土居健郎は精神療法のなかでも精神分析の立場にたち、フロイトが著作で述べてきたことは常に背景にみられる。一方、常に対極にある精神療法として登場するのが森田療法である。『精神療法と精神分析』の「第2章治療場面の設定」の「(2)時間の条件」は「(1)場所の条件)」の構成とほぼ同じになっており、どちらにも森田療法との比較が述べられる。森田療法は患者の反応一切を「不問にすること」が構造的特徴であると述べられていることに少し驚くが、土居はその背景に常に医者の権威をみているように思う。
時間的条件を考えるには時間の治療的意味について考えなければならないが、土居はここでランクに教えをうけていたJ.タフトを引用する。土居を読んでいると今はあまりとりあげられない治療者の名前が色々でてきて歴史を感じることができるから楽しい。土居はタフトが強調する時間の制限性よりも「時間がわれわれにとって唯一の存在の仕方である」ことを強調する。時間=存在の仕方、というのはいささか奇妙な記述だが、時間に対する態度=人生に対する態度、といいかえることもできるかもしれない。土居は時間をうけいれるということは単にその制限性を認めることではなく、「時間の中にとどまることである」と述べる。土居は私たちが苦痛の中にある時、時間から逃げ出したいとう衝動を感じることを知っている。いわゆる「抵抗」のひとつだろう。この箇所だけで私は何人もの患者とのやりとりを思い出せる。精神療法は、治療者が自らの時間を患者に与えることによって、彼らに時間の中で問題を解決することを促すことである、と土居はいう。このようにして設定された「時間の中にとどまること」ができるかどうか、同時に、総ての精神療法の時間にいつか終わりがやってくる」という現実を認め、不可避的な欠陥と限界をもつそのような時間を貴重な体験として活用できるかどうかは、治療者と患者という特殊な人間関係における双方の問題だろう。治療者においては、時間を与え、それに終止符をうつ際に現れる自身の「人間的な権威」を否定しない、ということも課題のひとつである。決定権は双方にあると口ではいえるが、それを最初にいえたり、承諾する側に立つほうに権威があるといっていいだろう。
私は若い頃、ある医者に「心理の分際で」といわれたことがある。「心理」というのはこの業界の人にとって心理職のことである。「メンタル」と同じくらい雑な言葉の使用だと思うが、それはともかく、当然「のび太の分際で」を思い出し、心底あきれ、辞めるときもなんの未練もなかった。そこで出会った人たちとの関係は今も続いているが。それにしても当時、私はまだ大学院生だったので正確には心理職ではなかったし、そこで心理士としての仕事というよりなんでも屋みたいな仕事をしていたので今思うと「心理の」という区分け自体にも疑問を感じるが、まあ、権威というのはそういうこともできてしまう、ということらしい。雇われている側が「雇われの身のくせに」とか言われたら、それは「囚われの身のくせに」というのと似たようなものだと思うが、自分の身を立てるために他人を雇ったのだから、それはものすごく対等な関係である(実はそうではないことは土居の話でもわかると思うが)ということがわからないのならひとりでやってみればいいのに、とも思う。誰かを支配することでひとりでやってるとかやってやってるとかみたいになるのはおかしいと思う。このことはこの場所は、この時間は誰のものかという話として、土居の話を重ねることもできるが、今日はここまで。
昨晩の月もとてもきれいだった。今日はどんな一日になるかな。良いことありますように。









