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5月31日(日)

朝はまだ涼しい。今日も晴れるみたいだけどまた風が強いのかな。昨日は物干し竿が風で落ちた。洗濯バサミをストッパーにしていたけど劣化していた。台風がきているんだなあ。奄美大島は大丈夫だろうか。奄美でスコールを体験したことがあるがあんなにすごい雨が降る地域で台風はどんな猛威を振るうのだろう。被害が出ませんように。

毎日着々と働いているが進んでいない仕事もたくさん。なのに大掛かりな模様替えに手をつけてしまったりする。こういう習性って治らないよね、というか治す気がないのかもしれない。またやってる、と思いつつやってるし。でも梅雨前の大掃除になってよかった。あとどうしても身体が動くうちに、と思ってしまう、最近。それなりの筋力を維持していると思うけど何も考えずに思った通りの動きができることはかなり減ってきていると思う。元々注意力はないけどぶつかったことないところにぶつかったり。ううう、とひとりうずくまりながら滑稽さも感じるけど。人の身体は不思議だ。

Netflixでちょこちょこ「ホームランド」を見ているけど主人公のキャリー、恋しすぎではないか。一人の相手に。才能も何もかも過剰なのが人間味に凝縮されていて面白いしなんか愛おしいけど。

今朝は昨日パン屋さんでおすすめされたパンを食べた。「トーストかまして」という表現をはじめてきいた。ここのパン屋さん、とっても素敵なお庭を受け継いだのにほぼ放置でとても残念なのだけど味は美味しいので時々いく。あーお庭がー、と思いながら。我が家の花壇も春菊が逞しく伸びたくさんかわいい花をつけ終えたので刈り取るか。刈らないで抜いたほうがいいのかな。調べましょう。

紫陽花が満開になりつつありますね。薔薇はだいぶ枯れてきた。緑道の花壇にもボランティアさんが新しい花を植えてくれていた。いつも小さく挨拶を交わして写真を撮らせてもらってる。すると散歩中のおじいさんに大きな声で挨拶をされたりする。だいぶお年だと思うのだけどいつもお元気。私もあのくらいまで元気に歩けているといいなあ。

五月が終わる。良い日曜日になりますように。

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運動会とか。

早速暑い。鳥たちももうどこかへいってしまった。家事をバタバタしてたらもうこんな時間。というかもう週末。今週末は運動会も多いとのこと。熱中症が心配ね。

私はだいたいのスポーツはできたので特に体育が嫌とか運動会憂鬱とかなかった気がする。でも決め事とか練習とか細かい部分をみれば憂鬱だったりウンザリだったりしてた気もする。大人になってNPOで子どもたちと運動会的なこともしてきたがみんな楽しいといいなくらいで燃えるみたいな経験をしたことはない思う。そういう記憶ももうすでに遠いからなんともいえないけど今の時代、こういう科目とつながりのある行事って必要なのかな。練習にやたら時間をさくならそれなりにみんなの負担がよきものに変化するであろうという期待がほしいところ。先生たちや保護者にとってもそう。長く続いてきたものに対しては当たり前に負担を受け入れている場合も多いと思うけど結構大変なことだなと思う状況は多い。運動会に限らず。

なにはともあれみんな無事に楽しい土曜日になりますように。

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『傲慢と善良』、『ほんのこども』など

声の大きな鳥がいる。あの鳥かなあ、と寝ぼけた頭に思い浮かべたのはカラフルな大きな鳥。あの声がして振り向くとその色にいつもびっくりするから多分そう。今朝も朝は曇り空だけどすでに熱を感じる。

先日、Netflixで映画『傲慢と善良』を見た。辻村深月原作。よくわかるという感じは経験の有無に関わらず誰もが馴染みがなくはない関係性を描いているからだが、倉悠貴の演技もよかった。でもやっぱり文字の力は大きい。映画を見た人には原作もお勧めしたい。分厚い本になるわけだ、というそれぞれの心模様が繊細に描かれているから。自分の意志なんてなんて曖昧。でも求めうるもの。

最近、ますます老眼が進んで読書の量もスピードもすごく落ちているが、それでも本を手に取ってしまう癖というのはそう簡単に変わるものでもない。あー、疲れたなあ、と思ってなんとなく手に取ったは町屋良平の『ほんのこども』。最初に読んだときは圧倒されたが大変面白く読んだ一冊。いつも通り内容は細かくは覚えていない。冒頭からの反転具合とスピードがすごかったのは覚えている。少しパラパラしてみたらやっぱりすごい。どういう頭の動かし方をするとこういう文章が書けるのだろう。動かし方というよりそういうふうに動く頭があるということなのだろうけどすごいよなあ。ジャンプ力がすごい。私はここ数日、土居健郎の「甘え」について考える時間が多いので、この本の不穏さを「甘え」が持つ不穏さと重ねてしまったな。まあ「甘え」はこうやってなんでも重ねていける強度というか自由度が高い言葉なんだなという認識をあらたにしてしまったからだが。土居のいう「甘え」がナルシシスティクな方向で働く場合、それは他者を消す動きになるので侵襲的で暴力的ともいえる。「甘え」がネガティブなものとされる場合はそういうものがかぎつけられた場合だと思う。自分を許容してくれる「はず」というのは相手の善意任せすぎるのでそれがただの圧力として作用することもある。一方、それは他者なしでは存在できない自分という存在(主体という言葉はややこしいの使いたくない)との鉢合わせの回避でもあるので自分に対する侵襲性や暴力性を反転させてるだけとも言える、なんてね、かなりのスピードで書くとこういうことを書いてしまうわけで、私みたいな素人はジャンプができない。町屋良平は実際どのくらいのスピードでどのくらい助走したりしなかったりして書いているのだろう。いい本だったなあ。最近のはまだ読んでいないから読みたい。

今日は群馬県前橋市のSWEET SHOP YOSHIDAの「はちみつマドレーヌ」。前橋駅か高崎駅のお土産屋さんで買ったのだけどここのはイラストがとてもかわいい。猿田彦珈琲をもらったのでそれといただいた。

今日も元気に過ごしたいですね。頑張ろう。

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「甘え」とか

朝から蒸し暑い。月曜日まで暑いそう。熱中症に本当に気をつけないと。あっという間に具合悪くなるから怖いものね。

平日になるとなにがなにやらという感じであっという間に時間が過ぎていく。レシピばかり見ている時間は相変わらず長いが美味しく身体に良いものは大事。

土居健郎の「甘え」について一定の理解に達した気がするが、結局どこにでも書いてあるところに戻ってきた感じ。これがこの概念の凄さなんだろうなと思ったが私は一体何を発表すればいいのか、といえばやはり実践から何かいうしかないということになる。土居の「甘え」概念が曖昧なのは土居が実践で自分の概念に追いついていなかったからではないか、という仮説を私は持っている。そこがフロイトのメタサイコロジー概念とは異なるところではないか。でも日常語を用いた概念は日常で使うことでしか育たないと意識して使用していくことが専門界には求められるのだと思う、というようなことをいうことになるかな。

あいからず寄り道して花々を愛ながら歩いている。こういう小さな喜びが続けられる政治であってほしいと毎日思う。今日もがんばりましょう。

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空海とか。

陽射しがなくはないけどまだ曇っている。早速肌がやられてるからこのくらいがいいな。

昨日、協会の仕事の前にちょっとカフェによって土居健郎選集を開いた。土居の甘えに対する執着はすごい。わざと執着と書いてみたがこれは執着でもこだわりでもないな。ふとひとつ向こうの席を見たら「空海」のデカい文字がみえた。空海の言語論を読んだばかりだったのでなんだか嬉しくなった。あの分厚いのは安藤礼二の空海だ。読んでいないが姿形だけは知っている。人間だって大体そうだろう。いいなあ、と思ったが私はしばらく精神分析以外の本であの分厚さの本を読む余裕はない。夏休みになったら読めるかも。もうずいぶん前になるが年末年始を高野山の宿坊で迎えたことがある。単に宿坊にとまっただけだったが早朝の朝勤行に無料で参加できた。足がとても冷たくて辛かったけど厳かなルーティンは興味深く、キョロキョロしたいのを我慢して参加した。宿坊のおもてなしのひとつひとつがとても丁寧でありがたかった。お食事もとても豪華だったがダラダラ食べるものでもないから2度ほど声かけされた。就寝時間も早く、食事が終わると二人のお坊さんがささっと素早く綺麗にお布団の準備をしてくれた。おおっ、と少し可笑しかった。きちっとした生活を一泊二日だけでもしたのはよきことだった。今は老化のために動きが遅くなったMacが原因不明でフリーズしたのも高野山だった。お正月の銀座のアップルストアでみてもらったが原因不明、時間が解決。結局寒すぎたのではないかということだったが真相やいかに。お互い歳をとったね。今度は雪ではない季節にいってみたい。高野山くらいの観光地だと雪でも歩ける道は確保されてるけどやっぱり自由度は下がるし、足腰が健康なうちにもう少し色々歩きたい。でも雪の高野山はそれはそれで静かで厳かで修行気分にはとてもよかった気もするな。空海の話はどこへ。カフェで『空海』を見かけて今流行ってるのかなと思ったけど、空海ってずっと流行ってるといえば流行ってると思う。最澄よりずっとイメージがいいのは多分「日本の歴史」の漫画のせい。空海は中国語も早くから喋れたというしサンスクリット語もあっという間にマスターしたという。母語は日本語だが当時はまだ今のような日本語のシステムは確立されていない。そのような多様な言語環境で考え、書かれたテキストが『声字実相義』だ。今も空海について書いたり読んだりする人がたくさんいるのも言語という根本的なものに対する関心が失われていないからだろう。SNSなどではその力は相当弱まっていると感じるが。そして仏教。あらかじめ無を想定しつつその実相を顕にすること。言葉というものを考えざるを得ないのは宗教が先なのか?勉強しないとよくわからないが。そういえば先日、空海も修行したという広島は宮島の大聖院の霊火堂が全焼した。山火事、神社仏閣の火災が続いているが、燃え盛る日の前に呆然と立ち尽くす人を思いつつ、実景を言葉にしていくことが必要なのだろうと思う。

ソニー・ロリンズが死んだ。高校時代、隠れて聴いたのがマイルス・デイビスで、ほぼ同時にソニー・ロリンズを知った。思い出をかけばキリがない。幸せな人生であったことを願う。

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量とか質とか。

鳥たちが賑やか。今朝はまだ陽射しがそんなに強くない。遅くまで作業していたが寝てもすぐに起きてしまった。老化で睡眠の質が落ちてるように思うので最近はとにかくまともな睡眠時間を増やすために夜遅い食事の量を減らし、とっとと寝るようにしていたが、やりはじめた作業は途中で止めるとまた最初からやり直すことになりがち。続けていくことでしかいけない場所もあるのだ。とかいいながらたいして進んだわけでもないが難しいことを考える頭にはなっていると思う。そういう頭になっているときは難しい本も手にとってしまうもので(理解しているわけではない)中島隆博先生による空海の言語論にまた感動してしまった。というか毎月、Reading Freudで相当頭の中が再構築されたり、フランス精神分析のセミナーでわからなさに浸りながらじっと考え続けたりしているおかげで難しさには慣れている。耳障りのいい言葉ばかり取り入れて居心地のいい世界ができるかといえば全然そんなことはない。むしろ逆だろう。心が痩せるのは簡単。

知らない街に行くとその街の歴史を思う。大規模な団地と大きな公園、街の成り立ちに戦争が関わっていることは多い。広大な農地が荒れ果てるのは戦争のせいだけではないがどちらも人のせいだったりはする。少子化の今、団地に住んでいる世代は高齢者が増えているかもしれない。ただでさえ孤独な時代に物理的にも孤独であることの負担を思うと胸が痛い。それでも東京は人が多い。実家にいる頃、道で人に会わないというのは普通のことだったし、今でも旅先に行けばそんなことはよくある。山だってそうだ。人と人との関わり自体は量より質が重要になる。数で質自体が変容する場合はもちろんあるが。

頭が休まっていないのだろう。まとまりのないことならいくらでも書けそうだが疲れをとるために上質エッセイでも読むか。言葉に傷つき、言葉に助けられる日々。今日がいい一日でありますように。

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バラを見たり考えたり。

夜明けがとても早くなった。朝ご飯もどんどん早くなっている気がする。

週末はたくさんのバラと紫陽花を見た。普段通り歩いているだけでもたくさんのお花に出会える恵まれた環境だけど知らない街のローズガーデンに行った。やっぱり特別だった。それほど広くない空間をゴージャスに彩る薔薇たちとたくさんの人たち。コスプレしたり、小さいぬいぐるみと一緒に写真撮ったりみんな楽しそうだった。あとローズソフトクリームがとてもきれいだった。食べてないけど、すれ違った人のをみてうわあと思った。たくさん写真を撮って遠くに出かけられない人にも共有して喜んでもらえた。

昨日の午前中はようやくまとまった時間で土居健郎を読みながら考えることができた。精神分析は時間もお金も無限ではないということをはっきり意識させられる設定だし、大体の人は死んでしまう前に別れるから。できたら死ではない形でそれぞれの人生で経験したいのが甘えだなと思った。実際に出会っていく以外の方法はないかもしれないけど。

すべきことを忘れていたことに思い出した。やらねば。今週もがんばろー。

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フロイト「欲動と欲動の運命」を読んだり。

早朝から家事をしてNetflixで「教えて?イヌのココロ」を少し見てしまった。かわいい。よくぞ上手に進化を遂げてくれたと思うが、人間がいなかったら別の進化もありえたってことだよね。

昨晩のReading Freudはフロイトのメタサイコロジーの「欲動と欲動の運命」を読み終わった。愛と憎しみの反転を描写する最後の記述が見事。こんなふうに論理展開できたらとても楽しいだろうなと思う。この論文は概念とはなにか、なぜ必要かを考えるうえでも非常に重要だが、フロイトの臨床経験の中で矛盾を孕み、綻びを見せ始めた欲動概念を改めて位置付けようとする仕方はとても面白い。

訳語問題についてもいくつかの論文を読んだがどれも一理あり。IPAのジャーナルで新しいものだとイギリスで訓練を積んでエレサレムで実践をしているレイチェル・ブラスのこれ↓

Blass, R. B. (2024). What’s in a word? A brief reflection on why the understanding of Freud is not changed by replacing the word “instinct” with “drive” and the importance of reading in context. The International Journal of Psychoanalysis, 105(5), 757–765.

イスラエルの精神分析家たちの生活も気になるが、レイチェル・ブラスは古典的な説得力がある分析家というイメージ。この論文に関してはどうかなあ。わかるし、フロイトを読むときにその文脈から本質を捉えるのは絶対的に大事だけど訳語問題に関する議論としては論点をずらしているのではと思った。自分がどの言葉でそれを読むかってすごく大事だから。

それにしても今朝は寒い。暖房をつけてもいいくらいだけどとりあえず厚着している。一日中寒いのかしら。どんな気温でもおなかはすくんだな。でもまだ朝早すぎる。とりあえず白湯飲んで二度寝するか。でもこの積まれた本たちをどうにかせねば。取り組むまでの長さを短縮するにはまずエネルギーチャージか。風邪ひかないように過ごしましょう。良い日曜日を。

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Scarfoneを読んだり。

今日も涼しい、というか寒い。季節があっという間に逆戻り。そしてきっとまたすぐに夏に逆戻り。激しい。厳しい。どちらにしても老いつつある身体を冷やさず無理せず。

今年度はDominique Scarfoneの論文を少しずつ読んでいる。2021年4月にIPAのポッドキャストTalks On Psychoanalysisにも登場していた。このポッドキャストはテキストのリンクが載っているのでそれを読みながら聞くことができて助かる。論文The time before usの短縮版とのこと。副題はThe Unpast W. S. Merwin、Walter Benjamin、Virginia Woolfを召喚しての精神分析的時間論。先日読んだダナの論文と重なり合う。短縮版は最初にノーベル賞作家のフォークナーの有名な文章が引用されている。

The past i never dead.It’s not even past.

フォークナーを読むとハックルベリー・フィンを思い出す。子供の頃の愛読書だった。フォークナーはそんなにたくさん読んでいるわけではないが『ポータブル・フォークナー』のおかげで色々読めるようになった。ドライで怖くて悲しい場面の連続だけど心に重たく響く作品はいい。文学作品が引用されている論文はワクワクするな。

今日も一日長い。がんばろう。とにかく暖かくね(風邪ひきたくない)。

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金曜日

今朝は窓を開けると寒いけど暖房が必要なわけでもないし、家事をしている分にはTシャツで寒くない。昨晩は寒かった。朝は涼しいなと思ったけど薄着で大丈夫だった。昼間外にでたら寒くてびっくり。上着はリュックにもオフィスにも常備しているので夜もそれを羽織って帰った。今日はもう少し厚手の上着を着て暖かくしていこう。風邪ひきたくないけど週末はすごく暑かったのに今これってなると調整が難しい。食べ物だってやっぱり夏はピクルスと思ったばかりなのにやっぱり温かいものが食べたいよーとお豆腐グラタンを作ったり。食欲は気温が低い日のほうが増すね。今朝はお味噌汁とか烏龍茶とかで暖まった。

事故や事件のニュースを見るのが辛いけど、高橋ユキさんの記事とかは追っている。高橋さんがやりとりして公開してくれている無期懲役囚の永田陸人受刑者からの手紙は闇バイトが頭をよぎらない人にも読まれるべきだと思う。「お金のためなら」と人の命が軽んじられる、今やそれが日本社会の中心的な思考なのかもしれないが普通に抗っていく世界に身をおいていきたい。

それにしても雨の音が弱まったり強まったり大変。色々書きたいことはあるがせねばならないことの方が多い。今日は全国的にこんなお天気なのかしら。足元、気をつけて出かけましょう。

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北村紗衣『英語の路地裏』、土居の“失敗”?

少し涼しい。陽射しはない。雨が少し降っている。昨晩は雨は降らなかった。薄着のままで大丈夫だったし。気温はずっとこんな感じがいいな。

英語の勉強もしないとなあと思ったがイヤホンを出すのが面倒で、帰りの電車は北村紗衣『英語の路地裏』を読んでいた。やっぱり本が楽。この本は著者が作った入試問題の章が誰にとっても楽しめる部分だと思う。私はシェイクスピアのところが好きだな。著者の専門だしね。『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』(白水社)もとても面白かった。若い頃、ケンブリッジのカレッジの庭で学生たちが無料のシェイクスピア劇を演じていてすごく素敵だった。英語がわからなくてもシェイクスピアならなんとなくわかってしまうのは単に有名だからというだけでなく台詞回しのおかげだと思う。英語はもっとわかるようになりたいし、わからないといけないけどね、必要だから。

夜ははちみつピクルスを作ったが別のことをはじめてしまいまたふきこぼしてしまった。『あかね噺』もみながらだったし。はちみつをいれる前でよかった。お酢を入れすぎたのでちょっと酸っぱいだけど夏っぽい。この夏はいろんなピクルス作りたいな。

細々と土居健郎をまとめているがまとまった時間がほしい。まとまった時間に遊びに出かけた私が悪いがたまの休みは休むべきでしょう。これまでもすごいなと思ってきたが、自分が精神分析家になって海外の分析家たちを身近に感じながら実践をするようになってから読むとなんかこれまでとは違うすごさを感じる。ものすごくオープンだし正直だし丁寧。誰かが土居先生は失敗事例ばかり書いていると言っていた気がするが「甘え」理論も訓練分析の失敗から生まれているからねと思ったりした。失敗とはいわないか。挫折というのもなんか違うか。精神分析の実践でいえば失敗は環境側にあるだろうし、治療者としての土居先生が書くなら失敗例が多くなるのはそれはそうなのだろう。それを一般的な意味で失敗と呼ぶかどうかはともかく。

憲法が改正されませんように。憲法がたやすく変えられない歴史を持っていることが忘れられませんように。毎日各地で声を上げてくれている人たちに連帯する。

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蕎麦屋

今日もいいお天気、かと思いきや夜は雨とのこと。

この前、蕎麦屋に行った。冷たいお蕎麦を楽しみにいったのに親子丼を頼んでしまった。冷やしたぬきがはじまってたからそれにしようと思ったのにねえ。食べながら俳句を作ろうと思い狭い店内をそっとながらじっくり観察。「はい、今お伺いしますね、すいません」と親切そうで働き者の店員さんが途切れない客にお茶やら水やら蕎麦やらカレーやらを運んでいた。高いところにテレビがあってワイドショーをやっていた。テレビを見ようとすると隣の人がこちらを向いてしまうので、違うの、私はテレビを見てるの、と思いながら見るのをやめた。テレビでは花火の特集をしていた。今は、というか今も、というかいろんな花火があるのね。昔、大きな花火大会用の花火を作っていた人の話を聞いたことがある。なんだかすごい世界だったことだけは覚えている。蕎麦屋の椅子は小さくて背もたれが低くてみんなが大きく見えた。目線の先の棚には赤い板と赤茶っぽい重箱と少し変わった形の竹っぽいセイロみたいなものがたくさん積んであった。それらはいろんな人に運ばれていくお皿とはどれも違っていたし、私の親子丼も丸い陶器のお茶碗に入ってきたからもう使っていない道具たちなのかもしれない。赤い板は出前の名残かな。あれをバイクに重ねてそれらの器を乗っけて出前していたのかな。今はもう出前はしていないようだった。ビールが入っている透明な冷蔵庫の上には大きな招き猫一匹と小さな招き猫匹がにっこりしていた。二人がけの小さな机の向こうのやはり背もたれの低い椅子には新聞があった。私よりあとからきた高齢の方が慣れた様子でそこから新聞をとっていった。4人がけテーブルで悠々と新聞を広げて読んでいた。良い昼だ。すると私の隣の人も新聞に気づいたらしく立ち上がってとっていった。特にそこが新聞置き場なわけもないのだろうけどなんとなくそこに置かれている日だったのだろう。隣の人はいつものそばが季節ものだったらしく「冷やし中華に切り替わっちゃった」と言われ「おビール」と冷やし中華を頼んでいた。「おビール」という言い方懐かしいな、昼間からビール、良い昼だな、と羨ましく思いながらたくあんを噛んだ。冷やし中華のお皿は和風だった。お蕎麦屋さんのカレーも美味しいけど、お蕎麦屋さんの冷やし中華ってなにかそば要素はあったっけ。でもいいな。食べてみたい。最初に新聞を持っていた人はそばとミニカレーのセットを頼んでいた。どのくらいミニなんだろうと登場を待っていたら思ったより普通サイズだった。その人は新聞をたたんで少し離れたところにおいて蕎麦をすすりはじめた。すると私の隣の人もさっき私よりに雑においた新聞をちょっと自分の方に寄せていた。良き。お金を払う場所はまだ透明な衝立があってもしかしたらコロナで出前やめてしまったのかな、とふと思ったりした。店員さんはみんな丁寧で、常連さんも多いみたいだった。私が行った時間はお昼には少し遅めだったので店員さんがお客さん家族に挨拶しにきたりしていた。三人家族だったけど子供が小さな頃から知っているらしい。

とあれこれ観察はしたが俳句を作るのを忘れていた。だめだ、こりゃ。

今日は忘れ物しないようにしないと。いい1日になりますように。

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暑い、母の汗、本

早朝から暑い。太陽が近いような気がしてしまうが暑さと太陽との距離は関係ない。距離が関係あるしてくるのは実際にもっと近い場合。

母の汗の匂いをいい匂いとくっついてる子どもがいた。母は暑いからくっつかないでといいつつ母の汗ばんだ額を小さな手でいじりながら離れないでいるその子を腕に抱えていた。男の汗のにおいほど母の汗が語られないのは母はあまりじっとしていられないからか 汗びっしょりの子供の身体を拭き、着替えさせ、こういう仕事は別に母の仕事ではないがなんでだろう。母の匂い自体は語られない話ではない。

詩が読みたいな、と思って本棚を探りながら林芙美子の「母娘」という話を思い出した。あれに出てくる同棲相手は詩人の野村吉哉だ。ひどい男だったらしいがどんなだったのだろう。

『歌・句・諺のはなし』柳田國男/折口信夫/高浜虚子 著(中公文庫)もとても面白い。

きたない落ち葉をさまざまにいろとりどりに変容させていく虚子の楽しそうな筆致は特に。

今日もせめて熱中症には気をつけよう。みんな元気で過ごせますように。

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あかり、ハイキング

昨晩、遠くに知らないおうちの灯りが見えるなあ、同じ日曜日でもいろんな生活があるんだろうなあ、と思ってカーテンを閉めにいったらおうちの灯りだと思っていたものはその辺りのアパートの廊下の電灯だった。共有スペースの灯りというのはニュートラルな感じがしていいね、と思ったけどその灯りの下で色々している人もいるか。最近は携帯のあかりだけで済んでしまったりもするけれど。バックライトのことだけど。周囲を照らすのではなく文字を浮かび上がらせるもの。暗闇の中であえてみなくてもいいものもたくさんあるだろうし、暗闇に慣れてきて見えてくるものもあるから灯りとのお付き合いは人それぞれですね。

今朝も早速眩しい。東京29度だって。昨日も熱中症に気をつけながら軽くハイキングしたけど思ったより暑くなかった。山の中にあるお寺7つの七福神を巡ろうとしたのだけど途中で道をなくし4つしかいけず。携帯の地図にはあるのに実際の道がなかった。その分、別のところにはいけたけど。山ではお花はあまりみなかったけどハルゼミが鳴いていてびっくりした。春蝉の季語はやっぱり春なのね。私はこうして夏に聞いたけどきっともっと早くから鳴いていたのでしょうし。低山でも山道を10キロ以上歩くとさすがに足がだるい。トレラン用の靴を軽いハイキング用に持っているのだけどそれがまだ足に合わない。使いながら合わせていきたいけど足痛くなるのは嫌ね。ケアしながら合わせていきたい。

ニュースを見るのは毎日辛いけど流れてきてないニュースの方が多いのだろうからプロセスを想像できないと仕組みがわからないままになる。本来、仕組みなど知らなくても安心して暮らせる生活を組み立てるのが政治家の役目だと思うが、今はもうなんか想像力なんて働かせたらゲームに勝てないからこのまま突き進むみたいな感じで、人の命なんてどうでもいい感じだもんね。辛いし怖い。

福山の山林火災も怖い。消防の仕事も大変だ。人への直接的な被害はないのは良かったが間接的な影響は大きいだろう。早く落ち着くとよいが。

今日は月曜日。良い1週間にできたらいいな。

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移動とか読書会とか。

とっても明るい朝。このオレンジは朝だけのもの。とりたちも元気そう。

昨日は移動が多かった。暑かったけどそんなに汗はかかなかった。汗って歩いている間より止まった時にどっとでる感じがするけど電車がちょうどよく涼しいなかゆったり座れた。快適で乗り過ごしそうになったけど。どの道でも色づき始めた紫陽花をみられた。

夜は分析家同士の読書会だった。何度読んでも内容を覚えられないのも困るけど、興味をひかれて一生懸命調べた相手のことを忘れてしまうのも困る。昨日、忘れていたのはHaydée Faimbergというパリでプライベートプラクティスをしているパリ分析協会の訓練分析家。SNSをメモ機能として使っているので検索してみたら昨年3月に彼女の論文をアンドレ・グリーンとトーマス・オグデンの論文と一緒に良きものとしてポストしていた。結局全部ウィニコット関連。ナルシシズムにおけるtemporality、symbolization、subjectivationの文脈で差異の認識の発生と伝達について考えていたらしい。Macにも部分的に翻訳したものが入っていた。ここまでやってどうして忘れるのか、といえば使用していないからだろう。書き物や発表で引用すれば忘れる頻度はかなり下がるはず。すごく雑ながら訳したのはFaimberg, H. (2014) The Paternal Function in Winnicott: The Psychoanalytical Frame. International Journal of Psychoanalysis 95:629-640とメモしておかないとまた忘れる。このブログもほぼ備忘録。忘れる力はこんなにいらないのにな。たぶん、なにかで引用しようと思って訳したのだろうけど結局使わなかったからこんな我が家の放っておかれ花壇みたいな雑さで保存されていたのね。我が家の花壇の春菊は次々にかわいい花を咲かせるのはいいけど茎がたくましすぎてほかの植物を圧迫しつつある。どうにかせねば。

そういえば先日瀬尾夏美さんの連載がはじまった柏書房のウェブマガジン「かしわもち」で渡邉悟史さんの連載『植物暴力論』もはじまった。とっても面白いのでチェックしてみてください。きちんと紹介する時間が今はない。とうか、当たり前だけど私の紹介文より本文のほうが断然面白いから。なんかこういうとき要約しなければという気になるのはどこからきた習慣なんだろう。今はこうやってリンクを簡単に共有できるとはいえ要約文化って必要だしなくなってはいないと思うんだよね。

そうだ、さっきの象徴化、主体化を時間論から考えることはAIと精神分析の違いについて考えることでもあって、AIの即時性と精神分析の遅延、事後性はまず大きい。あとは frictionless、repetitive、adaptiveの観点か。とかね、忘れないで考え続けられたらいいのにね。

とりあえず日曜日。よい一日を。

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地震、サッカー、土居

いいお天気。明日はもっと暑くなるんだって。危険。昨晩の地震はオフィスにいても大きく感じた。オフィスの入っているビルは気持ち悪い揺れ方をする。揺れの強かった宮城はしばらく注意が必要とのこと。大震災からずっと気が抜けない人もいるのではないか。震災のこともそれぞれが語っていくことが大事なのだろう。

サッカーW杯日本代表が発表になった。そんなにきちんと追ってきていないがJリーグ設立が1991年ときくともうそんなかと驚く。先輩の車でベルマーレ平塚の練習を見に行ったりしたのが懐かしい。今は湘南ベルマーレか。鹿島アントラーズの移転問題はどうなっていくのかなあ。古くからのファンにとっては残念なニュースだろう。

昨日も隙間時間は土居健郎を読んだ。土居は「精神療法のための諸注意(1967)」というフロイトの技法論のひとつ「精神分析を実践する医師への勧め(1911)」のような論文を書いている。東大精神科の精神療法演習の経験から書いたという。土居はそこででこれらは初歩的な常識のようではあるが「自分の中に潜む甘えを自覚した治療者だけがこのような心得を身につけることができる」と書いている。逆に言えば「甘え」の自覚がいかに困難かということだろう。実際常識的なことなのに人から指摘されると思わず反発したくなったり「そんなの知ってた」みたいな態度をとって素直に受け入れることができない場合、それは自覚されない「甘え」の行動化といえるだろう。いえるだろうか?わからない。

今日の夜は読書会。まだ何も準備できていないが一度は読んだことがあるものなので思い出せたらいいな。思い出せたことないのだけど。

熱中症に注意しないといけない季節になりましたね。身体大事にしていきましょう。良い1日を。

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酢、瀬尾夏美新連載、土居健郎

好きなライターさんが紹介していたトマトサラダを作りたくてまずはトマトをつける玉ねぎドレッシングを作って冷やした。こういうときのために良いお酢を買ったのだ!なのにお酢をいれわすれたことに後から気づいた。びっくり、だけど最近こういうこと多い気がする、いや、前からかもしれない。前からと思った方が最近多くなった、というより安心できる。この年齢、衰えと不調を実感することばかりだからな。いいお酢はみんな混ぜ合わせたあとになってしまったけどいれた。あーあ。トマトを混ぜ合わせる前でよかった。またすぐきちんとした工程で作ろう。工程もなにも一番大事なお酢を必ずいれる、ということだけだけど。しかも、あーあと思いながらお酢を棚にしまったらもう一本お酢があるのに気づいた。買ってあった。なくなったと思って買ってきたのに。あーあ。ピクルスでも常備するか。夏だしね。

胃腸の調子を少しでも整えるため少しだけ甘いものを我慢しているが順調に食べてはいる。昨日は水戸土産、亀印製菓の生菓子「めろんけーき」とか。懐かしい香りがした。昔、スイミングの帰りに迎えを待ちながら食べてたメロンの形の容器にはいったアイスとか本物のメロンとの味の違いは特に気にしないですむのがメロンのお菓子ですね。スイカはちょっと気になる。スイカ&メロンバーとかになるともうなにも気にしないかな。

小さなオンライン句会の投句も完了。やはりあまりパッとしないが実景だのみ。経験と環境に助けられる娯楽(時に苦行)。それには感謝しかないが、もっと真面目に取り組まないとね、好きなんだから。

柏書房のwebマガジン「かしわもち」で瀬尾夏美さんの連載『旅をして、西大島で書いている』が始まった。私も西大島の巨大団地の一階にある瀬尾さんたちの仕事場に行ったことがあるが、あの場所にあんな明るい風通しのいい場所があるなんてびっくりした。場所づくりも上手な瀬尾さんの本も写真集も好きで持っている。この連載もいつもいい本を出す柏書房からいずれ本になるのでしょうね。毎日ひどいニュースばかりだけど、それを追うと同時に過去からの声に耳を傾けるために出向くこと、それは読書という営みでもできること。瀬尾さんの文章からいろんな街の景色、いろんな人の声を想像していきたいと思う。

土居健郎の本をようやくまとめながら読み始めた。1950年代前半、土居はサンフランシスコのインスティチュートで精神分析家になるための訓練分析をはじめ、中断した。にもかかわらず日本の精神分析家となった。1950年代後半に土居は「甘え」を着想しその普遍性を精神医学の分野に問いかけはじめる。それは最初から外に向けられたものだった。私は土居に直接教えを受けた世代ではない。いや、私と同年代でも土居先生の教えを受けていた人たちはいるので世代のせいではないか。私は土居のフロイト読解に大変な魅力を感じているので、これからも読み続けると思うが「甘え」理論は本当に厄介だ。オープンなだけに厄介だ。でも対話しないといけない。中井久夫は土居はそれを望んでいただろう、自分も応じようとがんばったがいたらなかった、というようなことをどこかに書いていた。

瀬尾夏美さんたちの活動もそうだけど、過去からの声と対話すること、それができなくなるかもしれない危機感を感じつつ。

今は曇っているけど晴れ間も出るらしい。がんばろう。

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空、ドレッシング、俳句

風もなく半袖でちょうどいい朝。空に水色も見えるけどまだ厚めの雲が多い。夜の気温も落ち着きつつある気がする。まだ一枚薄手のパーカーとかを羽織ってるけど。昨晩の帰り道は雨がぱらついていたが傘をさしている人の方が少なかった。夜中、窓を閉めようと空を見たらなんだか明るい気がして外に出てみた。月が出ているのかと思ったけど雲と暗闇しか見えなかった。なんだか明るかったけど。もうすぐ新月。月が出たとしてもその時間にはまだだっただろう。

ドレッシングがなくなったのでオリーブオイルとお醤油で作った。あと夏だからちょっとこだわろうと思って買った優しい味の黒酢も開けた。蜂蜜もなくなったばかりだからお砂糖を少し加えたけど何かちょっと足りない。友達からもらった奄美大島の炒りごまの香りがあるからいいか。大葉とかもいいかも。あとはサラダの具材を変えるか?

15日締切の俳句を10句作った。自分で読んでもなんだかインパクトのない句ばかりだが実景で揃えているので、その力に頼りたい。少し前まで投句用紙は郵送せねばならなかったがオンラインでの投句が可能になった。なのでもう少し眺める。郵便法の改正のせいだったか、土曜日の配達がなくなり、普通郵便だととても時間がかかるようになった。どちらにしても私の場合、いつも速達でないと間に合わず、郵便料金も改訂されたのですごくお金がかかってしまっていた。オンラインでの投句が可能になって助かった。

最初からオンラインでやっている小さな句会のほうの投句締切も15日。そちらも作らねば。毎回、使っても使わなくてもいいのだがメンバーから題を募集している。私はできるだけそこに出てくるお題を使いたい。今回は「水貝」というのが出ていた。アワビの刺身。私は刺身は食べたことないかも。だから作れないか。すごい贅沢そうだよね。高いのかな、やっぱり。貝はそれほど好きというわけではないが、日本酒とは合う。俳句のために一度は食べてみたい。贅沢なものは旅先で食べたいな。

夏の季語「薔薇」でも作りたかったが全然パッとしない。これだけ毎日薔薇のそばに寄っていって香りを楽しみ写真を撮っているのに薔薇のこと全然わかってないかも。でも「野バラ」のことはちょっとわかるかも。今年はまだみていないと思うけど。シューベルトのというかゲーテの野バラも有名だから知っている。オペラとかみにいきたいな。せっかくオペラシティが近いのだし。私にとっては生活空間だからもっと遠くの劇場に出向いたほうが余韻には浸れそう。オペラシティで観たらすぐに仕事モードになりそうでもったいない気がする。

とGWが終わったばかりなのに休みのことばかり考えている。休みを楽しめるように仕事頑張らないとですね。自分のあり方を丁寧に考えられる余裕が持てるといいけど。突き進むのではなくて。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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ハングルとか

早朝から部屋がオレンジ。だけど今日は一時的にお天気大荒れと言っていたような。大丈夫ならそれはそれでありがたいけど。

久しぶりの筋トレで筋肉痛がひどい。2週間空いただけでこれ。そこそこ使っているはずと思ってもほとんど使えていないということですね。

昨日は俳句の締切を思い出し、作らねばと意気込みながらも『現代詩手帖』の特集「韓国現代詩への旅」を読んでしまった。目次にはカタカナの名前が並ぶ。カタカナは漢字の一部を取り出したものだ。彼らの名前はハングルで書かれるべきなのだろう。ソウルで過ごした3日間、Instaで教えてもらったアプリが活躍した。ついカタカナか漢字を目が拾ってしまい、カタカナが現地にほぼないのはわかるが漢字をみつけてもアプリとは違う漢字だったりした。最初は戸惑ったがすぐに同音異義語でいけるのか、韓国の漢字は、と思った。こちらでの生活の言葉はハングルなのだ。その成り立ちは斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』を読んで知っていた。普段すごく漢字に頼っているわけでもない私がこういうときだけ漢字頼みかよ、とちょっとおかしく、それからは読めはしないが、視覚的な記号として地図上や路線図のハングルと現地の表記のマッチングをはかった。電車内で何度も聞いていた言葉を調べたら「ドアが閉まります」とう意味だった。表記は출입문 닫습니다と学んだ。20歳の頃、ケンブリッジの寮で仲良くなった韓国の人たちにハングルは舌の形、発音するときの口の形だから難しくない、と教えてもらった。漢字から離れて誰もが使える文字を作り出し、生き残らせた国の人たちをすごいと思うし、その国の文字を使うということを単に大事というより楽しく思えたことがなんだか嬉しかった。

今日こそ俳句、と思うが隙間時間が少ない。いいかげんスピーディーに作った駄句ばかりを出すのもやめたい。時間をかければよいというものではないが、17音に対してもっと敬意を払わねば。

それでは今日も良い1日を。

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レシピ、筋トレ、Dominique Scarfone

今日の東京は少し曇ってるかな。東の空に強そうな陽射しはみえるけど。

この前、友達の家で出してもらったお蕎麦とそれに合わせたおかずがとってもおいしくてそれらを再現すべく昨晩はずっとレシピを見ていた。あとソウルの東大門タッカンマリ横丁で食べたタッカンマリのレシピも。美味しいものと出会うとレシピを見る時間が増えてしまってよくない。東大門駅を出てすぐ気になった丘は興仁之門公園という夜景スポットだということも知った。その夜はみんなでタッカンマリを美味しくいただいたあと、公園とは反対の東大門デザインプラザ(DDP)に行って予想より暗いことに驚き(ライトアップされてもイメージしていたより暗かった)そこ直結の駅から地下鉄でそれぞれ帰った。大きさと形状にはびっくりした。ああいうのが東京に建てられるとは思えない。DDPに行くまでの川を渡ったところに平和市場という楽しそうなマーケットもあったし、川縁にもたくさん人がいて夜も楽しめそうだった。今度はしっかり遊びで行きたいな。

久しぶりに筋トレをした。一通りのメニューはこなせたけど最後の方は足が上がらなくなる瞬間もあって自分でびっくりした。筋肉を使っていなかったわけではないので疲労だな。うまくコントロールしていきたい。筋力的には今くらいをキープしていけたら上出来だと思う。体調崩したりすれば一気に落ちてしまうけど自分の中に基準ができていればここくらいまでなら戻せるかなとかイメージしやすいし。筋トレの帰りに大きなカシワバアジサイが咲いてるのを見つけた。毎年きれいに咲くのは知ってたけど今年はここのが一番早く満開近く咲いたかも、私がみたなかでは。

最近、チェックしていたカナダの精神分析家、Dominique ScarfoneのFrom traces to signs: presenting and representing をセミナーで取り上げてもらえるみたいで嬉しい。ScarfoneがHoward B. Levine, Gail S. Reedと共に編者をつとめた“Unrepresented States and the Construction of Meaning”という本に入っている。ScarfoneはSociété psychanalytique de Montréalの訓練分析家。実践からはもう引退しているとのことで残念。ラプランシュによってフロイトに立ちかえり、その方法を再検討し、ラプランシュの考えもさらに展開させた本も書いている。『Laplanche』(2014)『The Unpast』(2015)『The Reality of the Message: Psychoanalysis in the Wake of Jean Laplanche』(2023)がその主な成果。主な関心は、心的機能における時間次元に関する概念的研究ということで私にとってはすごく読む必要がありそう、と思ってチェックしていた。

やることいっぱいだが少しずつ取り組もう。良い一日になりますように。

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事例検討会とかセミナーとか。

いいお天気。昨日は疲れたけど楽しかったな。内輪での事例検討会とアンドレ・グリーン関連の論文を読むセミナーとIPAが主催するクリニカルディスカッショングループの日本語グループ。一日中勉強だった。電車に急いで乗ったら逆方面だったり、急いで帰って次のグループまでの1時間を眠気と闘ったりは大変だった。寝たら絶対起きられない自信があった。

セミナーは『ウィニコットとラカンに学ぶ』(ルイス・A・カーシュナー編著 · 筒井 亮太訳)に入っているアンドレ・グリーンの「現代の精神分析の分岐」が前半、後半は同じくグリーンの「Illusions and Disillusions of Psychoanalytic Work」にFernando Urribarriが寄せたPostscript、Clinical passion,complex thinking,towards the psychoanalysis of the futureを読んだ。これらは精神分析の世界でグリーンがどういう場所でどういう理論を展開してきたかをおさらいするにはいいのだけどグリーンの学術論文を読むのと比べたら退屈だった。フロイトやグリーンは精読しながら彼らの思考を追うのが楽しい。わかるわからないの世界と離れている時間は楽しい。事例検討会普通のわかるわからないの世界にいたら感じられないことの方が多いのでグループでやるのは楽しい。

色々終えたあとはごはんを作りながら「あかね噺」5話、6話を見て気分転換。1話の落語シーンが演出過剰でうーんと思ったがそのあとは面白くみている。本物の落語に行きたいな。末廣亭もせっかく近いんだし。うん、そうしよう。

今日も帽子をかぶって出かけよう。良い1日になりますように。

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5月10日日曜日

光が強まったり弱まったり。昨晩も少しひんやりだった。今日は移動は多いけど一日中屋内だからどうしようかな。いつもほど夜遅くはならないから少し薄着でも大丈夫かも。電車の冷房対策は必要かもだな。

寝不足だけどスッキリ起きてしまったから早朝から家事したりしてPCの前に座るなり眠いな。一応、ノルマはこなしつつあるが、どんどんやっていかないと全く間に合わない感じもする。あ、また光が強くなった。部屋の中が一気にオレンジになるこの季節。もう少し気温が上がってきたら全てが溶け出すのでブラインドに遮光カーテンをつけなければならない。

今年も出るセミナーの資料がすでに自分で読んだことがあるものばかりだったのでよかった。でもいざ読み直したら何も覚えていない、というか読み直して、ああそうだった、このことを言いたいんだよ、と思い出した。実践から離れない精神分析家の文章は思考を促してくれるので何度も読むのがちょうどいいんだと思う。実践から受けるインパクトはものすごいので私もそれらを薄めないように言葉にしていかないとな。

それにしても眠い。まだ早朝だから二度寝しようかな。でも読みたいものもあるから起きてようかな。平日にはない余裕があって嬉しい。口内炎治るといいな。痛い。

いい1日になりますように。

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5月9日土曜日

土曜日。朝は風がなさそう。昨晩も少し寒かったけどセーター1枚で大丈夫だった。日中はそれだと暑かったけど毎日夜の寒さを警戒した服装をしている。

昨日はほとんど外に出なかったけどいつもと違う夕方の時間に少しでたら子供たちがいっぱい。学校が終わって公園で遊んでる時間だった。ちらほらおとうさんおかあさんが迎えに来たり自発的に帰る子もみえた。ひとりぶつくさ怒りながら不機嫌そうに歩いている子や歌うようになにかいいながら歩いている子もいた。大きめの広場で「やめてよー」という声が何度も聞こえて乱暴な言葉遣いの声も何度も聞こえた。なにが起きていたのか知らないけどやめてといわれたらやめなよ、と思いながら歩いた。

やっぱり平日はほぼなにもできない。こういう朝の時間に進めなければいけない。MacAirがもうだいぶ高齢で新しいソフトはインストールできないし動きものんびりになっているけど家でまだ愛用している。FMVは軽くて持ち運びにはいいのだけど充電がMacとは比較にならないくらいもたない。なのでモバイルバッテリーが必要になってくる。ソウルにはパソコン用のモバイルバッテリーをもっていなかったから発表直前に困った事態になりホテルの人に聞いたらながーい延長コードをもってきてくれて充電できた。Macのときはほとんど使わなかったけど買ってあったのはAnker PowerCore Ⅲ 45W。このモデルはもう古いのだろうな。2021年だって。それにしても重い。大体電源があるところで作業するからモバイルバッテリーはそんなに必要としないのだけど最近電源のあるカフェとかにふられっぱなしでやっぱりもっておこうかなあと思ったり思わなかったり。でも使わないともったいないから筋トレと思って持ち歩くか。ただでさえリュック重たいけど。なにか不具合が出たらやめればいいか。ひたすら家かオフィスで仕事すればいいのだけど一気にやるには外のほうが手中できるのだよね。どうしても別の仕事を見つけて取り組んでしまうから。

今日もいいことあるといいですね。どうぞよい一日をお過ごしください。

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5月8日(金)

鳥たちにぎやか。最近、鳥たちの動きが落ち着いている気がする。春の花が咲き始めた頃はそっと近づくだけですぐに気づかれて、花が満開になると蜜に夢中でこちらの動きには無関心になったけどせわしなかった。今はつばめの親は忙しそうだけどほかの鳥はわりと写真を撮りやすい落ち着きがある。オフィスのそばの鳩はアスファルトのうえでいろんな姿勢をしていてそれはそれで面白いのだけど自然いっぱいのなかにいると鳩が実に生き生きとしていて驚く。この前、明治神宮のほうを歩いていたら草むらでなにかがずっとガサガサいってるから待っていたら鳩が枝じゃなくて積み重なるはっぱの上に座ろうと奮闘していた。あんなのはじめてみた。みんなそれぞれいろいろやろうとしてるんだな。

イギリスのドラマシリーズUnchosenがNetflixシリーズ『選ばれざる者』として放映されている。初回から不穏で、そこからもじっとりといろんなことが起きて信じるって行為は怖いねと思った。主人公のロージーの誠実さはいい。サントラもいい。

昨日は昼間、ジャーナルの原稿の校正作業を一気にやった。またもや辛かった。英語だから無心にならないとできないのかと思ってたけど内容が結構濃い。今の私に書ける限界だったと思う。一気に書いて、査読を経て思い切って組み替えて、今回はじめてきちんとそれを読んだような気分。これはモーニングワークのしあげであったと思う。ラカン派もパスじゃない方法を見出せばいいのにね、とふと思った。分析家になって2年、こころをフルに使う体験ができたと思う。それはすさまじくいろんなものを残してくれたがそれは早くも薄くなってきている。分析家になるとはこの薄まっていく体験をどうワークしていくかということでモーニングワークの次の段階にあるのだと思う。

口内炎やらなにやらで疲れがあちこちに出てきている気がするが今週末も休みではないから無理せずがんばろう。お散歩はできそうなお天気。オフィスのそばの新宿中央公園の薔薇も咲いたし、アジサイがもう少し。楽しみましょ。

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GW終わり

夏の光だ。相変わらず辛いニュースばかり。

世界卓球は100周年、ルクセンブルクのニー・シャーリエンって62歳なのか。すごい。これだけ若い世代が出てくる世界で戦い続けられるってバランスがいいんだろうねえ。世界レベルの人はみんなそうなのかもしれないけどここまで身体を維持できているのが本当にすごい。でも身体って弱くてもどこか障害をもったとしても安心していられる環境こそが大事で、自分の身体に可能性を見出せる教育や会話が絶対に必要。ニー・シャーリエンは身体だけではない感じがすごくするから卓球以外でも活躍しているのだろうけど。なんであってもなにができなくても自信を持って生きていける環境が必要。

GW中は面白い会話をたくさん聞いた。特に小さな子と久しぶりに会ったのであろう祖父母の会話が面白かった。内容はほぼ覚えていないが、昨日は「じいじ、じいじ」と小さな子が祖父らしき人を引っ張ってきて、じいじ、全然追いつけるのに「〇〇は歩くのが早くなったな。すごいな」ときっといつもの褒め上手という様子で明るい声を出してて、その子が「なんとかちゃんは5歳じゃないんだって。うん?5歳?6歳?5歳より大人だよね」となりつつ、自分より色々できるらしい子の話をすると「そうらしいね」と同意しつつ、むしろそんなお話ができる孫をほめるというずらし褒めもよかった。この年齢の子どもは「我こそは!」と思いつつ自分より他の誰かに視線が向くことに敏感ですぐに不安になってしまうからみんなみんないいこ、特に目の前のあなたはとってもいいこ、と関わっていくのはとっても大事なんだよね。その子もまだ5歳みたいなんだけど「昔は風があったのにね」とか言いながら初夏の凧あげに苦戦していた。この子にとっては去年だって、先週だって「昔」かもしれないんだなと思った。10年前のことをまだ最近と思ってしまうこともがある私とは生きている密度が違う。彼らの成長は凄まじい。私はオフィスに行く前に寄り道して花の写真を撮っていたのだけど「じいじばか」と聞こえてきたときは「おおっ」と思った。でも全く動じず明るいまんまうまくその子が成功したかのように動くじいじはカッコよかったし、すぐに「じいじすごい」と切り替わるその子もかわいかった。こういう単純さで楽しいときを過ごしていくのも大事。いちいちこだわっていたら消耗するばかり、ってことはかなり多いから。

火水と結構、仕事がらみの作業をしていたけど、朝、飲み物のパッケージの文字を読みながら「○○製法ってどんな製法だよ」とかツッコミを入れている自分に気づいて休みってやっぱりどうでもいいことに注意を向ける余裕があるよね、と思った。私は見えるものは何かしら読む癖があって歯磨きとかもやたら長くなりがちなんだけど老眼になってからすぐ疲れてしまって本当に何も読まなくなった。歯磨きは相変わらず長いけど。でもこうして余裕があると老眼であっても前みたいになんでも読んでいるんだから目のせいじゃなかったということだね。ちなみに○○製法を調べてみたら実際にその会社が開発した製法だった。失礼しました。こういうふうに思ったことを覚えていて、しかも調べるということができるのも余裕のおかげ。

たまにこういう休みをとりつつ5月もがんばりましょう。

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戦禍の分析家たちの論文など。

薄い曇り空。お茶がなかなか冷めない。朝は向こうの通りを走る車の音を背景に早朝に開くドアや窓の音が響く。

昨日、18時の鐘の音をきいた。オフィスでは神宮球場の花火の音はきこえるが寺の鐘の音はきこえない。昨日5月5日は立夏、東京の日没は18時31分だった。鐘の音がきこえたとき、まだ空は明るかった。

この前、美術館の庭で蚊に刺されたところが痒い。長袖をきていたのに首と手の甲と掌をやられた。私は一度刺されるとなかなか治らずずっと痒いし、掌はほんとうにやめてほしい。ただでさえ散漫な注意がさらにそれやすくなる。すぐに気づいてペッて追い払ったのに手遅れだった。もう蚊の対策もしないといけない。

先日、イタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsの(2024)ことをメモ的に書いた。

『発達的断絶(Developmental Ruptures):崩壊と防衛的解決の精神分析』

2015年のInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたNicolò, A. M. (2015) Psychotic Functioning in Adolescence: The Perverse Solution to Survive. International Journal of Psychoanalysis 96:1335-1353「思春期における精神病的機能:生き延びるための倒錯的解決」もこの本に所収されているか、よりまとまった形で書いてあるのだろうと思う。

どの発達段階にあっても崩壊の危機は常にあるわけだが、先日、ソウルで行われたIPAのアジアパシフィックカンファレンスでいろんな国の人の話を聞きながら東洋と西洋では崩壊に対する感覚が異なるように思った。多くの分析家や患者の人生を変えたホロコーストの話題がでると特にそう思う。ここ数年、続いていた日本の精神分析協会内部の葛藤状況に思考の場を設ける役割をとってくれたエルリッヒ先生は1937年生まれのドイツ生まれのユダヤ人で幼いときに「水晶の夜」も体験し、ドイツを出てイスラエルで育った精神分析家である。戦争によって異なる立場になった様々な国の人同士に対話をもたらすグループを運営してきた臨床家であり、その成果は論文で読める。エルリッヒ先生は今はイスラエルとパレスチナの戦争によるIPA内部の葛藤にも取り組んでいる。海外の精神分析家たちと関わることは戦争が終わっていないことを実感する機会になる。

実感から入ると実際には会っていない精神分析家の論文の読み方も変わる気がする。私はエルリッヒ先生がその日、戦禍のイスラエルからいらしたことにインパクトを受けた。

イスラエルにはYolanda Gampelという訓練分析家もいて、ホロコーストを含む社会的、政治的暴力の影響に関する論文を書いている。

Gampel, Y. (2020) The pain of the social. International Journal of Psychoanalysis 101:1219-1235で著者はいう。

「イスラエルでは、私たちの生活が、気づかぬうちに単なるサバイバルになってしまったのだと思う。暴力的な死――現実の、あるいは潜在的な死――、世界の中にひとつの場を保ち続けようとする圧力、自らの存在を個人的な仕事の範囲に限定できない悲しみ、文脈から絶えずもたらされる悲嘆、これらすべてが私たちを摩耗させる。それは、私たちが自分の潜在力を発展させることを許さない。私たちが選び、望んでいるこの現実が、私たちを幽閉している。それは、最低限の自由さえ私たちに否認する。」

著者はbackground of the uncanny(不気味さの背景)という言葉をサンドラーのbackground of safetyを射程に使用する。これは社会的暴力や戦時のように患者と分析家が同じ外傷性状況に巻き込まれている場合、臨床の基底は「安全」から「不気味さ」にとってかわり、精神分析臨床においては転移ー逆転移に揺さぶられるframe(枠)をどう考えていくかが課題となる。

精神分析の枠についてはBleger J. (1967). Psychoanalysis of the psychoanalytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519.が古典だと思うが、ペレルバーグがCOVID-19のときの体験を書いた以下の論文はこれらを参照しながら書かれたものである。

Perelberg, R. J. (2021)が The empty couch: Love and mourning in times of confinement. International Journal of Psychoanalysis 102:16-30

精神分析は分析家自身もトラウマの中にありながらそれを理解、記述していく学問であることをこうやって何度も思い出しながらやっていくんだなと思った。

GWも今日でおしまい。私は校正作業に費やすことになりそう。まとまった時間は貴重。東京はこれから気温があがったりするのだろうか。相変わらず調節難しいけど体調に気を付けて過ごしましょう。

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歩いたり頭使ったり。

立夏。朝日がさす位置が大分変った。もう結構前からだけど南側の窓からは夜明けを感じにくくなった。窓を開けるとまだひんやり。東の空からオレンジの光が広がっていた。身体が動きにくい感じがあるが早朝に起きてしまったので早めに移動するか。でもこうやってなにかしはじめると眠くなってくる。

昨日もたくさん歩いた。薔薇の季節。いろんな名前の薔薇があって面白かったしとってもきれいでいい香りだった。白い藤も満喫したし、こじんまりした美術館で係の人とおしゃべりもしたし楽しかった。私は花も美術もたくさん触れてきたわりに名前とか全く覚えられないけど触れるたびに元気になるのでやっぱり好きなんだと思う。

帰宅して校正原稿を修正して返信用封筒に入れた。忘れずに投函せねば。こっちは日本語だからいいけど、英語の原稿は自分で書いたくせに見直すのがつらいがGWあけるまでにやらねば。

休みの間にReading Freudの準備も少々。今年度はフロイトのメタサイコロジー論を読んでいる。十川幸司訳があって本当によかった。欲動概念についてはいまだに様々な議論があるので訳語に触れている論文をいくつかチェックした。

この前はノルウェーの精神分析家の論文について少し書いたと思う。今回はカナダ出身のMills, J. (2004). Clarifications on Trieb: Freud’s Theory of Motivation Reinstated. Psychoanalytic Psychology, 21(4), 673–677.人物についてはあまり調べていないが関係論の文脈で哲学的に精神分析概念を検討しているらしい。たしかに概念の整理はできた気がするが精神分析臨床になぜこの概念が必要かということを考えるには物足りなかった。著者がこの論文で討論の相手としているのはGeorge Frankという人だが欲動概念の検討ならまずはベーシックにこの人たちでは、という人ではないと思うのでどうしてだろうと思った。治療としての精神分析とは異なるようなので私が慣れていないだけかもしれない。論文を読むのは難しい。

もう5月も6日経ったのか。違う、5日だ。よかった。いや、よくない。やるべきことは多い。昨日、通りかかった古い小さな和菓子屋さんでおいしい柏餅を買って食べたときは5日のつもりで食べていた。こいのぼりもみたし。今日はどんな感じの一日になることやら。いいことありますように。

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ハイキング

今朝はとても風が強い。昨晩から警戒はしていたが。雨は大丈夫そうなのがありがたい。

昨日は三浦にハイキングに行った。坂をのぼりきったところにひろーいキャベツ畑が広がっていて思わず声をあげた。キャベツを運搬するのであろう台車が畑の中にポツンとおいてあるのが絵になった。ひっくり返しておいてあるのもあった。日曜でも休まず作業をしていらした。春キャベツなのかな。もう出荷されているものも多く、残されているキャベツがゴロゴロしていてちょっと不気味だった。このあたりのキャベツは潮風をうけておいしそう。三浦は大根も有名で、小さめの大根がコロコロしている畑も少しあったけどあれはもう使い手がないのかしら。歩いている途中に直売所があってそこのお野菜もおいしそうだったのけどまだ先があったから買わなかった。たっぷり歩きながら三崎口駅まで戻ったあと城ヶ島までバスででたがこれが大混雑。30分弱で着く予定が1時間半かかった。ずっと立っていたから少し疲れたけど三崎港の少し手前のバス停で運転手さんがここからまだかかるから歩いたほうが早いとアナウンスしてくれて一気にバスがすいた。バスに乗ったまま外を見ると三崎港の食事処はどこも行列。学生の頃にみんなできたときはこんなに混んでなかったに。あのときもくろば亭は少し待ったけど。城ヶ島も食事処は大行列。すでに2時を過ぎていたが海辺の店で名前をかいて時間つぶし。とっても小さな商店に入って一杯しながら待った。だいたい同時にきた外国出身の人たちとお店の老夫婦もまじえておしゃべりした。ひとりは東大の院生ということで以前住んでいたという別府の温泉の話とかして楽しかった。別府が素敵なところなのは知ってる。またいきたいな。名前を書いたお店に戻るとまもなく私たちの番でちょうどよかった。いい待ち時間だった。そこから城ヶ島を色々歩いて結局3万4千歩くらい歩いた。今日は風と仲良くできるかな。電車とまったりしているみたい。大変そうだけど無事に過ごしましょう。

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探したり。

今朝もいいお天気。昨晩は雲もなく月がとてもきれいだった。外にでたのが一番日射しが強い時間でやっぱり手の甲まで覆ってないとかゆくなってしまうんだなと残念だった。今日は夏山用の長袖シャツを着よう。

ロンドンでやっている世界卓球を少しみたけどドキドキしてみてられない!といいつつ怖々見ていたらいつのまにか終わっていた。途中で探し物を始めてしまったから。まったくみつからず案の定わりとわかりやすい場所でようやくみつけた頃にはすっかりなにもする気がなくなっていた。せっかくいつもより時間があったのに、と思うけど時間があるからひたすら無為に過ごすこともできるのだから悪くはないのだと思う、というか、色々ひっくり返して探しているうちに校正の原稿が入っている封筒を見つけてしまった。ソウルに行く前に積んでおいたのだった、そういえば。危ない。休み中にやらねば。

ソウルでも結構歩いたとはいえすごく狭い範囲の移動しかしていない。それでもハングルや韓国の街の様子に強く動かされることが何度かあった。韓国人作家の色々な本を翻訳で読んできたのもあるし、茨木のり子や斎藤真理子などの影響でもある。翻訳という営みについて考えていたせいか文庫のほうの中井久夫『私の日本語雑記』にも手が伸びた。以前から愛読していたが別の言葉を話す相手とコミュニケーションをする体験が新鮮なうちに読んだらまたそれまでとは異なる印象を受けた。

土居健郎の「甘え」についてはあまり進捗なし。また読み直さないと自分がなにをいいたかったか忘れてしまう。興味をもったらすぐに発表できるくらいの文章にしておかないと何度も同じ手間をかけることになってしまう。そうだ、昨日は友人の論文PDFを検索するのにもすごく時間がかかった。私が保存していたつもりの場所や形式が違ったらしい。その最中に第14回大会 大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」の討論原稿をみつけて、これはすでに「精神分析的心理療法フォーラム 13巻 2025年12月」に掲載されているのだけど、もうちょっときちんと形にしてもいいかも、と思ってしまい、そっちを少し進めてしまった。遊こっちのほうが楽に書けそうだもんなあ。現実逃避。

まずはすべきことを可視化。実際に見えるように机の上に置いた。今日はここまで、とならないようにしよう。とりあえずいいお天気。いっぱい歩くことにしよう。

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ソウルから帰ってきたり、色々読んだり。

今朝はひんやり。北側の窓をあけたら昨晩の風はおさまっているようだった。少し厚着をしてバタバタ家事をしたりお茶をのんだりしていたら今度は少し暑い。いいお天気。

今朝は韓国で買ってきたお菓子をお茶と一緒にいただいた。25年ぶりのソウルで、今回は学会のためにいったからそんなに観光はできていないし、色々チェックしていたお土産も買いそびれてしまったが、なんといっても近く、女性たちが親切。ハングルが全然わからず、韓国語も全く聞き取れないにも関わらず、こちらがわかるように伝えてくれるのだからすごい。初日からなにかあっても助けてもらえるという感覚をもって行動できた。感謝。近いって素晴らしいな。前日遅くまで仕事して、翌日早朝に空港にいって2時間ちょっとでソウルに着いてお昼過ぎから散歩したり美術館行ったりする時間も元気もあったし、昼の飛行機で羽田に帰ってきたあとも銀行へ振込に行ったりあっというまに日常に戻ってこられた。

今朝はちょうど流れてきた韓国の詩人、小説家、批評家、翻訳家(ロシア語)のイ・ジャンウク×ペ・スアのインタビューを読んだ。「クオンの本のたね」のnoteで。

翻訳について彼が言うには

「例えば、アメリカの作家よりも韓国の作家のほうがレイモンド・カーヴァーを楽しめると思うんです。アメリカの作家は慣れ親しんだ言語と文法でカーヴァーを読み、韓国の作家は異なる言語と文化がもたらす新鮮さでもって読みます。」

そうだと思う。今回、ソウルで開かれた5th IPA ASIA PACIFIC CONFERENCEにいっていろんな発表をきいたり、自分も発表したりしたが、海外にいくと言語と文化について考えることが普段の何十倍にもなる。

イ・ジャンウクはこうも言っている。

「考えてみると私には小説家として不利な条件がたくさんあります。ソウルに住んで標準的な韓国語を使っていて、中年で、男性で、異性愛者のうえ教授まで務めていて……。」

マイノリティの要素に意識的な人である。

「大韓民国は首都圏に住む中年・男性・異性愛者・知識人が圧倒的に支配しているじゃないですか。まず格好悪いですよ(笑)。」

これは関係あるかどうかわからないが私をソウルで助けてくれたのはみんな女性だった。彼らはみんな自分から話しかけてきてくれた。それなりに距離のあるところからそうしてくれた人もいた。

ちょうどジェンダーに関わる論文を読んだところだった。

読んだのはBell, D. (2020) First do no harm. International Journal of Psychoanalysis 101:1031-1038

これはかなり強い感じで書かれている論文で、相談が急増している“rapid-onset gender dysphoria”を社会的文化的文脈を検討せず、人的資源も時間も思考も足りないなか、本来は複雑であるものをジェンダーというプリズムを通じてしかみないことで多くのことが扱われないまま残されるという問題も書かれている。そして思考の排除と社会的圧力の中で、複雑な心理的問題が身体的解決へと単純化されていることへの批判も明確。

ちょっと考えれば簡単ではないとわかることも考える時間がない、あるいはそういう時間をもたないことで解決可能な問題にしてしまう。それは大変に危険なことだ。特に人間の身体や心における解決は常に暫定的なものだろう。

とにかく難しいことは難しいままにしておく必要があるのだろう。すでに起きてから数時間たつが眠くなってきてしまった。動かねば。今日は土曜日。よい一日になりますように。

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5月

今年も5月がきた。梅雨に向かう時期は花の色も変わる。

どこにいてもいろんなことがあるな、と当たり前のことを思う。それらのほとんどは当事者同士以外では共有されることはなかったりするけれど時々信頼できる人と共有できるととても安心したりする。今日は大切なのは我慢と信頼と夢見る能力とか偉そうなことをいってしまったけどそれだって環境の支えあってこそ。自分が得られなかったものでも誰かに与えられるようになるためにはどうしたらいいものか。そういうことを考えながら行動しているうちに本当に自分は与えられなかったということを悲しめたり悔めたりする機会を得られるかもしれない。そういうことを話せる場所がだれにでもあったらいい、というかあるべきだと思う。公的な資源はそういうことに使われるべきではないか。

5月までの大仕事が終わった、といってもまったく準備不足だったがそれこそ周りの人の助けを得てなんとか終えることはできた。感謝。今度こそ学術大会の準備をしないといけない。協会の人たちと話して大きなヒントをもらったので忘れないうちに取り組まないといけない。すぐ忘れる、といわれてしまったし。その通りすぎるのでがんばらねば。

花が咲いたりしぼんだりいつのまにか実になっていたり、毎日の景色の移り変わりが早くていちいちびっくりする。毎年のように毎日のようにみている景色なのに細かくみなくても気づく変化なのだから細かくみたらそれこそ今までとは全く別のものにみえてきたりするのではないだろうか。そういえば昨日も同じようなことを書いたか。

今日はとりあえず無事に。つぎのつぎのつぎのつぎくらいにまあまあ元気に。いつも元気、みたいのって疲れる場合もあるでしょう。自分にとって、というのはとっても大事だから「一般的に」いいといわれるものには首傾げていくのもいいと思う。お互いのありようでどうしていけないかしら、ってね。

5月、美しい季節、のはず。昔からそうなはず。のっぺりした全部が同じ色にみえるような世界にしないように小さいことを積み重ねていけたらいいね。

良い一日になりますように。