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お菓子 散歩 精神分析

寄り道、新ハムレットオンデマンド配信、カチカチ山

暑い。でも朝はまだ冷房が効くのが早い気がする。今朝のリビングは31度だった。28.5度設定。0.5度ずつ変えられるようになったのっていつからだろう。その差をどのくらい身体がキャッチしてるかわからないけど。

隙間時間に友達とおしゃべりして連れてきてもらった道を戻るのではなく神社のほうへ。あ、通りの名前は知ってる。この通り、この前も見たけど繋がってるってことか、と陽射しを辛がりながら歩く。明らかにこの前通ったばかりみたいな景色だがこれはどっちにいけばいいんだろ、と左へ。あ、いつも突然現れる美術館はここかあ、行くときはのんびり寄り道しながらいくから全然道を覚えない。知っている道なのに知らない感じ。ここはどこだろう、と思ってると間もなく馴染みの景色へ。別の駅から帰りたかったのに降りた駅に戻ってしまった。あーあ。都会は難しいな。美味しそうなお店も見つけたけどまた偶然通りかかるまでは忘れちゃうな、きっと。その時はもっと時間があって偶然お腹も空いていますように。寄りたい。

五戸真理枝さん演出で6月、PARCO劇場で上演された 『新ハムレット〜太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?〜』が今日から7月25日(火)までオンデマンド配信とのこと。劇場なんて遠くて行けなかったよ、みたかったよ、という人はぜひチェックしてみてください。太宰の命日である「桜桃忌」にはすごくかっこよくてすごくうじうじしたハムレットを演じた木村達成とこんな舞台を作ってしまう天才、五戸真理枝のアフタートークショーも収録されているとのこと。舞台の3分の1のお値段です。夏の夜のシェイクスピア、太宰のハムレットはやや暑苦しいけど女たちも魅力的。

太宰といえば河口湖町にカチカチ山(天上山)というのがあってハイキングにもいいしロープウェイでも山頂に行けるのだけど山頂も色々遊べて楽しいの。たぬき茶屋もあるしかわらけ投げもできる。もちろん太宰のカチカチ山の場面を辿れる場所もありますよ。面白いです。

今朝は太宰繋がりで河口湖土産、私的(多分多くの人にとって)No.1のフジヤマクッキー。オンラインでも買えるけど現地からきたそれらは少し山頂の雪が溶けたりしていてそれはそれで趣というもの。今回も美味しいです。

はあ、パソコンあっつい。熱い紅茶も飲んじゃったからあっつい。きれいさっぱりして出かけましょう。でもきっと外に出るなりダランデロンってなって電車でキンキンに冷やされてまたダランデロンってなっての繰り返しだろうけどね。毎日ぐったりしがちやわ。みなさんもどうぞお大事にお過ごしください。

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コミュニケーション 精神分析 読書

問う

問われることを極度に嫌う人が問いを大切にするのはなぜかという問い。問いって本当に終わりなきもの。一問一答が見えなくしているものについてはこの前のグループでも話し合った。一問一答で問いを狭め仮の答えを欲しがっているとしたらそれはなぜか。こぼれ落ちるものが増えるだけとわかっているのに余計なことをしてしまうのはなぜか。子供といると「なに?」「なんで?」とよく聞かれる。泣き叫ぶ赤ちゃんにこれかなあれかなと何かを提示しても泣かれるばかり。なすすべなしと「うんうん、やだね、泣いちゃうよね」と抱っこしていると指しゃぶりを始めたりさっき拒んだおもちゃを気にするそぶりを見せたり。答えってなんだろう、と問いはいくらでも出てくるが答えってなに?「適応」ってなに?というのもよくある問い。誰に?何に?あなたに?社会に?あなたが社会ってやつ?「逸脱」ってなに?何から?どこから?あなたのルールから?お互いにお互いのこと考えたらそんなに差はできないはずだよね。いろんなことは差異で語ってるんだよね、私たち。みんな違ってみんないい、とか悪いとかではなくてとりあえずみんな違う、ただそこからなんだよね。違う?永遠に問いの型にすることはできるのだけどどっかで答えを決めたいね、仮でいいから、という場合もある。同じ、違うというマッチング課題は具象と抽象の行き来を見ることもできるけどずっとそこでゆらゆらしていられないことってある。朝がきたら仕事行かなくちゃ、学校行かなくちゃ、とか実際それをするかどうかはともかくなんらかの「次」っていつも準備されていてプレシャーをかけてくる。身体を自由に動かせなくなってしまった人と目で話す。これ?こっち?次は?これ?・・・と繰り返す。目の光を追っているような気がしてくる。それがいつの間にか言葉になる。できるだけ言いたいことと近い言葉でありますように。願いながら問い、仮の答えを探し、それを繰り返しなんとなくのまとまりを一緒につくる。言葉にならないものが言葉になっていく。それが正しいか間違いかはともかくとして。「クィア・アイ in Japan!」の印象的なシーンを思い出す。プライベートな関係は外からは見えないもので溢れてる。だからプライベートなわけで自分のあり方に侵入されない場所がないと人は壊れてしまう。ウィニコットのいう「孤立」がありうる場所を。問いの基本は相手がいるということ。=言葉があること。耳が聞こえない親である斎藤陽道さんご夫妻と子供たちの関わりを描く斎藤陽道さん原作のNHK Eテレの手話アニメーション「しゅわわん」で斎藤さんが「好き」という手話の起源を考えるシーンがあった。人はなぜ起源を考えるのだろう。なぜルーツを探るのだろう。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)の著者は流刑地を辿りながら追放された3人が見たであろう「陸の端とその先の果てしない海」を眺める。そして自分がここにいる理由を見出す。「存在するものはすべて、なんらかのかたちで痕跡を残す。(中略)ここでは、ほかの場所では不可能なかたちで、その人たちを取り戻すことができる。」私たちは、相手や別の可能性を想定する問うという行為を言葉以前からしてきた。ウィニコットのいう「孤立」はその源泉なのだろう、ということに仮固定しておく。そして次へ。きっとまたここへ。その繰り返しを問いとともに。今日はお休みの人も多いだろうか。すでに暑いけどどうぞお気をつけて。お大事にお過ごしください。

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精神分析

囚われ、連帯、『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)を読み始めた。

すでにのんびりしてしまった。やらねばいけないことは山ほどあるのにのんびりもできてしまう。人間のキャパを舐めてはいけない。と思いたいが、私たちの心はものすごく何かに囚われやすいことも事実だろう。死に囚われてしまった人に対して反射的に何か言いたくなるときそれは抵抗かもしれない、自分がそれに囚われないための。人は人を使って生き延びているだけかもしれないのに不快さや不安を感じると相手ごと自分から切り離そうとする。「私よく知らないし」とか「え?関係あると思ってたんですか?」みたいな感じで。嘘くさいがそういう人たちも本気だ。それはそれで囚われている。切り離すことなどできない。

私は「連帯」という言葉が苦手だが人は人を使って生き延びている、というか「いかなる人生も自己もひとつの統一体ではないこと(p.15)」を自由と連帯の側面から描写する本と出会った。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)というきれいな青い表紙の本だ。ここには3人の流刑囚が登場する。柏書房のwebマガジン「かしわもち」(note)から引用しよう。ありがたいことにプロローグも公開されているのでそこだけでもぜひ。「ホームシック」についての印象的な記述が本書で著者と辿る流刑囚三人の物語の導入となる。

「本書はある流刑囚三人の物語です。すなわち──フランスによってニューカレドニアへ送られたパリ・コミューンの闘士、ルイーズ・ミシェル(1830-1905)、イギリスによってセントヘレナへ送られたズールー人の王、ディヌズールー・カ・チェツワヨ(1868-1913)、ロシアによってサハリンへ送られたウクライナの人民主義者、レフ・シュテルンベルク(1861-1927)。より大きな自由とホームの理念のために、目の前の自由とホームを犠牲にした者たちの生涯を著者は辿るのです。」

最初は名前や地名に馴染むのに少し苦労した。異国へ向かうときに最初に生じる言葉の混乱。でもそれも最初だけだろう。まだ読んでいる途中だ、ということで読みたいのであと一冊、すごく力強い本に出会ったけどそのことはまた今度書くことにしよう。

今日はジャスミンアールグレイと生チョコのお菓子をいただいた。治療後の歯が痛いが食べることもやめられない。困った困った。

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お菓子、毒、親密さ

今朝は横浜市緑区長津田の老舗和菓子処かわはらの「長津田さやか」をいただいています。なるほど、これはブルーベリーのお味なのですね。私は美味しいとか好きとかはわかるのですが味から原材料を想像するとかが本当に苦手です。柑橘系の何かが入ってるのかな、くらいの曖昧さでならわかるけれども。知って驚いてもう一度食べてなるほどと思うの繰り返しですね。毒見係とかできなそうです。少量の毒だったらすぐには死なないでしょうけどちょっと変な味だぞ、とか判別できないといけないのでしょうか、この係って。映画『ゴッドファーザー3』に出てくるカンノーリを巡るシーンを思い出します。大学生のとき、長期休みは不登校の子どもたちと山中にある廃校になった小学校で一緒に生活をしていました。みんなで校庭から続く山道を散歩していたとき植物博士のスタッフが「触らないで!」と大きな声を上げました。私はそこではじめてそれがトリカブトだと知りました。それまでも見たことはあったでしょう。でも知らなかった。そんなものやことばかりです。

私の主な仕事は特定の相手との親密さと信頼に基づく相互交流ですが親密さと信頼を築くまでが大仕事です。カウチ上で自由連想をすることによって思っても見なかったことを話してしまう、他人になど見せたことのない態度をとってしまう、自分の意識的なコントロールを超えた「思わず〜してしまう」自分と出会うのは苦痛な作業です。よっぽどの切迫感を持って自分の問題として取り組みたい気持ちがないと取り組むのは難しいでしょうし危険もあるでしょう。

最初は聞いてもらえるだけで信頼できた、親密になった気がした。自分でも知らない自分が出てくる、思ってもみなかった反応が返ってくる。不安。不快。世界は自分用にできていない。不快。不安。自分がそこでどんな防衛を使って生き延びてきたかなど暴かれたくない。それはそうせざるをえなかったというだけの話なのに人は「暴かれた」と感じてしまう。最初の親密さは剥がれ落ち別の「近さ」が二人の関係を難しくする。親密ってなんだろう。不信感が渦巻く。言葉が性愛と攻撃性に塗れていることに気づき始める。不安。不快。自分にそんなところがあるはずはない。不快。不安。でも知らないといけない気がする。このままでは自分はまずいかもしれない。想起は続く。不快。不安。抵抗。防衛。反復。いいかげん反復に気づく。防衛がきかなくなる。不快。「こんなはずじゃなかった」「そんなつもりじゃなかった」何を言っても言い訳をしているように感じる。不快。不安ということさえ伝えたくなくなる。何も言いたくない。何も言ってほしくない。それでもここにいて同じことを続けていく。なんで?

親密さってそんな感じではないかと思っています。その人の部分ではなく全体的な個別性に出会うことは当事者であっても難しくましてや他人が、でしょう。判断も行動も速すぎないほうがいい。特に他人のことに関しては。精神分析は判断と行動からは遠い治療だと思います。時間をかけて目的もなくわからないならわからないなりにそんな自分とそれを見ている相手に持ち堪えていく。そういう時間を積み重ねていくことで快原理ではなく思考過程を優位に作動させることができるようになり反射的ではなく時間をかけることができる心のスペースを少しずつ広げていく、そんな治療法です。誰かになにかを無闇に押しつけるのではなく無理や我慢ではなく自分でゆらりゆらりと思考しながら抱えていけますように。困難とわかりつつもそこに価値を見出せますように。

東京は今日は曇り空です。引き続き暑さにお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

子供の調子

冷房を効かせすぎた。しまわずによけておいていただけの羽布団をまた引き寄せてしまった。起きたら身体の半分が熱かった。きちんと閉まって冷房には注意しよう。ただでさえバテてるのに風邪までひきたくない。保育園の子たちがお腹の風邪とかアデノウイルスとかヘルパンギーナとかでお休みしていると聞いたり「今日久しぶりの保育園なんだよね(だから調子が出ないんだよね)」ときいたりするとこんな小さいのにかわいそうにと切なくなる。本人はニコニコ元気でも身体が追いついていないことも多くなんか調子悪そうだなと思ってお熱を測ると37度後半、これから上がるかも、ということは多い。私は主に0歳から3歳までの子供をたくさん見ているのでまだ言葉以前の子たちが多く子供の変化に気づくのは本人より大人だ。傷であればそれがどんなに小さくても(ただでさえどこもかしこも小さい)本人に見えるので指差しで教えてくれることもあるし彼らは絆創膏を貼るのも好き。ケアされてる感じがするのだろうか。剥がれて同じ絆創膏がないと泣いてしまったりも多い。子供の絆創膏ってかわいいのがたくさんあるしね。この時期は熱中症もとても心配。大人も絶対気をつけたほうがいいけど子供は気をつけてあげていてもあっという間になってしまうから本当に油断できない。この時期は気温が高すぎるから保育園ではお散歩に行けないのだけど屋内でも熱中症にはなる。お茶とか飲んでくれない子だとほんとに心配。人間、必要なものを摂取するとは限らないのね。確かに今私が摂取したのは暑くて食べる気がしないとか思いながらも「カントリーマアムチョコまみれ」だし摂取しなくてもいいものは食べたくもないのにつまんじゃったりするし。昨晩のポテチとチーザでおなかきもちわるいし。大人は自己管理ですものね。でも大人だからね。子供は調子崩すと本当に心配。いつもは小さくてもすごく逞しく感じる身体が本当に頼りなくさらに小さく見えてずっと泣いているのをずっと抱っこし続けるしかないこともある。保護者も保育者も気が抜けないうえに心細いだろうし本当に大変。みんな今日もあっついけど元気に過ごすんだよ。子供への心配は尽きないですね。子育てツイートとかいつもいろんな気持ちになりながら眺めています。

あ、なんか結構長く書いてしまった。準備しなくては。精神分析を子育てのメタファーで語ることについてSNSでブレストしていたので保育のこと書いてしまったのかな。ブレストは嘘だな。ブレストしようと思って電車でひとこと書いただけだ。忙しくて自分が何を考えていたかすぐ忘れてしまうからとりあえず書いていること多いけど展開させずに終わっていることも多い。がしかし、今日も忙しい。移動も辛い。ふー。兎にも角にも暑さには気をつけましょう。

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くずきり、失敗、スヌーピー

首の痛みが治らないな。ヘルニアが悪化してるのかな。嫌ね。さっきいただいた抹茶くずきりを半分にしようと思ったら大惨事。大というほどではないけどやや惨事。というか「惨事」だけでも結構な感じね、いざ書いてみると。くずきりってどんなだっけと思いつつも知っているものとしてきちんと思い浮かべなかったのがいけなかった。こういうことは失敗したから思うだけだけど。まず抹茶が入っている小さな袋を開けるところで失敗。横にちょびっと開けるはずが縦に裂けるように開いてしまった。でも抹茶が少し親指にかかった程度で被害は少なかった。幸運。くずきりが水分とともに麺状で出てくるのはわかってた。でも水分量と麺が滑り出てくるスピードに対応できなかった。また少しこぼしてしまった。お盆の上だからよかったけど。抹茶は最初黒蜜かなと思って(抹茶くずきりって書いてあるのに)、とか小さな思い込みを重ねながらぼんやり行動するからこうなる。私みたいに不注意で不器用な人は普通よりも意識的に行動しないと叱られたりこいつ大丈夫かと思われるようなことをしでかすので療育を学んでから気をつけてきたのだけど相変わらずですな。あと怖い人といると失敗する。緊張してさらになんだこいつ感が強くなる(というかそういう感じを醸し出す人だから怖い)。前に私は好きな人だったんだけど向こうはイライライライラしてて(嫌われてたんだろうね)買ってきてくれた小さなお菓子を小袋から手に出してあげるときにこぼしてしまった。怖くて緊張してしまったのね、きっと。というか絶対そうなんだけど好きだったんだよね。とてもとても悲しい思い出。今も思い出すと怖いし悲しい。身体の記憶として残ってしまってる。不注意や不器用がある子どもが失敗しては怒られてさらに失敗を重ねるのってこういうこと。何ができなくても怖がらせるのは良くないよね、という普通のことを思う毎日ですね。

この前、南町田クランベリーパークにあるスヌーピーミュージアムに行った。高校生の時、演劇部がスヌーピーのキャラクターが登場するというかエレベーターに閉じ込められた世界がその世界になりそれぞれがその時間をそのキャラクターで生きるような、いや、全然違うかもしれない、まあでもスヌーピーの主なキャラクターたちが繰り広げる劇をやったのをみた。私の高校の演劇部は強豪校(というのかな)でレベルも高かった。今も、というかコロナ前まではたまに高校演劇も見ていたけどうまさとはなにかと考えさせることが多かった気がする。なんかもうこの年齢の子たちのエネルギーだけで満点じゃん、とやられてしまうときもあればそもそも自分にはできないことをしている時点で「すげー」と思ったりもする。スヌーピーのキャラクターの成り立ちとかシュルツ自身のこととかよく知らなかったのでとても面白かったしアニメーションとかいろんな展示もワクワクしたし、漫画もたくさん展示されていてどれも意外性と深みがあったしすごく楽しかった。漫画だと全部読んでも全然疲れないね。「ライナスの毛布」というのは多くの人に伝わる言葉だよね。そういう引き継がれる言葉が残っている作品ってすごい。写真はライナスのことを好きなチャーリー・ブラウンの妹のサリー。ちゃっかりはっきりしててかわいい。

You play with the cards you’re dealt.. Whatever that means.

スヌーピーの言う通り。火曜日もなんとか過ごしましょう。外はすでにとっても暑そうですよ。どうぞお気をつけて。

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心構えとか

地震で起きた。ネットを見たら福岡佐賀に線状降水帯による雨に対する警報が出ていた。昨年末から年始は佐賀、福岡にいたがどの辺がどうなってしまっているのだろう。佐賀はあまり災害がないと聞いたこともあるがどんな様子なのだろう。どうか被害が広がりませんように。自然に対してはいつもなすすべなしというかなしても予想を超えてくるという推測は立つ。心構え的なものが有効である程度であってくれますように。

「心構え」について昨日の勉強会で話した。余計なことをしないための、相手の言葉を奪わないための何か特定の方法があるわけではない。むしろどうしても生じてしまうその事態を最小限にしていく、というよりその影響を知るためにはそうなっていることを実感を持って認識することから始める必要がある。「頭ではわかる」が実感を伴った理解に変わればそれ自体が心構えになる。技法は模倣できるが心構えは模倣できないから患者との経験から学ぶしかない。というか臨床はその連続でしかない。

今日は頭がモヤモヤしていてすぐにウトウトしてしまう。最近寝ぼけてヒヤヒヤすることも多い。寝るときもエアコンを使用するようになり快適に眠ってはいるけれど。夢で「郷土料理という幻想」について講義をしていたのだが最近吉本隆明の『共同幻想論』を再読していたせいだろうか。食べ物のことばかり考えているからだろうか。郷土料理についても実際に話したか、そういえば。今朝のお菓子は梅のお菓子。梅の実はもうおしまいかな。昨日は銀杏並木の木陰を歩きながらその枝にびっしりと銀杏がなっているのを見て驚いた。いつの間にこんなにたくさんなったのだろう。まだ大きくなるとも聞いた。

今日は月曜日。眠いけどはじめましょう。

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精神分析

ここ数日でいろんな川を渡った。川を渡ると景色が変わる。電車で座って本を読んでいても川にさしかかればわかる。顔をあげる。視界が開ける。しばらくその景色をじっとみる。毎回少し感動する。いつも同じ時間に小田急線で多摩川を渡っていた頃は夕焼けが美しい時間でその変化で季節の移り変わりをはっきりと感じることができた。いちいち感動した。京成線が中川を渡るときの景色も好きだ。スカイツリーのある景色もいいが何もないかのように見える景色もいい。夜東京へ戻るときも川が近くなれば景色が変わるから気づく。遠くに街の灯りが遠ざかっていくのを眺めながらまた感動する。慣れることなく感動するのだから不思議だ。海が視界に入れば毎回身を乗り出してしまうのと同じか。これは私が海なし県育ちだからではないと思う。新幹線で富士山が見えれば車内がなんとなくざわめきシャッターの音が聞こえたりもする。スカイツリーのある景色といえば、かつしかけいた『東東京区区』単行本第1巻発売がもうすぐだ。楽しみ。

中井久夫が亡くなってもうすぐ一年になる。私は1週間の夏休みをとっていて神保町にいた。ランチの店が開くのを待っているときに友人のツイートで知った。中井久夫のそばで働いている人たちや近い世代の先生方から話を聞くことは多かった。私は一度だけ研修会で見たことがあるがそんなに強い印象は残っていない。中井先生がどうというより壇上の先生方の会話は今だったら色々言われるであろう会話だったのは覚えている。まだSNSがそういう使われ方をされていない時代だった。私が中井先生の仕事で一番馴染みがあるのは風景構成法だ。年齢、性別、症状問わず多くの患者さんに描いてもらった。その項目の一つに「川」がある。詳細は書かないが川が風景に及ぼす影響と川の個別性に毎回驚かされた。それが川だとは全くわからないものもあった。目の前で「川」を描いてもらうようにいうのは私なので私にはわかるしその人にとっては間違いなくそれは「川」なのだ。そういう共有もよかった。

それぞれの心に残る景色があるだろう。全国を旅しながら別の季節にきたら全く別の景色を目にするのだろうと想像することもある。美しく広がる草原を「きれい」と言ったら津波で全て流された後だと聞き愕然としたことも思い出す。私の仕事は出来事と景色を見せてもらうように聞く仕事だからこれからもその個別性に驚き続けるのだろう。私が誰かとしたはずの体験も私の中にしまわれたものと相手の中にしまわれたものでは違う。それにとても悲しい想いをしたり回復できない衝撃を受けることもあるけれど差異こそが現実でひとりひとりの体験は絶対に大事だからいろんな気持ちになりながら今日も過ごすのだろう。こういうことってすぐ忘れてしまうこともであるからいちいち驚いたり感動したりするのかもね。

今日も暑そう?まだよくわからないな。屋内でも屋外でも熱中症には気をつけて過ごしましょうね。あと車内の冷房にも。どうぞ良い1日を。

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土曜日、出会い、心

除湿をつけた。窓も少し開けた。エアコンは設定温度に向けて初動がんばってくれるので音がいつもより大きいというか風の音が強い。蝿虎がその下でじっとしている。でもそこじゃ風が当たらないよ。真下すぎる。いいのか、それで。涼んでるわけじゃないのだから。あ、少し動いた。とかしている間にどんどん時間が過ぎていく。あっという間に土曜日だ。

今週はたくさんの人と会った。無事に過ごせただけでも嬉しいし、新しい出会いも集団でイキイキ仕事ができるのもおもしろたのしく普段の仕事のための学びにもなる。イレギュラーな形でしか対応できないが長年続けているものは今後もやっていけたらと思う。

小さいパウンドケーキを半分とフルーツティーをいただいた。部屋もだいぶ除湿されてきた(のか?)。涼しくはなってきた。最近これを書くときはPCを腿の上に置いてダラダラ書いている。腿が熱い。暑い。そして書き始めるとどうしてこう眠くなるのか。

今度の旅ではどんな人に会えるかな、と話した。どこかへいけば誰かと出会う。話す。別れる。そんなことの繰り返しだ、日々は。あえて出会いを求める時期やそれが必要な状況もあるかもしれないが私は大体流されるままやってきた。めんどくさがりなのだろう。自分で強く求めた出会いは精神分析に関するものだけかも。まあ、出会ってしまえば出会い方がその後にものすごく大きな違いを生じさせるかというとそうでもなく起きることはそんなに変わらずひどいことも起きる。そういうのはしかたない。後悔できる類のことでもない。傷つきながら苦しみながらそれでもまた繰り返す、日々を。そしてひどく苦しい気持ちから回復できなくてもそれとは関係ない場所ですごくくだらないことをして笑っていたりもする。笑えない状況でも笑えてしまうのだから人間はすごい。死が間近でもそういうことは生じる。人間は常にon goingだ。こうするときはこういうもの、みたいなものを持っているくせに、パターンを反復しがちなくせに、自分を自分が超えてしまう。誰の力なのかしら。ひとりで生きているのでない以上、自分にはどうしようもない部分が大部分。気持ちを感じるのは自分だから防衛が必要になるのかもしれない。大変なこといっぱいあるもんね。心を守る必要と工夫。

さっき何かの本のことを思い出して書こうと思った瞬間に忘れた。なんだっけ。まあいいか。必要となればまた思い出すだろう。必要ならまた電話かけてくるでしょう、というのと同じ。最近は文字文化だからそういう感覚って薄れているのかもしれないけどね。

というわけで良い土曜日をお過ごしください。

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ポテンシャル

南側の大きな窓を開けて洗濯物を干した。レースのカーテン、さらに洗濯物の向こう、向かい側のマンションのドアが開いて人が出てきた。お互い早うございますね。おはようございます。

重たい障害や疾患のある子どもといるとその限界を頭では分かりつつそのポテンシャルに驚くことが多い。進行性のものであってもそうだ。先日、朝比奈秋の「植物少女」を読んだと書いたが著者は医者だと聞いてなんとなく納得した。日々、病に触れていると注意を向けるところも優先的に使われる言葉も変わってくる。著者は小説を書き始めてから医者の仕事と一旦かなりの距離をとった時期があるらしい。「普通の」人が使う言葉の世界に戻ってくる時間だったのだろうか。「普通」と折り合いをつけた通じる言葉で語られたとしてもその原型が変化することは少ないだろう。精神分析でいえば原光景みたいなものだ。そこは善も悪も幸も不幸もないぐちゃぐちゃとしたどちらかというと暴力的かつ甘美な場だ。つまり性的な場だ。今は「性」と言葉はそういうものとして使われることは少ないように思う。文学作品を読めばそんな性は溢れているというのに。私が進行性の、あるいは回復や治癒の見込みはないといわれる障害や疾患を持つ人に感じるポテンシャルの源泉もそういった意味での性にあると思う。アンドレ・グリーンがラカン、フロイトに回帰しつつウィニコットを中心とするイギリスの精神分析家の理論を踏まえた情動を中心に据える議論を展開しているがそういうものを読むときも性をそのような性として「普通に」捉えることができないと議論はすれ違うばかりのように思う。対象関係論は対人関係のことを扱っていないということもできるがその実感は自分を脅かしつつも生かし続ける性の力を生々しく実感していないと意味を取り違えるかもしれない。その取り違いにさえ無意識という言葉で何かをいうことは可能なわけだが無意識という言葉をゴミ箱的に使うのも違うのでそういうものだとそのままにしておく必要があるのかもしれない。多くの具体的な出来事を思い浮かべながら曖昧なことを書いているがなかったことにしないための行為のひとつだ。今日もなんとかはじめよう。

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本、お菓子、雨

「推しの子神回」ですと?まだアニメ3話目の私についていけるはずのない展開があるのね、きっと。今夜も見よう。

雨ですね。雨の音でどこに何があるかわかったりする。私の場合はすでに目でも見てるから。目の見えない人は耳がその代わりをするらしい。

『聴こえない母に訊きにいく』の五十嵐大さん@daigarashiと『わっしょい!妊婦』の小野美由紀さん@MIYUKI__ONOのTwitterスペース「エッセイを通して社会を描く」を聞き始めた。

聴こえない母に訊きにいく』(柏書房)は最初から泣いてしまった。書かれていない出来事や気持ちがシンプルな文章に染み渡っていて読むと浮かび上がってくるそれらに揺さぶられてしまった。雨の日にピッタリ。母の静けさには迫力さえ感じた。それは耳が聴こえないから、それでも親になったから、という単純な話ではないのだろうと思う。個人の体験は個人だけのものではない以上、語りえないものに溢れてる。この本でいえば父はあまり登場しない。なぜだろう。私の仕事は書かれていないことの方に注意を向ける。そのようなことも含め、ありがちな物語に回収しないように耳を傾けるべき一冊だと思う。『わっしょい!妊婦』はまだ読んでいないけどお二人のお話を聞いているとすごそう。昨日も目の前で妊婦さんたちが3人で話していた。ひとりは明らかに妊婦だとわかったが聞こえてくる話だとこの人も?この人も?と思ったが見た目ではよくわからなかった。妊婦とはそういう状態だということかもしれない。「こんなのが出てくるってすごいことだよね」「ほんとほんと」という会話を聞きながら「こんなのを出せるってすごいことだよ」と思っていた。3人は何度も「〇〇ってすごいことだよね」と言い合っていた。自分のことなのに自分にはわからない、そういうものが神秘として語られるのかもしれないけど妊娠、出産、子育ての現実は神とかいるなら助けてくれよという出来事の連続だからそのすごさに対して全方位からまともな眼差しが向けられたらと願う。

雨が降る。雨が降る。眠気がとれない。お菓子(五日市土産、「里の娘」)は食べた。美味しいお茶も飲んだ。被害の出ている地域は大変だろう。昨日、妊婦さんたちの話を耳にしながら各地の被害状況を見ていた。いろんな場所でいろんなことが起きている。どうぞご無事で。ご安全に。

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ネットワーク、注意、暮田真名「うわの空のすすめ」

今朝も風が気持ちいい。台風とか天候の乱れの予兆ではないよね、と天気予報を見る。九州に大雨の予報、土砂災害に厳重警戒とのこと。こういうとき無事かどうか連絡せずとも知れるのがTwitterだったのだけど今後どうなるのかな。私は東日本大震災のときにTwitterをはじめた。震災後すぐの5月にNPOで被災地へ行きその活動をつなげていくためだった。阪神・淡路大震災のときは関西に友達がたくさんいた時期だった。グループでの付き合いだったからネットワークができていたのはよかったが当時Twitterがあったら何がどう違っただろう、と考えることはある。九州は土砂災害の被害が多く地盤も緩んでいるところが多いだろう。毎回九州に大雨というニュースを見聞きすると旅で行ったときに目にした水害の痕を思い出す。どうか被害が生じませんように。

今週はイレギュラーなことが多いので少し気を張っている。心配は主に体調面だが。常に慌ただしいので自分の状態から気を逸らしておけるのは悪くない。囚われる暇があると余計に気になってしまうということもある。逆に痛みが強いときなどはその痛みがどんな感じかをつかむために集中することがある。これまでとどう違うのか、違わないのかをつかむべく。状態としては結構大変でもその後の回復を予測できるときがあるから。

昨晩は除湿も冷房もつけずに南側の大きな窓を開けていた。風が気持ちよく月がとてもきれいだった。見えたものをシンプルに言葉に置き換えていく俳句、そこに情緒が加わる短歌、景色よりも言葉の意味よりも言葉の並びや音が何かを醸し出してくる川柳、これらを短詩と括ることができるがそれぞれの違いは興味深い。

6月30日に川柳人の暮田真名さんの電子書籍が発売された。「次世代の教科書」シリーズ編集部による暮田真名さんへのインタビューをまとめた「うわの空のすすめ」(金風舎)。題名からして暮田さんらしい。昨夏、臨床心理士、公認心理師向けのイベントにゲスト講師としていらしていただいてから仲良くしているが経験に対して素直かつ貪欲なのが面白く魅力的。若さだけが理由ではないだろう。

「私にとって川柳との出会いは、自己否定の堂々巡りを断ち切る鋏のようなものでした」

と暮田さんは冒頭に書いている。高校生や大学生には特に響くであろう言葉も多い。私は暮田さんがどのように言葉を拾っているかに最初から興味があったのでそれについても話されていてさらに関心を深めた。精神分析は視覚も聴覚も普段とはだいぶ異なる注意のもとに使っている。フロイトはそれを「平等に漂う注意」といった。今日もぼんやりとなにかを待つようにやっていこう。短詩仲間とのオープンチャットも作った。ようこそ、いらっしゃいませ、おいでなさいませ、とお出迎えするときみたいに言葉を迎えられたらいいなと思う。

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ユヌクレ、南信州、ヤキフェス?

北側の小さな窓からスーッと風が入り込んできた。南側の大きな窓を開けたときには感じなかったのに。今朝はユヌクレさんのバターサンドを半分。大人気のパン屋さんはコロナ禍でオンラインショップに切り替えたまま南信州へお引越しされるとのこと。南信州ってどこ?おお、長野の南か。静岡側。そりゃそうか。南信州だもんね。飯田市が一番大きいみたい。人口は172,921人(2008年1月現在)とウィキペディアから。今は2023年、その後の人口はどうなっているのかしらと調べたら96,507人(2023年6月)。こんな減ってるの!?と思ったけど前者は南信州地域の人口。私が調べたのは飯田市のみでした。びっくらした。私の友人も長野に引っ越して商売をしているけど南信州ではない。長野は広いからなあ。色々いってるけど南信州かあ、いったことないと思うなあ。飯田って日本一の焼肉街なんだって。行きたい。朝はユヌクレ、たくさん歩いてお昼はそば、夜は焼肉というコースで。「焼来肉ロックフェス」ってなに!?楽しそう。日本一長い鉄板で焼肉?ギネスに挑戦?あ、世界一か。ギネスだもんね。すごい。楽しそう。流しそうめん的発想かな。あれも「世界一長い」ってあったよね。世界一小さな鉄板だと味がわからなくなっちゃうし、そうめんも流れてもらうにはそうめん以上の長さが必要だし食べ物で競われるのは長さの長い方とか大きさの大きい方なのかな。モノだとどれだけちっこくできるかも競うよね。スプーンおばさんとかアリスは本人の制御を超えているし競ってないなぁ。焼來肉ロックフェスは今月22日と23日か。昨年もやったのね。2021年は中止、2020年は配信。今年はどのフェスも復活かな。色々行けるように体調気をつけないとですね。なんでも食べられる胃腸がほしいです。胃腸が悪いとずっと眠いし好きなものを我慢しなくてはいけないのは悲しいですから。我慢できなくて半分食べちゃったけど、バターサンド。このあと気をつけましょう。火曜日もどうにかこうにか過ごせますように。

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回復、時間感覚

さっきベランダに出たら鳥の鋭い声がした。よく聞く声なんだけどお名前が相変わらずわかりませぬ。でもいつもこんなにずっとは鳴いていない気がする。あまり風もないけど気温も高すぎない様子。でも部屋に入ってもカーテンを開けなかった。冷房の効果を気にする程度には外は夏だもの。数少ないお休みをすっかり体調回復に使ってしまったけど痛がりながら寝っ転がりながらかき氷やあんみつ食べにいきたいとかやりとりしてた。機能が衰えると欲望の健全さを感じますね、普段は困ったもん扱いの欲望さんにも。もちろん欲望によって破滅(しっくりこない言葉だけど)することもあるけれど。身体の痛みやだるさって本人にしかわからないし死もいつおとずれるかわからないんだな、ということは実感を持って知るようになりつつあるけど実際に起こることについては全然知らない。自らの死が間近なことを予測しながらSNSに「これが最後になるかも」と言葉を残す人もいるしまだ幼い我が子が重度の障害を抱えつつ生きた軌跡を残すご家族もいる。今私が思い浮かべた子はすでに亡くなっているので過去形にしたけど存在を確かめるためにSNSを利用している人も少なくないように思う。赤ちゃんの頃から何度も手術を繰り返していた子が小学生になったと知りお祝いをいうことができたのもSNSのおかげだった。動くこともままならないまま限られた人たちと日々を過ごしていると、と色々書いたけど消した。ものすごく大変なことだ。漫画『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)で突然石になってから復活する日までの時間を主人公が数えながら持ち堪えていたが孤独や狂気から辛うじて身を守る手段のひとつが時間感覚を維持するということなのかもしれない。トラウマは時間感覚を破壊する側面を持つがその場合SNSはさらなる外傷と関係してくるかもしれない。断片化されたこころに断片的な言葉の取り入れは困難である場合が多いだろうから。また眠くなってきてしまった。どうなることやらだが委ねられるだけ委ねよう。また1週間がんばれたらいいね。

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観たり読んだり。

まだそんなに気温高くないですね。鳥たちの声は聞こえません。なぜなら早朝からNetflixを見ているから。きっと今日も鳥たちは元気。「離婚しようよ!」はとてもおもしろかった。特に5話までが。今は「バーレスク」。朝から観るものでもないかもだが観たかったんだ。クリスティーナ・アギレラ大好き。楽屋でのDon’t touch my stuff!というセリフに反応してしまった。ケンブリッジに6週間いった時に寮で2週間同室だったコロンビアの子に私が圧を込めていったセリフ。Shit!なことが多かったぜ。一度本気でキレたら部屋に寄り付かなかくなったけど。不良少女たちみたいな雰囲気で妹分のような子たちはかわいかったし仲良くしてたんだけどな。腹たつ。私も相当やばいと思われたみたいだけど知らんがな、仕掛けたのそっちやろ、とまだ元気な20代でした。今でも同じことされたら同じことする気がするけど。戦略なんて増やしたくないしね。しかしシェールもかっこいいな。

『新潮』7月号で朝比奈秋「植物少女」を読んだ。これまでにない母と娘の関係を見せられた気がして深いため息をついてしばしぼんやりした。「離婚しようよ!」で「生きているのか死んでいるのかわからない」というセリフがあった。生き「ている」ことを主人公たち以外の人物からも見せつけられた。意志ってなんだろう。

今日も見たり読んだり出かけたりしよう。言葉にならないことが多いな、なんだか。どうぞ良い一日を。

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肉まん、ボロ市、『ねこたちの夜』

ほっかほかの肉まん。蒸した方がしっとりするけど今朝は電子レンジ。加減が難しいですよね、こういうのって。書いてある通りやってもあちちって火傷しちゃうこともあるし。とっても美味しい鹿港があるあたりは12月と1月に2回開かれる「世田谷ボロ市」で有名。駅だと東急世田谷線上町、世田谷、松陰神社あたり。コロナ禍のボロ市ってどんなだったか・・・。今年はすごく盛り上がっていました。普段見たこともない、使い方もわからない雑貨を眺めたりお話聞いたりちょこちょこ歩き食べしたり。アンジュというレアチーズケーキが特に美味しいプラチノというケーキ屋さんが出すココアがこの寒い時期にぴったり!あー、早く冬が来ないかなあ、とは全然思わないけど毎年行きたくなる伝統行事です。世田谷通りは美味しいお店も多いしお散歩にもピッタリ。馬事公苑のそばには古井由吉も住んでいた。馬事公苑もオリンピックで使うために閉園となってすっかり変わってしまった。というか新しくなってから行っていない。とってもいいところで世田谷まつりか何かのときに偶然友達家族に会ってまだ5歳の子とじゃんけんしたのは何年前かな。もう中学生だから約10年前か。生まれる前から知ってるんだよー、なんてその子は知らないし子供は子供の大変さがあるに違いないけど意外といろんな大人があれこれ考えながら見守ってるものよ、うざいだろうからあえてそんなこと言わないだけで。また何かのお祭りで偶然会いたい。夏祭りの貼り紙もそろそろ見かけるのではないかしら。7月ですね。いまそばにある総合俳句誌「俳壇」は4月号だけど。本はこんな夏の朝でもあっという間に全く別の時間、別の季節、別の場所に連れていってくれる。友達のさわださちこさんの最初の詩集『ねこたちの夜』も昨晩見つけた。ここにいたのね、猫さんたち、という感じの表紙は編みメーション作家のやたみほさんによるもの。この詩集は三越左千夫少年詩賞を受賞されています。

てぶくろのはんたいは?

っていうから

こたえたら

ろっかいぶたれた

くやしくて

いいつけたら

「わるい おにいちゃんねえ」

おかあさん わらった

へんだな わたしも

おこりたいけど わらっちゃう

てぶくろ

ろくぶて

そうか

うーん

ー『ねこたちの夜』(2012、出版ワークス)

また冬を取り上げてしまった。まだ、というより今日から7月というのに。ろくぶて、懐かしい。あれはなんだったんだろう。きちんと6回ぶたれてたよね、大体の人は。123456!って早口でいう相手に。なんだったんだろう・・・。今日はもういいかげんにしてくれよ案件もある。ろくぶてに笑いながら腹を立ててた頃が懐かしいわ。ぶち返すにも微妙な感じあるしね。たしかに。ここまできたら最後まで丁寧に緻密にやりましょ。

暑さからも冷房からもちょうどよく距離とってがんばりましょ。

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心ない人、心と経済、夏のお花

寝たり起きたり。寝違えたわけではないというか、仕事中に急に寝違えたような首の痛みがきてそれからずっと痛くてそれでうまく眠れないみたい。暑いというのもあるね。

心ない人についてずっと考えている。性的な加害性を持つ心ない人(自分の加害性は相手に押し付けるような心はあったりする)が信田さよ子や小川公代を引用して暴力やケアについて被害者の味方みたいな立場を維持しているのをみると心ないというよりもあなたの心はどうなっちゃってるのと怖くなる。でもこれも外からはわからない。信田さよ子だって相談に来なければ助けることはできないからSNSとかで発信してくれていると思うのだけどSNSの言葉ってこうやって都合よく利用されることもしばしば。

「私はそんなことされてないしむしろ優しくされてるしそういうのは個人的なことだと思う」という人も多い。もちろん個人的なことですよね。でもそれを個人的なこととして片付ける個人が多いという意味では社会的なことですよね。個人的なこととかいっている人が「フェミとは距離とってまーす」(こういう軽薄さを伴う場合が多い)とか「ひどいことしてくるのは大抵女」とか雑な分類で何かいってたりするのもよくあること。都合がいい言葉の選択。

ペットが子供代わりみたいな関係がペットが死んで変わることもある。というよりペットが死んだらペットによって繋がれていた関係だったとわかる、みたいなことはペットがいなくても起きる。たいていの関係には媒介がある。利害とかも媒介となりうる。いつの間にか死んだペットを自分の寂しさの象徴として利用していたり。モーニングワークはそういうものではないし、二者関係によって第三者を慈しんでいたならその第三者を喪失したら二者関係がワークの基盤になるが相手を想う心があまり育っていない人は自分の痛みや葛藤を抱えることがすでに難しく快を維持する二者関係以外はしんどいからどこかへ追いやってただただスッキリしたい。商魂逞しい場合、ネタ化、商品化によってさらに誰かの痛みや孤独を強めたりする。「黒歴史」として書いて売っていることもあるだろう。「こういう現実を生きるために」という本だって書いてしまうかもしれない。その場合「なかったことにするために」が正確な題名だと思うけど。

こういう現実を生きるために何にお金を使うかはもっと大切に考えないとだな。貧しい時代なんだもの。心と経済の繋がりを具体的な体験と離れない形で考えて行けたらいいですね。

今日は友達がくれたクラブハリエのちっちゃいバウムをいただきました。とってもかわいいし美味しかったです。お花もいただきました。夏のお花、明るくて大好きです。

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ラジオ、かつしかけいた、7月へ

Good morning. It’s five o’clock, from the J-WAVE Singin’ Clock♪

ってずーっと変わらないよね。学生時代はひたすらJーWAVEだった。今も聞くと当時の人たちがたくさん喋っててみなさん親になったりしてるのね。ずーっと声だけ聞いてるからCMとか別の場所で聞くと「あ、J-WAVEの人だ」と思ったり、J-WAVE主催のライブに行ったり、台本というのかな、そういうのを書くバイトに応募しようとしたりしたなあ。どうして書かなかったのか。きっといつも通り怠惰のせい。

ラジオのこと書きながらも頭は別のことも考えていてさっきはまんが家、イラストレーターのかつしかけいたさん @ktsksketch「路草」で連載していた『東東京区区』の単行本第1巻発売楽しみだな、とか思っていた。連載冒頭の作品紹介を引用させていただきます。

「自分が生まれ育った「東東京」は、まだまだ知らないことばかり……。偶然知り合った年齢も性別もルーツも〝まちまち 〟な三人が、「東東京」の街を探検・散策し、その新たな魅力や今まで知らなかった場所、気付かなかったことを見つけ出していく地元発見冒険譚 。 」

面白そうでしょう。東東京、いわゆる「下町」ですよね。墨田区はスクールカウンセラーをしていた学校はなくなってしまったけどその頃の繋がりで今でも幼稚園に仕事にいくし、江戸川区の病院でも長く働いていた。その頃にかなり歩いていろんな駅やバスを利用してみたりしていた。精神病院の朝は早かった。患者さんたちも早朝から並んでいたし近所の公園でもよく見かけた。NPOで市川(総武線)や市川真間(京成線)北国分(北総線)も身近だった。前に江戸川区の病院で仕事したあと歩いてみようと思ったら江戸川に橋がない!結局市川橋まで歩いて夜のミーティングというか飲み会に行ったのでした。この漫画はインドネシア人の父と日本人の母をもつサラさんがエチオピア出身のセラムちゃんのお母さんが営むエチオピア料理店@立石に入るところから。地図を手に道に迷っているうちに春太くんと出会うよ。東京出身の人ほど東京タワーに行かないというのをよく聞くけどここは下町。スカイツリーがそういう場所。スカイツリーの完成は2012年。押上の友達の家でカレーパーティーをしたときにはまだできていなかった。そっちの方にいくたび、押上の街がどんどん変わっていく様子を聞いたのを思い出す。

わたしはかつしかけいたさんのイラストや写真も好き。街をこんな風に切り取れるのはその全体を知っているからなのかな。単行本はAmazonでも予約が始まっているそう。私は本屋さんで買うけどチェックしてみてくださいね。お散歩好きの人には特におすすめ。

ジャークチキンって言葉がラジオから流れてきた。最初に聞いたのはいつだろう。「邪悪チキン」って悪い顔をした鳥さんを思い浮かべたでしょ、最初はみんなも。そんなことない?フェス飯の話か。そういう季節だねえ。私はまだコロナ警戒中だから空いてるフェスがあるなら行きたい。適当に踊ったり歌ったりしたい。歌と踊りといえば今Netflixで「ヘアスプレー」配信中。すごく元気でるミュージカル映画です。昼間は外出たくないけど夜、花火したり外で遊びたいね。松戸の花火屋さんを思い出した。江戸川でやったなあ。懐かしい。今年も浴衣着よう。受け継がれてきたものも大切にしないとね。楽しいことばかり考えてるけど外に出るのは憂鬱ね。暑そうだもの。まあ、今日も一日なんとかやりましょう。週末は7月!

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鳥、言葉、同時

鳥たちが蝉みたいに一斉になくのをどう表現したらいいのかなと思いながら楽しく聞いていた。少し資料に目を通したり、流れてきた政治家の演説を少し聞いている間に鳥たちはどこかへいってしまったらしく今外はとても静かだ。

いろんな音が聞こえるがさっきまで道路の方に感じていた人の気配ももうない。カラスは時折通り過ぎるし。車が走り去る音も聞こえる。でもまだまだ朝の音だ。

パソコンがフリーズしてしまったので再起動かけた。私たちも寝て起きて再起動。立ち上がりの遅い自分を棚上げして文句言っちゃいけないよなあ、と立ち上がりの遅いパソコンの画面を眺める。でも私の立ち上がりが遅いからきみたちみたいな人、人じゃなくて何?もの?機械に助けてもらっているわけだから早く立ち上がって、とも思う。どっちにしても待つしかないが。

のんびりとだが立ち上がったのでこうしている。こんなことしている場合でもないが動きたくない。どうしましょう。今日もいろんな人と会って私は主に聞く方で一緒に考えて一緒に言葉にしていく作業をする。そういうときは言葉の意味以外、言葉が発せられる行為そのものをぼんやり観察している。精神分析ではそのときの自分の発話などの行為とそこで生じている逆転移も同時に観察している。決まった目的のために、たとえば何か特定のことを伝達するために言葉を使う場ではないので彼らは彼らの文法のままに言葉を使い思考し発話する。いろんなことが同時に起きていて表層に浮かんでくるものを発話し続けている彼ら自身も戸惑いながらだ。こんなことが言いたかったわけじゃないんだけど、とか思わず言っちゃったけど、とか「けど」「でも」「だって」など自分の中で整合性を保つ努力をしながら浮かんだことをそのまま言葉にしようとしてはその困難と不可能に直面する。自由連想ってこんな感じ、ということを書きたかったわけではなかったのだけど指にまかせていたらそうなったのだから書きたかったのだろう、といろんなことは事後的、というのも精神分析の特徴で抵抗や批判にあうところだ。でもそういうもんじゃないのかな。あとからいくら正確に文字にしたところでなんの意味もないということはよくあること、というかそこにはなんらかの反復を見出すことはできるから重要は重要なんだけどその人の転移とか抵抗とかセクシュアルだったりアグレッシブだったりする空想とかそいう諸々は精神分析のルールにそって現れてくるものだからその方法では扱えないんだな。フロイトの技法論集も参照。

いろんな鳥たちが一斉にいろんな鳴き声でいろんな風に鳴いている感じなのかもね、私たちの言葉も。身体と欲動と言葉。いろんなことに順番はないしどっちかということもない。分けられないまま同時に起きてることに身をひたす。まだ風が気持ちいいです。どうぞ良い1日を。

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Juicy by 土居健郎

いただいたメロン、とっても美味しかった。ジューシー。土居健郎が藤山直樹の最初の本『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(2003、岩崎学術出版社)の序文で使った言葉だ。

「英語にジューシ(Juicy)という形容詞があるが、彼の書く文章がまさにそれである。」

この本が出た夏、私ははじめて藤山直樹先生の単発のグループに出た。そこでこの本を購入した(たしか著者割)。一緒だったみんなとはその後も精神分析を学び合う関係でありすでに精神分析家になった人もいるし別の道を選択した方もいる。

私は土居健郎のことは土居先生と呼ぶほど身近ではなく、パトリック・ケースメント(うろ覚えだが)が来日してケースカンファレンスがあったときに発言する土居健郎をみてその迫力に圧倒された。土居健郎が亡くなったときのことは相田信男先生がどこかに書かれていたし、先生方からもお聞きした。土居健郎の著作も一人でもセミナーでも多く読んできたしいろんな人から話も聞いた。みなさん、なにかしら土居先生とのイキイキしたエピソードを持っていて土居先生はオープンな人なんだなあ、あんなど迫力なのに、と思っていた。藤山先生がケース理解に関してなにか大切なことを伝えてくださったあと「って土居健郎がいってた」というのもいつも面白かった。いまや私も訓練中とはいえ臨床家としては教える立場になったので「って土居健郎がいってたって藤山先生がいってた」と言ってみたりすることもある。それに「ような気がする、がいっていないかもしれない」とか曖昧なことを言ったりもする。伝達とは不確かなものだ、というか先生方の考えにだって変遷がある。「前はそんなこと言ってなかったじゃん」ということだって普通にある。というかそれが普通だ。

それにしても『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』はいい本だ。フロイトとの対話が基盤にあり、オグデンの考えに強い影響を受けながら一人の精神分析家と患者たちひとりひとりのパーソナルな出来事がまさにイキイキと書かれている。土居健郎はこれをジューシ(Juicy)と表現したんだな。私はものすごくパーソナルな精神分析というものを普遍的なものとして記述するって転移、逆転移を軸に展開する世界をこうやって描写することなんだ、と思い「これを読む先生の患者さんはみなさんご自身のことかと思うかもしれない」とお伝えしたことがある。先生は「そうかもしれないね」と笑っていた。どこにいっても相手を変えて反復を繰り返す私たちのこころは身体を借りて今日も誰かとの間に自分を見出しては否認するだろう。とりわけ分析に通う患者はそれとの距離に敏感だ。自分のこころなのになぜこんなにも遠くにおいてしまいたいのか。自分で自分のことを嫌う。そんなような表現は日常的でよく聞きもする。「自分のことが好きになれない」とか。でも精神分析は好きとか嫌いとか対人レベルの何かではなく自分にもどうにもならない快と不快という原初的なセクシュアリティのレベルで生じる情動と衝動を扱う治療だ。そこには砂漠もあれば泥沼もある。オアシスは空想でならありそうだ。土居健郎が藤山直樹の本の序文で「精神分析という営みにはどのような陥穽が潜み、またそれがどのような醍醐味をもたらすものであるか」と書いているが非常に際どいモノだと思う。

今日はどんな1日になるだろう。あまり聞かない音を立ててバイクが通り過ぎた。御殿場のお菓子屋さんの抹茶パウンドが美味しかった。たくさんの主語があるね、世界には。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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思いやり

さっきまですごく賑やかだった鳥たちの声が少なく、遠くなった。もうお出かけですか。早いね。私も今日はいつもより早く出よう。昨日バタバタ急いでてやるべきことを残してきてしまった。今日もバタバタだから朝のうちにやっておかねばまたすぐ1日が終わってしまう。

子供のいない夫婦の夫側が妻と妻以外のパートナーにどういう優劣をつけがちかということについて話しながら書いていた。子供という絶対にお世話が必要な相手がいる場合は実際はなんのお世話もしていなくとも時間的にも気持ち的にもそれなりに拘束されるので別。誰かを大切にする仕方って人それぞれだけど葛藤なく分けて考えていること自体に優劣が発生しているよね、という話。「葛藤なく」が大事。本人なりの葛藤とかはちょっと別。行動と状況から推測。ほとんど葛藤する必要のない状況が多いから、そういう人の場合。色々話しながら考えていくとやっぱり子供やお世話のニードがある相手がいるかいないか、いなくてもそういう相手の存在というものをリアルに考えざるを得ない状況にあるかないかで相手のことを思うこころ、一言でいえば思いやりというものが求められる状況は異なるから何をどう問題にしていくかは変わってくるよね、という話。公私混同しながらダラダラ時間使えてしまうような関係でももちろん思いやりはあったほうがいいけどなくてもそういう相手がいる場合と比べたら深刻にはならない場合の方が多いでしょう。周りを巻き込むこともあまりないし。都合よく離れる理由が最初からたくさんあるから。もちろん一番身近な人がそういう思いやりを大事にする人だったらものすごい負担をかけるだろうけど。障害や病気はもちろん、子供や高齢者のケアについて考えるときにそういう切迫感にどれだけ浸されているかは重要なんだな。「子育てしかしてなくて」と申し訳なさそうに女に言わせる社会はそういう切迫感に耐えられず自分なりの葛藤に留まっている人たちの思いやりのなさから生じているといってもいいかも、これは男女限らずだけど。でも今はまだいくら形整えても結局無意識的に男頼みにならざるをえないのが自然な状態なわけだから女は現実的に相当な状況にならないとこういうこと考えるの抵抗あるかもね。今も具体的な人のことがたくさん思い浮かんでいるのだけど引き続きやっていこう。また話そう。

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夢とか快とか

寝たり起きたりしているうちに朝になった。寝苦しかった。除湿もつけていたしちょうどいい感じだったのに。難しい文献を読んで頭がおかしくなっているのかもしれない。今日も暑そう。昨日は特別なお弁当を食べた。塩気に弱い私には少ししょっぱかったけどすごく美味しかった。塩分も大事ですね。そういえばかわいいオリーブオイルとバルサミコ酢もらったんだ。バッグから出しておかねば。いつも持ち歩いてしまうから。バッグ開けるたびに「あ、出すの忘れた」となる。マイドレッシングセットとして持ち歩くならまだしもね。

こんなことしてないで色々片付けないとなあ。ウィーンにも行きたい。フロイトがいたBerggasse 19へ。義務を思い出したら願望で打ち消してしまった。快原理。でも本当に叶わぬ夢にしないようにしたい。

フロイトは「夢はひとつの願望充足である」とその機能を位置付けた。これは「快楽」と結びつけられるかもしれないが、フロイトによる「快」はとりわけ無意識においての「快」は前意識や意識にとっては必ずしも快ではない。フロイトの「快」や「一次過程」(eine andere Lokalität)の彼岸については『快原理の彼岸』とラカンによる発展を追う必要があるが夢がどこからどこへどうやって何をしようとしているのかを考えることは面白い。夢が不在の表象を代理するものとして(ラカンだったら来るべき表象とかいうんだっけ?)なにかしらのスプリットされた主体部分を呼び寄せるものだとしたらウィニコットが「夢を見られない」ことを主訴として精神分析を求めたのはその切迫した不安、あるいは切迫することができない不安に突き動かされてのものだったのかもしれない、など思ったりした。

うーん。そんなこと言っていないで出かける前にお片付けをしましょう。今朝はコーヒー&チヨコレイト。夜はビールが飲みたいな。そんな季節の朝ですよ。どうぞみなさんもご無理なく。

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線、差異、チーズ

光が強い!でもまだ朝の光。昨日バス停に向かうとき、強い光とビルやマンションと道路沿いの木々が作り出す暗さというか黒さに強く夏を感じた。建物の間から見上げる海みたいな空は真っ白な雲が数えられる形で浮いてた。こんな綺麗な色の海はあまり見たことがないのにそう思った。道路沿いの植え込みには濃い紫の紫陽花が咲いていた。知らなかった。

いろんな人の話を聞きながら語られている土地を想像し、景色や場面を想像し、それぞれの体験に近づこうとする。どんな感じなのか聞きながら。似顔絵を描いてもらうように。彼らが描写しようとしているものとそれを聞きながら私が描写しているものは異なるだろう。警察官だったらその正確さを要求するだろうが私の仕事は正確さよりどこから線が始まり、どこが強調されるかということを大切にしているように思う。夢を聞く場合も同じだ。断片が部分に、部分が全体に、そしてまた断片に、その動きを繰り返しているうちに見えてくる別の景色こそ「あ、それ、そんな感じ」となることが多い。差異を作り出すことができたらそれは本当に大切な一歩となるように思う。私たちはずれや差異を掻き消す方向を目指しがちだから。

今も頭の中に最近読んだいくつかの戯曲のことが頭にあるがそれについては昨日も今日も書く気がしない。ここでは手が止まってしまうようなこと、手を止める必要があることは書かない。だから大抵似たようなことばかり書くことになるけどこの繰り返しの中で自分が感じる差異に日々助けられているような気もしないでもない、今書きながら思っただけだが。読んだ戯曲には結構考えさせられているのだろう。だから簡単に書けないんだ、きっと。

インスタでブーラッタチーズを果物と豪快に合わせている写真を見た。なんだろうブーラッタチーズって。絶対美味しいに違いないけど楽しそうな名前だね。ブーラッタ♪ブーラッタ♪ってズンチャッチャのリズムでいける。あーいいな。トマト、蜂蜜、生ハム、メロン、あとは美味しいオリーブオイルとかで食べるんでしょ、きっと。素敵素敵。

昔、渋谷のスペイン坂でね、と思い出を書きたくなったけど積まれるばかりの本や資料が目に入っちゃったからやめとく。はあ。暑さに負けずに過ごしましょうね。朝の強い光はだいぶ空全体に馴染んで見かけは穏やかなお天気です、東京。どうぞお元気でお過ごしください。

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邪悪道

規則的に鳴く鳥を脳内で真似る。毎日いろんなニュースがあるなあ、と脳内でため息をつく。Netflixで「ミニオンズ」をみた。最高にキュートじゃないか。悪の側があんなだったら能天気でいられるのに。最近善人面した悪人が多すぎるのではないか。むしろそっちが主流なのか。私はすぐに「邪悪」認定されるから善人ヅラしていないらしい。よかった。このままいきたい。「私が邪悪だっていうんですか」と聞かれた。めんどくさいのでとりあえず否定した。そう言われると「そうかもね」と思ってしまうけどめんどくさいからそういうのやめようよ、と思う。「悪いのは自分じゃない、お前が邪悪だ」と悪を押し付けたい人の単純な反転。あなたの周りはそんな単純な善悪でできているんですか。そう思い込んでるからいつもしんどいんじゃないんですか。薄くて浅い関係で毒にも薬にもならないちょっと気の利いたことを呟くのは大得意だものね。単純な「いいね!」をもらいすぎたのかしら。そういう関係は「いいね!」、傷つかなくて。でもそれはそうではない関係で誰かを弄んだり見下したり貶めたりしていい理由にはならないんだよ。そういうことは本からは学べないから知らなかったかもしれないけど。自分の思ってもみなかったことを問われるとイラッとした態度で一生懸命積み重ねてきた本の知識で説明を繰り返すか怪訝そうに首を少し傾けて小さなため息をついて圧をかけて黙らせる。「何その態度、子供?」なんて言おうものならもっとめんどくさくなるので「お勉強」と思ってきちんと耳を傾ける。世間ではそういう人が善人、賢人扱いされて本気度の少ないベタベタダラダラしたサークル的世界で気持ちよさを追求しているのだから、そういう世の中に慣れていかなければ、それが「大人」になるということ、というわけでは全くない。うんざりするが「はいはい、邪悪なのは私ですね。その通りです」ということで正しく邪悪道で精進していきたいものだ。

noteにメモったが、と昨日読んだ戯曲のことを書こうと思ったけどそのエネルギーがない。脳の働きが鈍い。すでに疲れているがなんとかやろう。

note:

日本劇作家協会 戯曲デジタルアーカイブ

青空文庫>91日本文学>912戯曲

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鳥、涙、アセスメント

今日は鳥たちが早くからとっても賑やか。いろんな声に耳を傾けているとあっという間に時間が経ってしまう。鳥たちがこうやって毎朝鳴き続けてくれることで気持ちが少し明るくなる。身体の実際の痛みは癒えても謝らないとまずいという気持ちにさせられるほどの言葉の攻撃で受けたダメージには蝕まれ続けている。眠れないまま朝を迎えてしまった人にも彼らの声が届きますように。

SNSで見かけるお店やお花がきれいな場所に行きたいな。早朝散歩を復活させてもいいかもしれない。大学2年生の時だったか、夏に1ヶ月サンディエゴのSDSUに滞在した。朝5時だったか、毎朝みんなでランニングをした。海でもよく遊んだ。全身真っ黒になってしまい先生にこの地域の皮膚癌の発症率データと共に怒られた。最初は食べられなかったカフェテリアの甘いお菓子もいつの間にか食べられるようになった。だだっ広い道路をでっかいスーパーに向かって歩いていると車の中から差別用語を叫ばれた。

鳥たちがどこかへいってしまった。あ、鳩の声はする。くぐもった声で一定時間鳴いてまた黙る。なぜか目がしみて痛い。涙が出る。悲しいのかもしれない。

目の前の人が急に黙る。それまで低い声で落ちついてしゃべっていたのに。一言だしてはつまる。涙が溢れてくる。泣いていたのか。一度涙が溢れてしまうと止まらない。じっと一緒にいる。自分ではどうにもできなくて、とやってくる人たちの緊張の糸が切れる瞬間はいつも突然訪れる。「大変でしたね」という言葉に堰を切ったように泣き出すこともあるが大抵は意外な瞬間に。ずっとひとりでやってきたのか、こんな感情を秘めたまま。そうせざるをえなかったわけには歴史を伴う事情があるのだろう。あるいはそれまでの歴史を断ち切られるような出来事が。まだわからない。本人だってそうだろう。それでも心は動いた。その動きをどう捉えるかがアセスメントのもっとも重要なところだろう。もぐらたたきのもぐらのようにどの出来事に対しても同じように衝動が強まるのか、突然海に投げ出されたかのように自分の涙に溺れそうになるのか、驟雨のように泣き泣き止めば雨など降らなかったかのような、でもさっきまでより明らかにしっとりした連続性をもったストーリーを紡ぐのか。

いつもより広く開けた西側の窓から冷たい風が入ってくる。さっきまでは感じなかったのに。カラスが数羽、大きな声を出し合っている。心はまだ動くだろうか。時折不安になる。

シャワーを浴びて散歩に出て一度帰ってきても仕事に間に合う。まだそんな時間だ。梅雨の晴れ間でもなく曇り空だが雨の降っていない空はこの時期貴重だ。人気のない住宅街でまだ眠っている人をそこかしこに感じながら昨晩と同じように咲いているであろう花々に顔を寄せる。あ、脳内で散歩してしまった。そういうことではない。今日も実在の概念を広めにとっていこう。なんとなくそう思った。

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ゾロ目を待つように。

444だ、と32、33、34と時計が進むのを待った。44444!よし!時計のゾロ目まちはいつから?見逃したってまたいずれくるのに?そうだよ。生きてる限りゾロ目と会うチャンスは失われないのにいつだって見逃すから待つんだよ。

ベケットが死んだのは1989年、1999年だったらややゾロ目。死ぬのをあと10年待っていてくれたら。ややゾロ目のために?ありえない。でも子供のときの私たちのゾロ目待ちにかける情熱は結構なものではなかったか。

1999年は松木邦裕、藤山直樹、十川幸司が精神分析のオフィスを開業した年だ。私は大学院を修了した年だ。なんとかまだ生きてるな、みんな。

突然、友をなくすような体験を何回かしたことがある。理由がなんであれ「どうして」と問い続けることになる突然の喪失の最たるものが死だ。親密でいる間は知らなくてもいいことだって知ってしまえていたのに。どうして、と絶望に打ちひしがれながらでもどこかで理由づけができていたのに。

ああ、ハーブティーで身体が熱い。窓を開けているが風が入ってこない。と書いたら少しだけ風を感じた。意識が風を捉えたのか。多分違う。風を呼び続けその到来を待ち続けなくとも事足りるほどの風はこの土地には吹いている。多分。

幼い頃、雨乞いをする姿を何かの漫画でみた。日照りが作物の、ひいては人の死ももたらすことは容易に理解できた。怖かった。でも子どもの世界では人々に限界が近づく頃に嘘みたいに雨が降った。みんなが空を見上げ手のひらに雨を感じ泣きながら感謝を捧げる、奇跡への。そんな描写だった。『ゲゲゲの鬼太郎』にも「ひでり神」が出てくる。なかなかなダメキャラでキュートなのでチェックされたし。ゲゲゲはなんでカタカナなのかなあ。意味より音、外来感を表しているのか。ひでり神は中国の神話からきてるからどちらかという漢字由来でその漢字が難しいからひらがな+漢字なのかもしれない。

なんでも神の怒りとしてそれを鎮めるためにいろんな工夫をするのもありだがそれはもう奇跡を待つしかない場合ではないか。言葉で通じるうちは声をあげ続けてもいいかもしれない。なんの仕打ちかと考える以前に起きたことをそのまま描写する仕方で。人間界で絶望を与える相手を変えることは奇跡でも起きなければ難しいかもしれないがなんにしたってそんな人と同じ世界を生き延びなければならないのであれば外在化は最小限にしてただ事実を身近な場所で、と思ったりする。見たくないものは見ない、問われたくない問いは悪い問いと認定しそれ以上考えない、あらゆる「正当防衛」に味方してくれる問いを立てられない(決まった問いしか立てられない)相手とだけ一緒にいる、そういう狭さというか基本的に相手を見下した神様的態度は神にもどうにもできないだろうから「あなたからしたらそういう描写になるだろうけど私からしたら」ということを事実と共に淡々と繰り返しなんとなく応答を待つ。問う形にしないのはそういう人からは応答はないと知っているから。応答を待つのはそれとは別の偶然を知っているから、かもしれない。

鳥たちが一気にざわめきだした。次のゾロ目はいつ。6時を回ったらそれはしばらくやってこない。今日も一日なんとかかんとか。

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効果、違和感、『まちがえる脳』

スズメ、カラス、きっとほかにも色々と。おはよー。今朝はハーブティー。ジャンキーなスナックの背で胃がもたれている。目の前に「チョコレート効果CACAO72%」があるけど一体どんな効果が?ほう。カカオポリフェノールがたくさん入っていると。ポリフェノールって何に効果があるんだっけ。ほう。抗酸化作用。この前おなかがすきすぎてなんとなく身体に良さそうというか悪くはなさそうと思って買ったのだけどなんとなく謳い文句で買っているものって多いと思う。普段のお菓子はやたら吟味した挙句いつもと同じものを買ったりするけど。大体チョコならすぐにおなかぺこぺこをおさめてくれるのではと思って買うのにこれ低GIでもある。ということは血糖値をあげたい時には不向きでは。でも一枚食べるだけでも落ち着いたから結局は情報より少しの行動の効果という気がする。今は目の前にあっても食べる気がしないなあ。おなかが気持ち悪い。おなかは気持ちではないからこの言い方は変か。でも言いますよね。違和感というのは気持ちだものね。おなかは気持ちと直接繋がってる感じがする。特に子供の場合。私は小さい頃からおなかいたくなりがちな子供だったけど大人になってもずっとそうだと当時みたいな切なさはほとんど感じない。おなかと気持ちというのは脳と(身体と)心のことでもあると思うけど。櫻井芳雄『まちがえる脳』(2023,岩波書店)は面白かった。「ニューロンの発火」がキーワード。心を脳に属しつつも脳をメタ制御するものと捉えることで互いの可能性を残しておく描写。脳がまちがえるというよりはこちらの意識が追いつかない部分をこちらが間違いとか間違えとか言っているという感じかもしれない。「失敗」とかいうときも結構近いものを感じるなあ。そしてこれからもずっと追いつかないわけでしょ、自分のことなのに。精神分析で「自我」があまりに多種多様な役割を与えられてしまったのはこういうわけか、と思ったりした。なんだか水分が足りないなあ。以前よく通った個人営業のタイ料理屋さんでスイカがデザートだった。小さく切ってあるのに赤と緑と黒の点々。スイカは見た目も本当に可愛い。スイカマニアの友人が鳥取のスイカが一番美味しかったっていってた。名前を忘れてしまったけど。最近フルーツ不足かも。かも、というのは多分そんなことないからなんだけど今不足しているとそんな気持ちになってしまう。あ、もうこんな時間だ。色々やらねば。なんとかやっていきましょう、きついけど。辛いけど。まだ火曜日だけど。

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傘、移動、言葉

雨雨雨。まだ傘を直しにいけていない。姿形が同じビニール傘であってもそれぞれ誰かのもの。シールを貼った私のビニール傘と同じところに入れておくね、と見た目では誰のかわからない透明なビニール傘を傘立てを区切る正方形に一緒にさした。ちょっとしたことなんだ、区別するということは。

カプセルホテルって意外なところにあって意外と高いのね。時期にもよるみたいだけど。ひと区間を移動しながら移動にまつわる話から経済観念の話になってその人らしさみたいなことで笑いあった。同じ職業で同じくらいの稼ぎがあっても移動手段や泊まる場所の選択はそれぞれ。遠方からやってきた人と一緒に移動できる日々がまた訪れたからこんな雑談ができた。

実際に遠い目をしながら聞き流したり大抵の人が遠い目になった話を聞いて驚いたりもした。ものはいいようだなあ、と呆れつつ感心もした。言葉はいろんなことができてしまうから面白くもあるけど大変だなあと思う。他人事ではないが。

「大変でしたね」の一言でいろんなことが通じて笑い合った。言わずともわかる、むしろ言葉にしないほうが終わらせられる。残された時間を費やすべきところに費やしたいという大仰なことを考えているわけではない。自分のやりたいようにしたい人がどんな防衛を使い、どういう攻撃性に突き動かされているかがそれなりにわかる場合はやるべきことだけやるというドライなモードに切り替えるというだけ。ただそうすることにも労力がいるので言葉少なに労い合える関係があるというのはありがたいことだ。

UPするの忘れてうとうとしてしまった。眠たい月曜日。がんばろう。

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『新ハムレット』@PARCO劇場

劇場の前で流れている映像に池田成志がうつって思わず飛び上がって喜んでしまった。携帯やPC上でその画像は何度もみていたのに。映像だったから?多分違う。そのすぐあとに本物と会えるという嬉しさからだろう。長年ファンだと言い続けてきて毎回観劇のために感激感涙してきたがあまりに久しぶりでこんな反応をしてしまうほど好きだったとは自分にびっくりだ。

観たのはPARCO劇場開場50周年記念シリーズ『新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~ 』作:太宰治(新潮文庫刊『新ハムレット』より)上演台本・演出:五戸真理枝。最高の席で久しぶりの観劇。そして池田成志。五戸真理枝さんは句友。真理枝さん演出の舞台は二度目。シンプルで想像力を掻き立てられる舞台だった。出演は木村達成、島崎遥香、加藤諒、駒井健介、池田成志、松下由樹、平田満。私は勝手に池田成志が主演だと思い込んでいたが主演は木村達成。私ははじめて知ったが有名な人らしい。止まっていても動いていてもすごい見栄えの良さ!ものすごい長台詞を絶妙にこなし、ラップもうまい!衣装の着こなしもすごかった。これ太宰のハムレットでもシェイクスピアのハムレットでもどっちでもピッタリではないか。偶然隣り合わせた句友は早速ファンになった様子。わかる。が、私は成志。こんなに長く演劇を続けてくれていてありがとう、という気持ち。自由自在な面白さと不気味さにまた会えて嬉しい。原作を読もう読もうと思っているうちに当日になってしまった。新潮文庫の本は劇場ではすでに売り切れと聞いた。そりゃ買いたくなりますよね。ということで帰宅してすぐに検索。青空文庫のがKindleで0円で読めるようになっていた。ありがたい。原作に本当に忠実だったんだなあ。驚いた。心に残った台詞の数々を改めて文字で読むとまた別の、いや別というより舞台と重なり合ってよりシャープさと深みを感じた。上演台本、演出の五戸真理枝さんのお仕事は昨年、オフィスそばの新国立劇場でやっているのを知り当日券でみた『貴婦人の来訪』が私にとっての最初。演劇のお仕事をしているのは知っていたがすごかった。このあと真理枝さんは第30回読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞された。斬新な脚本と舞台作り素晴らしかった。達者な役者たちが繰り広げるこの不思議な世界に多くの人が足を運ぶ機会をもてますように。

台詞というか太宰の引用をしたいが時間がない。今日は一日雨かな。結構降っている感じの音だ。移動めんどくさいな。でも行かねば。準備準備。どうぞみなさんも出かける方は足元にお気をつけて。

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対談、仕事、読書

朝から成田悠輔×羽生善治の対談をみた。with連載「成田悠輔と愛すべき非生産性の世界」。羽生さんは本当に面白いなあ。文化をこうやって語れたらとてもいいなあ。精神分析文化も魅力的に語りたいなあ。ほんと苦しいけど「楽しい」と言えると思うし。自分のこと全然知らないという発見はすごい体験だと思うもの。でもまあ私は自分の仕事はほとんど好きだし自分ができない仕事の話も好きだからなんでも楽しいとか大雑把なことしかいえないか。集団へのコンサルテーションとかも楽しいもの。はじめての場所も知らない人との仕事も緊張はするけど楽しい。先日はもうすごく長く関わっている保育園に行ったけど当時はすごく小規模ですごく近しい関係だった先生たちはもうベテランで今はたくさん先生がいる大きな保育園に成長した。ずっと続けているから知らない先生からも「あみさん」と呼ばれているし、そのなかで親しくなって集団でのコンサルテーションが終わったあとに個別でもっとざっくばらんにアイデアを出し合ったり愚痴ったりする時間は苦しいことを話しているのに楽しくみんなで元気になる感じがする。保育は生活そのものだから生々しく気持ちは揺さぶられやすい。それでも相手に細やかに注意をはらい続ける必要がある。その分工夫の余地も多い仕事だ。子供たちの遊ぶ能力は素晴らしいのでそれに助けられながら彼らに余裕を持って関われるように時間や空間の使い方を工夫する。そういう共同作業がとても楽しい。精神分析が一番楽しいのはhere&nowだからだろうなあ。まだ起きてないことを考えてもしかたないし、過去を過去として掘り返しても何も起きない。それに今と過去の自分はそんなに変わらないだろうしこれからもそんなに変わらない。でも今ここでの自分を誰かを鏡としてみておくことはそれまでもそうだったはずのことの見方を変えるしこれからに対して勝手に絶望する根拠を揺さぶると思う。揺さぶられるというのはその余地があるからでしょう。それが負担でコミュニケーションをたつことで自分の世界を維持しようとするのも普通だけどいつも同じような人といたって少なからず揺さぶりは起こるしそこにどれだけの価値をおけるかで精神分析体験に対する態度は変わると思う。週末は精神分析のことばかり、でもないな。すごく楽しみな予定もある。その予定を楽しみにがんばれていた部分もあるのに過ぎてしまったらどうしたらいいのかしら。「たのしかった!」という思いを支えにまたがんばれたらいいな、とまだ過ぎてもいないのにその後を想像してしまった。めっちゃ最悪な気分になるかもしれないじゃんね、という想定をゼロに設定しているわけだけどこれまでの体験からそれは多分ほぼない。もしそうだったとしても「それだけではない」というのがほぼ全てのことにいえるわけだしね。誰にもどこにも出されてこなかったものを聞いたり発見したりする仕事を毎日毎日続けてる。ひそやかに出されて再びひそやかにしまわれるものたち。コンテンツとして消費されないことを大切にする世界にいると気持ちよくコンテンツを生み出すためにいろんな言い訳と排除を繰り返している人たちのことも考えざるをえない。それらは要素としては同時に存在するものだから。というわけで今日も不快。今日も楽しい。どっちもの時間を過ごすのだろう。みんなはどうかな。色々あるけどなんとか過ごしましょう。

ちなみに昨日電車で読んでいたのはカレル・チャペック『いろいろな人たち チャペック・エッセイ集』(平凡社)でした。ユーモアと優しさを感じてほっこりしながら読みました。面白い視点もいっぱい。エッセイ集だから拾い読みできるし移動にもピッタリでした。

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雨、傘、6月

ぼんやり雨の音を聞いているとどんどん時間が過ぎていく。なぜか今日を月曜日のように思ってしまう。昨日からそうだ。月曜日にやり残したことでもあったのだろうか。きっとあるのだろう。何も思い出せないが。

トレーナーを着て眠ったら少し汗ばんだ。明日投句〆切のオンライン句会の兼題の一つは「寝冷」。朝3時くらいに目覚めて汗を感じたのですぐに作った。そして二度寝した。

今こうしている右腕と左腕の間に又吉直樹『人間』の宣伝の紙うちわがある。紙うちわとは言わないか。言うのか?骨がない。ただの厚紙に指をいれる穴が空いているだけ。仰いでみた。親指で穴を軽く抑え残りの4本で反対側を軽く抑えてパタパタ。穴である必要はあるのだろう。気持ちいい。

骨といえば私の傘は骨が多く丈夫。誕生日にもらった。この前も「素敵な傘!蛇の目傘みたい」とお褒めいただいた。本当にかわいいのだ。若いときに台風か何か雨風でビニール傘がやられたついでに指まで傘を開ける金属部分に引っかかって皮がでろんって剥がれて血がいっぱい出た。あれ以来雨風の強い日に傘をさすのが怖い。先日の台風のとき、雨雲レーダーで雨が弱まる時間を狙って移動した。この傘ならちょっと何かあってもいけるのでは、と思い一緒に出てみた。最初の数分は雨も風もなかった。しかし間も無くして雨は弱いが突風がきた。何度か突風をやり過ごした。しまった、と思ったときには遅かった。でもちょうどそこは三角地帯のお地蔵さんが立っているところで傘がベロンと裏返るのを防ぐために押し付けておける壁があった。数秒だろう。突風が傘の丸い内側を突き破るみたいにぐいぐい押した。私は結構な力で開かれっぱなしの傘を壁に押し続けた。ちょっとした戦いが終わると傘の左側の骨が歪んでいた。でもよく持ち堪えてくれた。その翌日もさしたけど一緒にいた人に「台風で傘が歪んじゃって」と話したら歪んだ骨を覗き込んで「全然気づかなかった」と言ってくれた。傘屋さんの傘なので直してもらえる。直しにいいこうね。

毎日毎日モヤモヤする出来事が起きるがひとつひとつにウダウダ言っている暇はない。絶対になかったことになどするつもりのないことに対して「〇〇も××も△△もてめえの食い物じゃねーよ」という言葉も吐いた。文字で。なんかえらく独りよがりだなと思ったことに対しては直接対処した。そうこうしながらどんどん日々が過ぎていく。3月も4月も5月も本当にどうなるんだと思いつつ期限は数日ずつ過ぎててもなんとか色々終わらせた。6月も忙しさに変わりはないけど慌てなくてはいけないものはない、というか苦手な仕事がない。それが一番助かる。

雨だ。移動も多い。気をつけて過ごそう。みなさんも。

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呉明益著『複眼人』を読んでいる。

あれ?鳥の声がしない、と思ったらいつも通りしていた。さっきこの時間には珍しく鳩が随分近くでポッポいったので遠くの音に鈍感になっていたらしい。

今朝のお菓子はリンツのリンドールチョコ(赤)といちごバウムクーヘン(ホワイトチョコ)。どちらも小さくとも美味しい甘さいっぱいでおなかいっぱい。PUKKAのthree gingerというお気に入りのノンカフェインハーブティーをたっぷりマグで一緒に。今日は水分たっぷりとらないといけなそうなお天気ですね。

また早朝から呉明益著『複眼人』を読んでいました。精神分析家ビオンの「複眼視」を思い浮かべタイトルだけで買ってしまったのだけど著者の呉明益は台湾を代表する作家だそうで同世代。1971年生まれ。買ってよかった。久しぶりにスケールの大きい物語に入り込んだ気分。アトレという少年とアリスという女性を中心に幾人もの視点が入れ替わり立ち替わり同じ時間に起きた出来事を映し出す。心情よりも景色を。アトレが生まれた島の諺や言い伝えは美しく巧妙に口減らしを表現する。昨日、この本の紹介をしようとしたが諺や言い伝えを思い出せず身も蓋もない言い方でこの島の慣習を説明してしまった。口承伝承に完全に失敗したが外側からみれば「それは単に」と言いたくなるようなことなのだ。でもそこに生まれそこで生きる人たちにとってそんな剥き出しの表現では深い悲しみや苦しみに持ち堪えることはできないのだろう。最初からとても切なかったが物語は人の力の及ばない自然の大きな動きに絡めとられ喪失を生きるための言語以前の言葉を探すことを促す。もうだいぶ後半だがまだ途中だ。読み進めよう。

毎晩疲れ切って眠るときの記憶がないが朝を迎えればそれなりに回復している。睡眠の力。みんなは眠れただろうか。これから寝る人もいるからもしれない。今日も無事に過ぎますように。わからないことはわからないままに。思ったことは思ったままに。

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雨の朝、フランス語の本、國分さん河合隼雄学芸賞。

降り続く雨。もうすでに少し空が明るい気がする。朝のお菓子を食べるにしてもまだ早すぎる。このPCの向こうは西向きのそこそこ大きな窓がある。雨が降り込まないように少しだけ開けてみる。シャーっと車が雨の中を滑るように向こうへいく音が聞こえる。鳥たちの声も聞こえるがまだ寝ぐらである森の方だ。ピピピと、と書きたいが本当は私の耳にはp音は聞こえていない。鳥たちの囀りを表現することは難しい。そうそうこのPCの向こうというかこの大きな長方形の机のPCの後ろ、西向きの窓との間の隙間に積まれた本の一番上は「お風呂で読むフランス語 会話フレーズ」。もう何年も使っていない。お風呂で読んだことあったっけ。少し埃を被っているが開いてみよう。もう表紙のカバーはどこかへいってしまった。おお、開くなりかわいらしいカラーイラスト。パリジェンヌ式会話術か。だから女の子(子ではないが)ばかりなのか。20歳の時、ケンブリッジの語学学校に6週間通った。14歳のフランス人の女の子と仲良くなった、というか最初はいじられていた。ペーパーテストならそこそこできてしまう日本人のひとりだった私は会話クラスなのに一番上の段階の真ん中のクラスに入ってしまい、なんでこんな英語ペラペラの人たちに留学が必要なんだ・・・というような環境で伝わらないわりに明るいチグハグな日本人だった。同じくらいの背丈のインドネシアの女の子と仲良しでtwinsと呼ばれていた。あれ?sつく?sつけると双子の複数になる?まあ、夢まで英語で見るようになった頃に帰ってきてしまったうえにサボりにサボり30年近く経つのだから日本で身につけたものだってほとんど覚えていない。その後、國分功一郎、千葉雅也に現代思想の門前どころかフランス語入門のきっかけまでもらい、武蔵小山へ通った。その頃に買ったのだろう『お風呂で読むフランス語』。フランス語もすっかり忘れたが超初心者から初心者になったくらいのフランス語で彼女と会話したかった。今思えば彼女も思春期の不安定さがあったのかもしれない。異様なテンションで見えない教室からでも私の名前を呼んではゲラゲラ笑った。あ、西側の空も明るくなってきた。鳥たちも近くなってきた。雨は相変わらず屋根をたたきいろんな音を立てている。当時のクラスの様子が思い浮かんだが彼女は最年少で授業中は静かだった気がする。頭の良さは明らかですぐに一番上の上のクラスへ移動してしまった。クラスが変わったのに私が通りかかればあの大きな声で私の名前を呼び戻って顔を見せるとゲラゲラ笑った。毎晩のようにみんなで遊んでいたが彼女と夜に出かけたことはない。まだ若かったからホームステイだったのかもしれない。私は彼女がかわいかった。拙い英語でいじり返すと少し静かになった。細くて背が高く、挨拶だけはフランス語でほっぺをくっつけあった。私もまだ20歳だったが当時は今より頼り甲斐があったらしく若い(実は同じ年とか年上だったのかもしれないが)女子たちに懐かれた。彼女には懐かれたのかなんなのかよくわからないし私が帰国するときにはもう彼女はいなかったように思う。いつの間にか私を呼ぶ大きな声は聞こえなくなったから。本の一番後ろを見たら2011年6月初版発行。私のは2011年12月発行の第2刷。売れてたから買ったのね、きっと。まさに2011年。國分さんと千葉さんの講義を受け始めた年だ。昨日、國分功一郎さんが河合隼雄学芸賞をとったというツイートをしていた。たまたま画面を見ていたのもあって秒で反応したがすぐに消されてしまった。引用を忘れてしまったらしい。授賞作はもちろん『スピノザ ——読む人の肖像』(岩波書店)。國分さんのご苦労がこうして報われたことはとても喜ばしい。河合隼雄という名前がつくだけでさらに身近に感じるし。サントリー学芸賞の方はなんだか大変そうな話題も見かけたしいろんな賞にいろんなことがあるのだろうけど國分さんの受賞はいつも嬉しい。この本に関しては私もかなり苦労したのでこっちまで報われた。賞を取らなくても読んでよかったと思える一冊ではあったが。苦労ついでにこの文庫の元になった國分さんの博士論文を書籍化した2011年1月発行の『スピノザの方法』まで読めてしまったのだから一貫したものを持っている國分さんの力はすごい。読んだだけでわかっていないが以前よりは読めた感じがしたのだからすごい。うーん、まだお菓子を食べるには早いな。雑誌Penが谷川俊太郎特集を組んでいたので買った。子供の頃からずっと読んでいる詩人の言葉にまたも励まされた。あ、そうだ、資料作るの忘れてた。今日はまだ間に合う。昨晩は疲れ切っていつの間にか眠ってしまったがこうしてダラダラ書けるくらいには回復したらしい。すぐに眠くなりそうだけど。洗濯もしよう。あの子は今もフランスにいるのだろうか。出身がフランスなだけで当時から別の国にいた可能性だってなくはないだろうけどどこへいようと元気でいてくれますように。本当にかわいかった。ありがとね。伝われ〜。

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大和市お菓子、言葉以前、文庫数冊

今朝も早速いろんな鳴き声がしていますよ。おはようございます。今朝のお菓子は南林間への散歩土産、老舗和菓子屋「喜泉」の「泉の森」。イラストもそのままで素敵。「泉」って単体として見るものではないから「〜の泉」とでも書いてない限り通り過ぎているけど意識してみよう。私の知っているイズミさん(苗字の人もなまえの人も)は元気かな。

昨日は同じ和菓子屋さんの「やまと太鼓」をいただきました。黄身あんと栗だっけな。しっとり美味しかった。今日の「泉の森」もしっとり。森は水分たっぷりだものねえ。梅雨だし。とっぷりと水に浸されるような気持ちになりますね。お、今改めてパッケージみたら「大和市の郊外に市民の水の源として知られております「泉の森」公園があります」ですって。そういえばこのお菓子をもらったとき「泉の森っていう公園があって」と聞いた気がする。忘れてました。パッケージといえばまたこの「泉の森」なんだけど硬めのアルミの型に入っていて同じ素材で作った蓋がかぶさってた。なんか「懐かしい!」ってなった。しっとりしたお菓子を守るための素朴な工夫なんだと思うけどふわってかぶせるだけの役目なのに作りは固くしっかりでなんだかいいなあと思いました。

まだ言葉を話す前の子どもたちとお散歩してるとバギーの中からいろんなものを指さす。「葉っぱだねえ」といえば「ぱ」とそれらしき音を出す。和菓子屋さんのショーケースを見つければきれいな色や形に見入ってはこちらを振り向く。「きれいね」「おいしそうね」というと「うんうん」と言わんばかりに首を縦にふってまたお菓子に見入るのを繰り返す。この愛しさ。北山先生が「共視」という言葉で表現した視線の交差。言葉以前と言葉の間。

言葉を喋るようになっても子供と大人の世界はだいぶ違う。村田沙耶香『丸の内魔法少女ミラクリーナ』がいつの間にか文庫になっていた。この表題作がまさにその世界の違いとそれらの世界を同時に、でもスプリットした形でしか生きられない少女大人の友情を描いていて展開には驚いたけどスカッとした。子供時代に何かを成し遂げて誰に褒められなくてもなんだか「やったぜ」と自分だけ鼻の穴がちょっと膨らんでしまうようなあの感じ。

あと読んでいるのはカーソン・マッカラーズの『マッカラーズ短篇集』(ちくま文庫)。『心は孤独な狩人』っていう小説が有名な作家なんだけどこれがもうね、すごいの。胸が締め付けられる。今回の短編は翻訳が私はあまり好きじゃないかも。まだ途中だけど。

椰月美智子『明日の食卓』も。「母親」が描かれるときそこには父親の不在や暴力も同時に描かれるわけだけどそれを維持する母親の「当たり前の狂気」みたいなものがここには描かれていると思う。

あと角田光代、穂村弘の『異性』(河出文庫)も。これはさらっと読める往復書簡的な本。いっそ対談本の方が面白かったのではとか思わなくもない。一時期、角田光代作品にはまっていたから新奇性をあまり感じないのかも。穂村弘も安定感あるし。安定感あるお二人の本という感じかな。

なんとなくお菓子紹介と本紹介になりましたね、今日は。明日は「ヤマトン緑茶ゴーフレット」をいただきましょう。お茶は好きなお茶ベスト3(ランキングしたことないけど)に入るであろうルピシアの「白桃烏龍 極品」。美味しい水分をとりつつ今日もなんとかやりましょう。夜は雨なの?嫌だなー。いってらっしゃい。いってきます。

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精神分析 読書

『言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 ❨中央公論新社❩を読んだ。

二度寝、三度寝。コーヒー飲んでくしゃみがふたつ。雨はまだまだ降っている。どうしましょう。被害が広がりませんように。きっとこのあと何事もなかったかのように晴れるのでしょう。残酷。

言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 著❨中央公論新社❩を読んだ。精神分析における言葉の活用はいつも興味の中心なので言語学に関する本はそれなりに読んでいると思うが難しいのが多いから全然こなせていない。その点、この本は書き方も多分優れていて(私には優劣はわからない)引っかかりなく入ってきた。内容とは関係ないけど私はこの本を発達心理学の本だと思っていた。もちろん今井むつみさんはそれがご専門ということだし、言語は習得のプロセスと切り離せないわけだから発達心理学は常にその背景にあるわけだが、大学が発達心理学専攻で発達心理学の勉強が楽しくていまだに保育園でも仕事をしている私は「今は記号接地問題とかいう概念も扱うんだ。発達心理学もどんどん進化してるんだなあ」と思って嬉しく楽しく読んでいたのだ。なぜそんな発達心理学寄りの気持ちだったかといえば秋田喜美さんを秋田喜代美さんと間違っていたから。私は卒論で幼児に『赤ずきん』を読み聞かせてその感想を聞き取り分析するということをしたのだが参考文献のひとつが読書の心理学を研究されていた秋田喜代美さんの論文だった。今でもきちんと研究しておけばよかったなあと思うほど先行研究も現場(保育園)での調査も楽しかった。そんな誤解のもと『言語の本質』を読んでいて秋田さんはすっかり言語学の人になったのかと思いこみ、発達心理学の広がりに勝手にワクワクしていたわけだ。それはともかく毎日いろんな人の言葉を継続的に聞いているにも関わらず、というかその体験が増えれば増えるほどその人の言葉の習得や私が相手の言葉をキャッチする仕方などへの関心は深まるばかり。「そういう意味で使ってたのか」と聞き手だけでなく話し手自身が驚いてしまうような言葉の使い方使われ方も多いので話を聞く、聞いてもらう、というのは本を読むこととはまるで異なる体験ではある。生きている人を相手にするのだから当たり前だが。だからこそこういう専門的な本を読むことは大切。相手の言葉を大切にするためには忍耐と工夫と内省が必要。そのための支え。なんかすでにすごく売れているらしいのでみんなの基盤にもなってくれるかな。内容について全然書いてないけど「とりあえず読んでみて」というお勧めができてしまう本です。

はあ。雨やまないねえ。すでに被害がでている地域にこれ以上の被害が出ませんように。このあともたくさんのサポートを受け取れますように。どうぞお気をつけて。私たちも気をつけましょう。

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更新、吟のカカオ、コミュニケート

もうひとつのブログ「精神分析という遊び」にオフィスのウェブサイトを更新したことをUPした。ややこしや、かな。ややこしやってご存知かしら。野村萬斎の「まちがいの狂言」。昔薪能のチケットに当選して行ったことがあるのだけど能より狂言に射抜かれてしまった。よくわからずとも面白がれるものなのかよくわからないから面白いのかわからないけど「にほんごであそぼ」で取り上げられるくらいだから前言語と言語の間の遊びであるよね、きっと。精神分析と同じね。

まだ降っていますね。今日は昼間だけでいいからやんでほしいな。ちょっと特別なことがあるから。

今朝もCafe du Jardin。今朝は福生の地酒使用「吟のカカオ」。大吟醸酒が使われてるって。大丈夫かしら。仕事になるかしら。すごくしっとり。すごく濃厚。すごく美味しい。めちゃめちゃ濃いブラウニーって感じ。袋から出す時にしっとりすぎて少し手についたけど全部引き出すしたら薄いフィルムでそっと保護されていた。このお店は「金のカカオ」というお菓子が有名ならしいからそれの日本酒バージョンなのね。それにしても名前で遊んでるわね。面白い。そういえば昨日のアメリカン・カステラの袋にきちんと「福生基地前通り」って書いてあった。基地に対しては思うところあるけどそこで暮らす人たちのこともそこそこ知っている。この仕事を長くしていると本当に色々な暮らしを知ることになるので自分の体験に基づくもの以外は言及を控えることになる。私がファシリテーターをしている初回面接を検討する小グループでも「誰にもいえないこと」「言いにくいこと」がどういう風に現れるか頻繁に話題になる。聞けば聞くほど聞けないことが出てきたりその場では言葉にできて安心した風になってもそこを出た途端「言わなければよかった」「言うべきではなかった」という声が湧き上がってきたりする場合だってある。精神分析的治療は抑圧、否認されていた意味の意識化のために言葉を使うのではない。臨床現場にいれば言葉がさらなる混乱を導く場面に圧倒される体験は必ず訪れる。なのでその暴力性を認識せざるをえない。ごく一般的な本の一言にいつまでも苦しめられたりする場合だってある。「場合だってある」というのが大切。精神分析は言葉そのものを手段とする治療であるために常にその力と使用については特に議論がなされている領域だろう。イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは晩年「交流しないこと」の価値を見出した。その論文が載っている彼の二冊目の論文集The Maturational Processes and the Facilitating Environment(1965)は昨年『成熟過程と促進的環境』という新訳かつ全訳がでた。この論文の題は「コミュニケートすることとコミュニケートしないこと:いくつかの対極の研究へ」(1963)と訳されている。以前の翻訳では「交流することと交流しないこと」と訳されていたが確かにこの言葉が持つ安易な方向性には注意が必要なのかもしれない。訳者の意図を知っているわけではないが。どこかに書いてあったかな。

日本精神分析協会候補生の会のニュースレターがようやく完成しそう。私は駄文量産はできるのだが細かいパソコン操作が苦手なのでここをいじるとこっちも崩れるみたいな事態にすぐにうんざりしてしまう。それでもなんとかなりそう。まだなってないけど。見通しが立っただけでも安心。今朝も早くから仕事だ。合間の予定を楽しみになんとかしよう。みんなにもこれがあるから少しがんばれるみたいなことがあるといいな。蝕まれながら取り戻す、毎日そんな感じだよね。そうでもないかな。とりあえずそれぞれの始め方で今日も一日。

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使う、間違う、ほどよくする

なんで築山殿までと言ったら妻だからと即答された。そうなのかな。女の使われ方って奥が深い。今も変わっていないのだろうけど。貸していた僕のマリさんの『常識のない喫茶店』(柏書房)が返ってきた。装丁のかわいさ以上に素敵な本だった。こういう本を書くのは大変だろう。静かに見守ってくれる人があってこそ。

今年度に入っていくつめの間違いだか今日もスケジュール管理を間違ってしまった。そういえばもう何年も使っていないアドレスの方にメールが届いていた。不思議だ。今のアドレスでやりとりしていたはずの人から。不思議だ。とか言っていないで返信しましょう。相当不思議だけどなくはないなという理由も思い浮かぶ。面白い。そのプロバイダの別のサービスを利用しているからサービス自体は残していたけど転送されてこなかった懐かしいメールとかもあるのかな。今回は転送されてきてよかった。

カーテンをシャッと開ける音が聞こえた。外ではずーっと雨の音。部屋の中が本当にちょうどいい気温で気持ちよく眠れた。ゴロゴロしながら雨の音をずっと聞いていたけど少し窓を開けた。少し寒くてすぐに閉めた。短い睡眠時間が日常になってしまったけど仕事が減るわけではない。食べる機会は増えるけど。今日は福生の洋菓子屋さん「カフェ・ドゥ・ジャルダン」のお菓子をいただきます。まずはアメリカンカステラから。なぜこのお店の名前で?福生には基地があるからかな。星条旗モチーフの透明なかわいい袋に収まったカステラ。おお。ふわふわ。ざらめが結構ざらめで甘味と食感のいいアクセントになっている。ポロポロさせながらオレンジアールグレイと一緒にいただきました。毎日お菓子天国。いろんな土地のお菓子をいただくのは楽しいですね。

人と一緒に本屋さんにいくのも楽しい。前に暮田真名さんと本屋さんで本を眺めながら読まされた本のことを聞いた。興味深かった。本にまつわる思い出って今はあまり本を読まないという人にもあると思うんだよね。学校があるから。私は学校にまともにいくようになったのは大人になってからだけどスクールカウンセラーとかで現場を知ると学校ってある程度の強制力がある場としては大事だなと思うようになった。ウィニコットのgood enoughと同じでなかなか難しいけど。年度始めに教科書が配られると国語と道徳の本だけはすぐに全部読んだ。今はこんな人のも載せちゃうんだとか余計な情報が邪魔するときもあるけど当時は著者名とか全く気にせずとにかく読んでいた。内容はほとんど覚えていないけどなんだったんだろう、あれは。

今日は新しい施設へ。時間とか間違ってないかすごく心配。何度も確認してメモとったのにそのメモが間違っていた、ほんと自分アテにならない、ということが覚えていられるすごく狭い範囲でも数回。まあ中身がんばりましょう。新しいところはまず知るところから。色々教えていただきながらやりましょう。その前に足元に気をつけましょう。また一週間、なんとかやっていきましょう。「しょう」が多くなるときはなんかちょっと疲れているときかも。とりあえず一歩一歩。

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gift、カフェ、林芙美子記念館

“gift for you”とシンプルに書かれた小さな紙袋にウキウキ。マカダミアナッツのクッキーとアーモンドあられが入っていましたー。もう少ししたらコーヒーか紅茶を淹れよう。我が家は今紅茶も豊富。コーヒーの味はよっぽど特徴がなければあまり違いがわからないのだけど紅茶は全然違うからあれこれ楽しい。もう何ヶ月前になるのか早朝から作業をしていたカフェが突然休みになりいつの間にか閉店した。最初はコロナが出ちゃったのかな、大変だなと思っていたのだけど結局理由はわからないまま何もなくなってしまった。そしてそこには何事もなかったかのようにチェーンのカフェが入った。老若男女が集うカフェだったけど今は若者ばかり。いろんなことが起きるカフェで迷惑だなと思うこともあったけどお店の人たちも自由だったしいかにも地域のカフェって感じだったのにな。飲み物も頼まず電源だけ使っている若者は誰にも何も言われずやりたいことをやっていたな。何ってドライヤー使って友達の髪をセットしてた。流石に不衛生だし非常識だろ、と離れた席から眺めた。あ、でもこれコロナ前。コロナで非常識はマスクを外すことみたいな感じになっちゃったしなんだかな。時が経つのは早い、というかなんだかな。

先日、サクッと林芙美子記念館へ行ってきた。オフィスは初台だから大江戸線中井駅は近い。まずお庭が素敵で感動した。芙美子は竹が好きだったそうで玄関へ続く道は竹がたくさんすっと空へ伸びてサワサワとザワザワの間くらいの音を立てていた。低く飛ぶようになった飛行機がうるさかったのが残念。芙美子が生きている頃はもっとたくさんの竹がお庭にあったんだって。ボランティアガイドさんが色々教えてくださった。四方竹というのも教えてもらった。これ断面が四角いの。外から触ってもちょっと違いがわかる。この竹は秋が旬なんだって。つまり秋に生えてくるってことだよね。とらないとすぐ大きくなって食べられなくなっちゃうものね。今はスーパーでも売ってるみたい。筍は毎年小動物みたいなままの採れたてをいただくしそんなに大量に食べるものでもないから食べ物としてはそんなに魅力を感じたことないけど植物としてはとても好き。竹林の間を通るときに感じる風に特別感。いい。ところで竹って木?「植物」というのは木も草も花もみんな含む上位の界?分類がわからないけど木と草の間みたいな植物だよね、竹は。

林芙美子が死ぬまでの十年間だっけな、早すぎる晩年を過ごしたこの家は本当におしゃれ。芙美子自身が建築を熱心に勉強して様々なこだわりを形にした実際に風通しがとてもいい(ここもこだわったみたい)作りで玄関と書斎が特に素敵だった。あと冷蔵庫が電気でびっくり。自分の生活しやすさに合わせた家を自らの手でデザインして合理的でおしゃれに仕上げた芙美子すごい。友達が中井に住んでいる頃にお泊まりしてその翌日に行ったことがあったけどその時もこんなに「うわあ、おしゃれ」って思ったっけ。宮大工に建ててもらったとのことで木の選び方も見せ方も工夫を感じたなあ。すごく素敵だった。当時も音がうるさいという理由で仕事部屋(書斎)は奥の静かな方にしたみたい(逆に客間が一番うるさいところっていってた気がする)だけど今こんな近い空を飛行機が飛んでいる中にいたらなんていうかな、芙美子さん。飛行機か・・・。女の従軍作家として戦争のあらゆる側面(主に金か)に巻き込まれたであろう芙美子にとっては飛行機の音はただうるさいだけではないかもしれない。『放浪記』が売れて印税ではじめてパリへ行ったときは飛行機ではなくシベリア鉄道だった。森まゆみが『女三人のシベリア鉄道』という本で芙美子のあとを追っている。森まゆみはこの前鴎外記念館で流されていた映像にも出てきてた、そういえば。ふみこつながりでいえば昨年、芙美子と同じ1903年生まれの金子文子「何が私をこうさせたか」を全文収録し、さらに調書、獄中歌集も収めた本を読んだ。「何が私をこうさせたか」に林芙美子が書評を寄せているそうだがそれも探せばどこかで読めるのかもしれない。1931年、読売新聞らしい。

お、そろそろNHK俳句の時間だ。見るだけテレビ体操の後。紅茶を淹れよう。芙美子が朝はここで冷酒を飲んだというお部屋も素敵だった。私も窓を開けたまま飲もう、紅茶を。みなさんも普通に水分補給してバテないようにお過ごしくださいね。

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搾取、嘘、みんな同じ空の下

さて搾取する人が嘘を吐き続ける場を与える社会で生きていく術を模索する一日が今日も始まりました。ずるいよね。そういう人がケアとか格差とか哲学とか内省モードちらつかせつつ上手に語る。言ってることとやってることまるで違うのに拡散されるのは表面だから大丈夫、バレない。軽薄に「サイコー」といってくれるオトモダチやパートナーはたくさんいる。そんな社会で今日も生きていく。格差なんて広がるばかり。ハラスメントも差別も終わるはずない。

家庭をかえりみなかった父親みたいになりたくない、と家庭をかえりみず嘘を吐き続ける。というか父親になっていないので嘘はついていない。いっておけばいい世界で生き残れるほどの知識を身につけてきた。人の心と体を弄び実際の傷をつけても責任を取らなくていい理由を説明してくれる知識だっていくらでも引き出せる。それらを惜しみなく披露することで家庭の外側に同質集団を作る努力も欠かさない。今やいつでも書いていい場も得た。自分と似たような人が集うプラットフォームでは「賢人」扱いしてもらえる。これまでしてきたこと?10年くらいしたら昔自分「も」こんなことをしてしまった、と誰かの黒歴史にのっかって吐露する材料になるんじゃないかな。そしたらいつもと同じ人がいいねをくれるでしょ。相手にとって時効なんてない?そんなことはどうでもいい。もう自分の世界にはいないのだから。わかってくれる人がわかってくれればいい。俺は俺を面白がってくれる人のために書く、喋る、そういう場を与えてくれる人がいなくなったとしてもTwitterのスペースだってyou tubeだって使いこなしている。しんどいしんどい言いながら一生懸命やってきたんだからある程度のことは仕方なくない?それに自分は嘘をついているつもりなどないし、傷つけた覚えもない。数年後に謝るかもしれないけどいまのところそんな覚えはない。自分だっていろんな人に場を与えてきたし寂しい女たちには家族よりも時間を割いて優しくしてきた。気に入ればついていくし二人になればすぐに触ったりもしたけど面倒なことにならなかった。面倒なことになるのは相手が悪いか運が悪いかやり方がまずいんだよ。馬鹿はちょっと圧かけて黙らせればいいし使えなくなっても最後に褒めとけばいいんだよ、女なんて。やってることなんて言ったり書いたりしなきゃいいんだから。

みたいな人いっぱいいる。生々しい情緒が動かされそうになれば知識で逃げる。あるいは素早く被害者になりすまし脅すように圧をかけ黙らせる。そういう人と同じ空の下で今日も生きていくのです。そういう人にならないようにしながら。不快さと痛みにどうしようもなくなりながら。苦しいですね。孤独ですね。辛いですね。これも現実だから仕方ない。でも別の現実もあるからそっちも忘れないようにしないと。なんでもかんでも連続したものとして考える必要なんかない。あったことはあったこと。なかったことはなかったこと。そういうシンプルな事実に常に立ち戻る。爆発するならほぼ絶対に変わらない相手に対してだけでなくそういう人に場を与えている社会にも。そっちも変わらない可能性高いけど人の数が多ければ誰かしら味方はいるかもしれないから。こんな負担負わなくても生きられる社会じゃないなんて嫌だけど見て見ぬ振りしてきれいごと振りまく人なるのも嫌じゃないですか。そんなにたくさん本を読んでそんなにたくさんの知識があるのにやってることはこれですか。なんのための読書?なんのための勉強?自分にとって不快な自分から遠く離れるためだけの?多分そうなんだと思う。

今日もいいお天気。昨日くらいがちょうどいいけど暑くなっていくのかなあ。体調崩さないでいきたいですね。私はユウカメロンをいただきます。

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メロン、フロイト、ティナ

ユウカメロンというのを送ってもらった。漢字だと優香みたい。柔らかくて包丁が気持ちよく入った。メロンはだいたいそうだっけ。久しぶりに食べたわん。メロンは晩夏の季語。

新婚のすべて未知数メロン切る  品川鈴子

本当ね。相手のことも自分のこともわからないのにましてやこれから起きることなんて。

昨晩はフロイト読書会だった。みんな疲れていた。私も帰宅するまでは疲れていたけどバタバタと家のことしたりしていたら回復したので元気に参加。でもアドバイザーとしてはいまいちだったな、自分。『ヒステリー研究』を読んでいるのだけど臨床での言葉の使用について考えてしまってそれこそ言葉の使用を間違った。修正したけどぼんやりしていたのかも。元気になったつもりだったんだけどな。

最近、フロイディアン・スリップなのか、間違いが多すぎる。昨日も「これであっていますか」と確認のメールがきた。あってない・・・。これまで一度も間違えたことのない慣れ親しんだ数字を8は9へ、2は3へ、とひとつずつずらしていた。やばいだろー、と思いつつエレベーターにのってオフィスへ向かった。部屋番号あってるよね、と確認して鍵を入れる。前にエレベーターには誰ものっていなかったのに下の階に止まってしまったことがあり何も考えずに降りた私はそのまま下の階の同じ位置にある部屋のドアの鍵穴に鍵を挿したのだ。あかない!すごく焦った。当たり前じゃ。まあ、これは最近というより開業して間もなくの話。今思えば自分でエレベーターの階のボタンを押し間違えていたのだろう。というか今までそう思っていなかった、というか何も考えていなかった。やばい。

昨晩ぼんやりしたのはフロイトの書いていることがみんなの質問などで『心理学草案』から繋がってきて「この人なんでこんなこと考えることができたの」ということに驚いて深く追うようにしてしまい「平等に漂う注意」を維持できなかった。興奮量の移動という観点から考えるとヒステリーと強迫神経症の分類はシンプル。その量から質的なものを生み出すいうかその量に関与する質的なものとは何か、フロイトは観察を続ける。その著作を読めばわかるようにフロイトの観察は「マジかよ」というくらい細かくこれはこれこれこうでそれはこれこれこうなのでこういうふうに違っているわけで、だったらこっちはどうかというと、とどこまでも違いを観察しながら自分の言っていることの正当性を高めていく。そこまで人間の目でみられたらあんなことも書けちゃうのかもしれないけどそれ普通の人間じゃないっすよ、教授、みたいな感じでついていかないとポカンとしてしまうこともある。なんかフロイトを「教授」っていうのって坂本龍一を呼んでいるような感覚になる。

ティナ・ターナーが死んだ。私にとっては坂本龍一が死んだ時よりずっとショックだった。高校の時からかな、ずっとその歌声に心地よく圧倒されてきた。沈むな、リズムにのれ、踊れと言われているような写真ばかり流れてきた。かっこいい人だった。今日もティナを聞きながら普通に過ごそう。みんな死んでいく。だからちゃんととかだからもっととかは不自然だと思う。みんな死んでいくのだから事実と現実に基づく。音やリズムに自然にノル。思い浮かんだら言葉にする。過去を捨てない。ロックってなかったことにしないための音楽でしょ。ごまかさないためのリズムでしょ。ということでそれぞれそれぞれ。

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自己開示、正当防衛、ライフハック

まだ暗い時間から長文を書いた。公にはしないものを。何歳になっても傷つきや後悔を公に自己開示する形でしか体験しようとしない人がいる。したほうがいいとかでは全くない。本当に悲しんだり、本当に後悔したり、「本当に〜」とつくものは公に語れないことの方がずっと多い。そういう部分に誰かを介入させたとたん嘘っぽくなる。逆にそうなってしまうくらいに言葉にできない体験をしてきたのかもしれないという仮説もたつ。SNSが自分の言いたいことだけを垂れ流し見せたい自分を上手に見せられる人たちの活躍の場になり何回でも人をうちのめすことができる場になった。「そんなつもりはなかった」「自分のこと言われてると思ったんですか」といくらでもごまかしの言葉を使う。そういうのも「正当防衛」というらしいが散々嘘をつきながら人の心と体を弄び実際の傷をつけておいて自分が責められそうになるとこっちが「正当防衛」のためにそんなこと言ってるだけだ、みたいなまるで嘘つき呼ばわり。その人を知っている人に話しても「クズだな。すげえな。」で終わり。そりゃそうだ。利害関係は大事だ。「見て、聞いて」を叶えてほしかった相手は大抵の場合もういない。その不在を体験できず承認を求める。なかったことにできるならなんだってする。誰を傷つけても構わない。まだまだ傷ついている子供なんだ。かわいそうだからとそばにいるうちにいつの間にか性愛が入りこみ都合よく大人になったり子供になったりする。私たちは愚かだ。自分の立場が弱くなると被害を主張し、事実を持ち出せば「後悔してます」と怒り含みの言葉で人を黙らせコミュニケーションを回避する。それでも驚くべき軽薄さを維持したまま自分の失敗は失敗のまま女や男や「仲間」を利用し続けることをやめられない。本当に厄介だなと思うのは軽薄で言葉巧みな人は表面的な人気を得やすいのであまり上手に言葉にできない人がいつも見下され黙らされてばかりなこと。それこそ「クズだな。すげえな。ひでえな。」と思ってしまう。自分の傷つきや症状は主張するくせにその人たちほど上手に立ち回れない傷や症状や「障害」といわれる状態を抱えている人たちに対してはものすごく差別的で排他的だったりするのでうんざりすることもある。そういう人の一部にライフハックという言葉をよく使う人がいた。なんの共感性もなく彼らを見下し私を見下すので「それもライフハックなのだろう」と言ったらプチ切れされた。人を怒らせること、それを自分に照らし返されることへの恐れも深刻だ。心理療法過程ではこんなような心の状態は必然的に現れる。実は誰にでもある心の状態だから。ただそれを行動にしてしまうのはとてもまずいことだろう。本来はこういうことは公に垂れ流すことで自分を含む誰かの傷を広げるものではない。なので秘密を守ってもらえる場所が必要になる。話し合いができる関係を築きつつ言葉にしていくこと。その関係を作るのも言葉だからその時点で痛みは避けられないし専門家だからといって無条件に信頼できるはずもない。普通よりは知識とスキルと経験がありその仕事に関する倫理規定に基づいて仕事をしているということを信頼してもらうほかない。世界はひどいことで溢れてる。戦争だって起きている。それでもなぜか生き残っている。不思議だよね。何がなくともそういうことになっているのであればなんとか今日も一日過ごせそうだろうか。今日もいいお天気みたい。私は昨日から池澤夏樹『また会う日まで』(朝日新聞出版)を読み始めた。親が送ってくれた。読んでいる途中から止まらないと言っていた。持ち歩くには分厚いがたしかに読み始めると気になってしまう。持っていこうかな。それぞれなんとかやっていけますように。またね。

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思春期、トレーニング、レイ・アナリスト問題

いいお天気。洗濯物をベランダへ。風ひとつない。全然揺れない。光がいっぱい。昨日の保育園の帰り道、区の先生と色々話す合間にいちいち「寒い寒い」といいあった。向かいの家の屋根はまだ濡れて光ってる。コーヒー飲むと暑い。と書いたのは何度目だろう。今朝も足柄の洋菓子屋さんのお菓子。フルーツパウンド。コーヒーにぴったり。足柄に住んでいた子と一緒に合格発表を見にいったなあ。若いときはそういう部分の親代わりみたいなこと結構していた。このときもそんなやりにくいことを私がやるのかと思ったけど結果が残念だったからこそ一緒にいられてよかった。長い付き合いの子だったけどあんなふうに感謝されたのははじめてだったな。今はオフィスやクリニックで思春期の子供たちが大きくなっていく時間を共にしている。大人になってから会う人とはまるで異なるインパクトを持つ彼らの言語や身ぶりに圧倒されたり笑いあったりこういう豊かさをみんな持っているはずなのだろう、本来は。ないものはないし見えていないものをあるはずと想定することは安易にはできないが密な作業を継続的にしていくことで出会う言葉や気持ちはそれまでと全く異なるものだったりする。「これこれこうするとこういうことが起きますよ」という意味ではこういうことが起きるのが精神分析的治療なのだけどこれは他人からみたわかりやすい「良さ」には繋がっていない場合も多いのでなかなか難しいところ。適応はよくなることがほとんどだけど適応は目的ではない。自分の不快さにとどまることを誰かと共にいながらその共にいてくれる誰かに侵襲されながらそれを反復に組み込んでその誰かをもそこに巻き込みながら共にそれを体験しその中で二人とも生き残る。結構な作業なのでトレーニングは必須だ。共倒れするわけにはいかない。そう、精神分析のトレーニングのことを調べていた。今回はラカンがSPP(パリ精神分析協会)の分裂によりラガーシュ一派としてSFP(フランス精神分析協会)の訓練分析家になりセミネールをはじめるまでのところをIPA(国際精神分析協会)の様子と関連させて調べていたが、精神分析のトレーニングはこうやって常に物議を醸すものなので結局いつも何度も調べ直すことになる。それは私自身のアイデンティティと関わるのだから必然的にそうなる。

1910年に設立されたIPAに所属する分析家が増えるにつれて制度化は求められ国際規格の訓練の義務化が動き出した。1925年バート=ホンブルクBad Homburgでのコングレスでのことだ。IPAの歴史はIPAのウェブサイト、HISTORY OF THE IPAで読める。現在はEitingon, French and Uruguayanの3つのmodelがIPAのトレーニングの基盤をなす。ちなみにこれは地理的な区分ではない。この前史、つまり1925年バート=ホンブルク以前のトレーニングを巡る状況とバート=ホンブルグ以降、Eitingonが主導したトレーニング委員会(International Training Board (のちのITC)が成した仕事をレイ・アナリストの問題と絡めて論じたSchröter, M. (2002) Max Eitingon and the Struggle to Establish an International Standard for Psychoanalytic Training (1925-1929). が非常に参考になった(IPAジャーナル83:875-893)。こんな感じ↓で動き出したらしい。

A new chapter in the history of psychoanalytic training began in 1925 at the Homburg Congress with a ‘Preliminary discussion of the question of analytical training’, convened by Eitingon. This led to the Congress decision that all the branch societies should elect a training committee and that the committees should combine to form an ‘International Training Commission’, to act as the ‘central organ’ of the IPA for all questions relating to psychoanalytic instruction (Int. J. Psycho-Anal., 1926, p. 141).

ただこのこのPreliminary discussion予備討論やcentral organ中央機関の設立がいつ、誰によって構想されたかは明確ではないとのこと。草案から今に至るまでさまざまな経緯があるわけでラカンはフランスでその影響をうけたわけだ。

ちなみにレイ・アナリスト問題というのは常に重要で以前から何度か「素人分析の問題」が収められた『フロイト全集19』の月報で國分功一郎さんが書かれた文章を紹介してきた。今はブログでは読めなくなっているようだが昨年出版された十川幸司 、藤山直樹 編著『精神分析のゆくえ 臨床知と人文知の閾』(金剛出版)の第1章でより詳しく國分さんの考えを知ることができる。この本は精神分析家の藤山直樹先生と十川幸司先生が主宰する小寺記念精神分析研究財団の学際的ワークショップ「精神分析の知のリンクに向けて」を書籍化したもので第二回「『素人分析の問題』をめぐって」は第1章「素人分析の問題」で論じられているのでぜひ。

今日はイレギュラーな用事がある日。まだ少し風がひんやりだけど暑くなるかな。気温差に対応できないけど体調崩さないようにしたいですね。週の真ん中。なんとかなんとか一歩ずつ。

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雨、お菓子、ラカン

鳥ってまとまって鳴いたと思ったらすぐに遠くにいってしまう。南側の大きな窓から外をみたら向かいの家の屋根が濡れていた。窓を少し開けたら薄く濡れた屋根に水滴が跳ねているのが見えた。少しだけ降っているのね。この時期は雨は降るものと思っておいた方がいいね。梅雨がくる。

私は群馬育ちで伊香保温泉とかグリーン牧場とか(これは私の中ではセット。今だったらここに原美術館ARCが加わる)身近なんだけど温泉といえば温泉饅頭。伊香保だったら清芳亭の湯の花饅頭。うちはこれ一択でした。饅頭屋さんにも色々あって、と落語みたいな話をしたくなるのだけどとりあえず今は神奈川県足柄郡の温泉土産クッキーをいただいています。あと同じく足柄土産レーズンサンド。レーズンサンドというものがございます。これもいろんな土地のいろんな店がありまして、と落語的雑談がしたいのだけどあとで誰かとしませう。

週末は久しぶりにフランス精神分析に触れた。立木康介さんにいただいた『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』(講談社選書メチエ)は最近読んだけど。あれもラカンの基本的な概念がわかりやすく取り上げられているのだけどフランスの精神分析家の論文を読むにはもっと基盤を勉強しないとダメだなと思ってちょっとずつまたラカンを読み始めた。私の持っている岩波書店のセミネール(これとか)はきれいなまま時を過ごしてきてるから途中のページでもパタンって開くくらいに読み込みたいですね、死ぬまでには。『精神分析の四基本概念』上・下は文庫で読めます。「四基本概念」って言い方、少し変だと思うのだけどそんなことない?

セミナーでも確認があったけどラカン派精神分析は診断カテゴリーを神経症、精神病、倒錯の3つに分けていて、神経症と精神病の違いは雑にいえば了解可能か不可能か、抑圧か排除か(本当になかったことにできてしまうのかどうか、対象がいるかいないか、備給の話、つまりナルシシズムとか転移の話)、空想か妄想か(外的現実の認識と象徴化の話)など。全部フロイトが基盤。ラカンの鏡像段階は有名だけどラカンは自我を鏡像的なもの、つまり想像的なものと捉えていてその起源を他者というかイメージにおいている。この時点で「現実」から引き離される。言葉が重要なのはその不在を埋めようとするから。言葉がいつも嘘っぽいのはそのせいというか現実に直接触れる言葉というものはないからなんだよね、みたいな理解でいいのだろうか。とにもかくにも同じ用語を使っていてもそれが意味するところ、しないところが異なるので勉強しないとなあと思った。でも以前よりもラカンを読むのはずっと楽でそれはフロイトをたくさん読んできたからだと思うんだな。とりあえずフロイトに戻らないことにはというのがラカンだもんね。今回はアンドレ・グリーンのウィニコットへのオマージュ論文だったからどうしてもウィニコットを読むということ自体も振り返らざるをえなかったな。フロイトを読むのとウィニコットを読むのはまるで違う。ウィニコットも「鏡」の役割を重視して有名な論文もあるけどラカンとは違うこと言ってるし大雑把に「にてるーおなじー」となりがちな私は気をつけないと色々見落とす。子供と遊ぶときはいいんだけどね。子供のざっくり把握能力ってすごいから。大人になるってなんだかね。でも言葉にばかり緻密で読み方とか書き方とか教えているにも関わらず全く幼児的な大人もいるから言葉だけの問題では全くないね。それにしても大雑把な把握は俳句とかに生かすべきだわ、と今思った。俳句は不在を言葉で埋めようとしない文芸だと思いませんか。精神分析も本来そうだと思うのだけど不在を実感するためにどうしても言葉が必要になってくるから難しいんだよね、きっと。俳句も難しいけど俳句でごはん食べてないからなあ。気楽だ。

今日は事務的な失敗で時間割かれないようにしないと。いつもやるべきことをやる前の準備段階で失敗や間違いをおかしてスタート地点に立つ頃には1日が終わってることが多いから。いつもこれでは本当に困るけど老眼も進んでるし明らかに認知能力が落ちてきているのを感じるからせめて丁寧にやりましょう。もう「そういうことあるよね」とかいうレベルではないもの。まあ色々大変だけど今日もなんとかとりあえず1日を。

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ホクホク、句会色々、孤心

今朝は新しいお菓子がやってきた。温泉のクッキーとかカステラとか。嬉しいな。

句会でホクホクして一日を終えようとしたらまた自分の間違いに気づいてしまいすぐにメール。はあ。本当にね。よくやってきてるな、こんなんで。どうにかなるといいのだけど。

こんなんでもなんとかなってきてるのは助けが多いから。いつも個人にも環境に助けられている。カラスが鳴いてる。どうしたのかな。どうもしなくても鳴くか。カメラオフのzoom句会でかわいい声が聞こえてマイクマークに赤い斜線が入る。「寝たはずの子が起きちゃって」「ちょっと子どもが」と小さい子どもがいると親は大変だ。最初からカメラオフにしておくのはいい設定だと思う。昨日は知っている子どもの声が聞こえた。もうすぐお誕生日だね。また遊ぼう。一緒に絵本も読もう。コロナ以前に私が立ち上げた句会は投句と選評だけ書き込みあう会。管理は持ち回りの当番制。その後「談話室」でやりとりすることもあるけど基本的には選評で対話している感じ。「夏雲システム」というオンライン句会のためのシステムを使わせていただいているがシステムのおかげで俳句を続けられている人も多いのではないだろうか。開発、運営を一人で担ってくださっている野良古さんには本当に感謝感謝である。私たちの小さな句会にも結社の枠をこえてひとり、またひとりと人が増えてきた。コロナ前は月1回対面で集まっていた句会はオンラインに切り替えて主宰不在のまま継続してきた。私は一度抜けさせてもらったけど再開。この句会はまだオンラインだけど吟行の企画が増えてきた。参加はできないけど吟行先と句会場所を聞くだけでも楽しい。私が出ている句会はやさしいというか普通に思いやりのある人ばかりで穏やかで言葉を大切にするホクホクした時間を過ごせるから新しい方もすぐになじめると思う。俳句は「座の文学」と呼ばれるけど大岡信が『うたげと孤心』(岩波文庫)で書いたように孤心を生きるものでもある。大岡信はこう書いた。

“それらの詩人たちとは、柿本人麻呂、菅原道真、紀貫之、藤原俊成・定家、松尾芭蕉、与謝蕪村、岡倉天心、正岡子規、夏目漱石、窪田空穂、高浜虚子、萩原朔太郎その他である。これらの詩人たちは、私の考えでは一人残らず「うたげ」の中で「孤心」を生き、 「孤心」の中で一人「うたげ」を主宰し演じることに長じていた詩人たちにほかならなかった。(中略)

 この人たちも皆、悩み多き自己分裂の生を生きたのだと思うことによって、私は少なからず励まされてきたと思っている。”

借り物の言葉ばかりで支持をあつめている人は孤心ではなく孤独だけどそれもずーっと続ければ虚構にはみえず無事に孤独を防衛できたりする。ある人が書いた言葉がそれを引用したある嘘つきな人の言葉として賞賛されているのをみたことがある。虚構のための搾取、と変に納得したけど悲しかった。「孤心」を生きるというのは自分の有限性を生きることでもある。精神分析は自分の言葉で話したい、と自分自身と向き合おうとする。それを自分自身に求める人は多くないが誰かの言葉や身体を食い物にしないための一つの方法ではある。

さあ、お菓子。食べるならこっち。もうだいぶ明るい。新しい一週間をどうにかこうにか始めましょう。

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テレビ、マクドゥーガル、軽薄さ

朝早くからテレビをつけてみた。大体の人が寝ているような時間に静かにであっても会話をしている姿をみてるとなんか奇妙な感じがする。みんなが寝ている時間ならひとりになれるから、と眠らない人たちもいるわけだから本来コミュニケーションの時間ではないのでしょうね。早朝だと普段は聞こえない電車の音も聞こえる。私はオンラインのセミナーも苦手でコロナ禍ではそういう勉強サボりまくりだったわけだけど関係があるんだと思う。自然を感じながら何かすることが子供の頃からずっと当たり前なんだと思う。授業中もずーっと外を見てたし。夜遅い読書会でみんながすごく疲れているのをみると自然でいいなあと思う。もう長い付き合いだからそういうのを取り繕う人もいないし変に興奮しないためにはフロイトを読むくらいがちょうどいいね、夜は。興奮そのものについて論理的に考えられる学問だしね。昨晩はこれもずっとやってるフェミニズムやセクシュアリティに関する本を読む会でジョイス・マクドゥーガルのTHE MANY FACES OF EROSを少人数で読んだ。関西の人と始めた会でこれはコロナ前からオンライン。今回はセクシュアリティに関する主訴を持つ患者をたくさんみてきたマクドゥーガルが珍しく事例を出さずにneosexualityという考えを提案する短めの章だった。この精神分析家が何を考えてこの本を書いていたのかがだいぶわかってきたかもしれない。臨床現場で出会うセクシュアリティの多様なあり方と現れ方を精神分析が得意とする「倒錯」という言葉を再考しながら記述する仕方はそんなに論理的ではなかったけどあまりの多様さに圧倒されながら臨床をしていたらこういう風にしか書けないかもしれない。色々話し合ったあとはそれぞれのみものをとってきてあれこれおしゃべりした。いろんな内緒話もできるし議論に載せる前の本音も色々話し合える大切な時間。みんな忙しいから2ヶ月に1回とかだけど。家では家での時間も大切だしね。リビングからつけぱなっしのテレビの音が聞こえる。NHK短歌かな。このあとテレビ体操があってそのあとNHK俳句。いつも見るのを忘れがちだけど今日は大丈夫そう。朝のうちにひとつ資料作っておかねば。こちらはなかなか気が重いけどはじめたものはやらねばな。軽薄さって責任をとる気がない、あるいはとれないことの表現だと思っているけどそういうのをひとつのエンタメのように楽しめる立場の人は気楽でいいなと思ってしまう。そのせいで蔑ろにされる性や生活があることなんて想像しなくていいんだもの。軽薄さがナルシシズムに基づく敵意の防衛でその空虚さはこちらが感じることになっているような関係性の場合、なかったことにされる、いなかったことにされる体験をたくさんすることになるのでこっちもおかしくなってきていつの間にかこっち「が」おかしいみたいになるから痛みに持ち堪えながらできるだけ正確に観察できたらいいね。マクドゥーガルを見習お。テレビ体操がはじまった。いつもみているうちに終わってしまうやつ。姿勢と呼吸がしっかり意識されているきれいな動きに見とれながらピアノの音にのってると終わっちゃうのよね。そんなこんなでも健康に気をつけて過ごしましょうね。どうぞよい日曜日を。

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テレビ、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』

鳥たち元気。少しずつ明るくなってきた。さっき間近で高い声で鳥が鳴いて去っていった。

昨晩、ごはんを食べながらNHKの「スイッチインタビュー」と「超多様性トークショーなれそめ」を見た。二週連続みた。テレビは地震が起きたらつけるし日曜朝のNHK俳句をたまにみたりはするがほとんどみなくなった。近所の居酒屋がコロナ禍ではじめたテイクアウトを美味しくいただきつつ画面の中の会話を聞いていた。会話によって引き出されるゲストの体験や想いに笑ったり涙ぐんだりした。エンターテイメントだな、テレビ。人に歴史あり。カップルに、家族に歴史あり。

昨日から隙間時間はセルジュ・ティスロン『家族の秘密』(白水社)を読んでいる。訳者は精神科医の阿部又一郎さん。カミーユ・エマニュエル著『跳ね返りとトラウマーーそばにいるあなたも無傷ではない』(吉田良子訳)の校正に関わり柏書房のnoteで書評も書いていたのを読んだばかりだ。この『家族の秘密』もトラウマに関する本と言っていいだろう。精神科医であり精神分析家でもあるティスロンが家族の秘密を主にフランス精神分析にけるトラウマ理論とごく基本的な精神分析概念をシンプルに用いながら一般向けの概説書として仕上げた一冊らしく読みやすい。日本語版序文もティスロンによるもので2016年の日本・フランス合作の深田晃司監督の映画『淵に立つ』を取り上げ「秘密という牢獄」を家族という単位で描写した場合の一例を書いているがこれだけで重たい。精神分析は父、母、子供という三角関係を根源的な形とした秘密と傷に関わる学問であり治療法だ。秘密と思っていたのは実は身内だけですでに周知であり拡散されているような現代において秘密を「真理」ではなく「コミュニケーション」と対立するものとしてそのメカニズムを再考することはたしかに今まさに求められていることなのかもしれず「トラウマ」という言葉を安易に用いないことにも繋がるかもしれない、などとと思いながら読んでいる。

今日も色々大変だ。隙間時間に読むべき本はこれではないが届いたから読んでしまった。まずはやるべきことを、と毎日思いながら思うだけで日々が過ぎる。大変だなあ。自分のせいだけど。

今朝はなんだか寒い。気温がそんなに低いわけではなさそうだけど極度に寒がりな私は暑い日以外はほとんど寒さを感じているような気がする。この前も友達の中で一番厚着だったし。本当に三者三様の服装で体感温度の個人差が面白かった。ああ、窓の向こうのグレーの空をみながら梅雨も近いということに気づいてしまった。憂鬱。まあ、とりあえず今日を。みなさんもどうぞご無事で。お身体にお気をつけて。

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アナログ、グリーン、ウィニコット

なにがなにやらはらへりへりはら。いやお腹空いてないけど。AIとかなんとかいう前にPCだってこうやってひたすらフォーマットに書き込むくらいしかできないのにこれからやってけるのかな。直接人と関わる仕事ばかりしてきたのもそれしかできないからだね。はあ。調子良く原稿を集めたまでは良かったけど編集作業で切り貼りするだけで肩が凝りました。

昨日書いたAndré Greenの論文、ざっと読んだ。私の英語力のせいで全く別の意味にとったりしていないとしたらとても良い論文だった。まあ多少間違って理解していたとしても全体的にいい論文だった。私が日々格闘しているわからなさにとどまるためのヒントを与えてくれた。

論文はこれ。“The Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D. W. Winnicott”

やっぱりウィニコットが絡んでいると安心するのかな。基盤って大事だな。

アナログ人間の私には本当にそうだな!と思う文章もあった。まぁ、アナログの意味違うけどやはりフロイトのこの辺も追わねば。

“However, Freud had the courage to write, ‘Without metapsychological speculation and theorizing—I had almost said “phantasying”—we shall not get another step forward’ (1937a, p. 225). We cannot accept that our theories are fantasies. The best solution would be to accept that they are not the expression of scientific truth but an approximation to it, its analogue. Then there is no harm in constructing a myth of origins, provided we know that it can only be a myth.”

精神分析の世界では多分世界を離散的なものと捉えている分析家と連続性ありきで捉えている分析家の両方がいると思う。私は離散的なものとして捉えているしフロイト、ウィニコット、グリーンもそうなんじゃないかと思っている。時間についてどのような認識を持つかで治療者のありようは変わってくると思うのでその辺の議論ができたらいいな。

精神分析の目的は結局はこれ、とグリーンが書いているわけではないけどウィニコットを引用してこう書いている。

“Perhaps analysis only aims at the patient’s capacity to be alone (in the presence of the analyst), but in a solitude peopled by play (Winnicott, 1958).”

The capacity to be alone (WINNICOTT, D. W. 1958,1965)の引用ですね。邦訳は『完訳 成熟過程と促進的環境 情緒発達理論の研究』(岩崎学術出版社)の「第一部 発達に関する論文」の「2.一人でいられる能力」。

そういえば週末までにもう一本読まないとなのでは。がーん。もう週末じゃないか。どうしよう。とりあえず今日の分をやらねば。もー。

お寺の鐘がボーンってなった。

持っておきたいウィニコットの本
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精神分析

精神分析の論文を読んでいる。

週末に向けてせっせと英語の論文を読まないとなのに読み始めると寝てしまう。面白くないわけではなくて英語だから。最近、老眼が進んで楽に読めないのに加えて英語を読むスピードはものすごく遅くなった。サボッテタカラナ。あー、珈琲飲むと暑いー。

読んでいるのはフランスの精神分析家アンドレ・グリーン。エピグラフはW.ブレイクとボルヘスの虎。これら本当にたくさん引用されるんだねえ。昨年はアメリカの精神分析家オグデンが詩を読むこと、あるいは詩のように読むことをどうしてそんなに大切にするのかに興味があったからアメリカ詩、イギリス詩を結構読んだけどブレイクのTigerはどの本にも出てきてた。朗読も結構きいた。イギリスの精神分析家ブリトンは『信念と想像:精神分析のこころの探究』でブレイクを引用しつつ結構紙面を割いていたと思うからそれも再読したいね。新装版も出たしね、と思って今調べたら2016年だった。あったあった。2章割いてる。

13 ミルトンの破壊的自己愛者,あるいはブレイクの本当の自己?
14 ウィリアム・ブレイクと知的自己愛

というかグリーンに戻らねば。読んでいるのは精神分析状況での患者の変化よりも分析家の変化の方に着目した論文。

the way that the patient enacts it and makes the analyst experience it. For, all things considered, there is change only to the extent that the analyst is able to understand such change and to report it.

これ大事。

あ、読み耽ってしまった。このペースで読まねば。

今朝はバターシュガーじゃない、「シュガーバターの木」のたっぷりショコラサンド「横綱」。このパサパサ感はコーヒーとよくあうけどなぜに「横綱」って名前にしたのかね。私さっき「紙面を割く」って書くのも「ページを割く」の方がいいかと思いながらもそのまま書いちゃったけどそんな感じ?

今日はすごく鳥の声が澄んでて響く。空がスッキリきれいだから?今日もすごい光。暑くなりそう。毎日「マジでふざけんな」と思うことに囚われつつどう行動していくかを模索しているのは相変わらずだけどやることはやっていかないとね。もうすぐ家賃の請求もくるし。なぜか引き落としじゃないから毎月毎月無事に払えることに感謝できるのは良いこと。がんばって論文読もう。精神分析実践ありきという態度を私は維持したいし。あるものはある、起きたことは起きた、ないものはない、なかったことにすんな(マジでふざけんな案件はこうしてちょこちょこ入り込んでくる)、「不在」という表現には期待が込められているといったのはグリーンだったと思う。グリーンはネガティブという表現を使う。そういえば十川先生の『思想』での連載はどうなったんだっけ。あれこそネガティブの話でグリーンとも関連づいてるわけだよね、と今思い出した。とりあえず取りかかりましょう。今日も暑さにバテない工夫してえっちらおっちらやりますかね。はあ、すでにバテている感じね、これだと。みなさんもどうぞお大事に。

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ムクドリ、にせもの、来し方

南側の大きな窓をスーッと開けたら涼しい風がスーッと入ってきた。よく滑る窓なので早朝は少し気をつけて開ける。今日はすごくすごく暑くなると聞いたからその前の風を感じておきたかった。コーヒーを飲むと暑くなるのはどの季節も同じだけど窓を開けっぱなしにできるのはいいね。

この前駅へ向かってたら大きな犬のいる家の植木から黒い鳥が飛び出してきた。オレンジ色の足と嘴。ムクドリ。鶴川から帰るときによくみるやつ。まずその声に驚きそっちを見上げたときの数に驚きそれらが飛び立つときの真っ黒ぶりに驚くやつ。駅前の大きな木をねぐらにしている彼らは夕方になるとその辺りにどんどんどんどん集まってきて何かいっている。多分みんな毎日のようにこの光景を見ているのだけどつい見上げちゃうくらいのインパクトがある。自然に対しては気づかないことはあっても飽きることはない。朝、小さな木から飛び出してきたムクドリのオレンジの部分は目をひいた。だからムクドリだとわかった。でも夕方駅前に集結する彼らのことは真っ黒っていってしまう。そうにしか見えてなかった。

昨日、鶴見俊輔を読んでいると書いたが『不定形の思想』もいいけどと『旅と移動 鶴見俊輔コレクション3』(河出文庫)に途中で変えた。島崎藤村を読んでいたはずなのに。この中に「キラーニーの湖──アイルランド」という題の文章があってそれが好き。トマス・ムーア(Thomas Moore 1779-1852)作詞の庭の千草」(原題はThe Last Rose of Summer)の思い出とこの曲のまがいもの性について。時間がないから引用だけしておく。日本国内旅するだけでもいろんなまがいものやにせものと出会うが鶴見俊輔が「忘れたくない」という想いはよくわかる気がする。

「トマス・ムーア原作、明治日本人翻案の「庭の千草」もそのひとつである。それらは、今は洗いだされたアイルランド文化の古型から見て、にせものだろう。

にせものをこえて、別のアイルランドへの道を見出せるのは、いつの日か。だが私は、にせものによってそだてられたものを忘れたくない。」

自らの来し方を振り返り、と書いて「来し方」って言い方はなんか膨らみがあっていいなと思った。ライルが『心の概念』の最初の方で「外的」「内的」という対比は比喩であるといっていたと思う。あの本は心の病理を描写することの難しさを教えてくれる。古田徹也さんのウィトゲンシュタインの本や日常言語学に関する本はここ数年、読みやすいものがたくさん出てるからそれらと一緒にライルを読むのもいいかもしれない。あの本は分厚いから挫折している人も多いみたいだし英語で読んだ方がわかりやすいという人もいたけどそれは英語で正確に読める人のお話。

さてまだ今朝やっておくべきことが終わってないのだった。がんばろー。暑さに気をつけて過ごしましょうね。

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藤村のいろはがるた、鶴見俊輔

まだ暗いうちから島崎藤村を読んでいた。つもりだったがいつのまにか鶴見俊輔を読んでいた。いつのまにか川の名前が変わっていたみたいな感じで無意識に流されるままに本を読んでいることがあるが私にとってこの二人は「かるた」つながりだからそこで自然とそうなったのだろう。

このブログはwordpressで書いている、といっても仕組みがよくわからないまま書き込んでいるが、もっと早い時間にこうして書こうとPCに入っているwordpressのアプリ(PCでもアプリっていうのか)を立ち上げたら立ち上がらない。Expired nonce.って出てきてしまう。なのでしばらく放っておいた。なんで今こうして書けるようになったのだっけ。なんか適当になにかしたらnew postという選択肢が出てきたからそれを選んだらこの画面が立ち上がった。また同じことが起きたときに困るが困るのは自分だからまあいいかとなる。雑文ブログは雑談みたいなものなので残しておく必要も特にない。

というわけで島崎藤村、鶴見俊輔を読みながら感じていたことをもう思い出せない。すぐにどこかへ流されていってしまう。

島崎藤村が『夜明け前』の冒頭で描いた木曽福島の関所の隣の高瀬家(こちらは『家』の舞台)で藤村のあれこれについてご親族の方から教えていただいたことはすでに書いた。そこで藤村のいろはがるたを知ったのだ。この内容が力が抜けていてとても面白かった。藤村記念館で販売していたから買えばよかったのだが案内してくださった高瀬家の方の特に強い思いいれがあるわけでもないよく知らないのだけどこんなのもあったみたいみたいな語りがいい感じでまあいいかと思わせたのかもしれない。買おうと思えばどこかで手に入るだろうというのもあったかもしれない。

なんだか眠くなってきてしまった。外はすっかり明るい。今日は晴れなの?なんだか暑くなりそうな光。

藤村のいろはがるたは馬籠のところどころで小さな街灯にデザインされていた。絵は岡本一平。岡本太郎のお父さん。鶴見俊輔はこのかるたを高く評価した。鶴見俊輔は「かるた」という論考で「概念」という言葉をきらい、その底にある「折り重なっている絵札」としてそれを描き出した。昨年、鶴見俊輔生誕100年ということでいろんな本が出たので興味のある方は「かるた」のはいっている本を読んでみてね。私が数時間前に再読していたのは『不定形の思想』(河出文庫)。奈良美智の装画が目を惹く文庫です。2022年は島崎藤村生誕150年でもあったね。

頭がぼんやり。眠気がきたり去ったりしてる。今日もなんとかやりましょー。