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日本の精神分析家の本

日本の精神分析家の数は多くありません。国際精神分析学会(IPA)所属の分析家でいえば1学級ほどの人数で、訓練のための分析を提供する訓練分析家となると数えるほどしかいません。(日本精神分析協会HP参照 http://www.jpas.jp/ja/

だから精神分析なんて全然身近じゃない、かというとそうでもなく、精神分析家は意外と身近なのです。たとえば土居健郎先生、たとえば小此木啓吾先生、たとえば北山修先生、たとえば、、とあげていけば「あ、この人知ってる」という方は結構おられると思います。

精神分析家の先生方の発信力が強力、というか大変個性的なので、これまた少しずつですが、先生方の本について下記URLのブログでご紹介したいと思います。すでに書いたものもご関心があればどうぞご覧ください。

日本の精神分析家の本(妙木浩之先生)

日本の精神分析家の本(北山修先生、藤山直樹先生

精神分析の本

ちなみに私は、大好きだった合唱曲、「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者が、この北山修先生だとは全く知りませんでした。

精神分析ってまだあるんだ、と言われることもありますが、精神分析は特殊な設定にみえて、というかそれゆえに、すごく生活に近く、先生方の本に出てくる人たちはみな、私たちが自分自身のなかにもみつけられる部分をお持ちです。あまり難しいことは考えず、できるだけ無意識にしたがって共有していけたらと思います。

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同時性

私は、精神分析家について何か書くとき「日本の」とか「今も実際に会える」とかあえて付け加えたくなります。それは「同時性」というのをとても大切に思うからです。同じ国に生まれて、同じ時代を生きて、同じ学問を愛して、同じ場所をともにするなんてとても特別なことのように思いませんか。

 たとえば私は、土居健郎先生とは同じ会場にいたことはあるけれど言葉を交わしたことはありませんし、土居先生の考え方やお人柄などはひとづてや本でしか聞いたことがありません。一方、小此木先生以降の東京の先生方にはご指導をいただいてもきましたし、日本精神分析協会の先生方は特に身近に感じています。だからといって土居先生は遠く感じるということではなく、実際にお会いできたことで遠くは感じないのです。

 私より若い世代の方にとって、小此木先生や土居先生は等しく遠いレジェンドのように感じられることもあるようですが、「実際に同時にここにいた」という事実、そして実際にその場で私が受けたインパクト、それは知らない相手に対して自分勝手に言葉を繰り出すことを難しくします。だから知ろうとする、対話を試みる。フロイトを読むのもそのためです。

 それに、過去の過ちを繰り返してならない、とばかりになされる試みがその過去にすでになされていたことを知ることもしばしばで、そんなときも知るのは自分の無知でしかありません。若いときにはそれこそ若さだからいいと思いますがもうそろそろそういうのはいいかな、という感じがしています。多分、またやるけど。

 同時というのは過去、現在、未来、という直線的な時間軸を超えていく概念だと私は思います。精神分析でいう「今ここ」が単純に「あのときそこで」と対比できないように、それは今より前も今より後も含みこむ生成されつつある時間なのだと思います。だから、私の中で生き続けている実際に同時にここにいた人たちをとても大切に思うのです。

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密、親密、秘密

6月に社会学の本を読んだよ、ということで気鋭の若手社会学者、中森弘樹さんの『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』を取り上げました。

この本、コロナ関係の本かと思ってしまいませんか?題名だけみると。でも違うのです。出版は2017年ですから。そのくらいコロナは親密性と責任について考えることを余儀なくしたウィルス、というかもはや出来事となったと思いませんか。

そして、コロナ関連の本が続々。本というか雑誌?みなさん、仕事が早くてすごいです。危機のときの情報の取り入れ方は人それぞれだと思いますが、私はネットニュースやSNSで流れてくる情報をぼんやり眺めながら、そのなかでも信頼している書き手が参照している元の資料や文献をみて、でもよくわからないから関連のもみて、とかやりながら自分の仕事をどうしていくかを考えています。終わりがない作業ですねえ、こういうのは。開業だと最後は自分で決めるしかないけれど。

研究者のみなさんはすでに視点が定まっているから「この視点でこの出来事を見た場合」という感じで書けているわけでしょうか。これが臨床との違いかなぁ。でもこういう雑誌を読むときもどの論考も大抵「今の時点で」というような言葉は入っているわけだから変わりゆくものとして取り込むことが大切なのかもしれませんね。

あ、「こういう雑誌」というのは2020年8月に出た『現代思想』のこと。今号は、パンデミックを生活の場から思考する、ということで「コロナと暮らし」という特集を組んでいます。目次は青土社さんのHPをご覧くださいね。

冒頭に挙げた中森さんの本、やはりコロナにも通ずるテーマですよね。親密性と責任。ここでは、【家族と「密」】という分類(分類、やや雑ではないか?と思わなくもないけどスピーディーな作業には必要かもしれない)で『「密」への要求に抗して』という論考を書かれています。

 まず、「コロナ離婚」という言説、あるいは社会現象を「ステイホーム」がもたらす親密圏への過負荷に対する私たちの不安感を示唆するもの、として捉えるところから始まるこの論考。

ワイドショー的な言葉の使い方はこうやって言い換えてもらうと急に自分のこととして考えられる言葉になるような気がします。これぞ専門家の役目かもしれません。

「密を避ける」、で「ステイホーム」、といってもそもそも「家族」って形式としては「密」ですよね、でもそこは前提だから議論は避けて通りますか、だとしたらそれはなぜでしょう、みたいな疑問を中森さんはきちんとしたデータをもとに書いておられて、「それを自明の前提として受け入れるとき、その背景にはどのような規範が存在しているのだろうか」という「問い」に変換していきます。

「そんなの当たり前じゃない?」というのは昨日書いたような「あっちがあるじゃない」というのとたいして変わらないような気がします。前提を顧みること、「前提が、現状に対してとりうる選択肢を狭めている」可能性を考えること、中森さんがここでしているのはそういうことかと思います。

「家族を特別視する背後にあるもの」を検討するために援用されるのは山田昌弘(2017)。私にとっては久しぶり。あとは読んでいただくのがいいと思うので詳しくは書きませんが、確かにコロナ禍のコミュニケーションのなかで、それぞれが前提としている「家族らしさ」ってあるんだなぁ、と思ったのは本当。そしてその前提から要求が生じ、いつの間にか大切にしたかったものはなんだったっけ、となることも確かにあると感じます。

中森さんはご著書でも「親密」をキーワードにされていましたが、ここでも家族にとどまらない親密な他者との関係について、まずは「親密圏」とはという概念から教えてくれます。これも昨日書いた「広場」の概念を考えることと私には重なってきます。

とサラサラ書いていたらなんかすごく長くなってきてしまいました。読みにくいですね。もしご興味のある方は、まずは本屋さんでちょっと見てみてください。他の方の論考も興味深いです。

中森さんのこの論考、最後はジンメルの「ある程度の相互の隠蔽」を引用し、「ステイホーム」においては、「秘密」「奥行き」、すなわち「距離」あってこそ生じるものの確保という課題が想定されるため、「「密」への要求に抗する新たな規範を構築してゆく必要がある」と結ばれています。

ここは土居健郎の「隠れん坊」とか「秘密」の概念と重ねて考えるところです、私の専門としては。

そういえばジンメルも「人間関係論」のテキストに出てくるなぁ。有名な社会学者です。

「人間関係」は本当に幅広くて複雑で難しいこともたくさんですが、目の前の誰か(とかSNS上の文字とか)のキャッチーな言葉に自分のことを当てはめたり、当てはめられたりしてしまう前に、「なんでこんな不安なのかなあ」とかまずは自分のこころの奥行きを使ってみてもよいかもしれません。本来であれば、そこは秘密の場所だと思うので。

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出自

小此木啓吾先生の古希とフロイトの誕生日を祝う学術集会が収められた『精神分析のすすめ』(2003、創元社)という本は冒頭に三浦岱栄先生(小此木先生が慶應の精神科に入局したとき(昭和30年、1955)の教授、『神経病診断治療学』の著者)との激しい葛藤が綴られている。ものすごく高度な戦いで、その中で「僕は精神分析に負けた!」といえる三浦先生がすごいなと思った、とTwitterで書いた。

本当にそう思う。「第一部 各研究の個人史的背景と次世代へ」と名付けられたこの最初のセクション「神経学との出会いー三浦岱栄先生と」でこのエピソードを話す小此木先生の討論者が狩野力八郎先生で、もうお二人ともいらっしゃらない。

小此木先生が書かれた何冊もの本、遅筆だったといわれる狩野先生の著作集、そして日本の内と外を橋渡しした土居健郎先生、北山修先生の著作などは精神分析は精神分析でも「日本の」精神分析について深く考えさせられる書き方がされている。

精神分析がクライン、ウィニコット、ビオンによって母子のメタファーを用いることでその潜在力を開花させたように、私たちも何かと出会うとき、自分という存在、自分の考えの由来を早期のできごとから探らざるを得ない、わけではないかもしれないが何かを人に伝えようとするときその基盤となった個人史に言及する人は多い。

出自を知る。多くの文学が描いてきたようにそれは類型化されるものではない。生まれることの理不尽を、生きることの理不尽を、私たちは感じながらどうにか生きている。自分とは違う誰かとの出会いがいかに生を揺さぶるとしても、その生を規定されたものとして諦めることなく、その潜在力を信じたい。

様々な報道を目にしてふとそんなことを思った。