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俳句 精神分析、本

句友、一生(という時間)

暗い時間に呟きをコピペして長文にして呟きの方を消した。ここではただ指任せで書いている。空の明るさだけで起きてしまうとまだ早すぎる。トモコスガさんが「オランダの夜10時過ぎが明るすぎ」と写真を載せていた。さっきまでの東京の空と似たような色。でもないか。こっちはなんか黄色がかってる気がする。

週末、句会でたくさんの人と会って楽しかった。みんなは3年ぶりといっていたけど私は句会自体にほとんど出られていないのでもっとぶりかもしれない。新井素子さんがいらした句会ぶり。あの日と同じ服を着ていたことに会場で気づいた。同じ季節だったのだろう。コロナのおかげでと書くのは間違いかもしれないがコロナ禍ゆえに声だけの交流が始まった句友もオンラインのみで交流していた句友もいて「ここでははじめまして」と笑い合った。会えると思っていなかった遠くに住む句友も前日の激しい雨にも負けず現地入りしていてとても嬉しかった。夏の着物でいらした方たちの生地や帯にも見入ってしまった。とても素敵だった。私も自分でちゃっちゃと着付けできれば仕事あと急いで行かねばであっても着物に着替えて行きたいけどそんな日がくるとは思えない。

昨日は同じメンバーで2年目を迎えたスモールグループでの事例検討会でこちらも毎回のことだがとても勉強になった。一応私は指導する側だけど指導というよりファシリテーター役。役割としても学びが大きい。初回面接を検討する月一2時間半の会だが今回も妙木浩之先生の『初回面接入門』(岩崎学術出版社)にすでに書かれていることを実感して笑い合った。笑えるのは何回も読んだはずなのに何もわかっていなかったということに気づくからだ。臨床的な実感は本の中にあるようでない、でもある、ということなのだろう。

そんな日がくるとは思えない、というので思い出した。昨晩スーパーに寄ると私の前に店を出た人が1リットルパックのぶどうジュースとストローを持っているのが見えた。私が一生やらないであろうことをこの人はこれからするのだなあと思った。あの手持ちの雰囲気からしてこのあとおうちで紙パックからストローで直接飲むんでしょ。150mlくらいだったら私もグラスで飲む機会もあるかもしれないがぶどうジュース1リットル、紙パックからストローで、はないなぁ。多分、きっと一生ないな、と思った。誰かはしていても私は一生しないであろうことなんて数えきれない。することよりもしないことの方が多いに決まってる。なのに「一生ないな」と思う対象がこれかよ、という感じもあるが日常の発見というのはそういうものでしょ?いちいち正確に本を読むことからはじめなくても(そんな読書家なのにそれ、みたいなのもあるから)豊かな日常はそこかしこにある。臨床も同じ。

さっきから激しく鳴いている君は誰なのだ?ヨシキリ?昨日はムクドリが二羽茂みにいた。この時期のムクドリはやたら茂みにいるのだけど低いところのほうが美味しいものが多いのかしら。そこにウグイスみたいな鳥もやってきたんだけどホーホケキョって鳴かなかった。あなたはどなた?なめらかな羽に見えた。

友達が主に怒りに共感するメールをくれた。女の辛さを共有できる女友達がいるのはありがたい。彼女とも会いたい。幸いなことに私はコロナで失った人はいなかった。途轍もない苦しみは知ったし人はいつ死ぬかわからないという実感は強くしたけど。今日もいろんな人と会い、話す。主に聞くほうだけど。試行錯誤を続けよう。なんとか持ち堪えよう。「もちこたえる」か。昨晩の大河は悲しかった。おっと、ネットで拾えた歴史の資料を読んでしまった。こういうところが慌てて失敗する原因を作ってるって流石にこの歳になればわかってる。でも治らないな。どうにかなると思ってるからだろうな。ダメね。そんなこんなであっという間に時間が経ってしまう。いや、辛く苦しいときは時間なんてあっという間に経ってほしいかもしれない。そうなるとそれは無理なんだ。辛いね。でもなんとかやろう。そうはしたくない、そうはなりたくない、という気持ちに素直にやっていけたらいいように思う。

今朝のお菓子は以前働いていた神奈川県大和市のおみやげでした!

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 読書

知識

早朝から國分功一郎さんたちのUTCP公開セミナーをみていた。2月18日(土)午後に行われた柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)の合評会の映像のアーカイブ。1:28:55あたりから本編、というのが面白い。動く國分さんがいるのに何も聞こえないし何か始まる気配がないから私のパソコンがおかしいのかと思った。会場には柄谷行人ご本人がいらしていたとのこと。いいねえ。そのあとご本人からのフィードバックもいただけたのよね、きっと。私はまだ読んでないけどDの到来か。こういう話だけ聞いていると面白いような気がしてしまうけど知識も教養も足りなすぎるからまずはとりあえず読むだな。いつもそうだ。

言語論の講義を受けて発表もした。話題にでた三木那由他『言葉の展望台』(講談社)を再読しようと思ったが読みやすいそっちはいつでも読む気になるだろうからモチベーションが落ちないうちに途中までしか読んでいなかった『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』を開いた。あ、話題に出たのは『会話を哲学する コミュニケーションとマヌピュレーション』(光文社)のほうか。昨年刊行された『実践 力動フォーミュレーション——事例から学ぶ連想テキスト法』(岩崎学術出版社)の刊行記念に監修者の妙木浩之先生が寄せた文章にもこの本は登場する。

コミュニケーションは断たれてしまったら何も生じない。それは未来にとっては危険なことだ。いくら本を読んだところで知識を身につけたところで実際のあり方をずっと問い続けて自らも実践していくことがなければ言ってるだけの人たちと変わらない。言ってるだけであっても言えてるだけマシかもよとも思うが。文章を書くその人がどんな人であろうと読んだり聞いたりすれば助かる人も多いだろうからそれはそれで一つのコミュニケーションのあり方なのだろう。そういう乖離を見せつけられる距離で絶望を繰り返しさらにコミュニケーションを断たれたとしても(ひどいことは大抵最後までひどい)知識は知識だ。とても冷めた気持ちで言葉を物質として淡々と取り込む工夫も必要だ。三木さんの本を読むとなおさらそんな気持ちになる。動けないという意味で時間が止まる。思考が停止する。それでも時計は動き続けひどい人はひどいまま今日も元気だろう。冷めた気持ちで淡々と。いずれ使えるように素直に取り込んでいこう、それが誰から発せられたものであっても、正しいと言われる知識であれば。

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精神分析、本

精神分析基礎講座関連メモ

電子レンジが壊れたのでトースター生活。朝はパン♪のつもりでいつものコーヒーより少しいいドリップコーヒーにしてみてるけどいつもお菓子が豊富にあるので大体朝はそれらとコーヒー。空がきれい。

先日、月一回の対象関係論勉強会(精神分析基礎講座)で午前に岡野憲一郎先生がサリヴァンとコフートを、午後に妙木浩之先生がエリクソンを中心とした米国自我心理学の流れをお話しくださった。以前、この講義を聞いてから考えようと曖昧に放っておいた米国精神分析の流れが非常によくわかった。そういえば、とすごく久しぶりに岡野憲一郎先生のブログをみてみたら講義当日もそれまで通り脳科学関連のことを書いていらした。岡野先生とはじめて個人的に言葉を交わしてから20年近く経つが当時から私は「先生の得意分野は脳科学」といっていたからずっと精神分析と脳科学の知見を関連づけた論考や本を出し続けているわけで、その下書きのような感じでブログもずーっと書いておられる。私のこんな徒然日記とは違って読めば学べる毎日更新の教科書みたいな水準をきっとサラサラと。今回の講義はサリヴァンの理論にあまり踏み込まなかったので基礎を満遍なく学びたい受講生には物足りなかったかもしれないがサリヴァンの特異性は知っておくべきことと思うので詳しく教えていただけて良かったのではないだろうか。中井久夫のように著名な先生が訳したからサリヴァンもメジャーというわけではなく、ある意味彼はマイノリティを生き抜き自分が何度かの大きな危機を生き延びた体験をそのまま理論に生かし、独自の実践機関を立ち上げてきた。中井先生もそういうところおありだけど。統合失調症が持つ「希望」の部分もしっかり理解するにはサリヴァンの治療論は必読な気がする。

そしてこの講義まで曖昧にしておいた米国精神分析の歴史については妙木浩之先生の講義が素晴らしかった。妙木先生の資料サイトはこちら小此木啓吾先生みたいだった。東京国際大学で亡くなった小此木先生の研究室も引き継いだのは妙木先生だものね。小此木先生はアンナ・フロイトやいろんな著名な精神分析家と実際に会話した体験なども交えて世界中の精神分析家の人となりや立ち位置や理論をいろんな視点から教えてくださるものすごい先生だったけど(講義の時は野球をよく聞いていらしたけど)妙木先生は視覚教材を使うのもすごくうまい(岡野先生も)から受講生も情報量に圧倒されながらも混乱はしなかったのではないか。私はかなり整理されたが調べねばということも増えてしまった。エリクソンを中心にした米国の社会保障と貧困の側面からみた精神分析家の移動についての話は興味深かった。ビッグデータ分析については同じく米国の話ということで以前教えてもらった『誰もが嘘をついている〜ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』(セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ著、酒井泰介訳)も参照した。この本、第2章は「夢判断は正しいか?」だし軽妙な語り口に振り回されながら「データやばい、というか人間やばい」ということを忘れないために読むにはとってもいい本だと思う。

それはともかくエリクソンの発達段階、ライフサイクルの考え方だけではなく、彼が受けた差別や精神分析家としての歴史を見直すことは大切だと思った。先日インドの精神分析の大きな流れにエリクソニアンがいることをインドの精神分析家に教えてもらったがエリクソンが書いた『ガンディーの真理 戦闘的非暴力の起源』(みすず書房)は関係あるのかと妙木先生に伺ってみた。それはわからないということだった。最近、インドのジェンダーとセクシュアリティに関することを調べていて地域差がものすごいと感じていたが技法にエリクソンの相互作用モデルが最も適切な地域というのはあるのかもしれない。また、高校生の時に好きで集めていたノーマン・ロックウェルがエリクソンやロバート・ナイト(ブレンマンが書いているロバート・ナイトの説明はこちら)、マーガレット・ブレンマン(最初の女性分析家,インタビュー動画はこちら)のポートレートを描いていたことを知れたのも嬉しかった。エリクソンとロックウェルの関係についてTwitterに載せたのとは違う記事はこちら

日本の精神分析はどうなっていくかな。サリヴァンやエリクソンのようにフロイトとは根っこのつながりをあまり持たない独自の方向へ進んでいくのか、それができるだけの強力なパーソナリティと人間関係と機動力と資本を持つ人が現れるのか、それとも地道に忠実にオーソドックスな方法を目の前の患者に合わせて丁寧にカスタマイズしながらやっていくのか、いろんな可能性があるだろう。私は後者だけで精一杯。寒くて辛いけどなんとかやっていこう。みんなもなんとかね。またね。

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精神分析

ひとりではなく

臨床経験5年以上の方を対象にいくつかの小グループを運営している。内容は事例検討会と読書会。同じメンバーで継続しているせいか議論がどんどん深くなっている。それぞれが自分の言葉で自分のやっていることについて語るのはとても難しい。他のメンバーに照らし返される中で自分が言っていることとやっていることの乖離に気づくのは痛みも伴う。一方、他者といるというのはそういうことであり患者が体験する痛みを体験的に知るにも良い機会だしこの仕事には必要だろう。

妙木浩之『初回面接入門 心理力動フォーミュレーション』(岩崎学術出版社)をテキストとするグループでは実際の初回面接を記録を用いて定式化し、その後に初回面接とはなにか、そこで必要なことはなにかについてグループで話し合う。

自分は誰のために何をしようとしているのか。その現場でどのような症状や病理や状況を持つ方と何を目的として会っていこうとしているのか、それは現在自分が持ちうる資源でできることなのか。常にバウンダリーと有限性を意識している。

ファンやビジネスパートナーという言葉で非対称な関係を別の関係にうやむやに持ち込むように臨床家が患者を使用することはあってはならない。それぞれがそれぞれの生活をしながらこの仕事をしている。そこにはバウンダリーがありできることは限られている。そんな当たり前のことを都合のいい理由で乗り越えたふりをすることは二者関係ではたやすく、ちょっとの逸脱として見て見ぬ振りをすることも簡単にできるだろう。ただそれはわかりづらくても確かに搾取である場合が多く当人たちが気持ちよければいいという話ではない。本人たちもお互いが気持ちいい間は外側から何を言われても被害的になるかナルシスティックに二者関係のふりをした自分自分(一者関係)に安住するかになりがちだが、グループで複数の眼差しに照らし返されることで回復できる自我(大雑把に使うが)もある。治療者が心理療法を受けることが当たり前になってほしいが(頼ることの難しさも実感できる場がないとわからないものだから)そこで第三者性を内面化するには時間がかかるので実際の第三者にと思うしそのためにグループは有効だと思う。

わかりやすく非対称の関係から始まる関係には思うことが多い。破局的な何かを体験したとしても、相手に「そんなつもりはなかった」とあっという間にそれをなかったことにされることもしばしばだ。唖然とする。それでもそうされたならなおさら立ち止まる必要がある。考え続けなければ繰り返すだけだ。その場合もひとりではなく誰かとと思うがそこもまた同じ関係である可能性もあるだろう。リスクは常にある。それでも自尊心を簡単に売り渡すことのない自分でいられたらいずれ、という希望のもとに今日も、と思う。

今日は火曜日、と書いてしまったが月曜日か。早速ダメダメな感じだがなんとか。みんなはどうだろう。とりあえず無事に一日を過ごせますように。風邪とかコロナとか用心しましょうね。

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精神分析、本

ため息まじり

寝不足のままファミレスで作業。日曜朝のファミレス、この時間は男性のひとり客ばかり。とても静か。自分で特別感出していかないとやってられない。

そういえばさっき上から何か降ってきたからきゃーっと思ったけど髪にもリュックの表面にもなんの痕跡もない。リュックを前に抱えて中途半端にあけておいたから中に何か入ってしまったのかな。きゃー。何か中で育ってしまったりしないでね。

鳩が鳴いてるなあと思いながらうちのそばの角を曲がったら真正面から別の鳩が羽広げてきてびっくりした。ちょうど角のおうちの木に留まろうとしているところだったのだけどなんか迷っちゃたみたいで一度留まろうとしたのにバサバサって変な感じにまた飛び上がってそばの別の木に留まった。ああいう判断ってどうやってされてるんだろう。というか真正面から鳥が羽を広げた姿みるのって結構インパクトあるよね。

その後に上から何か落ちてきたら鳩の落とし物とかよく書かれているものかと思うじゃん。あー。中も大丈夫だと思うのだけどだったらなおさらあれはなんだったんだろう。

少し前に中年男性が要求するケアについて「ほんとそう」と思うツイートを見かけたのだけど、一生懸命ものや時間を与えて時にはちょっと手も出したりして愛情めいた関係を築いてそれを社会的評価に変えている同世代の中年の商品にはお金が回らない世の中になればいいなと思う、特にそれが男性の場合。女ひとりで開業している身なので現実的な言い方になりますが。構造上の問題に上手に乗っかってまるでフェミニストかのように振る舞うことが上手な人も身近にいるけど「そういうのいいかげんやめたら」と言いたい。色々くれてなんでも教えてくれる賢くて優しい人たちだったりするととても言いにくい場合もあるけど言うこともある。それとこれとは別というかそんなものより、と。でもすでにビジネス絡めながらそういう人と依存関係築いてきた女性たちは自らが中年になってもそういうこと言わないでむしろ言う方のことを「あなたにそんなこと言うなんてひどい」みたいなメッセージ送ってたりするから「うん?お連れ合い?いや、だったらそんな甘めのこと言わないか」とか「社会なんて変わらないっすよね」となるのも無理はない。私は「この人たちって」と個人に対して思うほうだけど。それ以前に言われたくないこと言われるとすぐ怒ってしまう人とはコミュニケーション自体が難しいし。うーん。それに比べて患者さんたちは誠実だなと思うことが多い。切迫した問題があって、自分のことを考えざるを得ないからというのもあると思うけど素因の違いもあるのかな。ほんといろいろ難しすぎてまいるけどそういうの考えること自体も仕事だからまいりながらやりましょうかね。

先日プレシアドの『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(法政大学出版)のことを書いたときに名前を出したヴィルジニー・デパントの『キングコング・セオリー』(柏書房)みたいな書き方ができたらいいけどできないので読んでほしい。関係ないけど私は柏書房の本に好きなのが多い。女性や弱者への一貫した眼差しを感じる本を色々読んだからかな。

フロイトの『夢解釈』にはものすごくたくさんの夢の例が出てくるのだけどフロイトが理論を確立するための素材としてそれを使用しているからとはいえ生理や妊娠、中絶、同性愛などに対する記述は中立的という話になった。少なくともたやすく価値判断を混ぜ込むことをしていない。そうだ、土居健郎が価値判断について書いているところについても書こうと思っていたのに数年が立ってしまった気がする。まあいずれ。フロイトは権威的、家父長的な部分ばかり取り上げられてしまうけれどその後の技法論に繋がる中立性の萌芽はこういうところにあるのか、とかもわかるからフロイトも読んでほしいよね、精神分析を批判したり同じ名前で別のことをしようとするのであれば、という話もした。

京大の坂田昌嗣さんが昨年の短期力動療法の勉強会がらみで短期力動的心理療法(short-term psychodynamic psychotherapy:STPP)の実証研究の論文を教えてくれたけど n = 482, combined(STPP + antidepressants) n = 238, antidepressants: n = 244だもの。積み上げが違う。これまでの研究も遡ってみたけど実際にSTPPを長く実践してきている人たちの研究みたいだし。たとえばDr E. Driessenの業績

STPPは精神分析の理論を部分的に使用しながら患者のニーズに合わせて発展してきた技法だけどpsychodynamicという言葉を使っているわけでそのほうが幅広い臨床家に届くよね。これ力動系アプローチなのに反応があるのはCBTの人たちからというのも今の状況だとそうなるか、と思ったりもした、とかいう話もした。とりあえずこういうことをざっくばらんにかつ細やかに話し合える場づくりはしているつもりだから維持するためにもなんとかやっていかないとだなあ。ため息混じりの日曜日。でもまだ朝。みんなにいいことありますように。

cf.

短期力動的心理療法に関する本や文献についてはオフィスのWebサイトに書きました。ちなみに勉強会当日のテキストは


ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
妙木 浩之『初回面接入門―心理力動フォーミュレーション』(2010,岩崎学術出版社)
でした。

妙木浩之監修『実践 力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト』(2022年、岩崎学術出版社)も加えておきます。

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精神分析、本

『個性という幻想』『実践力動フォーミュレーション』

ツイートもしたが自分のための備忘録。精神分析関連の本。

12月の精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)は岡野憲一郎先生による「サリヴァンとコフートと自己心理学の流れ」の講義。私は司会を務めるので2022年10月に出たばかりのサリヴァンの本を読んでいる。KIPP主催のサリヴァンフォーラムに申し込むのをすっかり忘れていたが出席された方に聞くとサリヴァン(Sullivan,H. S 1892―1949)のオリジナリティはもとより阿部先生が大変個性的でとても面白い会だったそうだ。サリヴァンの翻訳といえば中井久夫先生のイメージが強いが、阿部先生が今回訳出された日本語版オリジナルの論集は個人の病理を実社会に位置付けるサリヴァンの主張の源泉を感じさせてくれるものだと思う。各論考の冒頭にある《訳者ノート》が大変ありがたい。

個性という幻想』(講談社学術文庫)
著: ハリー・スタック・サリヴァン
編・訳: 阿部 大樹

「本書は初出出典に基づいて新しく訳出した日本語版オリジナルの論集である。ウォール街大暴落の後、サリヴァンが臨床から離れて、 その代わりに徴兵選抜、戦時プロパガンダ、 そして国際政治に携わるようになった頃に書かれたものから特に重要なものを選んで収録した。」(14頁)

ちなみにこの本に収録された12編のうち11編は、日本で唯一未訳の著書“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences”(1964) にも収められている、とのこと。

“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences” は1934年から1949年に亡くなるまでのサリヴァンの社会科学に関する17の論文を集めた著作らしい。題名からすれば精神医学と社会科学の融合となる。

サリヴァンは当時、米国精神分析の中心だった自我心理学に対してインターパーソナル理論を用いた精神分析をトンプソン Thompson,C.らと模索した。これがその後1960年代からのシェイファーらによる自我心理学内部からの批判とどのように連動したのか忘れてしまったかいまだ知らないでいるが、自我心理学に対する批判がその後の米国精神分析の多様化を導き、関係論の基盤となった。この辺は岡野先生のご講義で確認してから書いたほうがよさそう。書いてみるとなんだか曖昧。

次は、筆者の皆さんからということで編集者さんから送っていただいた実践の本。感謝。

実践力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト法』 (岩崎学術出版社)

「事例から学ぶ連想テキスト法」の実践の記録。

第1章で土居健郎 『方法としての面接 臨床家のために』 (医学書院)に立ち戻らせる妙木浩之先生のさりげなさ。わかるわからないの議論をはじめ、「見立て」とは何か、ということを考えるときに土居先生のこの本は必須なのだ。

そして妙木先生考案の「連想テキスト法」とは、「事例概要を構成するナラティブ(物語)を一度分解し、さらに再構築するための方法」であり、フロイト『夢解釈』、ノーベル経済学賞受賞の心理学者ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の合わせ技として説明。「三角測量による客観性も、また同時参照によるリフレクションも働かない」よくあるスーパーヴィジョンの形式ではなくそれらを可能にする方法として考案された「連想テキスト法」はグループでの事例検討会に最適であり、私も妙木先生のフォーミュレーションのグループの初期メンバーとしてこの意義は確信して自分のグループの基盤にしている。

実践編に入る前の妙木先生の説明(1章)はもちろん必読だが、理論がないところにフォーミュレーションは成り立たないので基礎として知っておかねばならない精神分析的発達論のまとめ(3章)も役に立つ。実践編では主要な病理毎に一事例取り上げられ、その連想テキストが提示されその結果どのようなアセスメント/フォーミュレーションがなされたかが記述される。「ヒステリー」 の症例が取り上げられている(5章)のは力動的心理療法の歴史を考えれば当然だが価値がある。基礎を押さえつつ書くためのモデルとして手元に一冊置いておきたい。

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精神分析、本

両性具有とか更新とか

洗濯をして麦茶を作ってクラッカーつまみながら珈琲飲んでNHK俳句を少し立ち見してゲストにあんな服も違和感なく着こなしててかわいいな、コメントもいいなと思ったり、「雷」って季語はいいね、とか俳句やってるのにこの語彙はどうかと思うけどそう思って、またバタバタして今なんだけどどうしましょう。仕事もしていたはずなのだけど進んだ形跡が見当たりません。どこ?

そうそう、昨日ブログ書きながら思い浮かんだのは最近読んだ舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 ー七〇年代のジェンダー』(筑摩書房)、私でも知っている曲ばかり出てくる実感から己のジェンダー規範を振り返ることもできる本の文庫化(単行本は2002年、晶文社)。北山修先生の「あの素晴らしい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」も取り上げられていた。北山先生、「戦争を知らない子供たち」を書いたの20代なんですね。著者がそれに驚いた口調で書いていて私はそれを読んで驚いた。この本、ジェンダーの視点から聴き直すとこの歌詞ってそう読めるんだ、すごいな、そんなふうに聴いたことなかったよ、ということばかりでとっても面白いです。桑田佳祐の歌詞の両性具有性とか確かに!と思った。両性具有という言葉で書いてあったかどうかは忘れてしまったけど。そうだ、忘れないうちにここにメモしちゃうけど両性具有性についてはプルーストを読みたい、とずっと思っているのに断片しか読んでいない。精神分析との関連で、と思うのだけどプルーストとフロイトってお互いのことを知らなかったそう。ほんと?同時代人で二人ともこんな有名で、ユダヤ人という文脈で重なるところもある。ちなみにフロイトの方が15歳年上。プルーストは51歳で亡くなってるけどフロイトは1939年、83歳まで生きた。2019年にプルースト研究者の中野知律さんと精神分析家の妙木浩之先生が登壇した「プルーストとフロイト」という市民講座に出た、そういえば。中野さんの「失われた時を求めて」の話がすごく面白くて私もがんばって読もうと思ったのにあれから3年かあ。一日1ページでも読んでればそれなりに読めてたはず。文庫、持っているはずなんだけど。どこ?

どうにもとまらない歌謡曲 ー七〇年代のジェンダー』を読んだ影響でApple Musicで1970年代の歌謡曲を聴きながらこれを書いている。今かかっているのは山本リンダ「狙いうち」。この曲のことも書いてあったと思う。

男女という近代的二元論というのかな、その差異によって排除されているものに目を向けるのはもちろん続けていく必要があって、そのために「両性具有」という言葉を使い続けていくのが大切な気がする。精神分析はいまだフロイトの時代のそれが一般には広まっていて実際その父権的な態度から自由になったとはとてもいえない。前にも書いたかもしれないけど、だからこそ国際精神分析協会(IPA)の中にはWomen and Psychoanalysis Committee (COWAP)という委員会があって、社会、文化、歴史との関連におけるセクシュアリティとジェンダーに関する研究などをサポートしている。精神分析概念の修正と更新のため。

これも連想になってしまうけど「更新」といえば、先日、吉川浩満さんが『樹木の恵みと人間の歴史 石器時代の木道からトトロの森まで』というNYで樹木医みたいな仕事をしているウィリアム・ブライアント・ローガンという人の書いた本を書評(「失われた育林技術を探す旅」していた。なんかプルースト的。萌芽更新という言葉をキーワードにした評で私もその言葉にとても惹かれた。それでちょっと調べて驚いたのは「萌芽更新」の英語ってcoppicingでupdateではなかった。意外だった。ちなみに「間伐」はthinning。児童文化の授業でこの「間引き」についてすごく考えたことがあって今も時々考えるのだけど元は樹木を守りその恵みを与えてもらうなかで生まれた言葉なんですよね。 

ジェンダーとセクシュアリティ、差異が排除の理由になどなるはずないのにそうなりがちな現状に対して有効なキーワードを持っていくことが大事そう。

そういえば結膜下出血と汗と涙について書こうかなと思ったのを忘れてダラダラ書いてしまった。まあいいか、日曜日だし(いつものことだとしても)。それぞれに良い日曜日を!

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精神分析、本

『ピグル』

Twitterで東畑開人さんが、青山ブックセンター本店のブックフェア「180人が、この夏おすすめする一冊」で北山修先生の『心の消化と排出』を挙げていた。北山先生の本から「おすすめ」を選ぶとしたら私もこの本を選ぶ。「夏」っぽいとは思わないけど。

北山先生の『錯覚と脱錯覚』も私に大きなインパクトを与えてくれた。ウィニコット の『ピグル』とセットで読むべきこの本も「夏」かといえばそうでもない。

2歳の女の子とおじいちゃん先生ウィニコットとの交流が描かれた『ピグル』、16回のコンサルテーションの間にピグルは5歳になった。最初は1ヶ月に1回、二人が会わない時間は少しずつ増えていく。それでも1年に3,4回というのは私が保育園巡回に行くペースだ。3歳、4歳ともなればその頻度でも「また会えたね」となる。

ウィニコットはピグルと会わなくなった4年後に亡くなった。これからを生きる子どもと死の準備をする大人。妹の出生によって母親の不在を体験したピグルはウィニコットを一生懸命使い、持ちこたえ、生き残るウィニコットを発見し、「私」とも出会っていく。ピグルの名前はガブリエルだ。

1964年7月7日、6回目のコンサルテーションの冒頭、ウィニコットは「今回は、ピグルではなく、ガブリエルと言わなければならないとわかっていた」と書き、そこからの記録はすべて「ガブリエル」に代わる。そして帰宅したガブリエルも母親に「ウィニコット先生に、私の名前はガブリエルだよって言いたかったの。でも先生はもう知ってたの」と満足そうに言った。母親からの手紙でウィニコットはそれを知る。

子どもの治療の重要な局面だ。二人は通じ合っている。

夏の休暇前のセッション、「私はサンドレスと白いニッカーズを着てたの」とひなたに仰向けに寝転がるガブリエル、私はこの場面が好きだ。子どもが安心して空想に浸れること、複雑な情緒を体験する場所はいつもこうして開かれている必要がある。

そして夏の休暇後、二人がはじめて会う7回目のセッション、ガブリエルは「ウィニコットさん」とよそよそしい。「先生」ではないウィニコットの休暇に対する抗議のように「だれにも一緒にいてほしくなかったの」とひきこもっていた自分を知らせるガブリエル、このとき、彼女は3歳になったばかりだが、大きくなった。ウィニコットの記録を読むとそう感じる。

精神分析は週4日以上会っているので休暇の意味は大きい。たまにしか会わなくても会えない日々のことを想うのだから、この二人のように。

いない人のことを想う。いたはずの人のことを想う。そうやって描かれる私たちは大抵いつも現実と違うけれど、想うことだけが私たちを生かすこともある。

この夏、『ピグル ある少女の精神分析的治療の記録』(ドナルド・W・ウィニコット著、妙木浩之監訳、金剛出版)を読んでみるのはどうだろうか。彼女が青い瓶を目に当てて「ウィニコット先生は青いジャケットを着て、青い髪をしているのね」というように、本を読むことで(もはやなんの本でもいいかもしれない)この暑さを違う色に染めてみたり、2歳の頃の目で世界を見直してみる。この夏は、そんな旅もいいかもしれない。

(翻訳作業についてはオフィスのサイトに少し書いてあります。)