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精神分析 読書

できることできないこと。

沖縄から伊豆諸島はまた大雨か。熱帯低気圧。八丈島は今夜も激しく降るらしい。まだ断水が続いているところもあると聞くけど島の産業への打撃も深刻だろう。募金くらいしかできないけど、状況は追える範囲で追っている。

台風24号は、南シナ海を1時間に25キロの速さで西に進んでいるとのこと。日本にはこないみたい。フンシェンというらしい。

昨日、台風22号で大きな影響を受けた八丈島の方の発信を見たのだけど台風に慣れていて対策のための知恵が豊富なことにも驚くけど、被害は甚大で、支援が必要なことに変わりはない。19日のニュースで、陸上自衛隊が自衛隊としてははじめて、一般施設と自衛隊装備の組み合わせによる入浴(加水)支援活動を始めたとあった。これまでそういうことはしていなかったんだね。東日本大震災のとき、福島県郡山市で避難所として使用されたビッグパレットふくしまに通っていたけど、そのときは裏の広いスペースに自衛隊が独自で入浴スペースを作っていて、中のピリピリした空気から逃れる場所にもなっていたように思う。私たちは「遊びの出前」と称して、調理ができるトラックと一緒に子供たちの遊び場をつくって一緒に過ごしていたのだけど、怒号もきこえたし、あの独特の空気は今もすぐに思い出せる。入浴というのは安全であることが大前提だから、温泉施設でなくても、その後の復旧のことも考えれば元々あるものを利用できるならしたほうがよさそうなものだけど、支援のスピードが変わってしまうのかな。それぞれの工夫を共有するって意外と難しいものなのかもしれない。避難所でのプライベートなスペースの確保などについても部分的には素晴らしい取り組みが紹介されるようになったけど、いざ災害が起きたときにそれらが当たり前のように展開されるほど認知されてはいないだろうし、毎回、大きな災害が起きるたびに、外国はこんなに進んでいるのに、とか、前回の災害から何も学んでいないのか、という声が出るのは本当に考えなければいけないこと。私も誰もが被害者になりうるという実感はあるけど、やっぱり支援が必要な「そのとき」に対して受け身であるとは思う。支援者としての体験を活かせるかと聞かれればその自信もない。ただ「わがまま」を代わりに言える状態は作っていけたらいいなと思っている。カウンセリングや精神分析はそういう場としても機能しているけれど、これまでNPOで繋がってきた人たちの繋がりも再び強くなっているので生かしていけたらいいなと思う。

社会学者で社会運動研究者の富永京子さんは『みんなの「わがまま」入門』(2019、左右社)でこう書いている。

”「わがまま」を言うべき立場の人はなかなか言い出せない、だから代わりに言ってあげることは大事だし、もしかすると代わりに言うことがじつは自分自身の言いたい「わがまま」と結びつくことがある。”

この本は誰にでも通じる言葉でとてもわかりやすく書かれているのでおすすめ。

今朝も寒い。パーカーを羽織った。昨晩も寒かった。深夜に暖房をつけてしまった。冷蔵庫の中は週末のつくおきで充実、のはずがなんだか減りが早い。食べすぎているのか?冬眠もしないのに?熊などの冬ごもりは疑似冬眠というそうだ。時々覚醒して排泄や摂食などを行うから(by広辞苑)。それはともかく、隙間時間にせっせと作るより、もう毎日鍋でいい、みたいな気分になったりもする。寒がりがめんどくさがりを助長するが、こだわりは特にないのでそれでよし。温かいものは大抵美味しい。でもインスタで流れてくるハロウィンおかずとかはちょっとやりたいな。ちょっとの手間で済むのならかわいく楽しくやりたい。

熊といえば、『ともぐい』(新潮社)で直木賞を受賞した河﨑秋子さんのソロキャンプ密着記を読んだが、彼女自身が酪農に従事したこともあり、ソロキャンプにはまっている現場の人だと知ってびっくりした。羆文学という言葉がいつからあるのかわからないが今年はどうしてもそういうものを手に取ってしまう。怖いのだ、要するに。軽い登山でも毎回怖い怖いと思っているが、東北ではこれまで熊と会わなかった街中にも出没しているし、もうどうしたらいいかわからない。でも河﨑さんの話を読んでいるとまだできることはあるんだな、という気はする。最近、誰と会っても熊の話題が出るような気がするし、人間にできることってなんだろう。

話は変わるが、この前、精神分析家のくせに催眠って、とジェラール・ミレールの嘘っぽさを書いたけど、それはジェラール・ミレールが本当にひどいことをしたからであって、催眠自体は今も効果を認められているし、私は大変かかりやすい。教育相談室に勤めていたときに外部から催眠療法、イメージ療法の先生をお呼びしたときに実践してもらったら簡単にかかってしまった。管理職の先生方は全くかかっていなかったのに。かかっている自分に笑いながらも逃れられない状態が可笑しかった。あれはなんだったんだろう。今もああなるのかな。なるのだろう。またやってみてほしい。

そもそもフロイト精神分析の最早期はパリの神経学者シャルコーであり、彼がウィーンに持ち帰ったのは催眠療法だった。ヒステリー研究を共にかいたブロイアー。彼らは催眠を医師の指示に従わせるものとしては使わなかった。催眠による想起自体に治療効果を見た(症例アンナ・O)。その後、フロイトが催眠を放棄したが、生涯気にしてもいた。なんてことをわざわざ書く必要もないのだが、昔、中学校での先生向け講習会やクリニックでやっていた自律訓練法の位置付けってどうなっているんだっけ、と思ったから。自律訓練法はドイツの神経学者シュルツによって体系化された。催眠の一種と言っていいだろう。私は当時動作法とか身体へのアプローチにも関心が強かったので、クリニックでたくさん経験できたことはよかった。そこでスクールカウンセラーをしていた学校で先生方にやってみたわけだが、なんと床が冷たすぎて、結局温かいお茶を飲みながらの座談会に変更になった。心理療法の前提に環境調整があることをわかっていてもこういうことは起きる。そしてこういう不備を共有し、そこに別の手当てを施すことができることも臨床をする心理士には必要だろう。これは技術ではなく、不備を指摘してもらえたり、それを素直に認められたり、それを笑い合えたり、それらを抱える別の状況作りだったりする。つまり、割と当たり前のことだ。スーパーヴィジョンをしていても、仲間内で話していても、鍵ってどうしてる、とか、カレンダーどんなの使ってる、とか、車椅子の置き場ある、とか、休みの連絡ってさ、とかそういうことは結構常に大事で、でもそこに正解があるわけではないからあえてトピックにするようなことでもなく、それぞれがいろんな状況を体験してきているのを共有することが意義深い。患者さんの話だってそういう細かいことから生じる出来事がほとんどだと思う。今朝鍵かけるの忘れて出てきちゃって、とか、まだカレンダーが8月のままだって気づいたんですよ、とか、子供の頃はまだ車椅子が小さかったから、とか、私、その日、すっかり休みだと思ってて、とか、いうことがあったら、その続きは一人一人全く異なるわけで、まあ、当たり前だが。体験していないことの方がずっと多いわけだから、思い浮かべられる状況なんて限られている。でもそのものさえ知っていれば言葉にしてもらうことで想像が広がっていく。そこにはもちろん誤解もあって、何ヶ月もたってから、あ、そういことか、と驚くこともある。そういう心の不確かさや言葉の曖昧さを実感させてくれるのが精神分析で、そういうのを忘れないでいられる密度の濃い設定はそれらが無意識と交流していずれ別の形を得るのを待っている設定でもあるので時間もかかるけど、触れ得ないものに触れるのではなくて、触れられないと知ることの豊かさは計り知れない。すぐに結論を急ぐ人には全く向いていない技法だけれど自分のペースでじっくり考えたいよ、という人には有効だと思う。そういうのも相手によって違う自分だから。どうして私はこの人の前だとこんなに待てないのだろう、とか、なんか今急に思い出した、ずっと忘れてた、というかそんなことあったのかってびっくりしてる、とかいろんな驚きと出会うのが精神分析だから、そういうのいいかもしれない、と思える人にはおすすめしたい。時間とお金という問題以外に、フロイトたちが発見した想起というものが持つ自らに対する侵襲性がお互いの関係を難しくすることは最初から致し方なく見込まれることではあるのだけど、言葉と身体の相互作用も丁寧に観察しつつ、分析家の方も患者さんの言葉が守られる場での鍛錬を欠かさずやっていくことが大事。

なんか何ができるだろうなあ、何ができているのだろうなあ、ということを考える朝になった。暖かくして過ごしましょう。

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趣味

富永京子さんポッドキャスト

姫栗もなか。上手に割れず。クシャッとなってしまった。緑茶が美味しい。

昨晩も富永京子さんのポッドキャスト『仕事の合間』を聴きながら帰った。富永さん、本当に話すのが上手。おもし論文といって興味深い論文の紹介もしてくれるのだけどその説明もものすごい上手。上手という言葉にしてしまうと簡単なんだけどなんていうのかな、専門的な分野のこともこっちが全く興味を持ったことのないことも同じような楽しさの話にすっと変換しながら話してくれてるというか、疲れた帰り道でぼんやり聞いてるだけなのに耳はきちんと興味を持ててしまっている、というか社会運動の研究者は本当にいろんな人の声に耳を傾けているだろうからそもそも聞き手のことをよくよくわかっている人なのかもしれないねえ。元々そういう能力の高い人なのかもしれないし。そうそう、富永さんはいろんな人と美味しそうなアフタヌーンティーをしててすごく楽しそうなのだけど研究者同士とか狭い範囲の人と話すことが多いんだって。そこで話されている研究者同士の話の再現も「ほー」と思うのだけど、それ以外の人とのいわゆる雑談をものすごく新鮮に楽しんでいる富永さんの話も面白かったよ。私なんて仕事以外は雑談しかしていないから逆にそんなことがそんなふうに楽しいのか!と思ったり。またね、その紹介する話題も絶妙で、しょっちゅうそんな話してる人たちなら尚更ノれる話題だったりね。自分の言葉で喋っている人の話ってすっと入ってくるからいいのかもねえ。なんか好きなもののこと書いてると気持ちが和んでくるね。いいことだ。

とかいって逃避している場合か。場合じゃない。なんか頭がおかしいんだもん。だもんじゃない。はい。がんばりましょう、できる範囲で。

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お菓子 未分類

2月27日(火)朝

今年は梅の木に遊ぶメジロをたくさん見ている。ちっちゃくすばしっこくすぐに幹に隠れてしまう。何枚も何枚も写真を撮るけどはっきりメジロだとわかる程度に写ってくれることはほとんどない。私は残念だけどメジロは元気。良いことだ。スズメ、ムクドリ、ヒヨドリ、シジュウカラ、私がぐったりしている間にみんな少し遠くへいってしまったみたい。しまった、また眠ってしまった。ずーんとだるいが色々やらねば。今日は秩父土産、阿左美冷蔵のとろっとろの水羊羹。お腹痛いけど黒みつが美味しくて少し食べてしまった。かき氷で有名なお店だそうなので夏に行ってみたい。

昨日聞いたポッドキャスト。私の興味あるところ。

Episode 153 : Female Sexuality in India Today: Through an Analytic Lens with Amrita Narayanan, PsyD (Goa, India) FEBRUARY 25, 2024

この人のこの本も欲しいけどKindleでもすごく高い。

Women’s Sexuality and Modern India In A Rapture of Distress” by Amrita Narayanan

富永京子さんのポッドキャストも聞いた。なんて表現したらいいのかわからないのだけどとても良いのですよ。おすすめです。

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読書

『自由に生きるための知性とは何かーリベラルアーツで未来をひらく』(立命館大学教養教育センター編、晶文社)を読み始めた。

深夜から始まる工事がまだ続いている。金属音も色々だなあ、と改めて思わされる。お疲れ様です。

小分けになったかわいいパッケージのこだわりコーヒーをもらったのに今日もたくさん入っている名もなきお得用コーヒーをいれてしまった。「しまった」と書いてしまったが実は私はコーヒーの味がよくわからない。なので割となにを飲んでも美味しがる。なので素敵なものは観賞用となっていく。でもダメ。香りが飛んでしまうというではないか。そっちの方がもったいないよ。そうだね、今夜か明日の朝いただきましょう。

相手がいなくても私たちは日々こうして対話的なことをしている。「痛っ!なんでここにこんなものが!」とかいう独り言だってそうだ。相手がある。いる。

ここ数日私が勝手に対話をテーマとした本と分類したものを読んでいた。

イ・ラン/いがらしみきお『何卒よろしくお願いいたします』(訳 甘栗舎、タバブックス)はコロナ禍であるという事情以前に、離れた国に暮らす二人の手紙による対話だった。

ドミニク・チェン『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(新潮文庫)は育ちゆく娘の環世界との対話といえるだろうか。

本は自分や他者とのたくさんの対話の痕跡だと思う。何度読んでも面白い本は文字にはならないたくさんの対話がその背景にあって読むたびにそれらを発見させられるからかも。

一方、対話が本になるときそこには他者による編集作業が加わり生の素材は客観的に削ぎ落とされより伝わりやすいように加工される。文化祭の教室をめぐるように最初は目的があっても歩くだけで別の世界と出会うような体験をしたいときに編書というのは便利だ。

先日「学生や生徒が学びたいことを自らデザインできる学生提案型ゼミナール」を立ち上げるための副読本がでた。立命館大学教養教育センターの企画だ。今回、「みらいゼミ」と呼ばれるそのゼミナールを学生たちが立ち上げる手助けとして企画された25人の専門家による対話と議論が一冊の本として外へ開かれた。

自由に生きるための知性とは何かーリベラルアーツで未来をひらく』(立命館大学教養教育センター編、晶文社)

自由に学び、自由に考え、自由に生きる、書いてしまえば当たり前のことがなんと難しいことか。その困難に対して多彩な分野から様々な視点を提供してくれるこの本の構成、内容は立命館大学のWebサイトでも晶文社のWebサイトでも確認できる。

私が尊敬する文化人類学の専門家、小川さやかさんは脳神経内科の医師である美馬達哉さんと「なぜ人はあいまいさを嫌うのか――コントロールしたい欲望を解き放つ」というテーマで対話している。小川さんの著書で知ったタンザニアの人たちの生活にここでも学べる。「偶然であることの豊かさ」「他者のままならなさを認めるからこそ、私のままならなさも認めることができる」。分野の異なる二人の専門家の対話は著書とはまた異なる響きをもってそれらがなぜ大切かということを教えてくれる。

社会運動論の専門家である富永京子さんの登場も嬉しい。メディア論、メディア技術史専門の飯田豊さんと「わたしの“モヤモヤ”大解剖――わがまま論・つながり論を切り口に」というテーマで対談されている。先日書いたが「つながり」の本はやはり多そうだ。そして「つながり」という言葉の使われ方もポジティブなものから両義的なものまで様々とのこと。メディア研究というのは自分の持っている知識やイメージの狭さを自覚させてくれるありがたいものなんだな。

富永さんは著書『みんなの「わがまま」入門』(左右社)の中で「まずは自分に暗黙の内に強く影響を与えている人と離れてみよう、そのために、これまでと違う大人と出会える場所に行ってみよう」と提案していた。そしてその具体的な方法としてまず「大学に行ってみよう」と書いていた。さっきは文化祭と書いたが、今回のこの本はオープンキャンパスに出向くような本ということもできるかもしれない。ちなみに富永さんのクラスには高校生が見学に来ることもあるとのこと。

本書に戻っていえばこのお二人の対談では「つながり」「あつまり」「しがらみ」という言葉が並べられて検討されていたのもよかった。

トークセッションではQ&Aのほかに、これらを読んでもっと考えてみたい読者のために「もっと考えてみよう」という欄があり、ヒントが箇条書きで書いてある。こういうのも学びの場っぽい。

立命館大学はこの本には登場しない先生にも魅力的な専門家がたくさんいる。豊かだ。そういう大学がこういう本を出してくれたからには特に若い方々に広く届けばいいと思う。

「自由に生きるための知性とはなにか」。壮大な問いのようにみえるが本を開けばわかるようにその入口はひとつではない。興味関心の赴くままにとりあえず出向いてみよう、そうすればなんらかの発見が待っている。そんなことを若い世代とも共有できたらいいな、など思いながら読んでいる。

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精神分析、本

わからないから

8月14日のイベントにお招きする川柳作家の暮田真名さん、言葉といえば私的にはこの人たちである飯間浩明さん、川添愛さん、山本貴光さんの鼎談を目当てに『ユリイカ』2022年8月号(青土社)を買った。最初に読んだのは鈴木涼美「ギャル的批判能力は時代おくれなのか」、あと山本ぽてと「語尾とうしろめたさ」。お目当てから先に読むとは限らないのさ。この二人のも注目していたけれど。

鈴木涼美さんが「一億総ライター的なSNS社会」と書いている。確かに。でもSNSにいるのはほんの一部の人たちでもある。実際、私の周りはSNSのアカウントを持っていてもほとんど使っていないし、臨床心理士資格認定協会に対する働きかけを行う(返事はまだない)時にもそれを思い知らされた。今再び話題になっている宗教や宗教二世のこともSNSによってこれだけ公にされる時代になったことは驚きだが、臨床で地道にそれらと関わってきた身としてはそこで公にされることの意味や影響については日々考えさせられる。報道されることもそれはその人のあるいはその出来事の一面である可能性については当たり前と思っている。事件は一人では起こせないのだ。そして自分がそこにどのような形で関わっているか、いないかなは誰にもわからないのだ。もしかしたら自分のつぶやいた一言がなんらかの影響を与えていたらとか考えたらきりなく物事は繋がっていくがそれはあり得ないことでは決してないだろう。

社会運動の研究家の富永京子さんがSNSでのたやすい共感についてツイートしていたが確かにSNSにはなにも知らないのに口調だけみたら(SNSは視覚的だね)親しい間柄みたいなのもたくさんある。

千歳烏山の小さなアパートに住んでいた頃、夜男性の声で電話があった。寝ぼけていた私は誰だっけと思いながら知っている人と思って適当に返事をしていた。相手がそういう口調だったから。そのうちに相手が適当なお世辞を言って「ごめんね」と電話を切った。あれはなんだったんだろう。SNSで生じていることもそんなに変わらないだろう。そういうことがもっと簡単に、人から見える場で行われるところはだいぶ違うけど。

人には決して他人にはわからない、自分にもわからない領域がある。勝手に悔やまれたり悲しまれたり「共感」されることに激しい怒りを喚起されることもある。わかろうとすること自体が結構暴力的なのだ。土居健郎が「わかる」ことにこだわり、藤山直樹は土居が序文を書いた著書で事例によってその侵入性を示した。『精神分析という営み ー生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)の最初の症例がまさにそうだ。人は簡単ではない。わかること、わかられることに一面的な価値を与えることはできない。だからなにというわけではない。ただそうなんだと思いながら、その人自身にも触れられないこころの領域を想定してそれを尊重したい、そうしながらそばにいたいな、そうするしかないもんね、わからないから、と私は思うのだ。