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精神分析、本

わからないから

8月14日のイベントにお招きする川柳作家の暮田真名さん、言葉といえば私的にはこの人たちである飯間浩明さん、川添愛さん、山本貴光さんの鼎談を目当てに『ユリイカ』2022年8月号(青土社)を買った。最初に読んだのは鈴木涼美「ギャル的批判能力は時代おくれなのか」、あと山本ぽてと「語尾とうしろめたさ」。お目当てから先に読むとは限らないのさ。この二人のも注目していたけれど。

鈴木涼美さんが「一億総ライター的なSNS社会」と書いている。確かに。でもSNSにいるのはほんの一部の人たちでもある。実際、私の周りはSNSのアカウントを持っていてもほとんど使っていないし、臨床心理士資格認定協会に対する働きかけを行う(返事はまだない)時にもそれを思い知らされた。今再び話題になっている宗教や宗教二世のこともSNSによってこれだけ公にされる時代になったことは驚きだが、臨床で地道にそれらと関わってきた身としてはそこで公にされることの意味や影響については日々考えさせられる。報道されることもそれはその人のあるいはその出来事の一面である可能性については当たり前と思っている。事件は一人では起こせないのだ。そして自分がそこにどのような形で関わっているか、いないかなは誰にもわからないのだ。もしかしたら自分のつぶやいた一言がなんらかの影響を与えていたらとか考えたらきりなく物事は繋がっていくがそれはあり得ないことでは決してないだろう。

社会運動の研究家の富永京子さんがSNSでのたやすい共感についてツイートしていたが確かにSNSにはなにも知らないのに口調だけみたら(SNSは視覚的だね)親しい間柄みたいなのもたくさんある。

千歳烏山の小さなアパートに住んでいた頃、夜男性の声で電話があった。寝ぼけていた私は誰だっけと思いながら知っている人と思って適当に返事をしていた。相手がそういう口調だったから。そのうちに相手が適当なお世辞を言って「ごめんね」と電話を切った。あれはなんだったんだろう。SNSで生じていることもそんなに変わらないだろう。そういうことがもっと簡単に、人から見える場で行われるところはだいぶ違うけど。

人には決して他人にはわからない、自分にもわからない領域がある。勝手に悔やまれたり悲しまれたり「共感」されることに激しい怒りを喚起されることもある。わかろうとすること自体が結構暴力的なのだ。土居健郎が「わかる」ことにこだわり、藤山直樹は土居が序文を書いた著書で事例によってその侵入性を示した。『精神分析という営み ー生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)の最初の症例がまさにそうだ。人は簡単ではない。わかること、わかられることに一面的な価値を与えることはできない。だからなにというわけではない。ただそうなんだと思いながら、その人自身にも触れられないこころの領域を想定してそれを尊重したい、そうしながらそばにいたいな、そうするしかないもんね、わからないから、と私は思うのだ。

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つもりはつもり

こんなでもやっていけるもんだな、と感心する、自分に。世界に。

本を読んでいても患者さんの話をきいていても「よくそんなこと覚えてるな」と思うことが多い。記憶力の問題も大きいだろうけど自分がいかにぼんやり世界と関わってきたかを思い知らされる。

川添愛さんという言語学者であり作家でもある多才な方がいるが、『言語学バーリ・トゥード』(東京大学出版会)の面白さはすごかった。同じ年齢で文化も共有していて書かれていることもそれが誰でそれがなにかはわかるのだけど、私は細かいところをなにも覚えていない。私にとって川添さんはもうなんかすごすぎるのだが特別というわけではなくて誰と話してても私はそう感じやすい。そのくらいぼんやり生きてきてしまった。が、最初に書いた通りこんなでもなんとかなっているので大丈夫だよ、と誰に言うでもなく書いておく。自分にか。

この本の最後は、といきなり最後に飛ぶが「草が生えた瞬間」ということで書き言葉の癖について書かれている。三点リーダーとかwとかそれがのちに草になったこととか全然知らなかった。私いまだに(笑)をたまに使うくらいだし…。←これが三点リーダーと呼ぶんだって、私はこれよく使っちゃう・・・。悪いことではないが何事も過剰はよくない気がする。

この本、2021年5月にでてすぐに読んでまだ一年くらいしかたってない。こうしてめくれば「ああ」と思い出すこともある。が、ごくわずかだ、私の場合。最後からめくるのが癖だからさっきはいきなり最後に飛んでしまった、と一応意図を説明してみようかと思ったがそんなのなかった。「あとがき」から読む癖は変わらないな。変えようとしない限り変わらないのが癖か、というとそうでもない。いろんなことの複合体というかなにかがまとまって仮固定された形なのだろう。忘れる忘れないでいえば、本の最初、つまりもっとも集中してなんどか読んだ可能性のある箇所を「こんなこと書いてあったのか」とまた新鮮に読めてしまったりすると「大丈夫かよ」と自分に思うがさっきも書いた通り大丈夫。縄文時代と古墳にだけやたら詳しかった時代なんて誰にでもあるでしょ、ということにしておこう。

ダチョウ倶楽部の上島竜兵が亡くなったときに思い出したのもこの本だった。表紙にも登場している。「意図」と「意味」の違いを説明するときに使われるシーンはもちろんあのシーンだ、と私でもいえるくらい、さすがにダチョウ倶楽部のあのネタは有名だ。彼は「AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか」という二番目の話に登場する。

「知るかそんなもん!」と絶叫したくなる例も面白い。上島竜兵は誰もがその「意図」をわかる形で正反対の「意味」の言葉を伝えたが、「たいていの言葉については、話し手が「こういうつもりで言った」とか「そういうつもりじゃなかった」ということができてしまう」ほどにその意図は個別的で読み取ることが難しい。

私の臨床でもよく聞く言葉だ。「そんなことはわかってる。あなたが意識できていることなら私がなにかいうまでもないでしょう」と私は思う。特に精神分析は無意識や「こころ」と名付けられるものなど捉えられなさ、わからなさのほうに常に注意を向けているのでそういうつもりじゃなかったのに今ここでこれが生じていることに関心をもつ。私たちをおかしくさせるもの、苦しくさせるもの、それを同定することは多分無理だ。でもピン止めする(北山修が使う言葉)、仮固定(千葉雅也が使う言葉)することはできる、他者がいれば。もっともひとりだったらずれ自体に気付く必要もないのかもしれないが。

今日二度目のブログを書いてしまった。こんなつもりじゃなかった。書かねばならぬものは別にあるのだ。はあ(これにもwとか草みたいな記号的なにかはあるのだろうか)。はあ。