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精神分析、本

下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』を読み始めたり。

「疲れた」という感覚がよくわからなくなってるな、と思いながら早朝のコーヒー。今日もちょっといいドリップコーヒー。理由は思い当たる。いつかどっと出たら嫌だなと思うけど「いつか」のこと考えてもね、とすぐに思う。

自分は神話の世界の誰かみたいにおぞましくも悲しくて愚かな生き物なんだ、それから逃げ出したのは誰?私のせい?それとも自分自身を私に投影したせい?あなたと私は違う、ただそれだけのことをどうして愛せなかったのか、どうしてあんなに無理をしてまで愛そうとしてしまったのか、死にたい気持ちを眠るふりしてごまかしてしかたないしかたないと毎日を過ごす。一方でなかったことにしないためにおそろしく冷静に分析を繰り返す。痛みの上書きと別の観点の発見とそれでも問い続けるべきことの確認、行動するならミニマムに効果的にという原則を忘れないこと。お互いこれまでの繰り返しとして傷つくのではこのしんどい作業には意味がないから。

さて、最近「心とはなにか?」という問いをめぐる本がまたでていた。新しい本と知らずたまたま見つけた(新しいから見つかったのか)下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)。著者のお名前が爽やか。文章もあまり考えずに読む分にはサラサラと読める、というか私は哲学に詳しいわけではないから素直に物語的に読めるだけかもしれないけど負担の少ない文章と感じる。どうせ答えのないことを考えるなら軽やかな方がという気分でもある。序章でこの本でやりたいことの説明がされて本編というのかな、第一部は「心のなかった時代」としてホメロスからはじまる。メタファーと概念と存在の関係を心と身体の関係と共に考えていく仕方も流暢で先日の妙木先生の講義のよう。哲学の本は私の現場とは遠いので悪意や憎しみを向けられることでほぼ死んでしまった部分を知的に手当てしてくれるところがある。自分の歴史の紡ぎ方に新しい風が拭いてくれますように。もう毎日願うばかりだな。引用されている文章を引用したいけどそれってなんか野暮な気がするからしない。

散歩日記(新百合ヶ丘ー若葉台間)を書こうと思ったのに関係ないことで時間になってしまった。写真だけ載せておこう。句会のお題で出たときにはまったく身近でなかった烏瓜がすっかり身近になったお散歩でした。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生