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精神分析、本

超省エネの日々(行動とか構造とか選択とか)

おはよー。ダラダラした気持ちでやらねばらならないことに使う部分だけ動かしている。超省エネの日々。元々ダラダラ人間だけど、と言いたくなるのって村田沙耶香『コンビニ人間』のBBCバージョンを聞いてるからだね。何かを形にし続けなければいけない人は省エネが苦手な人が多いように思う。「評価なんて」と言いつつ自分が自分に対して一番厳しいことに気づいていなかったりする。ナルシシズムといえばそうだけどそういったところで多かれ少なかれ誰にでもある部分だしね。ただそうなると自分の不全感や苛立ちを身近な人にぶつけたり、その罪悪感をどうにかするために別の誰かをお世話したり、いい部分だけ見てくれる人に愛してもらったり・・。人間って常に自分の欲望を巡って他人に何かしている感じがありますね。だから日々の生活を過ごしながら、週何回もカウチの上で一定時間自分の中の対象を相手にし続ける精神分析は有効(雑な結びつけ)。私はどんなにダメージを受けているときでも精神分析のことだけは考えていられるのだけどその程度には身についてるのかね。だから鏡見ながら自分を解剖するみたいに「あー、これか、いたたっ」となってる。痛くて辛くて苦しくて目背けたり暴れそうになってもどこか冷静に動く部分が保たれている。それでも多分行動したらまずいことが起きるだろうとも思う。相手あることは推測を常に超えてズレがすごいし、大抵はそういうズレに耐えられない。悪いことに最初から非対称な関係だと「対話」どころか圧力で隙間なくして従わせるほうに行きがち。大きい声で言われたりするだけでもそうなる。内容のことだけではない。自分のことだってわからないのに相手のことなんてそう簡単にわかるはずないだろう、と思うけど「知る」という方向にいかない。で、拗れて法的な問題にせざるを得なくなったりする場合もある。そうなると省エネとかいってられないし、そうしかできないから省エネと言ってる可能性もあるとしても慣れないことに頭も体力も時間も使わなくちゃいけなくなって本当に大変なことになる。だからそうならないように、あるいは自分からしてしまわないように自分を相手に観察を続け自分と対話し続ける場所って大事。自分に対して慎重になれる。パフォーマンスは悪くなるけど結果的に現実の複数の対象を守ったりもする。愛憎がスプリットしてしまう行動は避けたいでしょう、誰だって本来は。耐えられないからそうなりがちだけど。

upしないまま仕事してしまった。最近やったと思ってできていないことが多い。この前もさー、というのはさておき、心と法の関係はそれこそ超自我とかいう心の水準と行動の水準では全く異なるので判断や選択は簡単じゃないはずなんだけど今ってすごくお気軽にされるから怖いなあと思う。「晒せばいい」とかいう心性とか。自分が晒される可能性に関してはどう思ってるのかなと不思議に思う。そういうことを言える人の中にはすごい物知りで味方も多い人もいるわけだけどそういう人は「勝てる!」って感じなのかな。人間関係は戦いではないけど(これ書くの何度目だろう)。女性が弱いわけだ。こういう構造からは逃れられない歴史があるものね。そんななか女一人で戦うリスクをとることの大変さときたら。彼女たちがそれにかけた時間とエネルギーを思うといたたまれない。でもそんなこと言ってないで彼らが戦ってよかったと思えて再び似たような負担を経験しないですむように、もう彼女たちが孤独を体験しなくてすむように女も男も協力していくことなんだろうけど今日もまた別の被害者が出て立ち上がれる人は立ち上がってみんなひとりで泣いてという現実を想像するのもたやすい。こういう個人のものすごい負担を通じて少しずつ変化してきたのが現在でこれからもこうやって進むしかないのかな。戦いたくなどない。戦うなら賢く。賢くない場合はどうしたら?職種や組織に守られていない場合は?黙ってるしかないのかな。女性がはまりこんでいる構造について普段づかいで考えられる本として脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書)はいいかも。そういう背景にある構造を忘れて個人的なこととして処理されそうなときに読むと軌道修正してくれるかもしれない。歴史上の女性たちのエピソードも面白いから読みやすいし。法律では大抵はそれが公にされることで不都合を被る方に選択権があるはずなんだけどそれも危うい。日常でも「選択の問題なんだから好き好きでいいんじゃない?」という人もあるけど「選択」って高度に知的な行為だと思うから結局守られないことの方が多いと思ってる。やっぱり強者と弱者にわかれてしまうというか。あーなんか省エネで書いていると話が飛ぶというか具体例書くエネルギーがないからすっ飛ばしちゃってる。頭の中で色々やってないで地道になんとかしましょう。今日は鳥さんをとりにいきましょう。あとでインスタに載せましょう。鳥はかわいいです。

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精神分析 読書

脳世界

今朝は山梨の信玄餅で有名なお店「桔梗屋」のお菓子色々をもらったのでそこから黒蜜カステラをいただきました。ちょうどよい甘さで美味しかった。空のピンクもとてもきれいでした。

以前、必死に頑張ってきたことを褒めてほしい(だけの)人のことを書きました。(だけの)とあえてつけるのは「まさかとは思うけど本当にそうだったんだ」という絶望に近い驚きを相手にもたらすからです。その人は相手が別の気持ちや考えをもった別の人であるということを頭ではよくわかっています。でも内面に興味を持つ、親密になる、ということがどういうことか実はよくわからない。その人は自分の脳世界だけで生きているといってもいいかもしれません。以前「AIっぽい」と書いたのもそういう感じの人のことです。嫌なやつとかでは全然ないのです。AIと同じように人を惹きつける力を持っていることも多いです。私は非常に魅力を感じているので色々読んじゃいますね。そう、彼らも表面的に関わる分にはとっても魅力的でとっても素敵だったりするのだけど親密さを求めるととたんに理解に苦しむことが増えるので特定の関係性を持つ相手のみ相当なアンビバレンスに陥ることが多いです。当人はそういうのが実感としてわからないので面倒なこと厄介なことはうざい重たいしんどいで回避、排除の方向へ行動しがちです。自分の情緒を自由に感じるためのキャパが少ないのでしょうがないので苦しいのはお互い様なのだけどこの苦しさも共有できないので相当なすれ違いが生じます。回避、排除は自分が引きこもったり相手のせいにしたりちょうどよく心配やら賞賛やらしてくれる人を相手役に変えたり行動としては様々な形をとります。相手の気持ちを想像するとかは本当に本当に困難であることを相手の方は思い知り「ああやっぱりそれ(だけの)人だったんだ」と絶望し、魅力を知っているだけに自分のその認識に自分が追いつけない事態になります。今の時代、その人が知性が高くメディアを用いた自己開示が上手な人となるとなおさら外側と目の前のその人のギャップは文字情報として残るのでこちらの情緒的な乖離をもたらします。知りたくもないことが突然目に飛び込んでくるような時代です。もちろん自己開示を上手にするのはかなり大変でそういう意味でも一生懸命を超えて必死さを感じてそうやって愛してもらってきた。できるだけ卑小感を感じないように。だからその部分に少しでも異物が混入するのを感じると怒り(Narcissistic rage by Heinz Kohut)が生じてしまう、というのは専門的にみればわかるのでそういう自分に苦しんでおられる方が精神分析的な治療を求めることはよくあります。ただ変容ということを考えるとそのナルシシズムが傷つく怒りを通過しないわけにいかないので治療状況でも同じようなことが生じたときにお互いがどう持ち堪えるかは重たい課題になります。

村田沙耶香『となりの脳世界』は私も人のそういう部分をとても苦しく感じていた昨年の終わりに出た本ですごく助けられました。年末は年末で「来年とかいらないし」という方もいるでしょうし年末とか関係なく「今日もまた生きたまま起きてしまった」といつもの絶望に苦しんでいる方もおられるでしょう。そういうときにこういう本と出会ってほしいなと思います。私は辛くて辛くて仕方ないときに出たばかりのこの本と本屋さんでたまたま出会うことができました。みなさんの苦しくて死にたい毎日にも少しでも幸運な偶然があったらいいなと思います。ちなみにこの本は文庫ですし、短いエッセイを集めたものなので読む負担も少ないと思います。

「隣の人はどんな世界に住んでいるのだろう。同じ車両の中にいるのに、きっと違う光景を見ているのだろうなあ、といつも想像してしまいます」

「誰かの脳世界を覗くのは、一番身近なトリップだと思います。ちょっと隣の脳まで旅をするような気持ちで、読んでいただけたら」

と村田沙耶香さんは「まえがき」で書いています。年末年始のお休みはまだコロナも心配ですし、外に行かずともこんなショートトリップもいいかもしれないですね。村田さんの書いてくれた脳世界へ。

私たちは映画や小説みたいにわかりやすい「悪」がいる世界に生きていないから愛と憎しみというアンビバレンスに常に引き裂かれるような痛みを感じています。ナルシシズムはその痛みにどっぷりと沈みそこから立ち上がるのではないあり方のひとつです。人と思われていたらモノだったみたいな驚きと絶望を親密さを求める相手にはもたらしがちですが、どれもこれもその人の全体を覆うものではないのもほんとのことでしょう。そうでなければ、私たちがお互いに「そうではない」部分を想定できなければまたあの体験をするのかと怖くてコミュニケーションできなくなってしまうでしょう。

「夫婦や家族のように近い関係ならなおのこと、これからもたくさん、深く、傷つけ合うのです。自分が他人を、家族を傷つける人間だという事実から逃げずに、受け入れましょう。」

紫原明子『大人だって、泣いたらいいよ~紫原さんのお悩み相談室~』152頁からの引用です。

「後ろ指で死ぬわけじゃないし、それもまた一興ですよ。」

これは32頁。「離婚と恋愛編」のなかのひとつ。ちなみにさっきのは「近いから厄介な家族編」のひとつでした。

専門家ではない人の言葉の明るさと力強さは半端ないですね。私たちって患者さんといるときでさえいい人ぶったりしがちだけど紫原さんみたいに自分の感覚と経験を信じて正直であることが自分にも相手にも誠実であることだとはっきりと打ち出していくことはとても大切だと思います。

と私はなんとなくきれいめな感じで書いている気がしないでもないですがどれもこれも簡単ではないですよね。それでも今日も世知辛い現実となんとかやっていきましょうか。朝upし忘れたので歩きながらなんとなく閉じます。またここでお目にかかりましょう。

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読書

はじめまして

今日はなにやら楽しそうな名前の保育園に行く。これまで担当していた人が遠くのご実家にお帰りになるので私が引き継ぐことになった。はじめまして。

先週の「はじめまして」もとてもスムーズだった。この仕事ももう長いのでどこへいくのもわりと気楽でどんな対応であったとしてもそうそう驚かない。いや、驚くけど「ほー、こういうこともあるのか!」と自分の知らない世界に自分のやり方で適応しようとがんばることをしない。馴染みはあるが知らない街を散策する。実際そうだし、気持ち的にもそんな感じではじめましての場へ向かう。こんなところにこんな建物が、全然知らなかった、ということばかりだ、日常は。

その園はとてもウェルカムな雰囲気で迎えてくれた。商店街のはずれ、ちょうど傘を閉じられるアーケードの端っこの方にある小さな保育園で何度か通り過ぎたけど時間ちょうどにたどりついた。その日は雨で少し寒かった。

私が担当する園は注意をしていても見過ごしてしまうような小さな園が多く、よくこの間取りで工夫して保育してるな(基準って・・・と思わざるをえない)と感心する。もちろん感心されている場合ではなくて自治体は乳幼児が育つ環境について真剣に対策を練るべきであろう。保育というのは大変だ。大変なのは保育士だけではない。月齢によって離乳食の内容も変わる0歳児の食事と他の年齢の子供たちの食事をひとりで作る栄養士の仕事ぶりにも頭が下がる。特に用事はないが「○○さん」と言っては振り向かせ何かを言ってもらいニコニコと帰っていく子供たちに対応しながらプラスチックのお皿を少量かつ多彩なおかずで着々と埋め、サランラップをかける。アレルギーを持つ子供たちの食事も特別な注意を必要とする。小さな園はひとりで全てをやっているので保育士との連携や園長の援助も絶対必要。誰かが孤立したら保育の流れが滞る。ただでさえ子供の動きは統制不可能だ。思った通りに動いてなんかくれない。言葉はそんなにたよりにならない。物理的にも仕事の内容的にもこれだけ近い関係だったら保育士の間にも色々あるだろう。それでもそれは二の次だ。やるべきことをやるためには協力せざるをえない。本来家庭だってそのはずだ。

「こんにちは」と何度もやってきては逃げるように去っていく。だいぶおしゃべりが達者になってきた2歳児だ。全身ではにかむような姿がとてもかわいい。私も同じようなトーンで「こんにちは」と返し続ける。私は観察をして助言をする立場なので能動的に関わることはほとんどしない。だから距離や時間の変化を肌で感じられる。たまには定点でじっとしている大人に近寄っては離れ離れては近寄りを繰り返しながら自分のペースで距離を調整していくことも悪くないだろう。大人も子供も忙しすぎる。

村田沙耶香『信仰』(文藝春秋)を読んだ。主に海外からの依頼で書かれたいくつかの短編とエッセイが収録されている。相変わらずなのに凄まじかった。「現実」と「信仰」。言葉が作る境界など曖昧なものだ。読めば「正しさ」がぐらつく。私はどこか気持ち良くなっていて実は誰かをひどく傷つけていることに気づいてもいないのではないか。自分に対する疑わしさはかつて大人に対して持った疑わしさかもしれない。

「何度も嘔吐を繰り返し、考え続け、自分を裁き続けることができますように。」p117

村田沙耶香は子供の頃、「個性」という言葉に感じた薄気味悪さとそれに傷ついた体験を忘れない。なのに繰り返す何かを彼女は罪として裁き続けながらこういう文章を送り出し続けている。凄まじいことではないだろうか。私はこれを愛情と感じるし、子育てにおける激情と近いように感じる。私は彼女の文章を読むと救われる。そこがどんなに血の流れる場所であっても、私たちがいかに愚かでも、私は動物的な部分をケアされたように感じる。世界を肯定するように、という言葉も浮かんだが肯定という言葉が何かとても上から目線のような気がした。私は私の好きなようにしたい。だから好きな人にもそうしてほしい。でもそれは噛み合わない。私のしてほしくないことがその人のしたいことだったりすることがほとんどなのだ。私たちはあまりに違う。こんな小さな、時折小動物のようにもみえる子どもたちが世界と出会う仕方も様々だろう。見るものが違う。感じることが違う。食べるものは同じでも消化の仕方が違う。お昼寝だって暗くするほど興奮する子もいる。ほしいものは大抵手に入らないかもしれないし、手に入れたものはほしかったものではないかもしれない。

私はすでに大人になってしまった。相変わらず自分の気持ちよさにかまけては苦しむ大人に。人なんて変わらない。毎日思う。それでも動きをとめない。感じること、考えることをやめない。罪と知って選択したものだってある。それでも。

いまだに「はじめまして」があるのは幸運かもしれない。「滅びるまで続ける」というセリフがこの本にあった気がする。はじまりに遡ることは難しくとも滅びるまでの距離と時間を子供の頃よりは定点観測できるようになったと思いたい。今日も今日を続けながら。小さな罪深き存在として。

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蜃気楼という真実ー村田沙耶香『生命式』

村田沙耶香『生命式』(河出文庫)は私にとって名言集だ。

「あそこってさ、誰も、着ぐるみの中の人の話しないじゃん。皆が少しずつ嘘をついてるだろ。だから、あそこは夢の国なんだよ。世界もそれと同じじゃない?みんながちょっとずつ嘘をついてるから、この蜃気楼が成り立ってる。だから綺麗なんだよ。一種のまやかしだから」

本当にそうだと思う。とかいってみるが、この台詞が吐かれる世界はぜひ本で体験してほしい。自分では絶対に想像ができない出来事がそこでは繰り広げられている。

これも全くそうだと思うので引用する。

「だって、正常は発狂の一種でしょう?この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います。」

この時代、セックスは受精と呼ばれている。花粉のような私たちはただ数を増やすために受精する。死んだ人の生命を美味しくいただきながらときどき涙したりして。

「本能なんてこの世にはないんだ。倫理だってない。変容し続けている世界から与えられた、偽りの感覚なんだ。」

わかったような、正しそうな怒りの言葉もそこが狂気の世界なら儚いものだ。偽り?正常?それが何?村田沙耶香の小説の登場人物はそれぞれの快楽に恐ろしく素直で本当に恐ろしくも可笑しい。その快楽がその人のものかいつの間にか押し付けられたものかなんてどうでもいい。それはもうそうでしかないものとしてそれぞれに生きられていて私たちは内臓になったりたんぽぽになったり「自分」とか「本当」とかそんなものは問われない世界に迷い込んで混乱し発狂する。

私は気持ちが混乱して辛いとき村田沙耶香の小説を読むと安心する。なぜならそこは自分では到底辿り着くことのできない狂気の世界だからだ。混乱を感じるうちはまだ辛いかもしれないが発狂し快楽を快楽と言わずただ体験しながら生きる。そんな恐ろしい世界はまだ私には遠いのではないだろうか。いずれ一気に近づくのかもしれないが…。これら短編を読み終わるごとに「戻ってきた」という感覚をもてることが多分私を安心させるのだろう。

さあ、今日もまだここまでは狂っていないであろう社会で仕事をしよう。人と会おう。笑ったりサボったり眠ったりしよう。それがいずれ全てまやかしだと言われても。

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言葉は難儀

昨晩、スーパーで安くなっていたスイカを買った。美味しい。むくみにも効くらしい。夏じゃのう、秋の季語だけど。わかりづらいから夏でもOKな季語にしてほしい。もちろん先生によっては全然OK.俳句の世界も大変じゃのう。

ものすごい詩歌とか文章とか書けて溢れんばかりの知識を自由自在に使いこなす人たちがたくさんいて彼らの話を聞いたり作品をみるととても感動したり感心したりする。

そして私は作品は作品だと思っている。そうでないと悲しくなってしまうことが多いから言い聞かせるようにそう思う。どうしてこんな詩歌を作れる人がこんな言葉遣いでこんな露悪的に、とかどうして外向けにはこんな優しく楽しい先生がこんな反射的に他人の言葉をひっくり返しに、とか。憧れの作家とかとプライベートで知り合いになる機会が少ないのは幸運なことかもしれない。幻滅したくない。といっても今は憧れの作家がいない。いやいる。朝吹真理子さんとか村田沙耶香さんとかか。彼女たちには幻滅しなさそうだけど、とかなってしまうのがファンの悪い癖だ。私は彼らのことを何も知らないではないか。理想化で繋いでる希望なんていくらでもあるから悲しいし切ないのだ。

私が「あーあ」と残念に思ってしまう彼らは言葉を追求して言葉で仕事をしていくうちに目の前の相手が自分の作品には登場しえない部分を持つ他人だということを忘れてしまったのかもしれない。自分の広大な世界に引きこもって「自信」に支えられたナルシシズムでその世界観とやらを守っているのかもしれない。もし私が彼らの家族や恋人で「どうして」と感じてしまったら絶対言ってしまう。「そんなにたくさんのことを知っていてそんなにたくさんの人の気持ちがかけるのにどうして目の前の私のことは知ろうともしないのかな」と。それすら言葉で言い返されて「今のそれを言ってるんだよ」とさらにいうかもしれないし悲しくて暴れ出したくなる気持ちをドアとかにぶつけて一人でやけ食いとかするかもしれない。

言葉は難しい。

先日もはじめて読んだ作家の本がとてもよくてついその人のことを調べてしまった。そうしたら過去の論争というか素人からみれば「言葉の世界の人はなんでもかんでも言葉にしないといけないから大変だな」とポカンとするようなことが書かれていて作品に対する感動が少し冷めてしまった。いろんなことをいう人たちがいるが私は作品は作品だと思う。もし私の身近な人が作家デビューしたとしたらその作品を全て読むだろうし買うだろうし書いていること自体を尊敬すると思うがその作品に対する評価は読者としてするだろう。こういうことを想像しながら好きな作品を作り出した人のことも考え続けてしまうのはすでにほとんど(恋)みたいなもんだが(恋というのはそもそも最初からカッコ付きみたいなものかも)出会いを一気に理想化してしまう心性をどうにかしたい。「あー無理」と爽やかに距離をとれるようになりたい。私の経験上、多くに人にとってそれは難儀だ。

あと厄介だなと思うことがひとつ。もし私の家族が作家デビュー(ほぼありえないからちょっと笑いながら書いているのだけど)したら彼らが作家になったあとの喧嘩とか「ものを書く人がそういう言葉使うんだ。相手のこととか考えないとものとか書けないのかと思ってた」とか嫌味なことをいうに違いない、だってここでサラサラとこんなセリフを書けてしまうのだから。

とにもかくにも言葉は難しい。でも、大体の人は今日も誰かと言葉を使って色々するのだろう。難儀やなあ、と使えない関西弁みたいな言葉が出てくる。まあ、やりとりは継続する限り修正もやり直しも可能な場合が多いので色々すれ違ってものんびり構えていきましょうかね。

今日もじわじわ暑くなってきた。なにはともあれ身体は大事。どうぞお気をつけて。