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共感

常に眠い。眠気をごまかすために何かをしているような生活。昨晩も起きていなければと思ってなんとか作業していたのにいつの間にか眠ってしまっていた。断続的に寝たり起きたりを繰り返しているうちに朝になった。虫が規則正しく鳴いているのを聞きながら眠り、途中雨の音に目覚めた。ズキーン、ジワーっと続く頭痛も自分だけのものではないみたい。世界との境界が曖昧。

こうしている間にも何度かウトウトした。

自分の「ダメさ」について語る人は多い。じーっと聞いているとそれがいつのまにか別の誰かの「ダメさ」についての語りになっていることがある。これを「人のせいにして」というのはたやすいが自分と他者の境界の曖昧さとして聞くことも可能だろう。

私はここで「配慮」とか「ケア」とかいう言葉を使うとき自分が相当の疑わしさを持ってそれらを使用していることを意識する。昨年は「ケア」という言葉がやたらと飛び交っていたように感じたがそれも私の狭いTLでのことかもしれない。

マイケル・スロート『ケアの倫理と共感』も昨年出版された。ギリガンやノディングズが立ち上げたケアの倫理を規範倫理学の立場から精緻化する本書は私が普段どちらかというと退けている「共感」を鍵概念としている。

「真正な共感や成熟した共感においては、共感する側の人間は、自分が相手とは異なる人間である、という感覚を維持しているのである」

「真正」という言葉にもいつもややげんなりしてしまうのだがこれも私が「共感」という言葉に示す態度と似ている。

たしかに自分と相手とは異なる人間である。それは紛れもない事実だ。でも私たちはわりとたやすく誰かに乗っ取られながら生きているのでは?と私は思う。だから差異がうやむやにされ共感は支配と紙一重となりやすいのでは?と。

むしろその状態が自分にとって危機であるという自分の声に耳を傾けられたときがその状態が他者にも生じているのではないかと想像する契機となるのでは?それを共感と呼ぶならそれはそうかもしれないなどと思う。

また契機はあくまで契機でありそれが活用されるかどうかはまた別の話である。そこで立ち止まり周りに他者がいることに気づけるか、そしてその他者が自分とはまるで異なる状況にあったとしてもこの誰かに乗っ取られている状態にあるという点では同じだというところから出発できるか、もしできないとしたらなにがそれを妨げるのか、そのようなことを考えるうえでスロートの「共感に基づくケアの倫理」は多くの示唆を与えてくれそうである。難しいので読んだり積んだり(じゃないや。電子版だから。)していてまだ途中。

カラスが鳴いているなあ。元気ってことかな。私はお煎餅も食べたよ。ちょっとしけってた。なんで「湿気てる」じゃないのかな。多分このまま検索すればわかるのだろうけど前にも検索したことあるような気がするしなのにこうして忘れているわけだしまあいっか。実は今は「しっけてる」が標準ですよ、とか書いてあったらちょっと凹むかもだし。

なにはともあれ台風に警戒しつつそれぞれの日曜日をお過ごしくださいませ。