カテゴリー
精神分析

鳩、居場所

雨の音。空が白い。お湯が沸いてスイッチが落ちた音がした。鳥もないている。うちのベランダで雨宿りしてくれてもいいよ、と思うけど前に鳩がいつきそうになったときは追い払ったんだった。ごめんね。そういえばオフィスの小さなベランダにも鳩が棲みつきそうになったことがあった。オフィスは都会なので窓の防音能力が高いのだけど鳩の声は結構すごくて面接中ポッポポッポずっと鳴かれるときついな、と思って追い払いはしなかったんだけどいつかないでくれた。でもそれを経験してから手すりに鳩が歩いているのを見かけるだけでもびくんとしちゃう。そんなびびることではないのにね。びくんとしてから「鳩だぞ。毎日会ってるではないか。鳩だって手すり歩いたりベランダに降りたりするだろうよ」と思う。外で会う鳩は観察したり写真撮らせてもらったりしてるのだけどねえ。昨日も日陰に並んでおさまっている鳩の写真をSNSにあげたしね。そのすぐそばでは強い日差しで羽を乾かすようにお座りしている鳩がいっぱいいたのだけどね。鳩のあの着崩すかのような座り方、独特だと思うのだけど着崩せるくらいの羽根の分量がある鳥はみんなするのかな。普段隠れちゃってるこの部分も乾かしましょうかね、みたいな感じで羽根広げ気味で座るの。日差しが強い日はいつも観察してしまう。おしゃれなのか?と思って。私も着崩し系スタイル好き。ダボっとしたシャツの余った部分とか握ったり巻いたりしてたい。それは着崩しというのかわからないけど。

今朝は「世にもおいしいチョコブラウニー」シリーズから「イチゴミルクブラウニー」にしようか、あとなんだっけな、「チーズケーキ」かな、黄色いやつ。迷いますね。新しいのが出るたびに買ったりもらったり。最初の頃、なにこれ美味しい!と思ったほどの感動はないのだけどチロルチョコと同じで何か新しいのが出れば普通に買ってしまう系のお菓子です。なんとか「系」という言葉が苦手だけど今日はいっぱい使ってるな。「系使う系の人」とかいう言い方も出てきてるかな。

昨日は「子供の居場所」というキーワードであれこれ考えていた。これもすでに使い古されている言葉だけど東日本大震災後、子供の居場所づくりに関わったり、精神分析家候補生として世話されたり教育されたりするという意味で「子供」の立場であったりしたからその居場所の提供の仕方について考えていた。学会誌の紙面の割き方とかもそう。ただ入れ物を作ればいいものではないし、一度作るとそれをなくすのは結構大変なのでこれからの子供や子供的立場の人たちのニードも考えてそれは提供されるべきだと思う。自分が労力をかけるかどうかということも相手にその労力をかけさせるかどうかという点も両方大事。何かを継承することについて考えているんだよ。きっとこれまでもいろんな方法でされてきたと思うけど、輪島の状況とかみても今は文化を残す意味から伝えていかないとなんだろうなと思う。でもそうやってお勉強みたいに伝えていくものではないよね、文化って、本来。芸術と同じだと思うの。

しまった、寝てしまった。とにもかくにもがんばりましょう。

カテゴリー
精神分析

六月一日朝

大きな車が通ると家が少し揺れる。本棚のガラスが少し音を立てるから揺れたと思うだけで体感があるわけではないのだけど。少し前、鯉のぼりの時期に東京タワーのビール祭りのようなイベントに行った。東京タワーにいくのなんて何年ぶり。大江戸線で行ったんだけど大江戸線の新宿駅はよくわからないなあ。また都庁に戻ってしまった。何をいってるかわからないと思うけど私がよくわかっていないから説明できない。でもまあ急いでいない限りはなんとかなる程度の難しさではある。東京タワーってフードコートとかお土産屋さんとかちょっとしたギャラリーとか結構充実してるのね。そりゃそうか。スカイツリーは千葉の保育園に仕事に行くときに押上乗り換えで時間あるときが多いからちょい寄り道みたいな感じで行くことがあるけど規模は違えど東京のシンボルだものね、どちらも。そりゃ充実してるか。東京タワーのローカルさは群馬っ子の私が上野駅でレトロを感じたのと同じ雰囲気があってとてもいいね。私が小さい頃は上越新幹線は東京駅まで通ってなくて上野止まりだったから東京といえば上野駅のあのホームだった。上野駅の中も可愛いものいっぱいあるよね、特にパンダグッズ。東京タワーのお土産屋さんにもすごくかわいいお菓子がたくさんあって母の日のお菓子も買ったんだ、そういえば。変なのもいっぱいあったしまた行きたいけどそのためだけに行くには不便な場所だよねえ。帰りは別の駅までお散歩してそれはそれで発見も多かったけど散歩コースって感じともちょっと違う雰囲気の街だしねえ。でも書いていると色々思い出してまた行きたくなる。ビールのイベントの逆側の広場ではハイボールと唐揚げみたいなイベントしてた。大人向けにしたいのかな。そっち側はものすっごくたくさんの鯉のぼりがハタハタしてたし。あとね、東京タワーの中でなんかアクションゲームとかモーターなんとかのVRとかも体験できる場所があってね、ということを最初に書こうと思ったのにこんな余計なことをいっぱい書いてしまった。最初に大きな車でうちが揺れるような体感のことを書いたときにそれを連想したの。さっきからストレッチポールに足引っ掛けたり乗っかったり全然落ち着いて書いてないのだけどなんか身体がだるいし痒い。ダニかなあ。怖い。対策してるのになあ。ちっちゃいポツができて痒くてでもひっこんで、でまたできて、みたいなね。皮膚科に行こう。前は地元にいい皮膚科があったのだけど変わってしまったからなあ。オフィスに近いところで探そうかな。耳鼻科と眼科はいいところを教えてもらったのだけど皮膚科は「あそこなくなっちゃったよねえ」と残念がっただけでまだ開拓できておらず。眼科は今のところで十分いいのだけどね。健診の案内も来たから早めに行かないとな。これはかかりつけの内科に行ったついでにサクッとできる。でもかかりつけの先生も高齢だからなあ。また友達情報を頼って探すことになるのね、きっと。今日も原稿。締切過ぎてしまったけどお願いして1日伸ばしてもらった。とても優しいお返事がきてすごくありがたかった。ありがたいのでがんばらねば。ああ。私のキャパ越えかもしれないがな。ハハハ。6月はたくさんの人に会う予定。楽しいといいな。みんなも楽しいといいね。どうぞ良い一日をお過ごしください。

カテゴリー
精神分析

文化、シームレス、画一性?

雨。熊本では地震。この地震自体も心配だけど揺り戻される記憶も心配。外ではバイクの音。新聞かな。以前は夕刊の準備をする新聞屋さんの姿もたくさんみたけど今は早朝バイクの音を聞くくらい。以前みたいに一軒一軒で止まる音とは違うから新聞配達ではないのかもしれないけどこの時間だからそうかな。雨の中大変だけどこれもずっと続いている文化なんだよね。輪島のこととか考えてると文化を継承するって日常を大切にするってことで日常を大切にするって生活を大切にするってことで、じゃあその生活をどう無事に成り立たせるかといったら、とか色々考えてしまう。

今日締切のものが終わってないけどどうしましょう。やるしかないけど隙間時間にやるには課題が大きい。少しまとまった時間があれば一気にできるんだけど夜は疲れ切っていて無理だし、今か。この2時間でやればいいのか。ああ、キウイまだあったかなあ。アンドロワ・パレの焼き菓子があとひとつある。「パウンド・オレンジ」。この語順がフランス。コーヒーを淹れよう。「アンドロワ・パレ」って「御殿場」に合わせた造語なんだって。「場・御殿」ってことね、きっと。フランス語って話す人によって印象が違うけどそれは日本語も同じね。しっかし語学堪能な人って多いよねえ。ほとんどシームレスに切り替えるもんねえ。コーシャス・クレイかよ。こうやってサボっているから終わらないのだ。ああ。

仕事って本当に自分のためにやるものだから評価とかどうでもいいと思ってるのだけど反応は大事。でも評価されないと収入増は望めないのでそのうち評価ももう少し目指さないといけない。今更だけどお金をもっと貯めないと国際学会に行けない。今回すごくお金使ったもの。辛い。自分のためというのがシームレスに相手のために繋がっている必要が私の仕事にはある。私にもあるのか、シームレス領域。嬉しい。だからね、描写するときに治療者が自分の反応ばかりいっているのは本来ありあえないことなんだけど指導しているとそこを指摘しないといけないことがとても多いし、私も若い頃そうだったから気持ちはわかるんだけど指摘された方はナルシシズムが傷つくから普通に「相手の反応のこと忘れてた!」となれないものなんだよね。オグデンは転移と逆転移は相互のものではなくてユニットをなしているという当たり前のことを書いているけどこの理解が本当に難しいのだと思う。片方を見ると片方が消える世界なんてSNSがまさにそうだよね。自分が被害的になるとすぐ攻撃。たやすく鏡になる。がしかし「強者」たちは他人の言葉を上手に引用するので「みんな言ってる」感で連帯するのも上手。難しいことだ。がしかし(連投)私の仕事はコミュニケーションなので他者の言葉は引用として使うべきでなく他者は部分ではなく全体であり部分の総体が全体であるというのもまたほんと、という視野をわすれてはならないので都合のいいとこだけ他者利用する話し方はすぐに行き詰まってしまう。こちらが指摘するまでもなく行き詰まりは起こる。まあ昨日私も「技術と革新」さんというアカウント(改めて書くと面白いアカウント名)の

“「多様性を認めろ」というより「画一性に支配させるな」という気持ちのほうが近い だって画一性に支配させるべきではなくない?”

という投稿をRTしたけどほんとそれって思ったからついしちゃた。自分の言葉で語ると色々めんどくさいからつい。だけどSNSって自分の言いたいことを支持してもらう場になっているのがまずいわけだから気をつけないとだね。おうちで済ませないのですね、という感じ。でもほんと「多様性」って言葉も使いづらくなったよね。これだけ断片的な言葉に脆弱な「強者」の独りよがり言語が蔓延ると大変なことになると思う。なんかいちいち「検閲かよ」と思うことも増えてるし嫌になる。「強者」がかけてくる圧力って大体「俺の意見となぜ違うのだ」というものだし「強者」だけあって自分が見下されたとなると上手に相手を見下し返しして、そこに似た人たちが短時間で乗っかる設定がSNSでしょう。そうやって圧かけて「みんな同じ」になってるだけだから画一性とも言えないと思うけどそういうのを画一性っていうのかもね。はあ、大変。それよりこのお天気、ひどくならないでほしいし雨だけでなく、どの地域でも、特に能登や熊本や東北や阪神や震災の記憶が濃いところに被害が重なることがありませんように。

カテゴリー
精神分析

言葉、身体、音

シャワー。今は朝シャンって言わないのか。私自身、言わないが。言わないけど思い浮かべる自分世代の言葉ってある。今は朝シャン以外思いつかないが。「オイ!鬼太郎!」が思い浮かんだがそれは世代の言葉とは違う。この前若者が言っている言葉がわからなくてきいてみたらごく普通の省略だったんだけどそこ略す必要全くないじゃないかと思った。でもそのうちそっちがメインで使われる言葉になるかもしれないからね。なんて言葉だったか私はもう忘れちまってるけどね。

今日は素早く移動しなくては。嫌だなあ。もう「素早く」とか無理。今、iphoneが勝手に記録してる歩数を見てみた。結構歩いてるなあと思ったら「今年の平均歩数は昨年よりも少ないです」だって。一万歩超えてるのにね。毎日一万歩は歩いてるんだね。来月からは移動が減るからぐっと減るだろう。でも柔軟性と筋力高めるために基礎の基礎からみてメニュー組んでもらえる先生についたから身体メンテナンスはしていけるかな。身体硬すぎて笑われてるけどきついながら楽しい。こういうトレーニングの仕方もあるんだなあ、と新鮮。色々やってみるもんです。

お祭りに行きたい。能登にはたくさん有名なお祭りがあるんだよね。瀬尾夏美さんが東日本大震災の時と違って被災地がとても静かだと言っていたことが頭から離れない。東日本大震災のあと、南三陸にNPOで入ったときだったか、みんなで、私は小さい子を抱っこして、踊った記憶があるけどあれはお祭りではなかった。なんだったんだろう。子供たちが喧嘩で「死ね」といいあっているのが聞こえたときのなんともいえない空気も思い出す。「動かないんだけど」とボランティアさんが言いにきた。一緒に行ってみた。どこ?と思ったらすぐ足元に小さく小さくうずくまっている子がいた。びっくりした。ボランティアさんがどんな声かけをしても動かないという。大地に張り付いたみたいに動かないその子としばらく一緒にいた。「どうしようか」というとなんとなく動く気配があった。なんだか胸が締め付けられるような感じで小さな声で「抱っこ?」と聞くとしがみついてきた。それからずっと抱っこしていた。お祭りみたいな音楽がなってみんな踊り出して私たちも踊った。その子は腕の中でとても楽しそうに笑っていていつまででも抱っこしてるから大丈夫だよという気持ちになった。本当は全然大丈夫じゃないし、私はいつまでも抱っこできないし、私が抱っこしつづけたところで何も変わらない。それでも、という体験だった。あれから13年。あの子はどうしているだろう。能登にも音が、人が訪れますように。何ができるわけじゃないと思っていてもやらざるをえない何かがいけばあるというのが現状だろう。瀬尾夏美さんのSNSもぜひ追ってみてほしい。能登の写真や様子を知ることができる。そして今、東京のポレポレ東中野では『生きて、生きて、生きろ。』を上映している。今日 5/30(木)は出演者で精神科認定看護師の米倉一磨さんのトークイベントがあるという。相馬にボランティアに行ったときにお世話になった。彼らの実践は『災害看護と心のケア ――福島「なごみ」の挑戦』(岩波書店)という本になっている。彼の明るいリーダーシップにとても助けられたし皆さんに本当にお世話になった。私は一体何をしにいったのか、と思うけど仮設住宅の方にもたくさん笑わせてもらった。内容だけ取り出したら全然笑い話ではないけれど私たちはみんなよく笑った。北国の仮設住宅ならではの苦労さえ面白く話してくれた。もちろんケアマネさんしか会うことができない方もいらした。生存を確認するのに私たちは音を聞く。心臓に耳を押し当てたり、寝息に耳をすましたり、聞き慣れた声での返事を待ちつづけたりする。音が聞こえない街に普通の足音や普通の話し声が増えていきますように。

カテゴリー
精神分析

レモンケーキ、The Lemon Twigs、クリーニング屋さん

二度寝した。何度寝でもできるがコーヒー。今日も御殿場のケーキ屋さん「アンドロワ・パレ」のレモンケーキ。昔からあるうっすらホワイトチョコがかかったレモン型のレモンケーキってどこのでしたかしら。はじめて食べたとき、感動した。見た目もとってもかわいいしとっても美味しかった。レモンケーキっの特別感ってあそこからきてるのだと思う。最近だと瀬戸田レモンケーキが有名?しまなみ海道、瀬戸田町生口島、とってもいいところ。しまなみ海道の島々は水害の影響がまだ残るなか、地元の人が「ぜひいらして」と言ってくださったので甘えて行った。復旧の目処が経っているのかどうかもわからない立ち入り禁止場所も多くあったし胸を締めつけられるような場面にも立ち会った。でも景色の素晴らしさ、昔から残る工場内のお菓子屋さん、お花がいっぱいの道の駅、全部全部素晴らしかった。そこにお迎えに来てもらったんだ、最初。

近所のクリーニング屋さんが閉店するとこの街から引っ越していった方のSNSで知った。私がこの街に越してきてからずっとお世話になっていて自分で洗えるものは洗い方を教えてくれたり、商店街のお祭りの焼きそば券くれたり、会えばいつも挨拶してた。改めてご挨拶に伺わねば。引っ越していった方がわざわざご挨拶に戻ってくるのもよくわかる。新しく街に入ってくる人にとってあの安定感ある優しさがどれだけ支えになるか。

最近、雨は嫌だなというときと晴れてるとき、つまり大体いつもThe Lemon Twigsの『A Dream Is All We Know』を聴いてるのだけどこの音の明るさはすごいね。レトロ感もあるし。空の様子も本来いろんなものが混ざり合って煌めいたり曇ったりするのだろう。イヤホンでじっくり聴くともっと遊びを感じる。高校時代に戻ったみたいな音楽。私が琵琶湖湖畔(好き)でカフェをやるとしたらこのレコードは定番にするなっ。前に行った琵琶湖湖畔のカフェがとても楽しかったんだ。

昨日、バスの中から有名人を見た。いつもキラッキラの大きな瞳だなあ、と思っていたけど実際そうでびっくりした。かわいかった!私がこれまで一番会ったことのある芸能人は柄本明。下北沢でぶつかりそうになったこともあるし、柄本明が車にぶつかりそうになったところも見たことがある。もちろん何事もなく歩いているのも見ている。お互い気をつけましょうね、私もぶつかりがち。彼はいつも素敵なジャージを着ている気がする。たまに演技が怖すぎるけどだからこそ大好きな俳優さん。下北沢は私が劇場に通っていた頃の下北沢ではなくなってしまったけど好きなお店もあるしいつまでも懐かしく感じる街なのだろうと思う、私にとって。思い出が多すぎる。

なんか今朝はノスタルジック回だな。もう焦らないといけない時間だ。がんばろ。

カテゴリー
精神分析

防災速報、能登、ブラジル

鳥たちがそばの空を賑やかに通り過ぎていったみたい。元気なのかな。今朝は御殿場の「アンドロワ・パレ」の「ケーク・オ・フリュイ」。「御殿場でケーキ」というのを強調しているのがちょっと面白いWebサイト。甘い。コーヒーで正解。

朝から防災速報。新宿区は1時間後くらいに30mm/hだって。それまで0mmなのに。線状降水帯の可能性のある地域も心配。水害も本当に大変ですよね。空の様子はどうなっているんだろう。こういうのは温暖化とどのくらい関係しているのだろう。私たちが耐えられるくらいの雨であってほしい。自業自得って言わないでほしい。こっちの希望ばかり押し付けやがってって言わないでほしい。自然の声に耳を傾けないと。昨年の夏、青森で聞いた地元の人たちの声を思い出さないと。今はとにかく今日、被害が出ませんように。もちろん明日も、その後も。能登には特に。

能登に手伝いに行きたいけど行けない。東日本大震災のときはNPOにいたからすぐにバスや調理のできるトラックを出せたし、チームで動いていたから役割分担もスムーズだった。能登にはそういうチームがあまり入っていないらしくとても静からしい。この前、瀬尾夏美さんがYouTubeの番組で言っていたけど能登は遠くないよ、と。確かに。金沢まで新幹線で行けるから。この前、国際精神分析協会(IPA)のMLでブラジル南部のリオグランデドスル州で起きた洪水に対する支援について書かれていて、私はそこがどこなのか全くイメージできなかった。調べてみたらそのときは日本ではあまり多くは取り上げられていなかった。SNSでは動画もたくさん流れていたけど。この大洪水に加え、猛暑、干ばつによって、人だけではなく、動物や農作物にも被害が出て輸入価格も値上がりするとか書いてあった。全部つながっている。能登にだって一気に支援が入らないのは色々な要因があると思うけど輪島とか日本の重要な文化遺産さえ救えないとしたらほんと政治って何、という感じがする。東京で最優先でやるべきことってなんだろう。「べき」で考えていかないと具体的にならないから。

今度、人前で発表するのだけどそのときに原稿を映写することになった。もちろんそれを必要とする人もいるだろうしするのは全く構わないけど、ちょっとその必要性を聞いてみたらなんか大きなことみたいになってびっくりしたというかなんというかとなった。具体的な障害に対する一貫した対応を考えたうえで最低限これはやろうとかいうのを最初に打ち出しているならともかく、そういう観点がないからこうなるのだろう、と思った。あったらあっさり指示出せばいいだけだもん。時間を割いて考えるべきことは何か、と考えらえるようになるまでにはいろんな経験が必要だな。気をつけよう。ただ個人的にはいってみるもんだなと思った。こんなことでこんなふうになるんだ、というのがわかったのは悪くないから。面倒になることは極力避けたいから何も言わないっていう選択も相手によっては重要になるしいろんな方面からいろいろ学ぼう。ボトムアップのアプローチを可能にするためにはいろいろいろいろ大変だ。がんばろ。

カテゴリー
精神分析

残りの時間とか瀬尾夏美さんの活動とか。

ハーブティーをいれ、「たけのこの里」を数個食べ、ありんこを数匹やっつけ、おしゃれ着でもないが手洗いが必要な服の洗濯もして思い出話を書いていた。具体的なことは最小限で書くというより、どの部分を具体的に書くかを工夫するのは症例検討のための資料を書くときと同じ。この調子だといくらでも書けてしまう。書きながら構成が見えてくるまで続けようと思ったがまだ見えてこない。題名は先に決まったので私はそれについて書きたいのだろうと無意識に従う方向で筆も勝手に進んでくれたらいいがそんなことは起きないのでなんとかせねばならない。今日も2つのグループがあるので今のうちに進めねば。ネバネバばかりにしたのは自分。嫌ですわ。それにしても思い出話を書いていると亡くなった人の多いこと。10年ほど前までは私はあまり人の死に出会っていないなとか思っていたが今は身近だ。私も精神分析家になったとしても訓練分析家になるまでに実績をあげねばならずまたどんどん歳をとるだろう。日本の精神分析協会では訓練分析家として候補生を受け入れられるのは75歳までだ。そんなに時間は残されていない。そこまで生きているのかどうかもわからないが精神分析が日本に残るようにどうにかしないといけない。精神分析は高度に知的でお金のある人に対する治療であるというのはフロイトを読めばそうなのだが、お金の援助が出る国で一気に広まったのも事実。それは国にお金があるということなので結局お金の話である。日本はこんな小さい国なのにさらに狭い人間関係を維持する程度の「思いやり」しかないから書籍の世界の「ケア」が流行るのでは、と疑っている。地震から5ヶ月が経とうとしている能登はとても静かだそうだ、人がいなくて。家は崩壊しているのに「家が片付いていないから」と支援を遠慮するお年寄りもおられるそうだ。瀬尾夏美さんは静かな能登で手伝いを必要としていそうな方に声をかけ手伝い、ひどい状態のままの写真やそんななか世話されて咲いた薔薇の庭や美しい海岸の写真を撮っていた。それをSNSで発信されていたので別の配信番組も見てみたら現場の写真と共に現状を色々お話しくださっていた。現場に行かないとわからないことだらけだが瀬尾さんの話を伺うかぎり、とりあえず能登に人の声を増やすことが必要だと感じた。たしかに東日本大震災で郡山の避難所に行ったとき、多くの支援者が既に入っていたし音が途絶えることはあまりなかった。相馬の仮設住宅は静かだったが看護や福祉の専門家の声かけが生活に即していてかつ暖かくとても勉強になった。声かけと声を交わすことは大事。配信番組のメインは「原爆の図 丸木美術館」学芸員の岡村幸宣さんをゲストにお話を伺うというものだったが丸木夫妻が作品に込めたものなどを知ることができてとてもよかった。絵画ならではの闘い方というのがあるのだな。いろんなことはそんな単純ではないからこっちでは対立しているのにこっちでは共有する思いがあるとか色々だ。相手から搾取しようと傷つけようと自分の痛み以外はすべてなかったことにして、わかりやすさと温厚さでかさ増しした軽薄な言葉で物を書いたり配信したりする人と、それを「知性」として受け取って賞賛を欠かさない人というそこだけwin-winカップルいうのがよくある構図だから瀬尾夏美さんたちの活動は現実的で励まされた。今日もできることをしよう。

カテゴリー
精神分析

ありんこ、文化

早朝からバタバタした。ありんこのせい。数えるほどしか出ないのがまた厄介。どこからきているのかを突き止めたいのに。高いところにいかれちゃうともうどうにもできないし。でも彼らがいかに直線を辿るのが得意かがよくわかった。直線がなくなると慌てて次の直線を探している。しかし家の中は直線だらけだ。私から見てもこれだけ直線が多いのだからありんこにとってはほぼ直線しかない世界に見えるだろう。あと洗剤に敏感なのと鈍感なのがいる(私の実験によると)。とかやっていると朝の数十分はすぐに過ぎる。ああ。一日1ページ訳そうと思っていた文献があるのにそれも数日やっていない。その前に、その前に、というものがたくさんある。困った。

今朝は冷やしておいた「たけのこの里」を数個。我が家は夏はものすごく高温になるのでなんでもかんでも冷やさねばならない。だからありんこも住みやすいのかしら。あ、また奴らに気を取られてしまった。これがいけない。ああ、句友たちのように素敵なつぶやきやお知らせをしたい。というか彼らならこの状況だって素敵な俳句にしてしまうだろう。俳句はマッチョな世界だけど賞とかに興味を持たず淡々とレベルの高い俳句を作り続けている人たちもいるし、結社以外でもオンライン、対面どっちも多くの句会で重なって出会う人もいる。私はもっぱらオンラインだけど細々とでも定期的にやっていると本当にたくさんの表現に出会う。面白さとか美しさはそれぞれ感じ方が違うので自分にピンとくる俳句があればそれだけでいい。文化の継承に使命を持つ人はそうはいかない。たくさん勉強してたくさんアウトプットしなくてはならない。精神分析に関しては私もそうしなくちゃいけない。海外のように、というかフロイトの時代からそうだったように毎週定期的に学術的な集まりがあればいいのだけど日本の今のシステムでは圧倒的にそういう場が不足している。臨床と離れたところで行っているものはたくさんあるが精神分析家になる、あるいはそれであり続けるためには臨床と離れては意味がない。精神分析固有の体験と理論は10年近い訓練でだいぶ乖離がなくなってきた。なのでいつも書き始めるまでが恐ろしく長いとはいえ何か書いたり発表したりする自分に嘘っぽさを感じなくてすんでいる。フロイトもラカンもウィニコットもみんな精神分析の症例から理論を組み立ててきた。実践のおかげでこれらもだいぶ咀嚼できるようになってきたがまだまだだなと思う。とか言ってるうちにこんな時間だよ。がんばろ。今日はラットマン読みますよ。

カテゴリー
精神分析

ジョーダン・ラカイ、泣く女

今朝はまずキウイ。これまだ酸っぱい。この前のはとってもいい硬さ?柔らかさ?どっち使っていいかわからないくらいちょうど良くて甘さも絶妙だったのに。まあ違う日に買ったのだから違うのは当たり前。一個一個違うのも当たり前。キウイ食べてハーブティーいれて柳樂光隆さんの最新のインタビュー記事にあったジョーダン・ラカイ(Jordan Rakei)を流してぼーっとネット見てたらこんな時間ではないか。何事か。今回もいいインタビューだった。少し前のカマシ・ワシントンも父親になったことでの変化について語っていたけど『虎に翼』のようなドラマがこれだけ支持される中、こういう父親になった人たちの声も拾っていきたい。耳を傾けてくれる相手は誰にでも必要だ。

「感情の面でいうと、自分の感情に向き合えるようになったと思う。以前は「妻や両親の前で感情的にならないように」とか自分をガードしていた。ところが子供ができると、そんな心配はしていられない。人生がより甘く優しく感じられるようになるんだ。それとともに僕の歌詞も変わった。「Flowers」は妻のことなんだ。一種のラブソング。そういう曲は書いたことがなかったけど、素直に感じていたことを書いてみた。世間からどう思われるかなんて関係ないって思えるようになったからね。子供が生まれたことで、自分がエゴが少し和らぎ、現実的になり、プロセスに対する偏見がなくなったんだよね。」

ジョーダン・ラカイのインタビュー 音楽家にとっての「成長」とは? ジョーダン・ラカイが語る人生とクリエイティブの再発見

それにしてもジョーダン・ラカイの声も曲も良すぎるな。最近聞いていなかった種類の音楽だ。ついきちんと聞いてしまって手が止まってしまう。意識すればこうやって書けるが。

朝ドラ『虎に翼』にすぐ泣いてよねさんに怒られてしまったり、みんなの時間を少し止める中山先輩という人が出てくる。「女はすぐ泣く」「泣けばいいと思って」みたいな、こういう登場人物を泣かせてきた人たちの言葉が聞こえてくるような感じだけどこのドラマでは弁護士になるまで残る女として描かれた。面白かったしすごくいいなと思った。私は仕事柄毎日いろんな涙と出会っている。泣くこと自体がものすごい意味を持っている場合もあればここでは言葉を出せば涙も出てしまうという場合もある。子どもの頃、あまりに多動と不器用で怪我が多かったのだけど全然泣かない子でミシンで指を縫って(?)しまって保健室に連れていかれたとき、男子たちが「あみが泣くぞ」とみんなで見にきた。私的には痛いし悲しいし情けないしで泣いている気分なんだけど彼らの期待している泣きは違ったのだろう。なーんだ、という感じで去っていった。いつも一緒にサッカーしたり家に遊びにいくような仲の良い男子たちだったけど今どうしているのか。一人はすごい見栄えのいい不良になって捕まったりしてその後もその日暮らしをしていたところまでは知っている。今は知らない。大人になって実家の方の商店街で声をかけられたときも見栄えの良さに誰?となったがすぐわかった。当時は呼び捨てだったのに「ちゃん」づけになっていた。大人だ。なのか?高校生のとき、私の友達に二股かけられてまいってたよね。キミの相談にのったあの喫茶店、もうなくなってたよ、というかあなたの方が地元に詳しいか。泣きたいときは好きに泣こうね。泣き方とかどうでもいいから。

今日もすでに日差しが強い。最近「すでに」を使いすぎだな。なんでだろ。「それはすでに提出した」とか言いたい。「すいません、ギリギリになります・・」しか言えない。まあ、がんばりましょ。

カテゴリー
精神分析

「への」、訓練のリアルとは。

小さいバニラクッキーをふたつとレモングラス&ジンジャーティー。美味しいなあ。熱いのを飲むと少し暑いな。夏。

戦争が身近でつらいですね。こういう一つ一つのことが戦争につながっていくんだな、という実感もつらいですね。

今度、日本精神分析協会の学術大会で「精神分析家への訓練、そのリアル」というテーマでパネリストとを務めるのだけど「精神分析家への」の「への」と「訓練」のつながりの悪さが気になってしまった。引き受けたときもなんか不思議と思ったけどいざ話すとなるとなんで「精神分析家への道」とか「精神分析家になるための訓練」とかではないのか、と思ったけどこの二つにしたって前者はプロセスのことで後者は手段のことだから内容は変わってくる。「への」は方向性を示すものだし、確かに訓練は精神分析家になることを目指して行われるものであるのだけどなんかしっくりこない。なんでだろ、ということをずっと考えていた。「精神分析家への道」=「訓練」がくっついている感じの「精神分析家への訓練」。この違和感についても話すかどうかだねえ。

精神分析は言葉の違和感にうるさいというか大切にする。初回面接でもその人らしい表現というのはたくさん出ていて、継続して会っていけばもっと多彩な表現が見られる一方でパターンも浮かび上がってくる。それは関わり方を示すものでもあって精神分析のように週に何度も会っているとその人の言葉の使い方とかこちらの言葉に対する反応の仕方とかがすごくよく見えてくる。精神分析理論を基盤に生まれた短期力動療法のように抵抗を中心的に扱っていく技法は関係性ありきだと思うが、精神分析が特殊な技法なのは関係ありきではないということだろうと最近の私は実感している。

以前、私のオフィスのウェブサイトで短期力動療法について紹介した際、私は精神分析についてこう書いていたらしい、ということをさっき確認した。

「精神分析はお互いのこころをフルに使いあうものなのでお互いに相当のエネルギーがいります。「こころを使う」というのは単に自分の気持ちに意識的に気づくというものではありません。それはタブーとされているような人間の生の部分にフルに触れていくことであり、自分の無意識に翻弄されながらも生活を維持することです。こころはいつでも壊れる可能性を持っています。精神分析は異常と正常の間、意識と無意識の間でギリギリの体験を扱っています。したがって治療者が使う注意力も精神分析ならではの質を持っています。
だからこそ精神分析の治療者になるのであれば訓練が必須で、まずは自分が十分にそのこころの動きに耐えられるようになる必要があります。やってみなくてはわからない、というのはどの治療も同じですが、精神分析を受けることは他の心理療法とは異なるかなり特殊な体験となると思います。」

私は最初から「お互いの」ということを強調していたんだなと思う。「こころをフルに使う」というのをこの時はまだよくわかっていなかったが訓練を終えた今ならよくわかる。それはかなり知的な作業でもある。精神分析は自分が預かり知らぬところで失われたものを弔う作業だ。ナルシシズムによって補ってきた喪失や欠如を「他者」に対して開きつつもそこを勝手に埋められることに抵抗するものだ。「ギリギリの体験」と書いたのも当時それを実感していたからなのだろう。私は今や「他者」とか「関係」という言葉を括弧つき以外で使う気にならない。とかいって普段は使うと思うが、対象や関係を前提にできない世界を私は学んだ。言葉は人と人を単に繋ぐのではなくそこには常に切断と距離があることを意識させる道具だと思う。

なんかこういうことがわかるようになって思考パターンというより軌道が変わったというのが私の訓練のリアルでしょうか、ということを話せばいい気もしてきたな。外側に現れたものとしてはこれこれこれで、全部後付けではあるが実感としてたしかなのはこれでおそらく当時の私はこうだったのだろう、みたいな。まあ、いろんなことが起きるしふたりで起こしていけるかどうかなんだろうね、という感じかな。今日も長いぞ。がんばろう。

カテゴリー
精神分析

冷やし中華、アルキビアデスなど。

お土産の紅茶のクッキー、すごく美味しい。とってもいい香り。レモングラス&ジンジャーのハーブティと。Tea with Tea.あったかい。寒い日でなくてもあったかい飲み物はおいしい。暖房をつけなくなってからどのくらいの日々が過ぎたのだろう。私は半日だけ外のクリニックで働いているけどそこは暖房と冷房の切り替えが全館共通だから気温の変動が激しい季節は調整が難しい。いつだったか少し前のすごく暑かった日にもまだ暖房しかつかず冷蔵庫じゃない、扇風機で対応したりした。なんで今冷蔵庫を先に思いついたのか。冷たいつながりとはいえ。昔、冷やし中華めぐりをしようとなったのだけどそんなに行けなかった。その後も今年こそはと話すもののそんなに行けていない。ということを先日思い出して特に暑くもない日に冷やし中華の看板を見かけ、入ってみた。そこはお皿の半分はレタスという感じで量が多くないのは助かった。まずいわけではないのだけどなんか物足りない。それこそが冷やし中華の特徴だったりするんだっけ。具材と麺のバランスの問題?これまで美味しいなあと思った冷やし中華ってタレが絶品だった気もする。麺はパスタ以外そんなに食べなくなったから自分がどんなものを好んでいたかも忘れてしまった。量を食べられないから残しちゃうのが申し訳なくて。ということは家で作ればいいんだよね。冷やし中華なんてもう何年も作ってないけど考えてみたら全然難しくないのだし。そうだそうだ、自分で好みのタレを作ってちっちゃい冷やし中華を作ろう。

毎日仕事時間が長いから帰り道になると疲れちゃって音楽聴きたくてもイヤホンを出すのがめんどくさいし本を読みたくても集中できないしでぼんやり電車を待って、乗って、再びぼんやりする。でも本を読むのが習慣になってしまっているので首にぶら下げた(これも省エネ)iphoneでkindle開いて適当に開いたページを読んでみる。文字が頭に入ってこない。疲れてる。ということで適当に別の本の適当なページを開いてみる。やっぱり無理。ということを繰り返していた。ふと「アルキビアデス」の文字に目が止まった。愛と欲望の話はややこしいけどアルキビアデスには笑ってしまう。なんとなくおかしく読んでいたらラカン登場。そうだ、これはラカンの本だった。今私はなんの本を開いたのだっけ、とkindleを確認したら『ラカンと哲学者たち』工藤 顕太著(亜紀書房)だった。久しぶりに開いたな。プラトンの『饗宴』でも最後に登場するのがアルキビアデスだと思うけどこの本もこの人で締めるのね。ソクラテスの強力な欲望を前にしたアルキビアデスの幻想など、という感じか。どっちもどっち、という感じもするが、欲望という点では。愚かなのはアルキビアデスだけど冷静に考えれば私たちが近いのはこっちでしょう、多分。というか、とソクラテスの悪口を書きそうになってしまった。よく知らないのに。よく知らない人のことを悪く言ってはいけないね。でも好きになるのだってよく知らないうちに、むしろよく知らないからこそ好きになったりするのだから知る知らないはあまり関係ないかもね。実際と離れたところではじまってしまっている関係に踊らされちゃったりするのが私たちだものね。マッチ先輩の「愚か者」が脳内を流れてしまう。そういえばこの前、ある先生と「抵抗」の文脈で音楽の歴史について話した。先生が音楽仲間とポップミュージックの歴史の話をしたんだよ、と言っていて、私はその比較でジャズの歴史の本にこう書いてあって、など話した。面白かった。朝はやっぱり夜より元気なんだな、こんなこと書いちゃって。今朝は音楽はまだ鳴らしていない。何聴きましょうね、今日は。柳樂光隆が紹介していた尺八奏者の方のYouTube面白かったな。尺八を吹き始めたジャズミュージシャンのシャバカのアルバムは彼らからみるとどうか、というお話。プロはすごいな、と毎日何かしらで思っているけどこの青木さんたちもすごい。力抜けてる感じもプロって感じがする。はあ。今日も長いぞ。がんばろう。

カテゴリー
精神分析

共にいること

早朝から家事をがんばった感じがあったがそんなこともなかった。ゆっくり過ごしながら家事をのんびりしただけだった。今日は洗濯物干しっぱなしでいいかな。暑くなるらしい。窓を開けたら鳥が賑やか。活動時間が早くなっていると思う。何喋ってるんだろうね。私は最近学生時代にボランティアをずっとやっていてその後非常勤でいっていた施設で一緒に過ごした言葉の出ない重度の自閉症の人たちのことをよく思い出す。同世代だった。その施設や関連の仕事についていたら私の生活は今とは全く異なったものになっただろう。毎日自然の中をお散歩したりドライブに行ったり歌ったり大きなお鍋でごはんを作ったり。家事は全てこちらがするけれどそれが当たり前だから何かをしてあげてる感じもないし大変さはもちろんあるけど穏やかな日々だった。安全で健やかでいてもらうこと、それが一番大切で難しいことだった。だってそのためには職員もそうでないといけないから。彼らの保護者の歳をとる前にできることをという気持ちは本当に切実だ。最近メジャーデビューした壷阪健登のピアノを聞く。With Time.彼らと一緒に聴きたかった。みんな今どんな暮らしをしているだろう。あの仕事を続けていたら今とは全く異なる生活になったかもしれないと書いたが、あの日々がなかったら今の生活もなかっただろう。大切な時間だった。

朝のうちに文献を少し読んでいいかげん書き始めねば。先日、転移を認識する・させるについて話があったが、現在の精神分析は転移が生じるかどうかがまず問題になる場合が多いだろう。私の考えではその可能性のアセスメントにもある程度の期間の精神分析が必要になる。フロイトは精神分析の適応についてかなり慎重で狭い範囲の病理を考えていたが現在の精神分析が対象とするナルシシズム、倒錯、自閉症は古典的な理論では理解が難しい。それでも人が人と関わることで何かをするということは変わらない。対象を対象として自然に立ち上げることをしない病理(と呼ぶかどうかさえ疑問だ)と共にいるには「共に」が生じるまでに時間がかかる。それで困っていない場合はいいのだがどうしても困る事態が生じたときに対象と関わり合うことを前提とした理論はあまり役に立たないだろう。人は心の中から対象を締め出して空想でいっぱいにすることができる、というような事態を何度も何度も実感しないことにはそれが長い時間をかけてもたらす困難を知ることはできない。問題は時間をかけて形をなす場合もあるし発病という契機があることもあるしとにかくことは複雑であるということ。今日もそういう複雑さを単純化したい心たちに抗いながらやっていくのだろう。なかなか気づきにくいことだけど。

西側の窓からなのに日ざしがすでに強い。皮膚も守らねば。守っててもかゆみや痛みや赤みなどすでに色々出てるけど仕方ない。地球のことも考えないとまた海の様子が変わってしまう。昨年青森で受けた衝撃を思い出さないと。どうぞみなさんもお大事に。お元気でお過ごしください。

カテゴリー
精神分析

紫陽花、中村達連載、ゲンナリ

雨がまだ降ってる。何度起きてもずっと降ってる。今朝はだいぶのんびりしてしまった。雨の音を聞いているとすぐに時間が経ってしまう。

昨日は朝から夕方までずっとPCの前にいなくてはいけなかったので始まる前に散歩に出た。いつものカフェはまだやっていなかった。日曜日は少し遅い始まりなのか。それがいいね。日曜の朝は静かでのんびりしていていろんな紫陽花が咲き、梅が色づき、朝顔がラッパの形で顔を出していた。夕方PCの中のみなさんに挨拶をしてまた外へ出た。雨がパラパラ。一応傘を持って出たけどさすほどではなかった。紫陽花あるかなあといつもとは少し違う道を歩いていたらドクダミにはたくさん会えたしここにこんな大きな木があったのか、と見上げたりしたが紫陽花がない。これだけ歩いて出会わないのも珍しいな、と思っていたらようやく住宅街の小さな庭先に小さい紫陽花を見つけた。しばらく歩くとその先にいつもの紫陽花とカシワバアジサイが見えた。会いたかったよー。カシワバアジサイは面白い形で大きいから目立つ。線路脇のそのお家のは結構背が高かった。雨の音。紫陽花には嬉しい雨かな。なんだかんだ雨が似合う花だと思う。

散歩に出る前、柏書房のwebマガジンで連載中の中村達さんの「第2回 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉」を読んだ。

コロンブスによる「発見」以降、発見する主体としての西洋と発見される客体としての非西洋という一方的な図式が再生産され続け、西洋は非西洋との「遭遇」の記憶を一方的に語り、カリブ海の人々に語られる対象としての他者という役割を押しつけてきた。ジャマイカ人小説家・批評家のシルヴィア・ウィンターは詩人セゼールとフランツ・ファノンを参照しながら人間が生物学的かつ社会発生学的に物語る文化を育む種であると主張する。ウィンターは「ホモ・レリギオースス」(homo religiosus)「ホモ・ポリティクス」(homo politicus)「ホモ・エコノミクス」(homo oeconomicus)という「人間観」の問題を明らかにし「物語る種」としての人間、「ホモ・ナランス」(homo narrans)というあり方を提唱した。

と著者の言葉を引用しつつまとめて書くとこんな内容から始まり、この部分だけで1回分でもよいのではないかという重要度だと思うが、その先も長い。その次にきたのがアーレントだ。昨年、田野大輔、小野寺拓也たちによる『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』でもアーレントの言葉が検討されていたがここではアーレントがアフリカを捉えるその仕方が取り上げられている。欧米のホロコーストをめぐる記憶研究によって「多方向的記憶」を打ち出した比較文学研究者マイケル・ロスバーグによる批判がそこに続く。

「アーレントが見ているのは確かにトラウマ的な経験としての西洋とアフリカの「植民地的遭遇」であるが、「そのトラウマは被植民者側のものではなく、植民者側のものである」

「第2回 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉」

と。そうか。

私は次の部分にも衝撃を受けた。

「アーレントは、理性を備え経済的にも優れた西洋文明人である「ヒト」を「人間」として当然のように表象し、西洋人にトラウマをもたらす野蛮なアフリカ人は「人間」として欠如を抱えた他者として隔離しているのである。そしてこの「人間の分割」は、ウィンターが人間の特異性として語った物語る種としてのあり方をも分割してしまっている。すなわち、「物語る」西洋人と「物語られる」非西洋人という人間の分割である。」

少しずつ勉強しているとはいえ少ししか勉強しない私にとってアーレントはまだまだ理想化されていると思った。相手が誰であろうとその言葉をその人のものとして追っていく仕事をしているのに、そして引用したような事態は論理的に考えれば普通に起こりうるのにアーレントがそれに加担していることに驚いた自分にゲンナリした。日曜の朝、紫陽花を愛でながら追う一方で、ゲンナリしていた。両立するもんだ。思い出したらまたゲンナリしてきてしまった。仕事に戻ろう。こうやって何度も気づきながら行くしかない。今日は月曜日。がんばろう。

カテゴリー
精神分析

下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』」

昨日はいい文章を読んだ。下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』」というミシマ社のウェブ連載「文学のなかの生命」の連載である。今回、第13回ということだがご本人のSNSによると5年ぶりとのこと。2022年『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)を読んだときもとてもいい心の書物に出会ったと思ったが今回もよかった。私は下西風澄が撮る写真に惹かれるところがありその後は文章より写真を見てきたような気がするが今回なんとなく読んでみて丁寧で切実かつシンプルな文章にまた胸打たれた。文学作品を知らずとも誰でも読めるのでぜひ。ヘミングウェイの『老人と海』を親が愛読していたがそれはこういうわけだったのか、など思ったりもした。先日、サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて 自由と存在とアプリコットカクテルを』(向井和美訳)を読みながら著名な哲学者たちの愚かさ、ひいては人間の愚かさについて考えていた。今回の連載で取り上げられたヘミングウェイの『蝶々と戦車』における水鉄砲の男を彼らにも重ねた。人間の心を守るために最も必要なものが愚かさだろうと私はどこかで思っている。下西風澄によるヘミングウェイ『蝶々と戦車』の読みに本当にそうだなと思った。

「はたから見ると、ふざけているように見える蝶々のような酔っ払いのダンスは、命がけのダンスだったかもしれない。本来は同じ国に生きる仲間であるはずの男たちに殴られ、血だらけになりながら水鉄砲で香水を撒き散らせていた男の心の中は分からない。彼は死にたいほど不安だったかもしれないし、誰かを殺したいほど緊張していたのかもしれない。それでも男は、暴力という戦車に向かって、蝶々のように踊り、そして撃たれて死んでいった。」下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』

彼は死にたいほど不安だったかもしれないし、誰かを殺したいほど緊張していたのかもしれない。」の部分がいい。この切迫感が彼を踊らせ続けた。

何回やめてと言われても相手が泣き出し怒り出し飛びかかってきても相手の真似をするのをやめない子供を思い出す。見ろよ、これがお前の姿だよ、気づけよ、こんななんだよ、と言葉にせず行動にする。自ら鏡を買ってでるのは実はそれは自分でもあるということに気づいているから。否認したいから。それが行動に攻撃性を帯びさせる。それを防衛して笑う。変な踊りをする。相手はどんどん怒りを強める。殺したいのは相手じゃないのに。自分なのに。緊張と弛緩、笑いと怒り、そして踊り。誰もが知っている自分の姿であり友の姿であると思う。投影過剰なのは現代に限ったことではないのだ。だから精神分析は生き残ったともいえる。複雑すぎる心は関わりによってより複雑になると同時に象徴機能によって単純で単一になったりもする。そこで止まったらそれは知ったかぶりでしかなく再び体験の複雑さに戻る必要があるのだろう。痛いほどわかる。

カテゴリー
精神分析

蟻、カリブ思想の本

朝から蟻退治。ほんとに夏と同時にやってきた。一度出てからちっこいのがちょこちょこ出るようになった。しっかり列をなしたのを見たのは最初だけ。そのときは列を追って侵入路を調べ一度の退治でいなくなった。あんなに蟻を観察したのは小学生の時以来だ。それからはちっちゃいのがキッチンに現れる。列を成してないから経路が読めない。かといって列をなされるのも嫌だ。すっごい間を開けた列なのかもしれない。同じ経路を通っているのはわかるが毎日こんなにきれいにしてるのにどこが匂うの?餌はどこ?ハーブティは嫌いみたい。近づけると逃げる。やっぱり香りに寄ってきちゃってるんだよねえ。糖分が好きなことには非常に共感するが食べ物とかにいるわけじゃないのが救いか。何がしたいんだ、蟻よ。昔男子が蟻の巣にひどいことしたのを防がなかったから?いや、こんな蟻の気持ちよりも生態を知りたい。共存するには境界をはっきりさせたい。もっと確実な対策を練らねば。でも不思議なことに昨年は効果がなかった殺虫剤が今年はちょっと効果あるんだよね。よく買われている薬局で新しいのを買ったほうがいいんだよね、きっと。スプレーの殺虫剤は怖い。自分がやられてしまう。私じゃないよ、ターゲットは、と思うけど効果が強いものは人間にも害なんだよね。ほんと難しい。

私が諸島である カリブ海思想入門』とか『野蛮の言説 差別と排除の精神史』が大変興味深いというか前者を読んだら数年前に読んだ『野蛮の言説』に戻りたくなってようやくなんとなく人の位置付けがわかったりした。サルトルとかフランツ・ファノンは身近だったし実家に本があったから読んだことあるけどただ打ちのめされる感じは今のほうが強い。この前、いろんな国の人たちと交流してしまったからなおさらだと思う。世界の出来事と歴史が身近になってしまっている。必要なことなのだが抱えておくには余裕がない感じもする。だから読み続けることでどうにかしようとしているのかもしれない。エメ・セゼールの『帰郷ノート/植民地主義論』とかもすごいインパクト。本のことをもっとたくさん書きたいのだけどやることがありすぎる。がんばろう。

カテゴリー
精神分析

テラス・マーティン、ブルース・フィンクなど。

また音楽を流したまま眠ってしまった。テラス・マーティンの新作情報があったのでそのまま聞いた。テラス・マーティンはこの前のカマシの新作にも出ていた。カマシ新作についてはこちらをぜひ。これはエレクトロサウンドというのかな。とっても静かで深い。いつのまにか眠ってしまったわけだ。カマシ・ワシントンの新作も深みがあった。それまでの壮大さ、荘厳さとは異なる、背景にそれを感じながらより日常的な、と思ったけど日常的という言葉はあまりしっくりこないか。これまでのが宇宙の音楽としたら今回のは地球の音楽という感じだろうか。広がりより深みの方を感じた。テラス・マーティンの新作も人間には聞こえない音を大切に音にしたらこんな感じになるのかもしれないと思った。夜中、強めにピアノを弾く音で目が覚めた。誰かの激しい咳も重なって聞こえた。どっちの音で起きたのだろう、とぼんやり思いつつまだ暗い窓を見遣った。誰の曲かは確認しなかった。今週もプロにストレッチと筋トレの指導を受けたのでいまだに身体がバキバキ。肩甲骨と足首が意識できないほどに固まっていることや肩こりがなくなったというより感じられていないのでは、ということに気づけたのはよかった。整形外科の先生が言っていたことは正しかったんだな、と反省した。癖を変えたいのであればその仕組みを知るのが大事。

週末はブルース・フィンクというラカン派の分析家の本も使うセミナーに出るのだけどフィンクって教科書を書くのがとても上手だよね、とフィンクの3冊の教科書でもないか、基礎と前期後期入門2冊かな、それらが置いてあるはずの場所を見たのだけどない。なんで。使ったばかりなのに。もー。また探すところからか。これ前にも書いたけど「電話分析」のことが基礎の本に書いてあると思うけどそれおすすめ。フィンクの本はおすすめ、精神分析的治療をしている臨床家に。私はラカン派が私が最も親しんでいるウィニコットを多く参照してくれていて頻度の問題をややここしくしないことに好感を持っていて以前よりずっとラカンにも親しめるようになった。事例があまり書かれないのはどうなのかなという感じはするけど実際起きてることはもっともっと複雑で何が事態を動かすかは同定できないからいいのだろうと思う。フロイトを読むときにウィニコットとは対話しにくいけど、ラカンは難しいけど粘れる。人ってほんといろんな書き方してるから馴染むのにすごく時間がかかるけど実践伴うと理解のしかたは全然変わるからまた興味深い。本はどこ?リュックには別の本が入ってるしどうしましょう。

そういえば今日、前にも出てきた建物が夢に出てきた。私は大学だと思っているけどコンサートホールみたいに大きなきれいな建物。私の夢にはいくつか特徴的な場所があるなあ。面白い。今日もがんばりましょう。

カテゴリー
精神分析

雨、カリビアンジャズ、油井正一の本

昨晩、オフィスのあるビルを出たら雨。驚いた。降り出したばかりらしいが結構強い。エレベーターで一緒だった礼儀正しい人は大きな黒い傘をさして真っ直ぐに背中を立てて早足に去っていった。オフィスに置き傘があったかどうか。どっちにしてももどるのは面倒だ。強めの雨に打たれながら左手でリュックの下の方を探るとあった。三つ折りの小さな黒い傘。いつもリュックの色と同化していて覗いても見つからないがあっさり見つかった。すれ違う人はみんな大きな傘をさしている。夜は雨の予報だったのか。軽くて柔らかい白い布のスニーカーはすぐに濡れタイツも濡れた。帰宅したら本が届いていた。お礼を書かねば。書いた。この前シドニーでお会いしたばかりだがみなさんの仕事量たるや。また読んだら感想をお送りしよう。ここにも書くだろう。昨日は音楽を流しっぱなしで眠ってしまった。柳樂光隆のカリビアンジャズのプレイリストを聞いていたのだがその流れのままおすすめが再生され続けている、今も。そのプレイリストが紹介されているのと同じだったか別のnoteの記事だかに油井正一の『ジャズの歴史物語』(角川ソフィア文庫)が紹介されていた。電子版があったのですぐに買った。油井正一が読みたかった。ジャズはニューオリンズで生まれたということを示すことから始まるこの本は「クレオール」(仏語)「クリオール」(英語)の文化や思想についてカリブ海文学研究を通じて本を書いている中村達や中村隆之の本と私の中では繋がっており、ポリフォニックであることの背景に沈黙(抑圧と排除ゆえではない意図的な沈黙もあろう)を含む声にならなさ、「母国語」の使用の難しさを考えていた私にとっては興味深く、書き方に示されるジャズに対する明確な態度も見習いたく思った。私は精神分析に対して曖昧な態度をとっているつもりはないがこの治療も文化も残っていくにはあまりに曖昧なものを取り込みすぎている気がする。ジャズミュージシャンたちが作り出してきた歴史と彼らに対して真剣に向き合い書き続けてくれる人たちに励まされること多し。がんばろう。雨、やむといいな。

カテゴリー
精神分析

ニトリ、散歩

二度寝したけどまだこの時間。あっちの窓は晴れてたけどこっちの窓は暗い。このあとどうになるのかな。昨日ニトリで「袋止めクリップ」を買った。いつもうまい具合に我が家にあるだけのクリップで足りていたのにこの前珍しく足りなくなった。いろんな最近のお土産は食べ切り型ではないのが多かったから開けすぎたか、と言ってもたいした数ではないが。フライパンを見に寄ってカラフルさに惹かれたのとていっぱい入ってるみたいだったしコンビニおやつより安かったので購入。フライパンは加工の仕方の名前がよくわからなかったけど色々あった。ほしいサイズが売り切れていたのでよくわからないしまあいいかとなった。大体ル・クルーゼか今あるフライパンで事足りているので全然急ぎでないのだけど確かに一番軽くガシガシ使えるフライパンは古びてきた。それにしても掲げてある説明を読んでもよくわからないものだなあ。「袋止めクリップ」はちょっと失敗したかも。Sサイズ20個とLサイズ10個。数的には十分だけどSサイズは何に使うのかな。小さいお菓子はすぐ食べ終わっちゃうからクリップする必要が生じないかも。いや半分こする時とかに使うか。このパッケージ、片面は商品名とかが書いてあるシールが貼ってあるし片面からはLサイズしか見えないからSサイズが入ってることに気づかなかった。というかこんなかわいいサイズのがあることを知らなかった。今開けて出してみた。ちっこい。かわいい。今モデルとしてファミマでキャンペーンをしているスヌーピーのお菓子を思い浮かべた。3種類もらった。ドーナツは一個だけどマカロンとおまんじゅうは2個ずつ入っているから1個残しておくとして、うーん。あれには小さすぎるかやっぱり。これに合わせてもっとちっこいお菓子に切り替えるべきかもしれない。昨日はポッキーのティラミス味を紅茶と一緒に食べた。あの袋だったらちょうどいいな、そういうサイズ。新発売のお菓子を常にチェックしてるけど袋の口もチェックしてみよう。これを使いたいがために余計なお菓子を買うのには注意しよう。ちょっと余裕ができた、と思っていたけどやること忘れていただけだったことに気づいてガーンってなった。ダメすぎる。それなのに朝の貴重な時間にこんなどうでもいいことを書いているのもダメすぎる?短時間だから関係ないか。ウォーミングアップ。さてさて今日もがんばりましょう。ニトリもだけどしょっちゅう前やそばを通るのにあまり入ったことのない場所に行くのは楽しいね。いろんな工夫がされた商品をみて「今ってすごい」ばかり思ってた。今日もどこかに寄ろう、というか今日はいつも寄っている場所がある街に行く日だから今日も行こう。そうそう、6月のユリイカの特集が『わたしたちの散歩』。絶対読む。かつしかけいたさんが柴崎友香さんと対談してるんだって。散歩はいいよ。私も今日もお散歩しつつお仕事がんばろう。

カテゴリー
精神分析

季語、雨、グリーン

明日までに15句作らねば、あっという間に締切日に。今回こそは出さねば。私が毎日めでている景色には季語がたくさん詰まっていはずだがどれがどれだかわからない。5月5日は立夏。そこからは夏の季語。あの日、空港で「日本暑い!」と思ったけどリムジンバスの時間を見に外に出たら涼しくて空港だからかとなった。爽やかな風。これぞ5月。薄暑か。あとは新樹、最近行っていない滝、奄美大島で行った神様に仕える人たちが修行のために登ったというフナンギョの滝以来行ってないか。新宿白糸の滝ならしょっちゅう亀に会いに行っているが。藤房、蔦若葉、若葉、手まり花、鈴蘭、鳴子百合、卯木の花、オニオコゼもこの時期の季語なのか。うまいのか?オコゼはかわいい。水族館で釘付けになってしまう。鬼とか言われちゃってるけど砂に隠れているかっこいい鬼。

ところで雨雨雨で雨の音で数回起きて今もすごいのだけどこれも俳句にすればいいのか。夏の雨ってもっとサーっていうその後に爽やかさを期待できるものではないの?まさかもう梅雨?いやですよ、まだ。日々花々を愛でながら散歩してて「梅雨前はこういうお花が咲くよね」とか思ってはいたけど実際に来られるのは嫌だよ。でも前にも書いたけど私は長靴だけは3種類ある。一つはもうダメかも知れない。この前うちばき、じゃなくてなんていうの?インソールか?あれがまずい感じがした。もう長く履いてる。保育園の先生も褒めてくれた。「あみ先生の長靴いいなー」「長靴いいですよね」「でも高いんでしょ」「これは2980円とかだった」なんて話したな。その値段でよく頑張ってくれた。シドニーにはゴアテックスのスニーカーで行った。大雨にも立派に耐えてくれた。あ、季語から離れている。まずい。まあ仕方ない。最近、皮膚科に行きたい症状が色々出ている。これは個人的な梅雨のサイン。

昨日はアンドレ・グリーンの「Travail du négatif」の序文「Pour introduire le négatif en psychanalyse」を読んだ。négatifってそういうネガティブじゃなくて。私は写真のネガのイメージでこの用語は理解しているけど多義的だから注意が必要。昨年も読んだみたいだけど私参加できていないんだな。でもその時の資料をいただいたかもとあとから思い出した。どこにやったのだろう。グリーンの論文にも慣れてきたけど慣れてくると当初感じていたほど魅力的ではない気がしてきた。本当に好きになってきたということかもしれない。臨床家なのにこのややこしい書き方はどうかと思います、とか派手にもの言い過ぎだと思います、とかウィニコットは本当にそんなこと考えてたのかな、そんなふうに捉えるならビオンのだってこう捉えられるのでは、とかレトリック腹たつ、とかはまっている証拠か。これは私が私の無理解がもどかしいからだけではない。ずっと新しく本を読む気がしなくて再読ばかりしていたが再読のおかげで5月までの書き仕事は仕上げられたのでよかった。最近、少しずつ新しい文献を読むこともできるようになってきてグリーンの論文も読めたのだけどフランス語の英訳を読んでいるからそれはまた翻訳が意訳だからわかりにくいといこともあるらしい。言われなければそれにも気づけないが。まあ、でも読めたのはよかった。ビオンについて書いているところが一番興味深かったのでグリーンたちがビオンについて書いている本の一章を担当することにした。この本、Kindleで欲しいけど紙より安いとはいえ高いから買えない。まあとりあえず自分の分を読みましょう。その前に俳句作りましょう。その前に無事に仕事しましょう。雨弱まってください。お願い。どうぞみなさんも足元お気をつけて。


カテゴリー
精神分析 音楽

アウトプット

昨日の朝はいつもより少し早く起きた。いつも早起きだがそれ以上に早かった。ブログを書いたり資料を作ったりしてもまだ時間があった。今年は別の学会でも発表をするつもりだったが余裕がなくシドニーで抄録書けばいいか、と思っていたができなかった。どうせできない(しない)と思ってはいたが想像以上にできなくて会場で会った友人に話したら「刺激が多いからね」と言われた。確かに。私にどうにかできる刺激の量ではなかった。鳥とか空とか街並みとかキョロキョロしたり追いかけなくてはいけないものがたくさんありすぎた。集中的に精神分析のことを考えられる時間はあっても普段の仕事とは内容的にかなり異なっていたし、書き物をする気は全く起きなかった。こういうダラダラ書きならいくらでもできし時間も取られないけど学会の抄録はね・・・。が、しかし、なぜかいつもより時間が余った昨日の朝、突如やる気が出た。マイヴィンテージMac Airを持って仕事にすぐ行ける朝からやっているカフェで広げた。資料を見る時間はない。以前書き溜めておいた引用文献を使う。最近、小寺財団で狩野力八郎先生が残された本の頒布会に伺ったが、今回最初に使ったのは狩野先生のナルシシズムに関する文章だ。私はずっとナルシシズムについて考え、身近な先生とも今回発表できたらいいな、という話はしていた。全く手をつけられていない言い訳もしていたがその先生の顔もチラついた。せっかく議論に付き合ってくださっているのに、というのもどこかで思っていたのだろう。ところで狩野先生の文書を引用するのははじめてかもしれない。狩野先生は家族療法やシステム論で重要な論文を多く書いてらっしゃるが精神分析家というより医師である精神分析家として書かれたものが多いので臨床的な実感を理論にするときに私には少し違和感があるのだろう、と今思った。もちろん狩野先生の業績はそれだけではなく、ナルシシズムに関する狩野先生の整理の仕方はとてもスマートで勉強になる。狩野先生のスーパーヴァイザーでもあった小此木先生もどこからでも詳細な何かを引き出してこられるすごい人だったが、狩野先生はそれとは別の形でフロイトを読めた人なんだと思う。ナルシシズムに関してもフロイトから現代までの論考を網羅したうえで開放システムとしてそれを捉えフロイトのアンビバレントな書き方にも触れている。ああ、もっと長生きしていただきたかった。せっかく先生の推薦で精神分析協会の候補生になれたのに協会のセミナーなどで先生からご指導いただくことは叶わなかった。さて、今回もいつも言いたいことはあまり変わらない。いつも同じようなことを考えている。とはいえ時間がなさすぎる。まあこれは必須ではないのでやれるところまでやって無理なら仕方ない、という気楽さもあった。〆切は正午。仕事が始まってからは送信ができたかどうかの確認くらいしかできない。とにかく今、形にして送信、ということで4000字を一気に書いた。あと数分しか猶予がないというところで投稿したら200字以上オーバーしていた。なぜだろう、というのを今に至るまで見直していないがなぜだったんだろう。pagesで作業していたが4000字に収まっていたはずなのに、と思ったが時間がないので登録画面で大急ぎで文章を削った。果たしてそこを削っていいのか、という吟味をする時間もなかったのでただ無になって作業した。なので最終の原稿が手元にない。投稿してしまったら残らないのか・・・。〆切前なら見られたからコピペすればよかったのだがそんな余裕もなかった。200字は貴重だったのでそれを削ったものが、いや、それ以前の問題で採択されるかどうか微妙だ。ものすごい勢い、というよりかなり無になって一気に書いたので隣の人たちには異様だったかもしれない。二人いると思っていたお隣はいつのまにか別の人になっていたし。議論していた内容とは全く異なるものになってしまったが今はこういう表現しかできないのだろうから今後に繋がればいい。珍しく集中したあとも仕事もつまっていた。午後いつもより少し時間があったのではじめての店に行ってみた。まだランチをしていた。ありがたい、と思って食べていたら眠ってしまった。子供か。思考を巡らす間もなくアウトプットに集中するというのは疲れるものなんだな。大体こんな感じだが今回はあまりにギリギリだったなあ。次回こそ気をつけよう。5月末が〆切のものはこういうアウトプットができるほど考えられていないしこっちはインプットもやらねば。はあ。セミナーの文献も読まねば。ああ。まあ、昨日はがんばったので久しぶりに音楽をじっくり聴いてちょっとこだわって調べてみたりした。いい曲に会えた。

Words Left Unspoken

From“Horizons” by Jasmine Myra

友達に共有したら「めっちゃええやん」となぜかローマ字できた。最初何語かわからずまた変なこと言ってると思ったらローマ字かよ、と気づき笑った。今日は曇り?雨は降りますか?降らないですか?なんか寒いんですけど。重ね着重ね着。寒いのが一番元気なくなるから気をつける。みなさんもどうぞ風邪などひかれませんように。

カテゴリー
精神分析

カマシ新作とか日本人であることとか。

黒蜜のフィナンシェ。美味しい。黒蜜、というだけで美味しいが本当に美味しい。色々入っているハーブティーと。熱々のを喉に流し込んでしまった。また火傷だ。熱かった。すぐに慎重になることを忘れてしまう。

夢を昼と夜というまるで一日スパンで語るのは違うと思う。覚醒と睡眠のあり方や程度にも色々あるから。そういえばKamasi Washington(カマシ・ワシントン)の新作『Fearless Movement』にアンドレ3000との「Dream State」という曲があってサックスとフルートが静かで不思議な世界を作っている。私のプレイリストではこの曲のあとにShabaka(シャバカ)の「End Of Innocence」が来る。最高だな、と思う。この二人にも柳樂光隆がとってもいいインタビューをしている。彼らがジャズミュージシャンとして自分のルーツやコミュニティのことを考え家族や他のミュージシャンをリスペクトしながら常に新しい場所へ向かおうとする姿には本当に励まされる。

シャバカが語る「小さな音」と尺八がかき立てる想像力、「音のポエム」とパーソナルな物語

カマシ・ワシントンが語る、より良い世界に進むための愛と勇気とダンスミュージック

GWは世界中の国の人が集まる国際学会でシドニーにいた。とはいえ、アジアパシフィック主催の集まりであったため参加者の大部分はその地域からだった。国内の学会とは全く異なり、各国の文化、歴史が色濃く反映された発表が多かった。予想していたことではあったが日本が他のアジア諸国に対してしてきたことを静かに突きつけられたような気持ちになった。必要なことだ。

私は候補生の集まりであるIPSOのパネルで各国からのパネリストのひとりとして発表をした。私は日本の精神分析インスティチュートの歴史を素材に、分断と呼ばれる状況に対して私たちがとりうる態度についてポリフォニーという言葉を使って考えを述べた。IPAのHarriet Wolfe会長もモデレーターとして参加してくださった。発表前日、彼女に自己紹介をする場面があったがそのときも当日もgood representationと褒めてくださった。彼女は前もって私の原稿を読んでくれていた。パネル本番でもいろんな国の参加者からとても温かなコメントをいただいた。とても嬉しかったが、他の国の候補生たちの発表に少し打ちのめされてもいたのでなんとも言えない気持ちになった。オーディエンスの一人にはそれを観察されていたようで気持ちを共有してもらったような気がした。こういう場で日本人の私が何を話せるのか、という迷いは簡単に話し合える類のことでもなく、歴史を学びながら時間をかけて言葉にしていく必要があると私は思う。私はその時代に生きていなかった、だから知らない、とは言えないのである。発表後、同じような逡巡を覚えながら別の発表をした友人と小さな声でそんな話をした。まだごく最近のこととして語られるそれらに私たちは耳を澄ませる必要がある。ジャズミュージシャンたちの語りに対してもそんな気持ちになるが、いつもどこでも励まされるばかり。今日は雨。今日も学ぶ。

カテゴリー
精神分析

病気というのは難しい。

窓を開けたらカーテンがブワッと膨らんだ。昨日から風が強い。地上ではあまり感じないがカーテンや洗濯物の動きを見るとそう感じる。

バラバラと色々なことをしているが特に進んでいない。夜はNHKスペシャル「山口一郎 “うつ”と生きる~サカナクション 復活への日々~」を見て少し泣いた。病気は本人だけでなく周りの人にとっても苦しい。うつ病は「鬱病」と書くべき難しい病気だ。身体は重たく、痛みもところどころで発生する。思考はパターン的になり自分にも他人にも別の見方をすることができず苛立ったり情けなくなったりコントロールが難しくなる。全く眠れなくなる人もいる。薬が効く場合が多いので医療にきちんと頼ってほしいが服薬に抵抗がある人も多くその不安についてカウンセリングをすることもある。とにかく色々一旦棚上げすることが必要になるが「色々」に耐えうる自分でないときに「一旦」という気楽さを持つことは難しい。医療にかかると自分の状態をシンプルにモニタリングしてもらえて投薬もそれに応じてなされる。物足りなく感じる人もいるかもしれないがこれがもっとも大事なのである。もちろんそうすることの背景に膨大な知見の積み重ねがあるわけだがそういうものを感じられない場合もあるだろう。どんなに苦しくても全てを誰かに委ねることはできないし、またそうしたくもないし、そうできる相手もいないし、など病気になるというのはいろんな次元の困難に出会うということでもあるので正しい知識がまず大事なのである。サカナクションについて私はよく知らず、山口一郎についてもよく知らず、『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』のMVが強烈でそのMVが一人なのでソロなのかと思ってしまったりして、こういうプロモーションのあり方や私みたいに中途半端な消費者の誤解が彼やメンバーやその周りの人の苦しみに繋がっていたりもすると思うが、なにかはなんでも本来苦しみだけに繋がっているわけではないので仕方ない面もある。ただその人が病気であることを知ったのであれば自然となされるべきことはあるだろう。

今日はやることがある程度決まっているのでこなすことならできるだろう。自分次第の課題もどうにか進められたらいいのだが。今朝のお菓子は山梨のお土産、桔梗屋の「甲斐の山々」。こういうのは美味しいに決まっているサブレ。クリームがさっぱりしていて甘すぎなくて美味しかった。知覧茶と一緒にいただきました。知覧もまた複雑なものを抱える街で、と書き始めると長くなるから書かないけど茶畑の美しさは別格でしょう。美味しいし。美味しいがいろんないいことを連れてきてくれますように。

カテゴリー
精神分析

いい時間

映画『落下の解剖学』をなんとなくみた。犬がよかった。犬は本当にえらいが大変だ。多分。子どもも。大変だ。多分。大人は都合がいいからな。

発表時間は15分だった。「5」という数字がみえて少しスキップしようとしたら両側から優しく止められた。映画で犬が言われていたように「大丈夫、いい子」という感じのことをいわれた気がした。その場面を友人が写真に撮ってくれていた。まんなかで少し笑う自分がほんとに子どもみたいだった。私は外国の人のこうしたスピードに結構びっくりしてしまうのだがたしかに力強くサポートされた感じがした。日本語で15分間の原稿を英語にしたらまったく時間内におさまらなかった。かなりスッキリさせてちょうど15分におさめて大会の担当者に送付したのが一ヶ月前。友達に「深刻な否認」といわれるほど無になることでやり過ごしていた。というかプリントアウトした原稿を持ち歩くだけで単に練習をサボっていた。発表の1時間前に会場のロビーのみんなに背をむける位置にある椅子で読んでみた。口がまわらない。やばい。読み終えてストップウォッチをみたら17分。ありゃ。早口になるともったいないから、と言われて減らしたのに。それがあったから「5」という数字をみて急がなければと早とちりしてしまった。本番はやはり早口になったのか急ぐ必要はなかった。両隣の二人は素早く優しくそれを教えてくれた。無事に発表を終えたあとのディスカッションもあたたかくHAPPYないい時間になった。感謝。

それにしても日本は暑そう。早く薄着になりたい。今日も良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析

鳥、不気味なもの、台湾

かもめがきた。手を振った。手を振るくらいなら餌をくれ、だな、と思いつつ。もう一羽のかもめがきた。口から何か白いものが出ている。釣り針?釣り糸?しばらく変な首の動きや歩き方をしていて苦しいのかなと思ったがそのあと見たら口から何か出してはいるけどもう何事もなかったかのような顔をしていた。顔じゃないか、動きか。とりあえずよかったのか?苦しくなければいいけど。かもめの白は濃くてきれい。SNSで鳥の写真を見るのが好き。時折真っ白な文鳥が羽をシャラーっと広げた姿を見る。透かし見える白がとてもきれいで毎回びっくりする。鳥の目とか魚の目って少し不気味。私は愛でているけど。

フロイトは「不気味なもの」(1919)の中で不気味なものは実は馴染みのあるものとしている。私が月とか鳥の目とかに不気味さを感じると同時にそこに愛着を覚えるのはそういうことなのだと思う。どういうことだよ、ということを説明する気力が今朝はない。疲れている。

台湾の人に『亡霊の地』(陳思宏/三須祐介訳)をお勧めされた。早速Kindleに入れた。評価も高い。その人はその本について発表をするらしい。聞きたかった。フロイトがそうであるように文学と精神分析を切り離すことはできない。これからはそれらを絡めた発表を私もしていけたらいいなと思った。

しかし疲れている。数日ぶりにお酒を飲んだせいかもしれない。台湾の人たちとのおしゃべりは楽しかった。台湾、また行きたい。美味しいし優しいし楽しい。健康な胃腸を持ちたい。どんな疲れていてもこの先に楽しいことがあると自然に思えているのはそこそこ健康なのではないか、と自分を励ましながらがんばろう。できないなりにできないことをやるぞ。鳥ともおしゃべりするぞ。みんなもいいことありますように。

カテゴリー
精神分析

もちこたえる

たくさん聞いてたくさん話しながらたくさん歩く。自分がいた場所と少し離れるだけで景色が変わることを知る。驚く。相手がいると自分が何に対してどんな気持ちでいるかを知ることもできる。意外な気持ちで事実を内省できる。それは率直に反応してくれる相手のおかげだけど。率直に反応するされる仲になるにはそれなりの時間経過とコミュニケーションが必要、強く支えられるときもあればまるで異なる意見を言われてショックを受けたりもするから。単に自分が思っていたことと違うことを言われて頭と気持ちが追いつかなくてショックを受ける場合もあるけど相手の気持ちを知って「ああ、そうだったのか」となるショックもある。どちらにしても大切にしたい相手であればそういう自分や相手にもちこたえる必要がある。「もちこたえる」という言葉は私の仕事ではよく使う言葉だと思う。何に、かといえばたいていsomething bad or unpleasantでその状態をkeep, hold, sustainしているある種の緊張状態だと思う。一言でsufferと言ってもよいのかもしれない。先日sufferにはwaitの意味があると聞いてなるほどwaitかと思った。そうするとそこには単なる緊張状態ではなくてその先が見えてくるなと思った。something bad or unpleasantがgoodかpleasantの方向へ、少なくともnot bad,not unpreasantくらいの状態へ変化することへの期待が込められている。実際はそうに違いないのだが、臨床現場で「もちこたえる」という言葉を使いたくなる場合、それはかなりなすすべがないといか行き詰まっているときで希望は無意識に追いやられている。どこかで希望がなくてはもちこたえることなどできないにも関わらず。しかしだからこそ「希望」とかいう言葉を簡単に使えないのかもしれない。「希望が持てないんですね」とはいえても「希望を持ちましょう」とはいえない感じがする。「少し希望の光がみえてきた感じでしょうか」とはいえるか。「希望の光」はたいてい「一筋の」とかがつくわけでそんなにすぐに全体を照らしてくれない。ひたすらその状況にとどまりながら時間に何かを託している状態でふいに気づかれるような、そんなものがあるのを忘れていたような光で安堵をもたらしてくれる。でもその光は未来からとか神様からとかではなくて実は過去の蓄積から生じてくるのだと私は思う。だから人はすぐに自分にとってbadだったりunpreasantなことが起きると「あのとき自分が〜したから」「あんなことさえしなければこんなことは」など思うのではないか。過去の集積=過去のせい、というのは明らかに短絡的なわけで「どう転ぶかわからない過去を積み重ねてきたんだな、それが今たまたまこんな光になったんだな」という認識がまず重要だと私は思う。すぐに何かに結びつけるような思考は反復を生じさせる気がする。だってそれはどちらかというとナルシシズムの世界にひきこもっていくような感じではないか。コミュニケーションが大事だけどとても難しいのはどちらに転ぶかわからないきっかけを作り出すものでもあるからだろう。信頼していたのに、大好きだったのに、あのときに言われたことって実は、あんな言い方で伝えてくれてたことって、など相手が心にいると出来事は時間経過とともに変化する。ああ、さっきから眠くてしかたないのにダラダラこううちづけている。ねむけにもちこたえることで何かを待っているのだろうか。希望的な何かを。いまのところ起きなくてはならない、という現実しか見えない。ああ。おなかがすいた。昨日は美味しいサラダに出会った。サラダは素材の味も大事だけどドレッシングが特に大事だと思うんだよね。バルサミコが上手に使われていたみたい。まあ、調味料っておいしいよね、みたいな話でもある。でも「おいしいサラダになーれ」と言いながらかけても誰も「調味料かけただけじゃん」とは言わないし。あ、うとうとしてしまった。わかりやすい魔法で今日が良い1日になりますように。なーれ。なれー。

カテゴリー
精神分析

大雑把に。

PCからブログが投稿できなくなってしまった。どうしてだろ。

知らない街をなんとなく歩く。橋が見えたから橋のほうへ、というように。昔、半蔵門駅近くで働いていた頃、帰りに東京タワーが見えたから歩いてみた。遠かった。近づけばみえなくなってしまう。すると遠回りしてしまう。途中、路上の地図を確認してはまた近づく。その繰り返しだった。当時はまだGoogleマップもそんな一般的ではなかった、というわけではないかもしれない。私はいまだに使いこなせていないから。友人に野生の勘で歩いていると言われた。単に時間内で目的なく歩くのにストレスを感じないだけだが。野生は目的はっきりしてそう。私はむしろ暇と退屈をもてあそぶ人なんだろうな。

小さな子とピンクの服が目立つおばあちゃんとその家族がいた。ベビーカーを軽々と持ち上げながら急な階段を降り、そうしながらさらに赤ちゃんに陽気に語りかけるあの人が父親だろうか。似たような年齢の男性がもう一人いる。かなり高齢にみえるピンクのおばあちゃんはどの階段の踊り場にも先頭で降り立つ。お元気。みんな元気。

時折急に強い雨が降る。カフェの窓は全開。あまり気にしている人もいない。私は時々気になるけどなんとなく気にしない仕草が身につく。

おやすみとおはようをいうのを忘れた。鳥にばかり話しかけてしまった。通じない相手ほどそうしてしまうのはなぜ。いつも通り「とりー」とよんでいる。

PCが故障していないかが気になるがすでにヴィンテージだからしかたない。よくもってくれたと思えるさ、きっと。

おおよそのことは大体こんなかんじ、そんなものさ、まあそんなとこかな、いいんじゃない?くらいで動いていく。いちいちうるせーよ、という世界は窮屈。トリー、おはよー、みんなー、おはよーと大雑把に世界と関わる。それぞれどうか良い一日を。

カテゴリー
精神分析

特別な夜明け

特別な太陽をみた。赤く染まり始めた空に真っ赤な太陽がのぼった。そのあと一気に透き通るような白になった。それはまるで魔法の鏡みたいでものすごい光で思わず友人を起こした。光はだんだん空を水色にしながら散っていきそろそろ朝なのだろう。真っ白な満月のような太陽。これから夜が来てしまうかと思った.

眠りたくない。朝が来てしまうから。そういう声をたくさんきいてきた。何度も何度もそういいながら何度も何度も薬や刃物で自分を傷つけながら。そんな日々を何年も繰り返しながら「ねてもねなくても来ちゃうんですけどね、朝。」というようになったりもする。

昨日まで「普通に」笑っていた人が二度と起きなかったり、自分では動かせない身体でひたすら死を願ったり、今日も目覚めてしまったと絶望し再び暗い布団に潜り込んだりいろんな境目の超えかた、越えようのなさがある。どれもこれも自分でコントロールしているのはごくわずかだろう。

「自分で!」とあるいはその言葉を獲得する前から大人の手を振り払うこどもたち。そっとサポートする手にもすぐに気づき、怒る。「バレたか」と大人同士笑い合う。「自分で!」といえて受け入れられること。豊かで大切な時期だ。

こんな特別な夜明けに出会いながらどこかでそれを血が滲んでいるようだと思った。内臓のような赤にも見えた。写真には映らないものたちに囲まれた生活を思う。

山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』 の文章を引く。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3914

東北で育った山内明美は石牟礼道子を訪ねる道中、水俣で子供の頃の遊び場や発声や発語を奪われた人たちについて書く。

「その震源でもっとも苦しんでいる人びとが、自ら声をあげられないこの理不尽な世界のあらゆるしわ寄せを、水俣は一身に引き受けてきた。水俣は、いまも抱え続けている。  

うちが働かんば家内が立たんじゃもね。うちゃだんだん自分の体が世の中から、はなれてゆきよるような気がするとばい。握ることができん。自分の手でモノをしっかり握るちゅうことができん。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい。そらもう仕様もなかが、わが口を養う茶碗も抱えられん、箸も握られんとよ。足も地につけて歩きよる気のせん。宙に浮いとるごたる。心ぼそか。世の中から一人引き離されてゆきよるごたる。  

くり返すが、海と暮らしてきた人びとは、充満する「無限」世界のなかで生きてきた。「世の中から一人引き離されてゆきよるごたる」と語るゆき女の心ぼそさは、わたしたちが理解できる範囲を超えた離散であるには違いない。だが、ここにひとの魂の深さを、誰だって読みとるに違いない。」

こう書いている隣で老夫婦がサプライズで誕生日を祝われていた。もう成人して海外で暮らす娘さんたちがいるらしい。祝う側の女性にも2歳になる娘さんがいるとききお二人は「びっくりした!」「えらいわね!」と声をかけた。

神様はいなくても誰かがいる。そう思えたらいいなと思った。

カテゴリー
精神分析

みかん、未完、逃避

雨の音。車が水を巻き込みながら走る音が聞こえる。なんとなく聞き入ってしまっているうちにもうだいぶ時間が経ってしまった。山口県のみかんを食べることにした。むいてきた。甘い。なんというみかんだったか。何度か口にしているし、さっき見たばかりなのにもう忘れてしまった。みかんを噛む音で雨の音が消える。みかんの汁は口の中を濡らすにはとてもいいけど雨みたいに降られたら嫌だね、ベタベタになってしまう。どうでもいいことを考えながら食べ終えてしまった。また雨の音。

週末、あまり行かない街を散歩していてインスタでフォローしている本屋さんや雑貨屋さんの実物を見た。なんか知っている名前、と近づいてみて調べてみたらフォローしてた、みたいな。こんな小さい本屋さんなんだ、すごくいい場所にあるんだな、あれ、入り口は小さいのに中が広い。お客さんもたくさん、などイメージはどんどん塗り替えられ、そこがそこでどうして営みを続けていられるのかを知った。文脈って大事だ。南方熊楠は「未完の天才」といって途轍もない範囲で膨大な量の仕事をしたが何を成し遂げた人かと聞かれたら答える方は困ってしまう。熊楠は生活の糧のために何かをしていた人ではないから、ということもできるわけだが形にすることが必ずしも何かを成し遂げるということではないわけでこれだけのことをやって生きて死んだのだから存分にやり遂げたともいえる。自分が研究対象になっている時点で成し遂げないことで成し遂げることを目論んだ人なのでは、無意識でと思ったりする。精神分析だった同じだ。ゴールは特にない。自分の中に変数が増えていくばかりでそれがいい感じで動き出せば人生は結構いい感じだ、と思える、ただそこまでが途方もなく感じる、というやつ。何を書いているのか。色々無になることで考えないようにしているうちに現実の方が近づいてきた。はい、ここまでですよ、ここから先はやるしかない以外に進むことはできないし戻るという選択肢はありません、という現実。世知辛いわー。でもね、人はそこからまた逃げ道を見つける。でも少し先に進む。だってそれしかないのだから。こういうところはうまくできてるよなあ、人間も、環境も、と思う。環境は変えようがないものあってそれは本当に辛いことなのだけどあえて自分で作っていく環境というのもあるので、そこだったら本当の本当に追い詰められたり破壊されたりすることはないので練習場所にできる。逃げまくったり失敗しまくったりしてもどうにかなる世界。赤ちゃんの環境を広くしすぎないこと、目が届く範囲、手が届く範囲であることが大切なのと同じ。赤ちゃんはこれから育つためのパターンを身に付けないとだから精一杯自分を出しまくってこの先はいけないのかとか学んでいくわけだけど大人は自分を出しまくるのはかなり限定的な場所でやってそういう限界を学んで同時に自分の可能性を知っていく必要がある。どうせ自分は、とかいったところでどこにもいけない。が、どこにもいきたくない場合もあるのでそういう言葉が悪いわけではない。あ、また書き続けてしまった。逃避だな。がんばりましょう。

カテゴリー
精神分析

狩野力八郎先生の本

4月29日のにっぽんのいろは躑躅色だそう。今年もツツジを満喫した。ワイルドにそこら中に咲いていてくれるし根津神社みたいに見事に整えられているのもあるし。ツツジやフジは私の中では5月の花なのだけど4月の終わりと合わせて花の色をなくしていく様子。毎年こんなに早かったっけと言っている気がするからGW前の花なのかな。また来年。きっとすぐ会える。でも自分がどうなっているかは全く不明なんだよね。不思議。花だって突然大地が割れたり流されたりしてしまうことはあるだろうけど人間の方が不確定要素が多いと思う。つい数日前に普通に笑って話した人が突然入院してすぐに亡くなったことがある。本人が一番びっくりしたのではないだろうか。元々病気を抱えていたとはいえあのときの時間の流れはおかしかった。コロナ禍で火葬場が混んでいるという話も普通にされお葬式も身内だけでせざるを得ない時期だった。死は悲しいのだけどそれだけではなくてその人が私の心の中でいかに生き続けているかをも事後的に教えてくれた。先日、2015年に亡くなられた狩野力八郎先生が残された蔵書の無料頒布会に伺った。仕事の合間にサッといったのでじっくり見られていないが古典はあまり多くなかった印象。もう絶版になっていると思われる本を数冊いただいた。節度を持って、と口頭で言われただけで何冊いただいてもよかったのだが節度も荷物の限界もあった。私自身が古くなってきて今は絶版である本を普通に買えていた時代の人なんだなとも思った。ただ、私にとってこの会は単なる本の頒布会ではなくて狩野先生を強く意識する会で、先生はこういう本も読んでいらしたんだな、と少し本に触れて密かに狩野先生を偲んだ。先生のゼミ生だった方に声をかけられて「狩野先生」という言葉を交わすことができてなんとなくよかった。次世代をきちんと育てられた先生だった。私は先生には何度かケースを見ていただきとても大変な局面を支えていただいた。お会いするたびに気にかけてくださった。狩野先生は69歳でまだお若かった。亡くなってからもう10年近く経つのか。先生に推薦書を書いていただき無事に候補生になれてからも同じくらいの時が経つ。今回の頒布会で先生をこうして思い出すことができてよかった。本当にいろんな先生方のお世話になって今がある。先生方の時代の精神分析は豊かだったと思う。狩野先生は『精神分析になじむ 狩野力八郎著作集1』の中で古澤平作、小此木啓吾の仕事に触れつつ「岩崎、神田橋、小倉、牛島といったいわゆる第三世代、北山、相田、皆川、狩野といった第四世代」と書かれている。ここ数年で亡くなられた先生もおられるが、お名前を見るだけですごい時代だったと思う。来年どうなるかわからないとしてもというか今日、明日どうなるかわからないとしてもこういう今があることはありがたいことだと思う。はあ。がんばらねばなあ。狩野先生、どうもありがとうございました。

カテゴリー
精神分析

フロイトを読む

「だけど精神分析はフロイトを読まなきゃできません。フロイトを読まない人は精神分析はできません。ここが違います。」

と藤山直樹先生は『集中講義・精神分析 上 精神分析とは何か フロイトの仕事』(岩崎学術出版社)で書いている。私もそう思う。なのでもう何年もフロイトを読み続けている。コロナ禍に安くてオンラインの読書会がたくさん開かれるなか、私はコロナ以前から小さなオフィスで対面でフロイトだけを音読、精読する読書会を主催してきた。これだけ丁寧に読む会はあまりないと思う。少なくとも私が体験してきた会にはなかった。精神分析そのものを体験、実践する人は少ないが、私はせめてフロイトを対話的(「対話」って嫌いな言葉になってしまったが)に読める人を増やしたいという気持ちを持っていた。分析家の先生たちと「フロイトだったら」という話をするのは楽しい。時代が違うのなんて当たり前で実践においてそれらはすでに古典で、そのまま受け継いでいる人はいない。それでも現在の精神分析を作ってきたのはフロイトと、そして患者と素手で取り組んできた人たちであり、それをしなかったら精神分析は生きている何かではなく部分使用される古物みたいになってしまう。まあ、特になくなってもいいと思っている人も多いとは思うが、現在も長くて高いこの治療を受けている人たちがいることも忘れないでほしい。相変わらず苦しくても以前よりずっと楽な自分で生きられるようになったという実感を得ている人がいることも事実である。彼らは週の半分以上、分析家のところへ通いながら今の自分を認識するということがどのくらい困難かを知り、その困難を通じて出会った自分のどうしようもなさに絶望しながらもそれまでよりずっと楽だと感じ、実際に外側での適応は自然とよくなり、大きくは変われない自分ながらも人を頼り人を憎んでも関係が切れないことに安堵し以前よりずっと人(自分を含む)を信頼しながら安心して生きている自分を発見する。そういう人たちの信頼が精神分析を生き残らせてくれているともいえる。やはり地道な実践ありきだなと思う。フロイトと真摯に向き合える人も人に対する信頼感が高めなように感じる。たいして読まずに批判めいたことをたやすく呟ける時代にそんなことは当然せず、自分がやっている「精神分析的」臨床とは別のものとして、しかしそれを振り返るものとしてフロイトの言葉を聞くように読み「精神分析だからこうなるのか」という発見を素直にしている様子をみるとホッとする。今年度の私のReading Freudの回は「ねずみ男」と呼ばれる症例について書かれた論文から読み始めた。1909年出版の5大症例のひとつである。あ、洗濯物ができてしまった。今日はいいお天気みたいだから干しっぱなしでいきたいから干してこよう。フロイトは自宅で精神分析を行っていたので患者はフロイトの生活の断片と出会っていた。「ねずみ男」と呼ばれたこの患者はフロイトにとってかなり特別な患者でフロイトに食事まで出されている。それだけでなく最初からややこしいことをたくさんしているこの治療は詳細な記録が残っている唯一のもので今だからわかるフロイトの限界を知ることができるという点でも貴重だ。私はまず生活、そして仕事、今日もその繰り返し。がんばろう。

カテゴリー
お菓子 精神分析

うまみ、面白味、醍醐味

早朝より早くに起きてしまったからお布団で携帯で作業しようかなと思ってiphoneをもってお布団に戻ったら眠ってしまった。そんなものそんなもの。

今朝も調布市「feuquiage」のフィナンシェピスターシュ。ピスタチオのお菓子はもう本当にどこでも定番ですね。外国だともともとそうだったりするのかしら。昔々にもらったアフタヌーンティーのかわいいフォークでパクリ。あー、これもとっても美味しい。しっとり。かなり甘いと思うのだけどこれぞ「うまみ」では、とまた「うまみ」をよくわからないまま使う。味とは模索するもの。模索を楽しませるものが「うまみ」では。というかそもそも感覚器官を意識的に使わせるものには魅力があるのかもしれない。

私が日々営んでいる精神分析だってお互いにものすごく辛い局面はあれどやっぱり自分の面白味、人間であることの醍醐味を知るから受けた人はそれを価値あると思うわけだし。私は訓練でもあったから患者として受ける以上に膨大な時間とお金をかけたけど自分にとって本当に良い選択をしたと思う。感情をフルレンジで使うのが精神分析だと言われていたけどこれは無意識の作業を相当しないと難しいとよくわかったし、それができるようになって私の場合は楽しいこと、面白いことがそれまで以上に増えた。SNSとかで時折外側から呟かれるようにいろんなことが日本の精神分析協会にもあるけどどの組織にも少なからず何かはある。内側にいる人はその部分だけに関わっていないというよりその部分に巻き込まれながらそれをどうにかしていく人間なので批判ではなくコミットしつづけることが必要で大変。もちろん素知らぬふりをしながらとりあえず所属先として組織を使用することもできるけど私は自分の居場所を人にお任せするのはちょっと嫌。自分のオフィスを他人にあつらえてもらうのは嫌、自分の家庭を他人に評価されるのも嫌(これはしょっちゅう起こりうることだけど)。治療関係もなんでもそうだけど外側から何かいうのは簡単だよ、と思うこともある。でもそんなことを言っている暇はなくなってしまった。余裕がないから協力して、とは思う。もしも批判が「良く」する方向をむいているならそのための言論空間を守り育てる方向にシフトしていかないとではないだろうか。他人のこと、他人のせいではなく、環境因はもちろんあるものとしてそこで生きている自分のことを考える、というのは精神分析作業の前提。だからこそ精神分析はその歴史において自分が自分にいかに激しく巧みに抵抗するかを明らかにできた。防衛ってすごいし、病的な防衛と言われるものもあり、わたしたちはみんなそれを少なからず使いながら生きている。結構大きな問題を自分だけ見て見ぬふりしていられることだってできてしまう。精神分析はそういう自分でありたくない人が価値を見出すものだと思うし、大抵の人はそんな日々やっていることを変えようとは思わないわけで、本当にどうにもならなくなって受ける場合が多い、というかそうじゃないとそんなに時間とお金かける気にならないだろうからメジャーにはなりえない治療。メジャーになったらそれはそれで豊かな時代が来たな、という感じがするし好循環かも、と内側の人間としては思いたいけど。私の場合は昔から精神分析家になるというより精神分析を受けることを決めていたのでよっぽどどうしようもない自分を感じていたのだろう。フロイトを読む以外に精神分析のことなんて何も知らなかったのに不思議な縁だと思う。色々ある組織であってもどの訓練分析家の先生たちにもとてもお世話になった。人間は本当に自分にも他人にもわからない部分でできているのでそのわからない部分にまずは治療者が持ち堪える訓練が必要でこれがないと無意識は揺るがない。表面的な変化は生じてもその変化を起こしたのが精神分析かどうかはわからない。自分でも相当びっくりな自分を体験するのが分析なんだと今は思う。途中から自分で自分のこと手放して委ねて苦しんででも興味を持ち続け、それができるように関心を向け続けてくれる相手を知る。人は人に支えられている。そこへの信頼が自由をくれる。今世界のいろんなところで起きている戦争ではそれが損なわれている。精神分析ではケアはキュアの前提であって自分と他人をケアすることは分けられない。常に相互作用。本当にいろんな大変さがあるけどその面白味、醍醐味を知ることができて本当に良かった。嬉しいし。

東京の今日は雨。大きな傘を持っていこう。台風の時に傘の骨が曲がっちゃって今もそのままなんだけど元々が大きいから不便ではなくまだ直していない。傘屋さんで買ってもらったいい傘だからそこに持っていけばいいだけなんだけど。梅雨に入る前に直していただきにまいりましょう。みんな元気かな。そこそこでも何かいいことありますように。

カテゴリー
精神分析

リプトン、情報、4月感

南の窓から鳥の声が聞こえた。西の窓からは聞こえない。どこへいったのだろう。

今朝はアーモンドののったしっとり焼き菓子。どこのだったか。いただきました。見た目よりずっとさっぱりしていて美味しい。お徳用のリプトンと一緒に。リプトンといえば茶葉そのままよりティーバッグという印象がある。今は本当にいろんな種類のが出ていて、と少しネットで調べてみたら知らない紅茶もたくさんあった。何気なく調べるとすごく驚くわけではないが少し興味を引かれてしまう記事に多く出会ってしまう。そして読んでしまう。そしてこんな時間になる。今日はまだ時間があるからひとつ例に挙げてみるとなんとリプトンというか森永乳業というかリプトンって

「缶・ペットボトル飲料はサントリー食品インターナショナルが製造、(中略)紙パック・チルド飲料は森永乳業が製造・販売している。」

そうだ。wikipediaに書いてあった。

しかもミルクティーは「(2022年3月ロイヤルミルクティーにリニューアルしたが、2023年3月復活)」とのこと。ミルクティー「旧発売」に向けてお客さんからの問い合わせの言葉を使った短編アニメ「667通のラブレター」というのも作られたという。渋谷駅でプロモーションしていたらしいけど私は出会っていたのだろうか。渋谷駅も新宿駅もいろんなアニメの絵が大きく張り出されていたり映像が流れていたりするがそれらを横目に通り過ぎるだけでそれらの前で写真を撮ったりしている人たちほど意識的に目を向けていない。新宿駅西口と東口をつなぐ地下通路は新しい方は映像、古い方はポスターと分かれて提示されているイメージだがそんなことはないのだろうか。両方ともただの壁に見えるけど仕様が異なるのだろう。すごいことだ。

先日、同世代の友人とラジオの良さについて話していた。無駄と思われる情報と触れることって大事というような話を子育ての話の中でしていてCMの効果についてもお喋りした。テレビつけっぱなし、ラジオ流しっぱなし、というのは選択したものをYouTubeで見るのとは異なる構えをこちらにとらせる。情報に対してニュートラルな身体でいることは難しいけど情報の質や量に少し意識的になるだけで関わり方は変わるかもしれない。4月になって街の景色が変わったなと感じるのも毎年同じような生活をこちらがしているからだろう。カチッとしたスーツ姿で外の段差をベンチにしておにぎりを食べている二人を見かけたが多分これは4月の新入社員の光景。しばらくしたらすぐそばのベンチにも気づくだろう。微妙な距離感なのになんだか楽しそうで素敵な光景だった。みんなの毎日はどんな感じだろう。4月感、ありますか。私は毎日「トリー」「はなー」と密かに盛り上がっている。鳥と花の名前もそろそろ詳しくなっても良さそうなものだが全く記憶できない。それがなんでも愛でるものが豊かにあるのは良きこととして今日もがんばろう。良い1日でありますように。

カテゴリー
精神分析

ブールドネージュ、スカートまわり、『窓ぎわのトットちゃん』

お土産のスノーボールをつまんでそっと半分噛んだ。サクサク。もう半分もすぐに口に入れた。サクサク。フランス語だとブールドネージュというお菓子。とっても好きなお菓子のひとつ。精神分析家になるための訓練に入ったのが、つまり精神分析家候補生になったのが2016年。お金を節約しなければというのもあったけれど時間が取れなくなってフランス語の教室に通うのをやめた。先生とはSNSで繋がっている。ちょうど通っていた頃にお子さんが産まれて赤ちゃん用靴下をプレゼントした。喜んでもらえた。私はかわいい箱にちっちゃく重ねられたシューズ柄の靴下を出産祝いの定番にしている。友人は健診にその靴下でいったら人気者になったと笑っていた。「出産祝いに靴下をあげた」とフランス語でいう場合、J’ai offert à mon professeur de français une paire de chaussettes comme cadeau de naissance.ってきちんとjeを主語にしたほうがいいのだろうか。Les chaussettes étaient offertes lors de la naissance d’un bébé.みたいに受動態でいうのは不自然か。フランス語の発音が好きなのでまたやりたいがまずはお菓子で学ぶフランス語ということでいろんなお菓子を食べましょう。いつもなにかと理由をつけてお菓子ばかり食べていたらすっかり腰回りが太くなってお気に入りの巻きスカートが入らなくなってしまった。20年前に友達にもらったもので昔から巻きスカートが大好きでとても気に入っていたのに。小学生の時、巻きスカートで鉄棒をぐるぐる回っていたら滑って落ちたことがあった。スカートまわりといってスカートを少し鉄棒に巻き付けてそこを支えにするとぐるぐるぐるぐるぐる回れて私はこれが好きだったのだが巻きスカートは巻くときに左右でずれが生じるから失敗したのだろう、と今となれば思う。それにしても当時の私の多動ぶりはすごかった。暇さえあれば身体を使って遊ぶという術がなかったら教室の椅子に座っていることも難しかったかもしれない。小学校2年生の時、担任の先生が毎日『窓ぎわのトットちゃん』を読み聞かせてくれた。毎日帰りの会かなにかで数ページずつ。私はその時間が大好きだった。みんなトットちゃんと自分を重ねる部分が多かれ少なかれあっただろう。私の初恋の人でもあるその先生は私たち子供のことをよくわかっていらした。大変荒れた学年で卒業まで問題続きだったがまだ20代だった先生はいつも元気で大らかだった。友達と先生の家に遊びにいったこともある。そういう時代だった。先生が38歳になるくらいまで年賀状のやりとりをしていたと思う。なぜ38と思っているのかは忘れてしまった。先生が結婚したときは少し複雑な気持ちになった。そういう複雑な気持ちを教えてくれる先生だった。自分を持て余す子どもたちに葛藤することの大切さを自然に教えてくれた。現代は葛藤も高級品になったがそばに共に持ち堪えてくれる大人のこころを感じることができれば誰にでも抱えていられるはずのいくつものこころが今日もどこかで大切にされていますように。私もそうできますように。全く余裕がない毎日だけど今ここで先生のことを思い出したら穏やかな気持ちになった。お元気でありますように。皆さんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

カテゴリー
精神分析

修理

寝坊、でもないが、いつもより遅くなった。が、のんびり和菓子。うまい。あまい。

iphoneがそろそろ寿命らしい。Appleサポートとチャットして見積もりを出してもらった。修理するなら買い替えたほうが良さそうだけど高い。チャットの相手はAIなのだろうかと最初は思ったが言葉の使い方や処理の時間からすると違うか。Macもバッテリー修理が必要で予約をした。 Macもかなり古い。冬の高野山に持っていったときはフリーズしてしまいお正月から銀座のアップルストアに長居することになった。高野山へは修行に行ったわけではない。長期休みの恒例日本全国めぐりの旅だった。原稿が書けておらずPCを持ち込んだが原稿が進まないどころかPCは単なる荷物となり、お正月に慣れない都会で無為な時間を過ごすことになった。一番早く予約を取れたのが銀座だった。一番大きな通りにあった。今もそこにあるのかどうか知らないがアップルストアはどこもわりとメインの通りに面している気がする。渋谷の公園通りのアップルストアの隣はバレエ用品などをうっていたチャコットという店だったがもう跡形もない。ビルがなくなっていく様子を私はずっと追っていた、というか単にその前をしょっちゅう通っていたので見ていた。高校時代の友人が大人になってからバレエを始め一緒にグッズ探しに付き合ったときにはじめて入った。身体が恐ろしく硬い私にも絶対できるようになるよと勧めてくれて少し心動いたが今となるとあの時はじめても絶対できるようにならなかった気がする。友よ、あの素敵なチャコットはなくなってしまったよ。友は東京を離れてもバレエを続けていた。私のMacのフリーズは原因不明だった。店内では無理ということで工場に修理にだして直ったとなってもまたフリーズしたりした。二度目は渋谷のアップルストアに行った気がする。トラックパッドから汚れが入ったとかでお掃除してくれたりOS変えたり色々してくれたが原因不明で寒すぎたりするとそういうことが起きるかもしれないということになった。高野山は雪だった。それだけで修行だったが、素敵な宿坊の朝は早く、お坊さんたちと同じお経を唱える会に出たら足元が恐ろしく冷えて私がフリーズした。Macは結局Chromeをアンインストールしたら落ち着いたのでそういうことだったのだろうと思っている。私は私の部分をアンストールしても原稿を書けるようにはならないのでこんなんなままなんとか書いて出したのだろう、その後きちんと形になったから。あの年のお正月の銀座は中国の人がすごく多かった。今はどこもかしこもとにかく外国の人が多い。日本はどんな感じですか。都会もいいですが高野山とかも良きですよ。それにしてもシドニーでMacもiphoneも使えなくなったらどうしよう。また修理に時間もかかるしお金もかかる。困った、がいく前に治すべきだよなあ。ああ。まあ今日もなんとか過ごしましょう。よいことありますように。

カテゴリー
精神分析

山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』(青土社)

眠い。昨日もお菓子をいっぱい食べた気がする。満足できるお菓子とそうじゃないお菓子があってそれが甘さのせいなのか量のせいなのか味のせいなのか食べるタイミングのせいなのか気分のせいなのか他にも色々複合的な要因のせいなのか自分で全然わからなくてなんかいつも「美味しい!」となっても物足りなさが残ったりする。朝にいただくお菓子は少量でも美味しくて満足と思えるものが多いから時間帯とおなかの空き具合によるのかも。今朝は秩父のお土産「秩父よいとこ」。これは何度かいただいたことがある。白餡と芋餡かな。いい香り。甘ーい。お茶とあいます。今日はほうじ茶。温まる。ここ数日はエアコンいらずで服装の調整だけで過ごせる快適な気温。嬉しい。なんか雨が窓に当たる音がするんよ。いやね。出るまでにやんでほしいけど出るときにこそ降ってそう。そういうものですね。

石原真衣、赤坂憲雄と読んで今度は山内明美。南三陸生まれの研究者。『こども東北学』(よりみちパン!セ)を読んだことがある方も多いかもしれない。私が今回読んだのはこれもSNSで見かけた山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』(青土社)。今年三月に出たばかりなのね。震災後まもなくいろんな本が出始めて私は本屋でそれらを違和感を持って眺めていた。丸善お茶の水店でそういうコーナーがあったのだったか、少し中身を見ては棚に戻してその表紙をぼんやり眺めて立ち尽くした。なんとも複雑な気持ちになった。いつも私が買うような現代思想の雑誌や本には有名な知識人ばかりが寄稿していた。ほぼ男性。2011年5月、6月に出たそれらはどのくらい被災地の人に届いたのだろう。もちろん被害が少なくともあの日は東京だって異常事態だった。私はお茶の水にいた。自分の体験は何度も語っている。その日に限ってスニーカーを履いておらず、その日に限って上着も十分ではなく、歩いているうちに温まるかと思いきや道は人でいっぱいでノロノロしか歩けなかった。山内明美の新著にも繰り返し書かれる彼女の体験がある。彼女は当日東京で地震にあっているが南三陸の被害状況が流れる中、親と連絡が取れずにいた。どれだけ不安だったことか。あの日、私と同じ部屋で地震を体験した人は親族を失ったとあとから聞いた。皆その人のご実家が東北であることを知っていた。どうかご無事で、と言葉にするのも憚られる映像がテレビに流れ続け、みんなで立ち尽くすようにそれを見ていた。隙間時間にこの本を開き「あれ?ここさっき読んだっけ」と何度か思った。いや、読んでいない。何度も同じことが書かれているんだ、としばらく経ってから気づく。時間が経つにつれて心寄せる先が広がり響きあっていく。福島、奥尻、水俣、石牟礼道子、宮沢賢治、地元の産業、子どもの頃の<三陸世界>、外国人花嫁、アイヌ、森崎和江、確かにこの本は「記憶が歴史に変わるとき」が書かれていた。当事者の体験としてそのプロセスがある部分ではバラバラとした状態を残しながら、別の部分ではすでに整備された道の歴史を辿るように書かれていた。出来事が生々しく目の前を覆い、心を塞ぎ思考停止しそうな状態から何かを立ち上げようとするとき人はそれまでの様々な痛みと共鳴しそれらと繋がろうとするのかもしれない。そんなことを感じさせる本だった。時間がなくなってしまった。鳥たちが高いところで鳴いている。雨が上がりつつあるかもしれない。どうぞよい一日を。

カテゴリー
散歩 精神分析

春、ジャズ?、ツバメ

ちょっと筋肉痛。クロネコやAmazonのおかげで旅支度が少し進んだ。なによりも友達のおかげだが。感謝感謝。しかし本来一番やらねばならなかった準備…ぐちぐち(まとめちゃおう)。ぐちぐちいうのもそこそこめんどくさいわね。

早朝に洗濯機をかけた。洗わねばならないものを入れ忘れた。別に今日洗わなくてもというものはいれた。なんなん自分。

昨日の昼間は半袖で動けた。新宿中央公園の桜が葉桜になりお隣の八重桜の濃いピンクがフットサルコートと空に映えた。新緑が眩しくて赤い三角コーンにハート柄のなにかがまかれていた。お花の時期は赤いコーンも悪くないけどおいてもおかなくても良さそうな場所のコーンはこのくらい目立たない方がいいかもね。ちっこい球根はすごい数のチューリップを咲かせいろんなツツジも満開に近かった。亀たちも誰が上に乗ろうと気にしない様子で重なり合ってのんびり。新宿でさくっと用事を済ませてまたオフィスに戻った。亀って重さとか乗っかられて煩わしいとかないのね。私は10キロくらいのデッドリフトは余裕だけど(多分)足ちょっと踏まれるとかでも嫌だな。どうなってるのかな、亀さんたち。たまにまじまじと見てみるのだけどただただのんびりしておられてかわいい。

公開されてたジャズのプレイリストを適当に選んで歩いた。耳に止まった音楽は曲名もプレイヤーもわからないままお気に入り登録した。夜になってまた耳に止まった。今度は画面を見てみた。同じ人の曲を昼間登録していたとわかった。緑のチェックがはいっていた。私はこの人が好きなのかもと思ってチェックしたらネイト・スミスという有名なドラマーの曲だった。知らなかった。これはジャズというよりなんていうの?ジャンルはわからないけど違うノリで聞いていた。かっこよくてアルバムもいくつかチェックして少し前のアルバムをお気に入りに登録した。電車でリズムを刻んだが変な動きだったかもしれない。

モッコウバラでいっぱいの壁を左手に眺めながら歩いていたら右手の狭い芝生に3種類くらいの鳥がいた。鳩とスズメとあの子は誰やろ。よく見かけるベーシックな鳥なのに忘れてしまった。ガーン。校庭で遊ぶ子どもたちみたいだった。色々いる。そういえばこの前ツバメをみた!木曽路でみたたくさんのツバメを思い出して一句作ったばかりだった。素敵だよねえ、ツバメ。昨日の朝、北海道の友人が送ってくれた春景色に映っていたマガモも陽射しですごくきれい色になってた。東京はそろそろ夏の日差しだね。春短かった気がする、と書いてみたけどそんなことないか。日々の寄り道で十分満喫した。今日も少し寄り道とか遠回りとかしちゃおう。どうぞお元気で。

カテゴリー
精神分析

とりあえずひとまず。

今朝は「秩父 芝桜ろーる」。甘い!秩父には羊山公園という芝桜いっぱいの公園がある。もう何年も行っていない。これもお土産。本当の羊もいたような、いないような。それにしても甘い。旨いが甘い。煎茶が進む。飲み干してしまいそう。

バタバタ家事をしていたらあっという間にこんな時間。今日の予定を頭の中で反芻。定期的でない仕事が一番心配。間違えないようにしないと。間違えないようにしないと、ということがいくつかあるとかえって忘れてしまうから優先順位で考える。めんどくさいな、自分。

難しいことを色々と考えているとどんどん頭が悪くなる気分。多分、頭が悪くて考えられない部分に気づくからだね。困った困った。老眼も進むばかりだし新しい本を読む意欲もないし。ぐちぐち(いっぱいあるからまとめてしまおう)。

1901年4月13日はジャック・ラカンの誕生日でした。フロイトが『夢解釈』(岩波だと夢解釈。人文だと夢判断。)を出版したのが1900年(実際には1899年)。ラカン赤ちゃんは自分が精神分析家になるなんて考えたこともなかったでしょう。フランス精神分析の元祖となるなんて。フランスの学派はたくさんあってどこが国際精神分析協会(IPA)に所属しているのかとかも覚えられない。それでも付かず離れず勉強しているとラカン以外のフランス精神分析家や学派にも色々触れるから現代思想で引用されるラカンとは全く異なる観点からそれらと触れ合うことになる。臨床的な成り立ちからからみると患者の姿がそこにはいつも見えるので病理と離れたところから引用することは難しくなる。別の観点からいえば、私は臨床をしていなかったらラカンを読むこともなかっただろうから出会い方も色々。今日もNHK Eテレ「100分de名著」があるかな(deじゃなくてよかったのに。打ちにくい)。立木さん解説のフロイト『夢判断』。伊集院さんの反応が本当に豊かで驚かされる。知らない世界にも好奇心いっぱいに入っていってそこでの自分の感覚を結構ギリギリまで言語化しようとしているのだと思うのだけどそれがすごいと思う。ついぽろっといってしまった、みたいなことをしない慎重さも備えてるし。すごい。前に近所の店に伊集院さんがお買い物にきていたことがあって大きな人だなあと思った。だから何というわけではないがそばで見たことがあると親しみがわきますね。伊集院赤ちゃんも自分がこんな売れっ子になるとは思っていなかったでしょう。願えば叶うというものもあれば願わずともそうなっていたという場合もあるしなんかよくわからないけど今があるという場合もあるしこんなはずではなかったというのもあるしいろんな場合がいろんな時々であるから人生わからないものです。なので、というわけでもないけど私は大変なことが控えていてもとりあえず「行って帰ってくる」を目標にしている。何かあってもとりあえず無事に行って帰ってくることができればなんとかなることもあるでしょう。次なる試練もあるでしょうけど。色々ある毎日ですがひとまず今日が良い1日でありますように。やだ、なんで「ウニ」って変換されるんだ。句会の兼題が「海胆」だったからか?まあとりあえずひとまず。どうぞ良い一日を。

カテゴリー
精神分析

準備、中耳炎の思い出

なんと表現したらいいかわからない鳴き方の鳥の声をベッドの中から聞いていた。何かが斜めにザッと切り落とされるような音が断続的に聞こえていた。なぜ音だけで「斜めに」と思ったのか自分でわからない。夜更かしをしたが読書会のあとに友達に色々教えてもらって久々の海外へ向けた準備が進んだ。余裕がなさすぎて基本的な準備に全く頭が回っていなかった。パスポートだけは先月取り直したけど。Amazonを見ていると余計なものを買い込みそうになる。危ない。電源変換プラグもそこそこいいのを買ってしまった。こういう小物はとっても楽しい。あと「のどぬ~るぬれマスク」を勧められた。たしかに。飛行機に乗ると喉が張り付いたみたいになってしまう。私は長時間乗る時はいつも濡れタオルをもらって口を押さえたりしていたのを思い出した。すぐに喉がやられてしまうだけでなく鼻が悪くて耳抜きができず中耳炎にもなりやすいから。一度かなり重たい中耳炎になってしまった。あの痛みも思い出した。最初の職場にいた頃、北海道に行く飛行機で中耳炎になり痛いし聞こえないし大変辛かった。薬で痛みが治まった後も聞こえにくい日々が続いた。世界の音が全て遠かった。しかしすぐにこれも悪くないな、と思うようになった。当時の職場には怒鳴り散らしたり不快感をコントロールできない話し方をする人たちがいた。毎日苦痛だったそれらが膜の向こう側に聞こえた。なんて平和な!とニコニコ穏やかな気持ちでいられた。ニコニコしてると怒鳴られそうだから心の中で舌を出しつつニコニコしていた。当時の私はそういう人が話す内容を信用していなかったけど聞こえ方が変わると内容を吟味する気も起きるのかその人たちのパターンもよくわかったし、話し方抜きで言葉を聞く仕方も学んだ。不快だとその人について知ることもしたくないがそのときは余裕があった。逆に、入職したばかりの頃は不快さに囚われてしまって知りたくもないのに「なんで」と知ろうとしてしまって辛かった。そんな状況ではこちらの知る機能も働かなくなっているからいくら努力しても無理であることに気づかなかった。その後もずっと良き友人でいてくれる先輩たちが現実検討を助けてくれた。彼らはすでにそれらの不快な声を聞き流しつつ「こういうことが言いたいんですよね」と爽やかに捉えることに慣れていた。いつも優しくて面白かった。とはいえ、中耳炎にはもうなりたくないので警戒する。予防する。「のどぬ~るぬれマスク」を買いにいこう、忘れずに。

読書会ではJoyce McDougallのThe Many Faces of Eros A Psychoanalytic Exploration of Human Sexuality(Norton Professional Books)をようやく読み終わった。3ヶ月に1回くらいのペースで読んでいたので時間がかかったが読んでよかった。多くの学びがあったので忘れないうちにどこかにメモしておこうと思う。

今日から初回面接グループが始まる。みんながんばろう。毛布とか洗って外に干していきたいけどにわか雨とかあるかしら。春の天気は侮れません。あ!春の天気とか書いたから明日投句締切であることを思い出した。やばい。いつも通り一句もできていない。言葉探しもがんばろう。素敵な言葉落ちていますように。あるいは降ってきますように。

カテゴリー
精神分析

政治、映画、フィナンシェ

日本は高齢男性政治家たちの好き放題。彼らのあり方はいろんな男性(に限らないが)たちのいろんなことの免罪符にもなっているのだろう。「だって○○だってやっている」「しかたないだろ、こんな国なんだから」など子供のまま呟きつつ。みんなが少しずつ政治家に悪い部分を集めて政治家批判しつつ自分も同じなのに自分は違うと言い張るみたいなことも起きているのだろう。もしくはただの悪を悪から生じた善みたいに言って誤魔化そうとしたり。なんの哲学もないくせに自分の悪行ごまかすためなら引用し放題みたいなこともある。SNSはそういう人に非常に協力的。

フーコー研究などその著作も面白い重田園江が「白水社の本棚」の連載で一番好きなタランティーノ映画の一つとして『ジャッキー・ブラウン』(1997)をあげていた。私も大好き。高校の時の友達と見にいった。めちゃめちゃかっこよかった。ひでーなとひどいシーンを笑いつつドキドキワクワク、かっこよすぎた。私も不当な権力に甘んじるマゾヒズムを発達させないところは真似していきたい(そういう話ではない)。

今朝は京都土産のフィナンシェを温めて食べることを忘れなかった。温めて食べた方が美味しいって書いてある紙を見る前に食べてしまっていた。まあ、どっちでも美味しかったよ。今日は予定通りこなせるだろうか。だろうか、の時点で怪しいがやらねば。

東京はいいお天気。皆さんもどうぞ良い一日を。

カテゴリー
精神分析

あまりに良きもの、倒錯

いろんな人のライブ情報が入ってくる。コーシャス・クレイもまた5月にくる。

村井理子さんの愛犬ハリーが琵琶湖を泳ぐ映像があまりに美しい。岸政彦、齋藤直子夫妻の愛犬ちくわもあまりにかわいらしい。あまりによき姿というのはこの世に溢れているのでずっとみていたいがどれもこれもそればかりでできているわけではないので今日も普通に愛でたり憎んだりしよう。憎むまでは時間がかかるからなるべく憎しみにしないように違和感や怒りに素直になろう。

フェミニズムに影響を受けたといいながら平然と女をとっかえひっかえ利用する人(こういう場合、大抵家族もいることを考えるとどの関係性も代替可能と思っているところがポイントか。面白いことに表面的な類似性もある)が自分の身体の痛みにばかり敏感で相手の身体の痛みに鈍感であることについて考えていた。これはDVや多くの身体的な暴力についてもいえるかもしれないと思った。もちろん身体の痛みは心の痛みとイコールで考えている。私が考えていたのはヘテロセクシュアルで性器的な志向が強い場合の倒錯についてというか、それそのものの倒錯性についてなのだけど、こういう場合の方が暴力を暴力と思わないのではないか。今の政治もそうかもしれない。自分への執着を部分的に他者に投影して、それがモノである場合は思い通りにできるけど人である場合は相手にも身体と心があるから空想通りにはいかない。で何をするかというと人扱いをやめる。モノ扱いする。そうすれば何してもいい相手になる。考える必要のない相手になる。そういう倒錯性を考えると倒錯はマジョリティを説明する概念の一つになるかもしれない。イコールナルシシズムとして。他者をいなくしてしまうわけだから。でも倒錯という場合、そこにマゾヒズムの現れがあるわけでそれが自分の痛みに対するあり方に出ているのではないか、と考えたわけ。こういうことはすでに誰かが言っているかもしれないが、実感があるとこれはかなり恐ろしいことだと感じる。良きものが持つ力もそういうあり方に対しては無力というか部分的に利用されてしまうだろう。フェミニズムの知を喰いものにする「知識人」だってすぐそこにいるだろう。悪循環を断つには愛の物語が必要なのはどの時代も同じだがそれがマジョリティのナルシシズムでは困るわけだ。といってもそれがマジョリティである以上、そっちが「愛」と言われたりするわけだけど。などなど考えていました。難しい。

ああ、ハリーもちくわも近くの空を飛ぶ鳥たちもみんなあまりに良きものたち。世界がとんでもなく悪いものとしてもとんでもなく良いものたちを思い出す機能だけは残しておきたい。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

カテゴリー
精神分析

挟間美帆、俳句の本

腕が痺れて目が覚めた。いや、目が覚めたら腕が痺れていた。今も動きが悪い。とかくこうなりやすい。

昨日からずっと頭の中を挟間美帆の”A Monk in Ascending and Descending” が流れている。昨年秋に出たアルバム”Beyond Orbits”からの先行シングル。さっきはかわいいvisualizerヴァージョンをリンク先にしてしまったけどアルバム全体はこっちでチェックできるかな。私はあまりYouTubeを使わないのだけどジャズミュージシャンや曲の検索には使い勝手がいい気がする。私が求めている関連情報が出ているのかもしれない。

昨日Kindleでなんとなく『俳句がよくわかる文法講座: 詠む・読むためのヒント』(井上泰至,堀切克洋著)を読んでいた。堀切さん自身が本の紹介をしているサイトがあった。堀切克洋さんは演劇研究者でもあって私はそっちのお仕事にも興味がある。マイリス・ベスリー『ベケット氏の最期の時間』(早川書房、2021年)の翻訳も手がけておられる。『俳句がよくわかる〜』の本に「文語体の今昔」という章が2章設けられていて、その後「歴史的かなづかいのヒミツ」という章に繋がっていくのだけどこの辺りとっても面白いのですよ、奈良時代からの日本語の変遷が俳句を素材に説明されていてあくまで口語的に考えている私たちの文語として文語を捉えるから読んでいくと昔の言葉と現代語ってそんなに変わらないじゃん、だってなんとなく読めちゃってるし、と思うと思う。そして引用されているたくさんの俳句がどれもいい。赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』で芭蕉が歩かなかった、みなかった(見ようとしなかった)東北について書かれている章にはプチ旅人の私としては反省しきりだったが、この本で俳人として出てくる芭蕉の俳句はやっぱり面白くて旅人というより言葉のアップデートを試みた先駆者という感じがする。俳句を読む人って本当にこういうことよく考えてるのですよ。一方で私みたいにあまり何も考えず締切直前に投句してばかりの(出せないこともある)人の心もこうやってなんとなく惹きつけておくのも俳句で、これはやっぱり文語が全然遠い世界の言葉ではないからだと思う。だって言葉ってどれもこういう話し言葉から生まれてきたのでしょう?という感じで俳句の言葉を特別なものにしない感じがこの本の素敵なところだと思う。

それにしてもそれにしてもなのだが今日も無事に過ごしましょう。東京はいいお天気です。まだ肌寒いけど。どんな気温にも対応できる重ね着でまいりましょう。どうぞよい一日を。

カテゴリー
精神分析

筍ごはん、硬い身体

今朝は筍ごはん。春。毎年静岡の小動物みたいな筍をいただくのだけど今年は来ないな、と思っていたらアク抜きした筍と筍ごはんのお裾分けをいただいた。正直、こっちの方が嬉しいな。フサフサの小動物みたいな筍もかわいいのだけどたくさんむきむきして小さくなってもそれなりに大きいというか、要するに茹でるのが面倒なのよね。いつも米ぬかもつけてくれるからただ茹でればイイだけなんだけど、と書くとなんでそんなことがめんどくさいのかと思ったりもするけど時間もかかるし米ぬかも結構厄介なところがあるでしょう、と思うのは、やっぱり他の料理より手間だな、と感じてるってことだね。もしかしたらほかにも要因があるのかもしれない。でもせっかく旬のものをいただくのだからはりきれるようになりたいわね。

今日はきれいに晴れそう。空はまだ薄い水色だけど東からの日差しが早速強い。部屋が朝日いっぱい。何が何やらな毎日でかえってぼーっとしてるだけみたいな気分なんだけどどうしたものかしら。この前、またパーソナルトレーナーの先生のところへ行ってみてもらったのだけど自分で柔らかいと思っていた肩甲骨周りが全く感覚がなくてびっくりした。昔みたいにひどい肩こりがないのも単に感覚がなく固まってるからなのか?怖い。そういう人いるらしい。ヨガやってるし、とかいって安心していたけどコロナ前からやってないし。先生に触られればそこに骨や筋肉があるとわかるのだけど自分で動かすことができなくてびっくり。でもそういう体験自体はヨガでたくさんしてきたからいずれ動くだろうとは思える。ヨガやる前の身体がほんと固くてみんなが低い姿勢を取れるなか一人だけ何もしていない人みたいな高い位置にいたりして先生も笑っちゃったりしてちょっと恥ずかしかったけど若い頃と違って全然恥ずかしさよりどうにかせねばという危機感の方が上回っていていつも先生の真前で超真剣にがんばって数年、だいぶ柔らかくなって今は見た目だけはどのポーズもそこそこ上手。全くできないポーズもいくつかあるけど。でもこれらが得意な筋力でごまかした結果の見せかけであることも知っている。先生にはバレているのだよ。はあ。指でちょっと姿勢直されるだけでふらついたりするのだからあーあって自分に対して思う。下手に運動神経がいい方だから使えるところで誤魔化しちゃうんだよね。その結果、今があると。はあ。でもさすがプロは技が多い。色々教えてもらって動いているうちに感覚ではつかめないけど鏡を見ればこんな感じかと動けるようになった。これを「今ここが動いてる」って自分で掴めるようになるためにはまずはどこが動いていないかを意識しようということで器具を購入。テニスボール2個でも代用できるけど2個を正確な位置に置ける気がしない。不器用すぎて。こうやってカシカシうっているときも時々姿勢を意識せねば。あーあ。整形の先生が言っていたことは正しかったんだなあ。いつもそう。人がいうことは大抵正しい。お世話になります。がんばりましょ。今日も良い1日でありますように。

カテゴリー
精神分析

言葉、アーカイブ

うむ。ラベリングというかその出来事をなんと呼ぶかで事実認識が変わってしまうことは多々ある。私の仕事でいえばなんでも「アスペ」というとか。対話でなら「どんなところをそういうふうに」と聞けば解きほぐされて別の言葉になっていくわけでプロパガンダのような言葉にたやすくのっからないようにせねば。SNSは批判によってその言葉を知らしめてさらに使い勝手をよくしてしまうところがあるから怖い。

雨ですなあ。嵐になると聞いていたのだけど嵐はこれからでしょうか。滑りのよい南側の大きな窓をそっと開けて確認。あ、サンダルを避難させねば。使っていない陶器の鉢にポン。いい陶器だけど何年も使っていないからこんな入れ物扱いされている。いやいや、サンダルは大切な日用品。しっかり守ってあげねば。このサンダルが遠くに行ってしまっていないということは嵐はまだきていないということ。交通機関、乱れないといいですね。

問題を解きほぐした言葉で記述しなおし、それを歴史に位置づけ、記録されていない声の方、そしてそこには沈黙も含まれることに注目し、それらをたやすく「トラウマ」と呼んだり過度にイキイキした記述にしないように気をつける。

そういうことをする中で石原真衣のアイヌ研究、赤坂憲雄の東北学はとても勉強になった。東日本大震災の前に書かれた『東北学/忘れられた東北』の意義はますます大きい。昨年岩波書店から出た文庫は5本の論考を加えての再版で著者曰く「定本」とのこと。増補5「旅と聞き書き、そして東北学」には当時、福島県立博物館の館長として震災の記憶を記録するために奔走した著者が職を解かれたという記述に驚いた。しかし著者は奥会津ミュージアムという幻想のミュージアムを立ち上げる。今それはウェブ版で見ることができるのだがこの集積場(アーカイブ)について、特に災害との関連でそれについて考える際に参考になる本にも出会った。高森順子『残らなかったものを想起する──「あの日」の災害アーカイブ論』(堀之内出版)。この本はそもそもアーカイブとは、という視点を持ちながらメディアごとの実践が具体的に披露されている。したがって執筆陣も多様だ。アイヌ研究者の石原真衣は「語り」によって当事者の声を残しているが、アーカイブのあり方にも慎重であり、アーカイブとはなにか、何を成し得るものか、あるいは何をしてしまうものなのか、という視点は当事者を中心に考えながら立ち上げていく必要があるのだろう。記録は消費でもあるため何かをしゃぶり尽くす人を自分がしゃぶり尽くそうとしているということも生じやすい。その意味でもどうやったって想起されないものたちへの静かな関心も維持されるべきなのだろう。いろんなことが大変で難しいがまずは春の嵐に対してどうしましょう、という感じの空模様になってきた。毎年のことのはずなのにいつも同じ戸惑いばかり。どうぞご無事でご安全に。

カテゴリー
精神分析

京都、挟間美帆、アイヌの本

京都のお土産ももうすぐおしまい、どれも個性があって美味しかったなあ。ありがとうございました。京都の景色は中学のときの修学旅行から始まっている。その前にも行ったことがあるのかもしれないがどの土地にも思い出の始まりみたいなものがあってそれは本当の時系列とは違うかもしれないし同じかもしれない。中学の修学旅行はグループで調べたところに好きに回ってよくて小さなみたらし団子屋さんに行ったりもした。今は普通に通り抜ける商店街である新京極はカツアゲに気をつけなければいけない場所としてインプットされているが「要するにカツアゲでしょ」と変換したのは私だと思う。京都は学会なども含めると友達も住んでいるし一番多く行っている土地だ。いくたびにかなりの距離を歩く。大学受験の時に泊まった宿はまだあっただろうか。母と泊まったとても古い町家は本当に素敵だった。そこはもうなくなったと聞いた。何度も見たい景色があるし一緒に行きたい場所もまだまだあるけど書き出せばとめどないであろう思い出がどんどん浮かんでくるから十分な気もする。どこにもかしこにも有名な物語が存在する京都。今朝は四条通の和菓子屋さんの栗きんとん。煎茶と一緒に。甘さを堪能してはお茶で打ち消す。また堪能する。また打ち消す。何をやっているのだ。これでは永遠に食べられてしまう。でも大丈夫。ここのお菓子は小さいから。リミットセッティングがされているのが優しい空間。

昨晩、ジャズ作曲家、挾間美帆の『情熱大陸』を見た。励まされるだろうなと思って珍しくテレビをつけっぱなしにして待っていた。励まされた。以前の柳樂光隆によるインタビューも大変面白かった。彼女の音や言葉や活動はとても魅力的。オーケストラを率いているのがとてもよき。私は音楽の才能が全くないけど音楽的な環境はとても豊かだった。父が趣味で地元のオーケストラでオーボエを吹いていたつながりなのか、いろんな有名な人たちの演奏会にもたくさん連れていってもらってよく泣いた。すぐ寝たりもしたが起きている間に聞こえてくれる音楽にはすぐ感動してすぐ泣いた。クラシックにも物語がたくさんある。いろんなことが同時に起きる。最近、海外でのカンファレンスで発表する原稿を書きながらあまり意識することなく馴染んできた世界が自分の思考を支えてくれていることに気づくようになった。明確な記憶ではなくて身体に染み込んだ印象が少し形になってきたのかもしれない。

先日、連れていってもらったカフェにDJブースがあっていろんなレコードが積まれていた。元楽器屋だったことと関係あるのだろうか。こだわりのコーヒーたちは高いが長居する人も多いのだろう。「ごちそうさま」のついでに店の人と立ち話をしていた人の肩を外から来た人が強めにたたいた。振り返ったその人は途端に嬉しそうな顔になってハグして今度はそばの椅子に二人で座っておしゃべりをはじめた。ここはそういう場になっているんだな、と思いながらめちゃくちゃ美味しいチーズのサンドイッチを頬張った。

北海道大学アイヌ・先住民研究センターの石原真衣さんの本がほしいがAmazonの置き配だとそこに置かれると雨が降った場合に困るんだよなあ、という心配があるので本屋で、でもなかった場合に困るから在庫があるか確認してなければ取り寄せてもらってとかいう手間が面倒ですでに持っているものやオンラインで見られる論文を読んだりしていた。

アイヌからみた北海道一五〇年』という本はアイヌにルーツを持つ人たちの言葉を集めた本。石原真衣さんの書き言葉は言葉に重みがあることを思い出させてくれるのだがこの本は歴史を背負うということについて自然に考えさせてくれる本。とても大変だけど応えていきたい言葉がたくさん。多くの人に読まれたらいいなと思う。

どうぞ良い1日を。

カテゴリー
精神分析

起きるたびまだ早朝。やっとちょうどよく朝になった。ハーブティーをいれた。真夜中に何か食べると罪悪感を感じたりすると思うのだけど時間感覚って睡眠によって決まってる感じがする。書いてみるととても当たり前に思う。人間は夜は眠る仕様の動物だものね、例外があるとしても夜行性には分類されないものね。昼行性。中高生ではない。いや、昼行性の中高生もいる。自動変換は言葉あそびを誘惑してくるしトンデモナイ間違いもするから困るのだけど面白い。

昨日、SNSでフォローしている人が『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー)― サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』石原 真衣 著(北海道大学出版会)を引用していて私が今度発表することと近いので読もうと思った。うーん。これはとても多くの文脈を必要とする話だからこういうところには書けない。SNSなんかではもっと書けない。書いてはいけないことってたくさんある。クローズドな場所でオープンに話すことから始めていかないとたやすく反復になる。

NHK俳句、堀田季何さんだ。いいねー。黒岩さんのコーナーもあるのか。面白いねー。俳句、本当に本当に細々と続けている。おー夏井さん。夏井さんをきっかけにすごくなっていく俳人は多い。本当にすごい仕事をしてる。お元気でいてほしい。

さあ、のんびりした。お菓子食べよう。作業しよう。

カテゴリー
精神分析

政治とか運動とか。

白湯を飲んでいる。鳥が鳴いている。手がまだみかんの匂いがする気がする。今日も少し雨が降るのかな。少し寒い。

そばにあった山川出版社の『詳説 政治・経済研究』をパラパラ。最初に司法制度のところを開いた。この辺は高橋ユキさんの記事のおかげでだいぶ自然に身についてきた。高橋さんの文章は余計なことが書かれていない分、書かれていない知識はこちらから自然に手が伸びるのだ。最近、そういう力がある書き方や喋り方をする人っているなあ、と思って高橋ユキさんや富永京子さんのことを思い浮かべる。さらにパラ。あ「バカヤロー解散」。衆議院議員総選挙一覧に解散日、解散時の首相、選挙結果の特徴、と一緒に「通称」が載っている。「なれあい解散」「抜き打ち解散」「天の声解散」「話し合い解散」「ムード解散」など色々面白い。政治状況は全然面白くないがなんじゃこのネーミングは。最近だと「近いうち解散」が面白い。はあ、なんかため息が出るね、政治のことは。私たちの生活なのに。私たちの生活、っていう場合、貧しい人を出さないということが誰にとっても一番大事と思うのだけど逆の方向にどんどん行っている。臨床心理士資格認定協会もまた変なことしてるし。私たち女3人で代表になって賛同してくれた全国のみなさんと認定協会に議事録の開示請求とかして叶わなかったのだけど、頼んでもないことに予算(=時間)使うならやっぱり議事録開示してほしい。どういう話し合いでこういうくだらないことが決まっていくのかもはや興味だな、これは。人のこころとかいっている私たちの代表たちが育児や障害のある生活に対するサポートよりも頼んでもいないカード作りの案に時間とお金(カード自体にはかからないとしても)を割くことをどういう話し合いで決めているのか見せていただきたい。最初、冗談かと思った。メールアドレスの公表もせず、私たちとのやりとりだって最初は封書。こういうことにいちいちお金使わせて事務の人に手間かけさせて返信には名前もなく時間をかけてようやく話ができても結局議事録の存在さえ明らかにされなかった。こういう嘘みたいなことをしれっとやるのやめてほしいから運動してるのだけどこんなんで何が社会貢献だよ、と思うよ、私は。書きものでは偉そうに政治語っている人たちがこういう地道な運動に協力してくれるとは限らない。自分の周りだけどうにかなればいい世界を目指す仕事じゃないと思うのだけど。まあ、どの世界でもよくあること、だとしてもまあ、言い続けていかないことにはなかったことにされるのもどの世界でもよくあることなので言い続けないとですね。身近な人を大切にしない人ほどなによりも妻とかなによりも家族とかいうのと同じ。相手のみならず言葉自体を馬鹿にしてるのだと思う。自分の問題に他人の言葉に強い刺激を受けながら取り組みつつ自分の言葉を問い直していく精神分析の世界でも精神分析はしないけど精神分析について自分の言葉で語りたい人たちはいっぱいいるわけでそれはそれでいいけど政治のことを現実感を持って話す関係が増えていくといいな。どのアプローチがどうこうとか権威がどうこうとかではなく。普通に自分が困っていることを共有するってことだけど。いちいちSNSとかで反応するのではなくて。文句を言い続けるならきちんと運動したほうが結果は出るし。私たちの運動も相当労力使ったわりに署名とかで協力してくれた人たちに「こんな結果ですが」と残念な感じで伝えざるをえなかったけど実名で丁寧に形にしていくことは人として大事。それに本題から逸れたところで時間割くのは避けたくないですか、みんな。無駄なことは信頼できる人たちと楽しんでやりたい、わたしは。こういうことは教科書に書けるような類のことではなくて生活の知恵というか家族や友達や社会から学びつつ作っていくスタイルみたいなものかもしれないけど独りよがりではなく考えていきましょ。

カテゴリー
精神分析

4月、ホワイトガトーショコラ

煎茶。お菓子はもうちょっとあと。少し糖質高そうなのを食べようかどうしようか迷ってる。栗きんとんさんです。どうしましょう。そういえばエクセルシオールカフェに新しくホワイトガトーショコラというケーキを見つけた。見た目はチーズケーキみたいだから最初「???」となって角度を変えて眺めてみたりしてみたのだけどつい頼んでみた(ついじゃないよ)。ホワイトチョコが練り込んであるらしい。練り込んで、というのかわからないけど。店員さんに伝えたら意外と言いにくい「ホワイトガトーショコラ」。「ガトーショコラブラン」ってフランス語で揃えた方がいいのでは。大きなお世話では。はい。でも言いやすいよ。言い比べてみて。ガトーショコラブラン。関係ないけど「シャノアール」が「Chat Noir」だと知ったときは「それで黒猫!」と思う以前に「シャ」と「ノアール」で分かれるのか、という驚きの方が大きかった。だって「シャ」なんて単語があるなんて思わなくないですか。そういえば青森では自分のことを「わ」というという話をしたばかりだな。そうそう、店員さんにお願いしたらこの時期だからか研修中の人でケースを覗きにいってもどれだかわからなくて先輩に助けを求めた。そーですよねー。見た目、チーズケーキですもの。しかもケーキの名前が書いてある札ってお客さん側にしかないのね、きっと。これは間違わないようにケースの内側にもつけておいた方がいいよ。大きなお世話か。はい。私が店員だったら自分用につけさせてもらうな。絶対間違える自信がある。それかチーズケーキと完全に位置を分けさせてもらう。右端と左端とかで。で「右チー、左ホワ(いつのまにか略す。レスカみたいな。)」と何度も暗唱する。先輩店員さんはさすがにすぐにわかるみたいで教えてあげてた。少し傾いているトレイにケーキ置いて大丈夫かしらと思ったけどコーヒーでバランス取れてた。この不安そうだけどどうにかこなしている感じが「おー、4月」だった。「一年生」という季語で一句作れそうか、もしかして。「一年生ショコラに白があるなんて」とか。どこにも出せない一句ばかりできそう。ナイスアシストの先輩店員さんはホワを見て思い出したらしく別の店員さんに「そういえば試食した?」と言っていて「えー、新しいケーキって試食できるんだー、いいなー」とこれからいただくところなのに聞き耳を立ててしまったのでした。もう一つオレンジのムースかな、新発売の商品が出てるのですよ。それも試したい。あと春野菜の天ぷらが食べたいです。エクセルにはないです。私は自分で揚げ物はしないから行きつけの居酒屋さんに行きたいです。全然行けてない。でも昨日はがんばって原稿の校正を仕上げた。引用の間違いが多くて自分にびっくりした。ご迷惑をおかけすることにならなければよいけれど。毎日謝罪すべき事柄が生じるものですね。もはや二十何年生なのに。もう食べ物関連のことしか浮かんでこないのだけど昨日も三浦哲哉さんの『LAフード・ダイアリー』で盛り上がってしまった。「トレイダー・ジョーズのサラダ」という章でLAのスーパー事情が書いてあるのだけどそれをLAに住んでいた人と一緒に見ながら懐かしんだ。私も何回か遊びに行ったからちょっとわかる。なんかさっきから外ですごくかわいい鳥の声がしてる。すぐそばにいるのね。でもカーテン動かすとどこかへ行ってしまうから聞いていよう。いや、仕事しよう。そっと覗いてみたけど見えなかった。シジュウカラかな。あら、カラスの大きな声がしたと思ったらかわいい声も遠くへいっちゃった。まだ聞こえるけど。さあ、仕事仕事。お菓子食べる時間がなくなったかも。あー。まあ、いいか。色々美味しいもの思い浮かべて結構満足したかも。普通にいつもの道を歩いてるだけで桜が本当にきれい。どうぞ良い一日をお過ごしください。

カテゴリー
精神分析

お菓子、藤原さくら、過剰

今日は京都、普門庵の「京フランス」というフィナンシェ。開けたとき色がとってもきれいでびっくりした。半分こにするときは縦割りにしないと。トースターで温めるとさらにおいしいと書いてあることにさっき気づいた。じゃんねん。あと2つあるからそれは温めていただきましょう。

「フランス国家最優秀職人章(M.O.F.)パティシエのパスカル・モリネス氏と、全国茶審査技術十段の酢田恭行氏が監修。素材は、フランス産発酵バターと酢田氏が選定した京都産宇治抹茶「祥楽」を使用。」

と書いてある。なにやらすごい。世の中には色々な資格のようなものがあるのですね。フランス産発酵バターと書かれているものは全部食べたくなるし文字情報ってすごい。でもいざ食べるときは「やっぱりフランス産発酵バターおいしい」とはいちいちならない。おいしいものはおいしい。そうじゃないものはそうでもない。くらいな大雑把さ。いい加減なものよのう、自分は。

昨日、藤原さくらの新アルバムがリリース。ドラマーの石若駿がプロデュース。昨年知ってライブにも行きファンになった石若駿。色々聴いていて曲として一番いいと思ったのがSongbook trio(石若駿+西田修大+角銅真実)。角銅真実と藤原さくらは似た雰囲気の声だと思ったから今回のもすぐにきいた。よかった。石若駿はドラムの才能もずば抜けているわけだけど曲作りが本当に素敵だと思う。ジャズを基盤に誰にでも届く音楽を作っている感じがする。演奏も誰とでもやれる人みたいだし、ライブでも主役だったのに全然前に出ようとしない。若い人の紹介も本当にいい形でしていたのも驚きだった。言葉のいらなさを知る振る舞い。

なのに私ときたらここまでですでに過剰だわね。過剰といえば、次の作業に移る前に最近全然読めていなかったPEP-webの論文を見ていてこの分野は興味があるな、と思ったのは兄弟関係がテーマとなる精神分析事例。相手を過剰だと思う関係の典型。ラカン派の論文だったのだけど途中までしか読めていない。でも今日からまたちょっと後回し。何度か思い出してまた忘れていた校正原稿がきた。9日まで。チェックは入っていなかったけど自分で間違いを見つけてしまった。あーあ。もっと丁寧に書けばよかったな、と読み返しながら思うけどあのときは無理だったな、とも思い返す。何事も少しずつ精進。今日の東京は曇。もうさすがにダウンは着ないよね。冬が長かったので一番暖かいむくむくしたダウンには大変お世話になりました。クリーニングに出しましょう。今日は4月4日か。4/4って並びはなんかいいですね。過剰ではない。割り切れる。今日もいろんなお花と出会えそう。どうぞ良い1日をお過ごしください。

カテゴリー
お菓子 精神分析 音楽

ヴァッフェル、メタル、ヒューム

なんだか夜、暑くありませんでした?まだ服装もお布団も真冬と同じなので暑くて起きてしまいました。二度寝したけどなんか暑かったよねという寝ぼけた感覚がまだ残っています。

今朝も京都若菜屋さんのお菓子。「苺クリームヴァッフェル いちごいちえー一期一会」。これもかわいい。開けるなりいちごクリームのいい匂い。私が大好きな系列のお菓子。「ヴァッフェル」ってワッフル?と思って調べたら

「欧米の伝統的なワッフル生地をさっくりと堅焼きし、芳醇なヴァニラクリームを挟んだ長崎堂のヴァッフェル。 」

という大阪の長崎堂さんのサイトが最初にでてきた。なんと。「ヴァニラ」とくっついておるのですか。若菜屋さんのも美味しいです。ありがとう。

ここのところ思いがけずっと色々大変で仕事が進まない。でもそんな状況にも少し慣れて締切を2つ守ったのは守ったことだけ偉かったと思います。内容はともかく。もうひとつは国際精神分析協会(IPA)のアジアンパシフィック地域の大会で出すパネルの原稿。もうダメだと思って1週間締切を伸ばしてほしいとメールしたらbut no later than Friday 5th Aprilということで2日遅れで出しました。日本語で15分間話す分量から随分減らすことになってしまったけどそういうものなのですね。色々素人すぎるけど今回学んだのは締切に遅れると英語でメールを書く手間が増えるということ。これはこれでめんどくさかった。

Spotifyの2024年のデータを基に、どの国でどのメタル・バンドが最も聴かれているかを示す「現在、世界各国で最も聴かれているメタル・バンドの地図」が話題に。”

というニュースを読みながら「へーおもしろーい」となっていた。

”注意点としては「何をメタルと分類するかによって結果が変わること。”

いやあ、そうでしょうねえ。

アジアンパシフィックの大会でご一緒する国を見てみましょう。

Taiwan:Flesh Juicer , Korea:Madmans Esprit , China: Nine Treasures , India: Bloodywood , Australia: Parkway Drive。で、日本はBabymetal

ふむ。早速インドのBloodywoodを聴いてみましょう。おお、インド音楽要素が強い!のにしっかりメタル。面白い。いいですね。

新しい本を読むエネルギーがないので再読ばかりしていたのだけどなんとなくKindleで読んでいない本を読んでみたのです。そうしたら全然頭に入ってこない。入門書かと思ったら博士論文を書籍化したものでした。博士論文の書籍化って多いけど難しい、素人には。まあ、まずは専門の人に役立つのが大事だからいいのだけど。読んでいたのは

成田正人著『なぜこれまでからこれからがわかるのか ーデイヴィッド・ヒュームを哲学するー』(青土社)。副題と目次からして難しいってわかるだろ、という感じだけど題名が魅力的だったのですもの。

教えて、ご本人、というわけで「普及版」といいながら全然普及しなそうな値段の『デイヴィッド・ヒューム 『人間本性論 第1巻 知性について』 (木曾好能訳、法政大学出版局)を読み始めました。さすが、ひとつひとつ丁寧。そう思ったから買ったんだもんね。ちょっとずつ教えてもらうように読みましょう。

さあ、洗濯は終わりましたが資料作りがもう少し。こんなことしてる場合ではなかったよ。どうか良い1日になりますように。

カテゴリー
精神分析

トレーニング、『他者といる技法』

昨晩はストレッチポールでぐりぐりしていたら遅くなった。最初は痛すぎた。脛がどこよりも痛い、が、二日前より痛くなかった。やり過ぎに注意して(痛みは癖になる)続けよう。少しでも体調を改善したほうがいいかなと思って個人の部屋を持っているアスレティックトレーナーの先生に見てもらった。足首と股関節の硬さに驚かれた。これ、子供の頃から驚かれている。子供の頃は身体部位としては言われなかったけど自分ではそれがどこかはわかっていたのでその後、ぎっくり腰になったとき、すぐにヨガを選択したのは悪くなかったと思う。あの痛さは二度となりたくない恐ろしいものだったし仕事も休みたくないからすぐにケアに取り掛かった。私は目的がはっきりしているとかなり地道(でもやりたくない筋トレは全然しない)。毎朝7時からスポーツジムのヨガのプログラムに出てから仕事へ行く生活を数年関したが朝8時から仕事をするようになってからやめた。で、あっという間に数年経った。怪我もしにくくなったと思ってたけど元々の身体って変わらないってことね。確かに柔らかい人は何しなくても柔らかいし。またケアしなおさないと。でもヨガに数年間通ってピラティスのマシンとかも使った個人指導も受けたことがあるのでトレーナーの先生の指示とか身体の仕組みとかについて何を言われているかはすっとわかった。足の力を抜いておなかの力で立つ、というのは本当にわかる。絶対そのほうがバランスが取れる。が、おなかの力も弱くなってるのだ。悲しい。でも久しぶりにがんばった。運動好きだからやるとなったらその場では結構がんばれる。ひとりでもがんばらねば。相談できる先生と会えてよかった。指導歴の実績もしっかりしたプロの先生はやっぱりすごいなと思う。余計なことは言わず時間で終わる。私も決まった時間にはじめて決まった時間に終わる仕事だし世間話とかしないので楽ちんだった。最近、奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』(ちくま学芸文庫)を読んでいたのだけど人間関係に「技法」とか「方法」とか持ち込むのが本当に苦手。そんなもんわかったらこんな世の中になってないんじゃないっすか、と思ってしまう。でもこの本はいい本だった。うまくいく技法とかではなくてどちらかというと私たちが他者を排除したくなったり居心地が悪くなったりするときの心の状態を説明してくれる感じの本だった。私たちは相手とともにいたければ「どうしたらいいのだろう」と悩む。いたくなければ平然とひどいことをしたり言ったりすることだって方法となりうる。相手に悪さを預けてしまうという方法。いたくないけどいろ、とかいう人も相手をダブルバインドの状態に置くという方法しか知らない人ともいえる。「一緒にいたい、でも難しいことばかり、どうしたらいいのだろう」こういう悩みは素敵な悩みだと思う。そこにとどまるのは辛いことだけどとどまってでも一緒にいたい場合、スキルではなく心のモデルをいくつか持っておくことは助けになるかもしれない。今日も悩んだり悩まなかったり色々だと思うけど良い一日でありますように。