いろんな人のライブ情報が入ってくる。コーシャス・クレイもまた5月にくる。
村井理子さんの愛犬ハリーが琵琶湖を泳ぐ映像があまりに美しい。岸政彦、齋藤直子夫妻の愛犬ちくわもあまりにかわいらしい。あまりによき姿というのはこの世に溢れているのでずっとみていたいがどれもこれもそればかりでできているわけではないので今日も普通に愛でたり憎んだりしよう。憎むまでは時間がかかるからなるべく憎しみにしないように違和感や怒りに素直になろう。
フェミニズムに影響を受けたといいながら平然と女をとっかえひっかえ利用する人(こういう場合、大抵家族もいることを考えるとどの関係性も代替可能と思っているところがポイントか。面白いことに表面的な類似性もある)が自分の身体の痛みにばかり敏感で相手の身体の痛みに鈍感であることについて考えていた。これはDVや多くの身体的な暴力についてもいえるかもしれないと思った。もちろん身体の痛みは心の痛みとイコールで考えている。私が考えていたのはヘテロセクシュアルで性器的な志向が強い場合の倒錯についてというか、それそのものの倒錯性についてなのだけど、こういう場合の方が暴力を暴力と思わないのではないか。今の政治もそうかもしれない。自分への執着を部分的に他者に投影して、それがモノである場合は思い通りにできるけど人である場合は相手にも身体と心があるから空想通りにはいかない。で何をするかというと人扱いをやめる。モノ扱いする。そうすれば何してもいい相手になる。考える必要のない相手になる。そういう倒錯性を考えると倒錯はマジョリティを説明する概念の一つになるかもしれない。イコールナルシシズムとして。他者をいなくしてしまうわけだから。でも倒錯という場合、そこにマゾヒズムの現れがあるわけでそれが自分の痛みに対するあり方に出ているのではないか、と考えたわけ。こういうことはすでに誰かが言っているかもしれないが、実感があるとこれはかなり恐ろしいことだと感じる。良きものが持つ力もそういうあり方に対しては無力というか部分的に利用されてしまうだろう。フェミニズムの知を喰いものにする「知識人」だってすぐそこにいるだろう。悪循環を断つには愛の物語が必要なのはどの時代も同じだがそれがマジョリティのナルシシズムでは困るわけだ。といってもそれがマジョリティである以上、そっちが「愛」と言われたりするわけだけど。などなど考えていました。難しい。
ああ、ハリーもちくわも近くの空を飛ぶ鳥たちもみんなあまりに良きものたち。世界がとんでもなく悪いものとしてもとんでもなく良いものたちを思い出す機能だけは残しておきたい。
どうぞ良い一日をお過ごしください。