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精神分析

記憶

音楽が聴こえてきてそっちの方を見上げた。古い集合住宅の多分あのオレンジの光の部屋あたりから知らないJ-POPが聞こえてきた。昔のアイドルっぽい歌い方だけど最近の曲かもしれない。今夜は窓を開けていると気持ちいいのだろう。外はだいぶ気温が下がってきたけれどいい夜だ。

ということを思った昨晩の帰り道。こう感じたことを今書き留めておきたい。私はきっと忘れてしまうから。

でも書き留めなかった。忘れるのは常。子供の頃からどんな好きな曲の歌詞もぼんやりとしか覚えることができなかった。合唱コンクールくらい練習を重ねればかろうじて覚えることができたけど本番では「地声が大きい」ときれいな声を出せていないことを指摘された。歌も下手だし、自分の声もどうにかならないかなと新宿御苑のビルにヴォイストレーニングに通ったこともある。宇多田ヒカルがデビューした頃だったのだろう。automaticを歌った。仲良しと通ったのでどうしても笑いが止まらなくなってしまう瞬間があり不真面目な私のちょっと変わった声に対する効果はなかったが先生がとても素敵で楽しい時間だった。

覚えているもんだ、こういう出来事は。結構繰り返し話したことのあるエピソードだからかもしれない。「推し」(今でいえば)とはじめて話したときもした気がする。声だけだったからなおさら。

私はあなたのこころにいるのだろうか。私はいつも心配になる。これだけ時を重ねても安心できないのはどうしてだろう。足りないのはなんだろう。時間だろうか。言葉だろうか。経験だろうか。わからない。精神分析のように毎日のように会っていても私たちはお互いにそんな気持ちを体験する。目の前の人が心ここにあらずであることがはっきりと感じられることもある。どうしてだろう。

少し前に「僕のマリ」というちょっと変わった名前の著者の『常識のない喫茶店』(柏書房)という本を読んだ。とても目をひくかわいらしいイラストと美しい彩色の本だ。この喫茶店では店員が特徴のある客にあだ名をつけている。なかにはなかなかひどいのもあるが高校時代、喫茶店バイトに明け暮れていた私は当時を思い出してたくさん笑った。彼らが客と体験した出来事と情緒がそのあだ名だけで想像できる。非対称の関係において理不尽さを感じたときそれをどうにか丸めておける言葉は必要だ。

私はあなたのこころにいるのだろうか。その人との関係における私にあだ名をつけてみた。悲しくなった。いくらでも悪く言えてしまう。苦笑いだ。なら関係にあだ名をつけるとしたら?

難しい。友達、恋人、兄弟、家族、客と店員、患者と治療者など個別性を欠いた表現になってしまう。精神分析家と被分析者という言い方は「精神分析」というものに対する関係を表しているからまた別物な気がする。そこでは「私」と「あなた」は普通の感じでは分かれていない。

私とあなた。私たちは一体何者なのだろう。同じ時間を同じ場所で過ごし互いの記憶を共有し笑いあう。意見が違って「もういい」と言われると悲しくなって「もういいって言わないで」と怒り謝られる。そんな他愛もないやりとりの積み重ねはお互いのこころに二人の場所を作るプロセスになっているのだろうか。共にいるときはそこが巣となり、離れればそこには何もなかったように、ということができてしまうのがこころだ。私は時々とても不安になる。あなたやあの人はどうかわからないが彼らだってそうだろう。

記憶力の悪さは不便だ。でもたとえ覚えていても、愛しさを抱え形にするこころを持てなくなったらそれは死んでいるのと変わらない気がする。覚えておく類の記憶ではなく身体に染み込んで生き続ける記憶。それらに支えられ苦しめられ毎日を過ごしている。

今日はどんな1日になるのだろう。見えるもの、感じるものに振り返ったりニコニコしたり不快になったり言葉にしたりいろんなことが起きていろんなことをするのだろう。

Remind yourself today that you matter!

PEANUTSのアカウントが言ってた。

大事。Remind yourself today that you matter!

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生