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俳句 精神分析

蚊とか。

秋の朝の空の雲の美しさ。知らない人の足音のひとりひとりの違いの判別。単に「の」をたくさん使いたい気分。今日も薄着で大丈夫そう。薄着でいられるのはいいけどまだまだ毎日刺されてる、蚊に。長いスカートの日も足首を刺される。なんなんだ。もっと楽に刺せる人おるでしょう。でも蚊にとっては大きなスペースなのかもね、長いスカートと足首の間。しっかし小さいのに威力あるわ。

秋の蚊のよろ〳〵と来て人を刺す 正岡子規

秋の蚊は季語。秋の深まりととも弱々しくなるというけどもたもたくるわりに逃げるのも遅いから結局居座るみたいになってこっちが刺される。むー。

前にここで(あ、なんか急にフォントが変わった。どう反映されるかわからないからこのままにしておこう)フロイトとラカンの「愛」について書いた。最近ラカンをたくさん読むようになって十川幸司&立木康介がいうようにラカンは本当に愛の分析家だった。愛といっても日常で使う愛ではなくて。

そうだ、原稿書かなきゃ。なんでいちいち忘れるんだ?締切間近なのに。意味わからん。がんばろう。気持ちいいお天気になるといいね。昨日は変なお天気だった。どうぞ良い一日を。

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お菓子 精神分析

朝焼けがとってもきれいだった。あっという間に薄くなってしまうけどそのあとに広がる水色もきれい。今日は少し雲があるかな。最近、鳥たちが近い場所で賑やか。生活の仕方を何か変えたのかしら。柿をスルスル剥いて食べた。小さな柿。鳥たちも木の実に合わせて活動しているのかも?

gmailの調子がずっと悪い。フォントが変になってしまうし、iphoneだと立ち上がらないこともある。フォントはgmailに限らずか。改行やコピペすると大文字になったりする。画面上ではわからないのだけど送信したあとの画面でわかったりする。困った。

ポムポムプリンとコラボしたチロルチョコを食べた。生姜紅茶と。冷蔵庫にはチロルチョコがいっぱい。一個で十分すぎる甘さ。

ラカンを読みながら言語と身体、欲動と情動について考えている。精神分析は言語が治療に役立つと信じているというか大体の治療法はそうなわけだけど言語の効果をどこまでも探求し続けているのが精神分析。ペラペラだけど上手なおしゃべりに癒してもらえる部分、というか人が受け入れやすいのはそういう形式のものなのでそれはそれで大事で、患者さんでもそういう本などをお守りにしながらそれではどうにもならない部分をどうにかしようとやってくる。どっちも必要。いろんなものが必要。こっちの人とは気づかなかったことがこっちの人となら気づくという感じで人はいろんな人の間でいろんな出来事を体験していく。もちろん周りに誰がいてもいつも同じ反応ばかりしている場合もある。人の心はたやすく侵入されたくない部分も持っている。一方、誰かにたやすく明け渡さない自分で大切な人を大切にしていくには誰かと密な体験を積むことが必要なので侵入が避けられることはないといっていい。キレイゴトをいうのは簡単。自分はいつも「正しい」側にいるというのが前提のような言葉って簡単。でもそれは相手と距離が確保されているからたやすいのであって密になってくるとそういう言葉は薄っぺらくなる。だからレトリックに走る。書き言葉だとちょうどよくても目の前の相手には嘘っぽく聞こえる。それを語り方で調整しようとする。私もそう。自分で話しながら嘘っぽいなあと思うときがある。そういう時は通じていないのが助かるけど。もし私に権威があったらどんな言葉も通じる言葉に変換されてしまうかもしれない。臨床続けている限り気づくことはできると思うけど。精神分析家の場合、理想化されるのなんてほんのひとときで頻繁に会って同じこと繰り返していればお互いにお互いに侵入的になることもあるしいろんなことが起きる。何度もやり直す。先のことはわからない。生活と同じ。なんなんだろうね、楽になっていく感じって。今日もあれこれ頑張りましょ。

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精神分析 読書

言葉とかそれ以前とか。

急がねばなのにのんびりしてしまった。「しまった」が「島田」になってしまった。島田さんという大先輩がいた。その人のおかげでどんな場所でも果たせる役割があることを学んだ。しかも明るく伸び伸びと。昨晩は読むべき論文の上で佐藤りえさん発行の文芸個人誌『九重』3号を広げたら止まらなくなってしまった。小津夜景さんも書いていた。やっぱりいいなあ。

”のびのびと発想する一番の秘訣は「無責任になること」ですが、人ってなかなかそうはなれない。”

と小津さんが書かれていた。本当にそうですね。

かささぎのこぼす涙をおつまみに 小津夜景『花と夜盗』より

もそういう感じ。4号の今泉康弘さんの作品もいいです。川柳のような雰囲気もあるけど景色が見える。あるはずのない景色まで不思議なく見えるのが不思議。

はあ。素敵な言葉たちと触れるのは幸せ。なんだけどやらねば。つくばのコート・ダジュールのパルメザンチーズサブレも美味しかったからがんばらねば。間に合わないよー。

フランス精神分析の本を読んでいる。ラカンは晩年、フィクションの次元なしに真理は成立しない、という言い方ではなく「嘘つきの真理」という言い方でラカンのいう「現実的なもの」を位置づけた。が、この時点で嘘になりえないものなどないという感じがするのでどっちが外部かという話でもあるか。ともにこぼれ落ちるものを掬い上げるとき分析主体がというより分析状況は「歴史化する・ヒステリー化する」ことを試みてるらしいがこれも「現実的なもの」に形を与えようとする行為なのだろう、か。

とかね、こういうややこしいことを考えてると言葉の美しさが取りこぼされていく感じがするでしょう。私のまとまりのない思考でぐちゃぐちゃ考えるのはそこそこ汚い行為ですよ。嘘も意地悪もいっぱい。言葉以前の世界に言葉に戻ろうとしてるんだから仕方ないけどね。適当なこと書いてないでやろう。ああ、もう少し何か食べたいけどちょっとやってからにしなさい。はい。どうぞ皆さんも良い一日をお過ごしください。

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精神分析、本

精神分析家、Loewensteinの論文

準備準備。精神分析における言葉の活用は私のテーマだけど難解だから勉強してもしても、というほどしてないのだけど、いやむしろ勉強が足りないので準備がたくさん必要。今度セミナーがあるのです。

まず読んでいるのはルドルフ・ローウェンシュタイン。ラカンの訓練分析家です。立木康介さんは『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』(2023,講談社選書メチエ)でルヴァンシュタインと書いている。Loewensteinは1898年1月(生きてれば125歳)ポーランドで生まれたユダヤ人で、チューリッヒで中等教育、ベルリンの精神分析インスティチュートで精神分析の訓練を受けた多言語話者の医師で精神分析家です。いろんな国で生活していろんな言葉を話しているから呼ばれ方も色々ですね。パリではパリ精神分析協会(SPP)の設立にも関わってラカンをはじめフランスの分析家の最初の世代の育成に貢献しました。1940年代になってニューヨークに移って自我心理学の発展にも貢献。精神分析に関するいろんな協会の会長や副会長をしていてパリともずっと良好な関係を保っていたみたいですよ。ラカンは何も語っていないみたいだけど彼にとってLoewensteinとの分析は良きものではなかったみたいだし自我心理学は彼が激しく批判する対象となったけど立木さんがさっきあげた本の注でLoewensteinの発音がラカンがオマージュを捧げたマルグリット・デュラスの小説のヒロインの名に発音が酷似していることを取り上げていて分析関係の外からの見えなさと事後性についてちょっと考えました。私たちは自我心理学をその理論や技法が移民問題の歴史と繋がっていることを理解しながら学べたらいいと思う。それは言語の問題にも繋がっているでしょうから。

昨晩読んでいたのはこちら。すっかり寝不足。

Loewenstein, R. M. (1959). Some Remarks on the Role of Speech in Psychoanalytic Technique.

2003年に出たこちらにも所収。Influential Papers from the 1950s Edited By Andrew C. Furman, Steven T. Levy

論文が載ったのは1956年のInternational Journal of Psycho-Analysis 37: 460-468(メモ)。

すごくたくさん読むものがあるんだけどどうしましょう。やれるところまで、といういつもの感じにしかできないけどなんとかがんばりましょう。東京はさっむいけどいいお天気です。みなさんの場所はいかがでしょう。お元気でお過ごしくださいね。

追記。論文に関するメモ:

「精神分析は探索的な方法と治療的な方法の両方を有しており、それは、もっぱらことばの領域において生ずる長く続く体験と過程なのである」

「精神分析は、二人のあいだでの特定のコミュニケーションのやりとりで有り、一種の対話であり、それ以外の全ての対話とは全く異なっている。」(→技法論)

目標指向性を持つ意識的な思考を止めるー自律的自我の統制と退行ー分析家の自我機能への委託ー無意識の系へ

ソシュールのラング(記号)とパロール(話し言葉)の違いから考える。

Karl Buehlerによる送り手と受け手の間の言葉の機能の分類(1、表示する機能あるいは描写する機能、認識する機能、2、表現する機能 3、訴える機能)

分析家は患者の訴える機能に応答することを差し控え認識する昨日による解釈を通してそれを表現する機能へと変換させることを目指す。→患者が今まで利用することのできなかった知識を想起し表現できるように(ワーキングスルー)

Nunbergによる分析における言葉の機能の分類(1、魔法の機能≒カタルシス機能、2、言葉は行為の代用品である)

あみメモ:一方、攻撃性の関与する部分において「言葉は単なる行為の代用品などではない」とある。もし著者が言語を発話する行為として捉えているとしたらその後に続く「侮辱的な言動や皮肉あるいは軽蔑の表現」も行為なはずなのでそう捉えていないということか?「自我に対する言葉の機能」という言葉が引っかかる。抵抗によって言語化が困難になる際、分析家は超自我でもあると同時に補助的な自律的自我機能として機能する。この場合、言葉は「単なる」行為ではなく、というが、これは行為だろうと思う。また「さらに言語化により聴覚を通じた現実的価値の付加も起こる」とあるが理解がやや直線的に感じてしまう。一方で以下みたいに書いているわけだし。

Cassirerは分析プロセス自体そのものにおいて言語の目的化の機能が果たす重要な役割を強調したが「話されていないことばは私たちの奴隷であり、話されたことばは私たちを奴隷にする」というのも本当である。

転移状況における感情や情動の言語化の問題も検討。言語化と特定の内容を伴った情動との結びつきが確立されるまでにもまた言語化。内的現実と外的現実(共有された現実)としての情動へ変容。自らの意図や動機を言語化することで洞察を得る。そこから想起される反復。洞察へ向けた繰り返される抵抗のワークスルー。情動の言語化に対する抵抗の由来は2つの動機付けの形。言語化の放出機能と拘束機能。どちらも防衛(抵抗)のためにしようされるかもしれない。記憶の言語化ではなく言語化による想起。無意識から意識へ。行動から思考へ。一次過程から二次過程へ。

言語ー意識的な考えが内部で構築されるのを可能にしてくれる足場として機能。知性化は空っぽの足場。

あみメモ:解釈の使用が重要というより使える解釈とその場所を準備、提供することか。

フロイトがしたように記号としての言葉、暗号化されたメッセージを理解すること。シニフィアン・シニフィエの関係。その間にもさまざまに変化する型がある。分析過程(≒話すという行為)は一次過程と二次過程において無意識の語彙による表現を引き出し、思考は通常の言語に翻訳され二次過程優位のもと洞察を得る。

「分析の状況が、「注意と現実吟味とが外界(分析家)から引き抜かれて、患者の内的体験へと移される状況を患者のためにつくり出す」のである」

動機づけの複雑さ、他の人の精神状態の理解、過去の体験と現在の体験の区別。←意識の系の獲得。

「まさに人間は、言語を使用することによって、ようやく時間と空間において遠くはなれた所にある出来事にさえ現実性を与えることが可能になるのだし、さらには彼らと今ここに存在する出来事とを見分けることも可能になるのだ」=洞察と言語化による現実吟味。

「なによりもまず、コミュニケーションは、言語のすべてではないし、ことばのすべてではない。」

「もし言語化とことばが、洞察を得るという治療上の効果をあげるうえで欠くことのできない役割を果たしているというのならば、それら(言語化とことば)だけが、そのことを行う唯一の要素ではないのである」

あみメモ:全体にうーんという感じ。speechの捉え方が直線的すぎでは。ラカンのテーゼは自我心理学の文献を読むときに常に思い出しながら。

「無意識はひとつの言語のように構造化されている」

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精神分析、本

立木康介『ラカン 主体の精神分析的理論』を読み始めた。

寒いですね。コーヒーもとっくに冷めてしまいました。電気膝かけのおかげで足は暖かいけど床に足がついちゃうと寒くてブルブルしています。ということで動けない朝。どうしましょう。

Instagramに載せたけど立木康介さんが『ラカン 主体の精神分析的理論』を贈ってくださいました。いつも大切に読んでいます。この前のフーコーの本はちょっと難しかったけど、その前の『女は不死である ラカンと女たちの反哲学』はとても面白かった!今回はラカンと哲学者、まずはアリストテレスとの本気対話。立木さんのさすがの明快さでさらっとフランス精神分析史におけるラカン理論を概観したあと「はじめに」で「アリストテレスを読むラカン」。このあともしばらくアリストテレスが特別に扱われる様子。読み進めるのが楽しみです。昨日、なんとなく高橋澪子著『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』を再読しててアリストテレスのところを面白いなあと思っていたのだけど精神分析との関連で読むのがやっぱりスリリングですね、私には。

書いている間は少し寒さを忘れるけれど色々書くにはまず読まないとですね。楽しみです。風邪ひかないようにしましょうね。

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読書

『往復書簡 言葉の兆し』

「言葉は浮くものです」と古井由吉は佐伯一麦への手紙に書いた。日付は2011年7月18日とある。

東日本大震災後まもなく2011年4月18日からはじまったお二人の往復書簡。

「それにしても「創造的復興」とか「絶望の後の希望」とか、「防災でなくて減災」だの、これはもう絶望の深みも知らぬ、軽石にひとしい。」

「生きるために忘れるということはある。しかしこれは、忘れられずにいることに劣らず、抱えこみであり、苦しみです。風化とはまるで違います。」

古井由吉は空襲を体験し戦後を生々しく肌に感じながら書き続けた作家だった。

ラカンが示したように、作家は精神分析が明らかにするまでもなく、事の本質を知っている。古井由吉の言葉には怒りが滲む。

あれから10年。私は何も変わっていない。ただ歳をとった。多くのものを失った。

私ひとりを抱えられない言葉で私は誰かのこころと何ができるのだろう。軽石のような言葉に傷つき浮かんでこなくなった言葉とどうやったら出会えるのだろう。

あれから10年。その事実の重さをそれぞれの小さな肩に感じながら生きる人たちを支えるのはなにか。私には想像もつかない。それがあることをただ願うばかり。そしてせめて私が軽々しく人の尊厳に踏み込まないように。