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精神分析

プライバシーとかシークレットとか。

個室という環境で語られたり打ち明けられたりする秘密に対して「単にあわてふためくか、あるいは患者の要求をまともにうけてそれに答えようとして無理をするか、それともせめてもの同情をして終りにしてしまうか、三つの中のどれか一つ」にならないようにするにはどう対処すればいいか。土居健郎のこういう書き方にはユーモアがある。ご本人は大真面目なのかもしれないが、三つの中のどれか一つなんだ...患者の問題が千差万別であるという認識に乏しい人はたしかに秘密を打ち明けられることに対する耐性が低いかもしれない。秘密を打ち明けられることに対して、というより、自分が知らないことに対して、と広めに考えてもいいと思うけど、秘密というのは本人がそれを誰にもいわない、いいたくない、いってはいけない、と判断した事柄だから本人も伝え方がわからなかったりもする。土居は通常の診察室のやり方では個人の秘密(privacy)は保たれない、と書いているけど、そのあとの記述における秘密はsecretではないのかな。もちろんここでは場所の条件について書いているのでプライバシーのほうが適切だろうし、プライバシーが守られればシークレットもまだ「秘密」の領域で語れると思うけど。こちらから「何か秘密おもちですか」と聞く人はいないと思うけど。言えないから秘密なんだし。でもこちらが患者が、というか人間は秘密を含め、自分の知らない部分以上に、触れられたくない領域をもっている、という認識に乏しいと意図せず秘密に触れてしまうこともある。そして触れられたほうもそれによってはじめて「秘密にしてたのに!」と衝撃をうけるかもしれない。秘密が最初から秘密として本人に認識されているとは限らないのである。そしたらきっと、こんなプライバシーが守られない場所では何も話せない、と思うだろう。この場合のプライバシーは、人には入り込まれたくない領域がある、ということと、そこには触れられたくない秘密があるかもしれないのだ、という二重の意味をもつのでやはり訳はprivacyでいいのかもしれない。

患者には、とうか、いちいち言い直すが、人には誰にでも秘密がある、という事実(だよね?)に慎重であればそれが語られたり打ち明けられたりしたとき、土居があげた3つ(それ以外にもあるだろうけど。無視するとか、いらだつとか)のような反応をしないですむこともできる一方、その内容を知ろうとしない、踏み込まない、という判断もできる。土居が書いた三つは余白や余裕のなさを示す行為である。よって、治療者が役に立てる場所をつくりたいのであれば、それらを保障するための privacy が必要であり、そこで初めて患者は「話す/話さない」を決められるのである。そしてこの保障は治療者側にとっても必要である。

土居は場所の条件について書かれた箇所で少し唐突に自由連想について触れる。フロイトが、患者と一日中眼をあわせているのは堪えられないので患者を寝椅子にねかせて話させる方法を思いついた、と述べたことについて土居は検討する。これが精神分析の「場所的構成の設定」のはじまりであることに私も改めて思いをはせる。この設定は、『精神療法と精神分析』の第一章で述べられた「精神的距離」を実際の距離とし、治療者側の余裕を生み出す。治療者側の余白や余裕がないと秘密を守る(患者がそれを言葉にする場合もしない場合も)ことは難しいので、この設定は治療者のみならず患者の役にも立つ。

土居は、この設定によって「患者はこれまで問題の解決を徒に自分の外に求めていたのにひきかえ、自分の背後について自分を観察する治療者の存在によって、問題の出発点である自分自身を見つめることができるようになり、かくして問題の真の解決に至る道が開かれるのである。」とあっさり大きな達成への道筋を書いているが、この設定の導入がもつ侵襲性についてはここでは触れていない。

と、今日も土居健郎の文章からあれこれ書いてみた。こんなことやってたら一章どころか一生読み終わらないよ、と思うかもしれないが、こういうのは何度か読んでいる人の遊びみたいなものだから。私は、読書は、最初は何も考えずに全体を読み通したほうがいいと思っている。難しいとかわからないなんて当たり前なのだからとりあえず話きこうか、みたいな感じで読む。

患者の話を聞く場合も同じである。わからなくてもなんでも最初の語りは一生懸命耳を傾けてそのまんま聞くことがなにより大事だ。問うことはいつだってできる。

そうだ。「聞く」「訊く」の違いってあるよね、と先日、ドラマをみながらふと思った。「ききたい」というセリフがあってこれはどっちの「きく」なんだろうとか。大抵はどっちもなんだろうけどどちらかが強調されることもある。「きいてもいい?」という場合は「訊く」の意味が結構含まれてるだろうし、とか。

まあ、人の話をきく仕事をしているとこんなことばかり考えてしまうわけです。私だけではないと思う。

昨日も晴れたりうっすら雨が降ったりだったけど気温はそれほど高くなかった気がする。移動が長かったので起きている時間はアイデアを少しまとめることができた。頭使うとすぐ眠くなってしまうから大体うとうとしていたけど。

今日は月曜日。また一週間、がんばりましょう。今週もよろしくお願いします。

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精神分析 読書

密、親密、秘密

6月に社会学の本を読んだよ、ということで気鋭の若手社会学者、中森弘樹さんの『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』を取り上げました。

この本、コロナ関係の本かと思ってしまいませんか?題名だけみると。でも違うのです。出版は2017年ですから。そのくらいコロナは親密性と責任について考えることを余儀なくしたウィルス、というかもはや出来事となったと思いませんか。

そして、コロナ関連の本が続々。本というか雑誌?みなさん、仕事が早くてすごいです。危機のときの情報の取り入れ方は人それぞれだと思いますが、私はネットニュースやSNSで流れてくる情報をぼんやり眺めながら、そのなかでも信頼している書き手が参照している元の資料や文献をみて、でもよくわからないから関連のもみて、とかやりながら自分の仕事をどうしていくかを考えています。終わりがない作業ですねえ、こういうのは。開業だと最後は自分で決めるしかないけれど。

研究者のみなさんはすでに視点が定まっているから「この視点でこの出来事を見た場合」という感じで書けているわけでしょうか。これが臨床との違いかなぁ。でもこういう雑誌を読むときもどの論考も大抵「今の時点で」というような言葉は入っているわけだから変わりゆくものとして取り込むことが大切なのかもしれませんね。

あ、「こういう雑誌」というのは2020年8月に出た『現代思想』のこと。今号は、パンデミックを生活の場から思考する、ということで「コロナと暮らし」という特集を組んでいます。目次は青土社さんのHPをご覧くださいね。

冒頭に挙げた中森さんの本、やはりコロナにも通ずるテーマですよね。親密性と責任。ここでは、【家族と「密」】という分類(分類、やや雑ではないか?と思わなくもないけどスピーディーな作業には必要かもしれない)で『「密」への要求に抗して』という論考を書かれています。

 まず、「コロナ離婚」という言説、あるいは社会現象を「ステイホーム」がもたらす親密圏への過負荷に対する私たちの不安感を示唆するもの、として捉えるところから始まるこの論考。

ワイドショー的な言葉の使い方はこうやって言い換えてもらうと急に自分のこととして考えられる言葉になるような気がします。これぞ専門家の役目かもしれません。

「密を避ける」、で「ステイホーム」、といってもそもそも「家族」って形式としては「密」ですよね、でもそこは前提だから議論は避けて通りますか、だとしたらそれはなぜでしょう、みたいな疑問を中森さんはきちんとしたデータをもとに書いておられて、「それを自明の前提として受け入れるとき、その背景にはどのような規範が存在しているのだろうか」という「問い」に変換していきます。

「そんなの当たり前じゃない?」というのは昨日書いたような「あっちがあるじゃない」というのとたいして変わらないような気がします。前提を顧みること、「前提が、現状に対してとりうる選択肢を狭めている」可能性を考えること、中森さんがここでしているのはそういうことかと思います。

「家族を特別視する背後にあるもの」を検討するために援用されるのは山田昌弘(2017)。私にとっては久しぶり。あとは読んでいただくのがいいと思うので詳しくは書きませんが、確かにコロナ禍のコミュニケーションのなかで、それぞれが前提としている「家族らしさ」ってあるんだなぁ、と思ったのは本当。そしてその前提から要求が生じ、いつの間にか大切にしたかったものはなんだったっけ、となることも確かにあると感じます。

中森さんはご著書でも「親密」をキーワードにされていましたが、ここでも家族にとどまらない親密な他者との関係について、まずは「親密圏」とはという概念から教えてくれます。これも昨日書いた「広場」の概念を考えることと私には重なってきます。

とサラサラ書いていたらなんかすごく長くなってきてしまいました。読みにくいですね。もしご興味のある方は、まずは本屋さんでちょっと見てみてください。他の方の論考も興味深いです。

中森さんのこの論考、最後はジンメルの「ある程度の相互の隠蔽」を引用し、「ステイホーム」においては、「秘密」「奥行き」、すなわち「距離」あってこそ生じるものの確保という課題が想定されるため、「「密」への要求に抗する新たな規範を構築してゆく必要がある」と結ばれています。

ここは土居健郎の「隠れん坊」とか「秘密」の概念と重ねて考えるところです、私の専門としては。

そういえばジンメルも「人間関係論」のテキストに出てくるなぁ。有名な社会学者です。

「人間関係」は本当に幅広くて複雑で難しいこともたくさんですが、目の前の誰か(とかSNS上の文字とか)のキャッチーな言葉に自分のことを当てはめたり、当てはめられたりしてしまう前に、「なんでこんな不安なのかなあ」とかまずは自分のこころの奥行きを使ってみてもよいかもしれません。本来であれば、そこは秘密の場所だと思うので。