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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 俳句

俺俺倫理に抵抗す

鳥が鳴いてる。句友が増えていく。年齢も職業も知らないで俳句を巡ってやりとりしているだけの人も多いがむしろその言葉選びにその人らしさはでているようにも思う。句会はクローズドだけど俳句は誰にでもできるし私がいる句会はどれもとてもオープン。楽しいし勉強になる。

noteで「あれはなんだったんだろう」解明のため俺が倫理みたいな人を取り巻く家族やそこそこ歳をとった永遠少女や飼い犬のことをネタとして書きつけるときはとても嫌な気持ちになる。気持ち悪いパターンが一切変わらないから。一方で言葉豊かな句友たちと話しているといろんなことに気づく。普段使いの言葉で身も蓋もなく景色を描写する。読み方も自由なので自分では気づけなかったであろうことにもたくさん気づく。こんな豊かさを背景に搾取と依存によって退行を維持する人たちのことを考え続ける。考えるのが嫌でというかそのキャパが少なすぎて不快なものはすぐに外に押し付けてしまうのだろうから大人がやるべきことをやりましょう、という感じ。西村賢太みたいに書きたいけど全く無理なので逆に身も蓋もないことを書いて俺俺倫理に身の回りの人が騙されないように注意しないと。しないとってこともないけどこれからを生きる世代がせめて人の身体を弄ぶようなことをしないように、そうされないように、とかすごく最低限のことを考えてしまう。そういうことが普通に起きているから。どんなに知識が豊富で口がうまくても言葉がパターン的で深みがなくなんか自分のことばかりと感じる人と関係が近くなったとき、違和感さえ否認しなければ悲しい思いをしなくてもすむかもしれない。いろんな要因で自分で自分を騙すことをする私たちだから事態は変わりにくいけどまずは知ることで抵抗、対抗。退行するなら専門家のいる安全な場所で。何がなくともやっていきましょう。今日もどうぞご無事で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

お喋り、バッティングセンター、月曜日

よく話しよく笑った週末だった。大切な話もたくさんできてやっぱりこういう場が大切だね、と頷きあった。話している内容というより話すこと自体の大切さ。「普通」に言いたいことが言えるって当たり前ではないんだ、という感覚はポストコロナという感じもした。コロナ禍における「あれはなんだったんだろう」を相対化できる時期がきたのだろうか。まあしたくもないか。まるでなかったことにして進んでいく世界を前に置いてけぼりの感覚を維持している「あれはなんだったんだろう」状態のまま「人間って・・・」と考え続けるのは私の仕事でもあるし心身を守るすべでもある。「きっと今日もまた」と予想していたくせに傷ついたり衝撃を受けたりする体験に慣れることはないが慣れないことで維持されている自由や倫理だってあるだろう。違和感や不快感を対象まるごとなかったことにして平然と口にされる自由や倫理なんてそれこそ不快だけどそういうのに蝕まれながらもなかったことにだけはしないということも大切だろう。

久しぶりにバッティングセンターへいった。ゲーセン兼バッティングセンターだけどゲームをやりにここにくる人もいるのだろうか。バッティングの合間とか待ち時間にやる人の方が多そうというかゲーム台の前の椅子に人はいてもゲームをしている人はあまりいなかった。バッティングは二打席目はそこそこ当たったがなんかもう姿勢とかもろもろどんなだっけという感じだし腕がすぐに疲れてしまってそのあとやったストラックアウトなんてバウンドした球で2枚抜けただけだった。球技全般得意だったのなんてもう遠い昔のこと。身体がバキバキだ。そうでなくても加齢による身体の悩みは増えるばかり、と同時に同年代のみんなの共感と持ち寄られる情報の質は高まるばかり。不注意による怪我の多さとかはほとんど共感を得られなかったけど。バッティングセンターは自打球にさえ気をつければいい狭くてやることがシンプルな安全空間だから私には向いてる。常に運動不足だからまた行こう。東京は水曜から雨だって。雨の日でもバッティングセンターなら行けるね。時々こうしてバッティングセンター熱が高まると歴史とかも気になってきて「バッティングセンター 歴史」で検索してみた。やっぱり調べてる人っているんだねえ、何事も。『日本バッティングセンター考』(カルロス矢吹/双葉社)という本が見つかりましたよ。本紹介を読んで全国のバッティングセンターにいってみたくなった。今度旅に出るときは必ずその土地のバッティングセンターやそれっぽい娯楽施設をチェックしよう。これまでの旅を思い返しても田舎の3,4,5階くらいの総合スーパー的な施設のぽかーんとしたスペースに卓球台があったりしたもんな、そういえば。もちろん見つければやる。卓球もバッティングと同じで娯楽とトレーニングの境界が薄い気がする。たまにめちゃくちゃ上手い人が打ち合ってたりするもの、そういうスーパーの一角で。温泉卓球とかもそうね。

とか書いてるうちに月曜日、という言い方も変だけど休みはおしまい。「きっと今日もまた」という失望や絶望に沈んだとしてもいずれ回復できるようにこころの隙間を残しておけるといいですね、お互い。とりあえず今日をご無事に。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析、本

プリズム、やり直し

鳥が鳴いてる。カーテン開けられない。飛んでいっちゃうから。でもカーテン開けないと見えない。生活はジレンマだらけだな、とか急に大きそうなことをいってみる。鳥の世界の方がずっと広くて大きいけど。

すぐそばでスズメの大きな声がした。一羽じゃ出せない大きさ。『スイミー』(好学社)を思い出した。そっちの方を見上げる。いた!小さな木にいっぱい止まってる。一緒にいた人は最初気づかなかった。まさかこんないっぱい木と同じような色したのが止まってるって思わなかったみたい。毎日そこがねぐらなの?こんなに風が強いのに一晩中そこでそうやって丸まって寝るの?大好きなスズメのことも全然知らない。

まさかこんないっぱいいるとは、そうなんだよね。こっちは大体いつも同じ目線でしかものをみてないから向こうにとっては当たり前のこともすごく新鮮でびっくりちゃうことがあるんだよね、という話もした。よくよくみるように知るようになってから全然見え方が変わったものや人について話し、話しているうちにそのものや人のことをもっと共有したくなったといって色々教えてくれた。私は私でまた別の印象を持つわけでそうするともっとそれらについての見え方って変わる。プリズム♪YUKIの曲、よく歌ってたな。

♪いじわるな人がとやかく言うけれど 私は、どこかでまちがえたかしら?♪

今日はまちがえないぞ。この前すっぽかした予定を移してもらったの。すっぽかしたのだから移してもらったとは言わないか。すっぽかすつもりはなかったのだけど。すっぽかすつもりですっぽかす人だっているでしょ。日曜日に何も予定がない日はないはずなのにその日は「何もない!」と勘違いしてプチトリップに行ってしまった。そしたらLINEが。がーん。アイフォンに入ってない。入れたはずなんだけどなんかアイフォんのカレンダーに同じ予定が二重で出ることがあってその一個を消すと両方消えちゃうみたいなの。どうして?同期の問題?動機の問題?いやいや。だっていつもすごく楽しみにしてる予定だもん。そこでやり直しの機会をいただいたわけです。ごめんね、みんな。お詫びのお土産あり〼。お詫びのお土産って言うのも変か。でも本当ごめんよ、ありがとう。

昨日も海外でトレーニングしている友人からのメールでさ、とまた私側の忘却による不義理があったわけですが何度でもやり直せる関係の相手だからきっと大丈夫。ごめんなさい。

やり直せない関係は自分か相手が死ぬ場合以外、本来あるのかしらね。コミュニケーションを断たれることはやっていきたくないというコミュニケーションだからやり直す以前。基盤が壊されてしまうわけだから。やり直しには共有された何かが必要だものね。精神分析の防衛機制の分類は本当に有用。そういう分類でも使って仮の理解しなくちゃ耐え難い心ない反応にもたくさん出会うものね。こころが壊れないように、殺されないようにできることを実際に死にそうな人たちと一緒にいて自分たちが共有できそうなのは言葉だから言葉中心にできることを探って作り上げてきた治療文化を外側からわかったように語る人もいるけどそれはそれでコミュニケーションする気がないというか知的に素早くコミュニケーションできる人としかコミュニケーションしたくないとか色々あるのかしらね。私はコミュニケーションは時間をかけて続けていくものとしか思っていないので「正しさ」について何かいいながら何かの方法を「これぞ正しき方法」みたいに教えている人とやっていくのはいまのところ難しそう。どんな丁寧な物言いでどんなに信頼されていても陰で人を切り捨ててるような人がそういう教えによってお金をもらっていたりもするわけで、でも現実ってそういうことに溢れてる。教員のセクハラとかもそうだろうし。私たちの仕事だってある人にはこうである人には全く別物だろうし。だから実践を通じて訓練するわけだけど。ほかの人にいっても「まさかあの人が」と一面的な見方しかしてもらえず偏った聞き方しかしてもらえないようなコミュニケーションは死にたくなるほど苦しいしそうやって傷ついた人たちと関わるような仕事だから今日もいいとか悪いとか正しいとか間違ってるの前に何度でもやり直せるための条件について考えましょう。それを壊してくる圧力や暴力のことも同時に。

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コミュニケーション

ガシャーン

コーヒーで熱くなったので今日も寒いらしいことをすっかり忘れて薄着で出ないようにしないと。一度出ちゃうと振り返ればうちだとしても戻るの面倒になって「ま、なんとかなるか」と駅くらいまではいいけどホームで「やっぱりもっと着てくればよかった」となることを何度もしているのだから学びましょう。今日も着膨れていこう。外の世界は春の季語だらけだけど私の身体はまだ冬の季語だらけ。

この前、3ヶ月後には2歳になる子とたくさん遊んだ。ひらがなとか数字に合わせた絵が描いてある正方形の積み木を横に積み重ねるのではなくて縦に重ねていたらその子もなんなくその上に重ねはじめてみんなでびっくり。みんなで手をたたいてすごいすごいとするのを見上げるがその子はそれを偉業とは思っていないらしくクール。一方、積み木が崩れたときの興奮は素晴らしくかわいらしくみんなで「ガシャーン」と言いながら口に手を当ててびっくりするポーズを何度も何度もやった。絵本の蝶々の片方の羽を引っ張ってちぎってしまったときはびっくりしてしばし思考停止していたようだったのに積み木に対しては崩し残した積み木も手ではらいのけ完膚なきまで崩してから例のポーズを楽しく繰り返す。大人でもひとつひとつの仕草とかいろんな特徴を知るのは楽しいけど小さい子のには驚かされることばかり。自分も通ってきたはずなのにね。

本当に毎日色々あるけどなんとか過ごそう。まずは忘れずに暖かく!

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

子育てとかこれとあれの違いとか。

小さい子と遊ぶとそれ以外のことはなにもできなくなる。子供1人で大人が3人以上いればひとりが遊んでもうふたりがしゃべっている時間もあるが結局全員の注意は子供に注がれている。楽しくて楽しくてなんとか眠らないようにいろんなことをする子供がおかしくてかわいくてみんなで笑う。ようやく腕に抱かれて眠りそうな子供のそばであとのふたりは声を潜める。小さな身体でチュパチュパと音を立てながら眠りに落ちようとする姿に懐かしさを覚える。懐かしいと愛しいはセットで生じる。子供がいる大変さを語りながら子供に時間をとられながら子供と一緒によく笑い子供の仕草に驚き発達を心配し「そうか」と何かを発見しということを子供のそばで繰り返す。自分のしたいことすべきことは全く進まない。それでもなんとか進める。大変としか言いようがない毎日だがそれはネガティブな意味だけではなくとにかく予測不可能だということが想定される毎日だからだろう。私は子供と関わるのは仕事でも趣味でも生活でもあるのでわりと役に立ちありがたがられるしいろんな親たちといろんな子供と遊びながら話をしてきた。子育てを語るというより子育てをしているその人が語ることはそばにいる子供の語りでもある。彼らの親の語りでもある。ひとりの人に生きている歴史、生きようとされている歴史、そういうのが大切にされればいいなと思いながら話を聞く。当事者として語ることと第三者として語ることは当然異なる。当事者のくせにあっという間に第三者として語れてしまうこともある。子育てをしている人にはそれができない。だからきついということもあるだろう。なかったことに、いなかったことにできたらどんなに楽か。負担を引き受ける方の願いは大抵望ましくないものとされる。おかしなものだ。どうして自分だけ逃れらられると思ってるんだろう、実際逃れられてしまうのだろう。前者は個人の問題で後者の社会の構造のせいだとかざっくりしたことをいっておこう。戦争が起きている世界のすぐそばで心はもちろん身体的な搾取を行う一方で人の相談にのって感謝されたり大きなこと、丁寧なきれいごとをいって大きさを問わずメディアと共謀しナルシシズムを満たされている個人は子育てをしている人の横で何も見えていないかのようにしてでも見えているから急に怒鳴ったり暴力を振るったりしながら外では「いい人」でいる人と何が違うのだろう。あれはなんだったんだろう問題がこれとあれは何が違ったんだろう問題として私の中で変換されがちな今日この頃。やるべきことやりながら感じたこと今日も色々書きつけていきましょう。

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コミュニケーション 精神分析、本

三木那由他さんの本のこととかを少し

昨日、三木那由他『グライス 理性の哲学』(勁草書房)を開いていたはずが持ち歩いたのは小さくて軽い古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)で読んでいたのはもはや紙ではなくkindleの三木那由他『話し手の心理性と公共性』(勁草書房)。三木さんは文庫じゃないのは両方勁草書房なのね。書いてみてようやく意識することってあるね。

書くことに関する本も山ほどあるねえ。私も辛いときほど小説を書きたくなって小説を書くための本とか何冊か読んでるけど書き物に生かせるほど読んでも書いてもいないねえ。でも小説でなくても、こんな駄文ブログであっても、書くことで自分をどうにかこうにか保とうとしているところは多かれ少なかれある。ひどいことって色々あるから。個人の体験で外側に見えているのってほんの一部。いろんな話を何年聞いても、まだ本人が知らなかった本人のことがたくさん出てくるんだから。そのプロセスでまとまらなかった断片がなんとなく居場所を得たりもするから量的な問題ではないけれど。言葉はいつも必要だし、コミュニケーションに関する本、言葉に関する本も出続けるよね、そりゃ、という感じかしら。言葉にできない、ならない出来事って尽きないけど。悲しいことに。苦しいことに。物言わせぬ圧力をかける側が相談って大事だよねとばかりに周りに上手におはなしして同情共感されているのをみたりするとそれはそれで地獄だったりするし(私は「地獄」という言葉を使うたび九相図を思い浮かべています。あれについてはまた別の機会に。)コミュニケーション大事だよ、相談大事だよ、と言いつつそのあり方によってはそれ自体がまだ誰かの傷口を広げるわけだ。そういう困難や不均衡は生じるわけだけどそれこそ言葉を持ってしまった以上そういうのは仕方ないのでそれぞれがどうにかこうにかやっていくために今日もまた言葉に困り言葉に助けられながら。

三木那由他『話し手の意味の心理性と公共性』はグライスの意図基盤意味論(これは『グライス 理性の哲学』で詳細に書かれている)に対する批判から共同性基盤意味論を立ち上げることによってコミュニケーションにおける話し手の意味の公共性に注意を向けさせる本である(と思う)。そこでは共同的コミットメントによって誰かと出会い、共にあることが重視される。私はこの考えはウィニコットのshared reality、サリヴァンのconsensual validation と重ねて考えることができると思って読んだ。精読すべき本だと思うので近いうちにしよう。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 読書

知識

早朝から國分功一郎さんたちのUTCP公開セミナーをみていた。2月18日(土)午後に行われた柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)の合評会の映像のアーカイブ。1:28:55あたりから本編、というのが面白い。動く國分さんがいるのに何も聞こえないし何か始まる気配がないから私のパソコンがおかしいのかと思った。会場には柄谷行人ご本人がいらしていたとのこと。いいねえ。そのあとご本人からのフィードバックもいただけたのよね、きっと。私はまだ読んでないけどDの到来か。こういう話だけ聞いていると面白いような気がしてしまうけど知識も教養も足りなすぎるからまずはとりあえず読むだな。いつもそうだ。

言語論の講義を受けて発表もした。話題にでた三木那由他『言葉の展望台』(講談社)を再読しようと思ったが読みやすいそっちはいつでも読む気になるだろうからモチベーションが落ちないうちに途中までしか読んでいなかった『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』を開いた。あ、話題に出たのは『会話を哲学する コミュニケーションとマヌピュレーション』(光文社)のほうか。昨年刊行された『実践 力動フォーミュレーション——事例から学ぶ連想テキスト法』(岩崎学術出版社)の刊行記念に監修者の妙木浩之先生が寄せた文章にもこの本は登場する。

コミュニケーションは断たれてしまったら何も生じない。それは未来にとっては危険なことだ。いくら本を読んだところで知識を身につけたところで実際のあり方をずっと問い続けて自らも実践していくことがなければ言ってるだけの人たちと変わらない。言ってるだけであっても言えてるだけマシかもよとも思うが。文章を書くその人がどんな人であろうと読んだり聞いたりすれば助かる人も多いだろうからそれはそれで一つのコミュニケーションのあり方なのだろう。そういう乖離を見せつけられる距離で絶望を繰り返しさらにコミュニケーションを断たれたとしても(ひどいことは大抵最後までひどい)知識は知識だ。とても冷めた気持ちで言葉を物質として淡々と取り込む工夫も必要だ。三木さんの本を読むとなおさらそんな気持ちになる。動けないという意味で時間が止まる。思考が停止する。それでも時計は動き続けひどい人はひどいまま今日も元気だろう。冷めた気持ちで淡々と。いずれ使えるように素直に取り込んでいこう、それが誰から発せられたものであっても、正しいと言われる知識であれば。