カテゴリー
読書

八戸、福島、神保町、渋谷など

今朝は「八戸港のお茶時間」を。日比谷OKUROJIにある青森県八戸圏域のアンテナショップ8base(エイトベース)で素敵なイカの絵に惹かれて書いました。オンラインショップで見ると黒っぽいイカの絵だけど今のパッケージの方が薄茶色で良い気がする。最近はお菓子はみんなバラで買えるから色々試すことができていいですよね。中身はイカの形をしたパイ。「イカスミ入りのクレームダマンドをパイ生地で包んで焼き上げました」とのこと。クレームダマンドってアーモンドクリーム。うん、たしかに。イカスミの味はよくわからなかったけど、そもそもイカスミの味って「黒い、しょっぱい」とか拙い説明しかできない気がする。そんなことないですね。わたくしの語彙力の問題でござるな、きっと。

「わたくし」と書いて今、東京都現代美術館で行われている志賀理江子×竹内公太「さばかれえぬ私(わたくし)へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023受賞記念展」に行かないとなと思いました。竹内さんの作品はこれまでもどこかでみているのですが、先日、代官山蔦屋書店で行われた安東量子さんのご著書『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)刊行記念イベントでお名前を目にして改めてチェックしてみました。ちなみにその日のイベントのテーマは「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ」、ゲストは安東さんと同じ福島県いわき市に住む(移住されたそうです)アーティスト竹内公太さん、司会進行は『スティーブ&ボニー』に帯文を寄せられた山本貴光さんでした。短い感想はツイートした通り。たくさん思うことがあったけど安東さんがご著書に書かれた体験や竹内さんが実際の大きさで再現しようと試みた「風船爆弾」のことを立体的にイメージすることができました。竹内さんの作品は風船爆弾と実寸大のインスタレーションということなので体感もできそう。「地面のためいき」という作品だそうです。

昨晩はクラウドファンディングに参加していた堀切克洋さん編集の『神保町に銀漢亭があったころ』(北辰社)も届きました。俳人の伊藤伊那男さん(銀漢俳句会主宰)が脱サラして開店した神保町の居酒屋「銀漢亭」、私も一度だけ行ったことがあります。穏やかで楽しい時間を過ごすことができました。吉田類とも鉢合わせたかったな。コロナ禍で休業したまま閉店したこの店で出会い、語らい、句会をするなどしてきたみなさん130名による寄稿を銀漢同人の堀切克洋さんが編みあげ、味のあるカバーイラストも素敵な一冊となりました。とても早いお仕事でこの本自体がまだあったかい(だけではないかもしれないけど)思い出の数々を語らうきっかけとなりそうな賑やかな一冊です。

渋谷センター街入口の大盛堂書店にも寄ることができました。『つけびの村』『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』(どちらも小学館新書)どちらもとても面白かった高橋ユキさんのノンフィクション本選書フェアに行きたいなと思っていたのです。選書リストをみたら桶川ストーカー殺人事件とか佐世保小六女児同級生殺害事件の本は読んだことがあったけどどれもこれも読みたくなるものばかり。時間がないから慌ててパラパラしたけど迷ってしまって結局、小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』(幻冬舎アウトロー文庫)、永瀬隼介『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)を購入。まずは『冷酷』の方を読んでいますがこういう取材って本当にエネルギーがいるというかすり減るというか大変そうです。著者の小野一光さんと高橋ユキさんの対談も載っていてこういう取材はこういうところに留意するのかなど勉強にもなりました。人間って、私って、私たちって、とぼんやりしてきてしまいますね、こういう事件のノンフィクション本を読むと。うーん。

今日は木曜日。なんとかやっていきましょう。

カテゴリー
俳句 読書

『スティーブ&ボニー』、3月11日、春の雨

寝不足。眠い。色々思い出したり考えたりしていると陰鬱な気分になってくる。さっき安東量子『スティーブ&ボニー』(晶文社)から引用したツイートをした。私はつながるための言葉を戦いの言葉に変換され言葉を交わすことに絶望したことがある。やっぱり、とどこかでわかっていたはずなのに希望を持ってしまったことにも重ねて絶望した。安東さんは絶望しながらも動き続ける。それをたやすく希望の証左とはいえないだろう。ただ福島で生きてきた人、福島を生きる人にとって絶望したからといって切り離すなんて何を?という感じではないだろうか。そんなことできないから絶望しながらでもこうやって生きてるんだよということではないのか。この本はアメリカで開かれた原子力に関する会議に招待された安東さんの孤軍奮闘日記でもあり様々な交流の物語でもある。そこでの講演内容を知れるのも貴重だし、それに対する聴衆の反応と安東さんの想いを知れるのはもっと貴重だ。あと1ヶ月でまた3月11日がやってくる。何度も何度も記憶を戻し、あれはなんだったんだろうと問い続ける。せめて誤解に基づく非難を回避する努力なら続けていけるのではないだろうか、こういう研究と現場を行き来する実践家の本を読むことで、と改めて思った。

空が明るくなってきた。今日の東京は「冷たい雨。今日との気温差に注意。」なの?昨晩、電車の液晶テレビ(っていうの?)でそんな予報を見た。まだ天気予報は変わっていないだろうか。「春の雨」という季語みたいに明るく暖かなイメージの雨ならいいけれどきっと違う。だって寒い。

ちとやすめ張子の虎も春の雨 夏目漱石

そうそう。今週も「ちとやすめ」と言い合いながら過ごしましょうか。リラックスするのはとても難しいことだけど力の抜けた柔らかな言葉をかけあうこと自体がそんな一瞬をくれると思うからまず言葉だけでもかな。どうぞ今日もご安全に。

カテゴリー
読書

BB弾、「お前はもう死んでいる」、安東量子『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)

自分を規定しない場所から発せられる言葉はその人の公的な活動しか知らない人にはとても自由で魅力的に聞こえるけどその人の愚痴とか色々聞かされて知っている人には「またそのパターンかよ、つまらねーな」となったりもする。実際、本人もつまらないことには自覚的で相当な後ろめたさを抱えていたりするが(裏話は誰にでもある)優れた編集力だか嘘つき力で面白くないおもしろ黒歴史としてそれを披露することでとんとんにしている。

安全な場所から遊んでもらいたい相手の方へ当たらないようにBB弾を放つみたいなことも年を重ねるごとに上手になる。実際に当ててしまった相手のことは「お前はもう死んでいる」と心の中で葬り去る。俺だって傷つけたくなどない!だから殺しちゃう?思うだけなら自由だ。そうだそうだ。これだっていずれ俺だけのプチブラ歴史として披露されるのだろう。なんの立場でもない俺俺立場は責任取らなくていいから地獄は相手が担うのだ。

BB弾は私が小6か中1のときにすごく流行った気がする。単にその年代が使いたくなる代物だったのかもしれないが。バカをしがちな友人が実際に人に当てて指導されたりしていたがそいつの環境を考えればやりたくもなるよなと思わずにはいられなかった。私もバカでダメな厄介者だったから共感しただけかもしれない。「お前はもう死んでいる」も流行った。いまだにケンシロウの言葉だ以外のことを知らない。友人は父親の後継にはなれなかった。なりたかったのかなりたくなかったのかは知らない。本人にそんなことを考える余裕があったかどうかも知らない。BB弾は世界に対するなんらかの抵抗だったとは思う。

思春期をとっくに過ぎても規定されることを嫌い何者でもない俺でいるという選択もしやすい時代になった、という言い方は嘘っぽいがとりあえずそうだとして真面目でも不真面目でもいられるなんにでもなれる俺で生きていくのも自由。ただどんなあり方も誰かに地獄を味あわせる免罪符にはならない。どこかで私たちは変更を迫られる。

黒歴史か、都合のいい言葉だ。トラウマのせいで進まない時間を過ごす人を葬り去り自分だけ時を進めてそんなことはおきなかったといいたい人にとっては。

友人は「まじめにふまじめ」だった。これはゾロリのこと。以前勤めていた小児発達クリニックの子どもたちにも大人気だった。高校生になって偶然再会したときすっかり背が伸びて誰だかわからなかった。何かを話したが内容は覚えていない。今は何者かになったのだろうか。リアリティを持って語るために自分をある立場に定める。私もいまだその途中だが今日も地獄側から考える。写真は地獄というより鬼。歌舞伎町の鬼王神社の狛犬。すごくいいと思った。節分のときも「福はうち、鬼はうち」っていうんだって。

あ、あとリアリティといえば『海を撃つ 福島・広島・ベラルーシにて』(電子あり、みすず書房)の著者、安東量子が昨年末に出した新刊『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)がとても良かった。アメリカを異文化と書きたくなったがフクシマはどうだろう。広島は?長崎は?著者は広島出身で福島で被災した。

「原発事故がおきて社会は大混乱に陥った。なかでも困ったのは、あらゆる関係のなかで意見が対立したことだった。生活の隅々にまで入り込んだ放射線のリスクをめぐって、家族でも、ご近所でも、職場でも、人と人とのコミュニケーションが存在する場面という場面で、意思疎通が難しくなり、しばしば修復不可能なほどにいがみ合うことになった。地元の野菜を食べるか食べないか、子供を外で遊ばせるか遊ばせないか、洗濯物を外に干すか干さないか、そんなあたりまえのことについて言い争う羽目になる日常の暮らしにくさは、経験してみないとわからないかもしれない。」ー3章より引用

著者は2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故のあと、地元で住民のみなさんと地道に放射線量を測定し、福島県内でダイアログ・対話活動をしてきた。事故後の大混乱の中、人間関係の修復という最も重要で困難、しかし不可欠な目的にとってその実践の積み重ねは大きな役割を果たしてきたのだろうと想像する。

その著者がいう。

「意見が違うことはしかたない。まずそれを受け入れた上で、なにかひとつでもいいから共有できるものを探すこと」

「内容はなんだっていい。その人が大切に思っているものをなにかひとつ、些細なものでもかまわないから、ひとつだけでも分かち合うことができれば、意見は対立したままであったとしても、関係をつなぐことはできる。」

この本は、核開発拠点のひとつだったアメリカのハンフォード・サイトで行われた原子力会議に招かれた著者の冒険譚のような一冊だ。著者のコミュニケーション哲学の実践を知れば知るほどその困難な現実に胸が苦しくなるが残るのは絶望だけではない。私は泣き笑いしながら読んだ。そして私たちが大きな組織に向けて細々と続けている運動のことも思い浮かべた。励まされた。あとがきに山本貴光さんに大変お世話になったと書かれていたが、推薦文はその山本さん。

「原子力を語ると、どうして話が通じなくなるのか。それでも分かりあえるとき、何が起きているのか。これは、そんな絶望と奇跡をめぐる旅の記録である」

まさに。読めば実感されるこの文章。多くの人にお勧めしたい。

カテゴリー
うそもほんとも。

神泉

寒い。「昨日は寒かったよね」と話したのは昨日。今日はまたとても寒いらしい。しかも雨も降るって。つらい。寒ツラ。雨ツラ。雨寒ツラ。「居るツラ」を定着させた東畑さんの言語感覚。「つらい」ではなくて「しんどい」とかだとリズム悪いものね。「つらい」と「しんどい」だと身体感覚もだいぶ違う気がするから比べるものでもないか。

先日、神泉の店へ行った。久しぶりに。

色々書いたけど削除。素朴な優しさに触れれば重たく疼き続ける部分にまた気づいてしまうみたいなことを具体的に書いた。そして消した。

神泉は渋谷のお隣の美味しいお店とラブホテルが上手に隣り合う街。儚い関係を結べる街。東電OL殺人事件があったアパートもまだあると教えてもらった。どう生きたところでどう書かれたところで、など。

人はひとりでは何もできないというのも本当。そのために誰かをひとりにしているのも本当。それどころかあっという間に最初からいなかった人みたいに扱えるのも、別の誰かで補填して「ひとりでは何も」とか言ってわかりやすく愛(?)や共感を集めたりするのも本当。本人は本当にそう思って感謝すらしてて「わたしたちみんなで」と素朴な優しさで支え合っていると信じてるのも本当。トータルの言動からすると嘘っぽいけど部分だけ切りとればすごく本当。消えてくれた人にも感謝するかな。自分で消しちゃったからもうなにかの対象でさえないか。

そういえば石田月美『ウツ婚‼︎ー死にたい私が生き延びるための婚活』(晶文社)が漫画(石田月美/磋藤にゅすけ)になったらしい。具体的なスキルはいろんな苦しみの描写でもある。

寒い。昨日はとても丁寧なお仕事を堪能して気持ちは暖かった。友人は早朝から海へ向かうといっていた。やっぱり水温があがってるらしい。寿司もサーフィンも水温の影響を受ける。「害」って誰にとってだろう。住みやすい社会、生きやすい世の中ってどんな?生き延びるって結構大変。今日もなんとか。

カテゴリー
読書

『自由に生きるための知性とは何かーリベラルアーツで未来をひらく』(立命館大学教養教育センター編、晶文社)を読み始めた。

深夜から始まる工事がまだ続いている。金属音も色々だなあ、と改めて思わされる。お疲れ様です。

小分けになったかわいいパッケージのこだわりコーヒーをもらったのに今日もたくさん入っている名もなきお得用コーヒーをいれてしまった。「しまった」と書いてしまったが実は私はコーヒーの味がよくわからない。なので割となにを飲んでも美味しがる。なので素敵なものは観賞用となっていく。でもダメ。香りが飛んでしまうというではないか。そっちの方がもったいないよ。そうだね、今夜か明日の朝いただきましょう。

相手がいなくても私たちは日々こうして対話的なことをしている。「痛っ!なんでここにこんなものが!」とかいう独り言だってそうだ。相手がある。いる。

ここ数日私が勝手に対話をテーマとした本と分類したものを読んでいた。

イ・ラン/いがらしみきお『何卒よろしくお願いいたします』(訳 甘栗舎、タバブックス)はコロナ禍であるという事情以前に、離れた国に暮らす二人の手紙による対話だった。

ドミニク・チェン『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(新潮文庫)は育ちゆく娘の環世界との対話といえるだろうか。

本は自分や他者とのたくさんの対話の痕跡だと思う。何度読んでも面白い本は文字にはならないたくさんの対話がその背景にあって読むたびにそれらを発見させられるからかも。

一方、対話が本になるときそこには他者による編集作業が加わり生の素材は客観的に削ぎ落とされより伝わりやすいように加工される。文化祭の教室をめぐるように最初は目的があっても歩くだけで別の世界と出会うような体験をしたいときに編書というのは便利だ。

先日「学生や生徒が学びたいことを自らデザインできる学生提案型ゼミナール」を立ち上げるための副読本がでた。立命館大学教養教育センターの企画だ。今回、「みらいゼミ」と呼ばれるそのゼミナールを学生たちが立ち上げる手助けとして企画された25人の専門家による対話と議論が一冊の本として外へ開かれた。

自由に生きるための知性とは何かーリベラルアーツで未来をひらく』(立命館大学教養教育センター編、晶文社)

自由に学び、自由に考え、自由に生きる、書いてしまえば当たり前のことがなんと難しいことか。その困難に対して多彩な分野から様々な視点を提供してくれるこの本の構成、内容は立命館大学のWebサイトでも晶文社のWebサイトでも確認できる。

私が尊敬する文化人類学の専門家、小川さやかさんは脳神経内科の医師である美馬達哉さんと「なぜ人はあいまいさを嫌うのか――コントロールしたい欲望を解き放つ」というテーマで対話している。小川さんの著書で知ったタンザニアの人たちの生活にここでも学べる。「偶然であることの豊かさ」「他者のままならなさを認めるからこそ、私のままならなさも認めることができる」。分野の異なる二人の専門家の対話は著書とはまた異なる響きをもってそれらがなぜ大切かということを教えてくれる。

社会運動論の専門家である富永京子さんの登場も嬉しい。メディア論、メディア技術史専門の飯田豊さんと「わたしの“モヤモヤ”大解剖――わがまま論・つながり論を切り口に」というテーマで対談されている。先日書いたが「つながり」の本はやはり多そうだ。そして「つながり」という言葉の使われ方もポジティブなものから両義的なものまで様々とのこと。メディア研究というのは自分の持っている知識やイメージの狭さを自覚させてくれるありがたいものなんだな。

富永さんは著書『みんなの「わがまま」入門』(左右社)の中で「まずは自分に暗黙の内に強く影響を与えている人と離れてみよう、そのために、これまでと違う大人と出会える場所に行ってみよう」と提案していた。そしてその具体的な方法としてまず「大学に行ってみよう」と書いていた。さっきは文化祭と書いたが、今回のこの本はオープンキャンパスに出向くような本ということもできるかもしれない。ちなみに富永さんのクラスには高校生が見学に来ることもあるとのこと。

本書に戻っていえばこのお二人の対談では「つながり」「あつまり」「しがらみ」という言葉が並べられて検討されていたのもよかった。

トークセッションではQ&Aのほかに、これらを読んでもっと考えてみたい読者のために「もっと考えてみよう」という欄があり、ヒントが箇条書きで書いてある。こういうのも学びの場っぽい。

立命館大学はこの本には登場しない先生にも魅力的な専門家がたくさんいる。豊かだ。そういう大学がこういう本を出してくれたからには特に若い方々に広く届けばいいと思う。

「自由に生きるための知性とはなにか」。壮大な問いのようにみえるが本を開けばわかるようにその入口はひとつではない。興味関心の赴くままにとりあえず出向いてみよう、そうすればなんらかの発見が待っている。そんなことを若い世代とも共有できたらいいな、など思いながら読んでいる。

カテゴリー
読書

神田桂一『台湾対抗文化紀行』を読んだ。

台湾対抗文化紀行』神田桂一 著、2021年、晶文社

まず目に留まるのは黄色くておっきい帯。表紙の三分の二。つい黄色くてといってしまったが下の三分の一は黄色くなかった。鮮やかな写真。おいしそう。楽しそう。向かって左の方の眼鏡もおしゃれ。台湾はいいよね!撮影は川島小鳥さん。大好き。文中にはご本人も登場。

そしてそのデカ帯を外すとなんとまたレトロでおしゃれな装丁。そのままブックカバーとかファイルとかジップロックみたいな袋にして売り出してほしい。相馬章宏さん(コンコルド)のお仕事。とても素敵。

さらにこれも外してみます。おー。台湾の国旗の色でしょうか。鮮やかな赤というか朱色?台湾はその穏やかなイメージの背後にアイデンティティの問題を抱えているのですよね、そういえば、となります。

ごちゃごちゃ感とすっきり感、レトロとモダン、まさにカルチャーとは、そして人の集まる場所というのは雑多。多様とかいうよりしっくりくる気がする。ただ、この感触も第七章において少し再考を迫られる(お楽しみに)。

普段、学術書を読むことが多いのでこういう本の読書はほんとに贅沢!だけど学術書よりずっと安い。もちろん台湾にいくよりも。台湾料理を台湾ビールと一緒にいただくくらいのお値段。1700円+税なり。

台湾には一度行ったことがある。もう何年になるだろう。ガイドブックにあるような観光地をまわっただけだがとにかくよく歩いた。普段から住んでいる人のように歩いた。コンビニにいき、袋がいるかどうか聞かれた時だけ「不要」と台湾語を使った。郵便局でちびまるこちゃんの切手(だったか)を買い、若者の街ではB級グルメ(なのか)の買い方がわからない私に列の少し離れたところに並んでいた若い女性が身振り手振りで教えてくれたり。タピオカミルクティーは私には甘すぎたが、言葉の通じないお店の人とのやりとりは楽しかった。バスの運転手さんは上手なウインクで送り出してくれた。夜市は暗くて(当たり前だ)雑多で楽しかった。

この『台湾対抗文化紀行』はとてもパーソナルなもので私のような台湾の観光地にとりあえずいってみよう、という人向けではない。著者もいまやたくさんある紀行文に載っているようなことはそちらで、と書いている。私は対抗文化、カウンターカルチャーというものをよくわかっていないが、それも特に問題ない。いい感じに力の抜けた著者に同一化し、その好奇心と、出会い任せの動きになんとなくついていくだけでただの観光客には知りえない場所へ連れて行ってもらえる。どちらかというと取材に同行させていただく感じだろうか。

音楽と政治の関係もライブハウスで語られるようにナチュラルに聞き取られる。日本には友好的で親しみやすい台湾も政治的には難しい立ち位置にある。思えばとても政治的なものである(だった)音楽にもそれは影響しているという。

著者が台湾アイデンティティなるものがあるならそれを明らかにと友人のdodoさんから話をきく第三章は、朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)を思い出した。もちろんここではアイデンティティについて聞くという明確な目的があるので個人史を聞くのとはまるで違うが、人に歴史あり、というか人は歴史から逃れられない。

「台湾の自由は、抑圧あっての自由なのよ」とdodoさん。著者ならずともドキッとする。著者の様々な語りを聞きたい気持ちは止まらず別の友達はこう応えた。

「現状維持というのは選択肢としてはないなと思った」「台湾人は生活に対するすべてのものが政治だから。」

日本の自分のアイデンティティが自ずと照らし返される。

台湾、といっても私は台北しか行ったことがないので台湾の街という「生態系」について聞き取りがされている章(四章)も興味深かった。ずっと変わらないでいて、なんていう言葉はしっくり来ないであろう街、台湾。台湾の<下北沢世代>という本屋さんにも行ってみたい。そして『秋刀魚』を「ああ、これがあの」と実際に手に取りたい。「台湾人から観た日本」(中国人側からも)、「日本人から観た台湾」、著者は複数の視点の中でぶれない台湾人を発見しつつより本質をと知りたがる。著者は割とすぐに眠くなってしまうらしく、待ち合わせに遅れた友人を待っている間に自分が眠ってしまったりする、カフェで。真面目に偶然か必然かと自らの行為を夢想する姿もゆるくてちょうどいい。

メインカルチャーありきのカウンターカルチャー、メインとマイナーの有機的なぶつかり合いは境界の曖昧な日本のカルチャー内部ではもはや起きづらいとしても日本と台湾との行き来においては可能かもしれない、それが著者にとっての台湾の魅力なのかもしれない。

第七章、著者の中国語の先生も務めた田中佑典さんの語りが興味深い。

「日本は「衣食住」に対して台湾は「衣食住と”行”」があるんです。」

移動、交通とは「変化」の意味、と田中さんはいう。

「まず何か口から出まかせでやって」という始まり方が「アジア的」というならそれはとっても魅力的。日本だってアジアなはず。

それにしても各章最後の著者雑感は切実なはずの相互理解への希望が素朴に、しかもやはりどこか眠そうに綴られていて心地よい。

「あとがきにかえて」は「就職しないで生きるには」である。私は題名が気になってしまって最初に読んでしまったが、最初から読めばなるほどである。そしてこれからはモラトリアム期間は<waiting room>って呼びましょうか、という気にもなった。

パラレルワールドで体験した自由、みなさんもその追体験を美味しいアジアンスイーツとともに。週末贅沢読書のススメ、のつもり。

カテゴリー
読書

斎藤環著『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 ー健やかにひきこもるために』を読んだ。

コロナ禍によって依頼ではなく自発的に書くようになったという斉藤環先生の文章を集めた単行本。斎藤環著『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 ー健やかにひきこもるために』2021年、晶文社。これらは主にブログサービスnote、つまりウェブ上で発表されたものだという。という、というか私も読んでいた。いくつかかなり話題になった文章もあり流れてきたものは読んでいた。

著者がいうようにnoteはどんどん書けてしまう場所だった。私はやめてしまったけど。運営の問題とか見聞きしていたせい。詳細がわからないので積極的に何かを言うほどでもないが、共謀することになってしまうのは嫌だな、という消極的な姿勢から。コロナ禍における「自粛警察」のこともこの本に書いてあるけど、ああいうのも迎合と共謀という感じがする。自分からいつのまにかなにかにまきこまれにいってた、なんてことは嫌だな、私は。途中で引き返すにももう色々コントロールが効かなくなってたりするかもしれないし、言い訳してその場にい続けることしか考えられなくなってしまうかもしれないし、適切に振舞える自信がない。だから違和感を持ったならとりあえずその違和感のほうに合わせた行動をとったほうがこれまでの経験から失敗が少ないように思う。具体的には、地道に情報を集めたり、自分で納得できていないのにすぐに動いたりしないように気を付けるとか。事柄にもよるけど。

何はともあれ紙媒体はいいですね。気ままに指や目を止めることができる。抑制がきく。

普段は医師として「当事者」と協力する著者だってコロナ禍では当事者だった。誰もそこから逃れられた人なんていない。実感を伴う第三者的ではない文章は共感を呼ぶ。一方、そこから哲学的な思索や議論が発展しなかったことは著者には不満として残ったらしい。しかし、わけのわからない事態に対して一定の方向性を持った言葉を与え、思考を巡らせるのはあまり早急ではない方が、とも思う。ここでも私は消極的なのかもしれない。なんだこれは、わけがわからないぞ、という混乱の中で狂わないこと、とりあえずそこにとどまるために今までの言葉で思考すること、まずはそれが安全、肝要な気がする。もちろん著者も何か新しい発見や変化をこの状況に見出そうとしているわけではない。むしろ著者が注目したのは私たちが普段当たり前なものとして、考えるどころか問題として取りあげたこともない事柄だった。ずっとそこにあったはずなのに可視化されていなかった事柄。

わたしたちは混乱すると躁的になったり退行したりしてそれぞれ様々な仕方で変化に対応しようとする。不安なのだ、とにかく。著者は医師なので診療の形式など実践面で何をいかに変更するのかしないのか、ということも考えざるをえなかった。私もそうだが、お互いが当事者である状況でどのように治療を続けていくのかについて考えるために必要なのはまずは正確な情報だ。しかしこれが今回はいまだに難しい状況にある。新型であり変異もする。なんという無力。とはいえ、人間にとってはそのような対象の方がずっと多いわけで、私たちにできることはごくわずかであることもみんなどこかではわかっている。今回の事態は特にそれを強く認識させた。この本は実践もかかれており実用的(198頁からの「穏やかにひきこもるために」など)だ。

一方で私は、「生き延びようね」という言葉が冗談ではなく交わされ、それが力をもったことも忘れないでおきたいと思った。私たちは無力だが、でもできるなら、とお互いに対して願うこと、それはどんな状態でもできると知った。

この本の内容にもっと触れたいけれど、あまりに多岐にわたるテーマをせっかく寄せ集めてもらったこと自体が貴重。ということで「まあ、読んでみて」となる。まず目次

どんな本だって「読むべき」とは思わないが、「社会的ひきこもり」に対する世間の理解を大きく変えた著者の思考が助けにならないはずはない。私たちはこんな形で突然生じたできるだけひきこもってという要請に対してどうしたらいいかわからなかった。

また、コロナがそのあり方を変えつつも、私たちが当初より混乱せずに事態に対応できているように見えたとしてもこの本で取り上げられていることはアクチュアルな話題であり、こう可視化されたからにはコロナを抜きにしてもアクチュアルであり続けるだろう。きっと可視化を待っている問題はまだまだある。でもわたしたちは危機と出会うまでそれとも出会うことはできない。だからいまだに続く不安と不自由に慣れることなく、不安だ、不自由だ、と感じ続け、根源的な問いを対話において考え続けると同時に、実用的な方法を身につけていくことは、著者がいうように「未来予測」にはなり得なくとも、マニック、あるいは万能的に傷つけ合うのではなく、地道に支え合う手立てとなってくれるだろう。

著者は、一対一の対面でも、オンラインのイベントでも、不特定多数に向けたメディアでも、変わりゆく情報に対応しつつ、幅広い話題や出来事において、特に差別や偏見が生じる場所に素早く言及することで、私たちがそれを思考することを促す。引用されるエッセイ、文学、アニメ、ニュースなども多岐にわたり、興味のある領域からはいればいつのまにか別の領域へいっていたという学び方もできる。

私が一臨床家としてこれらのことを考え続け、実際に手立てを練るなかで感じていたのは、事態に対応するときはそれまで変化しなかったことで守られてきたもの、可視化されなかったものに対する目配せも欠かせないということである。想いや願いが相手との関係に置かれるとき、それは大小問わず変化への誘因となる。だからたとえ不可避であったとしても、それが孕む暴力性を意識したい。それは臨床家としての私のこの2年間の実感でもあったし、それまでの実感がさらに強まったものでもあったように思う。

カテゴリー
読書

『読書会の教室ー本がつなげる新たな出会い 参加・開催・運営の方法』を読んだ。

バタバタとした毎日、隙間時間に本を読む。ここの下書きにも何冊分かの感想が断片のまま放っておかれている。

長い間、専門書の講読会には参加してきた。先生方から教えていただいたことをたよりに今や自分でフロイトとウィニコットの読書会を主催するようになった。もうそういう年齢だ。

本は一人で読むのもみんなで読むのも黙読も音読もそれぞれに楽しくて好きだ。昨年は京大の坂田さんや専修大の澤さん、昔からの臨床仲間、さらにそのお仲間と一緒に吉川さんの『理不尽な進化』の読書会や短期力動療法の読書会(ロールプレイ)もした。

「読書会」というものを定義づけようとしたこともない。そこに一定の方法があるのかどうかも知らない。それでも特に困っていなかった。

ところが2021年12月に晶文社から『読書会の教室ー本がつなげる新たな出会い 参加・開催・運営の方法』という本がでた。著者の竹田信弥さんと田中佳祐さんはすでに『街灯りとしての本屋』(雷鳥社)という本をだされていて素敵なWebサイトでその内容を知ることもできた。「街灯りとしての本屋」、美しい修飾。

もうすぐ2年か、緊急事態宣言がでたとき、私のオフィス近くのビルは数段暗くなった。昼間というのに人気のない薄暗い通路を抜け、エスカレーターを上るといつも通り明るい場所があった。それが本屋だった。新宿の高層ビルでさえこういう体験をする。街灯りとして、といわれればこれまで目をとめ足を止めてきた様々な街の本屋さんがほの暗い私の記憶に浮かび上がってくる。

読書会は二人からはじめられる、とこの本にも書いてあった。確かにここ数年、本当にたくさんの読書会情報と出会うようになった。いい機会だ。私ももう主催する立場なのだから自分がしていることがどんなものかくらい知っておかねば、と思ったわけでもないが、見知らぬ人々さえ集うその場所で何が行われているかを知るにはちょうどよさそうな本だった。しかも装幀が気が利いている。まじめ好きなあなたにもかわいい好きのあなたにもしっくりくる2パターンをカバーの取り外しだけで体験できる。

さらにこの本は昨年末出版とあって、コロナ禍においてオンライン読書会の経験も積み重ねてこられた著者たち、そして彼らがインタビューをしておられる読書会やイベントを主催する側のみなさんの具体的なお話をうかがえるのも実用的だ。

目次をみれば、読書会初心者にもこれから読書会を主催してみたい人にもやさしい本であることがすぐわかる。はじめての遠足のように読書会も楽しもうというわけだ(たぶん)。

先述した主催者側として登場するのは、読書会に関心のある方ならSNS上でもおなじみの猫町倶楽部の山本多津也さん、京都出町柳のコミュニティスペースGACCOHで活動するみなさん、そして八戸ブックセンターの方々である。私が注目したのは三つ目、青森県の市営の書店である八戸ブックセンターの活動である。

幸運なことに本屋に恵まれた新宿で仕事をしている私でも、時折思い出すのは子供時代に通った本屋だ。地方出身かつ全国を旅してきた身として地方の本屋の魅力もそれなりに知っているつもりである。子供のころから本屋さんにはお世話になってきた。旅先でも必ず立ち寄る。活字がどんどん電子化されていくであろうこれからも私たちの居場所としていつまでもそこにあってほしい。そんな本屋さんはたくさんある。

八戸ブックセンターにはまだ行ったことがないが、市営の書店がみんなの居場所として様々な工夫をこらしている様子は明るい未来を覗き込むようで眩しい。地域の本屋さんも運営に携わってくれているという。公共と民間の架け橋としての強みを活用していく、という話は確かにとてもいい話だ。

お金もなく居場所もないが時間はある、書店がある、本がある、そこが居場所になっていく、書店にはそういう体験のための幾重もの空間が潜在している。まして八戸といえば、というか青森には寺山修司がいる。

「書を捨てよ町へ出よう」

声に出さずにつぶやいて本をそっと棚に戻し書店をでたい。

さてここは西新宿、手元にあるのは『読書会の教室』。主催者インタビューのあとには「紙上の読書会」も開催されている。この本にあるように読書会には様々な形があるとはいえ、その実際をのぞかせてもらえると読書会初心者としては安心感が増す。

本自体にもそういう機能がある。人と直接向かい合うのではなく、その間に本が置かれるとき、その本はライナスの毛布となってくれるのだ。人と人をつなぐ、現在と過去をつなぐ、世界と異界をつなぐ、移行対象としての本、移行現象としての読書、その共有としての読書会、そういえば私の分野の人にはわかりやすいかもしれない(そんなことないかもしれない)。

この本の最後では本読みのプロたちの対話をきくことができる。登場するのは本と読書の楽しみを伝える名人でもあるのでもう聞いてるだけで満足、と思うかもしれないが、この本は読者を読書会の主催者側に誘う本でもある。憧れをこえて「読書会しよー」と誰かを誘ってみたくなったらこの「教室」での学びはさらに確かなものになるかもしれない。読者に優しい本なのでまずはこの本を使って誰かとやってみてもいいかもしれない。二人でも読書会。その懐は深い。

そして著者のおふたりの丁寧なお仕事ぶりは目次や語り口だけでなく付録にも現れている。巻末の「必携・読書会ノート──コピーして活用しよう」はまだどうしていいかわからない私たち初心者の最初の一歩を助けてくれそうだ。

本の話は楽しい。安心してそれができる場所があればもっと楽しい。相手のなにを知らずとも自然と伝えたくなるそれ、それを伝えることでおのずと発見されるそれ、どれもこれもその場その場で零れ落ちていくものだとしてもそれはそれ。

いずれどこかの読書会で。