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話す仕事。

昨晩は中秋の名月、きれいでした。高いところにいくと空に貼りつけたみたいな平面さ。でもその前を薄い雲がたなびくように横切っていくからそこが空間であるとわかる。精神分析をしていると平面的な心というのを知る。表と裏、こっちでなければあっち、自分と自分以外、そこでは時間も流れない、ずっと同じ、奥行きを持つことがいかに難しく、しかしそれが可能であることか。精神分析は「話す」のが主な仕事。精神分析は被分析家にとってもほぼ仕事。話さなくては始まらない。しかし「それは話しているとはいわないよ」という場合がある。本人不在、他者不在、なにかが生じることのない語りがあることもこの仕事で知った。簡単に憎むのに決して愛さない。愛と憎しみは両価的であるはずなのにそんなことなかった。私は最近なんでも一元論で考える方がいいのではないかと思っている。たやすく反転するかのような同質さで似て非なるものを語ることで難しくなっていることがたくさんあると感じる。ラカンが晩年「一者はある」という肯定的な公式に舵を切った。そこではシニフィアン連鎖以前の言語的なものを蜜蜂のように群れをなすララングという用語で示した。平面的な心もこの概念なら説明可能だろう。疎外も拒否というよりその契機をつかむことができない主体はララングにとどまり外部である他者の欠如に自分を見出すことができない。自らの固有の場を見出すこと、精神分析はそれを可能にするはずだが平面的な心に対しては様々な前提を取り払う、というよりあると思っていたものは本当はないということを自然に受け入れていく必要がある。精神分析の限界を精神分析によって体験しつつ精神分析の可能性を知ったとはいえ、その限界は到底日常用語では説明できないものなので色々と糸口を探している。とりあえずたやすく相対するものを作らず、そのものの内部に蠢くものがあるか、あるならその変化を観察し描写していくことからと思っている。

窓を大きく開けているけど風の気配がない。外に出れば感じることができるだろうか。虫の声は昨晩からずっと高らか。今日も色々あるだろう。がんばろう。

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祝日

冷房つけていない。昨日も気持ちよかった。田中一村展のために上野へ行った。昼間から賑わう居酒屋で自分を「おかま」と呼ぶ蛍光の黄緑の服を着た人と少し笑いあった。悲しい話も少し聞いた。自分のことをあえて「おかま」と呼ぶことについてまた能町みね子さんたちの対談を思い出した。上野公園をぶらぶら歩きながら東京都美術館へ。たくさんの人の後ろ姿。元気いっぱいに殴り合うふりをする子どもたち。そのそばで自分のやりたいことを主張する子ども。たくましい。で、東京都美術館。ガーン。田中一村展は19日からだった。2023−2024の年末年始は奄美大島で過ごした。そこで出会った田中一村。奄美の自然を実際に体験しながら多くの作品を見た。他人から見たら厳しい生活を選んだ一村の生き様もまた魅力的だ。また出直そう。前売りがまだ買える。昨日はショックだったが運よく東京国立博物館は無料拝観日。じっくり見られた。琉球とアイヌの部屋にアイヌの作品がなかった気がしたがなぜだ。アイヌの作品はものすごい迫力がある。ちょっとそれに触れたかったのに。

ちょっと放置していたらこんな時間。今朝はここまで。今日は火曜日。指差し確認するように確認せねば間違えてしまう。がんばろう。

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パンダ、パウンドケーキ

和歌山県白浜町アベンチャーワールドの良浜が24歳になった、と少し前の記事で知る。おめでとう。あなたたちの子どもパンダが赤ちゃんだった頃、ずーっとずっーとみさせてもらったよ。かわいかった。彩浜ちゃんのときともうひとパンダ。どの子だったか・・・。彩浜のときはコロナ前だったのと時期もよかったのかな、並ぶこともなく時間制限もなくずっとずっと見られた。コロンって寝てるだけなんだけなんだけどピクンとかなるだけでみんな声をあげるほどかわいかった。お外で遊んでいた兄弟姉妹もおもしろかわいかった。パンダってのんびりしてて間の抜けた動きとかそれって無理があるのでは、やっぱり無理じゃん、みたいな動きとかなにしててもかわいい。熊とかはああいう動きはしないだろうし、やっぱりあのまーるい感じがなんともいえず幸せな気分にさせてくれるのかしらね。上野動物園の方がずっと近いのにシャンシャンとか見たことないのよね。中国で元気にやってるかしら。

さっき南側の大きな窓を開けた。風がない。昨日は洗濯物が案の定大惨事に、でもないけど物干し竿が風で落ちた。その前に少し取り込んでおいたから被害は少なかったけどガーンって大きな音がして私もガーンってなった。で、ハンガーも壊れてしまった。ガーン。

今朝は甲州市塩山「Nelk」さんのパウンドケーキ。調べたらすっごくかわいいお店。こんな記事がありました。おいしい。クッキーももらったからそれは明日。楽しみ。今日はTWGのフレンチアールグレイと。これもいただきもの。我が家の紅茶ストックも充実させねば。今年は少しずつ少しずつ冬に向かっていくらしい。というかこんな暑い秋のまま一気に冬になったらいやね。ああ、地球、大丈夫じゃなさそう。大切にしよう。

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風、光、秋祭り

風が強い。洗濯物が飛んでしまうか?大丈夫か?心配だからパソコンを移動してテレビをみながら洗濯物も見る。いいお天気で乾くのは大変助かるが。そしてNetflixでドラマを見てしまう。いかん。午後はお仕事だからそれまでにやらねば。

キウイ美味しい。熱い紅茶暑い。洗濯物がすごい靡き方している。「なびく」って「靡く」って書くのか。自動変換便利。こんなに時折ぶおって持ち上がるくらい揺れても「靡く」でいいのか?靡くってこんな激しい感じにも使うのか?使うのだろうね。風の種類も色々あるからそれに合わせて動詞も変わったりするのかしら。私が知らないだけできっと色々あるのよね。こう書きながら洗濯物を眺めている時間が長い。そして洗濯物が激しく揺れるたび変な形の光が部屋を走る。洗濯物たちが作る影ではなくて光が部屋の中を走る。小さい頃は光でたくさん遊んだよね。今は見せられるまま。戯れることはしなくなった。それでも楽しいけどね。

昨日は秋祭りの音に誘われて八幡に寄り道した。いつもはほとんど人がいない神社に自転車がいっぱい。お店がいっぱい。裏の出口ですれ違った子供が父親の足にししがみつき押しとどめながら綿菓子をせがんでいた。楽しく出かけ盛り上がってもこうなっちゃうことってあるよね。私が行った時間帯は叱られている子どもが多かった。何度呼ばれても振り向かない子ども。結局連れ去られ大泣き。呼ばれるたび先に行ってしまう子ども。先に帰っちゃうよ、と言われても振り向かない。しばらくして振り向くともう親は見えない。泣いて追いかける。姿が見える。もっと泣く。叱られつつ抱っこされる。そうねえ。みんなお互い辛いところだよね。でも道に出たらもう電車に興味がいっちゃってニコニコだったり。外からはわからないそれぞれの親子。良い夜でした。

今日も色々あるでしょう。良い日曜日になりますように。

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時代、ゆっきゅん新アルバム

いよいよこのパソコンだめなのではないか・・・。朝焼けがきれいだったことも忘れてしまう。早朝、そっとカーテンあけてきれいな気持ちになったんだ、一瞬。このワードプレスのアプリ?ソフト?これも開くたび落ちる。今はなんだか大丈夫。まあ、こんなことしてないでやることやれよ、という警告かもしれない。しかしこのいろんな不具合は単にこのPCが対応できないモデルだからということかもしれない。どこに持っていってもヴィンテージとして驚かれ懐かしがられるし直せる部品がないかもしれないと言われている。いやだ。こんな長くもってくれたんだからいいじゃん、という話ではない。パソコンはとっても高いんだよ。ワープロで事足りていた私にパソコンなど本当は必要ないのかもしれないけどなんとなくパソコン時代に乗っかってきてしまった。私が大学生の頃はまだでっかいフロッピーディスクだった。プログラミング学んだりしてたんだ。こんなタンとしたらパッと出るみたいな世界ではなかった。全然ついていけないよ。このAI時代に何を、という話だが、AIが生活を変えていることはわかってる。私がこれから生きられたら生きるであろう2、30年にもいろんなことが変わるだろう。私はなんかついていけないと感じながら何が古くて何が新しいかわからないままいつまでも大きなフロッピーディスクとはじめて書いたプログラミング言語が別の姿に変わった感動をこうしてつぶやいてしまうのだろう。

今朝もゆっきゅんの新しいアルバム『生まれ変わらないあなたを』を聴いている。特設サイトはこちら。ヴィジュアルもインパクト強くていいが歌詞がいい。私がついていけない時代に20代を生きてきた人の言葉にも過ぎた瞬間を懐かしむような言葉が現れることににっこりする。ゆっきゅんの言葉に支えられる人は多いだろう。「たべっ子どうぶつ」は時代を超えて存在するわね。今すごくいろんな種類あるよね。

♪たべっ子どうぶつくれたぬくもりの裏に♪

ゆっきゅん「隕石でごめんなさい」の一部。新しいのに懐かしいわ、とても、なんだか。いい声だな。

さあ、週末。平日にはできないことをきちんとせねば。イレギュラーのグループも忘れないように。不安だわ。でも美味しい幸水もいただいたし、清里のお土産の「赤毛のアン」のコーヒーもとても美味しかったからがんばろう。

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引用、「普通」に共有

陽射しが強い。梨が美味しい。水分!

読書するとき、気になった言葉を抜き出しておく。それらはただメモとして溜まっていく。外向けに何かを書くときは自分がその本の全体を読んでいるものからしか引用していないと思う。この2年、フェミニズムに関する良書がたくさん出た。理論的なものは別として、私はそれらからはほとんど引用していないと思う。できないのだ。この問題はあまりに根深い。声をあげはじめたといってもその声は様々でありほとんど届いていないという現実に目を向けざるをえない。基盤のないところに理解を育てるには時間がかかる。これは教わるものではなく体験的な知として実感していかないと差別を反復するだけになる。私のフェミニズムに対する関心は精神病と重度の自閉症という自分の仕事の原点に関わるもので自分が女であることに対する意識はその存在の後にくるものである。これらの本を読みながらそういうことが意識に上ってくる。そして私はいまだに彼らの心を説明するすべをもたない。

昨日、Twitterで読んでほしい本をあげた。森山至貴 & 能町みね子 『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(朝日出版社 )は引用できない本の一冊だ。そもそも対話というのは流れがあるものなので切り取るものではないというのもあるがどこかを抜き出すことでまた無知や誤解に基づいた誰かなりの理解にすいこまれ、さらには使われてしまったりしたらと思うととてもできない。だから「読んで」となる。知識は大事だけど知識を身に付けるのは簡単ではないというのもまた肝に銘じる必要がある。今、頭の中に浮かんでくる言葉も出してしまったら何かを妨げるだろう。まずは自分が知ったかぶりをしないように今日も学ぼう。いずれ多くの人と「普通」に共有できるように。

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秋、IPAPodcast

なんかまだ暑い。陽射しが強い。そして毎日眠い。すっきり起きるのにすぐまったりする。空の色はやっぱり秋。空高し。

仔馬爽やか力のいれ処ばかりの身 中村草田男

爽やかやたてがみを振り尾をさばき 山口誓子

仔馬と大人の馬では力の入れ具合が違う。どちらも素敵。

朝ドラ『虎に翼』のとらちゃんはこういう感じで変化したよねえ。今はいい感じに力が抜けて落ち着いている。

昨日、IPA(国際精神分析学会)のpodcast、Talks on Psychoanalysisを聞いた。お話はArgentine Psychoanalytic Associationの訓練分析家、スーパーヴァイザーのPatricia Alkolombre博士。テーマはThe Desire and Passion for a Child: Psychoanalysis and Reproductive Techniques。著書“The Desire and Passion for a child. Psychoanalysis and Contemporary Reproductive Techniques で扱われたテーマ、親であることの欲望と生殖技術について。

これまでポストフロイディアンやジェンダーセオリーで扱われてきた子供に対する欲望が含む複数のテーマが取り上げられている。

たしかに臨床現場でも様々な不妊治療の話を聞くことが増えた。人によっては卵子凍結の費用の話もランチタイムにするような話になっているようだ。そしてたしかに私のきき方もずいぶん変わった。いや、きき方は変わらないがこれはずいぶん多くの人に共有される問題になったんだな、という感覚をもつようになった。

 ポッドキャストできいた話は新しい領域において子供に対する欲望(来たるべき子供の不在をめぐって)も変化してきているという話と思っていたけど最後はこれまでとそんなに変わらないのではないかという話にきこえた。この話もmotherhoodの文脈で語られていてそれ自体に私は抵抗を感じてきちんと聞けていないというのもあるし、私の英語の聞き取りの問題も大いにあると思う。

しかし、これが変わったからこっちも変わる、というほど人間は簡単ではない気がする。むしろ変わりたくないという欲望の外在化としての技術では、という気もする。この場合だって変わりたくないというのは無意識のことをいっているのでそれがなにかを取り出すことはできない。それは常に事後的にあらわになるというのが精神分析の考え方であり、実際にそうだと思う。本人にも誰にもわからない。知る、わかるよりとりあえず自由連想。

今日もがんばりましょう。

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超回復とか引用とか。

虫の声。静かな朝。音があってはじめて感じる静けさもあるし静けさのおかげではじめて感じる音もあるね。

筋肉痛がひどくて時々ふらつく。都会の人は歩くのが早くてうまく避けられない。酔っ払ってるわけではないよ、というかこれは酔っ払いのイメージか、と心の中で呟きつつのったりふらりと歩く。破壊された筋肉が回復中なのよね、と思って筋肉痛について調べたら「超回復」という文字がありなんかすっごく強くなりそうと思った。漢字三文字だからか。「波動拳」みたいな。さて超回復には48時間から72時間かかるらしい。バスケ部やバド部だった頃、筋肉痛でフラフラになった翌日も練習していたけどあれは筋肉によくなかったってことかな。でも合宿で超回復待っていたら練習ほとんどしないことになってしまうものね。まあ、不真面目な俺たちにはそれで全く問題なかったがな。お部屋でゴロゴロダラダラおしゃべりしてるだけで全然楽しい、ってなってたと思う。

先日、GW中に開催された狩野力八郎先生の蔵書頒布会でいただいてきた本を読んでいた。そのメモを探していたらこんなのがあった。

「われわれ、特に日本人は「なる」という表現が好きで、「何々します」とは言わないで、「何々ということになります」という言い方をしますね。あるいは鳩山前首相も得意だった「・・・・・・させていただきます」というへりくだりの表現がありますね。」

これは別の本からの引用だ。

木村敏と坂部恵の「する」「なる」の区別を受けて「何々ということになります」について野家啓一が木村敏との対談で言った言葉。

「ある意味ではそれは、自己が責任をとらないという責任逃れの口実にもなるんだと思いますが、同時にその事態の展開というものを自分だけじゃなく、他者とも共有し合う場を形作る、という機能も「なる」という表現にはあるのかな、と思うのですが。」

中動態の話。どの本だったか。木村敏と野家啓一で検索するとなぜか全然関係ないサイトが出てきた。Googleが変になっちゃったと思ったら「野毛」で検索していた。とはいえ、どうして?「野家ではありませんか」とか出るのがいつもではなかったっけ。二人とも有名でしょう?それにしてもお二人の共同作業は多くてどれだけわからないな。「河合臨床哲学シンポジウム」シリーズのひとつだった気がするけど曖昧。出典が一番大事なのにメモしわれた。

さて、お目当ての本のメモはどれだ。ない。ラカンの不安概念と関連して気にしていたキルケゴールのことが書いてあったのに。でも書名ならわかる。実存主義とルドルフで検索。あった。

『実存主義と精神医学』 ルドルフ・アラーズ (著) 西園昌久/板谷順二 (訳) 判型:A5判 ページ数:113, 5 1965年6月15日初版 岩崎学術出版社 刊行時定価(税別)800円

とのこと。引用メモは見つからないけど西園先生はこの本の翻訳を小此木先生に強く勧められたとあとがきで書いていらした。精神分析に対する批判やそれに触発された対話の水準が高かった時代という気がする。最近、そういう時代の本ばかり読んでいるな。いや、そうでもないか。小説はわりと最近のも読むようになったし。とにもかくにももう亡くなってしまった先生方の仕事を忘れないように現在の精神分析を考えていかねば、というかその方がずっと豊かな気持ちになる。感謝だなあ。

冷房はつけてないけど少し暑くなってきたかな。森の方でいつもと違う鳥の声がする。どうしたんだろう。今日もがんばりるれろ(とか昔言ってなかった?)とか言ってるといいな。

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カステラ、『東京都同情塔』、Chat GPT

今日も光が強い。メロンをいただいた。甘すぎずジューシーで美味しかった。あと「甲州かすてら 槌や」のカステラ。石和温泉のお土産。包装も可愛いのだけどWebサイトだとよくわからない。どのお菓子も美味しそう。お味は色々あって今日は抹茶をいただきました。この甘みは美味しい。あ、インスタでなら見られる。「およそ70年前に花嫁と共にやってきたカステラを原点に持つ「槌や」」ということでこのデザインなのね。この地域の慣習かしら。お米とかお金の代わり?何か物語があるのかしら。

昨日、九段理江『東京都同情塔』(新潮社)を読んでいた。「生成AIを駆使して作った」という作品。すごいな。言葉言葉言葉で読みにくいがこのこだわりが「言葉って」という疑問を生じさせる。言葉の効果、というのを作者は熟知して使いこなしている。すごい。面白いとかそういうのとはだいぶ違うけどドライに書かれた強烈な皮肉を感じた。

ふと私もAIを使ってみようとchat GPTにログインした。登録はしたがほとんど使ったことがない。パスワードは保存されたままだった。目のマークを押してただの●で隠されていたパスワードを表示させる。なるほど。私はこれはこっちのパスワードにしたのか。とりあえず入力すればいいのだろう、と入れてみる。

最初は槌やのカステラのこと。勝手に物語も作ってくれた。

「新郎新婦はこの甘いお菓子のように、末永く甘い生活を送り、地域でも伝説的な夫婦として語り継がれることとなったのです。」

で終わっていた。うーん。

別のことも聞いてみよう。

「精神分析を受ける人ってどんな人?」

AI の答え。

「精神分析を受ける人は、さまざまな心理的な悩みや葛藤を抱える人々です。精神分析は、無意識の心の動きや過去の経験にアプローチして、深層心理を理解し、問題解決を目指す治療法です。一般的に、精神分析を受ける人には以下のような特徴があります。

1. 繰り返す感情や行動のパターンに悩む人

精神分析は、無意識の葛藤や欲望が、繰り返し似たような問題を引き起こすことに焦点を当てます。そのため、例えば同じ種類の人間関係のトラブルや感情的な反応を繰り返している人が対象になります。

2. 過去のトラウマや心の傷を持つ人

精神分析では、幼少期の経験や過去のトラウマが現在の問題に影響を与えると考えます。過去の経験を整理し、解消しきれない感情を理解したいと考える人が治療を求めることが多いです。

3. 自分を深く理解したい人

自己理解を深めたい、人生の意味を見つけたい、自分自身の本当の気持ちに気づきたいという人も精神分析を受けることがあります。これには、特定の悩みを抱えていなくても、自分の無意識に興味を持つ人も含まれます。

4. 不安や抑うつに苦しむ人

精神分析は、不安障害や抑うつなどの心理的問題に悩む人にも効果的です。これらの症状は、しばしば表面的な原因だけでなく、深層の無意識の葛藤に根ざしていることが多いため、精神分析的なアプローチが有効です。

5. 夢や象徴に興味を持つ人

精神分析では夢や無意識の象徴が重要な意味を持つとされます。そのため、夢の分析や、自分の中の無意識的なサインに興味を持っている人が精神分析に惹かれることもあります。

6. 長期的な治療に取り組む意思がある人

精神分析は、深層心理に働きかけるため、通常は短期間での成果を期待するものではありません。時間をかけてじっくりと自己理解を深めたい、根本的な問題に取り組みたいという人に向いています。

7. 自分の行動や思考の動機を探りたい人

自分がなぜ特定の行動をしてしまうのか、自分が持つ思考パターンの背後にある動機を探りたいという人が、精神分析の対象になります。

精神分析は、表面的な症状だけでなく、その背後にある根本的な原因にアプローチする方法であり、人生の意味や自己理解に関心がある人、または深い心の葛藤に取り組む必要がある人に適しています。

うーん。

間違ってはいないけどこう羅列されるとなんだかポカンとする。これらにひとつも当てはまらない人もいるだろう、というか、これらを意識して意気揚々と申し込んできた人が実際に精神分析を始める人はそう多くない気がしている。

しっかし、こういう感じなんだね、ChatGPT。うーん。これを駆使してこういう作品を作れる「人」の力がすごいな。私も課題もこなしてくれないかな、と思うけどどう言えばいいのかわからない。AIとの会話で何か思い浮かぶかな。とりあえずPCの前から離れなければ。今日もがんばろう。

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月曜朝

西側の窓を開けた。風がない。まだ昨日みたいな雲がもくもく。今日はどの果物を食べようか。

昨晩は電池切れ状態で眠ったせいか朝まで一度も起きなかった。学ぶことの多い週末だったが私のキャパは狭かったらしい。あ、光がオレンジになってきた。日の出から30分くらいたつか。

昨日はセミナーのあとオンラインのカンファレンスがあった。その間に料理をしながらNetflixを見た。ジャック・ブラック主演のミュージックコメディー映画『スクール・オブ・ロック』(2003)の続き(最高に楽しかった!)と『グランメゾン東京』。『グランメゾン東京』は以前やっていた連続ドラマだった。パリのレストランから始まるからフランス語学習に良いかと思ったけどこれはビストロスマップか!とただただ食欲が亢進するドラマだった。沢村一樹はいつも素敵だ。

昨日からなんか携帯の画面が変わった、と思っていたが自分が目線を向ける場所がそれまでと違うだけだ、と今気づいた。やっぱり老眼鏡作り直さないとかな。本も読みにくいとは思っていたが読みにくい本を読んでいるからそんなに支障もなかったが小説とか読むには不便。放っておくとまたメガネ屋さんに叱られちゃうかしら。いやー。

今日は今日でとりあえずはじめましょ。

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ジュリアン・ラージ、コンビニスナック、環境のせい

日の出が遅くなった。PCの動きも遅い・・・。東京の日の出はさっき、5時18分。もう空はだいぶ明るいけど。鳥たちが賑やかに通り過ぎていった。インスタでジュリアン・ラージを見かけた。短い動画。やっぱり素敵だなあ。Spotifyで”Speak to Me” を聴こう。今年でたアルバム。聴いている。やっぱりいい。ライブに行きたいな。もうすぐ来日。JULIAN LAGE “Speak to Me”ツアー。YouTubeも見ちゃおう。今年一月のSFJAZZコンサート。SFJAZZはサンフランシスコにあるジャズのための非営利組織。教育機関でもある。良い組織があるなあ。柳樂光隆さんによるインタビュー記事も後で読み直そう。ジャズの歴史はいろんなことにまたがっていていろんなこと考えさせられる。あ、読み始めてしまった。いけない。やることがある。

昨晩、週末気分でスナックを食べたら胃もたれ。セブンプレミアムベルジャンフリッツアンダルースソース風味。コンビニの独自商品の小さい袋のは全部試したくなってしまう。これはベルギーのフライドポテト「ベルジャンフリッツ」をイメージしたスナックということでポテトフライ好きな人にあげたことはあったのだけど自分でも食べてみた。こういうのはスナックとしては間違いなくおいしいけどスナックはいかんよ。止まらないもん。今日は初回面接グループもセミナーもあるというのに。コンビニに行くからいけないんだな。コンビニが近くにたくさんあるからいけない。というわけではない、というのはわかっている。環境のせいにしてはいけない。いけなくはないけど心理療法をしていても最初はすべて環境のせいにしたり、どうしてもそういう物語にしがちだった人が(というか大抵はそうだしそれはそれで大切なこと)自分の今のあり方は環境で説明するにはちょっと、となっていくことは多い。精神分析はそういうことを考えたい人にとても役に立つのだけど精神分析を始めるとまた環境のせいにすることが増えたりもする。それまでよりずっと実体験として。反復。再演。単に頭で考える物語ともう一度生き直されてしまう出来事は随分異なるし精神分析はそういうことが生じる仕掛け(=設定)のもとになされる。皮膚感覚が敏感になるので境界をめぐる話が増えるし、すると不安が生じやすくなるし、興奮も漏れ出しやすくなる。それはいかんともしがたいことで、それをどうにもできない時にどうにかしてよという気持ちが起こりそれは環境の不備の話としてでてきやすい。自分の欲望に触れるのはなかなか難しい。何を言ったところで結局自分なのだけど。

そうだ、ラカンが詩についてどう考えているかについてちょこっと調べたがフィンクが「私は、詩に関するラカンの主張について分かったふりをする気はないので、ここでは詳しく述べないでおく」と書いていたのでまあいいかとなった。とはいえフィンクのせいにしてはいけない。面白いと思ったことを追求できる人になりたい。ある程度なっているがなんか全然サボってる気もしている。もっといろんな場に出ていけばいいのだろうけど時間がないし気力もない。欲望をごまかしている。ああ。

みなさんどうぞお元気で。良い一日をお過ごしください。

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モルダウ、春の小川

今朝はまだ窓を開けていない。すぐに冷房をつけてしまった。冷房の音で外の音が遠い。大きな車がバックする音?わからない。

村上春樹がジャズを語っていた記事があった。あれはなんだったか。また読みたいけどネット上のどこにあるのかもうわからない。

「元気?」

「元気だよ、春先のモルダウ河みたいに」

村上春樹『スプートニクの恋人』で最も心に残る箇所、というわけではないが「元気?」と聞いたり聞かれたりすると心の中で続きを答える。

小さな頃、父親が市のオーケストラに所属していた。私も楽器を習っており、様々なクラシックコンサートに連れていかれた。眠っている時間の方が長かったがスメタナの「モルダウ」だけはいつも泣きながら聴いていた。それが祖国をおもう曲であると知ったのはずっとあとのことだ。村上春樹の作品は色々な言葉に翻訳されているが、チェコの読者はモルダウの部分は翻訳によって書き換えられたのではないかと疑ったと聞いたことがある。面白い。その感じでまた日本語に翻訳すると

「元気?」

「元気だよ、春の小川みたいに」

とかなってしまうのかしら。ちなみに高野辰之(作詞)、岡野貞一(作曲)の「春の小川」の舞台は渋谷区の河骨川。初台にある私のオフィスのそばだ。今は暗渠化されておりその場に行ってもマンションが建っているだけだが電柱に案内がある。渋谷区を巡回するハチ公バスの本町・笹塚循環は「春の小川ルート」という。

今朝も桃を食べた。「も桃」3つ「も」がつながった。何か回文を作ろうと思ったがダメだった。私は回文作りが好きだ。村上春樹の『またたび浴びたタマ』も愛読していた。満島ひかりと又吉直樹の『軽いノリノリのイルカ』も欲しい。つまらない話を真剣な顔で聞いている時の私の頭は大抵回文作りで忙しい。

今日は土曜日。東京はいいお天気。がんばろう。

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衝撃とか狂気とか。

果物がいっぱい。とても嬉しい。桃とキウイを冷蔵庫から出した。桃はしっかり。皮もしっかり。と思ったら一部が黒っぽくなっていた。中も薄い茶色に。こんなしっかりに見えてデリケート。ちょっと雑に運ばれてきたな、と思ったのはこういうとこに結果として現れる。味はとても美味しかった。キウイも断面がとてもきれいで瑞々しくてとても美味しかった。美味しいってこれまでの人生で最も使っている言葉だったりしないだろうか。しないか。

昨日、西加奈子の『わたしに会いたい』(集英社)のことを書いた。移住先のカナダで乳がんの手術をうけ治療の日々を書いた『くもをさがす』と同じ時期の短編だっただろうか。文芸誌に掲載されたものを集めたものだと思う。『わたしに会いたい』の中でも乳がんの話があった。胸、髪、それまで当たり前に自分の一部だったものを失うことは西加奈子自身の体験でもある。他の短編も女が受ける様々な行為が書かれていた。一見衝撃的だがどれも身近で、あるいは実際に体験したことがあるものばかりだった。私は日々こういう話を様々な雰囲気の中で様々な話され方の中で聞いているのになんでこんなに衝撃的なんだろう、というよりこんなことが実際に起きていること自体が衝撃で、でもこれは実際に他人事ではなくて、なのにこれらをまるで遠くの世界のように感じながら衝撃とかいっていることが衝撃的なのかもしれない。乳がんはまだ経験していないが患者さんたちの体験は聞いてきた。膣、子宮、こころ、見えないところにも容赦なく侵入してくるものたちに対する反応も様々だ。それでもこの話たちが希望をもたらすのはどの話にも観察して描写してくれる人が必ずいること。小説には他者がいないということがない。臨床では他者を不在にするこころの実際を思い知らされることがあるのだが、それは絶対に記述できない。だから小説に希望を感じる。そこには人がいてこころがある、なんだかんだいって。それは希望だ。特にこの本は一人称と二人称に貫かれているのが印象的だった。社会に殺されることなく生き残る基盤をどこに見出すかは自由だが精神分析は一人称と二人称、しかも一人の人間の中のそれらに貫かれた技法であることを私は強く意識しているのでこの本のその部分に注意が向いた。精神分析は社会の狂気ではなく自分の狂気と欲望を扱う。そういう技法が今は全く流行らないこともこの社会にいれば当たり前とわかるが女であることのどうしようもなさを生きるにも自分が誰であるかを知ることは助けになる。私がかなりの危機とともに体験してきた狂気が私を生かし患者とこころ合わせる術となっているという実感も今の時代は共有されにくいだろう。それも自分なのに、自分であるかもしれないのに、という恐れとともに生きるのはとても不安なことだから。

だいぶ爽やかになってきたとはいえ汗ばむ。今日もがんばりましょう。

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「あっらー」、西加奈子の本

静かな朝。昨日は弱々しくなったアブラゼミと秋の虫たちの声のトーンが同じくらいになったと感じた。梨をスルスルむいてくしゃくしゃ食べた。熱い紅茶にはまだ口をつけていない。西側の窓から車の音がたまに聞こえる。自転車がブレーキをかけた。隣のマンションをオレンジに照らしていた光が白くなっていく。1秒って案外長い。でもきっと今日もあっという間に過ぎる。

朝ドラ『虎に翼』で主人公寅子の更年期症状が梅子さんと共有される様子が描かれた。私もあれやってもらったなあ。会うたびに優しく明るく抱きしめるように迎えてくれる人生の大先輩が「あっらー」とああいう感じでようこそしてくれた。

若い患者さんに対して私の方が「あっらー、あなたもこちらに」と笑うことも多い。あちらは苦痛半分、笑い半分だがそうなるのも通過済みだからうんうん辛いよねと共有できる。

西加奈子『わたしに会いたい』(集英社)を読んだ。短編集だ。内容は集英社のウェブサイトから引用する。

・「わたしに会いたい」──ある日、ドッペルゲンガーの「わたし」がわたしに会いに来る。
・「あなたの中から」──女であることにこだわる「あなた」に、私が語りかける。
・「VIO」──年齢を重ねることを恐れる24歳の私は、陰毛脱毛を決意する。
・「あらわ」──グラビアアイドルの露(あらわ)は、乳がんのためGカップの乳房を全摘出する。
・「掌」──深夜のビル清掃のアルバイトをするアズサが手に入れた不思議な能力とは。
・「Crazy In Love」──乳がんの摘出手術を受けることになった一戸ふみえと看護師との束の間のやり取り。
・「ママと戦う」──フェミニズムに目覚めたママと一人娘のモモは、戦うことを誓う。
・「チェンジ」(書き下ろし)──デリヘルで働く私は、客から「チェンジ。」を告げられる。

以上。引用。

女の身体と性は本人たちにもわからないことだらけだ。「わたし」「あなた」「彼女」だけでなく固有名詞で明確に主語を示す短文が積み重ねられる文章は私が今朝西側の窓に感じた1秒1秒の変化と似ていた。快楽、それに伴う痛み、絶望、あどけなさ、幸せな瞬間、逞しさも混じる描写。「わたし」と出会うには相手がいる。ドッペルゲンガーではない相手が。秒で過ぎる出来事の積み重ねがこれからも続いていく。今日も明日も。先のことは「多分」の積み重ねでしかないけれどとりあえず今日も、と思う。

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ラカンとか書類溶解サービスとか。

今日も冷房要らず。これが当たり前の季節になってきたかしら。風が気持ちいい。昨日は朝は雨で上着がないと寒いくらいでびっくりした。昼間晴れて暑くなったのにもびっくりした。夜はちょうどいい涼しさだった。しばらくそんな感じなのかな。身体にはちょっときついかな。調節しながらですね。

ラカンを読んでいてLa Troisième/Jacques Lacan : VIIe Congrès de l’École freudienne de Paris à Rome, le 31 octobre – 3 novembre 1974にあたって3にこだわるラカンということでラカンがイタリアでのラカン派の養成(でいいのだろうか)を託したイタリアの精神分析家にあてた手紙を読んだりしていた。こんなことをしているとどんどん時間がなくなる。そして探している本がない。うーん。優先順位。

郵便局の書類溶解サービスを申し込んだ。郵便局側もまだ慣れていないらしく色々確認しながら丁寧に教えてくれた。うちのそばの郵便局はずーっと人が変わらなくて超アットホームだったのだけどいつのまにか変わった。今も変わらず穏やかで優しい空気が流れてるけど。お客さんにお年寄りが多いせいかしら。書類溶解サービスの箱は思ったよりもずっと小さい。ヤマト運輸より手続きが簡単だからこっちを試してみたけど他のも少しずつ試してみたい。すっごいシュレッダーを買うというのもあるがどういうのがあるのかよく知らないしどこに置くのだ・・。でも積み重なる値段を考えたら経済的にはそっちの方がいいのかもしれない。うーん。

というかこんなことを呑気に書いている場合ではない。いくぞいくぞ。今日もがんばろう。

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暑くない。

今朝もエアコンをつけていない。窓を開けて一気に風が入ってくるわけではないけれど暑くない。虫たちが夜の続きのまま鳴いている。たまにしか姿を見かけないのに全方向から鳴き声が聞こえる。膝に乗せたパソコンが熱い。

なんか疲れますね、夏の疲れが出てるのでしょうね、という挨拶を交わす季節。実際、あづいあづい言いながら暑さをやり過ごしてきた身体は季節の変化を感じて少し戸惑っている感じがする。夏の食材もあまり身体にしっくりこなくなった。魚の美味しい季節だ。ちょっと無理してでも美味しい食材を手に入れたい。食材が良ければ調理はシンプルですむ、というのは多くの料理家がいうことで本当にそうだ。結果的に楽、そういうのが一番いい。

昨日の朝ドラ『虎に翼』で寅子が更年期症状のような様子だった。ホットフラッシュだなぁ、と思った。私も一時期とても辛かった。みんなが寒がっている学会会場でどうにもできない暑さと汗で最後まで発表を聞くことができなかったりした。ほかにもそれまで経験したことのないようなさまざまな症状が出て女の身体は大変だなといつも思っていた。友達や先輩が気持ちも情報も共有してくれて安心もしたし婦人科で相談しながら対処法も知ったし慣れてもきた。そのうち百合さんみたいに記憶の問題が出てくるかもしれない。

エドワード・サイードに「晩年のスタイル」という本がある。「逆らいつづける」ことはしていきたいが、抗えないものもある。そこを支えてくれるのがこれまでの人間関係と生活の積み重ね。そういうのを実感する年齢になった。若い頃に考えていたことはなんだったんだろう。今はいろんな体験が伴ってるから言ってることとやってることが離れていかない。力が抜けてる。

昨日、ラカンの『アンコール』を読んでいた。題名に対する言及ももちろんある。フロイトを読み続けているおかげで深く緻密に物事を考える人の言葉にしっかり向き合えるようになりつつある。哲学も同時に勉強できるのも楽しい。フロイトは精神分析家として哲学に対して多くの大きな問いを残したけどラカンは精神分析家であり哲学者だからフロイトを読むときとは全く別の思考を促される。そこも刺激的。

お、バタバタしてたらまた中途半端に。今日もがんばろー。

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精神分析

桃、色

桃を剥いた。まだクチュってなってないしっかりした桃で皮をゆっくり下にひっぱる必要があった。きれいに向けた。白い果肉に包丁を入れるときれいなピンクが現れた。いちじくの闇のような赤よりほんのり、と思ったら少しそれが濃くなったように思った。こんな早く変色するか?と思いつつきっとするのだろうと思って少し眺めたがすぐに啜った。こんなしっかりした桃でもいざ口に入れると啜るという表現がやはり合うように感じる。そして身体に入るとずっしり。

桃すする他のことには目もくれず   三代寿美代

少なくとも桃を啜っているときはこんな感じ。水分落とすまじ。落ちるけど。

私が愛する無花果にはこんな句がある、と8月30日の俳句日めくりカレンダーで知った。

無花果を喰み口中の闇ふやす 杉山久子

第2回芝不器男俳句新人賞受賞、杉山久子の句集『春の柩』からの一句だ。無花果の赤は桃のようはほんのりさを感じない。闇と調和する色。中のほろほろ加減もこちらが噛み付くからではなく向こうから流れ込んでくる感じ。大袈裟にいえば。結果、口の中に闇が増える。かといってその口から出てくる言葉が闇色とは限らない。私は無言で幸福を味わう。

先日、「映画 けいおん!」「映画 聲の形」などの山田尚子(監督)、彼女と長くコンピを組んできた吉田玲子(脚本)、そして「映画 聲の形」「リズと青い鳥」などで彼らと一緒に仕事をしてきた牛尾憲輔(音楽)らによる長編アニメーション映画『きみの色』をみた。いつも通り花の色の鮮やかさに希望があふれていた。今回は「色」がテーマなのでなおさらだが、不安や痛みや存在感がパステルカラーで表現されているようなところがありそれが傷にまで至っていない様子が明るい方へ向かうストーリーにぴったりだった。ストーリーやセリフを味わうより色と音の効果を堪能した。聖地巡礼について書こうと思ったが時間がなくなってきた。

風がブラインドを揺らしているが私の方まで届いてこない。今日もどうぞ良い一日を。

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精神分析

時間感覚とか分析とか商売とか。

除湿運転が寒くて雪の中にいる夢を見た。ドアを少し開けてリビングに冷気を逃した。朝まで眠れた。リビングの大きな窓とキッチンの小さな窓を開ける。風を感じない。ゆっくりゆっくり動く台風をずっと気にしていたせいか時間感覚もおかしい。昨日は仕事もあったのになぜか何度も日曜日だと思ってしまい大河ドラマどうだったんだろうなど気にしてしまった。毎週見ているわけでもないのに。いや見ていないからというのもあるか。人はいろんなもので自分の時間感覚を維持しているのだろうから。

精神分析を受けるかどうか迷っている人は時間の捻出に苦労すると思う。私はウェイティング期間も数年あったがそれだっていつ始まるかわかっていたわけではない。そのために何年もかけて準備した。開業していれば比較的楽に動けたが当時の私はいくつかの職場を掛け持ちしていたので訓練がはじまったらやめねばならないか勤務時間の変更をしてもらうことを上司に話し許してもらっていた。一度順番が回ってきたことがあったが一番忙しい土曜午前ですぐに調節がきかずそのあとまた数年待った。今思えば早く開業しておけばよかったのだがどれもこれも今思えばの話であって、もう色々忘れている事情が色々あったのだろう。週4日、通い始めてからはあれだけ心配した時間とお金のことより転移関係によって顕になる自分のことのほうが大変でこの作業の維持のために生活を組み立てていくということは自然にできてしまった。あれはなんだったんんだろう、というのはやってみてはじめて思うことだし、結果的には受けてよかった。朝一番と夜最後の枠に何年も通い続けた。最初は疲れ切っていたがいつのまにか体力もついた。身体のというより心身の。身体の不調は年齢的にも増えたが対処はうまくなったので辛くなることが減った。私は開業し、分析家は大学を辞め、時間を変えてもらってからは朝と昼間になった。夜はずっと臨床。今は訓練が終わって使える枠が増えた。精神分析を語る人ではなく体験する人が増えたらいいなと思う。

地元にできた少しいい店に行った。今は変わったがチェーン店がことごとく根付かなかったこの街で「街には街の値段設定がある」という話を地元の人に聞いたことがある。新しい店ができるとついいろんな計算をしてしまう。この時間帯でこの客の入りでこの場所の家賃はこのくらいだろうからこの値段設定とサービスだとうーん、など。開業しているとそんなことばかり考えてしまう。私も商売人になった。そうなると私の患者やスーパーヴァイジーもお金のことをあれこれ考えるようになるのでこの生活って、この仕事って、と実感を持って考える、あるいはそういうことを実感を持って考えない自分を知るようになる。心理職とは、ということをこういうふうに考える人が増えるのはいいことだな、と思うことも多い。

あ、NHK俳句見なくては。風景を大切に。

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精神分析

雨、生活、食

深夜、寝る前に窓を少し開けたらひどい湿気と熱さを感じてすぐに閉めた。あの気持ちのいい風はどこへいってしまったのだろう。早朝、目を覚ましてからも雨の音をずっと聞いている。仕事には行けるだろうけど来る方も大変だろう。私は訓練に入る前に別の分析家のところへ通っていた。あれは台風だったか、断続的にものすごい雨風の日があった。どこかへ継続的に通うというのは仕事と同じでリズムであり習慣なので慣れていない場所へ行くよりは方法を考えやすい。お金を払って休んでもよかったのだが出向いてみた。雨の合間を縫って少し早めに近くまで行き店に入った。居酒屋だった。この天気ではくる人もいなかったとみえて「お酒飲まないのだけど」という私に快く応じてくれた。ソフトドリンクと何かをつまんでおしゃべりしているうちに雨が弱まったので分析家のオフィスへいったらきたことにびっくりされた。私はその日の自分の楽観的で能動的な態度について話したと思う。そういうのは日替わりどころか瞬間瞬間で違ってくるので面白い。あの居酒屋はしばらくしてなくなった。そこの通りに当時あった店は今はほとんどない。向かいの区画には以前からの店がそこそこ残っているが。私はその後、別の街で開業しているIPAの訓練分析家のところに通い始めかつての分析家もあのビルから同じ街の別の場所へ引っ越した。

私は2017年に開業してもうすぐ満7年。最近の自然とどう関わっていけばいいのか悩むことが多い。悩んだところでこのまま悩みながら同じことを続けていくだけなのだが考えておくと最低限の対策は取りやすいと思う。料理など毎日の家事をしていると足りないものがいつも意識にのぼっているのと同じ。優しさや思いやりも生活を積み重ねるところからだよなあと昨日漠然と思った。

昨日の朝ドラ『虎に翼』で父の役割を果たせてこなかった航一が娘ののどかに「何が食べたい?」と聞く場面があった。このドラマは戦争前の食卓から仲間との饅頭作りから戦後の深刻な食糧難からカフェでの名物や郷土料理、伝統の味など一貫して食事を通じた人との関係を描いてきた。「美味しいもの食べに行こうか」「甘いものでも食べに行く?」「ごはんにしましょう」などのセリフも多くあったと思う。脚本の吉田恵里香さんがSNSにあげるイヤリングもずっと食べ物だ。私の仕事で食といえば診断でいえば摂食障害となるさまざまなエピソードについて聞くこともあるし、美味しいお店の話を聞くこともあるし、毎日ごはんを作ることの負担やそうしないと襲ってくる罪悪感や実際の暴力について聞くこともある。主人公の寅子が「十分に子供をやらせてもらった」と言っていたが彼女の食事の場面だけ追っても満たされる、あるいは満たしてあげたいという思いの中にいつもいる、そこで自然に育っていく、そういう描写だったように思う。航一の「何が食べたい?」は子供の欲望を汲み取るのに最も適した一言のように思えた。

今日も雨をどうにかしのげますように。被害が出ませんように。すでに被害が出ている地域にできるだけ早く手厚い援助が届きますように。

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精神分析

クリーニング屋さん

早朝からずっとカラスが鳴いている。墓地のあるお寺の木の方だと思うけど意外とゴミ捨て場かもしれない、というかそっちの方が現代的理由としてはありうるか。大袈裟に言ってみたがゴミ問題は大袈裟にすべき問題である。

今朝も無花果を食べた。無花果という漢字は美しい。果肉の色も美しい。今日のは皮が厚めできれいにむけた。果物の甘さは複雑で特別。今年も大切に楽しみたい。

長くお世話になったクリーニング屋さんが閉店した。うちで洗えるものはその方法も教えてくれた。商店街のお祭りの焼きそばチケットもくれた。時折、彼女の夫が対応してくれたが自分はあまりよくわからなくてと恥ずかしそうに笑って彼女を探しに行った。ほのぼのした。小さな庭の水やりをする彼女もよく見かけた。挨拶をするといつもにこやかに返してくれた。今は移転してしまった近所の有名店は彼女がいつも味方でいてくれたことに感謝していた。

先日、彼女の店よりだいぶ後にできた小さなクリーニング屋さんへ初めて行った。テキパキと対応してくれた。初回特典で割引もしてくれた。出来上がったものをとりにいったらこの前とは別の人がいた。特別なときに数回きただけの服にカビが生えてしまった。クリーニングに出していたのに。どこのクリーニング屋さんか聞かれたが私は店名を忘れていることにそのときに気づいた。個人名をいうと「あそこの?あの丁寧にシミ抜きしてくれるっていう・・」とすぐにわかってくれた。この人も地元の人なのだろうか。「そうなんです。長い間お世話になっていたんですけど私の保管の仕方が悪くて」と実感を込めていうと(というかこもってしまった)「そう、なくなったの」と言われ慌てて「あ、人はお元気なんですけどお店が」と付け加えた。そんなことはわかっていたかもしれないが。彼女はうちは工場での機械作業だからそこまで丁寧にできないかもしれないけどといった。そして特典がまだ残っているかと聞いた。私が多分この前もう使いきってしまったと思うというと「みてみますね」と画面を見てないことを確認し何かしらやろうとしてくれていたが「・・・残念」と少し笑った。私もお礼を言って笑った。新しい場所は日替わりで定員さんが変わるようだけどひとまず安心した。誠実に仕事も生活も営んでいる人のおかげ。

台風の被害がありませんように。

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精神分析

秋、作家の仕事

キッチンに立っていると背中に涼しい風があたった。ようやくこういう季節がきたことに喜びを感じながらできたばかりの麦茶の鍋底を凍らせておいた保冷剤で冷やし始めた。鍋底の保冷剤に指を当てたつもりが直接鍋に触ってしまい熱かった。凍った冷たさとこういう熱さは同じだなと思った。私に与える効果が違うけど。どっちも火傷するわけだし。

昨日の朝日新聞に作家の星野智幸が寄稿していたのを読んだ。執筆の依頼を断るメールから文章は始まっていた。私はこういうのがとても苦手だ。最後の方に「文学の言葉」「究極の個人語」とありそこでもかなり冷めた。この作家のこの文章はすごい戦略的だなとちょっといやらしく感じたが新聞に寄稿するというのはそういうことなのだろうからその点ではとても面白いと思った。あくまで個人的なこととして傷ついたような、もう嫌になっちゃったよという徒労感を静かに滲ませながら決して閉塞も絶望していない強かさに作家はすごいなと思った。これはきっと多くの人を刺激するだろうと思った。私は「究極の個人語」という言葉に瞬間的な嫌悪感を抱いたがそれは私がそんなもんはないと思っているからだろう。しかもこの寄稿文のどこにそれが、と思った。張り詰めたやりとりにzoomで参加していた人が急に何か場をおさめるようなことを言ってこの場にいない人が何言ってんだよという空気になるあの感じを感じた。私の仕事は作家の仕事ではないんだな、とつくづく思う。精神分析場面で自分の言葉で話すことは必須だがそれは個人語を話すことでもましてや究極のなんていうものはない。言葉依存から抜け出すために言葉に依存せざるを得ない人間をどう生きていくかというお話。面白かった。

秋の果物がたくさん送られてきて冷蔵庫がとっても豊か。秋だ秋だ。台風の被害が出ませんように。

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精神分析

風、佐々木敦の新連載、K-POP

窓を開ける。気持ちのいい風が入ってくる。毎朝窓を開けるたびガッカリしていた日々は終わった。でも降ったり止んだりなのか。夜中には雷も鳴っていた。

昨晩作っておいたキーマカレーをタッパーに入れる。あまりを少し食べる。美味しくできた。

ほかの窓も開ける。一通りの家事をこなしながら時々風を確かめる。また少し満足する。今日もまだ冷房をいれていない。

昨年、青森の下北半島であまりの暑さにはじめてクーラーを導入したとガイドさんが言っていた。今年の暑さは異常だと。きっと今年も昨年と同じく異常だっただろうからクーラーの導入率は増えていくのだろう。しかし青森の真夏の朝は気持ちよかった、ということを東京の秋に思い出す。

今、NewJeans (뉴진스) ‘How Sweet’ を流している。多国籍の5人組K-POPガールズグループであるNewJeans。2022年のデビューからあっという間に世界に知られるグループになった。他にもK-POPの勢いは凄まじいが「すでにBTSとBLACKPINKという直近の成功モデルが存在したということも大きかったと思います。」というのは佐々木敦。集英社の読者情報誌『青春と読書』で始まった佐々木敦の連載『メイド・イン・ジャパン』[第2回]K-POPは世界を目指す、に書いてあった。

このはじまったばかりの連載は「日本の芸術や文化、サブカルチャーの「海外進出」の可能性について、あれこれ考えてみよう、という内容です」と第1回に書いてあった。『ニッポンの思想』(二〇〇九年)、『ニッポンの音楽』(二〇一四年)、『ニッポンの文学』(二〇一六年)(いずれも講談社現代新書)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(二〇二二年、扶桑社)、『ニッポンの思想 増補新版』(二〇二三年、筑摩書房)と多くのジャンルで「ニッポンの」にこだわってきた佐々木敦の書くものは私にとっては要チェックだ。私は毎月本屋さんで『青春と読書』をもらってくるがオンラインでも読めるのでぜひ。

昨日はその第2回を読んでK-POPを聞いていた。私は洋楽を聞いてきたが佐々木敦がいうように「歌=声を音として楽しむ」ことをしてきた。なので逆に時折日本語が混じるK-POPには違和感を感じることもあった。耳が止まってしまうのだ。でもこの論考で韓国語、英語、日本語の特徴を読みながら色々なK-POPを聞いてみてなるほどと思った。最近はその辺もすごく工夫されているのだなと思った。aespa(에스파)の日本デビューシングルも良い感じだった。

「あくまで私見ですが、日本のアイドルファンは運営側/事務所にシンクロナイズしがちであり(そこには何かしら恩恵にあずかりたいという心情やアイドルに対する「上から目線」のようなものが透けて見えます)、対してK‒POPのファンダムは、自分たちが愛するメンバーが不当な扱いをされていると思ったら、事と次第によっては会社を公然と痛烈に批判することも厭いといません。もっとも過激なのが、メッセージ(要求)が書かれたトラックを所属事務所の前に横付けする「トラック・デモ」です。」

という箇所は意外な感じがした。韓国の芸能人の自殺のニュースを多く聞くからだ。しかし「トラック・デモ」というのもあるのか。彼らに限らないことだが自分の権利をしっかり握りしめたままがんばってほしい。

カラスの声が背後の窓から聞こえる。あの嘴からあの声。開け具合とかどのくらい調整できるのだろう。台風情報も彼らの方が正確に受け取っていそう。どうか被害の出ない場所にそれていってくれますように。

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俳句 精神分析

俳句、恥、駱駝

起きたらまだ夜があけてなかった。夜明けが遅くなってきたのかなと時計を見たらまだ明けるような時間ではなかった。あまりにすっきり起きてしまったけどこれでは寝たことにならないとまた寝た。眠れないからiphoneで角川の俳句歳時記を開いた。「秋」→「時候」と進んで最初に出てくる季語は「秋」。「時候」に分類されている季語は46語。秋で一番多いのは「植物」。189個。春も夏も「植物」が最多。冬は一気に乏しくなって「生活」に分類される季語がグッと増える。冬と新年は分けられているけど重なって掲載されているものも多い。さて、季語「秋」を開いて最初の例句は

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

これはこの前も引用したかな。

芭蕉が死ぬ少し前に作った句。古今和歌集の

何をして身のいたづらに老いぬらむ年の思はむことぞやさしき

が意識されている様子だけどこの「やさしき」が「恥ずかしい」という意味だと知ったときは驚いた。この「やさし」は「痩す」が形容詞化したもの。芭蕉と古今和歌集の詠み人知らずさんは同じような情緒を体験していたらしい。

精神分析でも「恥」は大事な情動だ。岡野憲一郎先生がIPAジャーナルに載せたのも「恥」についての論文だった気がする。本にも色々書いていらしたと思うのであとで見直そう。最近はラカンが「恥」について多くを述べていることを知った。記述が回りくどいので何を言いたかったかよくわからないが恥が社会的な情動であるという点は芭蕉も詠み人知らずさんもラカンも共通した認識なのだろう。

まだ暗い時間に歳時記で「秋」の俳句を読みながら一番素敵に思ったのは

金秋や人待つ駱駝膝を折る 岩淵喜代子

鳥取砂丘で見た景色を思い出した。私は動物が膝を折る仕草がとても好き。時間がゆっくり止まるような感じがとても好き。動物には「恥」はないね、きっと。生き恥を晒す、とか絶対言わないと思う。ある種の圧を感じさせる言葉だね、「恥」は。駱駝が膝を折る仕草を今日は何度も思い出しそう。とりあえずNHK俳句を見ましょう。今日の選者は誰かな。その前に洗濯物を干そう。

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精神分析

ロマンとか。

柳樂光隆さんがいろんなジャズ・ミュージシャンにインタビューする記事をよく読む。そこで知ったカート・ローゼンウィンケルを聴いていた。先月、KURT ROSENWINKEL’s THE NEXT STEP BAND REUNIONとしてBlue Note東京でライブをしたばかりだ。今日はNYでライブらしい。ドラマーの石若駿も小さい頃からカート・ローゼンウィンケルを聞いて影響を受けてきたという。柳樂さんのnoteで読んだ。

「降ってくるって美しいことだよね。自分にとっては曲を書くってことは、基本的には考古学みたいなものなんだよね。砂漠に行って、いろんなところを掘る。そして、何かが見えたら、その周りの砂をブラシで丁寧に取り除いたりする。僕にとっての作曲はそんな行為だ。簡単に全貌が現れることもあれば、なかなか掘り出せないこともある。ピラミッドがきれいな形で見つかることもあれば、壺の破片が見つかったから、その周りを掘ってみたけど、そこには何もなくて徒労に終わったりね。ひたすらいろいろ探したのに、やっと出てきたのがスプーンだったりすることもある(笑)。」

文脈もあるから石若駿との対談インタビューを全部読んでほしいのだけどカートの言葉はとても素敵。

フロイトも精神分析を考古学で例えるならこんな感じでいえばよかったのに。フロイトが私の祖父だったら、いや、父でも兄弟でも分析家でもなんでもいいがもし話せる立場にいたらそういってしまう。そしてきっと反論されるか解釈されるかするのだろうね。ロマンがない。精神分析をよく知っている立場からすれば精神分析にロマンはあるのだけどロマンに対してアンビバレントなのではないかな。今は犯罪でもノンフィクションで読んだほうがいいもののほうが多くて、いかにそこにロマンを持ち込まずにいられるかの重要性を学んだりする。異質さは異質さとしてドンと置いてドライに繊細に関わるという点でフロイトが外科医のたとえを用いたのは適切だと思う。私たちは「関係性」とかいうごまかし言葉を多用しがちだし「物語」が好きだったりする。わかりやすいのはいいけどそんな簡単じゃないから困ってきたわけで今ここでそれを再演しているわけでしょう、と考えると私はそういう方向の分析家ではないな。組み立てていくのではなくて降ってくるものをドライに繊細に捉えられたらいいのに。低頻度の面接であってもそこでは要素の断片化と統合が繰り返されている感じがするけど何かと何かがつながっていく感じは低頻度の面接のほうが持ちやすいと思う。一人の時間の方が長ければ自然とそうなるだろう。高頻度になると常に他者(=分析状況)が情動的な撹乱を起こしてくるから自分でつなげる作業はできない。いつのまにかという変化ばかりで情緒的な撹乱はお互いにとって危機になるがそれが生じないと変化は起きないとみる。実際そうだろう。精神分析は頻度だけではなくカウチ使用、自由連想という基本原則を伴い、内容を取りこぼしつつ抱える設定になっているし、そこでの意識の質は他の治療法とはだいぶ異なると思う。そこで無意識とかいっている。

沖縄トロピカルフルーツティーを飲んでいる。いただきもの。暑いけど美味しい。冷たい麦茶が減らない時期になってきた。今日も外は暑いのだろう。少しずつ少しずつ秋めいてきたけれど。良い音楽、良い読書、良い出会い。地球に優しく過ごしたいものです。

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精神分析

梨腹

梨。瑞々しい。スルスル剥けるのもいい。幸水、豊水、二十世紀、この梨はいただいたのだけどどこのかしら。とてもおいしい。二十世紀は千葉県松戸市発祥。今は鳥取といえば二十世紀という感じだけど松戸市の博物館には原木の一部が保存されているそう。千葉は梨農家さんが本当に多い。毎年、夏のキャンプに行っていた頃にたくさん見かけた。あの大きい梨、新高も食べてみたい。食べたことある気もするけどあの大きいのを自分で買ってみたいな。もうすぐ収穫時期。重たそう。

梨腹モ牡丹餅腹モ彼岸カナ 正岡子規

子規は牡丹餅好きね。35歳で死んでしまうけど最後まで甘いものを食べていたそう。食べ物に対して諦めがないってとってもいい。

餅の名や秋の彼岸は萩にこそ   
お萩くばる彼岸の使行き逢ひぬ

これ、あとの方の一句は陸羯南がおはぎを持ってきたときにそういうの馬鹿馬鹿しいといいつつ読んだらしい。私が子どもの頃、おはぎのお裾分けってまだ風習として残っていたと思う。当時はおはぎ大好きだった。あんこ、きなこ、ごま。並ぶととてもかわいい。おはぎを持ってきてくれたのは私が好きだった人とは違う人だったと知ったのは大人になってから。というか、子供の頃は直接受け取ってるからわかっていたはず。大人になるにつれて好きな人は好きなものもくれる人になっていたのかもしれない。足の悪い人だったがそれがどんな病気や障害だったかも知らない。子供の頃は知っていたのかな。色々思い出しているつもりなのだけどこれも誰かの記憶と混ざってるのかもしれない。

梨腹、牡丹餅腹、なんかおかしい。私も今梨腹。幸せなことだ。

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精神分析

あまり長く止まらず。

ゲリラ豪雨、窓の外の音や外からくる人で知ってはいた。あと少し水が出なくなった。それが少しの期間だったどうかは使っていなかったのでわからない。異常気象も異常にしたのは誰かという話だろうか。台風の多い沖縄や雪国の暮らしも大変だがそこには生活者の歴史と知恵がある。私はこの都会のビルで自分で一人一人と契約して収入を得ているのでコロナの時もそうだったが何か起きるたびにずっと続けていきたいこの仕事で生活していく方法について考えこむ。が、考え込んでいるだけでは何も変わらないのでそこから回復することが大事。ということで今日も起きた。そう意識して起きたわけでもないが。

今日はまだ鳥の声を聞いていない。冷たい麦茶は飲んでいる。体調がパッとしないがパッとしてるときがあるのかといえばそうでもない。小さな予防を繰り返す。

いつ何が起きるかわからないということを何度も実感してきたはずなのになにかが起きるたびに考え込む。当たり前か。そこで止まりたくなってしまうからやっかいなのだろう。訓練分析家になるまでも長いしなれたとしても75歳までしか教育者としてのケースはもてない。せめてそこまでなんとか健康で生きていたいがとりあえずそういう前提で何かあったらその都度考えながら、でもあまり長く止まらない、ということをしていけたらいいかな。仕事以外の時間が短いからそこをもう少し工夫してやりたいことやりたいし。なんとかやっていきまっしょい。

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柴崎友香の本とか精神分析とか。

今日は曇りかな。短時間でも洗濯物を外に出そうと思って窓を開けたのだけどそのときに自分が感じたことを忘れてしまった。風が入ってくるようになったなあとは感じた。

『あらゆることは今起こる』も話題の柴崎友香だが『待ち遠しい』という作品もとてもいい。年代の異なる女たちのそれぞれの日常の交錯、リアルな生活描写が本当に素晴らしい。会話も何もかもどうしてここまで細やかに描けるのかと驚きながら映像をみる以上に自分がその街で生活しているような気持ちになる。となると当然気持ちも結構揺れる。リアルに体験するということはそういうことだから。

精神分析は分析家のところに通うのが生活の一部になるのでこれまでの生活の中で感じていたことがそこで自然に現れてくるのだがそれをリアルに体験するとなるとそこにはものすごい抵抗が生じる。ずっと聞き流したりやり過ごしてきたものを誰だってみたくも聞きたくもない。どうにかしたいと強く願っているはずなのに今の自分の在り方を変えようとしないどうしようもなく強力な力が働く。カウチに横たわり自由連想という不自由の中で自分の中に蠢く様々な情緒を体験すること、ましてやそれを言葉にすることは本当に難しいことだ、ということを積み重ねれば積み重ねるほど患者は実感する。そして分析家を容赦なく巻き込む情緒の強度はよく使われる「こころを使う」治療者なんかではいさせてくれない。むしろ自分のこころなんてものがある気がしなくなってくる。患者の方もそうだろう。境界を失うことの恐れは誰にでも生じる。経験から振り返ればそれまでの異なる境界が生成されるプロセスなわけだが何かが変わることへの抵抗がこれほどまでに強いから戦争もなくならないのだろう、と実感するほどに人間というやつは、というやつである。私は私で十分にそれを体験したがまた繰り返すだろう。また、精神分析実践を続けなかったら私は精神分析家ではいられないだろう。資格は組織に属するための切符ではあるが精神分析家であるには実践を伴う必要がある、ということを実践から学ぶ日々。自分をどれだけ未知の可能性として恐れながらも楽しめるか、自分に合う合わないという判断をせずに見知らぬ誰かと協力していけるか。人は自分で決めることを強く求めるのに、いざ決めるのは自分であるということを突きつけられると困ってしまう。そういう矛盾だらけの自分に素直に困れるか。時間を無駄にしているとかいってなかったことにしまわないでぼんやりそこにいつづけられるか。精神分析は単に他人と比べるのではなく他人と比べてしまう自分に対して苦しんだり、自分の中にある小さな情熱に耳を傾けられるようになりたい人にはとても役に立つと思う。

柴崎友香が描く人物は自分の声にも相手の声にも細やかである。それは作者がそれを十分に拾っているからだが、そういう細やかさが人はそれぞれであるということを本当に肯定していくことにつながるのだと思う。

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姑娘、「まとも」

まだ少し雨が降っている。ずっと降ったり止んだりだったのだろうか。私がオフィスを出る頃は強い雨は少しぱらつく程度で誰も傘をさしていなかった。鳥たちが鳴き始めた。

近所の本屋さんで戦争の本が並べられていた。水木しげる、半藤一利の本が目立っていた。旅先で「姑娘」という言葉を知った。それについて何か話したあとその名前の中華料理屋も見た。移動した先のギャラリーにも姑娘という作品があった。なんだか妙に心に残る単語だった。水木しげるの漫画の背表紙を眺めていたら「姑娘」があった。手に取ると裸の若い女性とその背後に日本兵たち。水木しげるならではの間の抜けた切迫感。読んだ。意外な話だった。運命とはなにか、理不尽とはなにか、戦争を起こすとしたらやはり人間なんだな、と思った。これ、昔読んだことがある気がする、と実家の桐の箱を思い浮かべた。そこには水木しげるの漫画がたくさん入っていて、それに気づいてからは長時間そのそばで読み耽った。ただそれはこの漫画が刊行される以前のことだから「姑娘」という単語は別の漫画で見たのかもしれない。この表題作と一緒に入っている作品は戦艦の描写も見事な戦争もの。どうして戦艦にこんな名前をつけるのか。美しい土地や季語みたいではないか。いや、戦艦はそれ自体で見れば美しいのだ。広島で学会があったとき、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)にも行った。ちょうど映画のロケが行われていたときだった気がする。圧巻だった。しかしいくら戦艦が美しく立派で、いくら優しい人間が乗っていたとしてもそれが戦争である限りそこで何を言ってもきれいごとだ。もちろんそこから美しいなにかを見出すこともありうるだろう、ただ生き延びるために。戦争で人生が狂わされた人もいれば、人は誰でもどこか狂っているから戦争が起きるともいえる。でもどこか狂っているなんて当たり前のことが誰かを死に追いやることを当たり前にしていいはずはない。自分の狂気も優しさや間抜けさと同居している。どの瞬間に「まとも」になれるかが境界を越えるかどうかを決めるのだろうけどそれは自分のどんな意志を持っても一人ではどうにもならないものでもある。誰もが当事者である、というよりは、少なくともそれは他人事ではないということだと思う。たらればの話をする以前に前提を確かめる。何を基準に「まとも」というのか、とか。難しいし眠い。なんとかやっていこう。

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土地、街、生活

まだまだ残暑か。夜はだいぶ涼しくなったが朝がまだ爽やかじゃない。

群馬県渋川市の明治32年創業の老舗、錦光堂の渋川銘菓こがねいものことは書いただろうか。山梨県の信玄餅でお馴染みの桔梗屋のことは?毎日お菓子は豊かでその土地の老舗の味は懐かしく。

桔梗屋って工場見学ができるのか!行きたい。コロナでそういう活動をやめてしまった会社のことも聞くがとりあえずよかった。実際に製造の工程をみる体験は本当に貴重。金沢の福光屋さんをまだ知らなかった頃、ここはなんだろう、と友達と覗き込んでいたら蔵内へ誘ってくれた社員さんには今もとても感謝している。白衣に着替えて帽子をかぶって見学&段階ごとのお酒を試飲。まだお酒の味もよくわかっていなかった頃だ。有名な酒蔵だと知ったのは随分経ってから。加賀鳶はその後もっともよくのむ日本酒のひとつになった。今は予約制の見学コースもあるらしい。旅に出ればその製造工程と出会える場所へ出向く。このお味はどこから?というのを知ると好み以前の味わいを楽しめる。歴史を味わうのだ。

この夏は能登の被災地の手前まで出向いたがそこでも倒壊した家屋をみた。報道されないことが問題になっていた地域だが震災に対してはいいかげんこちら側の想像力が必要だし可能だろう。震災から半年以上経ってもこの状態か、と悲しく、自転車で走りながらところどころで感じる道路のでこぼこも地震の影響だろうか、と沈んだ気持ちになった。博物館によったら文化財レスキューの張り紙がしてあり、被災した家屋などから集められた陶器や古くて大きなボンボン時計とかが並べられていた。文化財レスキューはいくつかの場所で行われているが相談場所としても知られてほしいし数も増えてほしい。少し前の記事だが載せておく。

能登半島地震・文化財レスキューの記録】(特集展示)

輪島の文化も今後どうなっていくだろう。輪島朝市はようやくがれきが取り除かれてきたときく。公費解体の手続き自体が困難という方もおられるだろうか。気持ち的に困難という場合もあるかもしれない。みればわかるだろう、という被害に対して罹災証明書を準備しなくてはならないとか気持ち的に大変そうだ。チェックリストを見ると「すべての権利関係者(共有者、相続権者、抵当権者など)の同意を得ており」という確認事項もある。土地のことだから当然必要なことだが、突然人が亡くなったときなどにも感じる思考停止のままただ急かされる状況はその土地の未来にどう影響してくるだろうか。その土地で生活をすること自体が文化を生んできた。その土地に根付いてくれる人がいたから私たちもその恵みを目や耳や舌などで味わうことをさせてもらえる。私もできることを常に考えなおしていかないといけないと思った。

早朝に作り置きをする習慣がついたがやはり作る人と関係の近い新鮮な食材だったらそれだけでおいしいのに、とスーパーの棚の前を寂しい気持ちで歩き回ったりすることがある。以前はうちの街にも先生になってくれるお魚屋さんも八百屋さんもあった。親子でやっていた店はお母さんがちょっと怖かったが聞けば色々教えてくれた。息子さんだけのときはいつもおまけしてくれた。土用の丑の日の活気は通り過ぎるだけで嬉しい気持ちにさせてくれた。その店が閉じてからずいぶん経つ。息子さんといっても私より年上と知っているが、その後も彼をみかけることはあった。先日もみかけた。なんと赤ちゃんをだっこしている。私の前を歩いていた人は「あら!」と嬉しそうな顔をしてたまたま持っていたなにかをあげていた。「本当にいいんですか?」「いいのよ!うらやましい!」など地元の付き合いが長いらしい。うらやましい、という言葉にいくつかの可能性を思ったが子供が愛される街であってほしいなとは思った。

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健やかさ、夢時間

キッチンの窓を開けた。久しぶりに風を感じた。南向きの大きな窓も開けた。風は感じなかったが虫の声が蝉よりずっと下の方から響いてきた。

書評を書くためにラカン派のフランス人精神分析家の本を読んでいる。読み進めることはできるが著者の意図がよくわからない。いや、わからなくもない。彼女がラカン派らしくIPAの精神分析家がダメにしてきた精神分析で維持すべき問題をラカンと、ラカンが回帰せよといったフロイトに回帰しながら考え抜こうとする姿勢は人文知、特に哲学と共にその国に根づくフランス精神分析の健やかな育ちの結果なのだと思う。無論、とんでもなくドロドロした個人的かつ政治的な話と共にである。

それにしても「健やか」という言葉の健やかさを何といったらいいのか。それは漫画の『キャプテン翼』のイメージで精神分析で体験する苦しみとは全くかけ離れているように思える。しかし、精神分析を十分に体験しようとする情熱は結構健康志向だと思う。身体化によって身体と心が影響しあっていることを知ることも毎日のように分析の場で対話する生活をマネージすることも結構健康志向だと思う。自分のことは自分で、しかし他人を頼ることもきちんとするということをしなくてはいけなくなるから。そういうのは生活の基本だけどなかなかできないものなのだ。

私は分析家のところへ通う生活が終わり、話し相手、というより「話す相手」がいなくなったことに大きなインパクト受けた、この前。どんなときだったか忘れてしまったが急にそれを感じた瞬間があったのだ。正確にはそのいなくなった場で話すことを続けているわけだが(それを可能にするための訓練生活だったし。)物理的にそれがなくなったことを現実的に認識したという感じだろうか。なくなったことというよりその時間がどれだけ濃かったかということを実感した。なんかすごいことやってたな、と思う。精神分析体験を夢みたいだったといっていた人がいて私もそんな風に思うのかなとあまりしっくりきていなかったがまさに夢みたいだった。精神分析的な意味での。なんだかなるほどねー、だった。現実の生活という言葉を使いたくなるほどに。あれも現実だったのに時間が複数に流れるようになったんだな、と思った。

以前買った短歌がたくさん載っている冊子を見ていたらどれもとてもよくてこういう感性は私には持ち得ないものなんだけど私も生きているこの世界はこういう表現もできるんだなあとしみじみした。穂村弘、平岡直子ファンだが、若手にもすごい人がたくさん。人生は長さではないのだね。しかし経験を積むには長さが必要だね。みんなが自分のことを一生懸命やることが大事。それは人のことを考えることと直結している。そうでないならそれは本当に自分のことを考えてるってことなのか?と問うてもいいかも。他人になにかいうことはとっても簡単でいくらでも自分を「そうではない」場所に置くことができるけどそんなふうにすることで何をしているのか、ってことだし、自分のことをやるって何?って感じでとても難しいことだとは思うけどまずは自分をなんとかなんとか。とりあえず今日も無事に過ごしましょう。

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精神分析

フェミニストとか「我が身を以て」とか。

窓を開けた。昨晩は傘をさしても少し濡れてなおさら冷たく感じた風が全くない。これから強い日差しがやってくるぞ、という感じのオレンジがベランダの壁面に広がりつつある。

今朝は最初にあるフェミニストの文章を読んだ。フェミニストというときに少し突き放した感じでこの言葉を使っている自分に気づく。フェミニズムという言葉は学術的にも使えるがフェミニストはその人がそういえばそうなのだろう、というような距離の取り方をしてしまう。なぜだろう、というよりなぜなら、たとえ言動がどうであっても、という括弧付きの言葉が浮かんできてしまうから。この言葉を思い浮かべる時点で罪悪感を感じてしまうのもフェミニストという言葉が持つ複雑さと強力さを示していると思う。この場合も(私にとっては)という言葉を慌ててつけたくなるわけだが。繊細で、大きな傷つきの積み重ねを包み込み大きな力にしていくための言葉は絶対に必要だが、弱者が戦わねばならないときにそこにどうしても生じてしまう相手を黙らせようとする雰囲気というのはそれこそがそれまでの、あるいは今も自分を苦しめてきた、苦しめているものではなかったか、というためらいをうむ。もちろんそれは本来感じる必要などないものだが感じてしまうのも無理がないものだ。自分にも色々な部分があるのは当たり前のことで相手によって自分が変わってしまうのも当たり前のことだから。フェミニストという言葉は誰かを括るための言葉ではなくそう表明することで生じる連帯を期待するものなのだろう。

ロシア語通訳者でエッセイストの米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』を読んだことがあるだろうか。私は米原万里の本に打ちのめされてきたが、この本も強い。打ちのめされるほどのインパクトがないと人はものを考えないので、それは力をもらうというのと同義だと思っているが米原万里の場合は特にそう感じる。この本の「私の読書日記」の中に「癌治療本を我が身を以て検証」というタイトルのものがその三まである。私は身近で信用できない癌治療本を手にしている人がいると猛反対をしたりはしないが読む分にはいいけどお金もかかることだからオーソドックスな治療をしたほうがいいよ、とはいう。精神分析なんてエヴィデンスのないことをやっている人がなにをいう、と言われたことはない。精神分析は医療ではないし、そもそもマイナーすぎてみんな知らない。だから体験したこともない人たちが自分の欲望のために気楽に理論を使用してくることもあるわけだが、それこそ精神分析的ではないのでその熱量にかえって冷めるということはよくある。米原万里は常に真剣そのものでものすごい勉強家で交流も幅広いので、というかこれらは全て連動するものだけど、その結果、冷めているのに熱い。「癌治療本を我が身を以て検証」も結論ありきではなく、実際の体験ありき。私が知っている胡散臭さをこのような形で書けるのがすごい。何も押し付けてこない。そんな本読むのやめなよ、とかまともな治療したほうがいいよ、とかいうより「あ、それ、実際に体験した人が書いていたよ」とこれを読んでもらったほうがいいのかもしれない。現実はたいてい結論ありきなわけだから別の方法など受け入れる状態にないかもしれないが。

蝉が再び賑やか。秋の虫は少し前から鳴き始めている。今日は猛暑らしい。気をつけて過ごそう。

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Netflix 精神分析

習慣とか「無意識」論文とか。

早朝作り置き習慣確立したっぽい。自分がしていることなのにそれが習慣化するかどうかは自分次第、とは思っていない。私は無意識を信じているけど意識的に何かができるとはあまり思っていないのだろう。

世の中が長期休みに入るとフロイト読書会番外編を行っている。この夏は十川幸司訳の『メタサイコロジー論』の第3論文「無意識」。難解だがその前の二つの論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」を踏まえてさらにメタをいこうとする重要な論文。

私がアドバイザーとして参加している読書会は読んできたものを話し合う形式で、その読書会の番外編なのだが、そこでは私が仕切らせてもらって、私のオフィスで主催している精読方法でフロイトを読むことをしてみている。今回は2日連続2時間ずつ。精神分析はフロイトは週6日60分くらいずつが定番、今は週4日50分くらいずつがIPA基準なのだが、なんにしても集中して何かをやるということはいいことだと経験から思う。

『宇宙兄弟』で、注意を多方面に分散させて別の情報で頭をいっぱいにして考えることを回避するシーンがあった。「わかる!」と一瞬思ったが、あんなふうに情報を正確に拾う集中力は私にはなかった、そういえば。何かを回避するために、というか回避自体に集中するというのはよくあることだが、それは集中して何かをするのとは異なるだろう。そうしたくても大抵は「注意力散漫」という言葉で示されるような状態になるだろうし。今回のフロイト読書会番外編は形式的には集中型だが、内容の難解さに注意が散漫になっていく様子が見られた。そりゃそうだよ、ということも伝えた。医学書や哲学書を「わかる!」と思わないだろう、と。錚々たる知性がいまだに格闘しているテクストなのだから私たちはもっと地道に取り組んでいく必要があるのは当たり前といえば当たり前。私たちは臨床家だからつい同じ語彙の世界を生きている人としてフロイトを読んでしまうかもしれないが、精神分析実践を伴っていても、高度に専門的で抽象的な内容はそう簡単に「理解」できるものではない。だからこそ形式を集中型にしておく必要があるのだと思う。

今朝はパプリカを使って作り置きしたのだけどひとつでもかなり量があるしきれいだから満足。いつも大体Instagramで美味しそうなレシピを見つけて真似したりしている。今朝もチェックしてみたら三浦哲哉さんがトマティーヨなるもので何やらすごく美味しそうなサルサを作っていた。ウィキペディアによるとトマティーヨというのは「ナス科の植物、およびその小さな球状の緑または紫がかった果実。学名はPhysalis philadelphica、和名はオオブドウホオズキ。 」だそう。メキシコ料理には欠かせないんだって。美味しそう。いいないいな。今日はたくさんテクストを読む日になる。おいしいものを支えにがんばろう。どうぞ良い一日を。

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精神分析

伝統とか揺らぎとか。

農林水産省の「にっぽん伝統食図鑑」というWebサイトに出会った。ユネスコ無形文化遺産に登録されている和食だがそれらの情報を集約する仕組みは作られてこなかったそうだ。このサイトは、伝統食の保護・継承、伝統食の認知拡大、伝統食の輸出拡大の推進の3つを目的として伝統食のデータベースとして作られたようである。「伝統食」の基準は、加工食品であること、入手ができること、地域性があること、歴史性があること、伝統的な製法または保存技術を用いていること、が必須とのこと。その基準でいったら日本全国どこにでもありそうなものだがそうでもないらしく、掲載されている県は少ない。石川県はさすがに多いが、大きな地震の影響は伝統食にも現れるだろう。たとえば奥能登の国指定文化財名勝、石川県輪島市白米町にある棚田、白米千枚田。このWebサイトのエリア検索で「石川県」を選択すると紹介文の最初の方に出てくる。ここも大きな被害を受けた。神戸新聞が記事にしていた。

能登輪島白米千枚田のWebサイトでその美しい姿を見ることはできるがもとは1004枚の田んぼがあったそうだ。地震のあと、その維持管理を担う「白米千枚田愛耕会」の努力によって今春には、その約1割、120枚で作付けが行われた。これを愛耕会の方は「奇跡の120枚、感謝の120枚」と話す。

「伝統」というからには守られるべきものという意味を含むと思うが加工される以前に基盤があること、その基盤には人と土地の歴史があること、今回、神戸新聞がここを取り上げていることにじんとくるものがあった。稲刈りは今月末だという。先日、青々と稲穂が広がる景色を目にした。とてもきれいで田んぼごとに色が少しずつ違うように見えたのが不思議だった。どの地域もそうだが、被害を受けた土地に速やかで長い支援が届きますように。せめて侵入的ではない眼差しが向けられますように。

食事や料理のことで少し考え込むようなことがあると三浦哲哉『自炊者になるための26週』を読んだりする。この本は1週に1章読み進めるペースで書かれていて2週目が「においを食べる」で「米を炊く」から始まる。混じり合う味覚と嗅覚の記憶はたしかだ。米作りに従事されている方が何百というサンプルの中から地元の米を当てることができるという話には驚きつつ納得した。知っているだけに失われたものの大きさに打ちのめされたりする場合もあるだろうか。知っているからこそそれを頼りに先を見据えることもできるだろうか。それぞれが個別的でどちらともいえない体験の積み重ねを生きているに違いないが、大きな出来事があるとそこで揺らぐこと自体、不安を生じさせるかもしれない。どうか穏やかな時間ももつことができますように。良い1日でありますように。

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精神分析

良い。愉快い。

やっぱり寝不足だと夢がすぐに消えてしまう。良い時間を持てば持つほどそういう時間のために何ができるだろうと考える。そもそも自分にとって良い時間とは何かということから明確にしておいたほうがいいのかもしれない。

先日、泉鏡花の作品をモチーフにした漆の作品や絵本を見た。泉鏡花の母親のお墓がある金沢の卯辰山には言ったことがあるが作品は少ししか読んだことがない。にもかかわらず泉鏡花ときくと先日見たような作品が思い浮かぶのだから不思議だ。お坊さんでもありイラストレーターでもある中川学による絵本も素晴らしかった。ということで久しぶりに読んでみた。今回は短編『化鳥』。最初の数行で「愉快い」が何度も出てくるのが愉快い。泉鏡花は金沢に生まれた。父親は加賀象嵌の彫金師だった。加賀手作り産業に泉鏡花の作品がしっくりくるのは父親の何かを受け継いでいるせいかもしれない。鏡花は幼い頃に母親を亡くし、摩耶夫人を信仰しつづけた、という話は「化鳥」の登場人物の母子と重ね合わせたりする。しかしまあそういう単純な繋げ方はともかく、現実と幻想、人間と動物の間で揺らぐ自分を描き出すのがうますぎる。「化鳥」には感情を表す言葉がたくさん出てくるがその出し方も愉快い。この作品は「青空文庫」でも読めるが装丁にも注目したい。初版本の装丁は国立国会図書館のアーカイブで観られると思う。

うとうとしていたら手が止まっていた。今日も良きものにたくさん出会えますように。今は良くなくてもいずれ良くなることもあるということも忘れませんように。

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精神分析

水色の空。ここ数日、美しく麗しいものをたくさんみている。そしてよく寝ている。トレーナーさんがお休みのときのメニューももらっているけどこちらはサボってる。でもお菓子も食べすぎてないしお散歩もたくさんしているのでよしとしよう。あ、そういえば久しぶりに美味しい餃子を食べた。30分待ちって書いてあったけどすぐ入れた。常時そう表示してあるのかもね。いつもは行列ができるお店らしいので。

子どもの図書館の司書さんと色々お話した。松井直先生のこととか懐かしかった。絵本もたくさん読んだ。杉並区の保育園巡回をやめたので絵本に触れる機会が減っていた。久しぶりに声に出して読んでやっぱり言葉は面白いなあと思った。あの子たちが次から次へ持ってくるわけだ。小さい子は膝に座るまでがセット。読んでもらえることになっているのがいつも面白かった。膝が足りないと保育士さんが引き取ってくれた。みんながんばってるんだろうな。本当に大変な仕事。子どもたちもこの暑さだとお散歩行けないし狭い室内で過ごすのも辛いよね、お互い。保育環境の基準って全然現場のニーズとあっていないものね。

あ、手が止まってしまった。おなかがすいてるから。美しく麗しいものたちができるまでの作業にもびっくりした。何度も聞いているはずなのに個人的なこととしてきくと具体的に想像できるからすごすぎてびっくりする。あ、また手が動いていた。自分を放っておきながら書いてるからね。こんな感じ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

記憶とか。

寝ても寝ても眠い。少し汗ばみながら何度か起きた。空がきれい。光の程度で少しずつ色が変わる。この前NASAのボイジャー計画のあれこれを見たり聞いたりした。木星の吹き荒れる嵐や活火山には驚いた。周りの小さな子たちが宇宙のあれこれに詳しいのにも驚いた。私はなんども同じ話を聞いては驚いている気がするが取り入れの仕方は年を経て変わってきているだろうから間違った知識を広めたりしない限りは何度も何度も楽しめていいのだろう。

二度目三度目に歩く土地では以前の記憶との照合が勝手に始まる。が、本当に曖昧。実際かなり町並みも変わっているのだろう。あのときのあれはここだったかもと思う地点が次から次に生まれる。はじめての土地で感じる懐かしさもこの曖昧な記憶のおかげか、あるいは受け継がれてきた無意識的記憶か。

昨年のプチ同窓会を機に幹事として同期にお便りをだした。思いがけずたくさんの方からお返事をいただきLINEグループで繋がった。同期が大学で長く働いてくれているおかげで先生方とのつながりも保ってもらえている。秋になったらまた集まる計画もした。20年以上経って変わってないはずはないのに会えばそう言い合うほどに変わっていないのもまたほんと。今度も楽しみ。

昨晩から今朝にかけてもいくつかの夢をみた。精神分析で生じた驚きを検証するかのような夢だった。精神分析は記憶の仕組みをかなり変えた気がする。表面的なアウトプットにはとくに変化もないが夢思考はもはやお勉強の世界ではない。

今日も汗をかきながら晴雨兼用の傘をさしてお散歩しよう。見えるものも見えないものも大事にできますように。どうぞ良い一日を。

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精神分析

朝はぼんやり

窓に蜘蛛がくっついている。鳥たちが同じ場所で会話するように鳴いている。朝は情報量が一定でいい。冷たい麦茶を飲んで喉を潤す。ぼんやりと夢を反芻する。昨日したおしゃべりも昨日した日焼けも残ってはいるけれど今目の前はとても静か。朝を迎えたくないからと眠らずにいた人にもとりあえず朝はくる。そのあとに活動が控えていると今日も一日始まってしまったと朝の静けさなど感じる間もなくいつもの動けなさに覆われるかもしれない。今目の前の情報の少なさをまだ起きていないことで埋めてしまわないようにするのは難しいことかもしれない。何も知らなくてもやっていけることはたくさんあって、でもひとりでできることには限界があって、場所によっては悪意に晒されたりする。難しい。じっと朝のいつもに浸りながら考えることはぼんやりぼんやり。今日は何にもしたくない。というか朝早く起きすぎた。今日は今日としてはじめよう。春はあけぼの、夏は夜。朝はぼんやり。いずれ夜。どうぞ良い一日を。

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精神分析

蝉、秒単位、夢

眠い。夜はアブラゼミしか鳴かなくなった。朝はミンミンゼミも聞こえる。蝉に「鳴く」という動詞をくっつけることにいつも抵抗がある。メカっぽいからな。蝉も幼虫も鳴くのか?聞こえないくらいの感じできゅうきゅういったりするのか?

この前、表参道を歩いていたら「原宿まであと何秒?」という子どもの声が聞こえた。結構難しい質問だなと思ったら「600秒くらいかな」とあっさりお父さんが答えていた。言われてみればそんなに難しい質問ではなかった。すると今度は「10秒が何回?」とまた意表をつかれる質問がきた。答えるのは簡単だがたしかに子供の時間感覚は秒単位かもしれない。

電車のドアがなかなかあかずあれっとなっているついでに、ついででもないか、電車の時刻がらみで、電車の時間は出発時間だからドアはそれより早くしまるという話をきいた。当たり前じゃんと思うかもしれないが、少し前にわざわざそう書いてある張り紙も見た。駆け込めず目の前でドアが閉まってしまい大事な用事に遅れてしまった人からクレームがきたのだろうか。秒単位はたしかに世知辛いが東京の電車はそれが人に対する人の仕事ですよという部分も失われつつあるのでなおさらかもしれない。

今朝の夢は和やかであたたかかっただけに不安を覚えるような夢だった。喪失の不安というのは静かにいつもまとわりついている。今日もどうかご無事で。良い一日でありますように。

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精神分析

久女とか。

早朝から何度も寝たり起きたりした。うとうとしている夢をうとうとしながら見たりした。週末はさすがに疲れているらしい。鳥たちはもうどこかへ行ってしまった。遠くで、たまに近くで、集団ではない声がする。光の色が変わった、キッチンに立ってふと気づく。太陽の傾きが明らかに変わった、気がする。夜は涼しかった、と書いたのは一昨日か。その翌日、「秋の気配」という言葉がトレンドに上がっているのをみてやっぱり、と嬉しくなった。そういう言葉がSNSのトレンドに上がること自体もなんだかよかった。今月の句会のお題を出すときにすでに秋を意識していた、というか「八月」というのは初秋の季語なのだ。暑さだけでいえば真夏だがこの色、この空気は確かに季節が進んだと感じさせる。

八月の雨に蕎麦咲く高地かな 杉田久女

ー「杉田久女句集」

女の俳句といえば杉田久女は欠かせない。明治二三年(1890年)、鹿児島に生まれ、数回の転居を経て、東京女子高等師範学校に入学、卒業。明治四二年、東京美術学校西洋科出身の杉田宇内と結婚。次女が生まれた20代半ば、次兄で俳人の赤堀月蟾(渡邊水巴門下)より手ほどきを受け、俳句を始め、翌年には高浜虚子主宰『ホトトギス』に投句を始めている。

谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女

久女のこの代表句は40歳の頃。女性の句を求めた虚子らによって見出され、俳句の世界における女性の地位向上に努めた結果、虚子と離れることになり、というふうに私は理解しているが今ここで詳細に書く時間がない。うとうとしすぎた。

花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵 杉田久女

虚子が「これは女性にしか書けない」というようなことを言ったこの句。虚子め、と思うには色々理由があるが、そういう時代で久女は多くの誤解を受けながら生きて、死んだ。

昨日、ラカンの『アンコール』で「愛」を語るラカンに触れているときには全く感じなかった実感のこもった何かを与えてくれる久女のことも大事にしたい。精神分析の世界は数では女性がものすごく多くなったが男性発の理論と対峙したり、その組織の中にいたりすると「ああ、こうやって同一化していくんだなあ」と思うことがよくある。自分として立つには女はまだまだ弱いのだ。がんばろう。どうぞ良い一日を。

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「うまやど」とか旅の思い出とか。

 長野県茅野市のお菓子を色々もらった。茅野駅に「モン蓼科」というお店が信州のおみやげが揃う素敵な場所だったとのこと。「アニバーサリーチロル」のお菓子とか信州金沢フルーツワイン「うまやど」などもらいました。どうしてフルーツワインというのかしら。ワインって葡萄だからあえて「フルーツ」というのってなぜ?調べよう。おお、なるほど。りんごや洋梨を使ったワインもあるのか。でもこれは葡萄だよ。まあいいか。ワインが葡萄というフルーツからなっていることを忘れている場合もあるかもしれないしね。りんごはシードルっていわない?わからないけど醸造方法が違うとか同じとか色々あるのかな。私はワイナリーも結構行っていると思うのだけどおいしいおいしいだけでいろんな知識が全然入っていないのね。今度はきちんとメモして勉強しよう。こうやってなんでなんでって思う時もあるものね。

 長野県茅野市にも金沢というところがあるのね。私の愛する石川県金沢市と同じというだけで親近感、と言わずとも群馬出身の私は長野は身近なので普通に親近感。吾妻とか白根とか軽井沢とか尾瀬とか嬬恋とかどっちがどっちだか。でも茅野市のことは全然知らない。山登りの人にはお馴染みの場所らしい。ああ、でも蓼科の方か。なら子どもの頃にスキーで行っているか。

 さて、フルーツワイン「うまやど」は終戦直後から様々な困難を超えてワイン醸造を続けてきた小林家のみなさんのワイン。小林家の屋号が「馬宿」なのだそうです。宿場町を歩くと「馬宿」というお仕事を身近に感じることができるかも。今は馬を預けることはなくとも街道歩きのために荷物を運んでいただくことはあるのでその手荷物運送サービスは馬宿の名残なのではないかしらと思ってるのだけど違うのかな。

 2023年のGWは中山道を歩く旅をした。岐阜県の妻籠宿、馬籠宿、中津川宿と。妻籠から馬籠まで歩いたので手荷物運送サービスを利用させていただきました。妻籠から馬籠までそれぞれの宿場町を堪能しつつ歩いて中津川へはバスで移動。バスに乗る前に観光案内所へ荷物を受け取りに行った。思ったより時間がおしてて大急ぎで坂を登った。なのに窓口が外国の人でいっぱい。荷物を取るだけだから割り込ませてもらおうと思ったら通訳を頼まれた。この日は中津川に泊まれる場所はもうない、ということがなかなか伝わらなくて困っていたようだ。お手伝いしたら和紙で折った鶴をくれた。彼らも結局同じバスに乗ったけどどこかに泊まれたかしら。

私たちはかなりテンションの下がるホテルに泊まった。一目で「やられた」とわかった。ウェブサイトに載っている写真と全く違った。ビクビクしながら階段を降りてくるお客さんを見たりして「そうなるよね」と思った。ほとんど管理されていないし、夜はホテルの人もいなくなってただの雑居ビルとなる。これまでも安いホテルに泊まってきていろんな面白い体験をしたけどここはGW価格で全く安くなかった。でも中津川は和菓子天国でホテルは寝るだけだったからまあいいかとはなったけどやっぱよくない、という感じだった。あとから口コミをみたらやはりひどかった。口コミの信頼性の問題はあれどみておくべきだった。和菓子と街並みでプラマイゼロよりプラスになる街だったけどね、栗きんとんで有名な中津川。月もきれいな夜だった。

集英社の月刊誌『青春と読書』で「地面師たち」の原作者インタビューを読んだ。続編「地面師たち ファイナル・ベッツ」が出たらしい。出たのか?出るのか?とにかく完成したらしい。今度の舞台は釧路とのことで釧路のあれこれを思い出していた。釧路フィッシャーマンンズワーフの「さんまんま」がめちゃくちゃ美味しくて東京で北海道展をやると探しに行ったりした。釧路ラーメンも食べたな。そこだけ並んだ。街並みをほとんど覚えていないのはなぜ。作者がいうように人はいない、テナントも入っていないという街だっただろうか。根室の寂れ具合を愛している私には釧路は根室よりは栄えているイメージがあったのだけど。釧路湿原の印象も強いからそこがどういう場所かって一言で言える規模ではないのかも、北海道は。

土地の話は面白い。私は毎日狭い区域を移動するだけだけど地形とか感じ出すとそれはそれで興味深い歴史もいっぱいあったり面白い。散歩大好き。暑いから気をつけないとだけど。昨晩は少し涼しかった。今日はどうかしら。どうぞ良い1日を。

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車山、芥川賞作家たち

麦茶。冷たい。週末に増えた長野のお菓子たちは賞味期限に余裕があるので今朝は食べない。車山高原のお土産。懐かしい場所だ。まだ楽器をやっていた子供の頃、合宿で数回行った。プロになるような子たちが全国から集まるその合宿に私は普段の習い事の延長みたいな感じでついていった。途中から練習には参加せず大人に遊んでもらった。最初からそうするものだと思っていた。だってレベルが違いすぎた。ほかの子どもたちを指導する私の先生は別人のように厳しかったし、いつも合宿で再会していた仲良しは練習になると大人みたいでものすごい厳しい練習にものすごい技術で応えていた。あれはなんだったんだろう。

私はその後も車山が好きで大人になってからも泊まりにいったりしているから良い思い出だったのだとは思う。友達ともずっと文通を続けていた。まだ携帯電話の時代ではなかった。それにしてもプライドがなさすぎたのではないか?落ちこぼれという認識はきちんとしていたが差が歴然としすぎていたせいだろうか。友人を心配しつつ夏休みを満喫していた。元々好きなことしかしたくないし、豊かな緑のなかで遊んだり、川で魚をとったり、ログハウスみたいな建物の涼しいベンチで母親に寄りかかっていつもと違うかわいいグラスでジュースを飲みながら漫画を読むのなんて至福だった。母は私を少し気遣っているようだった。寄りかかった肩越しにそんな空気を感じた。ちょっと申し訳ない気持ちになった。才能がなくて。でも、それより、読み放題に大喜びして適当に読み始めた漫画がレディコミであることに気づいたときが一番焦った。自分にはない才能より自分に内在するセクシュアリティと触れるときの方が人は動かされることを知った、というのは後付けだけどあの焦りは新鮮に思い出せる。Oちゃん、元気かな。みんなまだ子供だった。

先日、新潮社の月刊読書情報誌『波』2024年8月号を近くの本屋さんで入手した。市川沙央による朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』の書評を読みながらネットを開いたらちょうど文藝春秋のポッドキャスト『本の話』で「【文學界presents文学への道・号外】第171回芥川賞・朝比奈秋さんの受賞記者会見をノーカット配信!」が流れてきたのできいてみた。

市川沙央と朝比奈秋という作家のことを知らない方にはぜひ検索してその作品を読むことをお勧めしたい。いちかわさおう、あさひなあき、と読む。そのまま読めばそうなのだがなんとなく書いてみたくなる名前だ。1979年生まれと1981年生まれ。第169回、第171回芥川賞受賞者。市川沙央は先天性ミオパチーの当事者でもあり朝比奈秋は消化器内科の医者でもある。

 私はたくさんの本を読むがすぐに忘れてしまう。しかしインパクトの程度は身体感覚で覚えている。市川沙央の芥川賞受賞作『ハンチバッグ』(文藝春秋)を読んだとき、読み終わり立ち上がるついでに別の本や書類をわきによけようとしてそれを何度も落とした。朝比奈秋の今回の受賞作はまだ読んでいない。第36回三島由紀夫賞受賞作『植物少女』(朝日新聞出版)を読んだときはぼんやりしてしばらく動けなかった。

 今回の朝比奈秋受賞作に対する市川沙央の書評「共有してくっつくこと」は微笑ましかった。市川沙央のSNSにはこんなことが書かれていた。ファンの言葉というのは良いものだ。

 朝比奈秋が会見で話していることもすごかった。この難しい世界を自分のこととして書くことができる想像力は誰にでももちうるものではない。それを「ただただ思いつく」のがすごい。「生きている間にしかできないことがある」「一生懸命生きることが命とはなにかということに近づくということ」ということばもシンプルでほんとにそうだなと思った。

 この本のテーマは、とまだまだ書きたいことはあるが準備をして自分の勉強をせねば。夜は疲れてしまっておいしいもののことしか考えられないから難しいことは朝のうちに。今日は雨が降らないといいな。毎日突然降るものとして準備はしているけど。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

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地震、技術、日々

昨晩の地震には驚いた。うとうとしていたらドドドという感じで揺れた。ああ地震か、と気づくまでに少し時間がかかった。以前は揺れてもないのに「揺れた?」と騒いでいたが被災地に出向くなどしてから地震に対する意識が変わったらしく特別なものではなくなってきた。

1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災、2011年3月11日14時46分、東日本大震災のほかにも大きな地震のニュースは多く聞いてきた。

阪神・淡路大震災のとき、私は東京都世田谷区、千歳烏山駅が最寄りのアパートに住んでいた。テレビはなかった。時間的にも新聞は配達された後だった。当時、友達がたくさんいた地域での大きな地震を知ったのは大学でだ。どこか呆然としながら実感のないまま数人の友達と電話ボックスや固定電話から連絡をとった。私が生きてきた間だけでも通信や記録の技術はどんどん進歩しているわけだが、大地震に対して印刷技術が使われたはじめたのは明治以降だと知った。

内閣府防災情報によると、明治24年(1891年)10月28日午前6時37分、岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方を襲った濃尾地震は「明治以降の近代日本が遭遇した初めての巨大地震であり、日本における地震防災の出発点となった災害であった」。そこに「濃尾地震を語るときに忘れてはいけないのは、当時新しく登場した写真や石版画であった」とある。現場の生の様子を伝える技術の使用は当然他の技術や研究にも影響を与えただろう。

たとえば、このとき「尾張紡績などの被害が大々的に報道されたこともあり、煉瓦造りは地震に弱いという考え方が広まった」。それにより耐震対策の研究もされたという。このような研究を推し進めるときにもそれが必要であるという証拠と切迫感が必要であり、印刷技術の登場はそれらに影響を与えたのではないだろか。一方、耐震対策についての研究成果が生かされた事実はいまだ検証されていないそうである。それでも濃尾地震の被害を受けて1894年には「木造耐震家屋要領」が作られ、これまで伝統構法によって建てられていた木造建築の耐震性能に対する客観的な評価が行われるようになるなど、災害のたびに様々な仕事に少なからぬ進歩があったとはいえそうだ。

建築関係でいえば建築に関する最初の法律は大正8年(1919年)4月に交付された「市街地建築物法」である。同時期に「都市計画法」も交付されている。この法律制定の4年後、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が起きた。そういえば昨日のNHK『虎に翼』は震災時の新聞報道をきっかけに起きた朝鮮人虐殺に触れた。マスメディアは様々な進歩が良い方向に生かされることだけを助けてくれるわけではないというのもまた現実だ。

今日も様々な形で様々な情報に触れる。大きな何かが起きてからではなく日々の何かから立ち上げられることも多いはずだ。今回の朝ドラはまさにその実践だろう。すごいことだ。今日もいい天気。暑いのは困った困った。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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トレーニング

起きた。バスケやってた。夢でじゃなくてテレビで。アメリカのパスが高くて早い。日本はスピード使ってファウル誘うしかないか。止まったら難しそう。形も作れないみたい。お、なんかすごいタトゥー入れている選手がいる。宇宙っぽく見えたけどなんだろう。どっちのチームを応援しているとかがないからいまいち燃えないけど久々に見ても色々感じるものだな。中学でバスケ部だったけど、フォーメーションばかり考えていた。ガードだったから。私は背が小さいからひたすら腕力とスピード勝負だったけどメンテナンスのために身体動かすようになってその仕組みを知るともっとトレーニングの仕方があったでしょう、と当時の大人をちょっと恨む。膝を痛めれば庇うために腰にもくる。小さな筋肉が身体全体に影響を与えることももっと知っておきたかった。しょっちゅう怪我してたし。先生も練習メニューは考えてくれていたけどあれだけきつい練習するならプロのコーチをいれるべきでしたよ。スポーツとは関係なく子供の身体は大切に考えないと。身体が基本なんだから。体育の時間だってもっと自分の身体を知るために使えばいいと思う。それぞれ違う身体なんだし、障害や病気を持つ可能性だって誰にでもあるのだからどこがどうなると何が生じるのか、ということをいろんな側面から実際に身体使いながら想像できるといいと思う。ほんの数時間でいろんなスポーツやらせて評価するなんて自分や他人の身体への想像力を減らすだけだと思う。自分の身体なのに使う気なくす可能性だってあるわけでそんなのも変でしょ。私は最近になってようやく肩甲骨を動かすというのはこういうことか、とわかったりしながら身体を整えている。腰にきやすいしみえる部分で体調管理したいなと思って一対一でトレーナーさんに鍛えてもらっている。今までは大きな筋肉で力任せに動きを真似していただけだったんだな。ヨガを始めた頃にもそう実感したはずなのにまだまだ未知の世界だった、自分の身体なのに。最初はどこもかしこも硬くて驚かれた。ヨガで随分改善したと思ったのに足首も肩甲骨も自分で動かせている感覚がないことを知った。これらの練習はものすごく地味なんだけど大きな筋肉を使うトレーニングよりずっと疲れることにびっくり。仕組みがわかるときれいな動きが楽な動きというのが実感できるのは嬉しい。無理をなくすために正しい無理を続けていくのは精神分析と同じ、と思ってがんばっている。精神分析もきついのですよ。楽になるけど。

今日も猛暑日か。部屋は涼しい。体操とスケボーのダイジェストを見た。やっぱりスケボーが面白い。すごいな、ほんと。かっこよい。なにかしらから元気をもらって今日もがんばりましょう。

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精神分析

ドラマ、グループ

週末に『地面師たち』を一気に見た。面白かった。話もすごかったが俳優陣が素晴らしかった。豊川悦司は私がよくドラマを見ていた頃に主演作が一番多かったかも?「愛していると言ってくれ」とか?主演でなくても色気ある存在感をずーっと維持。今回もすごかった。怖かった。しかしみるのに疲れた。なんか今もぐったりしている。オリンピックのダイジェストを見てしまって何も進まないというのもある。柔道もスケボーも何が起きてるかわからないくらいの技がすごいな。新宿中央公園でもスケボーを練習している人たちがいるがこりゃものすごいことなんだろうなあ。スローで見ないとなにがなんだかでスローで見るとなんでこんなことができてしまうんだ、とあんぐりする。しかし、ここまで辛かった、頑張ってよかった、と言っている選手たちを見ると想像もつかないような気持ちでトレーニングを積んできたのだろうと思う。あー、本当に想像もつかない。何するにしても自分を極めるというのは大変なことだ。オリンピック自体に興味はないけどスポーツは好き。つい見てしまうな。

昨日は初回面接を検討するグループだった。本当に時代が変わったなと思う。病気自体も医療も病気を抱えた人が生活する環境も。患者さんやその家族がどの時代をどんな地域でどんなふうに生きてきたかに想像力を働かせるにはせめて本から学ぶこと。なによりも大切なのは患者のニーズだがそれは本人にも明らかではない。だからこそこちらの専門性が求められるのだということ。自分の知らない世界とどう出会っていくかについて常に考え続けること。SNSのような反射的な世界や表面的な言葉の世界に慣れることなく目の前の人に自分の狭い世界と限られた体験でどう出会っていけるのかを熟考しそういう体験をひたすら積み重ねること。それがどういうものか言葉になるのはずっと先。とにかく学んでほしい。考えてほしい。今がどんな社会かに常に目配りしてほしい。そういうことを思わされたし伝えたし話し合った。

暑い。クーラーをつけると寒い。体調管理が難しいけど今日もがんばりましょう。

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サンファ、強迫、NHK俳句

フジロック、サンファ(Sampha)の配信があったのか。Reading Freudの時間だったからどっちにしてもみられなかったというかどうやってみたらいいかわからないけどみたかったな。素敵なステージだったんだろうな。サンファは空がよく似合う。昨年、『LAHAI』の発売に伴って柳樂光隆さんがサンファに行ったインタビューと音源が素晴らしかった。何度もきいた。今もかけている。今日は生音を聞いたばかりのマリア・シュナイダーDAYになるはずだったけどそれはまたあとでじっくり。サンファの音楽にはずっと浸っていたくなる反復がある。インタビューでもこう話している。

「サンファ:そうだね。僕は反復的なものが好きだし、コンスタントにある要素を基盤に、作り上げていく過程が好きなんだ。コドウォ・エシュンの『More Brilliant Than The Sun』という本で彼は、「音楽によっては、それを遡れば遡れるほど、未来的に聴こえてくるものがある」と述べている。例えば、アフリカ音楽は直線的(linear)な方向に進むのではなく、建築物のように、上に伸びていくんだ。複雑なリズムが土台としてあって、人々はそれを変えていくのではなく、その上に新たな要素を積み上げていく。そういった、反復の上に積み上げて、シンコペーションを生み出していくという考え方が好きなんだ。アフリカの料理みたいなものだよ。すべての材料を一つの鍋に入れて、それだけでちゃんとした料理が出来上がる。」

「それに、(反復という)何か、自分がしがみついていられるものがあると、僕としては安心できるんだ。僕はアルバムの中で「時間」について何度も触れているけれど、そういった一定のリズムは、「常に時が刻々と刻まれている」という状態の音響的な表現なのかもしれないね。でも、さっきも話したけど、これらの多くは、そこまで考え抜かれて作られたものではないんだ。僕が音楽を作ると、こういうものに自然と傾倒していくんだよね。」

ーRollingStone サンファが語る新たな傑作の背景 抽象的なサウンドに込められた「過去と未来のサイクル」by柳樂光隆

柔らかな自然体。コロナ禍に作られたこのアルバムには同時期に娘が生まれたことで伝承も意識されている。

「僕は、娘からたくさんのことを学んでいるし、僕も娘に教えてあげられることはたくさんある。そして、僕は母親からもたくさんのことを教わった。すべてはサイクルであり、そのサイクルは続いていく。だから、そういう口頭伝承と僕の作品には確かに繋がりがあると思う。」

とも話している。ゆったりと優しい音で始まる日曜日もいいですね。

昨日は私主催のフロイト読書会、Reading Freudだった。こちらでも鼠男、ラットマンと呼ばれた強迫神経症患者を素材とした論文を読んでいたのだった。こちらは音読、精読の会なのでこの論文に詰まっている論点を実感できた。議論も大変興味深く、これからフロイトが言うようになる事柄の源はここでもあるのか、と気付かされた。精読しているとそういうジャンプ力というか推論の力がつくのかもしれない。メタサイコロジー論への繋がりがだいぶ見えてきたので色々書き留めておかねば。この論文の後半、理論編の最後のほうにこの患者の強迫行動が止まる場面が描写されている。語ること以前に注意を向けることという課題があることがわかる。私の興味関心はそのあたりにあり、今回再読するなかでASDにおける強迫の特徴について考えさせられた。

NHK俳句は高野ムツオ先生の会。そして山口昭男先生!俳句結社「秋草」主宰。句友が「秋草」に所属している関係で山口先生に句集を送っていただいたことがある。とても好きな俳人。お姿をはじめて拝見した。アッパッパって夏の季語なのか。山口先生の句か。いいねえ。山口先生の句は誰にでもスッと入る穏やかさとユーモアがあるからおすすめです。山口昭男先生の先生は波多野爽波。『波多野爽波の百句』(ふらんす堂)も書かれている。これもとてもいい本です。私も今日はアッパッパ系の服で仕事行こう。どこかでお祭りやってないかな。寄りたいな。どうぞ良い一日を。

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精神分析

フロイトのしたこととか。

古いエアコンの効き目がよく温度を一度上げて寝た。少し暑いけど暑くて起きるほどではない。でも今朝はさすがに冷たい麦茶を飲んだ。身体が飲んだ方がいいよといっている感じがした。あたたかいハーブティも入れておいた。部屋が冷えたら冷めたのを飲もう。お菓子にはそっちの方が合う、と小さな小さなお花型のずんだサブレを食べてしまいながら思う。

先日、フロイトの鼠男、ラットマンの症例についての論文を読み、強迫神経症の精神分析的理解についていくつか質問が出たのでお答えした。この論文は今なら転移ー逆転移の文脈で指摘されるであろうフロイトという治療者の態度に対する批判が何パターンかある。ひとつはフロイトの誘導的、あるいは誘惑的な態度について。これもほんの一文に対してだったりするのだが精神分析における一言一言が出来事の全体をなしていくプロセスである証拠だろう。昨日、読書会での議論を思い出しながら「よく考えればフロイトはそこまでひどいことしてないよなあ」と思った。そして、フロイトのことも精神分析のことも全く知らない人(つまり大体の人)にこの部分の話を「医者に急にそんなこと言われて」と話したとして、と頭の中で会話してみた。「もっとひどい医者はたくさんいるよ、私なんてさ」というような会話が展開された。が、しかし、フロイトの患者はフロイトを医者であり、精神分析の創始者であると知っていて、今私たち日本の精神分析家に精神分析を受けたいと申し込んでくる人たちよりは精神分析を「そういうものだ」と受け入れやすい人たちだっただろう。そのためラットマンのように迎合的に振る舞う可能性は高いと思う。フロイトはそのあたりには慣れっこでそんな理想化には振り回されないが「何かがおかしい」と思わせるのがここでのフロイトの態度であり、それが精神分析だからであり、それが精神分析である理由なのだろう。ラットマンと呼ばれたランツァーという29歳の男性が最初に見せた迎合的な態度は単に相手がフロイトだからではない。フロイトは抵抗という概念を用いる。なぜなら彼が神経症の病因と考えたのはタブーとしての性、しかも個人の生活における極めて具体的な性的振る舞いだからである。そこにここまで注意を向ける臨床技法はほかにはない。フロイトが神経症の病因を性的なものに求め、愛と憎しみの両価性を強迫神経症の特徴として顕にし、自由連想という技法でそこで生じている欲動の動きの特徴を推論し、それに基づく介入によって症状を消失させた事例としてこの論文は発表されたが、実に多くの論点を含んでおり、フロイトの態度としてではなくそれを受け取る私たちの「翻訳」態度も問題にされるべきだろう。だから先日の議論では私はこの論文でも『夢解釈』の技法が基本にあることを強調した。この前読んだオグデンの論考も無意識と時間という二つの概念からこの翻訳、つまり解釈の問題を考えるときの基盤の見直しとして読んだ。精神分析において治療者も常に当事者になっていること、性を問題にする限りそうなるということ、だから治療者が分析を受けていることは必須であること、そういうことではないだろうか。

しかし眠い。こう書きながら頭の中で全く別の景色や出来事が展開している。半分夢の中みたいな感じだ。10分くらい寝てから出ようかな。やっぱり暑さのせいだろうか。どうぞみなさんもお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

韻とかラットマンとか。

憧れのふとん乾燥機を購入した。Amazonから配達完了メールが写真つきで送られてきた。あれ?そこはうちではない!慌てて連絡。ことなきを得た。早朝、さてさてと取扱説明書を見たら見えない。老眼鏡をかけていても起きたては一番見えないからなと放置。そうか、とネット検索して使い方を確認。理解した。それからさっきの説明書にもう一度目をやる。さっきよりは見える。すでに情報が頭に入ってるから推測で読めてしまうというのもあるのだろう。それにしてもこの説明書、字が小さすぎる。さっきはこんなに目が悪くなってしまったのかと驚いたけど手元の『フロイト症例論集2』(岩崎学術出版社,2017)の文字と比べても半分くらいしかない。ほんとフォントはいくつなの?「ほんと」は単に韻を踏みたかっただけ。これやりだすと止まらない。私は身近になんでもラップにできる名人がいてほんと韻を踏むのがうまい。私みたいに韻さえ踏んでればいいという感じではなくきちんと意味を持たせてくるからすごいなと思う。きっと何するときもリズムで覚えてしまうのでしょうね。楽器も弾けるし。私はセンスも記憶力もないからな。語彙が増えない!それなんだっけ、とすぐになってしまう。韻を踏みたくなる性質とは異なる性質を身に付けるべきだった。

昨晩は私主催じゃないフロイト読書会でアドバイザー役。「鼠男」「ラットマン」と呼ばれる症例の論文「強迫神経症の一症例についての覚書(1909)を読み終わったのでその振り返り回。SE10(151-240),岩波全集10(177-271),岩崎『フロイト症例論集2』(2−98)。「病歴の抜粋」を混乱しつつ読んで、「理論編」はさっぱり。フロイトが後半を「理論編」と名付けたのは1924年。その前の年1923年に追加された脚注には

「ここに報告した分析治療によって患者は精神的健康を回復した。彼は、多くの他の前途有望な青年たちと同じように、世界大戦において命を落とした。」

とある。前にも書いたけど非公式ながら最初の国際的なコングレスがオーストリアのザルツブルグ(Salzburg, Austria)で開かれたのが1908年。フロイトはユングに臨床的な発表をと依頼しフロイトが選んだのがこの若きロシア人、ランツァーの症例だった。この発表は大変盛り上がり4、5時間に及んだらしいが記録は残っていないという。フロイトが脚注を書いたのは1923年だがランツァーが亡くなったのは1914年11月25日。第一次世界大戦の初期だった。戦争でフロイトはというか、フロイト派はshell-shock,戦争神経症と出会い、そこで精神分析的な方法を取り入れることになる。

いかん、別のことをはじめてしまった。もう時間がない。今日もがんばろう。

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精神分析

主にオグデン論文。

今朝は「葦」のパウンドケーキ、いちじく。いちじく大好きだけど高くて。この前もスーパーのいちじくを眺めながら立ち尽くしてしまった。見ていたら安くなるというわけでもないのに。今日は普通の紅茶を淹れた。色々やってる間に冷めてちょうどよくなるかなと思ったけどここに座ってしまったから熱いままいただくことになりそう。部屋の温度がまだ高めだから汗かきそう。でもこの時期は外の気温が高すぎてお散歩にも出られないし汗かく時間も必要か。

今朝は無料の仕事に関連する夢を見た。精神分析をしているとお金というのは本当に様々な意味を持つ。今読んでいるねずみ男の症例もそうだし、交換をどう考えるかということでもある。何かを考えるときにその人なりの基準があるわけで精神分析の場合は当然精神分析理論が前提になる。そしてその理論を引き継ぎつつ更新していくために多くの精神分析家が日夜臨床と検証に明け暮れている。先日サンフランシスコで開業しているオグデンの新しい論文を読んだがオグデンは「無意識なんてものはない」と強調していた。並行して読んでいるラカンも無意識の概念を更新しようとしているけど彼らのしていることの大きさにやっぱりすごいと思う。私は英語もフランス語もその書き方について何かを言えるほどわかってないけどオグデンの語り口の基本的な穏やかさはわかりやすい英語のせいかもしれない。

To say this is not to suggest

that we not use the concept of the unconscious,

it is to say that

when we use the idea,

we should be aware

that it is just an idea

– not a place,

not a second mind.

こうやって区切ってみるとさらにわかりやすい。オグデンはこの論文で無意識を実体としてみることに警鐘をならす。その概念を使うなという意味ではなく、それは単なるアイデアであり、場所でも二つ目の心でもないとオグデンはいう。要するに、と私が簡単にまとめるのはよくないが、オグデンはフロイトが「無意識」論文の冒頭で書いた部分を読み込みながらフロイトがその存在を「明白」と書いたことに反論している。この強調の仕方は主に誰に向けてなされているものなのだろう、と考えたりもするがそれはまた別の話かもしれない。フロイトの「無意識」論文自体、「欲動と欲動の運命」「抑圧」というその直前の二つのメタサイコロジー論文を踏まえる必要があるがオグデンはそれは前提として書いているのでそこには触れない。なのでオグデンを読むまえにフロイトを読む必要があるのはいうまでもない。オグデンの書き方の背景にどれだけの実践と古典との対話が積み重ねられているかを考えるとその途方もなさに驚く。私はオグデンという精神分析家が精神分析実践において患者の実存的なニードを認識する仕方を感じたいだけなので興味がある人はそれぞれ読んでオグデンのnot to convince, but to invite imaginative response.に応えてほしい。無意識について再考したあと、オグデンはトラウマに対する精神分析実践から精神分析における時間の経験を検討する。この二つの主題のつながりの部分をオグデンは書いていないのでそこにも想像力が必要だが最近の著書で書かれた認識論と存在論に関する議論を踏まえてフロイト、フェレンツィに立ち返りつつ書かれているように私は思った。オグデンは精神分析セッションにおける時間経験をこう書く。

The experience of time in the analytic session is at once synchronic (from the Greek for “together” and “time”) and diachronic (from the Greek for “through” and “time”). 

これをもっとも説明しやすいのがトラウマの事例ということだろう。この議論も表面的に読んでしまわないようにしたい部分である。

なかなかしっかり本を読めないが少しずつ少しずつ。今日も良い1日でありますように。

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筋肉痛、和菓子

筋肉痛。動きがおぼつかない。運動した翌日、筋肉痛だなと思った数時間後に「きた!」と本格的に筋肉痛になるのを意識した。自分で「へー」と思った。昔は起きたら筋肉痛という感じだったけど今は時差(?)があるから前日の昼に運動したとして痛みがくるのは24時間後だったりする。それで筋肉痛ってこういうプロセスを辿るのかと気づいたわけだけどこれも個人差あるでしょうね。

今朝は山梨県甲州市塩山のお土産、三省堂(さんしょうどう)さんの「一葉〜」というお菓子。小福だっけな。来福だっけな。福が入っていた気がする。すぐそこのキッチンに戻ればわかるのだけど動きたくない。美味しいものはなんでも福。これ、前にも書ってきてもらったことがある。半分に切ると緑の梅が出てきてびっくりする、と思ったらこれ桃なんだって。若い桃ってそういえばあまり意識したことない。小さい緑はみんな梅だと思ってるかもしれない。いや、柿とかみかんはわかるか。わかるか?うーん。それはともかく和菓子を半分に切ると断面がかわいくて楽しい。甘さ強めだけど小さいし濃い緑茶と合います。冷たい麦茶も合います。今朝は両方用意しました。かわいい和菓子は「一葉懐古」というお名前でした。キッチンへ行ったついでに確認してきた。「福」入ってなかった。まあ美味しかったから幸福。こういう記憶の適当さってなんなのかしらね。「一葉」は樋口一葉だから忘れないのだけど。塩山中萩原地区は樋口一葉のご両親の出身地とのこと。ゆかりの地の和菓子。一葉自身は東京の千代田区に生まれ、文京区に10年、その後、台東区(当時は下谷区)、でまた本郷かな。ご両親の地元には行ったことがなかったみたい。本郷の一葉記念館ではその短い人生を作品と共に丁寧に追う展示が見られます。一葉ゆかりの地を散歩するのも自ずと文豪ゆかりの地を辿ることにもなるからおすすめですわ。谷根千文人マップというのもあります。

さて、さてさて、この時間にやっておくべきことはなんだったか。昨晩遅くに突然ポストカードの箱というか入れ物を開けてしまったら色々懐かしくて収拾がつかなくなってしまった。主に20代の頃に集めていた。当時はたくさんお手紙も書いていたけど。これ少しずつ使う機会作ろう。すごくかわいいのがたくさん。多いのはバースデーカード。昔はどこ行ってもカード買ってたな。暑中見舞いも書きましょうか。そうしましょう。

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オグデンの「無意識」更新論文を読んでいた。

満月に見えるけど満月の一日後の月がまだうっすら出ている。ピッカピカの光は水色の空にすーっと吸い込まれてしまったみたい。昨晩は雷に打たれ、いや、打たれていない、だからここにいる、ピカッ、ドーンの距離がすごく近い中、一気に降り出してきた雨にすっかり濡れた。遅い夕食をしてやるべきことやってこの前見つけたオグデンの論文を読み始めたらすっかり遅くなってしまった。なのに朝はいつも通り早朝に起きられてしまう。あと1時間半くらい遅くてもいいのだけど起きてしまったので書いておこう。麦茶冷たい。いつからか麦茶を作っておく夏の習慣が始まっていた。でも今年はあまり減らない。部屋が冷えてくると温かいのを飲めるではないか、と温かいのにしてしまう。今は減らないから飲んでいるという感じ。おいしいけど。

さて、今回のオグデンは攻めている。ように見えてこれまでの集大成的文章のように思う。ちょっと前にここでも書いたOgden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time. The International Journal of Psychoanalysis 105:279-291。このジャーナルに論文載せるのは夢だな。がんばらないと。

さてオグデン。なかなか始まらない劇場。オグデンは題名通り、まずは無意識の概念を一見今どき、つまり意識側から書き直す。でも読んでいるとその方法はウィニコットを読むオグデンの仕方と変わらない。今回はフロイトの「無意識」論文からA gain in meaning is a perfectly justifiable ground for going beyond the limits of direct experience [to justify acceptance of the existence of the unconscious mind]. When, in addition, it turns out that the assumption of there being an unconscious enables us to construct a successful procedure by which we can exert an effective influence upon the course of conscious processes [for example, psychoanalytic treatment], this success will have given us an incontrovertible proof of the existence of what we have assumed. を引用し、特に“incontrovertible”を導きの糸にしている。この部分は全体を示してもいるからこういう引用をズバッと決められてからだとどこ取り出しても同じような気がするがこの単語なんだと思った。“incontrovertible”。

オグデンはウィニコットのようにThis paper is meant not to convince, but to invite imaginative response.と読者の想像力に期待する。今回も難易度高い。オグデンも常に古典に戻る人なのでフロイトを読んでいるのは前提となる。ウィニコットはフロイトを読まなかった、という逸話があるが正確には読まないことを指摘されたので読んだ、でも死の欲動には同意しかねる、だったと思うが正確ではないかもしれない。ウィニコットの書き方についてはよく取り上げられるけど読まれたいのか読まれたくないのか読ませる気があるのかないのかわからない書き方はウィニコット自身の読み方と関係があると思うけど、オグデンは読み方と書き方の両方をユニットしてものすごく意識して仕事している人だと思う。あときき方。これが一番かな。

今回のオグデンのthere is no such はthere is no such entity as the unconscious. カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」を思い起こす。オグデンはフロイトはincontrovertibleと書いたがこの部分って言い換えれば the claim that the unconscious exists is based on the success that the assumption has had in helping us understand the meanings of our experience that lie beyond conscious awareness. ってことでしょう、と書いている。とにかくそれはメアファーであり精神分析家たちが作り上げた物語でありThere is no “inner world” (inside what?), nor are there object relationships inside of it, nor are there alpha-elements, beta-elements, alpha-function; there is no id, ego, or superego, no life instinct and death instinct, and so on. だと。夢だってそうだよ、と。今回のオグデンはシンプルに突き進む。オグデンに言わせれば無意識とは not a place or a thing, it is a quality of one’s thinking, feeling, and experiencing. である。

と書いているとキリがないがこのあと臨床素材もはいり、精神分析的時間の検討に進む、という論文。フロイト回帰というのはフロイトの方法に戻ることではなく更新するための回帰だと思うのでオグデンは忠実だなと思う。見習いたい。

すっかり光が強くなってる。まだ空は薄めだけど。汗をかく音を拡大したら蝉の声みたいな感じじゃないかと思うんだよね。ジトーって感じで。オグデンはWe listen to the words, not through them. と書いている。それはとても大事ですよね。どうぞ良い一日を。