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精神分析

ラカンとか書類溶解サービスとか。

今日も冷房要らず。これが当たり前の季節になってきたかしら。風が気持ちいい。昨日は朝は雨で上着がないと寒いくらいでびっくりした。昼間晴れて暑くなったのにもびっくりした。夜はちょうどいい涼しさだった。しばらくそんな感じなのかな。身体にはちょっときついかな。調節しながらですね。

ラカンを読んでいてLa Troisième/Jacques Lacan : VIIe Congrès de l’École freudienne de Paris à Rome, le 31 octobre – 3 novembre 1974にあたって3にこだわるラカンということでラカンがイタリアでのラカン派の養成(でいいのだろうか)を託したイタリアの精神分析家にあてた手紙を読んだりしていた。こんなことをしているとどんどん時間がなくなる。そして探している本がない。うーん。優先順位。

郵便局の書類溶解サービスを申し込んだ。郵便局側もまだ慣れていないらしく色々確認しながら丁寧に教えてくれた。うちのそばの郵便局はずーっと人が変わらなくて超アットホームだったのだけどいつのまにか変わった。今も変わらず穏やかで優しい空気が流れてるけど。お客さんにお年寄りが多いせいかしら。書類溶解サービスの箱は思ったよりもずっと小さい。ヤマト運輸より手続きが簡単だからこっちを試してみたけど他のも少しずつ試してみたい。すっごいシュレッダーを買うというのもあるがどういうのがあるのかよく知らないしどこに置くのだ・・。でも積み重なる値段を考えたら経済的にはそっちの方がいいのかもしれない。うーん。

というかこんなことを呑気に書いている場合ではない。いくぞいくぞ。今日もがんばろう。

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精神分析

暑くない。

今朝もエアコンをつけていない。窓を開けて一気に風が入ってくるわけではないけれど暑くない。虫たちが夜の続きのまま鳴いている。たまにしか姿を見かけないのに全方向から鳴き声が聞こえる。膝に乗せたパソコンが熱い。

なんか疲れますね、夏の疲れが出てるのでしょうね、という挨拶を交わす季節。実際、あづいあづい言いながら暑さをやり過ごしてきた身体は季節の変化を感じて少し戸惑っている感じがする。夏の食材もあまり身体にしっくりこなくなった。魚の美味しい季節だ。ちょっと無理してでも美味しい食材を手に入れたい。食材が良ければ調理はシンプルですむ、というのは多くの料理家がいうことで本当にそうだ。結果的に楽、そういうのが一番いい。

昨日の朝ドラ『虎に翼』で寅子が更年期症状のような様子だった。ホットフラッシュだなぁ、と思った。私も一時期とても辛かった。みんなが寒がっている学会会場でどうにもできない暑さと汗で最後まで発表を聞くことができなかったりした。ほかにもそれまで経験したことのないようなさまざまな症状が出て女の身体は大変だなといつも思っていた。友達や先輩が気持ちも情報も共有してくれて安心もしたし婦人科で相談しながら対処法も知ったし慣れてもきた。そのうち百合さんみたいに記憶の問題が出てくるかもしれない。

エドワード・サイードに「晩年のスタイル」という本がある。「逆らいつづける」ことはしていきたいが、抗えないものもある。そこを支えてくれるのがこれまでの人間関係と生活の積み重ね。そういうのを実感する年齢になった。若い頃に考えていたことはなんだったんだろう。今はいろんな体験が伴ってるから言ってることとやってることが離れていかない。力が抜けてる。

昨日、ラカンの『アンコール』を読んでいた。題名に対する言及ももちろんある。フロイトを読み続けているおかげで深く緻密に物事を考える人の言葉にしっかり向き合えるようになりつつある。哲学も同時に勉強できるのも楽しい。フロイトは精神分析家として哲学に対して多くの大きな問いを残したけどラカンは精神分析家であり哲学者だからフロイトを読むときとは全く別の思考を促される。そこも刺激的。

お、バタバタしてたらまた中途半端に。今日もがんばろー。

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桃、色

桃を剥いた。まだクチュってなってないしっかりした桃で皮をゆっくり下にひっぱる必要があった。きれいに向けた。白い果肉に包丁を入れるときれいなピンクが現れた。いちじくの闇のような赤よりほんのり、と思ったら少しそれが濃くなったように思った。こんな早く変色するか?と思いつつきっとするのだろうと思って少し眺めたがすぐに啜った。こんなしっかりした桃でもいざ口に入れると啜るという表現がやはり合うように感じる。そして身体に入るとずっしり。

桃すする他のことには目もくれず   三代寿美代

少なくとも桃を啜っているときはこんな感じ。水分落とすまじ。落ちるけど。

私が愛する無花果にはこんな句がある、と8月30日の俳句日めくりカレンダーで知った。

無花果を喰み口中の闇ふやす 杉山久子

第2回芝不器男俳句新人賞受賞、杉山久子の句集『春の柩』からの一句だ。無花果の赤は桃のようはほんのりさを感じない。闇と調和する色。中のほろほろ加減もこちらが噛み付くからではなく向こうから流れ込んでくる感じ。大袈裟にいえば。結果、口の中に闇が増える。かといってその口から出てくる言葉が闇色とは限らない。私は無言で幸福を味わう。

先日、「映画 けいおん!」「映画 聲の形」などの山田尚子(監督)、彼女と長くコンピを組んできた吉田玲子(脚本)、そして「映画 聲の形」「リズと青い鳥」などで彼らと一緒に仕事をしてきた牛尾憲輔(音楽)らによる長編アニメーション映画『きみの色』をみた。いつも通り花の色の鮮やかさに希望があふれていた。今回は「色」がテーマなのでなおさらだが、不安や痛みや存在感がパステルカラーで表現されているようなところがありそれが傷にまで至っていない様子が明るい方へ向かうストーリーにぴったりだった。ストーリーやセリフを味わうより色と音の効果を堪能した。聖地巡礼について書こうと思ったが時間がなくなってきた。

風がブラインドを揺らしているが私の方まで届いてこない。今日もどうぞ良い一日を。

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時間感覚とか分析とか商売とか。

除湿運転が寒くて雪の中にいる夢を見た。ドアを少し開けてリビングに冷気を逃した。朝まで眠れた。リビングの大きな窓とキッチンの小さな窓を開ける。風を感じない。ゆっくりゆっくり動く台風をずっと気にしていたせいか時間感覚もおかしい。昨日は仕事もあったのになぜか何度も日曜日だと思ってしまい大河ドラマどうだったんだろうなど気にしてしまった。毎週見ているわけでもないのに。いや見ていないからというのもあるか。人はいろんなもので自分の時間感覚を維持しているのだろうから。

精神分析を受けるかどうか迷っている人は時間の捻出に苦労すると思う。私はウェイティング期間も数年あったがそれだっていつ始まるかわかっていたわけではない。そのために何年もかけて準備した。開業していれば比較的楽に動けたが当時の私はいくつかの職場を掛け持ちしていたので訓練がはじまったらやめねばならないか勤務時間の変更をしてもらうことを上司に話し許してもらっていた。一度順番が回ってきたことがあったが一番忙しい土曜午前ですぐに調節がきかずそのあとまた数年待った。今思えば早く開業しておけばよかったのだがどれもこれも今思えばの話であって、もう色々忘れている事情が色々あったのだろう。週4日、通い始めてからはあれだけ心配した時間とお金のことより転移関係によって顕になる自分のことのほうが大変でこの作業の維持のために生活を組み立てていくということは自然にできてしまった。あれはなんだったんんだろう、というのはやってみてはじめて思うことだし、結果的には受けてよかった。朝一番と夜最後の枠に何年も通い続けた。最初は疲れ切っていたがいつのまにか体力もついた。身体のというより心身の。身体の不調は年齢的にも増えたが対処はうまくなったので辛くなることが減った。私は開業し、分析家は大学を辞め、時間を変えてもらってからは朝と昼間になった。夜はずっと臨床。今は訓練が終わって使える枠が増えた。精神分析を語る人ではなく体験する人が増えたらいいなと思う。

地元にできた少しいい店に行った。今は変わったがチェーン店がことごとく根付かなかったこの街で「街には街の値段設定がある」という話を地元の人に聞いたことがある。新しい店ができるとついいろんな計算をしてしまう。この時間帯でこの客の入りでこの場所の家賃はこのくらいだろうからこの値段設定とサービスだとうーん、など。開業しているとそんなことばかり考えてしまう。私も商売人になった。そうなると私の患者やスーパーヴァイジーもお金のことをあれこれ考えるようになるのでこの生活って、この仕事って、と実感を持って考える、あるいはそういうことを実感を持って考えない自分を知るようになる。心理職とは、ということをこういうふうに考える人が増えるのはいいことだな、と思うことも多い。

あ、NHK俳句見なくては。風景を大切に。

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雨、生活、食

深夜、寝る前に窓を少し開けたらひどい湿気と熱さを感じてすぐに閉めた。あの気持ちのいい風はどこへいってしまったのだろう。早朝、目を覚ましてからも雨の音をずっと聞いている。仕事には行けるだろうけど来る方も大変だろう。私は訓練に入る前に別の分析家のところへ通っていた。あれは台風だったか、断続的にものすごい雨風の日があった。どこかへ継続的に通うというのは仕事と同じでリズムであり習慣なので慣れていない場所へ行くよりは方法を考えやすい。お金を払って休んでもよかったのだが出向いてみた。雨の合間を縫って少し早めに近くまで行き店に入った。居酒屋だった。この天気ではくる人もいなかったとみえて「お酒飲まないのだけど」という私に快く応じてくれた。ソフトドリンクと何かをつまんでおしゃべりしているうちに雨が弱まったので分析家のオフィスへいったらきたことにびっくりされた。私はその日の自分の楽観的で能動的な態度について話したと思う。そういうのは日替わりどころか瞬間瞬間で違ってくるので面白い。あの居酒屋はしばらくしてなくなった。そこの通りに当時あった店は今はほとんどない。向かいの区画には以前からの店がそこそこ残っているが。私はその後、別の街で開業しているIPAの訓練分析家のところに通い始めかつての分析家もあのビルから同じ街の別の場所へ引っ越した。

私は2017年に開業してもうすぐ満7年。最近の自然とどう関わっていけばいいのか悩むことが多い。悩んだところでこのまま悩みながら同じことを続けていくだけなのだが考えておくと最低限の対策は取りやすいと思う。料理など毎日の家事をしていると足りないものがいつも意識にのぼっているのと同じ。優しさや思いやりも生活を積み重ねるところからだよなあと昨日漠然と思った。

昨日の朝ドラ『虎に翼』で父の役割を果たせてこなかった航一が娘ののどかに「何が食べたい?」と聞く場面があった。このドラマは戦争前の食卓から仲間との饅頭作りから戦後の深刻な食糧難からカフェでの名物や郷土料理、伝統の味など一貫して食事を通じた人との関係を描いてきた。「美味しいもの食べに行こうか」「甘いものでも食べに行く?」「ごはんにしましょう」などのセリフも多くあったと思う。脚本の吉田恵里香さんがSNSにあげるイヤリングもずっと食べ物だ。私の仕事で食といえば診断でいえば摂食障害となるさまざまなエピソードについて聞くこともあるし、美味しいお店の話を聞くこともあるし、毎日ごはんを作ることの負担やそうしないと襲ってくる罪悪感や実際の暴力について聞くこともある。主人公の寅子が「十分に子供をやらせてもらった」と言っていたが彼女の食事の場面だけ追っても満たされる、あるいは満たしてあげたいという思いの中にいつもいる、そこで自然に育っていく、そういう描写だったように思う。航一の「何が食べたい?」は子供の欲望を汲み取るのに最も適した一言のように思えた。

今日も雨をどうにかしのげますように。被害が出ませんように。すでに被害が出ている地域にできるだけ早く手厚い援助が届きますように。

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クリーニング屋さん

早朝からずっとカラスが鳴いている。墓地のあるお寺の木の方だと思うけど意外とゴミ捨て場かもしれない、というかそっちの方が現代的理由としてはありうるか。大袈裟に言ってみたがゴミ問題は大袈裟にすべき問題である。

今朝も無花果を食べた。無花果という漢字は美しい。果肉の色も美しい。今日のは皮が厚めできれいにむけた。果物の甘さは複雑で特別。今年も大切に楽しみたい。

長くお世話になったクリーニング屋さんが閉店した。うちで洗えるものはその方法も教えてくれた。商店街のお祭りの焼きそばチケットもくれた。時折、彼女の夫が対応してくれたが自分はあまりよくわからなくてと恥ずかしそうに笑って彼女を探しに行った。ほのぼのした。小さな庭の水やりをする彼女もよく見かけた。挨拶をするといつもにこやかに返してくれた。今は移転してしまった近所の有名店は彼女がいつも味方でいてくれたことに感謝していた。

先日、彼女の店よりだいぶ後にできた小さなクリーニング屋さんへ初めて行った。テキパキと対応してくれた。初回特典で割引もしてくれた。出来上がったものをとりにいったらこの前とは別の人がいた。特別なときに数回きただけの服にカビが生えてしまった。クリーニングに出していたのに。どこのクリーニング屋さんか聞かれたが私は店名を忘れていることにそのときに気づいた。個人名をいうと「あそこの?あの丁寧にシミ抜きしてくれるっていう・・」とすぐにわかってくれた。この人も地元の人なのだろうか。「そうなんです。長い間お世話になっていたんですけど私の保管の仕方が悪くて」と実感を込めていうと(というかこもってしまった)「そう、なくなったの」と言われ慌てて「あ、人はお元気なんですけどお店が」と付け加えた。そんなことはわかっていたかもしれないが。彼女はうちは工場での機械作業だからそこまで丁寧にできないかもしれないけどといった。そして特典がまだ残っているかと聞いた。私が多分この前もう使いきってしまったと思うというと「みてみますね」と画面を見てないことを確認し何かしらやろうとしてくれていたが「・・・残念」と少し笑った。私もお礼を言って笑った。新しい場所は日替わりで定員さんが変わるようだけどひとまず安心した。誠実に仕事も生活も営んでいる人のおかげ。

台風の被害がありませんように。

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秋、作家の仕事

キッチンに立っていると背中に涼しい風があたった。ようやくこういう季節がきたことに喜びを感じながらできたばかりの麦茶の鍋底を凍らせておいた保冷剤で冷やし始めた。鍋底の保冷剤に指を当てたつもりが直接鍋に触ってしまい熱かった。凍った冷たさとこういう熱さは同じだなと思った。私に与える効果が違うけど。どっちも火傷するわけだし。

昨日の朝日新聞に作家の星野智幸が寄稿していたのを読んだ。執筆の依頼を断るメールから文章は始まっていた。私はこういうのがとても苦手だ。最後の方に「文学の言葉」「究極の個人語」とありそこでもかなり冷めた。この作家のこの文章はすごい戦略的だなとちょっといやらしく感じたが新聞に寄稿するというのはそういうことなのだろうからその点ではとても面白いと思った。あくまで個人的なこととして傷ついたような、もう嫌になっちゃったよという徒労感を静かに滲ませながら決して閉塞も絶望していない強かさに作家はすごいなと思った。これはきっと多くの人を刺激するだろうと思った。私は「究極の個人語」という言葉に瞬間的な嫌悪感を抱いたがそれは私がそんなもんはないと思っているからだろう。しかもこの寄稿文のどこにそれが、と思った。張り詰めたやりとりにzoomで参加していた人が急に何か場をおさめるようなことを言ってこの場にいない人が何言ってんだよという空気になるあの感じを感じた。私の仕事は作家の仕事ではないんだな、とつくづく思う。精神分析場面で自分の言葉で話すことは必須だがそれは個人語を話すことでもましてや究極のなんていうものはない。言葉依存から抜け出すために言葉に依存せざるを得ない人間をどう生きていくかというお話。面白かった。

秋の果物がたくさん送られてきて冷蔵庫がとっても豊か。秋だ秋だ。台風の被害が出ませんように。

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風、佐々木敦の新連載、K-POP

窓を開ける。気持ちのいい風が入ってくる。毎朝窓を開けるたびガッカリしていた日々は終わった。でも降ったり止んだりなのか。夜中には雷も鳴っていた。

昨晩作っておいたキーマカレーをタッパーに入れる。あまりを少し食べる。美味しくできた。

ほかの窓も開ける。一通りの家事をこなしながら時々風を確かめる。また少し満足する。今日もまだ冷房をいれていない。

昨年、青森の下北半島であまりの暑さにはじめてクーラーを導入したとガイドさんが言っていた。今年の暑さは異常だと。きっと今年も昨年と同じく異常だっただろうからクーラーの導入率は増えていくのだろう。しかし青森の真夏の朝は気持ちよかった、ということを東京の秋に思い出す。

今、NewJeans (뉴진스) ‘How Sweet’ を流している。多国籍の5人組K-POPガールズグループであるNewJeans。2022年のデビューからあっという間に世界に知られるグループになった。他にもK-POPの勢いは凄まじいが「すでにBTSとBLACKPINKという直近の成功モデルが存在したということも大きかったと思います。」というのは佐々木敦。集英社の読者情報誌『青春と読書』で始まった佐々木敦の連載『メイド・イン・ジャパン』[第2回]K-POPは世界を目指す、に書いてあった。

このはじまったばかりの連載は「日本の芸術や文化、サブカルチャーの「海外進出」の可能性について、あれこれ考えてみよう、という内容です」と第1回に書いてあった。『ニッポンの思想』(二〇〇九年)、『ニッポンの音楽』(二〇一四年)、『ニッポンの文学』(二〇一六年)(いずれも講談社現代新書)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(二〇二二年、扶桑社)、『ニッポンの思想 増補新版』(二〇二三年、筑摩書房)と多くのジャンルで「ニッポンの」にこだわってきた佐々木敦の書くものは私にとっては要チェックだ。私は毎月本屋さんで『青春と読書』をもらってくるがオンラインでも読めるのでぜひ。

昨日はその第2回を読んでK-POPを聞いていた。私は洋楽を聞いてきたが佐々木敦がいうように「歌=声を音として楽しむ」ことをしてきた。なので逆に時折日本語が混じるK-POPには違和感を感じることもあった。耳が止まってしまうのだ。でもこの論考で韓国語、英語、日本語の特徴を読みながら色々なK-POPを聞いてみてなるほどと思った。最近はその辺もすごく工夫されているのだなと思った。aespa(에스파)の日本デビューシングルも良い感じだった。

「あくまで私見ですが、日本のアイドルファンは運営側/事務所にシンクロナイズしがちであり(そこには何かしら恩恵にあずかりたいという心情やアイドルに対する「上から目線」のようなものが透けて見えます)、対してK‒POPのファンダムは、自分たちが愛するメンバーが不当な扱いをされていると思ったら、事と次第によっては会社を公然と痛烈に批判することも厭いといません。もっとも過激なのが、メッセージ(要求)が書かれたトラックを所属事務所の前に横付けする「トラック・デモ」です。」

という箇所は意外な感じがした。韓国の芸能人の自殺のニュースを多く聞くからだ。しかし「トラック・デモ」というのもあるのか。彼らに限らないことだが自分の権利をしっかり握りしめたままがんばってほしい。

カラスの声が背後の窓から聞こえる。あの嘴からあの声。開け具合とかどのくらい調整できるのだろう。台風情報も彼らの方が正確に受け取っていそう。どうか被害の出ない場所にそれていってくれますように。

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俳句 精神分析

俳句、恥、駱駝

起きたらまだ夜があけてなかった。夜明けが遅くなってきたのかなと時計を見たらまだ明けるような時間ではなかった。あまりにすっきり起きてしまったけどこれでは寝たことにならないとまた寝た。眠れないからiphoneで角川の俳句歳時記を開いた。「秋」→「時候」と進んで最初に出てくる季語は「秋」。「時候」に分類されている季語は46語。秋で一番多いのは「植物」。189個。春も夏も「植物」が最多。冬は一気に乏しくなって「生活」に分類される季語がグッと増える。冬と新年は分けられているけど重なって掲載されているものも多い。さて、季語「秋」を開いて最初の例句は

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

これはこの前も引用したかな。

芭蕉が死ぬ少し前に作った句。古今和歌集の

何をして身のいたづらに老いぬらむ年の思はむことぞやさしき

が意識されている様子だけどこの「やさしき」が「恥ずかしい」という意味だと知ったときは驚いた。この「やさし」は「痩す」が形容詞化したもの。芭蕉と古今和歌集の詠み人知らずさんは同じような情緒を体験していたらしい。

精神分析でも「恥」は大事な情動だ。岡野憲一郎先生がIPAジャーナルに載せたのも「恥」についての論文だった気がする。本にも色々書いていらしたと思うのであとで見直そう。最近はラカンが「恥」について多くを述べていることを知った。記述が回りくどいので何を言いたかったかよくわからないが恥が社会的な情動であるという点は芭蕉も詠み人知らずさんもラカンも共通した認識なのだろう。

まだ暗い時間に歳時記で「秋」の俳句を読みながら一番素敵に思ったのは

金秋や人待つ駱駝膝を折る 岩淵喜代子

鳥取砂丘で見た景色を思い出した。私は動物が膝を折る仕草がとても好き。時間がゆっくり止まるような感じがとても好き。動物には「恥」はないね、きっと。生き恥を晒す、とか絶対言わないと思う。ある種の圧を感じさせる言葉だね、「恥」は。駱駝が膝を折る仕草を今日は何度も思い出しそう。とりあえずNHK俳句を見ましょう。今日の選者は誰かな。その前に洗濯物を干そう。

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ロマンとか。

柳樂光隆さんがいろんなジャズ・ミュージシャンにインタビューする記事をよく読む。そこで知ったカート・ローゼンウィンケルを聴いていた。先月、KURT ROSENWINKEL’s THE NEXT STEP BAND REUNIONとしてBlue Note東京でライブをしたばかりだ。今日はNYでライブらしい。ドラマーの石若駿も小さい頃からカート・ローゼンウィンケルを聞いて影響を受けてきたという。柳樂さんのnoteで読んだ。

「降ってくるって美しいことだよね。自分にとっては曲を書くってことは、基本的には考古学みたいなものなんだよね。砂漠に行って、いろんなところを掘る。そして、何かが見えたら、その周りの砂をブラシで丁寧に取り除いたりする。僕にとっての作曲はそんな行為だ。簡単に全貌が現れることもあれば、なかなか掘り出せないこともある。ピラミッドがきれいな形で見つかることもあれば、壺の破片が見つかったから、その周りを掘ってみたけど、そこには何もなくて徒労に終わったりね。ひたすらいろいろ探したのに、やっと出てきたのがスプーンだったりすることもある(笑)。」

文脈もあるから石若駿との対談インタビューを全部読んでほしいのだけどカートの言葉はとても素敵。

フロイトも精神分析を考古学で例えるならこんな感じでいえばよかったのに。フロイトが私の祖父だったら、いや、父でも兄弟でも分析家でもなんでもいいがもし話せる立場にいたらそういってしまう。そしてきっと反論されるか解釈されるかするのだろうね。ロマンがない。精神分析をよく知っている立場からすれば精神分析にロマンはあるのだけどロマンに対してアンビバレントなのではないかな。今は犯罪でもノンフィクションで読んだほうがいいもののほうが多くて、いかにそこにロマンを持ち込まずにいられるかの重要性を学んだりする。異質さは異質さとしてドンと置いてドライに繊細に関わるという点でフロイトが外科医のたとえを用いたのは適切だと思う。私たちは「関係性」とかいうごまかし言葉を多用しがちだし「物語」が好きだったりする。わかりやすいのはいいけどそんな簡単じゃないから困ってきたわけで今ここでそれを再演しているわけでしょう、と考えると私はそういう方向の分析家ではないな。組み立てていくのではなくて降ってくるものをドライに繊細に捉えられたらいいのに。低頻度の面接であってもそこでは要素の断片化と統合が繰り返されている感じがするけど何かと何かがつながっていく感じは低頻度の面接のほうが持ちやすいと思う。一人の時間の方が長ければ自然とそうなるだろう。高頻度になると常に他者(=分析状況)が情動的な撹乱を起こしてくるから自分でつなげる作業はできない。いつのまにかという変化ばかりで情緒的な撹乱はお互いにとって危機になるがそれが生じないと変化は起きないとみる。実際そうだろう。精神分析は頻度だけではなくカウチ使用、自由連想という基本原則を伴い、内容を取りこぼしつつ抱える設定になっているし、そこでの意識の質は他の治療法とはだいぶ異なると思う。そこで無意識とかいっている。

沖縄トロピカルフルーツティーを飲んでいる。いただきもの。暑いけど美味しい。冷たい麦茶が減らない時期になってきた。今日も外は暑いのだろう。少しずつ少しずつ秋めいてきたけれど。良い音楽、良い読書、良い出会い。地球に優しく過ごしたいものです。

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梨腹

梨。瑞々しい。スルスル剥けるのもいい。幸水、豊水、二十世紀、この梨はいただいたのだけどどこのかしら。とてもおいしい。二十世紀は千葉県松戸市発祥。今は鳥取といえば二十世紀という感じだけど松戸市の博物館には原木の一部が保存されているそう。千葉は梨農家さんが本当に多い。毎年、夏のキャンプに行っていた頃にたくさん見かけた。あの大きい梨、新高も食べてみたい。食べたことある気もするけどあの大きいのを自分で買ってみたいな。もうすぐ収穫時期。重たそう。

梨腹モ牡丹餅腹モ彼岸カナ 正岡子規

子規は牡丹餅好きね。35歳で死んでしまうけど最後まで甘いものを食べていたそう。食べ物に対して諦めがないってとってもいい。

餅の名や秋の彼岸は萩にこそ   
お萩くばる彼岸の使行き逢ひぬ

これ、あとの方の一句は陸羯南がおはぎを持ってきたときにそういうの馬鹿馬鹿しいといいつつ読んだらしい。私が子どもの頃、おはぎのお裾分けってまだ風習として残っていたと思う。当時はおはぎ大好きだった。あんこ、きなこ、ごま。並ぶととてもかわいい。おはぎを持ってきてくれたのは私が好きだった人とは違う人だったと知ったのは大人になってから。というか、子供の頃は直接受け取ってるからわかっていたはず。大人になるにつれて好きな人は好きなものもくれる人になっていたのかもしれない。足の悪い人だったがそれがどんな病気や障害だったかも知らない。子供の頃は知っていたのかな。色々思い出しているつもりなのだけどこれも誰かの記憶と混ざってるのかもしれない。

梨腹、牡丹餅腹、なんかおかしい。私も今梨腹。幸せなことだ。

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あまり長く止まらず。

ゲリラ豪雨、窓の外の音や外からくる人で知ってはいた。あと少し水が出なくなった。それが少しの期間だったどうかは使っていなかったのでわからない。異常気象も異常にしたのは誰かという話だろうか。台風の多い沖縄や雪国の暮らしも大変だがそこには生活者の歴史と知恵がある。私はこの都会のビルで自分で一人一人と契約して収入を得ているのでコロナの時もそうだったが何か起きるたびにずっと続けていきたいこの仕事で生活していく方法について考えこむ。が、考え込んでいるだけでは何も変わらないのでそこから回復することが大事。ということで今日も起きた。そう意識して起きたわけでもないが。

今日はまだ鳥の声を聞いていない。冷たい麦茶は飲んでいる。体調がパッとしないがパッとしてるときがあるのかといえばそうでもない。小さな予防を繰り返す。

いつ何が起きるかわからないということを何度も実感してきたはずなのになにかが起きるたびに考え込む。当たり前か。そこで止まりたくなってしまうからやっかいなのだろう。訓練分析家になるまでも長いしなれたとしても75歳までしか教育者としてのケースはもてない。せめてそこまでなんとか健康で生きていたいがとりあえずそういう前提で何かあったらその都度考えながら、でもあまり長く止まらない、ということをしていけたらいいかな。仕事以外の時間が短いからそこをもう少し工夫してやりたいことやりたいし。なんとかやっていきまっしょい。

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柴崎友香の本とか精神分析とか。

今日は曇りかな。短時間でも洗濯物を外に出そうと思って窓を開けたのだけどそのときに自分が感じたことを忘れてしまった。風が入ってくるようになったなあとは感じた。

『あらゆることは今起こる』も話題の柴崎友香だが『待ち遠しい』という作品もとてもいい。年代の異なる女たちのそれぞれの日常の交錯、リアルな生活描写が本当に素晴らしい。会話も何もかもどうしてここまで細やかに描けるのかと驚きながら映像をみる以上に自分がその街で生活しているような気持ちになる。となると当然気持ちも結構揺れる。リアルに体験するということはそういうことだから。

精神分析は分析家のところに通うのが生活の一部になるのでこれまでの生活の中で感じていたことがそこで自然に現れてくるのだがそれをリアルに体験するとなるとそこにはものすごい抵抗が生じる。ずっと聞き流したりやり過ごしてきたものを誰だってみたくも聞きたくもない。どうにかしたいと強く願っているはずなのに今の自分の在り方を変えようとしないどうしようもなく強力な力が働く。カウチに横たわり自由連想という不自由の中で自分の中に蠢く様々な情緒を体験すること、ましてやそれを言葉にすることは本当に難しいことだ、ということを積み重ねれば積み重ねるほど患者は実感する。そして分析家を容赦なく巻き込む情緒の強度はよく使われる「こころを使う」治療者なんかではいさせてくれない。むしろ自分のこころなんてものがある気がしなくなってくる。患者の方もそうだろう。境界を失うことの恐れは誰にでも生じる。経験から振り返ればそれまでの異なる境界が生成されるプロセスなわけだが何かが変わることへの抵抗がこれほどまでに強いから戦争もなくならないのだろう、と実感するほどに人間というやつは、というやつである。私は私で十分にそれを体験したがまた繰り返すだろう。また、精神分析実践を続けなかったら私は精神分析家ではいられないだろう。資格は組織に属するための切符ではあるが精神分析家であるには実践を伴う必要がある、ということを実践から学ぶ日々。自分をどれだけ未知の可能性として恐れながらも楽しめるか、自分に合う合わないという判断をせずに見知らぬ誰かと協力していけるか。人は自分で決めることを強く求めるのに、いざ決めるのは自分であるということを突きつけられると困ってしまう。そういう矛盾だらけの自分に素直に困れるか。時間を無駄にしているとかいってなかったことにしまわないでぼんやりそこにいつづけられるか。精神分析は単に他人と比べるのではなく他人と比べてしまう自分に対して苦しんだり、自分の中にある小さな情熱に耳を傾けられるようになりたい人にはとても役に立つと思う。

柴崎友香が描く人物は自分の声にも相手の声にも細やかである。それは作者がそれを十分に拾っているからだが、そういう細やかさが人はそれぞれであるということを本当に肯定していくことにつながるのだと思う。

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姑娘、「まとも」

まだ少し雨が降っている。ずっと降ったり止んだりだったのだろうか。私がオフィスを出る頃は強い雨は少しぱらつく程度で誰も傘をさしていなかった。鳥たちが鳴き始めた。

近所の本屋さんで戦争の本が並べられていた。水木しげる、半藤一利の本が目立っていた。旅先で「姑娘」という言葉を知った。それについて何か話したあとその名前の中華料理屋も見た。移動した先のギャラリーにも姑娘という作品があった。なんだか妙に心に残る単語だった。水木しげるの漫画の背表紙を眺めていたら「姑娘」があった。手に取ると裸の若い女性とその背後に日本兵たち。水木しげるならではの間の抜けた切迫感。読んだ。意外な話だった。運命とはなにか、理不尽とはなにか、戦争を起こすとしたらやはり人間なんだな、と思った。これ、昔読んだことがある気がする、と実家の桐の箱を思い浮かべた。そこには水木しげるの漫画がたくさん入っていて、それに気づいてからは長時間そのそばで読み耽った。ただそれはこの漫画が刊行される以前のことだから「姑娘」という単語は別の漫画で見たのかもしれない。この表題作と一緒に入っている作品は戦艦の描写も見事な戦争もの。どうして戦艦にこんな名前をつけるのか。美しい土地や季語みたいではないか。いや、戦艦はそれ自体で見れば美しいのだ。広島で学会があったとき、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)にも行った。ちょうど映画のロケが行われていたときだった気がする。圧巻だった。しかしいくら戦艦が美しく立派で、いくら優しい人間が乗っていたとしてもそれが戦争である限りそこで何を言ってもきれいごとだ。もちろんそこから美しいなにかを見出すこともありうるだろう、ただ生き延びるために。戦争で人生が狂わされた人もいれば、人は誰でもどこか狂っているから戦争が起きるともいえる。でもどこか狂っているなんて当たり前のことが誰かを死に追いやることを当たり前にしていいはずはない。自分の狂気も優しさや間抜けさと同居している。どの瞬間に「まとも」になれるかが境界を越えるかどうかを決めるのだろうけどそれは自分のどんな意志を持っても一人ではどうにもならないものでもある。誰もが当事者である、というよりは、少なくともそれは他人事ではないということだと思う。たらればの話をする以前に前提を確かめる。何を基準に「まとも」というのか、とか。難しいし眠い。なんとかやっていこう。

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土地、街、生活

まだまだ残暑か。夜はだいぶ涼しくなったが朝がまだ爽やかじゃない。

群馬県渋川市の明治32年創業の老舗、錦光堂の渋川銘菓こがねいものことは書いただろうか。山梨県の信玄餅でお馴染みの桔梗屋のことは?毎日お菓子は豊かでその土地の老舗の味は懐かしく。

桔梗屋って工場見学ができるのか!行きたい。コロナでそういう活動をやめてしまった会社のことも聞くがとりあえずよかった。実際に製造の工程をみる体験は本当に貴重。金沢の福光屋さんをまだ知らなかった頃、ここはなんだろう、と友達と覗き込んでいたら蔵内へ誘ってくれた社員さんには今もとても感謝している。白衣に着替えて帽子をかぶって見学&段階ごとのお酒を試飲。まだお酒の味もよくわかっていなかった頃だ。有名な酒蔵だと知ったのは随分経ってから。加賀鳶はその後もっともよくのむ日本酒のひとつになった。今は予約制の見学コースもあるらしい。旅に出ればその製造工程と出会える場所へ出向く。このお味はどこから?というのを知ると好み以前の味わいを楽しめる。歴史を味わうのだ。

この夏は能登の被災地の手前まで出向いたがそこでも倒壊した家屋をみた。報道されないことが問題になっていた地域だが震災に対してはいいかげんこちら側の想像力が必要だし可能だろう。震災から半年以上経ってもこの状態か、と悲しく、自転車で走りながらところどころで感じる道路のでこぼこも地震の影響だろうか、と沈んだ気持ちになった。博物館によったら文化財レスキューの張り紙がしてあり、被災した家屋などから集められた陶器や古くて大きなボンボン時計とかが並べられていた。文化財レスキューはいくつかの場所で行われているが相談場所としても知られてほしいし数も増えてほしい。少し前の記事だが載せておく。

能登半島地震・文化財レスキューの記録】(特集展示)

輪島の文化も今後どうなっていくだろう。輪島朝市はようやくがれきが取り除かれてきたときく。公費解体の手続き自体が困難という方もおられるだろうか。気持ち的に困難という場合もあるかもしれない。みればわかるだろう、という被害に対して罹災証明書を準備しなくてはならないとか気持ち的に大変そうだ。チェックリストを見ると「すべての権利関係者(共有者、相続権者、抵当権者など)の同意を得ており」という確認事項もある。土地のことだから当然必要なことだが、突然人が亡くなったときなどにも感じる思考停止のままただ急かされる状況はその土地の未来にどう影響してくるだろうか。その土地で生活をすること自体が文化を生んできた。その土地に根付いてくれる人がいたから私たちもその恵みを目や耳や舌などで味わうことをさせてもらえる。私もできることを常に考えなおしていかないといけないと思った。

早朝に作り置きをする習慣がついたがやはり作る人と関係の近い新鮮な食材だったらそれだけでおいしいのに、とスーパーの棚の前を寂しい気持ちで歩き回ったりすることがある。以前はうちの街にも先生になってくれるお魚屋さんも八百屋さんもあった。親子でやっていた店はお母さんがちょっと怖かったが聞けば色々教えてくれた。息子さんだけのときはいつもおまけしてくれた。土用の丑の日の活気は通り過ぎるだけで嬉しい気持ちにさせてくれた。その店が閉じてからずいぶん経つ。息子さんといっても私より年上と知っているが、その後も彼をみかけることはあった。先日もみかけた。なんと赤ちゃんをだっこしている。私の前を歩いていた人は「あら!」と嬉しそうな顔をしてたまたま持っていたなにかをあげていた。「本当にいいんですか?」「いいのよ!うらやましい!」など地元の付き合いが長いらしい。うらやましい、という言葉にいくつかの可能性を思ったが子供が愛される街であってほしいなとは思った。

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精神分析

健やかさ、夢時間

キッチンの窓を開けた。久しぶりに風を感じた。南向きの大きな窓も開けた。風は感じなかったが虫の声が蝉よりずっと下の方から響いてきた。

書評を書くためにラカン派のフランス人精神分析家の本を読んでいる。読み進めることはできるが著者の意図がよくわからない。いや、わからなくもない。彼女がラカン派らしくIPAの精神分析家がダメにしてきた精神分析で維持すべき問題をラカンと、ラカンが回帰せよといったフロイトに回帰しながら考え抜こうとする姿勢は人文知、特に哲学と共にその国に根づくフランス精神分析の健やかな育ちの結果なのだと思う。無論、とんでもなくドロドロした個人的かつ政治的な話と共にである。

それにしても「健やか」という言葉の健やかさを何といったらいいのか。それは漫画の『キャプテン翼』のイメージで精神分析で体験する苦しみとは全くかけ離れているように思える。しかし、精神分析を十分に体験しようとする情熱は結構健康志向だと思う。身体化によって身体と心が影響しあっていることを知ることも毎日のように分析の場で対話する生活をマネージすることも結構健康志向だと思う。自分のことは自分で、しかし他人を頼ることもきちんとするということをしなくてはいけなくなるから。そういうのは生活の基本だけどなかなかできないものなのだ。

私は分析家のところへ通う生活が終わり、話し相手、というより「話す相手」がいなくなったことに大きなインパクト受けた、この前。どんなときだったか忘れてしまったが急にそれを感じた瞬間があったのだ。正確にはそのいなくなった場で話すことを続けているわけだが(それを可能にするための訓練生活だったし。)物理的にそれがなくなったことを現実的に認識したという感じだろうか。なくなったことというよりその時間がどれだけ濃かったかということを実感した。なんかすごいことやってたな、と思う。精神分析体験を夢みたいだったといっていた人がいて私もそんな風に思うのかなとあまりしっくりきていなかったがまさに夢みたいだった。精神分析的な意味での。なんだかなるほどねー、だった。現実の生活という言葉を使いたくなるほどに。あれも現実だったのに時間が複数に流れるようになったんだな、と思った。

以前買った短歌がたくさん載っている冊子を見ていたらどれもとてもよくてこういう感性は私には持ち得ないものなんだけど私も生きているこの世界はこういう表現もできるんだなあとしみじみした。穂村弘、平岡直子ファンだが、若手にもすごい人がたくさん。人生は長さではないのだね。しかし経験を積むには長さが必要だね。みんなが自分のことを一生懸命やることが大事。それは人のことを考えることと直結している。そうでないならそれは本当に自分のことを考えてるってことなのか?と問うてもいいかも。他人になにかいうことはとっても簡単でいくらでも自分を「そうではない」場所に置くことができるけどそんなふうにすることで何をしているのか、ってことだし、自分のことをやるって何?って感じでとても難しいことだとは思うけどまずは自分をなんとかなんとか。とりあえず今日も無事に過ごしましょう。

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精神分析

フェミニストとか「我が身を以て」とか。

窓を開けた。昨晩は傘をさしても少し濡れてなおさら冷たく感じた風が全くない。これから強い日差しがやってくるぞ、という感じのオレンジがベランダの壁面に広がりつつある。

今朝は最初にあるフェミニストの文章を読んだ。フェミニストというときに少し突き放した感じでこの言葉を使っている自分に気づく。フェミニズムという言葉は学術的にも使えるがフェミニストはその人がそういえばそうなのだろう、というような距離の取り方をしてしまう。なぜだろう、というよりなぜなら、たとえ言動がどうであっても、という括弧付きの言葉が浮かんできてしまうから。この言葉を思い浮かべる時点で罪悪感を感じてしまうのもフェミニストという言葉が持つ複雑さと強力さを示していると思う。この場合も(私にとっては)という言葉を慌ててつけたくなるわけだが。繊細で、大きな傷つきの積み重ねを包み込み大きな力にしていくための言葉は絶対に必要だが、弱者が戦わねばならないときにそこにどうしても生じてしまう相手を黙らせようとする雰囲気というのはそれこそがそれまでの、あるいは今も自分を苦しめてきた、苦しめているものではなかったか、というためらいをうむ。もちろんそれは本来感じる必要などないものだが感じてしまうのも無理がないものだ。自分にも色々な部分があるのは当たり前のことで相手によって自分が変わってしまうのも当たり前のことだから。フェミニストという言葉は誰かを括るための言葉ではなくそう表明することで生じる連帯を期待するものなのだろう。

ロシア語通訳者でエッセイストの米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』を読んだことがあるだろうか。私は米原万里の本に打ちのめされてきたが、この本も強い。打ちのめされるほどのインパクトがないと人はものを考えないので、それは力をもらうというのと同義だと思っているが米原万里の場合は特にそう感じる。この本の「私の読書日記」の中に「癌治療本を我が身を以て検証」というタイトルのものがその三まである。私は身近で信用できない癌治療本を手にしている人がいると猛反対をしたりはしないが読む分にはいいけどお金もかかることだからオーソドックスな治療をしたほうがいいよ、とはいう。精神分析なんてエヴィデンスのないことをやっている人がなにをいう、と言われたことはない。精神分析は医療ではないし、そもそもマイナーすぎてみんな知らない。だから体験したこともない人たちが自分の欲望のために気楽に理論を使用してくることもあるわけだが、それこそ精神分析的ではないのでその熱量にかえって冷めるということはよくある。米原万里は常に真剣そのものでものすごい勉強家で交流も幅広いので、というかこれらは全て連動するものだけど、その結果、冷めているのに熱い。「癌治療本を我が身を以て検証」も結論ありきではなく、実際の体験ありき。私が知っている胡散臭さをこのような形で書けるのがすごい。何も押し付けてこない。そんな本読むのやめなよ、とかまともな治療したほうがいいよ、とかいうより「あ、それ、実際に体験した人が書いていたよ」とこれを読んでもらったほうがいいのかもしれない。現実はたいてい結論ありきなわけだから別の方法など受け入れる状態にないかもしれないが。

蝉が再び賑やか。秋の虫は少し前から鳴き始めている。今日は猛暑らしい。気をつけて過ごそう。

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Netflix 精神分析

習慣とか「無意識」論文とか。

早朝作り置き習慣確立したっぽい。自分がしていることなのにそれが習慣化するかどうかは自分次第、とは思っていない。私は無意識を信じているけど意識的に何かができるとはあまり思っていないのだろう。

世の中が長期休みに入るとフロイト読書会番外編を行っている。この夏は十川幸司訳の『メタサイコロジー論』の第3論文「無意識」。難解だがその前の二つの論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」を踏まえてさらにメタをいこうとする重要な論文。

私がアドバイザーとして参加している読書会は読んできたものを話し合う形式で、その読書会の番外編なのだが、そこでは私が仕切らせてもらって、私のオフィスで主催している精読方法でフロイトを読むことをしてみている。今回は2日連続2時間ずつ。精神分析はフロイトは週6日60分くらいずつが定番、今は週4日50分くらいずつがIPA基準なのだが、なんにしても集中して何かをやるということはいいことだと経験から思う。

『宇宙兄弟』で、注意を多方面に分散させて別の情報で頭をいっぱいにして考えることを回避するシーンがあった。「わかる!」と一瞬思ったが、あんなふうに情報を正確に拾う集中力は私にはなかった、そういえば。何かを回避するために、というか回避自体に集中するというのはよくあることだが、それは集中して何かをするのとは異なるだろう。そうしたくても大抵は「注意力散漫」という言葉で示されるような状態になるだろうし。今回のフロイト読書会番外編は形式的には集中型だが、内容の難解さに注意が散漫になっていく様子が見られた。そりゃそうだよ、ということも伝えた。医学書や哲学書を「わかる!」と思わないだろう、と。錚々たる知性がいまだに格闘しているテクストなのだから私たちはもっと地道に取り組んでいく必要があるのは当たり前といえば当たり前。私たちは臨床家だからつい同じ語彙の世界を生きている人としてフロイトを読んでしまうかもしれないが、精神分析実践を伴っていても、高度に専門的で抽象的な内容はそう簡単に「理解」できるものではない。だからこそ形式を集中型にしておく必要があるのだと思う。

今朝はパプリカを使って作り置きしたのだけどひとつでもかなり量があるしきれいだから満足。いつも大体Instagramで美味しそうなレシピを見つけて真似したりしている。今朝もチェックしてみたら三浦哲哉さんがトマティーヨなるもので何やらすごく美味しそうなサルサを作っていた。ウィキペディアによるとトマティーヨというのは「ナス科の植物、およびその小さな球状の緑または紫がかった果実。学名はPhysalis philadelphica、和名はオオブドウホオズキ。 」だそう。メキシコ料理には欠かせないんだって。美味しそう。いいないいな。今日はたくさんテクストを読む日になる。おいしいものを支えにがんばろう。どうぞ良い一日を。

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精神分析

伝統とか揺らぎとか。

農林水産省の「にっぽん伝統食図鑑」というWebサイトに出会った。ユネスコ無形文化遺産に登録されている和食だがそれらの情報を集約する仕組みは作られてこなかったそうだ。このサイトは、伝統食の保護・継承、伝統食の認知拡大、伝統食の輸出拡大の推進の3つを目的として伝統食のデータベースとして作られたようである。「伝統食」の基準は、加工食品であること、入手ができること、地域性があること、歴史性があること、伝統的な製法または保存技術を用いていること、が必須とのこと。その基準でいったら日本全国どこにでもありそうなものだがそうでもないらしく、掲載されている県は少ない。石川県はさすがに多いが、大きな地震の影響は伝統食にも現れるだろう。たとえば奥能登の国指定文化財名勝、石川県輪島市白米町にある棚田、白米千枚田。このWebサイトのエリア検索で「石川県」を選択すると紹介文の最初の方に出てくる。ここも大きな被害を受けた。神戸新聞が記事にしていた。

能登輪島白米千枚田のWebサイトでその美しい姿を見ることはできるがもとは1004枚の田んぼがあったそうだ。地震のあと、その維持管理を担う「白米千枚田愛耕会」の努力によって今春には、その約1割、120枚で作付けが行われた。これを愛耕会の方は「奇跡の120枚、感謝の120枚」と話す。

「伝統」というからには守られるべきものという意味を含むと思うが加工される以前に基盤があること、その基盤には人と土地の歴史があること、今回、神戸新聞がここを取り上げていることにじんとくるものがあった。稲刈りは今月末だという。先日、青々と稲穂が広がる景色を目にした。とてもきれいで田んぼごとに色が少しずつ違うように見えたのが不思議だった。どの地域もそうだが、被害を受けた土地に速やかで長い支援が届きますように。せめて侵入的ではない眼差しが向けられますように。

食事や料理のことで少し考え込むようなことがあると三浦哲哉『自炊者になるための26週』を読んだりする。この本は1週に1章読み進めるペースで書かれていて2週目が「においを食べる」で「米を炊く」から始まる。混じり合う味覚と嗅覚の記憶はたしかだ。米作りに従事されている方が何百というサンプルの中から地元の米を当てることができるという話には驚きつつ納得した。知っているだけに失われたものの大きさに打ちのめされたりする場合もあるだろうか。知っているからこそそれを頼りに先を見据えることもできるだろうか。それぞれが個別的でどちらともいえない体験の積み重ねを生きているに違いないが、大きな出来事があるとそこで揺らぐこと自体、不安を生じさせるかもしれない。どうか穏やかな時間ももつことができますように。良い1日でありますように。

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精神分析

良い。愉快い。

やっぱり寝不足だと夢がすぐに消えてしまう。良い時間を持てば持つほどそういう時間のために何ができるだろうと考える。そもそも自分にとって良い時間とは何かということから明確にしておいたほうがいいのかもしれない。

先日、泉鏡花の作品をモチーフにした漆の作品や絵本を見た。泉鏡花の母親のお墓がある金沢の卯辰山には言ったことがあるが作品は少ししか読んだことがない。にもかかわらず泉鏡花ときくと先日見たような作品が思い浮かぶのだから不思議だ。お坊さんでもありイラストレーターでもある中川学による絵本も素晴らしかった。ということで久しぶりに読んでみた。今回は短編『化鳥』。最初の数行で「愉快い」が何度も出てくるのが愉快い。泉鏡花は金沢に生まれた。父親は加賀象嵌の彫金師だった。加賀手作り産業に泉鏡花の作品がしっくりくるのは父親の何かを受け継いでいるせいかもしれない。鏡花は幼い頃に母親を亡くし、摩耶夫人を信仰しつづけた、という話は「化鳥」の登場人物の母子と重ね合わせたりする。しかしまあそういう単純な繋げ方はともかく、現実と幻想、人間と動物の間で揺らぐ自分を描き出すのがうますぎる。「化鳥」には感情を表す言葉がたくさん出てくるがその出し方も愉快い。この作品は「青空文庫」でも読めるが装丁にも注目したい。初版本の装丁は国立国会図書館のアーカイブで観られると思う。

うとうとしていたら手が止まっていた。今日も良きものにたくさん出会えますように。今は良くなくてもいずれ良くなることもあるということも忘れませんように。

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精神分析

水色の空。ここ数日、美しく麗しいものをたくさんみている。そしてよく寝ている。トレーナーさんがお休みのときのメニューももらっているけどこちらはサボってる。でもお菓子も食べすぎてないしお散歩もたくさんしているのでよしとしよう。あ、そういえば久しぶりに美味しい餃子を食べた。30分待ちって書いてあったけどすぐ入れた。常時そう表示してあるのかもね。いつもは行列ができるお店らしいので。

子どもの図書館の司書さんと色々お話した。松井直先生のこととか懐かしかった。絵本もたくさん読んだ。杉並区の保育園巡回をやめたので絵本に触れる機会が減っていた。久しぶりに声に出して読んでやっぱり言葉は面白いなあと思った。あの子たちが次から次へ持ってくるわけだ。小さい子は膝に座るまでがセット。読んでもらえることになっているのがいつも面白かった。膝が足りないと保育士さんが引き取ってくれた。みんながんばってるんだろうな。本当に大変な仕事。子どもたちもこの暑さだとお散歩行けないし狭い室内で過ごすのも辛いよね、お互い。保育環境の基準って全然現場のニーズとあっていないものね。

あ、手が止まってしまった。おなかがすいてるから。美しく麗しいものたちができるまでの作業にもびっくりした。何度も聞いているはずなのに個人的なこととしてきくと具体的に想像できるからすごすぎてびっくりする。あ、また手が動いていた。自分を放っておきながら書いてるからね。こんな感じ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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記憶とか。

寝ても寝ても眠い。少し汗ばみながら何度か起きた。空がきれい。光の程度で少しずつ色が変わる。この前NASAのボイジャー計画のあれこれを見たり聞いたりした。木星の吹き荒れる嵐や活火山には驚いた。周りの小さな子たちが宇宙のあれこれに詳しいのにも驚いた。私はなんども同じ話を聞いては驚いている気がするが取り入れの仕方は年を経て変わってきているだろうから間違った知識を広めたりしない限りは何度も何度も楽しめていいのだろう。

二度目三度目に歩く土地では以前の記憶との照合が勝手に始まる。が、本当に曖昧。実際かなり町並みも変わっているのだろう。あのときのあれはここだったかもと思う地点が次から次に生まれる。はじめての土地で感じる懐かしさもこの曖昧な記憶のおかげか、あるいは受け継がれてきた無意識的記憶か。

昨年のプチ同窓会を機に幹事として同期にお便りをだした。思いがけずたくさんの方からお返事をいただきLINEグループで繋がった。同期が大学で長く働いてくれているおかげで先生方とのつながりも保ってもらえている。秋になったらまた集まる計画もした。20年以上経って変わってないはずはないのに会えばそう言い合うほどに変わっていないのもまたほんと。今度も楽しみ。

昨晩から今朝にかけてもいくつかの夢をみた。精神分析で生じた驚きを検証するかのような夢だった。精神分析は記憶の仕組みをかなり変えた気がする。表面的なアウトプットにはとくに変化もないが夢思考はもはやお勉強の世界ではない。

今日も汗をかきながら晴雨兼用の傘をさしてお散歩しよう。見えるものも見えないものも大事にできますように。どうぞ良い一日を。

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精神分析

朝はぼんやり

窓に蜘蛛がくっついている。鳥たちが同じ場所で会話するように鳴いている。朝は情報量が一定でいい。冷たい麦茶を飲んで喉を潤す。ぼんやりと夢を反芻する。昨日したおしゃべりも昨日した日焼けも残ってはいるけれど今目の前はとても静か。朝を迎えたくないからと眠らずにいた人にもとりあえず朝はくる。そのあとに活動が控えていると今日も一日始まってしまったと朝の静けさなど感じる間もなくいつもの動けなさに覆われるかもしれない。今目の前の情報の少なさをまだ起きていないことで埋めてしまわないようにするのは難しいことかもしれない。何も知らなくてもやっていけることはたくさんあって、でもひとりでできることには限界があって、場所によっては悪意に晒されたりする。難しい。じっと朝のいつもに浸りながら考えることはぼんやりぼんやり。今日は何にもしたくない。というか朝早く起きすぎた。今日は今日としてはじめよう。春はあけぼの、夏は夜。朝はぼんやり。いずれ夜。どうぞ良い一日を。

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蝉、秒単位、夢

眠い。夜はアブラゼミしか鳴かなくなった。朝はミンミンゼミも聞こえる。蝉に「鳴く」という動詞をくっつけることにいつも抵抗がある。メカっぽいからな。蝉も幼虫も鳴くのか?聞こえないくらいの感じできゅうきゅういったりするのか?

この前、表参道を歩いていたら「原宿まであと何秒?」という子どもの声が聞こえた。結構難しい質問だなと思ったら「600秒くらいかな」とあっさりお父さんが答えていた。言われてみればそんなに難しい質問ではなかった。すると今度は「10秒が何回?」とまた意表をつかれる質問がきた。答えるのは簡単だがたしかに子供の時間感覚は秒単位かもしれない。

電車のドアがなかなかあかずあれっとなっているついでに、ついででもないか、電車の時刻がらみで、電車の時間は出発時間だからドアはそれより早くしまるという話をきいた。当たり前じゃんと思うかもしれないが、少し前にわざわざそう書いてある張り紙も見た。駆け込めず目の前でドアが閉まってしまい大事な用事に遅れてしまった人からクレームがきたのだろうか。秒単位はたしかに世知辛いが東京の電車はそれが人に対する人の仕事ですよという部分も失われつつあるのでなおさらかもしれない。

今朝の夢は和やかであたたかかっただけに不安を覚えるような夢だった。喪失の不安というのは静かにいつもまとわりついている。今日もどうかご無事で。良い一日でありますように。

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久女とか。

早朝から何度も寝たり起きたりした。うとうとしている夢をうとうとしながら見たりした。週末はさすがに疲れているらしい。鳥たちはもうどこかへ行ってしまった。遠くで、たまに近くで、集団ではない声がする。光の色が変わった、キッチンに立ってふと気づく。太陽の傾きが明らかに変わった、気がする。夜は涼しかった、と書いたのは一昨日か。その翌日、「秋の気配」という言葉がトレンドに上がっているのをみてやっぱり、と嬉しくなった。そういう言葉がSNSのトレンドに上がること自体もなんだかよかった。今月の句会のお題を出すときにすでに秋を意識していた、というか「八月」というのは初秋の季語なのだ。暑さだけでいえば真夏だがこの色、この空気は確かに季節が進んだと感じさせる。

八月の雨に蕎麦咲く高地かな 杉田久女

ー「杉田久女句集」

女の俳句といえば杉田久女は欠かせない。明治二三年(1890年)、鹿児島に生まれ、数回の転居を経て、東京女子高等師範学校に入学、卒業。明治四二年、東京美術学校西洋科出身の杉田宇内と結婚。次女が生まれた20代半ば、次兄で俳人の赤堀月蟾(渡邊水巴門下)より手ほどきを受け、俳句を始め、翌年には高浜虚子主宰『ホトトギス』に投句を始めている。

谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女

久女のこの代表句は40歳の頃。女性の句を求めた虚子らによって見出され、俳句の世界における女性の地位向上に努めた結果、虚子と離れることになり、というふうに私は理解しているが今ここで詳細に書く時間がない。うとうとしすぎた。

花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵 杉田久女

虚子が「これは女性にしか書けない」というようなことを言ったこの句。虚子め、と思うには色々理由があるが、そういう時代で久女は多くの誤解を受けながら生きて、死んだ。

昨日、ラカンの『アンコール』で「愛」を語るラカンに触れているときには全く感じなかった実感のこもった何かを与えてくれる久女のことも大事にしたい。精神分析の世界は数では女性がものすごく多くなったが男性発の理論と対峙したり、その組織の中にいたりすると「ああ、こうやって同一化していくんだなあ」と思うことがよくある。自分として立つには女はまだまだ弱いのだ。がんばろう。どうぞ良い一日を。

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「うまやど」とか旅の思い出とか。

 長野県茅野市のお菓子を色々もらった。茅野駅に「モン蓼科」というお店が信州のおみやげが揃う素敵な場所だったとのこと。「アニバーサリーチロル」のお菓子とか信州金沢フルーツワイン「うまやど」などもらいました。どうしてフルーツワインというのかしら。ワインって葡萄だからあえて「フルーツ」というのってなぜ?調べよう。おお、なるほど。りんごや洋梨を使ったワインもあるのか。でもこれは葡萄だよ。まあいいか。ワインが葡萄というフルーツからなっていることを忘れている場合もあるかもしれないしね。りんごはシードルっていわない?わからないけど醸造方法が違うとか同じとか色々あるのかな。私はワイナリーも結構行っていると思うのだけどおいしいおいしいだけでいろんな知識が全然入っていないのね。今度はきちんとメモして勉強しよう。こうやってなんでなんでって思う時もあるものね。

 長野県茅野市にも金沢というところがあるのね。私の愛する石川県金沢市と同じというだけで親近感、と言わずとも群馬出身の私は長野は身近なので普通に親近感。吾妻とか白根とか軽井沢とか尾瀬とか嬬恋とかどっちがどっちだか。でも茅野市のことは全然知らない。山登りの人にはお馴染みの場所らしい。ああ、でも蓼科の方か。なら子どもの頃にスキーで行っているか。

 さて、フルーツワイン「うまやど」は終戦直後から様々な困難を超えてワイン醸造を続けてきた小林家のみなさんのワイン。小林家の屋号が「馬宿」なのだそうです。宿場町を歩くと「馬宿」というお仕事を身近に感じることができるかも。今は馬を預けることはなくとも街道歩きのために荷物を運んでいただくことはあるのでその手荷物運送サービスは馬宿の名残なのではないかしらと思ってるのだけど違うのかな。

 2023年のGWは中山道を歩く旅をした。岐阜県の妻籠宿、馬籠宿、中津川宿と。妻籠から馬籠まで歩いたので手荷物運送サービスを利用させていただきました。妻籠から馬籠までそれぞれの宿場町を堪能しつつ歩いて中津川へはバスで移動。バスに乗る前に観光案内所へ荷物を受け取りに行った。思ったより時間がおしてて大急ぎで坂を登った。なのに窓口が外国の人でいっぱい。荷物を取るだけだから割り込ませてもらおうと思ったら通訳を頼まれた。この日は中津川に泊まれる場所はもうない、ということがなかなか伝わらなくて困っていたようだ。お手伝いしたら和紙で折った鶴をくれた。彼らも結局同じバスに乗ったけどどこかに泊まれたかしら。

私たちはかなりテンションの下がるホテルに泊まった。一目で「やられた」とわかった。ウェブサイトに載っている写真と全く違った。ビクビクしながら階段を降りてくるお客さんを見たりして「そうなるよね」と思った。ほとんど管理されていないし、夜はホテルの人もいなくなってただの雑居ビルとなる。これまでも安いホテルに泊まってきていろんな面白い体験をしたけどここはGW価格で全く安くなかった。でも中津川は和菓子天国でホテルは寝るだけだったからまあいいかとはなったけどやっぱよくない、という感じだった。あとから口コミをみたらやはりひどかった。口コミの信頼性の問題はあれどみておくべきだった。和菓子と街並みでプラマイゼロよりプラスになる街だったけどね、栗きんとんで有名な中津川。月もきれいな夜だった。

集英社の月刊誌『青春と読書』で「地面師たち」の原作者インタビューを読んだ。続編「地面師たち ファイナル・ベッツ」が出たらしい。出たのか?出るのか?とにかく完成したらしい。今度の舞台は釧路とのことで釧路のあれこれを思い出していた。釧路フィッシャーマンンズワーフの「さんまんま」がめちゃくちゃ美味しくて東京で北海道展をやると探しに行ったりした。釧路ラーメンも食べたな。そこだけ並んだ。街並みをほとんど覚えていないのはなぜ。作者がいうように人はいない、テナントも入っていないという街だっただろうか。根室の寂れ具合を愛している私には釧路は根室よりは栄えているイメージがあったのだけど。釧路湿原の印象も強いからそこがどういう場所かって一言で言える規模ではないのかも、北海道は。

土地の話は面白い。私は毎日狭い区域を移動するだけだけど地形とか感じ出すとそれはそれで興味深い歴史もいっぱいあったり面白い。散歩大好き。暑いから気をつけないとだけど。昨晩は少し涼しかった。今日はどうかしら。どうぞ良い1日を。

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車山、芥川賞作家たち

麦茶。冷たい。週末に増えた長野のお菓子たちは賞味期限に余裕があるので今朝は食べない。車山高原のお土産。懐かしい場所だ。まだ楽器をやっていた子供の頃、合宿で数回行った。プロになるような子たちが全国から集まるその合宿に私は普段の習い事の延長みたいな感じでついていった。途中から練習には参加せず大人に遊んでもらった。最初からそうするものだと思っていた。だってレベルが違いすぎた。ほかの子どもたちを指導する私の先生は別人のように厳しかったし、いつも合宿で再会していた仲良しは練習になると大人みたいでものすごい厳しい練習にものすごい技術で応えていた。あれはなんだったんだろう。

私はその後も車山が好きで大人になってからも泊まりにいったりしているから良い思い出だったのだとは思う。友達ともずっと文通を続けていた。まだ携帯電話の時代ではなかった。それにしてもプライドがなさすぎたのではないか?落ちこぼれという認識はきちんとしていたが差が歴然としすぎていたせいだろうか。友人を心配しつつ夏休みを満喫していた。元々好きなことしかしたくないし、豊かな緑のなかで遊んだり、川で魚をとったり、ログハウスみたいな建物の涼しいベンチで母親に寄りかかっていつもと違うかわいいグラスでジュースを飲みながら漫画を読むのなんて至福だった。母は私を少し気遣っているようだった。寄りかかった肩越しにそんな空気を感じた。ちょっと申し訳ない気持ちになった。才能がなくて。でも、それより、読み放題に大喜びして適当に読み始めた漫画がレディコミであることに気づいたときが一番焦った。自分にはない才能より自分に内在するセクシュアリティと触れるときの方が人は動かされることを知った、というのは後付けだけどあの焦りは新鮮に思い出せる。Oちゃん、元気かな。みんなまだ子供だった。

先日、新潮社の月刊読書情報誌『波』2024年8月号を近くの本屋さんで入手した。市川沙央による朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』の書評を読みながらネットを開いたらちょうど文藝春秋のポッドキャスト『本の話』で「【文學界presents文学への道・号外】第171回芥川賞・朝比奈秋さんの受賞記者会見をノーカット配信!」が流れてきたのできいてみた。

市川沙央と朝比奈秋という作家のことを知らない方にはぜひ検索してその作品を読むことをお勧めしたい。いちかわさおう、あさひなあき、と読む。そのまま読めばそうなのだがなんとなく書いてみたくなる名前だ。1979年生まれと1981年生まれ。第169回、第171回芥川賞受賞者。市川沙央は先天性ミオパチーの当事者でもあり朝比奈秋は消化器内科の医者でもある。

 私はたくさんの本を読むがすぐに忘れてしまう。しかしインパクトの程度は身体感覚で覚えている。市川沙央の芥川賞受賞作『ハンチバッグ』(文藝春秋)を読んだとき、読み終わり立ち上がるついでに別の本や書類をわきによけようとしてそれを何度も落とした。朝比奈秋の今回の受賞作はまだ読んでいない。第36回三島由紀夫賞受賞作『植物少女』(朝日新聞出版)を読んだときはぼんやりしてしばらく動けなかった。

 今回の朝比奈秋受賞作に対する市川沙央の書評「共有してくっつくこと」は微笑ましかった。市川沙央のSNSにはこんなことが書かれていた。ファンの言葉というのは良いものだ。

 朝比奈秋が会見で話していることもすごかった。この難しい世界を自分のこととして書くことができる想像力は誰にでももちうるものではない。それを「ただただ思いつく」のがすごい。「生きている間にしかできないことがある」「一生懸命生きることが命とはなにかということに近づくということ」ということばもシンプルでほんとにそうだなと思った。

 この本のテーマは、とまだまだ書きたいことはあるが準備をして自分の勉強をせねば。夜は疲れてしまっておいしいもののことしか考えられないから難しいことは朝のうちに。今日は雨が降らないといいな。毎日突然降るものとして準備はしているけど。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

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地震、技術、日々

昨晩の地震には驚いた。うとうとしていたらドドドという感じで揺れた。ああ地震か、と気づくまでに少し時間がかかった。以前は揺れてもないのに「揺れた?」と騒いでいたが被災地に出向くなどしてから地震に対する意識が変わったらしく特別なものではなくなってきた。

1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災、2011年3月11日14時46分、東日本大震災のほかにも大きな地震のニュースは多く聞いてきた。

阪神・淡路大震災のとき、私は東京都世田谷区、千歳烏山駅が最寄りのアパートに住んでいた。テレビはなかった。時間的にも新聞は配達された後だった。当時、友達がたくさんいた地域での大きな地震を知ったのは大学でだ。どこか呆然としながら実感のないまま数人の友達と電話ボックスや固定電話から連絡をとった。私が生きてきた間だけでも通信や記録の技術はどんどん進歩しているわけだが、大地震に対して印刷技術が使われたはじめたのは明治以降だと知った。

内閣府防災情報によると、明治24年(1891年)10月28日午前6時37分、岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方を襲った濃尾地震は「明治以降の近代日本が遭遇した初めての巨大地震であり、日本における地震防災の出発点となった災害であった」。そこに「濃尾地震を語るときに忘れてはいけないのは、当時新しく登場した写真や石版画であった」とある。現場の生の様子を伝える技術の使用は当然他の技術や研究にも影響を与えただろう。

たとえば、このとき「尾張紡績などの被害が大々的に報道されたこともあり、煉瓦造りは地震に弱いという考え方が広まった」。それにより耐震対策の研究もされたという。このような研究を推し進めるときにもそれが必要であるという証拠と切迫感が必要であり、印刷技術の登場はそれらに影響を与えたのではないだろか。一方、耐震対策についての研究成果が生かされた事実はいまだ検証されていないそうである。それでも濃尾地震の被害を受けて1894年には「木造耐震家屋要領」が作られ、これまで伝統構法によって建てられていた木造建築の耐震性能に対する客観的な評価が行われるようになるなど、災害のたびに様々な仕事に少なからぬ進歩があったとはいえそうだ。

建築関係でいえば建築に関する最初の法律は大正8年(1919年)4月に交付された「市街地建築物法」である。同時期に「都市計画法」も交付されている。この法律制定の4年後、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が起きた。そういえば昨日のNHK『虎に翼』は震災時の新聞報道をきっかけに起きた朝鮮人虐殺に触れた。マスメディアは様々な進歩が良い方向に生かされることだけを助けてくれるわけではないというのもまた現実だ。

今日も様々な形で様々な情報に触れる。大きな何かが起きてからではなく日々の何かから立ち上げられることも多いはずだ。今回の朝ドラはまさにその実践だろう。すごいことだ。今日もいい天気。暑いのは困った困った。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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トレーニング

起きた。バスケやってた。夢でじゃなくてテレビで。アメリカのパスが高くて早い。日本はスピード使ってファウル誘うしかないか。止まったら難しそう。形も作れないみたい。お、なんかすごいタトゥー入れている選手がいる。宇宙っぽく見えたけどなんだろう。どっちのチームを応援しているとかがないからいまいち燃えないけど久々に見ても色々感じるものだな。中学でバスケ部だったけど、フォーメーションばかり考えていた。ガードだったから。私は背が小さいからひたすら腕力とスピード勝負だったけどメンテナンスのために身体動かすようになってその仕組みを知るともっとトレーニングの仕方があったでしょう、と当時の大人をちょっと恨む。膝を痛めれば庇うために腰にもくる。小さな筋肉が身体全体に影響を与えることももっと知っておきたかった。しょっちゅう怪我してたし。先生も練習メニューは考えてくれていたけどあれだけきつい練習するならプロのコーチをいれるべきでしたよ。スポーツとは関係なく子供の身体は大切に考えないと。身体が基本なんだから。体育の時間だってもっと自分の身体を知るために使えばいいと思う。それぞれ違う身体なんだし、障害や病気を持つ可能性だって誰にでもあるのだからどこがどうなると何が生じるのか、ということをいろんな側面から実際に身体使いながら想像できるといいと思う。ほんの数時間でいろんなスポーツやらせて評価するなんて自分や他人の身体への想像力を減らすだけだと思う。自分の身体なのに使う気なくす可能性だってあるわけでそんなのも変でしょ。私は最近になってようやく肩甲骨を動かすというのはこういうことか、とわかったりしながら身体を整えている。腰にきやすいしみえる部分で体調管理したいなと思って一対一でトレーナーさんに鍛えてもらっている。今までは大きな筋肉で力任せに動きを真似していただけだったんだな。ヨガを始めた頃にもそう実感したはずなのにまだまだ未知の世界だった、自分の身体なのに。最初はどこもかしこも硬くて驚かれた。ヨガで随分改善したと思ったのに足首も肩甲骨も自分で動かせている感覚がないことを知った。これらの練習はものすごく地味なんだけど大きな筋肉を使うトレーニングよりずっと疲れることにびっくり。仕組みがわかるときれいな動きが楽な動きというのが実感できるのは嬉しい。無理をなくすために正しい無理を続けていくのは精神分析と同じ、と思ってがんばっている。精神分析もきついのですよ。楽になるけど。

今日も猛暑日か。部屋は涼しい。体操とスケボーのダイジェストを見た。やっぱりスケボーが面白い。すごいな、ほんと。かっこよい。なにかしらから元気をもらって今日もがんばりましょう。

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ドラマ、グループ

週末に『地面師たち』を一気に見た。面白かった。話もすごかったが俳優陣が素晴らしかった。豊川悦司は私がよくドラマを見ていた頃に主演作が一番多かったかも?「愛していると言ってくれ」とか?主演でなくても色気ある存在感をずーっと維持。今回もすごかった。怖かった。しかしみるのに疲れた。なんか今もぐったりしている。オリンピックのダイジェストを見てしまって何も進まないというのもある。柔道もスケボーも何が起きてるかわからないくらいの技がすごいな。新宿中央公園でもスケボーを練習している人たちがいるがこりゃものすごいことなんだろうなあ。スローで見ないとなにがなんだかでスローで見るとなんでこんなことができてしまうんだ、とあんぐりする。しかし、ここまで辛かった、頑張ってよかった、と言っている選手たちを見ると想像もつかないような気持ちでトレーニングを積んできたのだろうと思う。あー、本当に想像もつかない。何するにしても自分を極めるというのは大変なことだ。オリンピック自体に興味はないけどスポーツは好き。つい見てしまうな。

昨日は初回面接を検討するグループだった。本当に時代が変わったなと思う。病気自体も医療も病気を抱えた人が生活する環境も。患者さんやその家族がどの時代をどんな地域でどんなふうに生きてきたかに想像力を働かせるにはせめて本から学ぶこと。なによりも大切なのは患者のニーズだがそれは本人にも明らかではない。だからこそこちらの専門性が求められるのだということ。自分の知らない世界とどう出会っていくかについて常に考え続けること。SNSのような反射的な世界や表面的な言葉の世界に慣れることなく目の前の人に自分の狭い世界と限られた体験でどう出会っていけるのかを熟考しそういう体験をひたすら積み重ねること。それがどういうものか言葉になるのはずっと先。とにかく学んでほしい。考えてほしい。今がどんな社会かに常に目配りしてほしい。そういうことを思わされたし伝えたし話し合った。

暑い。クーラーをつけると寒い。体調管理が難しいけど今日もがんばりましょう。

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サンファ、強迫、NHK俳句

フジロック、サンファ(Sampha)の配信があったのか。Reading Freudの時間だったからどっちにしてもみられなかったというかどうやってみたらいいかわからないけどみたかったな。素敵なステージだったんだろうな。サンファは空がよく似合う。昨年、『LAHAI』の発売に伴って柳樂光隆さんがサンファに行ったインタビューと音源が素晴らしかった。何度もきいた。今もかけている。今日は生音を聞いたばかりのマリア・シュナイダーDAYになるはずだったけどそれはまたあとでじっくり。サンファの音楽にはずっと浸っていたくなる反復がある。インタビューでもこう話している。

「サンファ:そうだね。僕は反復的なものが好きだし、コンスタントにある要素を基盤に、作り上げていく過程が好きなんだ。コドウォ・エシュンの『More Brilliant Than The Sun』という本で彼は、「音楽によっては、それを遡れば遡れるほど、未来的に聴こえてくるものがある」と述べている。例えば、アフリカ音楽は直線的(linear)な方向に進むのではなく、建築物のように、上に伸びていくんだ。複雑なリズムが土台としてあって、人々はそれを変えていくのではなく、その上に新たな要素を積み上げていく。そういった、反復の上に積み上げて、シンコペーションを生み出していくという考え方が好きなんだ。アフリカの料理みたいなものだよ。すべての材料を一つの鍋に入れて、それだけでちゃんとした料理が出来上がる。」

「それに、(反復という)何か、自分がしがみついていられるものがあると、僕としては安心できるんだ。僕はアルバムの中で「時間」について何度も触れているけれど、そういった一定のリズムは、「常に時が刻々と刻まれている」という状態の音響的な表現なのかもしれないね。でも、さっきも話したけど、これらの多くは、そこまで考え抜かれて作られたものではないんだ。僕が音楽を作ると、こういうものに自然と傾倒していくんだよね。」

ーRollingStone サンファが語る新たな傑作の背景 抽象的なサウンドに込められた「過去と未来のサイクル」by柳樂光隆

柔らかな自然体。コロナ禍に作られたこのアルバムには同時期に娘が生まれたことで伝承も意識されている。

「僕は、娘からたくさんのことを学んでいるし、僕も娘に教えてあげられることはたくさんある。そして、僕は母親からもたくさんのことを教わった。すべてはサイクルであり、そのサイクルは続いていく。だから、そういう口頭伝承と僕の作品には確かに繋がりがあると思う。」

とも話している。ゆったりと優しい音で始まる日曜日もいいですね。

昨日は私主催のフロイト読書会、Reading Freudだった。こちらでも鼠男、ラットマンと呼ばれた強迫神経症患者を素材とした論文を読んでいたのだった。こちらは音読、精読の会なのでこの論文に詰まっている論点を実感できた。議論も大変興味深く、これからフロイトが言うようになる事柄の源はここでもあるのか、と気付かされた。精読しているとそういうジャンプ力というか推論の力がつくのかもしれない。メタサイコロジー論への繋がりがだいぶ見えてきたので色々書き留めておかねば。この論文の後半、理論編の最後のほうにこの患者の強迫行動が止まる場面が描写されている。語ること以前に注意を向けることという課題があることがわかる。私の興味関心はそのあたりにあり、今回再読するなかでASDにおける強迫の特徴について考えさせられた。

NHK俳句は高野ムツオ先生の会。そして山口昭男先生!俳句結社「秋草」主宰。句友が「秋草」に所属している関係で山口先生に句集を送っていただいたことがある。とても好きな俳人。お姿をはじめて拝見した。アッパッパって夏の季語なのか。山口先生の句か。いいねえ。山口先生の句は誰にでもスッと入る穏やかさとユーモアがあるからおすすめです。山口昭男先生の先生は波多野爽波。『波多野爽波の百句』(ふらんす堂)も書かれている。これもとてもいい本です。私も今日はアッパッパ系の服で仕事行こう。どこかでお祭りやってないかな。寄りたいな。どうぞ良い一日を。

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精神分析

フロイトのしたこととか。

古いエアコンの効き目がよく温度を一度上げて寝た。少し暑いけど暑くて起きるほどではない。でも今朝はさすがに冷たい麦茶を飲んだ。身体が飲んだ方がいいよといっている感じがした。あたたかいハーブティも入れておいた。部屋が冷えたら冷めたのを飲もう。お菓子にはそっちの方が合う、と小さな小さなお花型のずんだサブレを食べてしまいながら思う。

先日、フロイトの鼠男、ラットマンの症例についての論文を読み、強迫神経症の精神分析的理解についていくつか質問が出たのでお答えした。この論文は今なら転移ー逆転移の文脈で指摘されるであろうフロイトという治療者の態度に対する批判が何パターンかある。ひとつはフロイトの誘導的、あるいは誘惑的な態度について。これもほんの一文に対してだったりするのだが精神分析における一言一言が出来事の全体をなしていくプロセスである証拠だろう。昨日、読書会での議論を思い出しながら「よく考えればフロイトはそこまでひどいことしてないよなあ」と思った。そして、フロイトのことも精神分析のことも全く知らない人(つまり大体の人)にこの部分の話を「医者に急にそんなこと言われて」と話したとして、と頭の中で会話してみた。「もっとひどい医者はたくさんいるよ、私なんてさ」というような会話が展開された。が、しかし、フロイトの患者はフロイトを医者であり、精神分析の創始者であると知っていて、今私たち日本の精神分析家に精神分析を受けたいと申し込んでくる人たちよりは精神分析を「そういうものだ」と受け入れやすい人たちだっただろう。そのためラットマンのように迎合的に振る舞う可能性は高いと思う。フロイトはそのあたりには慣れっこでそんな理想化には振り回されないが「何かがおかしい」と思わせるのがここでのフロイトの態度であり、それが精神分析だからであり、それが精神分析である理由なのだろう。ラットマンと呼ばれたランツァーという29歳の男性が最初に見せた迎合的な態度は単に相手がフロイトだからではない。フロイトは抵抗という概念を用いる。なぜなら彼が神経症の病因と考えたのはタブーとしての性、しかも個人の生活における極めて具体的な性的振る舞いだからである。そこにここまで注意を向ける臨床技法はほかにはない。フロイトが神経症の病因を性的なものに求め、愛と憎しみの両価性を強迫神経症の特徴として顕にし、自由連想という技法でそこで生じている欲動の動きの特徴を推論し、それに基づく介入によって症状を消失させた事例としてこの論文は発表されたが、実に多くの論点を含んでおり、フロイトの態度としてではなくそれを受け取る私たちの「翻訳」態度も問題にされるべきだろう。だから先日の議論では私はこの論文でも『夢解釈』の技法が基本にあることを強調した。この前読んだオグデンの論考も無意識と時間という二つの概念からこの翻訳、つまり解釈の問題を考えるときの基盤の見直しとして読んだ。精神分析において治療者も常に当事者になっていること、性を問題にする限りそうなるということ、だから治療者が分析を受けていることは必須であること、そういうことではないだろうか。

しかし眠い。こう書きながら頭の中で全く別の景色や出来事が展開している。半分夢の中みたいな感じだ。10分くらい寝てから出ようかな。やっぱり暑さのせいだろうか。どうぞみなさんもお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

韻とかラットマンとか。

憧れのふとん乾燥機を購入した。Amazonから配達完了メールが写真つきで送られてきた。あれ?そこはうちではない!慌てて連絡。ことなきを得た。早朝、さてさてと取扱説明書を見たら見えない。老眼鏡をかけていても起きたては一番見えないからなと放置。そうか、とネット検索して使い方を確認。理解した。それからさっきの説明書にもう一度目をやる。さっきよりは見える。すでに情報が頭に入ってるから推測で読めてしまうというのもあるのだろう。それにしてもこの説明書、字が小さすぎる。さっきはこんなに目が悪くなってしまったのかと驚いたけど手元の『フロイト症例論集2』(岩崎学術出版社,2017)の文字と比べても半分くらいしかない。ほんとフォントはいくつなの?「ほんと」は単に韻を踏みたかっただけ。これやりだすと止まらない。私は身近になんでもラップにできる名人がいてほんと韻を踏むのがうまい。私みたいに韻さえ踏んでればいいという感じではなくきちんと意味を持たせてくるからすごいなと思う。きっと何するときもリズムで覚えてしまうのでしょうね。楽器も弾けるし。私はセンスも記憶力もないからな。語彙が増えない!それなんだっけ、とすぐになってしまう。韻を踏みたくなる性質とは異なる性質を身に付けるべきだった。

昨晩は私主催じゃないフロイト読書会でアドバイザー役。「鼠男」「ラットマン」と呼ばれる症例の論文「強迫神経症の一症例についての覚書(1909)を読み終わったのでその振り返り回。SE10(151-240),岩波全集10(177-271),岩崎『フロイト症例論集2』(2−98)。「病歴の抜粋」を混乱しつつ読んで、「理論編」はさっぱり。フロイトが後半を「理論編」と名付けたのは1924年。その前の年1923年に追加された脚注には

「ここに報告した分析治療によって患者は精神的健康を回復した。彼は、多くの他の前途有望な青年たちと同じように、世界大戦において命を落とした。」

とある。前にも書いたけど非公式ながら最初の国際的なコングレスがオーストリアのザルツブルグ(Salzburg, Austria)で開かれたのが1908年。フロイトはユングに臨床的な発表をと依頼しフロイトが選んだのがこの若きロシア人、ランツァーの症例だった。この発表は大変盛り上がり4、5時間に及んだらしいが記録は残っていないという。フロイトが脚注を書いたのは1923年だがランツァーが亡くなったのは1914年11月25日。第一次世界大戦の初期だった。戦争でフロイトはというか、フロイト派はshell-shock,戦争神経症と出会い、そこで精神分析的な方法を取り入れることになる。

いかん、別のことをはじめてしまった。もう時間がない。今日もがんばろう。

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主にオグデン論文。

今朝は「葦」のパウンドケーキ、いちじく。いちじく大好きだけど高くて。この前もスーパーのいちじくを眺めながら立ち尽くしてしまった。見ていたら安くなるというわけでもないのに。今日は普通の紅茶を淹れた。色々やってる間に冷めてちょうどよくなるかなと思ったけどここに座ってしまったから熱いままいただくことになりそう。部屋の温度がまだ高めだから汗かきそう。でもこの時期は外の気温が高すぎてお散歩にも出られないし汗かく時間も必要か。

今朝は無料の仕事に関連する夢を見た。精神分析をしているとお金というのは本当に様々な意味を持つ。今読んでいるねずみ男の症例もそうだし、交換をどう考えるかということでもある。何かを考えるときにその人なりの基準があるわけで精神分析の場合は当然精神分析理論が前提になる。そしてその理論を引き継ぎつつ更新していくために多くの精神分析家が日夜臨床と検証に明け暮れている。先日サンフランシスコで開業しているオグデンの新しい論文を読んだがオグデンは「無意識なんてものはない」と強調していた。並行して読んでいるラカンも無意識の概念を更新しようとしているけど彼らのしていることの大きさにやっぱりすごいと思う。私は英語もフランス語もその書き方について何かを言えるほどわかってないけどオグデンの語り口の基本的な穏やかさはわかりやすい英語のせいかもしれない。

To say this is not to suggest

that we not use the concept of the unconscious,

it is to say that

when we use the idea,

we should be aware

that it is just an idea

– not a place,

not a second mind.

こうやって区切ってみるとさらにわかりやすい。オグデンはこの論文で無意識を実体としてみることに警鐘をならす。その概念を使うなという意味ではなく、それは単なるアイデアであり、場所でも二つ目の心でもないとオグデンはいう。要するに、と私が簡単にまとめるのはよくないが、オグデンはフロイトが「無意識」論文の冒頭で書いた部分を読み込みながらフロイトがその存在を「明白」と書いたことに反論している。この強調の仕方は主に誰に向けてなされているものなのだろう、と考えたりもするがそれはまた別の話かもしれない。フロイトの「無意識」論文自体、「欲動と欲動の運命」「抑圧」というその直前の二つのメタサイコロジー論文を踏まえる必要があるがオグデンはそれは前提として書いているのでそこには触れない。なのでオグデンを読むまえにフロイトを読む必要があるのはいうまでもない。オグデンの書き方の背景にどれだけの実践と古典との対話が積み重ねられているかを考えるとその途方もなさに驚く。私はオグデンという精神分析家が精神分析実践において患者の実存的なニードを認識する仕方を感じたいだけなので興味がある人はそれぞれ読んでオグデンのnot to convince, but to invite imaginative response.に応えてほしい。無意識について再考したあと、オグデンはトラウマに対する精神分析実践から精神分析における時間の経験を検討する。この二つの主題のつながりの部分をオグデンは書いていないのでそこにも想像力が必要だが最近の著書で書かれた認識論と存在論に関する議論を踏まえてフロイト、フェレンツィに立ち返りつつ書かれているように私は思った。オグデンは精神分析セッションにおける時間経験をこう書く。

The experience of time in the analytic session is at once synchronic (from the Greek for “together” and “time”) and diachronic (from the Greek for “through” and “time”). 

これをもっとも説明しやすいのがトラウマの事例ということだろう。この議論も表面的に読んでしまわないようにしたい部分である。

なかなかしっかり本を読めないが少しずつ少しずつ。今日も良い1日でありますように。

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筋肉痛、和菓子

筋肉痛。動きがおぼつかない。運動した翌日、筋肉痛だなと思った数時間後に「きた!」と本格的に筋肉痛になるのを意識した。自分で「へー」と思った。昔は起きたら筋肉痛という感じだったけど今は時差(?)があるから前日の昼に運動したとして痛みがくるのは24時間後だったりする。それで筋肉痛ってこういうプロセスを辿るのかと気づいたわけだけどこれも個人差あるでしょうね。

今朝は山梨県甲州市塩山のお土産、三省堂(さんしょうどう)さんの「一葉〜」というお菓子。小福だっけな。来福だっけな。福が入っていた気がする。すぐそこのキッチンに戻ればわかるのだけど動きたくない。美味しいものはなんでも福。これ、前にも書ってきてもらったことがある。半分に切ると緑の梅が出てきてびっくりする、と思ったらこれ桃なんだって。若い桃ってそういえばあまり意識したことない。小さい緑はみんな梅だと思ってるかもしれない。いや、柿とかみかんはわかるか。わかるか?うーん。それはともかく和菓子を半分に切ると断面がかわいくて楽しい。甘さ強めだけど小さいし濃い緑茶と合います。冷たい麦茶も合います。今朝は両方用意しました。かわいい和菓子は「一葉懐古」というお名前でした。キッチンへ行ったついでに確認してきた。「福」入ってなかった。まあ美味しかったから幸福。こういう記憶の適当さってなんなのかしらね。「一葉」は樋口一葉だから忘れないのだけど。塩山中萩原地区は樋口一葉のご両親の出身地とのこと。ゆかりの地の和菓子。一葉自身は東京の千代田区に生まれ、文京区に10年、その後、台東区(当時は下谷区)、でまた本郷かな。ご両親の地元には行ったことがなかったみたい。本郷の一葉記念館ではその短い人生を作品と共に丁寧に追う展示が見られます。一葉ゆかりの地を散歩するのも自ずと文豪ゆかりの地を辿ることにもなるからおすすめですわ。谷根千文人マップというのもあります。

さて、さてさて、この時間にやっておくべきことはなんだったか。昨晩遅くに突然ポストカードの箱というか入れ物を開けてしまったら色々懐かしくて収拾がつかなくなってしまった。主に20代の頃に集めていた。当時はたくさんお手紙も書いていたけど。これ少しずつ使う機会作ろう。すごくかわいいのがたくさん。多いのはバースデーカード。昔はどこ行ってもカード買ってたな。暑中見舞いも書きましょうか。そうしましょう。

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オグデンの「無意識」更新論文を読んでいた。

満月に見えるけど満月の一日後の月がまだうっすら出ている。ピッカピカの光は水色の空にすーっと吸い込まれてしまったみたい。昨晩は雷に打たれ、いや、打たれていない、だからここにいる、ピカッ、ドーンの距離がすごく近い中、一気に降り出してきた雨にすっかり濡れた。遅い夕食をしてやるべきことやってこの前見つけたオグデンの論文を読み始めたらすっかり遅くなってしまった。なのに朝はいつも通り早朝に起きられてしまう。あと1時間半くらい遅くてもいいのだけど起きてしまったので書いておこう。麦茶冷たい。いつからか麦茶を作っておく夏の習慣が始まっていた。でも今年はあまり減らない。部屋が冷えてくると温かいのを飲めるではないか、と温かいのにしてしまう。今は減らないから飲んでいるという感じ。おいしいけど。

さて、今回のオグデンは攻めている。ように見えてこれまでの集大成的文章のように思う。ちょっと前にここでも書いたOgden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time. The International Journal of Psychoanalysis 105:279-291。このジャーナルに論文載せるのは夢だな。がんばらないと。

さてオグデン。なかなか始まらない劇場。オグデンは題名通り、まずは無意識の概念を一見今どき、つまり意識側から書き直す。でも読んでいるとその方法はウィニコットを読むオグデンの仕方と変わらない。今回はフロイトの「無意識」論文からA gain in meaning is a perfectly justifiable ground for going beyond the limits of direct experience [to justify acceptance of the existence of the unconscious mind]. When, in addition, it turns out that the assumption of there being an unconscious enables us to construct a successful procedure by which we can exert an effective influence upon the course of conscious processes [for example, psychoanalytic treatment], this success will have given us an incontrovertible proof of the existence of what we have assumed. を引用し、特に“incontrovertible”を導きの糸にしている。この部分は全体を示してもいるからこういう引用をズバッと決められてからだとどこ取り出しても同じような気がするがこの単語なんだと思った。“incontrovertible”。

オグデンはウィニコットのようにThis paper is meant not to convince, but to invite imaginative response.と読者の想像力に期待する。今回も難易度高い。オグデンも常に古典に戻る人なのでフロイトを読んでいるのは前提となる。ウィニコットはフロイトを読まなかった、という逸話があるが正確には読まないことを指摘されたので読んだ、でも死の欲動には同意しかねる、だったと思うが正確ではないかもしれない。ウィニコットの書き方についてはよく取り上げられるけど読まれたいのか読まれたくないのか読ませる気があるのかないのかわからない書き方はウィニコット自身の読み方と関係があると思うけど、オグデンは読み方と書き方の両方をユニットしてものすごく意識して仕事している人だと思う。あときき方。これが一番かな。

今回のオグデンのthere is no such はthere is no such entity as the unconscious. カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」を思い起こす。オグデンはフロイトはincontrovertibleと書いたがこの部分って言い換えれば the claim that the unconscious exists is based on the success that the assumption has had in helping us understand the meanings of our experience that lie beyond conscious awareness. ってことでしょう、と書いている。とにかくそれはメアファーであり精神分析家たちが作り上げた物語でありThere is no “inner world” (inside what?), nor are there object relationships inside of it, nor are there alpha-elements, beta-elements, alpha-function; there is no id, ego, or superego, no life instinct and death instinct, and so on. だと。夢だってそうだよ、と。今回のオグデンはシンプルに突き進む。オグデンに言わせれば無意識とは not a place or a thing, it is a quality of one’s thinking, feeling, and experiencing. である。

と書いているとキリがないがこのあと臨床素材もはいり、精神分析的時間の検討に進む、という論文。フロイト回帰というのはフロイトの方法に戻ることではなく更新するための回帰だと思うのでオグデンは忠実だなと思う。見習いたい。

すっかり光が強くなってる。まだ空は薄めだけど。汗をかく音を拡大したら蝉の声みたいな感じじゃないかと思うんだよね。ジトーって感じで。オグデンはWe listen to the words, not through them. と書いている。それはとても大事ですよね。どうぞ良い一日を。

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ノートとか星形もなかとかラカンとか。

なんだか珍しい夢で目が覚めた。面白かった。が、起きたら起きたで眠い。夏休みに向けて色々準備せねばなのに。それにしても暑い。眠い、暑いの繰り返し。冬は寒い、眠いの繰り返し。昨日はノートを三冊もらった。方眼紙じゃなくて方眼罫か、今、ノートを見たら書いてあった。5ミリ方眼罫(リーダー罫入り)と6ミリと7ミリの罫線の三冊。ノート好きだから楽しい。全部フランス精神分析の勉強に使う。たまたま読んでいた論文をまとめるのにゴージャスに二冊同時に使い始めた。

今朝は甲州市塩山のお土産、老舗和菓子屋「三省堂」の星形もなか。青えんどうを使った餡が詰まっています。ほんのり不思議な香りがするのは桜葉?とにかく見かけがかわいらしい。昨日はとてもきれいな満月が出ていたけど星は見えなかった。時間差で追加。想像力で補えるのってそれまでの体験と知識のおかげ。

私は大学に入れてもらってようやく勉強の楽しさを知ったけど本だけは小さい頃から読んできてよかったなと思う。難しい文章に出会ってもあまり抵抗がないのは結構お得なんだと思う。とりあえず読み流すことができてしまう。すっごく時間がかかったとしてもいつのまにか読めるようになってたりするからとりあえずこだわらないでおくのって悪くない。

昨日は時間があったから後期ラカンの論文をパラパラ読み、方眼罫ではない方の6ミリ罫線のノートの方にメモしていた。この前読んでいた『エクリ』の「治療の方向づけ」に関する論文は前期。まだ対象a(プティ・オブジェ・アー。フランス語はかわいい)もなかった頃。後期になるとプティ・オブジェ・アーも「見せかけ」になってシニフィアンからそれ以前のものであるララングへ、つまり言語から身体の問題が検討される。S1がララングってノートに書いたみたい、昨日。でもこれは反復の群れであってどうこうと色々書いているがもうすでに覚えていないな。こういうことの繰り返し、勉強というのは。後期だから「ファルス関数」とかもメモってある。また勉強しましょう。

しまった、また眠くなってきてしまった。動こう。がんばろう。暑いのでお気をつけてお過ごしください。

(追記メモ)

今日の夢はささやかながら即座に叶った願望充足の夢だった。が、夢は夢ゆえに欲望の消失へとは導かない。欲望は満足なんて求めてない。満足してしまったら消えてしまうのが欲望だから。ネット上のコミュニケーションに限らず、言葉は常に誤解されるのが基本なのもそういうことかな。欲望しつづける欲望。

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オグデンを少し読む朝。

夜明け。水色の空。夏至から1ヶ月。日の出も少しずつ遅くなっているとはいえ4時台にはすでに明るい。昨晩は豪雨で大変だった様子。帰ってきた頃はまだ雷もうっすらで雨もそんなに降っていなかったのだけど。目黒川と妙正寺川が警戒レベルだった時間もあったみたいだけど大丈夫でしたでしょうか。友達とワンコが雷怖がってるだろうから早く帰ってあげないと話したりしてたのだだけど大丈夫だったかしら。ハリケーンで飛んできた亀を飼った話とかも面白かったな。私が日々亀を愛でているのは多分学校にいけない子の家庭教師をしていたときにそのうちの亀と仲良くなったからだろうな。金魚も人に懐くらしいけどそれは餌付けというやつでは。そんなこといったら人間もそうか。美味しいお菓子に日々つられている私としては。昨日もとってもかわいい季節のお菓子をもらってしまった。「ふきよせ ほたる狩り」だって。世の中にはなんでこんなにかわいいお菓子が多いのだろう。あら、新宿区が警戒レベル3相当、というお知らせが来たのだけどどの川?川の名前が書いていないし旧玉川上水はすでに川じゃないし近いのはどこだろう。神田川か?お隣ではある。つい最近下水道の工事をやっていると中野区在住の人に聞いて、神田川って排水のための工事すごい大規模にしてたイメージがあるけどまだやってるのか、と思ったばかりだった。うーん。全国どこもかしこも被害が出ないといいなあ。

最近、IPAが出しているジャーナルを読んでいないなと思ってチェックしたらオグデン(Thomas H. Ogden)の論文が最初に出ていた。

Rethinking the concepts of the unconscious and analytic time。無意識と分析的時間の概念の再考。

Ogden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time. The International Journal of Psychoanalysis 105:279-291

無意識と分析的時間の概念を再考する論文らしい。引用文献を見る限り、私の一番好きなオグデンという感じ。フロイトの引用は以下のこれら。

Freud, S.1900. “The Interpretation of Dreams.” SE 4/5.フロイト『夢解釈』フロイト全集4、5(岩波書店)

Freud, S.1914. “The Unconscious.” SE 14.フロイト「無意識』フロイト全集14(岩波書店)あるいは「メタサイコロジー論」(講談社学術文庫)

Freud, S.1915. “The Unconscious.” SE 14.あれ?なんで「無意識」論文二つ?こっちがあっているのでは。あれ1915年のはず。あとでチェック。

Freud, S.1918. “From the History of an Infantile Neurosis.” SE 17.フロイト「ある幼児神経症の病歴より」フロイト技法論集(岩崎学術出版社)

オグデンはここで単にrethinkingをするわけではなくてその方法について書くらしい。

最初が早速フロイト「無意識」論文からの引用。これ1915年になってるから間違いかな。でも校正で気づくだろうからこのあと1914年のも出てきたりするのかな。オグデンはこの論文の以下の部分を引用してフロイトが無意識の存在を“incontrovertible” と書いたところを取り上げる。こういうのがオグデンの手法だなあと思う。引用されているのはこちら。

A gain in meaning is a perfectly justifiable ground for going beyond the limits of direct experience [to justify acceptance of the existence of the unconscious mind]. When, in addition, it turns out that the assumption of there being an unconscious enables us to construct a successful procedure by which we can exert an effective influence upon the course of conscious processes [for example, psychoanalytic treatment], this success will have given us an incontrovertible proof of the existence of what we have assumed. (167)

この部分の十川幸司訳はこちら。

「ところで、意味および関連性において得るところがあるということは、私たちが直接経験を越えて踏み出すための十分に正当な動機となる。また、さらに無意識の仮定に基づいて、意識過程の経過に対して目的にかなった影響を及ぼすための手続きを構成することができたなら、その成功は私たちが仮定した無意識が存在する明白な証拠になるだろう。」

“incontrovertible”は「明白な」と訳されていてこれをあえて取り上げる気にはならないと思う。むしろこのあとの

「したがって、心の中で起きるすべてのことはまた意識にも知られているはずだと要求するのは根拠のない自惚れにほかならない、という立場に私たちは立たなくてはならないのである。」

の太線(本では傍点)の方が気になってしまうけどオグデンはやっぱりこっちじゃないんだ、という感じ。こういうのがワクワクオグデン、個人的には。

この論文ではこの「無意識」についての再考と、「無意識」論文でフロイトが「無意識系の諸過程は、無時間的である」と書いたようにdiachronic time (clock time) and synchronic time (dream time)、通時的な時間(時計の時間)と共時的な時間(夢の時間)について再考を行うらしく、我々はその方法を事例を通じて教えてもらうことになるのだな、という感じの論文らしい。今こうやってメモ的に書いておかないと何度も読み直すことになってしまうのが厄介だな。すぐ忘れてしまう。

ああ、朝に時間があるって素晴らしい。ところで昨日読んでいたのはeducation sectionで精神分析設定についての論文だったと思うのだけどそれはどこで見たのだろう。昨日はそこで中心的に引用されていたJosé BlegerのPsycho-Analysis of the Psycho-Analytic FrameをTwitterにメモしただけで、大元の論文をメモするのを忘れた。NHK俳句の時間だ。みよう。May,J.がゲストだー。歌える人は俳句も上手そう。雨やんだね。一気に晴れてきた。被害が出なかったならよいけど地盤緩んでるかもしれないから気をつけて過ごしましょう。

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フロイトを読んでいた、いる。

今朝は「葦」のパウンドケーキ、マロン。こう書くとフランス語の語順っぽい。美味しい。あとゴールデンキウイ。いつからゴールデンとかできたんだなど言いながら。ホットコーヒーと。やや汗ばむ。

毎日、精神分析とは、と考えてはウンウン唸っている。私がやっていることそれ自体なのだけどそれってなんなんだろう。私は精神分析は医学でも心理学でもないと思っているので自分が所属している臨床心理学の世界と連続したものと考えていない、という時点で周りとの違いを感じる。フランス精神分析はその辺が普通にオープンで勉強しやすい。フロイトをしつこく読んでいるのもラカン派の本を読んでいると当たり前というか必須以外に思えないので常にフロイトから始める、みたいな人がまわりに増えればいいなといつも思う。しかし、フロイトを読み込むのは時間もかかるし、臨床中心の生活ではそういう時間も限られる。だからこうやって早朝に読んだりするわけだ。それぞれの限られた時間を思えば周囲に甘えているわけにもいかないしな。とかいって結構対話してもらっているか。基本はフロイトを読んでいる本と対話しながら読んでいるが、キノドスの『フロイトを読む』はバランスが良くてとてもいい。kindleで英語版も持っているので語彙の確認もしやすい。なんでフロイトを読みつつ、精神分析とは、とウンウンしているかといえば、自分がやっていることの効果や影響を常に考える必要があるから。これはいいものだ、という前提ではできないし、精神分析プロセスで生じさせる激しさや危うさは自分で十分に体験しているので気軽に導入もしない。もちろんそれは私の場合であるし、ケースバイケース。臨床家としていろんな現場でいろんなことをしてきたがその中心にあったのは週一の心理療法だった。今もそれは中心だけど考える起点と基盤が精神分析に変わってしまったのでまた新たに臨床から学ぶしかないんだな、結局。何歳になっても。

昨日は1920年の『快原理の彼岸』を読んで唸っていた。ここまでにも大量の論文を書いているフロイトが考え方をグッと変えてきた論文。ものすごい天才が考えていることなど私にわかるはずもないと思いつつ、それまでの蓄積とそのあとの流れと同じ実践に基づいているというところを頼りに読む。ラプランシュもデリダもこの論文の読解に力を割いている。局所論、力動論、経済論を考慮した心的装置を考案しようとするフロイトの記述はそれまでのメタサイコロジーの更新を伴う。意識、前意識、無意識という第一局所論からエスー自我ー超自我という第二局所論への移行、力動論はメタサイコロジー論で精緻化された通り欲動に起源を持つ力動論、そしてエネルギーの量的観点からの経済論的記述。さっき考え方を変えたと書いたけどそうではないのか。『草稿』『ヒステリー研究』ですでに構想されていたものか。でもこれまで同意するかどうかはともかくふむふむと読めていた快ー不快の解釈は臨床経験によって変わってきてしまったわけだからフロイトが一番困ったよね、きっと。自分で考え続けてきたことにどう落とし前つけるんだよって感じだったろうねえ、とわからなさをフロイトに気持ちを寄せることで誤魔化しながら読む。そういうことを今日もやるわけですね。ウンウン。がんばろう。

それにしても暑いね。ゴミ捨てに行っただけで紫外線いっぱい吸収した感じがする。ジリジリ。熱中症にも気をつけましょう。どうぞ良い週末を。

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BGM、マカロン、夏休み

着々と家事を済ませた。昔はなにがそんなに面倒だったのだろう、という感じでサクサクと。今は面倒がること自体が面倒。仕事前に読みたい本があったりちょっと遠回りして出かけたいとかやりたいことがあるといろんなことにいちいち重みづけしている時間があまりない。なのにまたこんなこと書いてる。これも習慣になってしまってるから別の習慣に取って代わられるまでは続けるんだろうなあ。今朝も起きたら柳樂光隆さんからのお知らせメールが来てて「また書いたのか!」と思ったら今回はプレイリストの紹介だった。かなりの頻度でものすごく充実したインタビュー記事を届けてくれるのは大変ありがたいのだけどライブに行く時間がないのが残念だなあ。知らなければ行きたいとも思わなくてすむのに。うん。このプレイリストは確かにBGMにいい。気持ちよく作業ができそう。

友達からもらった小さいマカロンを半分に切ったら真ん中に何か入ってる。ジャムかな。うん?これはジャムというのかな。甘すぎないおしゃれな味!かわいい色ばかりの素敵マカロンたちだった。これでおしまい。ありがとう。明日はまた「」のお菓子。今回は藤沢店。湘南台で地元のカフェだと思って寄ったら相模大野にも販売だけの店舗があって「え?チェーン店だったの?」となって調べたら神奈川にいくつかあって藤沢ルミネにも入ってたって買ってきてくれた。でもまた「葦」のカフェも行きたいな。ケーキ一個とかもう全部食べられる胃腸がないのだけどグラタンとかもあるからかわいいケーキを眺めながらお茶したい。なんで胃腸が弱いのに食べることばかり考えてしまうのかしら。身体と欲望って釣り合わないから色々大変なのよね。

子供たちは今日で今学期おしまいかな。お疲れ様。プールとか大変だよね。好きでいくならいいけど実技のテストとか本当に必要なのかね。私はスイミング通ってて泳げてた時期もあるけど思い出としては「毎回えらく疲れたな」くらいでなんであれが学校の評価に使われるのだろう。水を怖がらないとか自然に危機対応できるようになるとかだったら必要だろうけど。にもかかわらずこの前中学生に泳ぎ方を教えてしまった。質問に答えていただけだけど途中からなんか偉そうだわと思って「まあ陸地にいればなんだって言えるけどね」と言ったら「陸地」が別の言葉に聞こえたみたいでなんかチグハグして、笑って、いつのまにか水泳の話からずれていった。いろんな話しながらなんとかやっていこうね。良い夏休みになりますように。

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ボウイとか。

オレンジ色のメロンとショコラオランジュのマカロン。最近のマカロンは美味しい。流行りはじめた時期は苦手だった。マカロン型の小物はかわいくて好きだった。

この前、ジャズ界の作編曲家のマリア・シュナイダー Maria Schneiderのインタビューで彼女がデヴィッド・ボウイDavid Bowieに見出されてロックとジャズを融合したと知ってDavid Bowieをずっと聴いていた。今は1977年のアルバム『LOW』のB面だった(1991年CD化)「Warszawa(ワルシャワの幻想)」を聴いている。ブライアン・イーノBrian Enoとの共作。プロデューサーはトニー・ヴィスコンティTony Visconti。こういう情報ってサブスクだと調べにくい。昔は聴きながらレコードとかCDジャケットとか飽かずに眺めていたから自然に入ってきたけど、今ボウイを聴くとなるとほとんどリマスター版だからクレジットに発売年が書かれていない。Spotifyだからかもしれないけど。それにしてもこの曲は特殊というかブライアン・イーノと聞けばなるほどとなるけど当時はびっくりされたわけでしょう。マリア・シュナイダーもそうだけどミュージシャンたちはみんな自分の音を常に求めていて、そのためには相手が絶対に必要で、その人そのものよりその人の音に反応する。もちろんその人の音はその人そのものを表してもいるわけだけど人としての現れで考えると色々難しいよね。精神分析でいう部分対象と全体対象の関係ではないわけだから。もっとミクロな部分を捉えて反応していくしかたは同じだけどその前提にすごく主体的な自分がいて、その自分を変えていける人がそれに成功しているのだと思う。もちろん有名な人たちにはそういう人が多い気がするというだけでこのあり方の方が優れているとかそういう話ではないわけ。だって一人でそんなふうになれないという時点でいろんなものはみんなのものでしょう。ジャズの歴史を知ると特にそう思う。環境が整わなくても小さな頃に本物と言われるジャズと出会うチャンスがあったり、日本ではきいたことがない種まきがたくさん行われている。やりたいやりたくない以前に「これいいな!」と思えるものがたくさんできると楽しいよね、とりあえず。詳しくなくたってなんだって自由に語れる場がたくさんある環境もいいよね。なんかすぐバカにしたような態度とる大人が多いのはよくないでしょう。ムカつくよね。子供が大人をバカにするのもよくないけど大人は教育できる立場にいるわけだし、それはどうにかがんばろう。ボウイあるいはボウイの曲みたいに力をくれる存在にみんな何かしら出会えるといいと思う。今日も良い1日でありますように。

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禁欲原則とか。

鳥たちが賑やかに通り過ぎていった。彼らにも朝の挨拶のようなものがあるのだろうか、という疑問をこれまでなんども書いている気がする。調べればいいじゃん、ということかもしれないがこの問いはそういう類のものではない、ということがSNS上などでは通じない世の中だからコミュニケーションって変わったなあ、と思う。私は実際の人と対面して、見かけ上は一方的に話を聴いているが、問いかけを答えるべきものとは思わないし、問いが答えを求めていないどころか問いかけの形にして言いたいことがあることも知っている。まずひたすら耳を傾けること。その意義は今はますます大きいような気がしている。なんてことを書こうと思っていたわけではないが、精神分析の基本設定について考えていた。フロイトは禁欲規則 rule of abstinenceといって精神分析をしている間は結婚したり外側を大きく変えるような行動はするなというようなことをいった。そういうのを精神分析の世界では「行動化」というのだが、フロイトの時代は週6回通うとはいえ治療期間が今よりずっと短いのでこれもある意味契約のひとつだろう。しかし禁止なんてできるはずのない心があるとわかっているから精神分析はあるので二人の関係に外側を使って何かを生じさせようとする心について考えるのが現代の精神分析家の態度である。小此木啓吾をはじめ、私の親世代より少し上の精神分析家たちはフロイトに忠実であるとともに「日本では」ということを模索してきた。小此木先生はフロイト的治療態度、主に禁欲原則・分析の隠れ身・医師としての分別(Freudian fundamental attitude(neutrality・abstinence rule・analytic incognito physician’s discretion))に関するお話をフェレンツィ的態度との比較においてたくさんしていた。私の親より少し下の精神分析家たち、つまり今の日本精神分析協会の役員世代の先生方は世界を標準にしたフロイト再読が普通であり、それぞれにフロイトの技法を咀嚼し「自分では」ということを話されている。外では十分に指導的な立場にありながら分析家の中では子どもみたいな私たち世代はフロイトに素手で立ち向かっている人がいるかどうかわからないが私は続けていこうと思っている。応用分野で精神分析が使われる場合でももうすでに古びた印象がある精神分析を治療法として今を生きる患者に使用しているからには今の時代で精神分析ができることを考える必要がある。とはいえ、人と話すたびに古びゆく自分を実感する毎日、まだ本当の子ども世代の患者にも「今はね」と言われながら教わる日々。まあそれはそれでありがたいことだ。なにかもっと言いようのない良さについて書こうと思ったのに全然違うことを書いてしまった。言いようのないものは言いようがないのだからしかたないか。無理に言葉や形にする必要などないこともたくさんあるのだろう。今日もがんばろう。どうぞご無事で。お元気で。

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ジャズとかお喋りとか。

昨日のTBSラジオ「荻上チキ・Session」での柳樂光隆@Elis_ragiNa さんの選曲、よかったなあ。

Ambrose Akinmusire (アンブローズ・アキンムシーレ)はお気に入りに16曲入っている。MARIA SCHNEIDER(マリア・シュナイダー)のインタビューにも力をもらったしMelissa Aldana(メリッサ・アルダナ)のサックスには自然を感じる。ジャズにも色々ある。今回の選曲は昔の私だったらびっくりしてしまう曲ばかりだった。マイルス・デイビス、サラ・ヴォーンを中心にずっとその辺りばかり聴いてきたから。

知らない街で迷った。駅近くのドトールが空いている街だった。なのにコメダもできるらしい。なのに、とは、と自分で書いてみて思った。「なのに」は「店として大丈夫か」という経営者目線。一方で「しかも」だったら「いいなあ、作業に集中できそうな場所に恵まれてて」。それにしてもGoogleマップのナビで目的地に辿り着けたことがない。でも知らない街は楽しいな。全く知らないわけではないのだけどいつもわかりやすいところしか行かないからキョロキョロキョロキョロしてしまった。昔からあるという本屋さんもよかった。自分も子供もそこで教科書を買った、みたいな話も。なんだかんだやりたいことをずっと変わらず続けてこられてることもなんかよかったね、よくは知らないけどなんとなく知っているご家族とかお友達とかが元気と知るとなんか嬉しいよね、とか。言いようのないいい時間だった。

早朝からやっている地元の小さなカフェで天然塩のことを教えてもらった。店長のお子さんもよく舐めているという天然塩。お話をききながら再び少し口に入れてみたら「おいしい」という声が自然に出た。口にするの二度目。そしたらもっと色々教えれくれた。こんな小さなお店でこんなにコーヒーにこだわる人は塩にも詳しいのか。すごいなあ。ステンレスのストローも新鮮だった。紙のストローは嫌やねん。店長の顔と声が知っている作家さんにそっくりで途中からその人にしか見えなくなってしまった。

もう8月かぁ、と思ったけどまだ半分残っている7月を大切にしないと。やるべきことはなんだったか。色々ありすぎてよくわからない、とかいっていないで確認しましょう。そうしましょう。

あまり梅雨っぽくないまま今年も明けるのかな、いつのまにか。散歩道では真夏の花々がすでに萎れていたりした。紫陽花は緑に逆戻り。毎年毎年楽しみな七変化。今年もありがとう。反復のように見えて少しずつ本質的な変化が起きているのだろうけど毎年同じように咲いてフェイドアウトするようにほかの緑に紛れてく。原種はどんな紫陽花なんだろうね。今日は火曜日。間違えないようにしないと。どうぞ良い一日を。

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精神分析

7月15日(月・祝日)

キッチンの小さな窓にスズメが通りかかった。やっぱり最近鳥の声が少ない気がする。ベッドで耳を澄ましながらこれはエアコンの音のせいじゃなくて鳥自体が減っているのではないか、あるいは鳴かなくなっているのではないか、という気がした。多分そんなことはないのだろうけどずっとそんな気がしていたけどやっぱりみたいな感じになっている。なんでだろう。私の耳が鳥の声を拾えなくなっているのかもしれない。いやだなあ。

個別と普遍という言葉が浮かんですぐに「普遍」以前に「一般」だなと思った。いろんなことはいちいち大きな言葉で語る必要などない。「普通は」といえば「普通が何かって話もあるけど」と付け加えなくてはいけない世界は一部でいい。いろんな言葉に勝手に悪意を付け加えるような心は狭めでいい。とサルトルを読みながら思った。なぜ私はサルトルを読んでいるのかを忘れてしまったのでだんだん読み方が適当になる。必要にかられて読み始めたはずだったのに。おそらく「自我」について考えているときにどこかで引用されていたのがサルトルでこれは読まねばと思ったのだ。おそらくだけど。サルトルはシナリオを書いてしまえるくらいフロイトのことが好き、あるいは嫌いで、精神分析批判というかフロイト批判をしてきた。

なんか書こうとすると洗濯機がなったり色々やらねばならないことが発生するな、とこなしているうちに眠くなってきてしまった。今日は二度寝可能。定期的に身体を鍛えるようになってから身体ががっしりしてきた気がする。部活で疲れきって眠っていた頃みたいな感じで眠れることも増えた。筋肉の要請による睡眠という感じが自然な感じでいい。トレーナーさんに、見た目をがっしりしたくない人もいるからいってくださいね、と言われたけど私はがっしりしたい。体調崩したりすればあっという間に筋力は落ちる。崩さなくてもこの年齢になれば自然に落ちるし回復しにくい。なので鍛えられるときに鍛えられる部分をと思う。ジムでガシガシ鍛える根性はないから短時間みっちり先生についてもらった方が私にはあってる。細かい感覚に敏感になって変化を感じられるのも励みになるし。私の知らない私の身体。なんとかがんばって私を助けてくださいよ。私も誰かの助けになれるようにがんばるからさ。今日は色々チャージ。がんばろう。

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Dana Birksted-Breen読書会、たとえば「根源的幻想」

おなかが気持ち悪い。果物と炭水化物を摂りすぎたかもしれない。今朝も扇風機が時間をかけて回り始めた。今は快調。

昨晩は読書会だった。どの学派にも属さず、IPAのジャーナルの編集長を15年間やってきたDana Birksted-Breenが精神分析の未来のために残してくれた書物として読んだ。置き土産なら自分の欲望を押し付けるものではなくてこういう全世界に通じるものであってほしいな、と思うのでありがたい。Twitterですでにあれこれ呟いた。日本の精神分析は治療者の逆転移に基づく描写が多いと思うし、実際それは必要なのだろうけど、その背後の理論モデルがないと「それはそうなのかもしれないけどそれって精神分析じゃなくてもいいんじゃないの」となると思う。もう多分20年くらい前のことだけどセミナーで英国のタヴィストッククリニックの子どもの臨床家、Anne Alvarezの技法を紹介をしてくれた平井正三先生に藤山直樹先生が「それは普通に子供と遊ぶときと何が違うのかなと思ってしまうのだけど」と質問していた。こういう素朴な問いはとてもよくて技法には理論的基盤があるということ、そしてアルヴァレズのそれを知る機会になったと思う。例えば最近、私はラカンあるいはラカン派、ラカン派以外のフランスの精神分析家の文献を読んでいるけど昨晩読んだ精神分析設定と絡めた場合の一つの理論的想定はこれ。根源的幻想。ブルース・フィンクの『ラカン派精神分析入門』を使用してちょっと書いてみる。

私たちの最早期の光景とはどんなものだろうか。そしてそれはどんな幻想だろうか。フィンクによるラカン、ラカンによるフロイトの説明はこんな感じである。斜線を引かれたS(自我ではなく主体、意識と無意識に分割された主体)と欲望の原因=aとの関係において、斜線を引かれたS(分析主体)のaへの固着を「根源的幻想」と呼ぶ。これは無意識の幻想であり、フロイト理論における「原光景」(生を構成する性行動の役割)と重なる。この幻想には原因としての<他者>=aの内部に想定された欲望と主体の関係が含まれている。そしてこれが無意識的幻想の場合、そこへの通路は夢である。分析設定(here&now)において、分析家は分析主体のこの欲望の原因となり根源的幻想を投影される。このとき分析家は他者であり<他者>であるが、分析主体にとってこの他者は<他者>でしかなくこれまで分析主体が体験し観念化してきた<他者>であり幻想を生きる。しかし、分析家は他者であり、<他者>の欲望は徐々にこれまでの想定とは異なったものになる。フィンクは「それどころか分析主体がいつも想定していたようなものであったことはおそらく一度もない」と「おそらく一度もない」は太字にして書く。この辺の分析家の態度はお話としてはわかるが分役状況というのは分析家の方も意識的に何かをやれる状態ではなくなっていると私は考えるし、こういうことが生じるのは意志のせいでも意図のせいでもなく現実がそうなのであり、それがないと治療は進展しないだろう。なのでフィンクの描写する分析家の態度はかなり防衛的に思える。この部分がそうというわけではなく、むしろフィンクはそうではないほうだと思うが、ラカン派の分析家の書き方は皮肉を聴かせた極端なものが多い。私はそういうのが苦手。起きたことは正確に描写してほしい。SNSでもこれは皮肉なのか、本音なのか、適当なのか、とよくわからないものには注意を向けないようにしている。わからないから。わからない私に問題があるのだろうけどそういうレトリックはめんどくさいと思ってしまう。患者のこと考えるのにそれいる?と思う。いや、むしろ患者の言葉に対してそういう態度を持てること自体はかなり必要なことかもしれない。うーん、ここは難しいな。精神分析がやっていることって母子モデルを外してしまえば結構AI的なのでかなり皮肉きかせられるような人間的なものとセットでないと難しい面があると思うしな。

そうそう、根源的幻想のお話。この後「一例として」と出されるのが、私主催のReading Freudで読んでいる通称「鼠男」、何度も読んでいる論文「強迫神経症の一事例についての考察」なんだけど、フィンクはものすごーくあっさり要約。鼠男の父親が欲望の原因であるということを言いたいだけだから仕方ないのだけど、この症例の混沌とした部分はその見立てにも関わるでしょう。

などなど色々考えて自分の理論的基盤のもとに臨床をしているわけでその基盤を育てるのもまた臨床なわけだからどっちがどうというのではなく両輪なんだけど私も精神分析の未来を考えて学んでいかないとな。今日はグループ。がんばろう。

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扇風機、Dana Birksted‐Breen、自我

昨晩は涼しかった。信号待ちでは上着がほしくなるくらいだった。夜は窓を開けて過ごした。早朝、再び窓を開けた。暑くはないけどもう少し空気を巡らせたくて扇風機をつけた。動くつもりがあるのかないのかじっとみていてようやく動いている気がするくらいのゆったりさで羽を動かさんとしている。つもりはあるらしい。「そんなつもりはなかった」という言葉も治療中の頻出構文だが大体のことは「そんなつもりなく」やっているものだ。首が回るようにしてあるはずなんだけどと待っていたら羽が少しずつ早く回るのと同時に首もふりはじめた。これもものすごく長く使っているから身体が動かなくなりつつあるのだろう。コンセントまでのコードもなんだかとてもか弱くみえる。この前、トレーナーさんが「サーキュレーターはいいですよね」と言っていて「ほんとほんと」と話しながらうちもこういう小さいのにしようかなと思ったところだった。これの寿命も頭のどこかにあったのかもしれない。ハーブティーを入れる。今朝は温かい飲み物でいい。テーブルに戻ってくるとさっきよりずっと滑らに扇風機は動いていた。

昨晩はイギリス精神分析協会のDana Birksted-Breenの本を読んでいた。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”(Routledge, 2017) 

女性分析家の本を女性だけで読む会で、ジョイス・マクドゥーガルの本を読み終え、次はこれを読むことになった。Dana Birksted‐Breenは福岡の精神分析家の松木邦裕先生のセミナーでよく言及されていたので知ってはいたし、論文や動画も見ていたが一冊の本として読むのははじめてだ。今年1月には彼女のためのカンファレンスが開かれたのもチェックしていた。なので亡くなったというニュースを見たときは驚いた。6月1日土曜日の朝に亡くなったそうだ。Obituaryはこちら。the New Library of Psychoanalysisの編集長を10年、the International Journal of Psychoanalysisの編集長を15年務めたDana Birksted‐Breenだからその書き方にも注意を払って読みたいが今回読む分は分量も多く何かに注意を払う以前にとりあえず読み切るのが課題となりそう。フランスの精神分析家への言及も多そうなのでそれはありがたい。

スーパーヴァイザーの先生とウィニコット理論について話した。私が最も読み、書くときに引用するのはフロイトとウィニコットだが、最近ラカンを読む中で「自我」の位置付けに再び混乱をきたしていた。ウィニコットもラカンも「対象」については詳細に言及しているのだが「自我」となるとなかなか。ラカンは意識的主体を自我と呼んでいたりするが、私はその読み取りができていない。そもそもフロイトが『自我とエス』で示した「自我」がすでに錯綜している。昔、購読会で担当したときに「自我はこんなにたくさん役割与えられていろんなもの投げ込まれて大変すぎる」と発言をしたことがある。いまだにそう思うしラカンも対象としての自我には言及するが自我の自我部分(説明しにくい)は「主体」にすり替えてしまっている気がする。ウィニコットに至っては自我も自己も曖昧すぎるがtrue selfを自我と呼ぶとして、その自我とは、という話を先生とできたのはよかった。ナルシシズムにおける自我というものをどう考えるかというお話。はあ。突き詰めれば突き詰めるほどやること増えて時間がなくなる。臨床のおかげで頭だけで考えなくて済んでいるのはとてもいいことだと思う。昔はそうなりがちだった。いろんな経験していこう。今日の東京は少し過ごしやすいのだろうか。がんばろ。

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國分功一郎のスピノザの本

よく寝た。時間ではなくて質。睡眠って「量」のことを「時間」っていう。「時間」ってほんと特殊。ベルクソンのいうこともわからないではない。

今朝は小布施の栗のスティックケーキとハーブティで。

最近、「意識」について考えていたらスピノザが気になって久しぶりに國分功一郎『スピノザの方法』(みすず書房)をパラパラしていた。「あとがき」でまた泣いてしまった。2022年に出た『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)はこの「あとがき」に書かれた「誰かと一緒に読む」「誰かと一緒に考える」を実現した本なのだろう。どこかにそう書いてあったかもしれないし、書いてなかったかもしれない。

私はスピノザがデカルト読解でこう解説している部分を國分さんが解説している部分が好き。『スピノザの方法』の199ページ、<S公理九>、デカルトの空の例に対するスピノザの二冊の写本の例。

「ある人がここに同一の手で書き写された二冊の本(一冊は著名な哲学者の作品で、他はつまらぬ人間の作品であると仮定しよう)を見て、その言葉(つまり心像としてあるかぎりにおいての言葉)の意味には注意せずに、たんに筆跡と文字の列だけに注意するなら、彼はその二冊の本の間に違った原因を求めるように彼を強いるいかなる相違をも認めないであろう。むしろこれらの本は、彼には同じ原因によって同じ仕方でできたものと見なされるであろう。しかし言葉や文章の意味に注意するなら、彼はそれらの間に大きな相違を見いだすであろう。そしてこれによって彼は、一方の本の第一原因が他方の本の第一原因とはなはだ異なっていたこと、しかも一方の原因は他方の原因に比し、実際にその両方の本の文章の意味が、すなわち心像として考察されるかぎりの言葉が、相互に異なっているだけそれだけいっそう完全であったことを結論するであろう。私はここで、必然的に存在するはずのこれらの本の第一原因について語っているのである。もっともあるひとつの本が他のある本から模写されうるのは自明のことであって私もそれを容認ー否、予想する。しかしいま言っているのはそうしたことではない。」

面白くないですか。この後の國分さんの解説を読むとなるほど、と思うと思う。これ、人の話を聞くときにもそう、と勝手に別の話にしてはいけないのだけどどっちがどっちかなんて観念次第でしょう、ということでもあると思う。これって私が治療でよくいう「いいとか悪いとか上手いとか下手とか嘘とかほんととかはあまり関係ない」というときの感覚を思い出す。この本、デカルトを読むスピノザに対する國分さんの姿勢が一貫して他者というか、研究者の立ち位置の維持には強固な意志が必要なのだろうなと思った。この本を読んでから岩波新書の『スピノザー読む人の肖像』を読むとすごくスッキリした本だなと思うのだけど実際に読んだときは粘りが必要だった。粘ってよかった、と思えるのが國分さんの本だし、いい本ってことだと思うけどね。

さてさて、夜中までこんな読書をせずに読まねばならない本があるのだ。しかも英語だ。はあ。がんばりましょ。

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自称。

風の音。洗濯は早朝にできあがるようにタイマーをかけていた。早すぎるのでベッドに戻る。エアコンが微妙に寒かったり暑かったりで寝たり起きたりしてしまう。夏は本当にちょこちょこ仮眠とりながら生きながらえる感じか。それにしても眠い。いや眠くない。寝たい。これだ。少し寝てまた起きた。宇多田ヒカルが聞こえたから。

宇多田ヒカルが精神分析を受けていたと聞いて精神分析に興味を持つ人が少し増えたらしい。日本の場合、「精神分析」を頻回の設定でのカウチでの自由連想、という捉え方をしている人は少ない印象。私のところにこられる場合は、私が実際におこなっている精神分析の方法を説明するのでそこではじめて「そうなんですね」と理解される場合も多い。もちろんオフィスのWebサイトにも詳細に書いているし、皆さんそれを読まれてから申し込むようなのだが人間って意外とこういうところがある。馴染みのない情報を処理する枠組みを持つのは自然にできることではないのだ。「書いてあったでしょう」「言ったでしょう」というのは継続的に会っていても「あれ、そうだっけ」となることも意外とあるのだから面白いものだ。それに私が所属する国際精神分析学会(IPA)の制度に則ったものだけが「精神分析」ではないので、自称でも構わないのだと思う。もし私が「自称精神分析家」だったらそう言うけど。それは私が認知行動療法を求められてこれこれこういう本とセミナーで勉強したくらいで実践経験ほとんどないですよ、というのと似たようものでとにかくその人の言葉での説明は大事だろうと思う。実際やってみないとそれがそれでないことにもはっきり気付くことはできないのだから曖昧なものを「自称それ」と言いながらやるのもなしではないだろう。それぞれの臨床家の倫理や治療観による。

ラカンを読んでいて情動論的転回について考えるに至ったが精神分析独自の文脈があるからやはりまたフロイト『夢解釈』に戻ることになる。不思議だ。このテキストは本当に原点なんだな。

今日も暑くなりそう。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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ハムレットとか。

今朝も鳥よりエアコンの音を先に聞いてしまった。あと洗濯機。電気の音ばかり。アメリカ西海岸での生活を体験した組で最初は一人前をシェアしていたのにしなくなったとか何キロ太ったとか冷蔵庫がどうとかこうとか話した。最近の家電の相場とか全くわからない。ガソリンが本当に高くなったと思うのはガソリンスタンドを日々目にするから。家電量販店にそんな頻繁には行かないから「あれ、こんな高いのからしかないんだっけ」とか思うことはあるけど変化を体感できていないからいつも曖昧。我が家は家電の持ちが良いらしく、それはありがたいがこの時期に冷蔵庫とか壊れたらすごく嫌ね、という話もした。うちはもう20年使ってる。でも作り置きを常にしているとかではないからダメージはそんなにないか?いやいや、今は果物がいっぱいあるから絶対だめ。チョコも結構溜め込んでるからだめ。このうちめちゃくちゃ高温になるから、など思った。

ラカンを読み始めたら止まらなくなってしまって『ハムレット』まで読み始めてしまった。ラカンじゃないじゃん、ってそう、もちろんシェークスピアなんだけど、ラカンが引用してるから。フロイトもしてる。フロイトの解釈にはある程度慣れているからラカンの解釈が新鮮で(私にはあまり面白くないけど)そうなるとやっぱり引用元を読みたくなるというのは自然な流れでしょう。シェークスピアは角川から出ている河合祥一郎の新訳を読むようになった。子供の頃は翻訳が誰かなんて気にしていなかった。『ヴェニスの商人』が怖くてしかたなかった。何度も何度も読んでしまった。怖いもの見たさって言葉は本当に的確。ハムレットと母ガートルードのやりとりもいいがやはり心に響くのは狂ってからのオフィーリアのセリフ。割と早くに退場してしまうにもかかわらず彼女だけがその世界で美しい花である。それゆえに狂ってしまうのだろうけど。でも最後まで知的。ハムレットがウジウジと激しく揺れ動くことにはそれほど混乱していないのに舞台が血生臭くなっていくにつれ死を花に変えるオフィーリアの力が弱まっていくようで悲しい。ガートルードがそういうものを生き抜いている大人の女として彼女をいたわるような場面も悲しい。ああ、語彙が少ない。美しい、悲しい、しか出てこない。ハムレットめ、やたら饒舌な王子様で腹が立つがあの憎めなさはなんなんだろうね。不思議。って、私は全然精神分析的ではないな。精神分析的なというかフロイトとラカンの解釈はあまり面白くないよ。さっきはカッコ付きで書いたけどやっぱり私はそう思ってるってことだね。一緒に舞台見に行っても面白くなさそう。一緒に行くことがないから好き勝手言えますけどね。でも一緒に行くならフロイトの方が楽しそう。きちんと会話してくれそう。こういうのはイメージだから。ハムレットのイメージだって人それぞれでしょう。シェークスピアはいいなあ、やっぱり。

昨日服の上からたくさん蚊に刺されて痒い。舞台上にはずっと痒がってる人とかあまり出てこないね。いつも虫追い払っている人とかは出てくるね。これは状況説明のためだろうけど。派手に腫れてて痒い。お薬持ち歩こう。今日も暑そう。どうぞよい1日を。

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衰えつつ学びつつ

パイナップルを切った。ジューシー。昔は苦手だった果物。多分、缶詰の印象が強いのだと思う。シロップものはなんでも苦手だったから。今回は丸ごと一個もらったのだけど美味しいねえ。ありがたや。

定期的にトレーナーさんに鍛えてもらってるのだけど体幹の強さを褒められて嬉しい。でも柔軟性とバランスが苦手。この前、びっくりしたのは平均台に乗るように脚を前後して目を瞑ると長時間立っていられない。これ、車酔いとか眩暈とかの予防になるようなんだけど「目からの情報に頼ってるから」と言われて私の場合は本当にそうだなあと思った。肩甲骨を動かすとかも最初は全く感覚がわからなくて先生に動かす部位を触れてもらいながら動きを手伝ってもらってもどうしても肩を張ってしまったり肘を変なふうに使ってしまってた。でも鏡で姿勢を細かく見ながらやっていたら身体感覚としてはわからなくても形を整えようとする意識で「あ、こうかも」とわかってきた。今はようやく鏡を見なくても脳から指示がいくようになった感じ。足首もすこーしずつ柔かくなって横スクワットもやっときれいにできるようになった。これまでなんでも大きい筋肉使ってなんとなく形でやってきたから筋トレの本質がわかっていなかったことがよくわかった。筋力をバランスよく使えると形もきれいになるしスッと動ける感じが自分でもわかる。できていないときはどこかしらに違和感がでる。そういう細かいことに意識が向くようになったのはよかった。落ち着きないと怪我も多いから大変。若い頃はそれこそ力技と体力でどうにかなってたけどもう還暦見据えてるからね。脳機能のためにもバランス感覚の運動は自分でもやっていこう。

衰えゆきつつも新しいことを学び続けているわけでこれは年の功というか、学ぶ姿勢はいい加減身についているのだねえ。新しいことといっても今更精神分析から離れる暇もないのでラカンとかだけど。ラカン学ぶには結局哲学書も読むけどこれは今までも趣味で読んできてるから楽しい。最近は

Jacques Lacan, Ecrits: The First Complete Edition in English, Translated by Bruce Fink in Collaboration with Héloise Fink and Russell Griggから

La direction de la cure et les principes de son pouvoir, in: Écrits, pp. 585-645.をブルース・フィンク『「エクリ」を読む 文字に添って』(人文書院)と一緒に読んでいた。

1958年7月10日から3日間の国際会議で話された報告の原稿(かな?)。ちょうど66年前ですね。出版は1961年、La Psychanalyse, vol. 6。『エクリ』は1966年。フランス語だったらネットで見られるのだけど英語でも超超地道。私のReading Freudに出ていた人はこの論文も読めるよ。『夢解釈』をきっちり読んだから。ラカンのおかげでフロイトを読むのはもっと楽しくなった。そしてこの論文はとても臨床的。治療者自身の姿勢、特にIPA所属の私には意識すべき指摘もたくさん。この前、小さな症例検討会で「最近ラカン読んでるんだけど」と「自我の強さ」についてラカンが書いていることを話してみたら「なるほどねえ」となった。私たちは小此木先生や深津先生、中村先生から自我心理学を中心に教わってきた世代だから「自我」をなんとなくわかったものとして扱いがちな気がする。でもラカンがクリスを読み込んでいたりアメリカ自我心理学の大家を批判しているのを読むとやっぱりフロイトに戻って考え直さないとな、と思う。技法につながってくるから。こうやって行きつ戻りつしながら一生を終えていくのだねえ。相手が巨大だとこっちは最後まで道なかばのまま。でも大事だからやりましょう。シニフィアン。シニフィエよりシニフィアン。今日はなんかお天気荒れるらしい。嫌ね。気をつけて過ごしましょう。