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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「あれはなんだったんだろう」

ゲンロン友の会のグッズを開封したままリビングのテーブルにおいておいたのをようやくきちんと見た。東浩紀の言葉が書かれた手拭いつき。勢いある。「ゲンロン友の声セレクション」はいくつかすでに読んだものもあるが書き下ろしもある。

久々にみるというか流しているNHK俳句はゲストはピアニストの金子三勇士。なんだか立派な名前だ。選者は星野高士。池内友次郎という俳人がいるのか。おお虚子の次男で音楽家なのか。星野高士からすると?大叔父とかいうのかしら。わからない。

流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子

に曲をつけたのか。かな?きちんと見ていない割にそっちに引っ張られる。あ、洗濯物ができた。洗濯物ができた、っていう?干してきた。今日は雨が降るんでしょ。乾燥してるから少しありがたい。まだ空に水色が見えるし鳥も元気に鳴いている。雨でも同じ景色は見えるし同じ音は聞こえるか。コーヒーは冷めてしまった。

3日連続「あれはなんだったんだろう」という題で書いた。一緒にいる間は気づかないふりをしていた不安や疑惑。実際の傷のことも書いた。あの日のあれ、あれはなんだったんだろう、といくつかの場面を切り取った。

どうにもならない気持ちをどうにかするために私たちはなんらかのアクションを起こす。

東浩紀はゲンロン友の会特典の手ぬぐいに「対話は時間こそが本質で、心を開くことは最大の贅沢」と書いている。本当にそうだと思う。「なのだけど」と東は続ける。時代のせいなのだろうか。それもあるだろう。

Netflixで「天気の子」やってる。いかん、また注意がそれてしまった。テレビで見るとすぐに注意が逸れてしまう。普段テレビは全く見ないのに。

「僕と彼女だけが知っている」そう。二人だけが知っている。「あの日みたことは全部夢だったんじゃないか。でも夢じゃないんだ」そう。夢じゃない。

だから「あれはなんだったんだろう」と問い続けることになる。夢だって「あの夢はなんだったんだろう」となるだろう。だって夢を見ているのは自分で結局自分の体験と切り離すことはできないのだから。

新聞や雑誌の相談欄をみてげんなりすることがある。「それはモラハラです」「それはセクハラです」というあなたはどなたと思う。こういう投稿欄はそういうものだとわかってはいる。相談してきた人に「寄り添う」ものだ。(「女が女の話を聞く」ことの意義と関連づけて考えている)

あれはなんだったんだろう。そう考え続けること、相手はもう実際の対話相手としてそこにはいない。それでもあのときの違和感、あのときの不安、あのときの恥じらい、あのときの喜び、あのときの悲しみに囚われている自分を否認しない。無理せずにさっぱりできるならいいが、無理してまでもう過ぎたこと、終わったことにしない。実際にあの人がいてもあんなにくっついていても言えなかったことばかりだったではないか。思えば思うほど言葉を使うのが下手になる。不自由になる。涙を堪えることが増える。怒りを溜め込みやすくなる。だから会わない時間こそ重要だった。あれはなんだったんだろう。ただただ大好きだっただけなのに。この年齢からの先なんてそんな長くない。一緒に乗り越えていけるかと思ってた。そんな勘違いもすでに笑えたとしても悲しい気持ちを忘れない。

あれがなんだったのか、答えがほしいわけではない。そんなものはないと知っている。お互いのことだ。外からはわからない。二人のことだ。それでも今の私には私からしか書けない、という以前に私は女が何かを書くときはまずは一方的に主観的に書く必要があると思っている。「ひどいことを言ってきたのはみんな女」とか女が男に相談しながら男との依存関係をうやむやに作っていくあの感じからはとりあえず距離をおきたい。私たちのすれ違いは単に個人的な事情によるものではない。最初からある構造上の問題。それを意識しながら別の誰かや誰かとの話と混ぜこぜにした嘘ほんと話に仕立てながらあなたに感じた「あれはなんだったんだろう」を考えては書く。対話は断たれた、としてもこれも対話なのだろう。あのときのあなたとの。あのときの私たちとの。むしろ逃れようのない。

精神分析は連日カウチで自由連想をおこなう技法だ。「自由」に連想などできないことを思い知りながら徐々に「あれはなんだったんだろう」と出来事を眺める心持ちになる。そこまでがひどく長い。私たちが「あれはなんだったんだろう」と思うとき「あれ」は結構昔のことだったりするように。

対象と距離をとって眺めるということの難しさは投影同一化といわれる現象に最もよく現れる。私たちはすぐに自分と相手との区別をうやむやにする。その上で自分は正しい、間違っていないと言いたがる。「そんなつもりはなかった」という言葉の空虚なこと。ただ裁くのは法の仕事だ。私たちの仕事ではない。

「いい悪いの話はしていない。」「正しい間違っているの話はしていない。」時折そう伝えながら、巻き込まれ区別を失っては取り戻すことを繰り返す。そうこうしているうちに「今こうしている私たちってなんなんだろう」となる。あのときもこのときもこうだった。これってあのときのあれと同じでは、とさらに別の「あのときのあれ」が出てくる。出来事は自分のものだけでもなくあの人とのものだけでもなくさらに別の誰かとのものになる。いくつもの場面が重なりパターンがみえてくる。

私の気持ち、私たちだけの秘密、そういえばあのときのあの人とも。あれはなんだったんだろう、ぼんやり時間をかけていくことが別の地平を開いていく。その体験を知っていれば耐えうることはたくさんある。死なない程度には、ということかもしれないけど。この辺の基準は人それぞれだと思うが精神分析であえていうとしたら「今よりはまし」というものだろう。こういう現実的なところに私は助けられているし、これだったら役に立つ人もいるだろうと思っている。強い思いこみや空想で何かに到達したり切り拓いたりしていける人もいると思うが地道に今の自分を確かめることで、というのも悪くない。よって私は今日も悶々とする。あれはなんだったんだろう、と沈みこみながら。今日のお天気もちょうどそんな感じかな。みんなはどうだろう。元気でいてくださいね。

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精神分析、本 読書

『ウィトゲンシュタインの愛人』を読み始めた

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦訳、国書刊行会、2020)を読んでいる。隙間時間にパラパラしているのでなかなか進まないけれどとっても好きな書き方でワクワクする。

Kindleの不便なところ、あ、これ早く読みたくてあまり得意でないKindleで買ってしまったのだ。そうそうKindleの不便なところ、1、マルジナリアに書き込みできないこと。2、紙の本とページが対応していないところ。

デバイスや設定によってページ数も変わっちゃうし。大きい字にできるのは老眼にはありがたいけど。

でもこの本はKindleでよかったかも、私には。

主人公の語りはさながら自由連想。夢を語るように自由に景色を行き来する。この世界はこの主人公だけのものだ。今のところ圧倒的に孤独な。身体の変化だけがかろうじて時間に一貫性を与えているようだけどそれもずいぶんぼやけてきたらしい。豊かな知識で一見饒舌な語りだがとてもとても乾いている。何が燃えても彼女には風景の一部だ。しかし時折情動に突き動かされたかのような様子も見せる。一体、この話はどこへ進んでいくのか。進むのを拒むように揺れ動く景色。

こういう書き方が私はとても好きだ。好きな接続詞がいくつも出てくる。あぁ、この書き方がとても好きだ、と読み始めてすぐに思った。そしてKindleでよかったと思った。

もしかして、と思って、ちょっと先走って検索してしまった。やっぱり、と嬉しくなった。好きな接続詞がたくさん使われている。こういうときKindleって便利だ。どんな単語も検索ができる。

もちろん翻訳だから元の単語はわからないけど、木原善彦さんの翻訳は山本貴光さんと豊崎由美さんがとてもいいといっていたからとても信頼できる。信頼の連鎖。

本の読み方は色々あるが、山本貴光さんが『文体の科学』か『マルジナリアでつかまえて』で私と同じような、いやもっとずっとマニアックな方法で本を全方向から楽しんでいるのを知ってとても共感した。無論あちらはプロの文筆家でありプロのゲーム作家なのでその緻密な方法には驚くばかりだ。

山本さんは吉川浩満さんと「哲学の劇場」という動画も配信していてそこでも本の読み方について話していた。

ちなみにこの『文体の科学』もすぐにほしくてKindleで買ってしまったけど山本さんの本は紙の本で買うべきだった。わかっていたはずなのに欲望に勝てなかった。せっかく載せてくれている資料がKindleだと全然楽しくないことを学んだからいいけど。失敗から学ぶことばかりだ。

ばかりだ、と二回使った。

早朝から家事を済ませ、こうして短時間書く作業はとても楽しい。この時間に読めばよかった、と今気づいたけど。

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精神分析

精神分析的心理療法とは

臨床心理士になって20年、様々な領域の職場で働きながら、毎週1回、同じ曜日、同じ時間に会う面接を続けてきました。今は、週1、2回、あるいは4回、患者さんやクライエントと、カウチあるいは対面で、自由連想の方法を使って行う面接がメインですが、当初は、固定枠を持てる職場は少なく、週一回固定枠では10ケースも持っていなかったように思います。ただ、少しでもそれを持てたことは本やセミナーで学んだことに実質を与えてくれました。

そして、そこを基盤にして細々と、限られた資源の中で、そこを環境として安全な場所にしていくこと、何が人のこころを揺らしたり脅かしたりするのか、ということを考え、何を提供し、何を控えるかなど、構造化、マネージメント、コンサルテーションの重要性に気づき、試行錯誤を重ねていきました。

30代になると、自分も週1日、2日の精神分析的心理療法を受け、スーパーヴィジョンを重ね、自分自身も多くのケースを担当するようになり、ようやく精神分析的心理療法ってこういうものなんだ、ということを実感できるようになりました。

さらに、精神分析家になるための訓練に入ってからは、そうやって少しずつわかってきた精神分析的心理療法を基礎づけている精神分析と直に触れるようになり、フロイトの症例にも精神分析を生み出した生の体験として出会い直し、開業し、実践を重ね、それらに通底する精神分析の普遍性を感じることができるようになってきました。

精神分析はとても長く、苦痛を伴う体験ですが、驚きの連続でもあります。それを「美しい」体験という人もいます。

このように精神分析を体験しながら精神分析や精神分析的な実践を行なうと、それらはこれまでよりもたしかな技法として手応えを持ち始めました。職人と同じで、訓練を受けている人の指導を受けながら見様見真似で行なってきたそれは、言葉にしてしまえばとてもシンプルなもののような気がしています。

以下はプライベートオフィスでの精神分析的心理療法をご希望の方に向けたご案内です。オフィスのWEBサイトにも載せています。https://www.amipa-office.com/cont1/main.html

たどり着くのはいつもシンプルなことなんですね(これも実感)。

ーこんな場合にー

人は誰でもなんらかの違和感や不自由さを抱えています。
それがあまり気にならない方もいれば、それらにとらわれて身動きが取れなくなっている方もおられるでしょう。

当オフィスでは、もしそのようなことでお困りの場合、ご自身のとらわれについて考え、変化をもたらしていく方法として精神分析的心理療法をご提案することがあります。

ーたとえばー

たとえば、いつも自分はこういう場面で失敗する、いつも自分はこういう人とうまくいかない、と頭ではわかっているのに苦しむばかりだったり、その結果、不安や抑うつなどの症状を呈したり、なんらかの不適応をおこしている場合、かりそめの励ましやその場しのぎの対処ではもうどうにもならないと感じていらっしゃる方も多いでしょう。

そのようなとらわれたこころの状態から自由になりたい、別の可能性を見出したいとお考えの方に精神分析的心理療法はお役に立つと思います。 

ー方法ー

この方法は、自分でもよくわからない自分のこころの一部と出会うために、こころの状態に耳を澄まし観察してみること、そして頭に浮かんできたことを特定の他者にむけて自由に言葉にしてみることを大切にします。 

ひとりではなく他者とともに、みなさんがより自分らしく生活していくためにそのような時間と場所をもつことはきっと本質的な変化と新しい出会いをもたらしてくれることでしょう。 

ーアドバイスは難しいー

同時に、この方法は、考え方や対処方法にいわゆる「正解」があるとは考えていないことを示してもいます。
そのため即効性のあるアドバイスを必要とされる方にはお役にたてないと思います。

アドバイスというものはとても難しく、「一般的にはこうかもしれない」ということはお伝えできても、単に個人の主観的な意見を押し付けてしまう危険性を孕んでいるように感じます。 

法律に反することなどはお互いのために禁止事項になりますが、生き方、考え方については誰かが答えを持っているわけではないと私は考えております。 

そのため、問題を整理したうえで一般論をお伝えすることはありますが、それ以上のアドバイス、ましてや「即効性のあるアドバイス」は難しいと思うのです。 

ー定期的で継続的な時間、少なくないお金を必要としますー

また、精神分析的心理療法の場合、ある程度長い期間、定期的で継続的な時間(週1日以上)を維持することが必要になるため、お受けになる方にも一定の時間を確保していただく必要があり、それに伴うお金も必要になります。

ー別の方法をご提案させていただくこともありますー 

このようにコストがかかるうえに、これまで知らなかった自分の一部と出会い、情緒的に触れ合うプロセスは決して楽ではないため、状況や状態によっては負担が大きく、ご希望されても始めないほうがよい場合もありうるでしょう。

そこで、ご自身の現在のこころの状態が必要としているものを明らかにするために、最初は見立てのための面接を数回行うことにしています。 

そのうえで精神分析あるいは精神分析的心理療法をご提案することもあれば、別の方法をご提案したり、別の機関をご紹介することもあります。

まずはそれぞれのお話によく耳を傾けることから始めたいと考えています。 

ー低料金での精神分析ー
週4日か5日、寝椅子に横になって行う精神分析をご希望の方は、
私は現在、精神分析家候補生ですので通常より低料金でお引き受けしております。

日本精神分析協会のHPもご参考になさってください。
http://www.jpas.jp/treatment.html

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精神分析 精神分析、本

どうして5年日記とか10年日記は続かないのに毎日の日記なら続くのかしら。と思ったけど、日記ですものね。その日のことを記す場所として好きに紙面を割けばいい。その自由度の高さ、気ままにやれる感じがきっとよいのでしょう、私には。紙じゃないけど。

雨が降っています。昨晩より強く土砂降りのような音。レインコートと長靴かな。

フロイトは『夢解釈』が有名でしょうか。以前は『夢判断』と訳されていたけど精神分析ではやっぱり「解釈」かなぁ。

夢は本当に不思議で矛盾する出来事が普通に生じる時間を生きられる唯一の場所です。小学生の頃から「夢占い」とかもしました。フロイト を持ち出すまでもなく。

でも持ち出すと、フロイトには A  Lovely Dream(「素敵な夢」フロイト 全集5『夢解釈2』p12)、「すてきな夢」という題がつけられた夢が登場する。どんな夢だと思いますか。きっといろんな「すてき」を思い浮かべますよね。これ、読むとわかるのだけど夢だけみても特に素敵ではない。「すてきはどこ?」と思って読んでいくと、実はこれゲーテ『ファウスト』からの引用である。「いつか見た夢すてきな夢さ」。

連想のたくましい患者である。精神分析ではフロイトの時代から夢と分析状況は関連づけられている。そして今も私たち臨床家は患者の夢の中に自分たちを見出す。自分の夢の中にも様々な関係が姿を変えて現れる。「現実に起こったことと空想で起こったことは、まずは等価なものとして現れる」。私たちはごくわかりやすそうな夢もみるが「巧妙に仕込まれた夢作業」をすることもある。それは小学生の時代からそうだったように他者との間に置かれると意味をもつ。

当時の可愛いイラスト満載の「心理テスト」とか「夢占い」という本は大抵「A.〇〇の夢をみた人」→「ほかに気になる男の子がいます」とか選択方式で、それを読んで「きゃーっ」と盛り上がるという感じだった。現実的に好きな子が今いないとしても一部あっているような気がしてしまうのは昔から変わらないことである。みんな想像してしまうし、「ちょっと気になる子」は大抵いる。だからちょっと興奮して盛り上がる。ちょうどよい遊びだ。

精神分析は選択肢がない。使うのは「自由連想」である。こちらも想像力を必要とする。が、精神分析という状況で現れる夢は今ここにいる二人の関係だったりするので結構複雑だ。秘め事としての夢だからキャーキャーできていたのにここに置かれてしまう。置かれることで連想は質を変える。その連想がまた夢想に近くなる場合もある。

ひとりの夢がふたりの夢に。精神分析ってそういう場所だ。

出かけるまでに止まないな、この雨。今朝はどんな夢を見て起きただろう。精神分析家のウィニコットは「夢をみられない」ことを主訴に精神分析を受けはじめた。夢という時間と場所を失うことは主訴になりうる。こころの世界が守られること、いつだってそれはとても大切なことに違いない。