだけど分析家の方は一度はそれを通過しているので邪魔しないでいられる。週4以上、カウチでの自由連想という強力な設定でしか抱えられない言葉と情緒があることを私は知っているからその特異性を生かして自分の言葉を育てる作業をしてくれる人が増えたらいいなと思っている。本の読み方とかも変わる、自分の言葉と関わると。いかに自分が偏見に満ちた思い込みで生きているかを知るという体験は非常に嫌なものだけどそのまま生きていくのは結構無理をしないとで、突っ走る知力と体力があるうちはいいけど立ち止まる胆力の方が物事を見る力はつくし、多様な豊かさにつながっていると思う。

福尾匠の『非美学ージル・ドゥルーズの言葉と物』を読んでいる。出てからすぐに買ったけど読んでいなかった。博士論文の改稿版とのこと。ドゥルーズ、ベルクソン、フーコーのほかに平倉圭、千葉雅也、東浩紀の議論が俎上に上げられる。哲学は言語実践である、と書いていたと思うけどいろんな概念を固定させず動きを持たせるような書き方でわからないなりにワクワクする。いずれ時間をかけて読もう。今は余裕がないけど、色々やることやっている間に今よりマシな読者になれるかもしれない。がんばっていきまっしょい。

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精神分析

伊香保土産、『極悪女王』

昨晩は少し暑かった。エアコンをつけるほどではなかったけど。南側の大きな窓を少し開けた。雨。吹き込んでくるほどの風もないけど開けっぱなしにした。カーテンも揺れていない。

今朝は伊香保温泉のお土産、素敵なカフェ&バー(宿泊もできるらしい)「樂水樂山 CAFE &BAR RAKUSUIRAKUZAN」のオリジナルブレンドとその帰りに高崎駅で買ってくれたという高崎市下滝町のケーキ屋さんCaprice de moiのきび糖のブールドネージュ。美味しい。高崎駅は改札前に大きなお土産屋さんがあって地元のお店がいろんな素敵なお菓子やコーヒーや色々を出しているからそこで買ってくれたのかな。違うか、その日は伊香保に出店していたという話だったかな。忘れてしまった・・・。一昨日は前橋市のFLAT Tableのパウンドケーキをいただいた。一緒に出店されていたのかもしれないわね。今、Caprice de moiのインスタを見たらフランスから帰国後、FLAT Tableで修行して独立した方のお店なんだって。小さな町でみんながんばってる。今度それぞれのお店にも行ってみたいな。こういうのは縁だものねえ。私が地元にいた頃にはまだなかったお店たち。今度連れていってもらおう。群馬は車社会だけど私車乗れないから。

Netflix『極悪女王』を観終わった。素晴らしかった。ダンプ松本を演じたゆりやんレトリィバァは言わずもがな、唐田えりかが今回も素晴らしかった、というか全ての俳優が素晴らしかった。剛力彩芽はいい意味での優等生。なんでもできるしクールでまっすぐな役柄がピッタリ。私はちょうどその世代だからプロレスの迫力という点では当然本物に劣るとわかるわけだけど演技であそこまでできるみなさんは本当にすごい。ブル中野役の堀桃子さんの変貌もよかった。あの髪型がかっこよく決まるなんてすごい。最終話の最後はなににそんなに胸うたれたのか言語化できないけれどボロボロ泣いた。それぞれのインタビューとかもとてもよかったのだけどオーディションのときに監督がいったこととかは結構嫌だなと思った。私だったらなんなんおまえ、ぅんなことわかって受けにきてんだよ、こっちは、と言い放ちそうな言葉にも真剣に答えないと受からないわけでしょう?なんだかなぁ、だ。そういうのにも慣れていく世界なのかな。嫌だなあ。技かけたくなってしまう。持ってないけど。でもプロレスは受け身のうまさなんだね、魅せ方ということでいえば。ちょっとやってみたい。ロープ使う技をやってみたい。クラッシュギャルズ好きだったなぁ。ピンクレディーも好きだったなぁ。最近、私が子供だった頃のあれこれと出会えて楽しい。最近は友達と身体の不調について話すことも減り(多分みんな慣れた)介護とか老後の話が増えている身だからねえ。20歳以上年上の人ともそんな話ができてしまうくらい私も歳をとった。色々懐かしんでいこう。雨強くならないといいね。能登にも引き続き支援を、と思いながらこれについても昨日からモヤモヤすることがあって、と書き出すと長くなるからこの辺にするけど現地の事情は複雑なんだから一度いらないと言われたものをSNS使って持ち込むのは支援としてどう作用しているのかな、と思ったツイートを見かけたんだ。みなさん、どうぞお気をつけてお過ごしください。

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レイクシア・ベンジャミン、道徳。

涼しい。少し雨が残っている。今日もまた降るみたい?昨日は半袖Tシャツにフリースでちょうどよかった。バスに乗る前にちょっと寄り道したらバスが行ってしまって雨も降り始めた。次のバスがくるまで薬局のひさしの端っこをちょっとお借りして雨宿りしていたらお邪魔だったらしく店員さんが何回もくるからお隣のビルの狭い入口にお邪魔した。その隣では献血をお願いするセリフを何度も何度も繰り返す人がいた。この喧騒では誰も足を止めないのに声を張り上げるでもなくずっと同じトーンで何度も何度もそれを繰り返していた。

今朝はニューヨーク出身のレイクシア・ベンジャミン(Lakecia Benjamin)を聴いている。ヌバイア・ガルシアとは全く違う感じのサックス。J-WAVE,SONAR MUSIC,2024 JAZZ 総集編,柳樂光隆@Elis_ragiNa セレクト、で紹介されたらしく柳樂さんのツイートで知った。今朝は2023年1月リリースの”Phoenix”の2曲目New Morningsから聴き始めた。1曲目のAmerikkan Skinは冒頭から雑踏に連れ出されるような感じだったがすごい細やかで確かな音。この曲!という感じで耳が止まるのではなくて全体へ流れ出していくようなリズムとストーリー性ある場面転換がかっこいい。声もいい。

昨日は隙間時間にちょっとずつヒュームの『人間本性論 第3巻〈普及版〉道徳について』を読んでいた。朝ドラ『虎に翼』で道徳と法についてのやりとりが少しあってから気になっていた。私は以前、ヒュームが好きで、きちんと読みたいと思って普及版も買った。しかし昨年からか、カリブ海諸国とアフリカ哲学を知るようになり、今年刊行後すぐに『アフリカ哲学全史』河野哲也著(ちくま新書)を読んでから、以前別の文脈でアーレント批判を読んだときと同じくヒュームの差別的な面を知らされガーンとなった。きちんと取り組んでもないのに幻想を維持しようとする自分にややうんざりした。『アデンアラビア』におけるポール・二ザンのような怒りを私は維持できない。しかし書物だけでもそのやり取りを横断したいのでモヤモヤしながら考えようと思う。

国家と宗教という言葉が浮かんだが日本において国家とは何か、という変な問いを立ててしまう。日本って何者?内村鑑三や鈴木大拙は宗教をもとに「日本」を基礎づけようとした。今は彼らがいう宗教はもう残っていないのだろう。夏に金沢の鈴木大拙館で著書を読んだ。数年前にも唸ったが今回も唸った。彼らが残してくれたものもまた大事にすべき、と思う、と自分に対してわざと「べき」を使ってみたのはヒュームを読んでいたせい。まあ、でも本は本。人間ありきなので人間と仕事して自分とも他人とも関わるなかで彼らの中にも存在するもういない人たちと交流しつつ今日も過ごそう。風邪ひかないようにしよう。

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精神分析

寒い。ラカン。

薄着で寝たら寒い。喉がちょっとイガイガする。寒い季節を恐れているのに対策は下手なまま。今年は一気に寒くなったからなおさらついていけていない。でもジーパン履いたら上がTシャツでもあったかい。この時期は上着が楽しい。いつも同じのを羽織ってしまうけど今年こそ持っているのは全部着るぞ。同じことを夏服にしたときも思ったけどやらなかったので自分で自分を信頼できないけれど。

昨日、ラカン派のアイデンティティの論文と西洋と東洋の精神分析の関係に関する論文を読んだ。北山修が土居健郎の「甘え」は西洋でいう「依存」とは異なると書いた論文が引用されたりしていた。土居が世界に通じる言葉として「甘え」を残したからには私たちもそこで世界と繋がっていくのは大切なことだと思う。そういうことをせずに精神分析を我流で引用していくことは精神分析の倫理に反すると私は思っている。ラカンを読んでいるから「精神分析の倫理」という言葉を使いたくなっただけだが実際そう思う。しっかし、後期ラカンを勉強していると70歳超えてもめちゃめちゃ複雑に絡まった糸、しかも自ら複雑にした糸を解くように、そして解きながら別の絡まりを宿題のように残しながら進むラカンには驚きしかない。フロイトも死ぬまでそうだったがフロイトは流石に晩年、ちょい悲観的だったけどラカンは強靭。死に際は孤独だったと聞くが、フランスに精神分析を根付かせた功績はものすごく大きい。これに関しては医療制度との関連が大きいからなんともいえないところがあるけど精神分析を哲学、人文知に馴染ませながらも別物としたところが臨床家だなと思う。

論文の直訳、載せようとかと思ったけど前橋のケーキ屋さんがたまたま伊香保で売っていたパウンドケーキが美味しかったしコーヒーも美味しくて元気でたからもう出かけよう。どうぞ良い1日を。

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精神分析

湯の花饅頭、文化

気持ちいい朝。光もきれい。

伊香保温泉のお土産といえば清芳亭の湯の花饅頭。実家にいた頃は父が何かのついでによく買ってきてくれました。一時期、どこかのお饅頭屋さんとの間でなにか大変だったという話を聞いたような気がしますが田舎の噂話だったのか観光地ではよくある話だったのかわかりません。私はここの湯の花饅頭以外は食べたことがありません。一択。皮の薄さも口あたりも甘さも大きさも本当にちょうどよくて大好きです。今回はお土産として和栗饅頭と一緒にもらいました。久しぶりのお味。待ち望んだ秋の風を少し寒く感じながら熱いお茶をいれていただきました。ようやくこういう楽しみを満喫できる時期がやってきました、か?疑問形になってしまいますよ、今年はさすがに。また暑くなったりしませんか?私たち人間の責任でもありますがこんなに暑い日が続いたり台風が変な進路をとるのは異常事態でしょうか。もう異常気象と言われて久しいと思うのですが異常がいつのまにか標準とか正常とかなってしまいそうで怖いです。水とか空気が変わったら和菓子の味も変わってしまうことでしょう。その土地のその気候や風土に合わせて長い間作られてきた自然の恵みを感じられる生活を維持するのはいまや観光客の立場の私でもあるのですよね。おいしいと感じなくなったなら別のおいしさで、と交換可能な世界を生きられる人もいるかもしれませんがそれではあまりに味気ないですし、と書きながら輪島の朝市とか世界に誇る文化を育んだ土地が元日から大きな被害を受け続けていること、それに対する支援の不足について考えていました。せめて言葉が、少しでも広く届くように、と瀬尾夏美さんなど常に現地の方に思いを馳せ、実際に出向いている方々の呟きをお借りしたりしています。私のSNSは全く拡散力はありませんが誰か一人でも彼らの言葉によって被災地への注意を維持しなくてはという気持ちを共有してくれたらいいなと思っています。清芳亭のお饅頭、美味しいです。どうぞ良い1日を。

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精神分析

友、Netflix

雨。晴れるときいていたのに。やむといいなあ。能登の支援が進みますように。

友達がベランダのミントでミントティーを淹れてくれた。とてもおいしくてびっくり。若い柔らかい葉のうちがいいときいた。うちもやってみよう。いろんな生活がある。学びが多い。持つべきは友。友といってもこの歳になるとなんか昔とは意味が違う気がするけどまあなんでもいい。離れていても支えられているという感覚がないとこの仕事は厳しい。体験していないことを提供することは極めて難しい。この体験というのも見えない部分での話だけどってちょっと考えればわかると思うけど今はちょっと考えるというのが難しい時代なのは考えずともわかると思う。ちょっと考えたらわかってしまうので考えたくないという場合もある。

Netflixでアメリカの映画「喪う」(His Three Daughters)を見た。とてもよかった。「極悪女王」もみている。ダンプ松本やクラッシュギャルズの話をこの歳ですることになるとは思わなかった。唐田えりかがとてもいい。2018年の『寝ても覚めても』もとてもよかったが今回はまた全然違う良さがある。しっかし、みはじめると何も進まない。しっかりせねば。がんばろー。

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精神分析

雨、能登、Sexual Identity

窓を開けた。雨が降っていた。顔を出したら涼しかった。能登の状況をパソコンで見ていた。動けなくなる。どうしようもない気持ちになってゴロンとした。雨の音を聞きながら眠ってしまった。河合優実が夢にでてきた。直前に読んだ記事と先日見たドラマの影響だろう。以前一緒に週末を過ごしていた自閉症の子も出てきた。あの頃、しょっちゅう感じていた私自身の見て見ぬふりを久しぶりに感じた。一瞬の見て見ぬふりが彼らに実際の傷をつけるかもしれないというヒヤヒヤした感じも。夢はドラマのハッピーエンドのような様子だった。洗濯物ができあがる音楽で目が覚めた。洗濯機だと確信している一方で炊飯器だっけと曖昧な頭のまま転がっていた髪ゴムをもってベッドから降りた。起きたらまたネットで見た能登の景色が蘇ってきた。今日もひどい雨になるらしい。本当になんて言葉にしたらいいのかわからない。ある人が「もう笑うしかない」と呟いていた。脱力感、無力感に心の奥底が乗っ取られてしまう前にできるだけ早く、あたたかな支援が届きますように。

昨晩は今年はじめに亡くなった元IPAジャーナルの編集長Dana Birksted-Breenの本、The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic MindのChapter 2 Modalities of Thought and Sexual Identityを読んだ。1章に引き続きかなりの情報量だったがフランス精神分析の文脈からの引用も豊富で偏りなく学ぶには非常にありがたい。そしてこの章は精神分析理論の中でジェンダーアイデンティティを位置付けることの難しさに対して簡潔な答えとまではいわないが答えのようなものをくれた。

書いてあったのはこんな感じのこと。

原書の64ページからちょっと翻訳。

「さまざまな種類の同一化は共存可能であるが、どちらの様式が優位かでしか語れない。したがって、「性的アイデンティティ」は複雑な現象の最終結果であり、それは安定していることも不安定であることもあり、実際の身体と一致していることも一致していないこともあり、無意識の空想に満たされている。それは、抑圧や分裂を通じて一貫性を保とうとする試みにおける身体、対象選択、ラベリングに関連するさまざまな要素から構成されている。

 精神分析は硬直した一貫性を崩壊させ、別の性の側面や空想の位置の変化を明らかにする。
過剰にジェンダー化された立場や二者択一的な思考は、迫害不安や脆弱なアイデンティティを防衛する。」

みたいな感じ。転移関係では男女関係なく様々なものや人になる精神分析においてシスジェンダーである私はどんな感じなのか、意識的でありたい問題だ。

もう準備せねば。今日はのんびりとはいえのんびりしすぎた。能登から雨雲ができるだけ早く去ってくれますように。

追記:マクドゥーガルの引用も示唆的。

“The inherent difficulty facing the infant in his task of becoming an individual is of a more global, more ‘psychosomatic’ nature than the problems encountered in coming to terms with sexual realities” (McDougall, 1974, p. 436).

個人として成長する過程で乳児が直面する固有の困難は、性的現実を受け入れる際に直面する問題よりも、よりグローバルで、より「心身」的な性質のものである。

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精神分析

りんご、自由連想

眠み。昨日もやたらめったら眠かった。少しお散歩にでたときが一番眠かった。普通は眠気覚ましに散歩したりするのだろうけど。体調崩すの嫌だからやるべきこと先延ばしして寝たけどいつもより早く起きてしまった。いつからこんなになったのかと思えばもうだいぶ前だけどいつだろう。低血圧で起きられなかった時代が嘘のよう。起きてすぐ元気だからすぐ家事できるのはいいけど勉強は捗らない。容量の少なさを感じる。ああ、カラスの大きな声。東の空がきれい。朝がくる。

りんごを一個もらった。むいた。いい香り。何十年経ってもりんごむくのが下手なのはどうしてかしら。まあ、包丁はどれもこれもうまくないか。

NPOでたくさんの子どもたちとキャンプをしていた頃、炊事場で小学生とりんごをむいていたら「あみさん、こうするとむきやすいよ」とさりげなく教えてくれた。その子のむいたりんごはめちゃくちゃきれいだった。おとなしくてしっかりしてて素敵な子だった。「どうでもいい話だけど」という言葉が思い浮かんでそういえばうちの両親はなにかと器用なのになぜ、と思った。小さい頃、父がりんごを丸ごと一個くるくるむいてながーい皮をみてびっくりというかすごーいというかどんな気持ちだったか忘れてしまったがその場面を思い出した。あれはなんだったんだろう。父はたまに何か披露してくれるのだけどこっちがせがんでとかではなかった気がする。チャップリンの真似とかうまくてあれはすごーいと思った。まあ、どうでもいい話だけど。

「どうでもいい話だけど」という言葉を使う機会が減った。分析が終わったから。自由連想は思い浮かんだことをできるだけ全部話すというのが一応のルールなのだけど(結構不可能なことやらされ、今はやってもらっているのだがこういう仕掛けというか設定)ほんとどうでもいい話が思い浮かんでしまう。分析家としてみれば全然どうでもよくないというか話の内容に重みづけして聞いていないからそういう前置きもいらないのだけどなんかつけちゃう時があるんだよね。まあ、こうやって書いてるのも朝の短時間自由連想だからどうでもいいことしか出てこないけど、日常ってそういうことが楽しいのだ、きっと。雑談ができない、という悩みも聞くけど頭の中ではかなりしているわけでそれを実際の相手にむけて出すのが難しい場合が多いんだよね。どう思われるかとか一瞬で色々考えるから。自由連想の難しさだってそこだもん。分析の終わりの方はすっごく自由に話してる自分に笑ってたけど。ごきげんな赤ちゃんみたいだった。自分がごきげんな赤ちゃんだった頃のことは忘れたけどたくさんの赤ちゃんのそういう様子は見てきたからあんな感じって気がした。色々あるけどそんな時間もあったなあ、というような思い出があると助けになるかもね。今日は土曜日。がんばろう。

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精神分析

雲、学び

いわし雲。巻積雲というより目に浮かびやすい?鰯を思い浮かべてしまうとはて?となるかしら。鰯は群れで思い浮かべてね。巻積雲はうろこ雲ともいう。こっちのほうが「ああ!」となるかしら。

黒板に消し忘れたる鰯雲 佐渡美佐子

いわし雲いづこの森も祭にて 水原秋櫻子

今週末も秋祭りが多いみたい。オフィスのそばでは代々木八幡のお祭りの準備が本格化。良い季節!のはずなのに暑いですよね。日が落ちれば気持ちいいからみんな楽しめるといいですね。私も明日はどこか寄り道しちゃおう。

最近、ラカンとか難しい本ばかり読んでかえって頭悪くなってる気がする。でも長年の積み重ねでそういう状態にも慣れてきて言葉の通じない国にいるよりはずっと景色を描きやすい(積み重ねでわかりがよくなるわけではない)。精神分析の本だからどこを参照すべきかは大体わかるけどとんだ先も難解だったりするからなあ。とにかく時間が必要。こういう文献はいまだに読解の対象になっているから無理もないのだけどもうちょっと自分の教養と記憶力がほしい。昔学んだなぁ、ということは覚えていても内容丸忘れだから。ラカンあるいはラカン派は哲学や精神病理学がベースの人も多くて魅力的なトピックも多い。今、日本での精神病理学は随分変わってしまったらしい。私が読んできた本の頃が黄金時代なんだろうなあ。病者に対する理解も本当に変わってきたものね。もっともっと広く深く考えていけたらいいのだけど。と思っているせいか教える側になるときに精神病理の話をすることも増えた。木村敏とか内海健とかの引用しつつ。そうしたら結構響くものもあって逆にびっくり。伝えてみるって大事ね。学んだ。今日も実践に伴う学びを広げましょ。がんばっていきまっしょい。

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精神分析

時間

鳥たちの賑やかなこと。群れをなして飛んでいく。昨日は猛暑日だったそう。たしかに暑かった。でも空気は秋なんだから不思議。どうなっているのかしら。長年かけて気象を異常にしてきまったということかしら。そしたら長年かかるだろうけど戻していかねば。

という話は面接でもする。長年かけてできたものには時間が必要なのではと。もちろん面接のためにということではない。こういう話をゆっくりして一回で落ち着く場合もあるから。精神分析が長くかかるのは自由連想によって効果をだそうとするものだから。人は「話す」までに時間がかかるし「話す」ことを積み重ねていかないと無意識が現れてこない。本当にただ「話す」ことで人は「そんなつもりじゃなかった」「意識してたわけではない」という部分につきあたる。そしてそこで何かと出会う。その何かが無意識であって「意識化」とかいうほど意識できるものではない。「話す」ことをしていくと「そういえば」ということもたくさんでてくる。怒りの感情もたくさんでてくる。そして不安が生じる。不安が先立っていろんな感情がごちゃごちゃになることもある。その気持ちの動きは日常で体験するものとはまるで異なる。不快で苦しくて受け入れがたいのは自分なのか誰なのかわからないままカウチでぶつける。分析家はなにかしてくれているだろうかと訝しがりながら。委ねることの困難にまた苦しみながら。そんなことを続けていくうちに「あれ?」となる。「なんかスッと」という人もいる。精神分析はなにがどうなるわけではないのになんとなく楽になった自分発見する機会になる。それには時間がかかる。

最近、私のメモはレシピだらけ。動画もたくさんみている。料理にも時間をかけたいが難しいのでいろんなレシピにお世話になる。といっても煮物とかでなければ切るだけ焼くだけ混ぜるだけでなんとかなる。とわかっているのにおなかがすいていると気が短くなるのかできあがりにむかって淡々と進むことができない。するけど。スーパーのお惣菜もおいしいものが増えたけどもう飽きてしまった。そういえば今度友達のうちで持ち寄り会をする。ポットラックパーティーっていうんだっけ。メインは友達が作ってくれるからそうはいわないのかな。勉強したあとゆっくり過ごす予定。なのでがんばろー。

暑さ寒さも彼岸まで、のはず。しのぎましょう。

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精神分析

話す仕事。

昨晩は中秋の名月、きれいでした。高いところにいくと空に貼りつけたみたいな平面さ。でもその前を薄い雲がたなびくように横切っていくからそこが空間であるとわかる。精神分析をしていると平面的な心というのを知る。表と裏、こっちでなければあっち、自分と自分以外、そこでは時間も流れない、ずっと同じ、奥行きを持つことがいかに難しく、しかしそれが可能であることか。精神分析は「話す」のが主な仕事。精神分析は被分析家にとってもほぼ仕事。話さなくては始まらない。しかし「それは話しているとはいわないよ」という場合がある。本人不在、他者不在、なにかが生じることのない語りがあることもこの仕事で知った。簡単に憎むのに決して愛さない。愛と憎しみは両価的であるはずなのにそんなことなかった。私は最近なんでも一元論で考える方がいいのではないかと思っている。たやすく反転するかのような同質さで似て非なるものを語ることで難しくなっていることがたくさんあると感じる。ラカンが晩年「一者はある」という肯定的な公式に舵を切った。そこではシニフィアン連鎖以前の言語的なものを蜜蜂のように群れをなすララングという用語で示した。平面的な心もこの概念なら説明可能だろう。疎外も拒否というよりその契機をつかむことができない主体はララングにとどまり外部である他者の欠如に自分を見出すことができない。自らの固有の場を見出すこと、精神分析はそれを可能にするはずだが平面的な心に対しては様々な前提を取り払う、というよりあると思っていたものは本当はないということを自然に受け入れていく必要がある。精神分析の限界を精神分析によって体験しつつ精神分析の可能性を知ったとはいえ、その限界は到底日常用語では説明できないものなので色々と糸口を探している。とりあえずたやすく相対するものを作らず、そのものの内部に蠢くものがあるか、あるならその変化を観察し描写していくことからと思っている。

窓を大きく開けているけど風の気配がない。外に出れば感じることができるだろうか。虫の声は昨晩からずっと高らか。今日も色々あるだろう。がんばろう。

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祝日

冷房つけていない。昨日も気持ちよかった。田中一村展のために上野へ行った。昼間から賑わう居酒屋で自分を「おかま」と呼ぶ蛍光の黄緑の服を着た人と少し笑いあった。悲しい話も少し聞いた。自分のことをあえて「おかま」と呼ぶことについてまた能町みね子さんたちの対談を思い出した。上野公園をぶらぶら歩きながら東京都美術館へ。たくさんの人の後ろ姿。元気いっぱいに殴り合うふりをする子どもたち。そのそばで自分のやりたいことを主張する子ども。たくましい。で、東京都美術館。ガーン。田中一村展は19日からだった。2023−2024の年末年始は奄美大島で過ごした。そこで出会った田中一村。奄美の自然を実際に体験しながら多くの作品を見た。他人から見たら厳しい生活を選んだ一村の生き様もまた魅力的だ。また出直そう。前売りがまだ買える。昨日はショックだったが運よく東京国立博物館は無料拝観日。じっくり見られた。琉球とアイヌの部屋にアイヌの作品がなかった気がしたがなぜだ。アイヌの作品はものすごい迫力がある。ちょっとそれに触れたかったのに。

ちょっと放置していたらこんな時間。今朝はここまで。今日は火曜日。指差し確認するように確認せねば間違えてしまう。がんばろう。

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パンダ、パウンドケーキ

和歌山県白浜町アベンチャーワールドの良浜が24歳になった、と少し前の記事で知る。おめでとう。あなたたちの子どもパンダが赤ちゃんだった頃、ずーっとずっーとみさせてもらったよ。かわいかった。彩浜ちゃんのときともうひとパンダ。どの子だったか・・・。彩浜のときはコロナ前だったのと時期もよかったのかな、並ぶこともなく時間制限もなくずっとずっと見られた。コロンって寝てるだけなんだけなんだけどピクンとかなるだけでみんな声をあげるほどかわいかった。お外で遊んでいた兄弟姉妹もおもしろかわいかった。パンダってのんびりしてて間の抜けた動きとかそれって無理があるのでは、やっぱり無理じゃん、みたいな動きとかなにしててもかわいい。熊とかはああいう動きはしないだろうし、やっぱりあのまーるい感じがなんともいえず幸せな気分にさせてくれるのかしらね。上野動物園の方がずっと近いのにシャンシャンとか見たことないのよね。中国で元気にやってるかしら。

さっき南側の大きな窓を開けた。風がない。昨日は洗濯物が案の定大惨事に、でもないけど物干し竿が風で落ちた。その前に少し取り込んでおいたから被害は少なかったけどガーンって大きな音がして私もガーンってなった。で、ハンガーも壊れてしまった。ガーン。

今朝は甲州市塩山「Nelk」さんのパウンドケーキ。調べたらすっごくかわいいお店。こんな記事がありました。おいしい。クッキーももらったからそれは明日。楽しみ。今日はTWGのフレンチアールグレイと。これもいただきもの。我が家の紅茶ストックも充実させねば。今年は少しずつ少しずつ冬に向かっていくらしい。というかこんな暑い秋のまま一気に冬になったらいやね。ああ、地球、大丈夫じゃなさそう。大切にしよう。

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風、光、秋祭り

風が強い。洗濯物が飛んでしまうか?大丈夫か?心配だからパソコンを移動してテレビをみながら洗濯物も見る。いいお天気で乾くのは大変助かるが。そしてNetflixでドラマを見てしまう。いかん。午後はお仕事だからそれまでにやらねば。

キウイ美味しい。熱い紅茶暑い。洗濯物がすごい靡き方している。「なびく」って「靡く」って書くのか。自動変換便利。こんなに時折ぶおって持ち上がるくらい揺れても「靡く」でいいのか?靡くってこんな激しい感じにも使うのか?使うのだろうね。風の種類も色々あるからそれに合わせて動詞も変わったりするのかしら。私が知らないだけできっと色々あるのよね。こう書きながら洗濯物を眺めている時間が長い。そして洗濯物が激しく揺れるたび変な形の光が部屋を走る。洗濯物たちが作る影ではなくて光が部屋の中を走る。小さい頃は光でたくさん遊んだよね。今は見せられるまま。戯れることはしなくなった。それでも楽しいけどね。

昨日は秋祭りの音に誘われて八幡に寄り道した。いつもはほとんど人がいない神社に自転車がいっぱい。お店がいっぱい。裏の出口ですれ違った子供が父親の足にししがみつき押しとどめながら綿菓子をせがんでいた。楽しく出かけ盛り上がってもこうなっちゃうことってあるよね。私が行った時間帯は叱られている子どもが多かった。何度呼ばれても振り向かない子ども。結局連れ去られ大泣き。呼ばれるたび先に行ってしまう子ども。先に帰っちゃうよ、と言われても振り向かない。しばらくして振り向くともう親は見えない。泣いて追いかける。姿が見える。もっと泣く。叱られつつ抱っこされる。そうねえ。みんなお互い辛いところだよね。でも道に出たらもう電車に興味がいっちゃってニコニコだったり。外からはわからないそれぞれの親子。良い夜でした。

今日も色々あるでしょう。良い日曜日になりますように。

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時代、ゆっきゅん新アルバム

いよいよこのパソコンだめなのではないか・・・。朝焼けがきれいだったことも忘れてしまう。早朝、そっとカーテンあけてきれいな気持ちになったんだ、一瞬。このワードプレスのアプリ?ソフト?これも開くたび落ちる。今はなんだか大丈夫。まあ、こんなことしてないでやることやれよ、という警告かもしれない。しかしこのいろんな不具合は単にこのPCが対応できないモデルだからということかもしれない。どこに持っていってもヴィンテージとして驚かれ懐かしがられるし直せる部品がないかもしれないと言われている。いやだ。こんな長くもってくれたんだからいいじゃん、という話ではない。パソコンはとっても高いんだよ。ワープロで事足りていた私にパソコンなど本当は必要ないのかもしれないけどなんとなくパソコン時代に乗っかってきてしまった。私が大学生の頃はまだでっかいフロッピーディスクだった。プログラミング学んだりしてたんだ。こんなタンとしたらパッと出るみたいな世界ではなかった。全然ついていけないよ。このAI時代に何を、という話だが、AIが生活を変えていることはわかってる。私がこれから生きられたら生きるであろう2、30年にもいろんなことが変わるだろう。私はなんかついていけないと感じながら何が古くて何が新しいかわからないままいつまでも大きなフロッピーディスクとはじめて書いたプログラミング言語が別の姿に変わった感動をこうしてつぶやいてしまうのだろう。

今朝もゆっきゅんの新しいアルバム『生まれ変わらないあなたを』を聴いている。特設サイトはこちら。ヴィジュアルもインパクト強くていいが歌詞がいい。私がついていけない時代に20代を生きてきた人の言葉にも過ぎた瞬間を懐かしむような言葉が現れることににっこりする。ゆっきゅんの言葉に支えられる人は多いだろう。「たべっ子どうぶつ」は時代を超えて存在するわね。今すごくいろんな種類あるよね。

♪たべっ子どうぶつくれたぬくもりの裏に♪

ゆっきゅん「隕石でごめんなさい」の一部。新しいのに懐かしいわ、とても、なんだか。いい声だな。

さあ、週末。平日にはできないことをきちんとせねば。イレギュラーのグループも忘れないように。不安だわ。でも美味しい幸水もいただいたし、清里のお土産の「赤毛のアン」のコーヒーもとても美味しかったからがんばろう。

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引用、「普通」に共有

陽射しが強い。梨が美味しい。水分!

読書するとき、気になった言葉を抜き出しておく。それらはただメモとして溜まっていく。外向けに何かを書くときは自分がその本の全体を読んでいるものからしか引用していないと思う。この2年、フェミニズムに関する良書がたくさん出た。理論的なものは別として、私はそれらからはほとんど引用していないと思う。できないのだ。この問題はあまりに根深い。声をあげはじめたといってもその声は様々でありほとんど届いていないという現実に目を向けざるをえない。基盤のないところに理解を育てるには時間がかかる。これは教わるものではなく体験的な知として実感していかないと差別を反復するだけになる。私のフェミニズムに対する関心は精神病と重度の自閉症という自分の仕事の原点に関わるもので自分が女であることに対する意識はその存在の後にくるものである。これらの本を読みながらそういうことが意識に上ってくる。そして私はいまだに彼らの心を説明するすべをもたない。

昨日、Twitterで読んでほしい本をあげた。森山至貴 & 能町みね子 『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(朝日出版社 )は引用できない本の一冊だ。そもそも対話というのは流れがあるものなので切り取るものではないというのもあるがどこかを抜き出すことでまた無知や誤解に基づいた誰かなりの理解にすいこまれ、さらには使われてしまったりしたらと思うととてもできない。だから「読んで」となる。知識は大事だけど知識を身に付けるのは簡単ではないというのもまた肝に銘じる必要がある。今、頭の中に浮かんでくる言葉も出してしまったら何かを妨げるだろう。まずは自分が知ったかぶりをしないように今日も学ぼう。いずれ多くの人と「普通」に共有できるように。

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秋、IPAPodcast

なんかまだ暑い。陽射しが強い。そして毎日眠い。すっきり起きるのにすぐまったりする。空の色はやっぱり秋。空高し。

仔馬爽やか力のいれ処ばかりの身 中村草田男

爽やかやたてがみを振り尾をさばき 山口誓子

仔馬と大人の馬では力の入れ具合が違う。どちらも素敵。

朝ドラ『虎に翼』のとらちゃんはこういう感じで変化したよねえ。今はいい感じに力が抜けて落ち着いている。

昨日、IPA(国際精神分析学会)のpodcast、Talks on Psychoanalysisを聞いた。お話はArgentine Psychoanalytic Associationの訓練分析家、スーパーヴァイザーのPatricia Alkolombre博士。テーマはThe Desire and Passion for a Child: Psychoanalysis and Reproductive Techniques。著書“The Desire and Passion for a child. Psychoanalysis and Contemporary Reproductive Techniques で扱われたテーマ、親であることの欲望と生殖技術について。

これまでポストフロイディアンやジェンダーセオリーで扱われてきた子供に対する欲望が含む複数のテーマが取り上げられている。

たしかに臨床現場でも様々な不妊治療の話を聞くことが増えた。人によっては卵子凍結の費用の話もランチタイムにするような話になっているようだ。そしてたしかに私のきき方もずいぶん変わった。いや、きき方は変わらないがこれはずいぶん多くの人に共有される問題になったんだな、という感覚をもつようになった。

 ポッドキャストできいた話は新しい領域において子供に対する欲望(来たるべき子供の不在をめぐって)も変化してきているという話と思っていたけど最後はこれまでとそんなに変わらないのではないかという話にきこえた。この話もmotherhoodの文脈で語られていてそれ自体に私は抵抗を感じてきちんと聞けていないというのもあるし、私の英語の聞き取りの問題も大いにあると思う。

しかし、これが変わったからこっちも変わる、というほど人間は簡単ではない気がする。むしろ変わりたくないという欲望の外在化としての技術では、という気もする。この場合だって変わりたくないというのは無意識のことをいっているのでそれがなにかを取り出すことはできない。それは常に事後的にあらわになるというのが精神分析の考え方であり、実際にそうだと思う。本人にも誰にもわからない。知る、わかるよりとりあえず自由連想。

今日もがんばりましょう。

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超回復とか引用とか。

虫の声。静かな朝。音があってはじめて感じる静けさもあるし静けさのおかげではじめて感じる音もあるね。

筋肉痛がひどくて時々ふらつく。都会の人は歩くのが早くてうまく避けられない。酔っ払ってるわけではないよ、というかこれは酔っ払いのイメージか、と心の中で呟きつつのったりふらりと歩く。破壊された筋肉が回復中なのよね、と思って筋肉痛について調べたら「超回復」という文字がありなんかすっごく強くなりそうと思った。漢字三文字だからか。「波動拳」みたいな。さて超回復には48時間から72時間かかるらしい。バスケ部やバド部だった頃、筋肉痛でフラフラになった翌日も練習していたけどあれは筋肉によくなかったってことかな。でも合宿で超回復待っていたら練習ほとんどしないことになってしまうものね。まあ、不真面目な俺たちにはそれで全く問題なかったがな。お部屋でゴロゴロダラダラおしゃべりしてるだけで全然楽しい、ってなってたと思う。

先日、GW中に開催された狩野力八郎先生の蔵書頒布会でいただいてきた本を読んでいた。そのメモを探していたらこんなのがあった。

「われわれ、特に日本人は「なる」という表現が好きで、「何々します」とは言わないで、「何々ということになります」という言い方をしますね。あるいは鳩山前首相も得意だった「・・・・・・させていただきます」というへりくだりの表現がありますね。」

これは別の本からの引用だ。

木村敏と坂部恵の「する」「なる」の区別を受けて「何々ということになります」について野家啓一が木村敏との対談で言った言葉。

「ある意味ではそれは、自己が責任をとらないという責任逃れの口実にもなるんだと思いますが、同時にその事態の展開というものを自分だけじゃなく、他者とも共有し合う場を形作る、という機能も「なる」という表現にはあるのかな、と思うのですが。」

中動態の話。どの本だったか。木村敏と野家啓一で検索するとなぜか全然関係ないサイトが出てきた。Googleが変になっちゃったと思ったら「野毛」で検索していた。とはいえ、どうして?「野家ではありませんか」とか出るのがいつもではなかったっけ。二人とも有名でしょう?それにしてもお二人の共同作業は多くてどれだけわからないな。「河合臨床哲学シンポジウム」シリーズのひとつだった気がするけど曖昧。出典が一番大事なのにメモしわれた。

さて、お目当ての本のメモはどれだ。ない。ラカンの不安概念と関連して気にしていたキルケゴールのことが書いてあったのに。でも書名ならわかる。実存主義とルドルフで検索。あった。

『実存主義と精神医学』 ルドルフ・アラーズ (著) 西園昌久/板谷順二 (訳) 判型:A5判 ページ数:113, 5 1965年6月15日初版 岩崎学術出版社 刊行時定価(税別)800円

とのこと。引用メモは見つからないけど西園先生はこの本の翻訳を小此木先生に強く勧められたとあとがきで書いていらした。精神分析に対する批判やそれに触発された対話の水準が高かった時代という気がする。最近、そういう時代の本ばかり読んでいるな。いや、そうでもないか。小説はわりと最近のも読むようになったし。とにもかくにももう亡くなってしまった先生方の仕事を忘れないように現在の精神分析を考えていかねば、というかその方がずっと豊かな気持ちになる。感謝だなあ。

冷房はつけてないけど少し暑くなってきたかな。森の方でいつもと違う鳥の声がする。どうしたんだろう。今日もがんばりるれろ(とか昔言ってなかった?)とか言ってるといいな。

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カステラ、『東京都同情塔』、Chat GPT

今日も光が強い。メロンをいただいた。甘すぎずジューシーで美味しかった。あと「甲州かすてら 槌や」のカステラ。石和温泉のお土産。包装も可愛いのだけどWebサイトだとよくわからない。どのお菓子も美味しそう。お味は色々あって今日は抹茶をいただきました。この甘みは美味しい。あ、インスタでなら見られる。「およそ70年前に花嫁と共にやってきたカステラを原点に持つ「槌や」」ということでこのデザインなのね。この地域の慣習かしら。お米とかお金の代わり?何か物語があるのかしら。

昨日、九段理江『東京都同情塔』(新潮社)を読んでいた。「生成AIを駆使して作った」という作品。すごいな。言葉言葉言葉で読みにくいがこのこだわりが「言葉って」という疑問を生じさせる。言葉の効果、というのを作者は熟知して使いこなしている。すごい。面白いとかそういうのとはだいぶ違うけどドライに書かれた強烈な皮肉を感じた。

ふと私もAIを使ってみようとchat GPTにログインした。登録はしたがほとんど使ったことがない。パスワードは保存されたままだった。目のマークを押してただの●で隠されていたパスワードを表示させる。なるほど。私はこれはこっちのパスワードにしたのか。とりあえず入力すればいいのだろう、と入れてみる。

最初は槌やのカステラのこと。勝手に物語も作ってくれた。

「新郎新婦はこの甘いお菓子のように、末永く甘い生活を送り、地域でも伝説的な夫婦として語り継がれることとなったのです。」

で終わっていた。うーん。

別のことも聞いてみよう。

「精神分析を受ける人ってどんな人?」

AI の答え。

「精神分析を受ける人は、さまざまな心理的な悩みや葛藤を抱える人々です。精神分析は、無意識の心の動きや過去の経験にアプローチして、深層心理を理解し、問題解決を目指す治療法です。一般的に、精神分析を受ける人には以下のような特徴があります。

1. 繰り返す感情や行動のパターンに悩む人

精神分析は、無意識の葛藤や欲望が、繰り返し似たような問題を引き起こすことに焦点を当てます。そのため、例えば同じ種類の人間関係のトラブルや感情的な反応を繰り返している人が対象になります。

2. 過去のトラウマや心の傷を持つ人

精神分析では、幼少期の経験や過去のトラウマが現在の問題に影響を与えると考えます。過去の経験を整理し、解消しきれない感情を理解したいと考える人が治療を求めることが多いです。

3. 自分を深く理解したい人

自己理解を深めたい、人生の意味を見つけたい、自分自身の本当の気持ちに気づきたいという人も精神分析を受けることがあります。これには、特定の悩みを抱えていなくても、自分の無意識に興味を持つ人も含まれます。

4. 不安や抑うつに苦しむ人

精神分析は、不安障害や抑うつなどの心理的問題に悩む人にも効果的です。これらの症状は、しばしば表面的な原因だけでなく、深層の無意識の葛藤に根ざしていることが多いため、精神分析的なアプローチが有効です。

5. 夢や象徴に興味を持つ人

精神分析では夢や無意識の象徴が重要な意味を持つとされます。そのため、夢の分析や、自分の中の無意識的なサインに興味を持っている人が精神分析に惹かれることもあります。

6. 長期的な治療に取り組む意思がある人

精神分析は、深層心理に働きかけるため、通常は短期間での成果を期待するものではありません。時間をかけてじっくりと自己理解を深めたい、根本的な問題に取り組みたいという人に向いています。

7. 自分の行動や思考の動機を探りたい人

自分がなぜ特定の行動をしてしまうのか、自分が持つ思考パターンの背後にある動機を探りたいという人が、精神分析の対象になります。

精神分析は、表面的な症状だけでなく、その背後にある根本的な原因にアプローチする方法であり、人生の意味や自己理解に関心がある人、または深い心の葛藤に取り組む必要がある人に適しています。

うーん。

間違ってはいないけどこう羅列されるとなんだかポカンとする。これらにひとつも当てはまらない人もいるだろう、というか、これらを意識して意気揚々と申し込んできた人が実際に精神分析を始める人はそう多くない気がしている。

しっかし、こういう感じなんだね、ChatGPT。うーん。これを駆使してこういう作品を作れる「人」の力がすごいな。私も課題もこなしてくれないかな、と思うけどどう言えばいいのかわからない。AIとの会話で何か思い浮かぶかな。とりあえずPCの前から離れなければ。今日もがんばろう。