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精神分析

ウィニコットとか米田翼『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』とか。

夜はいつまでもおなかいっぱい。遅い夕飯が胃腸に良くないことはわかっている。昼間なら胃腸の調子に気をつかえるが夜はもうだめ。つくおきもしない方がいいのかもしれないがしなかったらしなかったでお惣菜を買ってくるに違いない。いろんなことを上手にコントロールできたら私はこんな仕事についていない。だってもしそうできたら困る人はいなくなるだろうからこの仕事はいらないと思う。お勉強として消費する分にはいいかもしれないけど。臨床は相手がいないとできない。困りごとのない世界、自分で自分をコントロールできる世界なんてないからお金も時間もかかる仕事の世話になる。だったらそんなのなければいいのに、と思うかというと私は思わない。人間は時間もお金もかかってしまう厄介な生き物なんだ。だって可能性がいっぱいだから。人間だけでなはくて生命あるものはみな。だったら生命をどこまで拡張して考える?動物まで?宇宙まで?

私はウィニコットは多くの赤ちゃんや妊婦さんと関わるなかで有機体の起源を考えていたと思う。母と子のユニットという考えがひとつの到達点になったのだろうけど、それは単に自己の起源を他者と未分化な場所に位置づけただけではなく、有機体の可能性を母胎という宇宙、あるいはマトリックスに見出したからだろうと思う。ウィニコットは常に「可能性」について考えていた人だったと思う。

そんなことを考えいてるときに何かヒントがほしくて開いたのがベルクソン・イヤーにベルクソン研究者の皆さんが魅力的な時間論を展開するなかで独自の生命論を展開していた米田翼さんの『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』。この本はベルクソン『創造的進化』はもちろん、古典の丁寧な読解の仕方も勉強になる。

著者はいう。

「たとえ絵空事であっても、ベルクソンの創造的進化論を徹底するのであれば、我々は「あらゆる法則は突然変化することがある」ということを肯定すべきである。」

本当にそうだと思う。

「ベルクソンは我々が住まう現実世界そのものに決して空虚ではない「可能性」や「偶然性」を植え付けているのだ。系外惑星における未知の生物たち、あるいは地球上で眠りに落ちていった植物や動物たち、彼ら・彼女らが歩んだ道のりは、ひょっとすると我々が歩いた道のりだったのかもしれない。この「ひょっとすると〜かもしれない」が「空虚ではない」と言える理由は、ただひとつしかない。それは、これらすべての生物たちは、起源においては我々と一致していたということである。ベルクソンの進化論が提示する世界観・存在論では、可能世界に住まう私と(行動の履歴まで)よく似た対応者(counterpart)よりも、この現実世界で私とはまったく別の道のりを歩んできたミツバチたちの方が、よほど私とよく似ているのだ。」

痺れる汎生命論。進化に対して「絶滅」という表現を使うよりずっと現実的。

「ありえなそうなことが、本当にありえないかどうかは、それが実際に生じるまで誰にもわからない。」

維持したいのはこの姿勢で、なぜなら、というところに生命の起源を探究する意味があるように私は思っている。

今朝も暑い。洗濯物を干しながら窓を開けたけどびっくりするくらい何も吹き込んでこなかった。今日も涼しい場所を探して過ごしましょう。良いことありますように。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生