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精神分析

心が迷子にならないように。

今朝は信州八ヶ岳のお菓子「くるみやまびこ」を熱い緑茶と一緒に。最近、早朝から鳥たちがすごくにぎやか。この前、山にいったときは鳥の声がしないなと思った。木があればそこにいるというわけではないのよね。


ここ数日、SNSで「なになにしない人生は損」とか「なになにしないなんて人生の喜びを失っている」みたいな言葉を多く見かける、というか、誰かが言い出すと一斉に似たような言葉がわいてくる。わくならお菓子とか白米のほうがいいな。ちいかわの世界だけど。とにかく言葉が軽く使われすぎているのだろうなあ。使うほうも特定の誰かに向けているようで全然相手の受けとり方は考えていなかったりするから、相手の反応に結構本気で驚いたりして、そこで「ああ、そういう受け取り方されるんだっけ」と自分の言葉を振り返るより先に、別の誰かがその受け取り方に文句つけてたり、とかほんと意味わからない・・・と思うこともしばしば。人の損得や喜びを勝手に閉じた世界に持ち込まないでほしいし、みんなのための言葉を自分の習慣に押し込めないでほしい。


早口で大きな声で話されると勢いばかり感じてなんにも内容が残っていないとかってよくあるでしょう。それとか、前に書いたけど「なんとかの分際で」とか人を明らかに見下す表現を使われるとその人に対する心が死ぬとか。言葉ってなんでこんなに通じないの、とかそこだけ浮き上がらせて切り離すんだ、と驚きの連続で、そういう衝撃は立ち止まる余裕を失わせるので、こっちも結構ひどいこといっちゃったり、コミュニケーションはあっというまに閉じていく。それって本当にもったいなくないですか、というより、まずくないですか、と思う。もちろん、ここに書いているのはすべて自分にも当てはまることだからなおさら切実。


そういう意味でも(どういう意味だ)、土居健郎の「甘え」は興味深い。土居は、これも甘え、あれも甘えといっているのだけど、それは「また甘えて」とか「甘やかしすぎ」とかそういう言葉で活用される「甘え」とは区別している。土居は、関係や出来事を「甘え」という言葉で大きく囲っておく。これ、共有財産ですから、という感じで境界をゆるめる。では、ゆるりと囲われた複数の「甘え」たちはみな一緒か、というとまるでそんなことはない。人も中身も違うのだから当たり前だ。ただ同じ構造で捉えられますよね、と。中身は色々でしょうけど、と。で、そうやって構造を見出すことになぜ意味があるかというと、これは概念の使用とも関係するけど、人は枠組みがないと迷子になるから。


共有財産としてみると、土居は「甘え」の非対称性をそうやってぼやかしながら、多様な関係(神との関係まで!)に枠組みを与えたのだろう。それに対して、その関係に含まれる方向性や非対称性を詳しく考えようとしたのが北山修である、と思う。北山は色々な本で「甘え」について書いているが、今回は日本精神分析協会が発行しているThe Journal of The Japan Psychoanalytic Society vol. 6.から引用する。この巻は、Special issue on “Amae”という特集が組まれており、北山はここにTakeo Doi “wrestled” with Freudian psychoanalysisという論考を寄稿している。


北山は、そこで、土居との関係から出発している。北山は、土居に立場の違いを利用された(pulled rank)と感じ、土居が自分にとって「エディプス的父親」になった、と語る。そして、土居を高い位置に置いているのは自分自身でもある、と認める。 北山が、自分が相手を上に置くという心的な働きに注目していること、つまり、上下関係には、それを自ら作り出す心的な働きも関与していると捉えていることは興味深い。


土居が、非対称的な関係に由来する「甘え」を、必ずしも上下関係に限定されない構造として捉え直せる、と考えていたのに対し、北山は、「甘え」から上下関係を明示的に取り出し、上から下、下から上という方向性が組み合わさる構造を「愛の階層性(hierarchy of love)」と呼んだ。北山は、そこで、幼児が母親に向かって手を伸ばす姿についても、単に抱っこしてもらいたいという受動的な願望だけでなく、想像力や遊びによって自ら母親のところへ到達しようとする能動性を読み取る。 さらに、幼いキリストが母マリアを慰める図像を挙げ、子どもが母親に能動的な愛を与える可能性も示している。


北山は、 まずは人間土居健郎を特別な対象とし、土居を上位に置く自分自身の関係を、「甘え」理論の重要な要素として問い直そうとした。 そして、そこから上下関係という一つの構造を取り出し、日本文化のさまざまな素材を参照しながら、独自の考えを展開してきたといえるだろう。


要するに、土居は異なる関係に共通する構造を見出し、北山はその構造の内部の位置関係や方向性を明らかにしようとしたといえるか。フロイトの「自我」概念を見てもあきらかだが、ひとつの概念はそれを用いる人がいれば多様な仕事をまかされるようになるのである。「甘え」を含む心が迷子にならないように、私たち専門家は、理論と実践、そして個人の経験の歴史の内側に身を置きながらそれを検討する。それは同時に言葉を大切にすることである。そしてそれは言葉以前の思考に身をゆだねることだと私は思う。ここでビオンが、とかいいだすと止まらないので、今朝はここまで。


良い一日になりますように。

八ヶ岳
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歴史とか行動とか。

今朝も風が涼しい。柿も美味しい。雨ばかりだったけど今日は晴れるみたい。嬉しい。


昨日、土居や小此木たち、日本の男性精神分析家たちが「母性」を素朴に前提としすぎではないか、と書いた。


カッコつきの「愛」が家族の内部、とりわけ母子関係に集中して位置づけられるようになったのにも歴史がある。


木本喜美子(1995)『家族・ジェンダー・企業社会――ジェンダー・アプローチの模索』(ミネルヴァ書房)で、木本は、近代化とともに子どもの養育を中心課題とする(近代家族)が析出し、そこでは子ども観の変化が決定的に重要であった、と述べた。

まず、木本は、家族社会学が前提としてきた家族モデルについて、こう述べる。


>山田昌弘および落合恵美子らが喝破したように家族社会学、とりわけアメリカにおけるそれは、その成立段階における支配的家族の特徴を家族の本質として敷衍し、それをもっとも進んだ段階の家族として位置づけていた〔落合 1989:144-145〕。すなわち家族社会学が分析し記述したものは、家族の普遍的側面ではなく、当時の支配的な家族としての<近代家族>の特徴にすぎなかったのである〔山田 1986:52-63〕。のちにも触れるが戦後日本の家族社会学が多くを負っているのは、このアメリカ社会学のパラダイムであった。成立当初の家族社会学が前提として組み込んだ支配的家族とは、以下でとりあげる<近代家族>にほかならない。(22頁)

家族社会学が「成立段階における支配的家族の特徴を家族の本質として敷衍」したという指摘は、土居を検討する際にも重要かもしれない。「戦後日本の家族社会学が多くを負っているのは、このアメリカ社会学のパラダイムであった」。この指摘は、土居の「甘え」論についても、その記述を支える家族像を問い直す視点になる。日本で観察された母子関係から、どこまで人間の普遍的な依存や「甘え」を論じられるのか。観察された関係のなかに、すでに歴史的な家族規範が入り込んでいることは考慮すべきことだろう。

また、木本はヨーロッパを中心とする家族史研究を概観し、フィリップ・アリエスは、『<子供>の誕生』[Aries1960]が明らかにした近代化の過程を通じて家族がいかに変容したのかに言及する。
引用する。


>その主要な成果は、近代から現代にいたるまでの家族観念と中世におけるそれとの間には、天と地ほどのへだたりがあることを明らかにした点に求められる。これは「子どもの成長をあたたかく見守る家族」という私たちの家族イメージと規範が実は社会の近代化過程においてはじめて定着をみたものであって、それ以前には独立した「子ども時代」という観念が存在しなかったという驚くべき発見によってもたらされた。(中略)私たちになじみの深い純粋無垢な子ども期、かわいがりの対象であり保護と教育を必要とする子ども期を中心として組み立てられる家族生活というイメージは実は、歴史の途上で、十六世紀から十八世紀にかけて徐々に形成されたものであった。したがってこうした営みを人間の本質として、あるいは家族の本質として安易に位置づけることはできない。近代化とともに子どもの養育を中心課題とする<近代家族>が析出したのである。そこでは子ども観の変化が決定的に重要であった。すなわち子どもを一方ではかわいがりの対象とし、他方では無垢な存在であるがゆえにきびしくしつける対象ととらえる子ども観が形成されたのである。こうした契機に加えて、公的生活領域と私的生活領域とを区別し分離しようとする傾向が現れる。家族と他の社会関係とを隔てる境界を高くするような営みが、十八世紀に出現するのである。その結果、家族は家族の外部に向かっては閉じた領域となり、家族の内部では子どもの養育を中心課題として凝集性を高めること、そして相互の情緒的結びつきを強めることが意識されることになった。(引用終り)

ここでの子どもは、かわいがられると同時に、厳しくしつけられ、教育される存在として位置づけられている。土居の「教育ママ」の記述も思い出される。子どもへの情緒的な関心が高まることと、子どもを一定の姿に育てようとする要求が強まることが、一緒に描かれているともいえよう。そして、養育を女性の責務とすることで、子どもを中心にした家族の親密さが、女性への役割の固定と結びついていくわけである。

さらに木本は、その家族モデルの実現と浸透に階級差があったことも押さえている。誰もが同じように暮らせたわけではないのに、そのモデルが社会全体の規範になる。すると、それを実現できない家庭や母親が「不十分」と評価される問題も見えてくる。精神分析のブルジョワ性が批判されるとしたら、精神分析にはつながりにくいこれらの人たちに対するまなざしの弱さかもしれない。

そんなことを考えていたところで、北大路書房『心理学は行動から何を語るか』刊行記念オンラインイベント第1弾「行動から何を語り合えるか:心理学と生物学の水際で」をみた。


佐藤駿さんによるカワスズメ科魚類(シクリッド)の研究、なかでも協同繁殖の話が面白かった。


協同繁殖というと、つい「みんなで子育て」「助け合う」といった、なにやら温かいものを思い浮かべてしまう。しかし佐藤さんは、たしか「お金を稼ぐのを協働といえばそうもいえる」という趣旨のことを話していた。なるほど。協働だからといって、そこに愛や善意を読み込む必要はない。まず、何をしているのか、その行動がどんな機能をもっているのかを見る。
これはわかりやすい。ただ、人間の場合は、木本が述べたように、役割分担が形づくられ、変化してきた歴史が動物とは異なる。


昨日は歴史の側から、母が子を育てることに「母性」を当然のように結びつけることを疑った。今日は、生物学の側からも、養育を「母―子」という二者関係だけから考える必要はないのだなと思った。異なる領域から眺めることで、自分の領域で自明になっている前提が見えてくるという体験は学習においてとても大切だ。

精神分析の概念だって、精神分析の内部だけで考える必要はない。そもそも精神分析自体が学際的な領域なのだから、土居が日常語の「甘え」を精神分析のなかで活用したように、むしろそのインターセクションを活用してみればいい。と意気込むにしても、やはり概念化の歴史は大事、と一歩進んで二歩下がる。
もっと時間がほしいが、ないものはないというか、まったくないわけではないのだから少しずつやる。

ところで、共同繁殖ってなんぞや、という人、動物行動学に関心のある方は、小田亮・橋彌和秀・大坪庸介・平石界 編『進化でわかる人間行動の事典』(朝倉書店、2021年)がおすすめ。
出版社HPの紹介を引用させていただく。

>「食べる」「考える」「結婚する」など,ヒトの日常的な行動について,主に行動の機能と進化史に焦点を当て解説した中項目事典。コラムや用語解説も盛り込み,人間行動進化学がヒトを観る視点について知ることができる。(引用ここまで)

どの項目にも「機能」と「進化史」の小項目が必ずあって、「しくみ」とか「発達」とかが書いてある項目もある。こういう構成を見るだけでも、やはり歴史は大事、とまた同じところに戻ってくる。そしてなんと、私的には「なんと」と嬉しい気分になるだけだが最初の項目は「遊ぶ」。行動の事典だから当たり前なのだろうけどみんな動詞なのがいい。「甘える」はもちろんない。「もちろん」と書いたのは、「甘える」を一人の主体の行為として捉えるのは、どうにも心もとないからである。「遊ぶ」「慈しむ」「育てる」「飼う」「助ける」とか「信じる」「信頼する」「見つめる」とかが関係しているか。相手がそれを受け取る、拒む、気づく、感じ取ることまで含めて、はじめてその現象が成立する。その意味では、「甘える」は行動というより関係の様態に近い。というか、土居自身、「甘え」は「甘える」という自動詞から派生した名詞である、とわざわざ書いていた、と思う。

事典をもとに「甘え」を追いたいのだが今朝も時間がない。またいずれ。


今朝は、木本が歴史に即した、ごく「普通」の感覚を示していたのでそれを論拠に「甘え」概念を少し振り返ってみた。それにしても動物行動学の説得力とわかりやすさもいい。特別な思想を持ち込まなくても、生き物、生活、歴史に目を向ければ疑問は生じる。日々できることとして、概念をうのみにせず、その起源と歴史を意識していきたい。
どうぞ良い一日を。

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PLAY

今朝は降っていない。肌寒い。東京は今日は晴れてくるらしい。

子どもの頃、はじめての一人部屋は、西日しか差し込まない、厚いカーテンのひかれた部屋だった。そこにはたくさんの本やレコード、そしてアップライトピアノがあった。小さな頃から長年習ったピアノはまったくうまくならなかったが、お菓子の歌が大好きだった。それはたぶん、湯山昭のピアノ曲集『お菓子の世界』だった。お稽古はいつも練習不足で退屈。終わった後はぐでぐでしながらウルトラマンをみていた気がする。その薄暗い狭い部屋で、子どもたちで『ちびくろサンボ』のトラになって、ぐるぐる回ってバターになったりもした。劇とか音楽とか読書とか、まだ分類も知らないそれらは、私たちにとっては全部 PLAY だった。
ぐるぐるぐるぐるゲラゲラゲラゲラ。私たちはいつのまにかバターになる。ときには喧嘩になったりもする。何が原因だったのか、そもそも原因なんかあったのか、今はもう覚えてもいないけれど、わりと激しめの喧嘩をして、親に泣きついて両成敗になったり。


>生とはその語り得ない瞬間であり、出来事それ自体を超越する。愛において、非人称という宝石のような瞬間が空中で煌きらめく。それは身体の未知の栄光であり、瞬間々々の、鳥肌で感じられる物質である ―― 感じられるのは、身体の外部で生起するきわめて客観的な非物質であり、高みで火花を散らす喜びである。喜びは時を形成する物質であり、何より瞬間である。


クラリッセ・リスペクトルの『水の流れ』の冒頭からの引用である。喜び。それはたしかに非人称だった。

リスペクトルはいう。
「わたしの歌は誰のものでもない。」
私の歌なのに?なんて問うのは野暮だ。そんな大人が子どもをだめにする。私の子どもの心をだめにする。私もそうやっていろんな人の心に境界を与えてしまったかもしれない。いや、確実にしてきているだろう。私が「甘え」をこんなにしつこく問うているのだってそういうわけかもしれない。


「いつまでママママいってるんだ」あんなにママと呼ばれたかったのに?「あなたと私は違うから」あんなにひとつになりたかったのに?「もう、赤ちゃんなんだから」といわれて不機嫌になる。「いい加減にさぁ」と言葉を濁される。続きを言わせようとする。黙る理由などわかっているくせに。私たちはどうしてまるっきりひとりで生きていく動物として生まれなかったのだろう。あんなに楽しくバターになっていた時間を忘れたかのようにそう思ったり。


境界を作りたいのか、消したいのか。輪郭がほしいのか、曖昧にしたいのか。土居の「甘え」にはすでに個としての身体が想定され、他者を認識できるお互いがいる世界で生じる。私がひっかっているのはその手前の運動、「甘え」が生まれるまでの身体と心の歴史である。

この先はまた理論的なお話になるのでまた今度。

さっきあえてPLAYと書いたけど、日本語の「遊び」でイメージされる遊びって限定的だと思う。性的な意味での「遊び」はかなり日常語として使うわりに、音楽や演劇や絵画など文化全般を「遊び」と呼んで、排除、とまではいかなくても、軽視はする。文化的なものにはなかなかお金をかけないのに、「女遊び」なんて言葉は当たり前のように使われ、他人の私生活を週刊誌のネタにしては面白がる。そしてそういうのが売れる。そういう社会で精神分析がなかなか広まらないのもしかたないといえばしかたない。


そういえば、上野千鶴子の『女遊び』が今年復刊された。1988年の本である。紹介文を読むと、女性が自分の身体や快楽を自分の言葉で語ることの難しさが、いまもなお問題になっているという。そんなことを考えていたら、今度は麻生太郎の文春ネタが目に入った。こちらは政治資金の使途をめぐる報道で、もちろん検証されるべき問題なのだが、女性との関係が見出しになると、途端に「女遊び」を面白がるような読み方も入り込んでくる。それは私が問題にする「遊び」ではない。「遊び」におけるセクシュアリティはより複雑で、単なるゴシップとして消費できるようなものではない。

シェイクスピアを読んだことがあるだろうか。その劇をみたことがあるだろうか。目まぐるしく生き死にを演じる登場人物たちに、心を、身体を、欲望を、そしてあらゆる情緒を刺激される体験をしたことがあるだろうか。精神分析はわりとそういうものだ。そうであってほしいし、そういう文化を継承していきたい。

今日もがんばりましょう。いい一日でありますように。

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記録、「甘え」という語

今朝も雨。この国の気象はどうなっていくのだろうか。歳時記の季語もいずれ大きく変わったりするのかもしれない。

毎朝せっせと、でもないが、ダラダラと書き続けているが、なんのために?なんのためだろう。やっぱり朝のウォーミングアップかな。この仕事は書き仕事が意外と多い。本を書くとかそういうのではなくて、臨床がメインであっても。私の場合の主な書き仕事は記録。あとは、紹介状とか紹介状のお返事とか。

これまで、いろんな機関に所属してきた。どの機関でも、その人の困りごとに対して何ができるか考えるために一度はお話を伺う。PSWやケアマネさんと一緒に働いていた頃は、彼らが聞き取りをしてくれていたが、時間がないときは私たち心理士がすることもあった。それは主に医師の診察のためで、私は短時間で聞き取りをし、それをまとめる仕事がとても好きだった、大変勉強になった。心理検査もたくさんとった。ロールシャッハに関してはその日のうちに所見をだす余裕はなかったので、次の診察まで、とか猶予がもらえた。記録や資料の作成に関してはフォーマットがある程度きまっているところもあればそうでないところもあった。私は、今は医療機関へ紹介状を書いたり、紹介状を受け取ってそれに返事を書くことが多い。フォーマットは一応作ってあるが、ものすごくシンプルなものだ。

最初の聞き取りをインテークということが多いが、かける時間は機関によって違った。クリニックでは15分くらいでお話をうかがって、その場で状況と印象、簡単な見立てを書いて、医師に渡して診察に役立ててもらうということが多かった。教育相談室では、担当になった人が最初にお話をきいて、何曜日だかの朝の会議でここで引き受けたほうがいいか、リファーしたほうがいいか、受けるならどういう方針で、誰が、などを決めていた。私はそのための資料作りが好きだった。考えるのが楽しかった。医師とやりとりする場合の所見は、できるだけ簡潔に読みやすくということを心掛けるので、そのために考えあぐねるのも勉強になる。書くときは一気に書く。一方、教育相談室のように、担当しなくても来談した方の受付をしたり、共有する会議があったりすると、みんなでみている感じが強くなる。今思うと、十分な時間をとっていたように思う。慣れるまでは書くのも大変で、そのための勉強もたくさん必要で、会議にだすとそれがいかに足りなかったり過剰だったりするかも気づかされた。私にとって、そういう職場が最初の現場だったのは幸運だったと思う。その後の職場でスピーディーに簡潔に書く、という下地をつくってもらった気がする。今も困れば相談する相手ができたというのも大きい。

そのような記録において、私が最近ずっと取り上げている「甘え」という言葉を使ったことはあっただろうか。本人がそれをキーワードのように使ったのであれば書いたかもしれない。でも私からそれを使ったことはないように思う。そういう自分の行為を振り返ると、土居健郎がいうほど「甘え」は自明ではないのかもしれない。土居は「「甘え」の自明性をめぐって」という論考の最後に以下のように述べる。

>私が「甘え」理論でやったことは、もともと誰にも自明であった「甘え」の心理に精神分析的理論を読みこんだだけのことではどうもなさそうだ。むしろ、ちょっと逆説めくが、この自明性はこれまでは誰にもしかと見えなかったものであって、精神分析的視点ゆえにそのことに気づいた私がそれを取り出し皆に提示したことに「甘え」理論の意義があるのではないか。その意味においてこの小論も今一度「甘え」の自明性を訴えようとしたものであるといって、決して過言ではないと思われるのである。(引用ここまで)

たしかに土居は精神分析的精神療法の実践によって「甘え」を確信したのだろう。しかしそのことと、それが自明であることは別なのではないか。たしかに、もし、私が「彼には満たされない甘えがあって」と書いたとして、それは結局、私がその人の何を聞いて、何を伝えるためにそう表現したのかを示す必要があるだろう。「甘え」という言葉は、それ以上の記述を不要にしてしまうようなイメージ喚起力があるから。でも、やはり、そのことと「甘え」が自明であることとは異なる。

土居は『精神分析と精神病理』の序論で「精神分析的精神病理学の基礎は症例研究であって、すべての精神分析の命題はそこから出発している」と述べている。そして「日本語の動詞に由来する「甘え」概念は、従来もっぱら形容詞的概念を用いての現象学的研究の対象であった諸現象を精神分析学的に解明する有力な概念的道具を提供しているように思われるのである」という。それならなおさら、土居が臨床状況を「甘え」という言葉を使ってどう描写したかに注目していかねばならない、と私は思う。なんでもかんでも「甘え」とすることはそれこそ言葉に甘えすぎだろうし、土居が「甘え」というならば、とたいした吟味なく納得してしまうのであればそれは土居に甘えすぎだろう。

言葉の使用について考えるときには、そもそも、というところに再び帰る必要が生じる。精神分析において、それを試みるなら、ウィルフレッド・ルプレヒト・ビオンによる理論が欠かせないんだろう。私が参照するのは、『精神分析の方法 II 〈セブン・サーヴァンツ〉』(福本修訳, 平井正三訳、法政大学出版局、2002)である。ビオンはそれの「第12章 変形された容器と内容」においてこう述べる。

>記述2:語(word)は意味を包容する。逆に意味は、語を包容することができる。その語は発見されるかもしれないしされないかもしれない。その関係は、結合の性質によって確立される。精神分析における要素の一定の連接は、それに語・理論・他の定式化を賦与することによって「拘束」されうる。それを拘束する語は、それが表示するはずの一定の連接から意味を取り除くような、強力な連想の陰影を予め持ちうる。逆に、一定の連接は、定式化が「包容」しようとした語や理論、他の定式化を破壊しうる。例えば、或る男性は、あまりに強い感情を表出しようとしているために、彼の言語的表出の能力は、吃ったり意味のない支離滅裂な語の呟きへと解体する。

記述3:容器(♀)が内容(♂)からあまりに多くを抽出する結果、内容は実質を取り去られる。或る精神分析は、あまりに長く続けられているので、患者はそれからさらに意味を得られない。逆の例は、患者にもはや忍耐や我慢・不屈の精神・支払う金がなくなるまで続けることだろう。容器は、内容「から」あらゆるものを搾り取りうるし、また、内容の「圧力」によって、容器は解体するかもしれない。一例は、背景が失われ語に意味が失われるまで隠喩として用いられた語であろう。(引用ここまで)

「語(word)は意味を包容する。逆に意味は、語を包容することができる。その語は発見されるかもしれないしされないかもしれない」とビオンがいうとき、ここには、語と経験の関係についての転換があるのではないか。通常、私たちは、まず語があり、それによって経験を把握すると考えがちである。土居でいえば、「甘え」という日本語がすでに存在しており、それによって精神分析的状況に生じる経験を把握できた、という経緯があった。しかし、ビオンがここで示すのは、そのような順序ではなく、意味は、まだ発見されていない語を包容しているかもしれないということである。したがって、土居の仮説が妥当であるならば、「甘え」という語を知らない分析家であっても、「甘え」と呼びうる経験に出会っていることになる。とはいえ、それを「甘え」と名づけたところで、意味を得られるとは限らない。ビオンはさらに、語があらかじめ帯びている「連想の陰影」によって、かえって一定の連接(経験といっていいかもしれない)から意味が取り除かれる可能性を指摘する。「甘え」でいえば、母子関係、依存、愛情、幼児性などだろうか。それらの連想が強すぎれば、精神分析的状況に生じている経験は、あらかじめ知っている「甘え」なる語に拘束される一方、意味は抜き取られるかもしれない。土居の緊張はここにあるのではないだろうか。語によって意味を失う可能性、強すぎる連想の陰影などと関連した緊張が。

なにやら話を複雑にしてしまった。ビオンの引用を用いた考察は我ながら雑なのでいずれ修正するとしましょう。とりあえず、まだ朝なので(?)このくらいに。今日も一日雨かしら。すでに被害が生じている地域にこれ以上の負担がかかりませんように。今日もがんばりましょう。

ハナミズキ
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土居健郎の態度、「甘え」という痕跡

雨は、降って、いるのか?というくらいの微妙なお天気。外は大分寒くなってきたのに、部屋の中は蒸し暑い。

さて、本日も土居。関係ないけど、京都には御土居があるよね。大河ドラマ『豊臣兄弟!』でもでてくるのかしら。

土居健郎は『精神分析と精神病理』第2版(医学書院、1970年)の冒頭に「改訂にあたって」という短文を載せている。

「近頃若い人々の間で精神医療の現状に対する危機意識から、少数の患者しか治療できないような精神分析は時代おくれで現実的でないという声を聞く。これは日本だけの傾向ではなく、アメリカでも同じような声が聞かれるようである。」

昭和45年(1970年)にはすでに今と同じような声があがっていたわけである。これに対して土居は、精神分析の価値を守るために「正規の分析」の特別さを強調したりもしない。精神分析を換骨奪胎して似て非なる心理療法に変える気配もない。ただ、まず、自分が提示した症例はいずれも「正規の分析」ではないと明記する。そのうえで、外来治療だけでなく、精神病院に収容されている患者にも精神分析的治療は可能だと述べている。


そのうえで土居は言う。
「私の考えるには、結局問題は治療法というより、精神科医の心構えである。」

ここで土居は、技法や枠組みの差異そのものを議論の中心には置かない。土居が「自分のできる範囲で」おこなってきた精神病院で学んだことは「精神科医の心構え」であり、土居はそれを精神分析に依拠している、ということを述べるのみである。そして「本書が将来の精神科医の教育に役立つこと」を願うと結ぶ。

土居は、1995年の「精神分析療法と文化的背景」――『「甘え」理論と精神分析療法』(金剛出版、オンデマンド版、初版1997年)において、精神分析のトレーニングの制度化を文化的変容の一つとして捉え、それが精神分析の特権化および階層化と結びついていると論じた。その際、IPAの階級的組織を日本の家元制度になぞらえながら、その背後に働く妬み――甘えと背中合わせ――を、文化を越えた普遍的な集団力動として捉えた。土居の立場は一貫している。

土居が広げようとしているのは、精神分析という名称でもなく、当然イメージでもなく、患者を理解する方法と治療者の心構えだ。差異を消して間口を広げることは目指さず、差異を保ったまま、精神分析がもつ臨床的な働きを制度の外へ開く。土居は、たまたま患者が述べたことからヒントを得た、と書くことが多い。これまで、ここで取り上げてきた『精神療法と精神分析』からもわかると思うが、土居は、常に、患者との具体的な出来事から考え、それを精神分析的に考え抜き、それを書いている。土居は、そこでも、正しい技法があるかのようには書いていない。ただ、精神分析に依拠した治療者の心構えが、実際の臨床場面でどう現れるかを記述しているだけ、といえば、だけである。このような、地に足のついた土居の啓蒙姿勢は、臨床家として学ぶところがとても多い。


では、土居が精神分析をどのような態度で学んだか。土居は、本書の「序論」でこう述べている。

>日本ではあまり知られていないイギリスの特異な宗教哲学者 von Hügel,F.が、これまた一部専門家の間でしか名の知られていないドイツの哲学者 Troeltsch,E. について述べているつぎの言葉は、不思議に私の心を打つ。


「あらゆる時と所で,深く学ぶこと、すなわち問いを発しながらそしてまたわれわれの全精神において成長することの,もっとも手っ取り早いがそれでいてもっとも高くつく方法は、われわれ自身よりも才能に恵まれ、より多く訓練を受け、より多く経験を積んだ者として認められている何者かに傾倒しながら学ぶことである。・・・・・・非常に偉大な精神の一つ一つの見解に対し、それを本気で採用しようと繰り返えし試みた後,それと対決することは、それをまったく受け容れまいと決心するときでさえ、恐らく、その精神が過ぎし日々に多くをわれわれに教えたときとおなじように実り多い経験であり得るのである。」

この言葉はFreud に対する私の態度を思い出させる。(引用ここまで)

土居は、そのあとにこう書く。

>ちょっと大袈裟に聞えるかもしれないが、本書は私がFreudと取っ組んで格闘の末に生れたものである。格闘したのは Freudが敵であったからではなく、天使と格闘したヤコブとおなじように、むしろ私が彼に傾倒したからなのである。(引用ここまで)

この序論は昭和40年(1965)年に書かれた。土居は、それより前、昭和36年(1961)の『精神療法と精神分析』(金子書房)の「まえがき」では、「実に本書の最大の苦闘は、教育分析に引き続く自己分析の完成にあった」と書いている。


土居は、苦闘し、格闘してきた人なのだ。昭和40年(1965)刊行の本書は、1961年の『精神療法と精神分析』とは異なり、「甘え」の概念を精神分析理論に位置付けていこうとする土居の姿勢が明確である。


土居は、まずフロイトに「傾倒」し、「取っ組んで格闘」した。そして、その格闘は、書物の上だけで行われたものでもなかった。土居は、まず自分自身がその方法のなかに入り、「傷ついた獣のごとき心境に陥って」しまったにもかかわらず、自己分析を続けた。その過程を、土居自身が「最大の苦闘」と呼んだ。「甘え」概念は、土居の格闘の歴史の痕跡でもあるのだろう。


毎日、こうして書いてみると、精神分析概念としての土居の「甘え」は、『「甘え」の構造』(弘文堂、1971年)だけ読んでも使用するのは難しいと思う。でも、あの本はベストセラーになった。精神分析由来の概念は臨床心理学や精神医学のなかにもそれなりに浸透していると思う。それでもなお、精神分析を受ける人が多いとはいえない。はてさて、ではないか?

まあ、今日は日曜日。しっかり休めたらいいですね。

雨の中ふわり。
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土居健郎『精神療法と精神分析』第4章「治療の開始」

雨の音が強い。少し窓を開けたら強い風が吹き込んできて慌てて閉めた。台風25号の被害の大きくなる中、26号もきているとう。千葉にはまた大雨の予報。大変なことだ。

気象も政治と直結することは最近の自然災害とそれに対する政府の対応でなんとなくわかった。何か起きても助けてもらえないんだな。そんな見通しであってももっていないよりはいい、とかそういう感じだろうか。失望は体力まで奪っていく気がする。

今朝も土居健郎『精神療法と精神分析』を読んでみる。ここでもすでに辿ったが、土居は「第4章 治療の開始」で、精神療法の導入過程に関して述べる。ちなみに、土居が、本章で大いに参照したのもエクスタインの論文であるそうだ。

土居は、「治療者に関する限り、患者に会った瞬間から、精神療法は開始される」。そして「すべての人間関係の最初がそうであるように、相互の探りあいがある」と述べる。治療者の側の探りは診断であるが、土居の場合、診断は単に患者に病名をつけるものではない。その手続き自体がすでに精神療法過程の一部である。

私のオフィスは、問い合わせはオフィスのウェブサイトのお問い合わせのフォームからしていただいている。治療者である私にとっては、それを受け取るところから心理療法過程は始まっている。始まってはいるが、治療関係に入るかどうかは実際にお会いして初回面接、あるいは数回の面接を通じてである。

土居は、精神療法に移行する場合は、患者の治療に対する態度・感情をとりあげなければならないと述べる。第三者ではなく、患者自身がどう考えているかを探ることは重要である。

私をたとえにだすと、私は、子どもの困りごとにも対応するので、本人と保護者の両方に会うことも多い。その場合、困っているのは誰なのか、どのような経緯でここにきたのか、そのプロセスでどんな気持ちになったのか、などを聞く。これも土居のいう探りだろう。その際、土居がいうように「患者の方でも治療者をそれとなく探っている」ことも確かに治療者が意識すべきことである。探るというのは、興味関心をもつ、注意を向ける、ということが含まれているわけで、患者からのそれをなにも感じない場合もあるだろう。また、治療者が探りをいれるようなことをいったところでそれは言葉ですぐに答えられないことも多いだろう。それ自体が、治療に対する態度のひとつではある。治療者は、このような過程のなかで、自分は果たして患者を助けることができるか、それにはどうすることが最善であるかを問わなければならない。

「このような相互の探りあいがしばらく続いた後、治療者は、今ここに出来かかった治療者患者の関係を精神療法という形で続けるか、それとも別の治療方法を処方するか、決定しなければらない。」(71頁)

そしてそのことを患者に告げなければならない。患者の受けとり方が様々であることはすでに述べた。土居は、代表的な四つの受けとり方をあげ、それぞれの場合でのやりとりの例をあげる。私はこのやり方に納得がいくし、私もこう考えて、こういう対応をしていると思う。私は、土居にスーパーヴィジョンを受けていた精神分析家に指導を受けていたし、その先生にこの本をおすすめされた。でもこの本から知的に理解し、実践したというより、自分の患者について話しあう場をもつなかで、これらは自然と受け継がれてきたような気がする。

土居がここで、精神療法は、「忘却した過去を想起」することではなく、「この場で二人で」考えるものであり、患者自身が変化することを目的としていることも印象的だが、患者の依存的態度や内的抵抗なくしては治療そのものも起こらない、とはっきり述べていることはより心に残る。

土居は、「第4章 治療の開始」のなかで、患者自身は、精神療法において自分自身が変化せねばならないこと念頭にはおいていないという。これは本当に大切なポイントで、精神分析を求めてくる方でも多くの場合は環境が変わることを期待しており、自分の変化に対しては「どうして自分が」という思いが強いものである。言葉では「変わりたい」という場合でもである。そりゃ患者は、苦痛から解放されたいと思って治療を求めたのに、「そのためには自分が変わる必要がある」といわれれば「なんで?苦しんでいるのは私なのに」となるのは自然だろう。そんなことをするくらいなら苦痛に耐えているほうがまだまし、というほどに変化に対する内的な抵抗は強いものなのである。

土居はこの点に慎重であり、患者に「あなたは治療に抵抗している」と突き返すようなことはしない。土居は、「一旦患者が治療者を求めたからには、今度は治療者の方で患者のさしのばす手を受け取るかどうか意思表示をしなければならない」という。なぜ自分が変化しなければならないのか、という患者にとってのある種の理不尽さに対応するのは治療者の経験に基づく希望なのだろう。患者の「なぜ苦しんでいる私が変わらなければならないのか」という怒りに対して、土居は変化の必要性を患者だけに負わせない。土居は「あなたは治療に抵抗している」という代わりに、治療者の提供する治療と患者の考えている治療が食いちがっていることを示し、それでもできることはあるし、治療者としてはそれをやりがいのあることと考えている、と示す。この時点で、まだその治療を経験したことのない患者に、開始するかどうかの判断をすべて委ねるのは、経験のある治療者からすれば無責任になるからだろう。

また、土居が、それに続く「(3)治療契約の取り決め」において、とりわけ、時間的とりきめにおいて、治療期間の長さを問題にする患者に対して内心のあせりを取り上げ、試験期をおき、そうすれば「治療者患者の間に芽生える感情的関係がもっと形のあるものになってくる」というのは、精神分析が反復をテーマにすることを思えば妥当だろう。「食い違い」を残したまま、治療者の責任として治療を提案し、患者の責任としてそれを引き受ける。その協力関係において両者は対等である。また、患者が時間的見通しを気にすることを現実的な理由にのみ還元することなく、患者が治療の始まりをどう体験しているか、という観点からそこにあせりを見出し、それを治療者と関係にありうる可能性として見出すからこそ、試験期を土居は提案するのだろう。

ここで「感情的関係がもっと形のあるものになってくる」という表現も、診断というコトバで患者の体験をカテゴライズしない土居の一貫した姿勢だろう。治療が始まれば、問いへの応答や次に来るまでの時間、再び会ったときの感じ方を通して、関係のなかの反復が少しずつ姿を現すことを治療者は経験から知っている。土居はそれを活用することで患者との関係にやりがいを見出すのである。ここにも、実践が進むことで、それ以前にあったものに何が含まれていたのかが新たに見えてきて、それがさらに別の形へと分岐していくという精神分析的時間の効果がみられる。

食いちがっている二人が契約をかわす際には、料金の支払いというものも含まれる。ここでの心理は非常に複雑である。料金の支払いに対する抵抗に妥協することは、患者の抵抗に迎合することである、と土居は言う。この後が土居らしいし、本当にそうだなと思うのだが、料金を患者の要求通りに安くしたり、あるいはとらないとすれば「患者に精神療法をすすめながら、治療者自身内心はその効果をそれほど信じていない、ということを患者に伝えるに等しい」と土居はいうのである。土居にとって、一定額の料金を請求することは、「治療者が治療に信頼をもっていることの意思表示であり、患者もまた同じく信頼を以て精神療法に臨むようにという招待となるのである」(83頁)。ただ、これはあくまで「転移」をとりあげる精神療法の場合である。この章の最後には、治療において患者と治療者がそれぞれ何を引き受けるのか、また治療に対する内的抵抗が具体的にどのように現れるのかをイメージできる4つの症例が提示される。土居が、何を言葉にし、何を言葉にせずにおくのかに意識的であることも感じとれる書き方である。ぜひ読んでみてほしい。

こうしているうちに雨の音が弱まってきた。長靴でいくか、ゴアテックスのスニーカーでいくか迷うところだ。土曜日は電車で足を踏まれることもないだろうから、本当はサンダルでダラダラいきたいが、このお天気ではしかたない。雨の地域のみなさんはどうかお気をつけて。みんなが無事に過ごせますように。

毎日おやつ。大阪いちじく。
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土居健郎「甘え」理論の必要性

少し動くと蒸し暑い。千葉は今日も大変だろう。雨はしばらく降らないでほしい。せめて大雨にならないでほしい。大地が追いつけていない。

今朝は、再び土居健郎の理論に関して、少し書いておく。前に少し書いてからもう2週間ほど過ぎている。あっという間すぎる。

さて、土居健郎は、『「甘え」理論と精神分析療法』(金剛出版、1995/2013)オンデマンド版の序論で、精神分析の枠内で「甘え」理論をもっとも詳細に論じたのは『精神分析と精神病理』(第2版、医学書院、1970)であり、治療の実際についての土居の考えについては『精神療法と精神分析』(金子書房、1961)と『方法としての面接』(新訂、医学書院、1992)を参考にしてほしいと書いている。私は、実際の臨床が生活のほとんどなので、9月最初にここで精読した『精神療法と精神分析』が一番好きだ。

先日の精読では、第1編「精神療法の構造」を第1章「治療者患者の関係」、第2章「治療場面の設定」、第3章「治療の方針と目的」と通して読み、第2編「精神療法の過程」に入って、第4章「治療の開始」の(1)「初めの探りあい」まで進んだ。


土居は、本書の「第12版発行に際して」で、「その後「甘え」理論として巷間に知られるようになった私の理論は、萌芽としてではあるが、すでに十分に本書の中に示されている」と述べた。たしかに、本書で、土居は「甘え」という言葉をそれほど頻繁に使っておらず、「甘え」はまだ原始的幼児的な感情の文脈に置かれており、独立した理論的展開はなされていない。ただ、たしかに、「甘え」理論として展開されていく臨床的な見方は、すでに「萌芽として」ここに示されている。


たとえば「第5章 感情の交流」において「憎悪に満ちた心の陰に甘えたい気持がひそんでいることもあろうし、反対に、甘えているが実はその陰に不信の念がひそんでいることもあろう。」とアンビバレンツの状態を示す言葉として「甘え」がでてくる。土居は、まだ「甘え」を定義してはいない。臨床で生じる現象の主たる説明にもしていない。ここでは、陽性転移、陰性転移という精神分析の概念を用いつつ、それだけでは捉えきれない患者の感情のアンビバレンスの描写の一部として「甘え」が用いられているだけである。


一方、土居は、この時点で「患者の感情を感じとるのは直接治療者の理性によるのではなく、常に治療者の感情を媒介としてなされる」と明確に述べている。臨床例においても治療者が自らの感情を治療的に活用し得ず、「患者を甘えさせる方向に引っぱっていった」と述べるなど、「甘え」はまず、臨床における実感を示す日常語として現れるのである。

第1編でみたように、治療者と患者の関係がどのような場として成立し、そこで治療がどう始まるのかというのは、構造→設定→方針と目的→実際の開始、という順序で書けるが、一旦治療が始まれば、状況はいよいよ複雑になる。本書の第2編の症例たちがそれを生き生きと伝えている。「甘え」はこれらの臨床によって概念として育まれてきたのだ、と思うと、土居がなぜ「甘え」という日常語を概念として必要としたのかという問いも立ち上がってくる。それは単に、留学体験におけるカルチャーショックから生まれたものではない、といえそうではないか。


土居は、『「甘え」理論と精神分析療法』(2013)の「「見立て」の問題性」のなかでも、「甘え」に限らず、「種々の日本語固有のコトバが臨床的考察を進める上で有用であると述べた。土居は、「見立て」の議論において、診断というコトバでは「生きた患者の姿」が立ち上がらないが、日常語な日本語は「具体的で、折々に変化する流動的な印象」を与えると述べる。

私は、土居のこのような臨床とコトバに対する姿勢に感銘を受ける。「甘え」は単に、日本文化を説明する特殊な概念なのではなく、土居が患者をどう見ようとしていたか、その方法そのものから生まれた言葉なのではないか、という方向で私は土居の著作を読んでいる。


土居は、「甘え」という言葉を体験から再発見した。では、なぜその言葉が臨床概念として生き残ったのだろうか。『精神療法と精神分析』(1961)は、発見された対象としての「甘え」ではなく、「見る」「診る」方法としての「甘え」が形づくられていくプロセスとして読むこともできるように思う。


そして、これも、精神分析における主要な概念が、実践によって吟味され、更新されていく例のひとつといえよう。今日も私はその活動の中にいるんだな。がんばろう。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。千葉に適切な視察と十分な支援が入りますように。

昨日の初台
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治療におけるニンゲンカンケイー土居、成田の言葉から

台風25号が過ぎて、今朝は久々に明るい空。早速陽射しも強い。ゴアテックスのレインウェアをなくしたので、新しいのをハンガーにかけてベランダに出して防水スプレーをした。それなりにしっかり重さも大きさもあるのにどこでなくしたのかまったくわからない。写真で追えるのは花巻に旅したときまで。そのあとも使っているはずだが、自分の写真を撮らないから追えない。痕跡をたどるために写真は必要かもしれない。

土居健郎は、『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)のなかで「(精神療法以外の一般の医学的治療の場合に)反して精神療法の場合は、治療は治療者患者の人間関係を軸として行なわれ、この関係を離れて別に客観的な治療は存在しないという点が、問題である。いいかえれば精神療法を精神療法たらしめるものは、外面的基準ではなく、その治療の特殊性ゆえの内面的規律である。」といった。土居は、似たようなことを似たような言葉で何度も述べている。似たような言葉といったが、似たようなことを考えざるをえない状況は精神療法の現場ではよくある。様々な臨床家が「治療におけるニンゲンカンケイとは」と頭を抱えることしばしばだろう。もちろん私もだ。

今日、こんなことを書き出したのは、昔の講義の資料をみつけたからだ。成田善弘先生の講義資料で「心理療法的関係の二重性」とある。参考文献は、成田善弘(2001)「心理療法的関係の二重性」河合隼雄編『講座心理療法6 心理療法と人間関係』(岩波書店)と、同じく、成田善弘(2005)『治療関係と面接――他者と出会うということ』(金剛出版)である。成田先生くらいになると、自分の本を参照してひとつの講義を組み立てられる。静けさと誠実さと柔らかな硬質さが印象的な先生だった。

先生方や私たち臨床家がいちいちニンゲンカンケイなんて普通のことを取り上げるのはなぜか。精神療法は人間関係そのもののことでもあり、「それは人間関係が関係していますね」などと、外側にたやすく立つことはできない性質をもつからである。

私たちが臨床場面でよくいわれるのは「先生にとっては仕事でしかないから」とか「人として対等に接してほしい」とかである。そんなとき、私は「まあそうなのだけど」と思いつつ、「仕事とは・・・」「対等とは・・・」となる。今でもそのようなことをいわれれば同じように立ち止まる。

臨床状況において、治療者と患者はどのように違うのだろうか。土居が「外面的基準ではなく内面的規律」といったのは、そもそも何をもってその関係を治療関係とするのか、その基準を関係の外側に簡単に置くことはできないということだろう。関係のなかにいながら、その関係について考えるという位置を失わないという役割を治療者はもつ。舞台にあがりながらも観客である、というのは、土居の場合は、患者ではなく、治療者に求められる役割だろう。

成田の資料をみてみる。どうやら成田も土居や私と同じようなことを患者から言われていたらしい。患者にとって相手が有名か無名か関係あるのは最初だけで、心理療法が始まれば、治療者患者関係には似たようなことが生じる。

成田は、その関係を説明するために「心理療法的関係の二重性」という表を作っている。左の列が「A関係」、右の列が「 B関係」で、A関係の列は上から、意識的・現実的・理性的・現在的・職業的・契約的な関係、B関係の列は上から、無意識的・空想的・情緒的・通時的・個人的・転移‐逆転移的な関係である。つまり意識的―無意識的、現実的―空想的、理性的―情緒的、現在的―通時的、職業的―個人的、契約的―転移・逆転移という対応で分類されている。成田は「二重の関係を生きる」とも書いている。なので、この表は関係を振り分けるためのものではない。

「先生にとって私は」という場合、意識的に、現実的に、理性的に考えれば、これは職業的、契約的な関係である。だから、治療者としては、一方では「そうですね」というしかない気もする。しかし、無意識を想定している精神療法において、治療者が捉えようとするのは、そこで同時に生じている空想的、情緒的、通時的、個人的な関係であり、私たちはそれを転移・逆転移と呼んできた。だから、治療者にとって、目の前の患者はただの「患者」ではすでにない。

舞台にあがりながら観客でもある、という二重性もこの表を用いた記述的な説明が可能だろう。
成田は『精神療法家の仕事 面接と面接者』(金剛出版、2014)、「7面接のおわり」、「転移の解消」で、当たり前のようにこう書いている。

「治療が深まって患者の人間関係の問題が治療関係の中に現れるようになると、それを面接の外の問題として観察したり分析したり評価したりすることがむずかしくなる。治療者はその問題をまさにいま・ここで患者との間で生きなければならなくなる。ただし、ただ生きるだけになってしまっては、その問題を本来変化させるべき問題として扱うことができなくなり、その問題を治療者との間に実現、助長してしまうだけになる。だからといってただ観察したり分析したり評価したりしているだけでは、その問題はいま・ここで生きられることはなく、患者に情緒を伴ったきづきをもたらすことはできない。精神療法家は患者との関係を生きると同時に、それを観察、分析し、その変化を促さなくてはならない。」(117頁)

「ただ生きるだけ」といわれても、しかも「生きると同時に、それを観察、分析し、その変化を促す」といわれても、それはそれで非常に無理難題な気もする。しかし、実際そうなのだ、ニンゲンカンケイというのは。

さらに、成田が面白いのは、遊女と客の関係と心理療法家と患者の関係を類似したものとして捉える点である。心理療法、精神療法はサービス業であり、患者からも「水商売となにが違うのか」と言われることは少なくない。「なにが違うのでしょうね」と一緒に考えているうちに、今ここで心理療法を体験している患者のほうから、「あ、でもこっちの場合は」などアイデアがでてくる。成田があげる「職業的役割関係でありながらあたかもそれを越えたものがあるかのごとき幻想をふりまいている」という類似点は、まさにそうだなと思う。時間、場所、料金という枠があるにしても、そこでの交流は、それらの設定だけには収まらないものとして経験される。わかっているからこそ、その時間を越えて続くなにかがあるかのような空想もする。時間がくれば終わるサービスであるとわかっていても、というより、だからこそ、と私たちは考えるのだ。

では、治療者と患者の関係はどのようなものなのか。土居も成田も治療者を外側に立つ人ではなく、患者と同じ場所にいる人として描写する。よりメタに、というより、もう少し広く精神分析の主体という観点から考えても、たとえば、ラカンが「主体の分裂」というように、分析家と非分析家は、等しく分裂している。

ここまで来ると、土居が「内面的規律」を要請するのは当然のこととも思うし、同時にその言葉は重たく、時に怖くもなる。土居が治療者の権威という問題に繰り返し自覚的だったことも、ここにつながっているように思う。

こうして、土居は、成田は、と考えながら思うことがある。先に挙げた『精神療法家の仕事 面接と面接者』の「9精神療法家にとっての理論と経験」(最近、ずっと私がここで書いてきたことだ!)で成田は、フロイトが「中立性」という概念にいたるまでの経験した様々な「逸脱」をあげたあとにこう書く。

「つまり理論というものは人生の危機に際して、あるいはその人の弱点とか実践上の問題点とかをめぐって発展するものなのである。

基調低音が聞こえてくると、普遍的な理論を形成した創始者が実はきわめて個性的であることがわかってくる。そしてその個性的な顔が書かれたものの断片にも見えるようになる。

パリのある街角の写真と、ルノアール、モネ、ロートレックなど何人かの画家がその場所を描いた絵を並べた画集を見せてもらったことがある。どの絵も写真と見比べると確かにその場所を描いたものだとわかる。しかしそれぞれの絵はそれぞれに個性的であり、作者の刻印が押されていて、他の作者の作品と見まがうことはない。精神療法における諸理論と現実との関係もこのようなものであろうか。」

本当にそうだなと思う。土居も成田も同じような問題を論じているのに語調も使用する言葉も違う。そこに私たちは「らしさ」を見出す。それはときに同一化の契機となる。成田が続けて書くように、私たちは理論を身につけるまでに特定の著者を理想化したり、傾倒したりするし、それは必要だろう。一方で、成田がいうように「馴染まないもの」に学ぶことも必要である。臨床家であればなによりも、自分と患者との体験から生じた感慨を、時間をかけて吟味し、時間をかけて言葉にしていくことだろう。誰かから見て「あの人と同じ」ではなく「この人らしい」と思われる表現を紡いでいけたらと思うのである。

昨日は、強まったり弱まったりする雨風の音を気にしながら、いろんな本を読めた。再読ばかりだったので理解にはそれほど時間をかけず、そのぶん、あれこれ考えることができた。それにしても、精神分析も哲学も男の言葉ばかりだなと思いつつ、私の本棚にはたくさんある女性たちの本や「女の子のための」とあえて書かれている本も手にとった。たとえばメリッサ・M・シュー、キンバリー・K・ガーチャー編、三木那由他・西條玲奈監訳『女の子のための西洋哲学入門――思考する人生へ』フィルムアート社、2024年。あえて「女の子のための」と書く必要がある時代なのだ、今も。私も本当にたくさんの女の子や女性たちの声を聞いてきた。そして彼ら、彼女たちが、女であることで、いかに悲しく、苦しい思いをしてきたかを知った。それは私自身の経験と重なるところもあれば、まったくはじめての衝撃をうけるものだったりした。私は、精神分析家として、彼女たちと共に言葉を紡げるようになりたいし、だからといって男ばかりが紡いできた言葉を排除しようとは思わない。そんなことができないほどにそればかりの社会である、という理由だけではなく。

今日もお休みの人もそうでない人もそれぞれに良い一日になりますように。

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精読の醍醐味

と、まあ、なんと時間のないことよ。とりあえず書くけど。

土居が『精神療法と精神分析』で述べたこと、特にここまで私が引用してきたことは、その16年後の1977年の『方法としての面接』にほとんど書いてある。「劇としての面接」という章立てもある。これはこれで土居が臨床経験を積み、精神療法を教える立場になり、大学紛争を経て、より広い意味での診断的考察や精神科臨床の基本に関する本を記す必要性のもと書かれた本であり、臨床家がまず読むとしたらこちらだろう。

しかし、精読の醍醐味である、著者の思考への同一化を味わいたいなら『精神療法と精神分析』のほうが断然面白い。ここにはまだ「方法」になりきっていない土居の思考の動きの痕跡がはっきり残っている。1990年代になると土居の文章は雰囲気はそのままだが、もっとすっきりしてしまう。

平井靖史は『はじめてのベルクソン』で以下のように述べる。

‟歴史にも同じ構造があります。「あの事件が時代の転換点だった」という語りは、その後の展開を知っている者だけが構成できる。明治維新も、後から見れば日本近代化の出発点として語られます。しかし渦中を生きていた当事者には、それが何の始まりなのかは見えていません。何が決定的で何がそうでないかの区別すら存在していなかった。歴史の筋書きは、つねに結末から遡って編まれます。出来事の「意味」がその後の展開に応じて変わり続けるということ自体が、時間の未完了性を示しているのです。”

土居はもう死んでいるのでこれ以上書くことはない。なので、最後の方の著作のほうがすっきり洗練されたことが書いてあるのは当然と言えば当然だが、実はこれはそんなに当然ではない。ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』でみせたような飛躍は土居にはなさそうだ。土居の思考の動きは臨床家ならではだろう。臨床は常に患者とともにある。だから「臨床」なのだが。患者をおいてひとりでどこかへいくことはできない。どこかへいったとしてもまたいつもの時間、いつもの場所に戻ってくる。精神療法は特にそうだ。そうやっていつまでもその基盤を確かめるような作業を繰り返す毎日だからこそ日常語が大事になる。

今日はすごく風が強い。昨日は名古屋の様子を映像でみてびっくりした。電車も大変なことになっていた。どの地域も安全に一日が過ぎるとよいが。どうかお気をつけて。今日もよろしくお願いします。

初台もお祭りかな。
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土居健郎『精神療法と精神分析』続きとちょっとベルクソン

土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)の最初から、精神療法を劇にたとえていた。治療の開始において「あなたには精神療法が適当である」と言われた患者は、舞台にあがることを誘われた観客ということになるだろうか。そのように言われた患者の心の中に生じる様々な思惑、それをとりあげるのが「探りあい」にひきつづく段階である。


土居は、ここで、いくつかの受けとり方を例示しながら、その対処について述べる。土居は、まず理論の記述をして、症例を素材として提示する、という方法はとらない。この本は、高度に専門家向けの内容ながら、多くの人が経験している、あるいは想像しうる精神療法の診察場面の実際が「こんな場合もあるし、こんなことだってあるし、と提示される。そしてそれが、次の理論的記述への種まきになっている。理論的記述といっても土居が使用するのはほとんどが日常語であり、専門的なことが誰にでも読める言葉で書かれている。


土居の頭の中ではつぎのような場面が次々に浮かんでくる。精神療法を受けるようにということは精神修養しないさいといわれることと同じこと、つまりこうなったのは修養が足りないからだ、と治療者にいわれたように受けとる患者、すなわち自分が責められいていると感ずる患者、土居は、そのように感じる患者は、以下の二つの態度のいずれかをとるであろうという。


現在の苦しみの原因について自分には責任がない、なにか身体の病気かもしれないし、周囲の出来事ないし他の人間の所作が原因である、と治療者のいうことを信じないという態度、もうひとつは、精神療法を精神修養と解する自らの解釈に甘んじ、よってこれは治療の問題でなく、自ら解決しなければならない問題であると信じ込む態度である。どちらも治療関係の断絶の危険をはらんでいる、と土居は述べる。

土居は、これらを精神療法の適応の話にはせず、信頼の話としている。それに私はとても共感する。精神分析は信頼し、協力できるこころを信頼して、協力するものと私は考えるからである。

土居は、精神療法の筋書きとして精神分析を採用したので、私が土居の考えに共鳴する部分が多いのは当然と言えば当然なのだろう。

土居は筋書きを「骨組み」「枠組み」としてとらえており、「その場その場の状況は治療者によって一方的に与えられるものではなく、むしろ患者自身がそれを作るのである。ただそれに対して治療者は、それぞれの治療の方針すなわち筋書きにしたがって解釈を施す。これは即興劇における相手方の台詞に相当するものである。」(p35)と述べた。

ここで少し、最近読んだ哲学の本で心に残った部分と重ねてみる。私はフロイトの「事後性」を考えるためにはベルクソンの時間論が必要なのではないか、と思い、何年か前からベルクソンを読んでいるが、平井靖史の本に出会ってから、少し解像度が上がった気がしている。そして先月、平井靖史『はじめてのベルクソン 時間をひらく哲学』(2026、講談社現代新書)というさらにわかりやすい入門書がでた。平井も土居と同じく、専門用語は最小限にして、生活に落とし込んだ言葉で高度に専門的なことを書く。

たとえば、土居は、患者が、先ほど書いたような受けとり方をした場合、すかさず次のような手を打つことが必要であるという。

「たしかにあなたの病気は気のせいだといってもよい性質のものです。しかし気のせいといっても、あなたが自分勝手にそうしているということではありません。その証拠に、あなたが苦しむまいとしても止めることはできないでしょう。ですから気のせいといっても、それは自分の思うままにならない気です。」

これは「気」という日常語を使わないとできない表現だろう。彼らはわかりやすくするために日常語を使ってはいない。日常語だからこそ捉えられる運動があり、その言葉を動かすことで、高度に専門的な思考を続けている。

と、平井の本と重ねて考えたことを書こうと思ったが時間がない。今朝はここまで。

各地、奇妙なお天気が続いているようで気候変動の影響が本当に心配だし、怖いのだけど、みんなで無事に過ごせますように。今日もよろしくお願いします。

文章と関係ないが鳥好きには欠かせない展示だった。
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土居健郎『精神療法と精神分析』第4章「精神療法の受けとり方」

土居は「(1)初めの探りあい」で 、精神療法に導入する過程が既に精神療法であり、「治療者に関する限り、患者に会ったその瞬間から、精神療法は開始される」と述べた。そしてそれは、単に患者に病名をつける、という狭義の診断ではない調査を必要とする。患者の病気を正しく理解するためには、症状や問題に対して、いつ頃から、環境因子は、生活の上に何らかの変化が、などを問い、さらに、生い立った家庭環境、受けた教育、結婚ならびに職業における適応性、交際の範囲など「患者の全貌」を調査する必要があるとした。それは患者の健康な面を知るためでもあった。

土居は、ここでまたいつものずらしをする。

「これだけでは精神療法に移行することは不可能である。」

土居は、患者が治療や治療者との出会いをどう経験しているかにも着目する。自分から来たのか。誰かにすすめられたのか。無理に連れてこられたのか。患者自身は、自分の症状や問題をどう考えているのか、実際にどのくらい困っているのか、治療の成果はどのような形で期待しているのかなど。問われるのは患者だけではない。治療者は「果たして患者を助けることができるか、それにはどうすることが最善であるか」と自分自身に問わねばならない。

第3章「(1)劇としての精神療法」で、土居は「治療者といえども、相手が知らない筋書きを知らない以上、具体的にどのようなやりとりが両者の間に展開されるか、初めから完全にわかっているわけではない。かくして治療者も患者も、通常の劇における観客のごとき興奮を精神療法の中でもいくらか味わうことが可能になる」と述べた。

探るのは治療者のほうだけではない。患者の方でも目の前の知らない相手になんとなく探りをいれる。

「治療者は果たして真に自分を助けようとする誠意を持っているであろうか。また実際に助けるだけの能力を持っているであろうか。そして最後に、治療者は自分の問題を本当に理解したであろうか。そして一体どのようにして彼は私を助けようとするのであろうか。」

患者と治療者の関係は内実は反転可能なのだ。だから題も「探りあい」なのだ。もちろん、治療者は治療者で、患者は患者なので、形式的には反転もなにもない。土居は、役割の対称性を主張しているわけではない。土居は、どこまでも具体的だ。土居がいう診断は、問いと答えだけで成り立つものではない。今ここで起きているふたりの態度と感情の探りあいという動的なものである。「診断」という言葉に含まれる動詞を探れば「見る」「訊く」「問う」「答える」「探る」「探りあう」のほかにももっと見つかるかもしれない。このような態度も、おそらく、すでに、精神療法的だ。

そのような動きをしばらく続けた後、「治療者は、今ここに出来かかった治療者患者の関係を精神療法という形で続けるか、それとも別の治療方法を処方するか、決定しなければならない」。

とても土居らしい書き方だと思う。「今ここに出来かかった」関係を「精神療法という形で続ける」かどうか。

そしてそれを患者に告げなければならない。土居はここで、精神療法以外の治療との対比を持ち出す。

「精神療法以外の治療の場合は、患者が治療者の権威を信頼している限り、どのような治療を行なおうともそれほど問題とはならない。」

では、精神療法はなにが異なるのか。土居はいう。

「あなたには精神療法が適当である」と聞いただけで、患者の心の中に色々な思惑が生まれてくるである。したがって最初の探りあいの段階にひきつづいて、精神療法についての患者の思惑をとりあげることが必要となるのである。」p72

土居は、権威をもつ者としての自分に自覚的である。治療者には診断し、治療法を選択し、それを告げる権限と責任がある。形式的な非対称性によって維持される治療法はある。しかし、精神療法では、治療者の言葉を患者がどう受けとるかによって、そこに揺らぎが生じる。治療者に言われたことを患者がどう解釈するか。そして患者が、自らの解釈によって治療者を信じない場合にも、信じこんでしまう場合にも、治療関係は断絶の危機にさらされる。

この「(2)精神療法の受けとり方」で書かれる精神療法の実際は、臨床家、土居を知る醍醐味である。

各地の雨は大丈夫だろうか。東京は予想よりもいつも通りに動けるが、それでも警戒は必要だろう。またもや月曜日。安全に、健やかに過ごせますように。

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土居健郎『精神療法と精神分析』第2編第4章「探りあい」

日曜日。東京は曇り。雨も。明日の朝は災害級の大雨が関東でも予想されているらしい。無理なく過ごしましょう。

さて、土居健郎『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)の第1編を読み終えたのだった。第2編は「精神療法の過程」である。全部で6章からなる。最初は「治療の開始」。最初が肝心、というのはどの世界でも変わらない。

さらにその前に、土居は第2編のエピグラフに「不思議の国のアリス」をおいた。

第1編のエピグラフはカロッサ『医者ギオン』の引用だった。


「最高の姿では、医者は芸術家に劣らないほどのものだ。しかし芸術家のように霊威の時を待ったり、自分の対象を選んだりすることはできない。対象が彼を選ぶのであり、時は常に彼をうかがっている。初めから人をことわることは、絶対にできないのだ。やさしい邪念のない感激的な性の人である場合、それから大抵の医者がそうであるように、患者と両人だけで診療に従事する場合、世のあらゆる要求に、汚れた力のあらゆる圧迫に身を曝さなければならないのだ。多くのものが彼の技術ではなく、彼の人間的なものをあてにやってくる。」


土居は、対象が治療者を選ぶのであり、治療者の技術ではなく、人間的なものをあてにやってくる、という言葉に共感したのだろう。そしてその「人間的」とはどういうことかを探求した。


そして第4章のエピグラフは『不思議の国のアリス』 。毛虫にWho are you? 「誰ですか、あなたは」と問われるアリス。「あなたこそ、あなたが誰であるか、先におっしゃるべきだと思います」、とアリスがいうまでになされる「わかる」「わからない」の会話はおなじみだが、土居の文脈でいえばこれこそ治療者と患者の関係で生じることだろう。


土居は「第4章 治療の開始」を「(1)初めの探りあい」という項目から始める。土居は「患者が合意の上で精神療法をうけとることはまれで、多くの場合精神療法に導入する過程が必要となってくる。そしてこの導入過程が、患者はそうと意識しないが、実はすでに精神療法とならねばならない。いいかえれば治療者に関する限り、患者に会ったその瞬間から、精神療法は開始されるのである」と述べる。


毛虫とアリスが出会った瞬間から「探りあい」をはじめ、それが「わからない」ことをめぐってなされていることはとても重要である。

そのあと土居は「精神療法の開始は患者の診断と同時している」(原文ママ。「同時に」かな。)というが、それは「単に患者に病名をつけることをいうのではない」という。土居は「狭義の病歴を越えて、患者の生活一般についても調べる必要がある」としてその内容を書く。「患者の全貌」を知ることがなぜ重要か。土居は言う。「というのはこれらによって患者の病前の人柄がわかるとともに、現在病んではいるがなおかつ存在している健康な面についても、大凡の見当をつけることができるからである」。


それでも土居は「これだけでは精神療法に移行することは不可能である」という。そりゃまたなんで、と読者は思うだろう。

ここで土居が問題にするのが、患者の治療に対する態度・感情である。アリスと毛虫のやりとりを思い浮かべる。土居は「患者自身どう考えているかが探られなければならない」とする。そして治療者自身は「果たして患者を助けることができるか、それにはどうすることが最善であるか」を問わなければならない。この問いは「見立て」の基本だろう。

「探り合い」のあとは「受け取り方」について検討がなされる。はじまりというのは常に大切で、土居がこれを「インテーク」とか「初回面接」とかいわずに「探りあい」と書くのがそこでなされることの大部分を表していると思うが、毛虫とアリスの会話をエピグラフにおいたのがまことに効果的だと思わずにはいられない。北山修も「不思議の国のアリス」を愛しているし、ウィニコットもそう。私も何度かここでアリスのことを書いている。学びは専門書の外にある、というより、外を知らずして学びはない。「あなたは誰」「私は?」という問いが決して閉じることはないということも、土居を通じて学ぶことである。

昨日の空。晴れたり曇ったりだった。
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アンドレ・グリーンの「ネガティブ」、フロイトの「否定」

さてさて、今日は日本の精神分析があまり取り入れてこなかったフランスの精神分析にとんでみよう。

アンドレ・グリーンAndré Green (1927–2012)のことはよくここにも、もうひとつのブログにも書いてきた。しかし、この一年で修正すべき点もみえてきた。自分の言葉とはいえ書き散らかしているので修正箇所を特定することはできないし、いまだ理解が十分でないところが多いので、ここに書いていることは正しい知識というよりは、すべて理解へのプロセスだと思って読んでいただきたい。勉強する時間がもっとほしいし、もっと賢ければいいのだけどないものねだりはまた今度、と自分に言い聞かせる。

グリーンは、フロイト以降の様々な精神分析理論の発展において、とくに英国対象関係論やアメリカにおける対象や関係を前景化するモデルのなかで後景化してきたフロイトのメタサイコロジー、とりわけ欲動・表象モデルを、対象関係論の成果を取り込みつつ、第二局所論の見直すことでアップデートしてきた。

グリーンはフロイトへの回帰を強調するでも、フロイトを批判するでもなく、対象関係論から発見したものを取り込みながらフロイトのメタサイコロジーそのものを再構築しているようにみえる。

グリーンは、抑圧(Verdrängung)モデルでは捉えきれない心では、なにかが表象されていながら意識から排除されている、というより、表象すること自体が困難であったり、いったん成立した表象や対象への備給が撤回されたりしている状態を考えた。

私はアンドレ・グリーンの対象化/脱対象化機能objectalisante/désobjectalisante (fonction)に関する論文にインパクトを受けてから約2年か3年、グリーンの著作を読み続けている。このブログでの登場回数もその頃から急に増えたと思う。

グリーンといえば、 The Dead Mother、The Work of the Negative、Life Narcissism, Death Narcissismに書かれているように、不在、喪失、脱備給など「ネガティヴ」の働きに関する理論が、その仕事の重要な軸をなしている。

「ネガティブ」は単に「ない」ということではない。重要なのは、「ない」ことによって生じる空間、表象、思考であり、「ない」ことによって消されたり失われたりする備給、結びつき、表象可能性であり、この概念が示すのはそうした心の運動である。

そうだ、グリーンを読むときには、まずフロイトの「否定(Die Verneinung)」論文(全集19 1925-1928)を読んでおきたい。土居を読むときのように、少しだけ読んでおこう。

「私たちの患者が精神分析の作業中に思い付いたことを明かす際の語り口は、若干の興味深い考察をするきっかけを与えてくれる」

フロイトはまず「語り口」に注目する。何を語ったのかではなく、どのように語ったのか。

「本当にそんなつもりはないのです」「私の母ではありませんよ」

患者は、思い付きを言葉にしながら、この言葉との関係を切ろうとする。

フロイトは「解釈する際、否定は度外視して、思い付きの中身だけを取り出す」。

私もそうするときがある。しかし、これは結構大技なので注意も必要だが、フロイトはそうするもんだ、くらいな感じで書いている。

もういかねば。今日はここまで。木曜日だ。がんばろう。

オペラシティのこの道はあまり人は通らないけどいつもきれいに整えられてる。
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土居健郎『精神療法と精神分析』第1編のまとめ

なんとなく毎日読んできた土居健郎『精神療法と精神分析』ですが、といってもひとりでやっているわけですが、いつのまにか第1編(65ページ)を読み終わりました。せっかくなので、昨日からの続きの部分に触れつつ、これまでのところをまとめておくことにします。

土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961)の「第3章治療の方針と目的」で「筋書きの種類」をいくつかあげます。a精神分析、bアドラー派、cユング派、dランク派、e ホルナイ派、f サリヴァン派、g ロージャス派(原文表記のまま)、h 実存分析と実存療法、i グループ療法、j 森田療法です。種々の治療学派を「筋書きの種類」という項目で分類するのも土居らしいところではないでしょうか。


土居はここまで精神分析と異なるものとして森田療法に特別な位置を与えてきましたが、それが最後にくることを不思議に思う人もいるかもしれません。土居が森田療法を別物とするのはここでも変わりありませんが、ほかの精神療法との間にも境界線をひいています。ここにあげられた森田療法以外の学派はすべて精神分析に影響をうけている、と土居は考えているからです。


土居は、森田療法も精神分析を意識し、それに対立するものとして生み出された、と考えれば、ここにあげられたのはすべて精神分析以降といえる、と述べます。それ以前の説得、暗示、催眠などが対症療法的であって、真に症状の背後にあるものを動かすことを目指していなかった、と土居はいい、精神分析及びそれに準ずる治療方法を力学的(dynamic)であると総称します。


土居は、それぞれ独自のパーソナリティ論を展開し、それに基づいて治療を行なうこれらの治療方針を力動的体系的精神療法とします。しかし、精神分析以前の治療がたとえ対症療法的であるからといって、それらは不必要になったわけではなく、力動的体系的精神療法の枠の中で適応を考えて行なうことは可能だし、実際に行われているといいます。土居が催眠術についての治療的応用を論じる文献としてあげるのが蔵内宏和・前田重治の「現代催眠学」(慶応通信、昭和35年)であるのも興味深いところです。


土居は、次に、精神分析を初めとして互いに相違する治療体系が存することをどう説明するかという問いをたてます。それぞれの治療が何がしかの成功を収めているという事実を鑑みれば、治療効果に関しては各治療体系に共通する因子があるだろうと土居は考えます。ここでは、それは、治療体系の如何よりも個々の治療者の能力とされます。それでも、ある一つの筋書きにしたがって精神療法という劇が実際に行われれば、患者はそれによってなにがしかの利益をうるだろう、と土居は言います。実践面はそうだとしても理論面はどうでしょうか。土居は、どのような治療体系でも治療効果は得られる、としても、その結果は決して一様ではないというところに着目します。


土居はここで、Glad,Donald D.のOperational Values in Psychotherapyを援用し、精神分析を受けた場合、サリヴァン派の治療をうけた場合、ランク派の治療を受けた場合とそれぞれの治療の目的を示す。そしてこの著者が言っているのは要するに、それぞれの治療体系の中に含まれている価値が治療の状況の中で患者によって学ばれるといいます。


土居は「筋書きの種類」に入る前に「精神療法の筋書きは、それぞれの学派によって異なるが、価値や思想よりも、むしろ精神構造もしくはパーソナリティについての理論の基盤の上に立っている」と書きましたが、上記では「価値が学ばれる」と書きます。
土居は、治療体系ならびに治療効果の多様性として、治療体系が異なるに応じて治療効果もいくらか異なる、という現象を説明するにはもの足りないようで、このような現象を説明する普遍的な精神療法の理論体系はやはりありうるのではないか。それはやはり精神分析の理論ではないか、といいます。


土居は、以下のように第3章を締めくくります。
「すなわち精神分析の出現は、それに対立する多くの治療学派の発達を促進する結果を生みだしたが、このことは特に初期の精神分析が不完全であったことを示すとともに、精神分析の中にその後の対立する学派が芽としてすでに潜在していたことをも暗示すると考えられるからである。けだし対立は無縁を意味せず、むしろこれらすべてがある意味で一貫した発展であり成長であることを暗示しているのである。」(p64)


土居は「したがって折衷的立場においてではなく、精神分析を主体とする統一的立場から」精神療法の過程を記述する、と第2編に向かいます。


この『精神療法と精神分析』は第1編「精神療法の構造」、第2編「精神療法の過程」、第3編「精神療法をめぐる諸問題」という三部構造です。第1編は、土居が精神科医として精神療法を劇にたとえ、その構造を「治療者患者の関係」「治療場面の設定(時間の条件と場所の条件)」「治療の方針と目的」の観点から検討するものでした。それは土居がなぜ精神分析の立場に立つのかという説明でもありました。


土居は、精神分析をいちばん正しいとは考えていません。ただ、不完全であるがゆえに、対立し分岐する学派を生み出したり、発展や成長の可能性を含んだ豊かな土壌として機能しうるのではないかと考えます。土居は、それぞれの学派に歴史的・力動的関係を見出しているので、それらを横並びにしたり、それらを折衷して使用するという発想にはならないのでしょう。土居は「筋書きの種類」において、ページ数はたいして割かないにも関わらず、かなり詳細に各学派を検討しています。森田療法の専門家であり知り合いが「土居は森田を一番読めた人ではないか」というのも腑に落ちます。だからこそ土居は、安易に複数の体系の寄せ集めをしないのでしょう。ここまでみてきたように、土居はなにか結論を導くときに差異をなくすという方向性をとりません。差異や対立が生じるなら、それはなぜ、という観点からひとつの立場にたどりつこうとするのです。これをヘーゲル的にとらえることもできますが、土居は精神分析の発展のプロセスに自分の態度を重ね合わせてもいるのでしょう。土居は、対立を保持したまま、その対立を生んだ歴史をさかのぼります。


土居は、医師と患者の関係の特殊さを語るにもそれを簡単に「非対称」とは言いませんでした。一精神科医として、権威をもつ立場であるという十分な自覚のもと、しかし患者と同じ舞台をみる観客として、同時に同じ舞台にたつ役者として、枠組みはあるが予測不能の、多様な筋書きを生きる関係が精神療法であると書いているように思います。このあとの第2編では、精神療法の過程が詳細に記述されます。楽しみです。楽しいですよ。

今日は水曜日。9月も2日目。さっそく憂鬱ですよね、たいてい。無理せずいきたいものです。今日もよろしくお願いいたします。

初台にできたカヌレ屋さんに行った!
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9月1日、言葉の仕事

土居健郎が、精神療法をひとつの劇にたとえたことはすでに書いた。

土居は、『精神療法と精神分析』の第3章で、「精神療法の筋書き自体はある思想なり価値なりを前提としている」。「精神療法の筋書きの中に含まれている思想なり価値なりに断固として反対する者は、その精神療法によって利益を受けることができない」。ただし、「それら思想や価値は表面には出ていないのであるし、またある思想や価値に断固として反対するという者は稀である」。なので「実際にある患者がある一つの精神療法によって何ら利益を受けないということは、少ないといってよい」と述べた。

筋書きとは「単に仮装された思想や寓話ではない」。また、精神療法が目的とする自己洞察も「単なる観念的なものではなく、治療によって起きる患者の性格変化に伴なう新しい精神的視界のことである」。

「自己洞察」という言葉には、ものすごく頭でやってる感があるが「性格変化に伴なう新しい精神的視界」と書かれると日常生活となじむ。土居は、理解→変化、ではなく、変化すると見え方が変わるという体験のことを「洞察」と呼ぶ。

この「洞察の出現」に関しては第8章で詳述される。

精神療法を劇とすると、そこには「物語」があって、患者がその筋書きのなかで自分を発見していく、と読めてしまうかもしれない。たとえば「あなたの苦しみを深堀りしていくと幼児期の葛藤につきあたります」という精神分析的寓話に患者を当てはめるような。

土居はそうはいっていない。土居は「精神療法の筋書きは、それぞれの学派によって異なるが、価値や思想よりも、むしろ精神構造もしくはパーソナリティについての理論の基礎の上に立っている」という。

筋書きを規定しているのは、人間の精神がどういう構造をしていて、どう変化しうるのかという作業仮説である。


それでも精神療法の筋書きに暗黙の思想や価値が含まれることに変わりはない。だからこそ、土居は、理論的偏見に左右される可能性も認める。そのうえで「最も普遍的であり、概念的に構成されたもの」として精神分析理論を採用する。ここで「精神分析が治療の筋書きとして最も実用的であるというよりも」と書いているのも面白い。実用性が最優先される現代に精神分析がはやらないわけである。というか、これまでだって日本で精神分析がはやったことなどない。

土居は、精神分析を絶対的な立場に置かない。そういうことをしない人であるらしい、というのはこれまでの書き方からも推測できるだろう。比較はする。境界線は引く。でもそれは序列をつけるためでも、壁を作るためでもない。


ちなみに土居は「精神療法の学派のうち何れが正しく何れが間違っており、何れが完全でありまた不完全であるか、と詮識することは思かなことといわねばならぬのである」と述べている。深く同意する。


精神分析にはその歴史のなかで埋め込まれ、いまいちど取り出して問わねばならないジェンダー観、家族観、自立観、そこに含まれる歴史的、社会的文脈がある。土居は「甘え」をキーワードに社会と精神分析をつなげて思考し、言葉にして伝えた。


現代は、即座に、しかも、わかりやすい応答が好まれるため、待たずに済むAIの需要は多いだろう。しかし、応答するには意味を固定しなければならず、言語の距離作用はむしろ失われる。精神分析が待つことを苦にしない、むしろ仕事にしているのは言葉のそのような機能をものすごく大切に考えているからである。

土居を読むときは、土居の書きかたに従い、議論の運動を保持したまま、要約をせず進んだほうがいい。切断によって失われる意味ではなく、新たに現れる意味を追う。地図を描きながら移動し、修正し、また移動し、道に迷い、少しずつ世界を知っていく。そういう書き方に応じた読み方ができたらと思う。

今日から9月。毎月1日の早朝に、ホームページ作成会社からの領収書がメールでくる。「あー、ついたちか」とやや憂鬱になるので決済を15日とかにしてくれたらいいのに。気分の問題ではあるが。

今日は火曜日だって。学校がはじまるね。みんなどんな感じかな。無理するもしないも自分で決められたらいいと思うけど、そんなあなたにきちんと関心を向け続けてくれる人がいますように。良い一日になりますように。

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精神分析 精神分析、本

境界とか。

‟精神療法においては、言葉の真の意味において「私は誰なのか」「私は何をしてきたのか」「私は何を感じているのか」「私は何をすることを欲するのか」という問いに、自ら答えることを学ぶのである。”

土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)「第3章治療の方針と目的」で述べた。

土居はここでも、精神療法の目的を「自己発見であり自己洞察であるといえるが、しかし単にそういってしまっただけでは、あまりに広範囲になってしまう恐れがあるだろう。もともと「己れを知れ」という命題は、すでにソクラテス以来の哲学の課題であるといわれているからである。」として簡単に名詞にはしない。

ここで比較の対象にするのは宗教・哲学その他である。土居はカトリック信者であり、そこでの自己発見・自己洞察と土居が精神分析によって得たそれとはおそらく異なるが、それはまた時代的にもあとのお話。今はまだ1961年。

土居は「ただここでいっておきたいことは、これらがたとい重複し平行するところがあるとしても、厳密にはそれぞれ区別されねばならぬということである。精神療法は哲学のように存在の意味を問らものではなく、宗教のように価値を教えるものではなく、またイデオロギー(思想体系)のようにすべてを説明しつくそうとするものでるない。」

という。

そしてまた「しかしこのことは、精神療法の中に存在の意味や価値や思想が全然入らないということではない。」という。土居のこの書き方にもみんななじんできたことだろう。

切断しては動かす。境界線は壁を作るためにひくのではない。

そして大事な一文が来る。「 むしろそれらは精神療法という劇の筋書きの中に暗黙のうちに含まれているのである。」

土居は「その劇的筋書きの枠組みの中で患者が自らの態度・感情・行動を理解するに至ること」が精神療法の目的であるという。土居は「この筋書きの中に含まれている思想なり価値なり断固として反対する者は、その精神療法によって利益を受けることはできない」というのだが、「しかしそれら思想や価値は表面には出ていないのであるし、またある思想や価値に断固として反対するという者は稀であるから、実際にある患者がある一つの精神療法によって何ら利益を受けないということは、少ないといってよいのである。」で述べる。

土居がせっかくあれやこれやと思考を巡らせながら自分の立場の表明に向かおうとしているのに、単純な言葉を使うのはどうかと思うが、実践に即していうならば、精神療法は「話しても意味がない」と本気で思っている人に対して役に立つことはできない、ということだろう。「話したくない」とか「なにを話していいかわからない」とかではなく、話すということ自体がなにかを動かすとは思わない、という強い信念があったりする場合は、である。

そういう人は最初からこないのでは?と思うかもしれないが、そんなことはない。それは、精神療法の筋書きの中の思想や価値が表面には出てこない、からではなく、私たちが言葉を使う以上、強い信念の表明もまた言葉によるものであり、その働きから自由ではないからである。私たちは「意味がない」とわざわざいいにいくこともする存在である。

舞台に上がる、土俵に上がる。まず、私たちは、そこには筋書きやルールがあることを前提とする必要がある。そこでの二人がこれから何をしようとしているのか、そこではなにが起こりうるのかわからないからこそ、土居は「治療場面の設定」に一章を割いた。精神分析的な心理療法の教科書のほどんどがそこをはじまりとするのではないだろうか。枠組みは大切である。

土居は、このあと自分自身の理論的立場を明らかにする。私たちはすでに知っているように、彼がとったのは精神分析の立場である。同時に、土居は、精神分析に対する懐疑もずっと持ち続けていた。宗教との深いつながりもあった。それらもまたずっとあとに語るべきことだろう。

8月も今日で終わり。またもやあっという間だったが、いろんな土地へいき、いろんな人の話をきくことができた。時折、ひきこもりたい気持ちにもなるし、時折ひきこもることは大切なことだと思うが、動けるところは動いておきましょう、ということで月曜日。今週もよろしくお願いいたします。

山梨側からの富士山
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土居健郎、七尾線

土居健郎が『精神療法と精神分析』を書いたのは昭和36年、1961年、1920年生まれの土居は41歳だった、ということになる。41歳までの臨床経験をこんな風に言葉にできるのはやっぱりものすごいことだと思う。理論的なことなら若くてもすごいことはたくさん書けるかもしれないがこの本は極めて臨床的な本である。

土居が書いていることは今だったらストロロウらの間主観的な考え方や、ミッチェル、ホフマンなどの共構築的、社会構築主義的な考え方で説明できることがかなりあるように思う。しかし、当時、彼らはまだ登場していない。土居は今だったらわかったようになれてしまう概念をたくさん持ちものにできる時代の人ではないし、概念を道具として使う人でもない。徹底して臨床と実感発の人だ。

フロイトは精神分析は哲学ではないとはっきりいったが、土居も「精神療法は哲学のように存在の意味を問うものではなく、宗教のように価値を教えるものではなく、またイデオロギー(思想体系)のようにすべてを説明しつくそうとするものでもない。」といっている。もちろん土居なのでそのすぐあとに「しかしこのことは、精神療法の中に存在の意味や価値や思想が全然入らないということではない」と続く。常に留保がある。

患者には治療者が必要で、治療者は患者がいなければなにもできない。至極当たり前のことだが、だからといって治療者と患者が対等というわけではない。

赤ちゃんとお母さんという組み合わせで治療者と患者を見立てるならば、というかそれが最近の常だが(ここでの土居は違うが)、お母さんにも先のことはよくわからないけど赤ちゃんの鏡になることで赤ちゃんになり、とまではいわないが、赤ちゃんに同一化しようとしながらその人は母親になっていく。そこにはウィニコットのいう存在し続けること(going on being)が双方にみえる気がする(もちろんウィニコットはそんなこといっていない)。同時に、非対称な方向性へ分離していく人の姿がみえなくもない。土居が例にあげた即興劇における患者が舞台にあげられ、治療者はいつのまにか舞台にいて、でもどちらもまだ観客であるように。

こう書いていて思うけど、土居が医者でありながら医者の権威を意識的にとりあげるのは土居がまだ41歳だったからかもしれない。戦時中の言語に対する抑圧、使っていい言葉と使ってはいけない言葉の存在、精神療法の場で患者が医者としての自分に使う言葉、時代も立場もすべて、土居が権威というものに対してものすごく重く感じるところがあったかもしれない。さらにその後の聖路加病院での勤務とアメリカへの留学、精神分析の訓練、1960年代後半の世界的な学園紛争、その後の東大教授時代、土居の言葉や思想に影響を与えたものの大きさを思うと頭痛がするが土居は日常語にとどまり、ひとりの精神科医にとどまった。臨床と実感、その泥臭さのなかにとどまること。土居には別に聖書があった。私はどうやってとどまるすべを見出していくのだろう。土居の著作がその役割のひとつをこうして担ってくれてはいるが。文学かな。詩かな。俳句かな。どれもこれも言葉の世界。豊かにしていけたらと思う。

今日は土曜日。もらったばかりのおいしい幸水を食べた。いとみずみずし。今日も七尾線は大変そう。特急花嫁のれん号も運休だって。金沢から羽咋、七尾、和倉温泉にいくのに何度か乗った。金沢で新幹線を降りて、特急花嫁のれん号が泊まるホームまでの特別っぽい壁紙をみながら階段下の小さなセブンイレブンでおつまみとビールを買ってのりこむことを何度かした。また行くから、こうやって使う人いるから七尾線さんがんばってください。どうかみなさんご無事で、ご安全にお過ごしください。

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劇としての精神療法

土居健郎が『精神療法と精神分析』のなかで、精神療法を一つの劇にたとえたことはすでに書いた。それは即興劇らしい。状況についての簡単な描写と相手役の台詞だけが与えられ、それに応じて即興的に演じることを繰返しているうちに、自分にあてがわれていた役割が何であったかを発見し、それとともにこの遊戯も終わる、と土居は書いているので、この劇はplayであり、ウィニコットのplayと近い。

土居は、精神療法の中で与えられる筋書きは劇のそれとはかなり異なるとして、それは物語ではなく「全くの骨組みにすぎない」という。しかもそれは治療者によって一方的に与えられるのではなく、むしろ患者自身が作るのだと。それに対して治療者がいう台詞が解釈である。このことを繰返しているうちに、患者は何のことか自分でも十分にその意味がわからなかった自分自身の物語を、治療者のさし示す筋書きにあてはめて考えることができるようになる。

昨日は土居の比較対象のみつけかたと深め方がすごいのだ、みたいなことを書いたが即興劇を例にしたのはそんなに成功していないと思う。土居はこの前の段落で、相手が筋書きを知らず、具体的にどのようなやりとりが展開されるか、完全にはわかっているわけではないので、治療者も患者も、通常の劇における観客のごとき興奮を精神療法の中でもいくらか味わう、と書いている。

そのあとに、観客の一人が選ばれて舞台に上らされて行なわれる即興劇のことを書く。土居はたぶん、まだ客席に残っている観客のこともみている。舞台に上らされた観客はここで複数化する。サリヴァンの関与しながらの観察を思い浮かべたりもするけど、土居の場合は観察する位置が舞台と客席にある気がする。

土居は、このあと、精神療法においては、即興劇のようにたまたま自分にあてがわれた何らかの役柄を探りあてるのが目的ではなく、言葉の真の意味において「私は誰なのか」「私は何をしてきたのか」「私は何を感じているのか」「私はなにをすることを欲するのか」という問いに、自ら答えることを学ぶのである。精神療法で患者が獲得するはずの洞察とは、このような答えをさしているのである、と述べる。

これらは夢見、夢思考、夢解釈として、今ならビオンを引用していわれるようなことにつながるが、土居の考えを詳細に追うと、そういう言葉を使わずにどのくらいのことがいえるのか、という問いは、そういう言葉を使わずにこれだけのことがいえるのか、という驚きになる。詳細はもっと時間がないと言葉にできないけど少しずつしていく。

一個書いておくけど、土居は、あっさり「自分にあてがわれた何らかの役柄を探りあてるのが目的ではない」と書くが、人生において、これを一生懸命時間を割いてきた人たちを舞台にあげるのが精神療法ということだよね、いってみれば。

今日は時間がないからここまで。

昨日は石川、富山、ネパールの映像をみてどんどん力がでないかんじになった。今月初めに乗ったばかりの七尾線も大好きな羽咋も加賀温泉駅も大変なことになっていた。本当にもう雨も地震も被害を起こさないものであってほしい。追い打ちの連続では身も心も持たないでしょう。もとにもどすための作業の手が早くたくさんはいりますように。

絡みついてる「目」っぽい植物。
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書評、土居の書き方

書評の仕事は謝礼がでるものだとしても(でないものもある)、書評のために使う時間や参考文献にかかる費用などを考えるとものすごい赤字である。それでも自分が読んで勉強したことをシェアすることには、それ以上の意義があると思っている。予算の問題でその本は買えない、という人にも少しでもその本のことを伝えたいし、精神分析に関していえば私は幸運なことに実践の場をもっている。なので精神分析実践の実感を伴う本であればそれを損なわずに捉えることはできると思う。だから、たいして得意なわけでもないのに依頼をいただいたらお引き受けするようにしている。

そもそも私は、どのような書評が読者を引き寄せたり、役に立ったりするのかよくわからない。身近な人に読んでもらったりはするが、彼らはだいたい臨床家であり、私が書いたものを読む前に私がいいたいことを大体つかめてしまったりする。

何年か前、『インターセクショナリティ』(パトリシア・ヒル・コリンズ、スルマ・ビルゲ著、小原理乃訳、人文書院)で、インターセクショナリティはポリグロット(多言語的な存在)であるため、私たちは複数の言語や言葉遣いで話す必要性が出てきた。」というのを読んだ。生きる社会によって使う言葉は異なる。そこの言葉を使わないとわからないことがたくさんある。まずそこから。同時に今の持ち物でできることをやる。言葉はすぐには習得できない。

今のところ、私は狭い世界に向けた書評しか書いたことがない。もちろんその外側にいる人たちのことを意識はしているが、私が使用している言葉はものすごく狭い社会でしか通じないものだろう。

土居健郎は『精神療法と精神分析』の「第3章 治療の方針と目的」で精神療法を一つの劇と見立て「劇としての精神療法」「筋書きとしての治療方針と目的」と書いた。土居は第一章でキェルケゴールを引用し、精神療法を演劇にたとえる発想はすでにしていた。土居はここまで「普通の人間関係」「精神療法以外の一般の医学的治療」と「精神療法」の区別をしたり、精神療法のなかでも精神分析と森田療法の区別をしたりしてきた。この章で、土居は、通常の劇と精神療法の似ている点、異なる点を検討する。土居は、精神療法の場合は、筋書きを心得ているのは治療者だけである、と述べる。通常の劇でも脚本家の頭のなかには筋書きがあるが台本があがってこないとかはあるかもしれないが。

しかし、治療者が筋書きをあらかじめ持っているとしても、相手が筋書きを知らない以上、具体的にどのようなやりとりが両者の間に展開されるか、初めから完全にわかっているわけではない、と土居は続ける。だから、治療者も患者も通常の劇における観客のごとき興奮を味わうことができる、という。

土居はここでもありふれた比較対象を選んだのに、そこに見出す差異に読者としてちょっと驚くし、発見した差異を吟味してみると別の形で差異が類似点に変わってしまったりする。この運動が非常にうまい。これはたぶんフロイトよりうまい。土居の文章は読みやすいときと読みにくいときがあるが、土居の書き方になじめば楽しく読める。

フロイトも類似から差異へ進むのはものすごくうまいし、その語り口も面白い。でもフロイトの場合、それがすむと自説の展開へぐいぐいと進んでいくので「ちょっと待ってー」という気持ちになる。土居にはそんな気持ちにならない。土居は、比較対象のあいだを何度も往復して、境界線そのものをいつのまにかずらしてしまうのである。

私はこれを「言葉通じるとはどういうことか」という問いを持ちながら書いているが、それはまた時間をかけて。

東京はかなり曇っている。夜には雨も降るらしい。みなさん、無事に過ごされますように。今日もよろしくお願いします。

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時間、権威

土居健郎は精神療法のなかでも精神分析の立場にたち、フロイトが著作で述べてきたことは常に背景にみられる。一方、常に対極にある精神療法として登場するのが森田療法である。『精神療法と精神分析』の「第2章治療場面の設定」の「(2)時間の条件」は「(1)場所の条件)」の構成とほぼ同じになっており、どちらにも森田療法との比較が述べられる。森田療法は患者の反応一切を「不問にすること」が構造的特徴であると述べられていることに少し驚くが、土居はその背景に常に医者の権威をみているように思う。

時間的条件を考えるには時間の治療的意味について考えなければならないが、土居はここでランクに教えをうけていたJ.タフトを引用する。土居を読んでいると今はあまりとりあげられない治療者の名前が色々でてきて歴史を感じることができるから楽しい。土居はタフトが強調する時間の制限性よりも「時間がわれわれにとって唯一の存在の仕方である」ことを強調する。時間=存在の仕方、というのはいささか奇妙な記述だが、時間に対する態度=人生に対する態度、といいかえることもできるかもしれない。土居は時間をうけいれるということは単にその制限性を認めることではなく、「時間の中にとどまることである」と述べる。土居は私たちが苦痛の中にある時、時間から逃げ出したいとう衝動を感じることを知っている。いわゆる「抵抗」のひとつだろう。この箇所だけで私は何人もの患者とのやりとりを思い出せる。精神療法は、治療者が自らの時間を患者に与えることによって、彼らに時間の中で問題を解決することを促すことである、と土居はいう。このようにして設定された「時間の中にとどまること」ができるかどうか、同時に、総ての精神療法の時間にいつか終わりがやってくる」という現実を認め、不可避的な欠陥と限界をもつそのような時間を貴重な体験として活用できるかどうかは、治療者と患者という特殊な人間関係における双方の問題だろう。治療者においては、時間を与え、それに終止符をうつ際に現れる自身の「人間的な権威」を否定しない、ということも課題のひとつである。決定権は双方にあると口ではいえるが、それを最初にいえたり、承諾する側に立つほうに権威があるといっていいだろう。

私は若い頃、ある医者に「心理の分際で」といわれたことがある。「心理」というのはこの業界の人にとって心理職のことである。「メンタル」と同じくらい雑な言葉の使用だと思うが、それはともかく、当然「のび太の分際で」を思い出し、心底あきれ、辞めるときもなんの未練もなかった。そこで出会った人たちとの関係は今も続いているが。それにしても当時、私はまだ大学院生だったので正確には心理職ではなかったし、そこで心理士としての仕事というよりなんでも屋みたいな仕事をしていたので今思うと「心理の」という区分け自体にも疑問を感じるが、まあ、権威というのはそういうこともできてしまう、ということらしい。雇われている側が「雇われの身のくせに」とか言われたら、それは「囚われの身のくせに」というのと似たようなものだと思うが、自分の身を立てるために他人を雇ったのだから、それはものすごく対等な関係である(実はそうではないことは土居の話でもわかると思うが)ということがわからないのならひとりでやってみればいいのに、とも思う。誰かを支配することでひとりでやってるとかやってやってるとかみたいになるのはおかしいと思う。このことはこの場所は、この時間は誰のものかという話として、土居の話を重ねることもできるが、今日はここまで。

昨晩の月もとてもきれいだった。今日はどんな一日になるかな。良いことありますように。

アサガオ
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リズム、時間、共に在ること。

今朝も風がない。昨日も日射しのある時間は暑かった。ほとんど移動しなかったから汗もかかなかった。夜は涼しかった。久しぶりに明るい月を見た。もうひどく暑くなることはないのかな。台風がたくさんきてるという話があったような気がしたけど。沖縄や奄美はいつも本当に大変だな。今調べたら台風18号のため、25日、26日は休園、休校するところも多いみたい。なにごともありませんように。石垣市では沖縄県知事選の選挙掲示板も一時的に撤去したりするみたい。沖縄の選挙はとても重要。無事に行なわれるといいけど。2年前の年末年始かな、沖縄で過ごした。25年ぶりとかだったと思う。2003年にようやく開通した沖縄都市モノレール「ゆいレール」のおかげで前回まわれなかった場所も色々歩けた。ほんの数日の観光ならそれでいいけど、広い沖縄で車を使えない人たちの移動手段が増えたら見えてくるものも変わるし、沖縄の現状や未来を考える機会をもてる人が増えるのではないかな。「ゆいレール」のときも沖縄は車社会だから地元の人は使わないという意見もあったけど実際はそうじゃなかったわけだし。一方、港で生活用品をたくさん船に乗せて帰る人たちと一緒に島に渡ったりすると、その暮らしに根づくリズムの軽やかさにも重みにも心が動く。生活が守られること、それが基本だしすべてなんだと思う。

この数年、特に2022年2月、ロシアがウクライナに全面侵攻を開始した、つまり、戦争が突如として私の目の前に現れたという感覚をもってからずっと心が落ち着かない。ニュースをみたり読んだりしては途中で耐えられなくなってしまうことも増えた。

私はその頃まだ精神分析家になるためのトレーニング中で訓練分析家のところへ通っていたので、なんで、どうして、と混乱した気持ちを話す場も時間もあった。あれから日本も世界もますますおかしくなっている、と書きたくもなるが、大竹裕子が雑誌『世界』(2025年12月号)に「人間とは「共に在る」世界だ」とするアフリカ思想のウブントゥを生きるジェノサイド後のルワンダのことを書いており、世界は広く、涙を流し続けてきた人たちの笑いや言葉や音楽や踊りはよきものへ向かう力を信じなくてはいけないという気持ちにさせられる。

土居健郎が『精神療法と精神分析』の「第2章 治療場面の設定」で場所の条件と時間の条件をあげている。場所の条件に関してはここですでにふれたが、時間の条件について、土居は、治療者が患者にどれほど時間をさくかあらかじめ決めていない場合、患者にとっては今与えられている時間はいつ打ち切られるかわからないし、また再びこのような時間が与えられるという保証もないため、「お時間をおとりしてありがとうございました」と感謝はされてもそこには無意識の非難がかくされていると考えることもできる、と述べる。 

「したがって時間のとりきめのない精神療法は、原則として精神療法の体をなしていないといって、過言ではないのである。」p26

土居はここまでのところと同様に

「しかしながらそうはいってもこの場合精神療法的効果が全然怒らないということではない」

と付け加える。土居は「治療者に患者を助けたいという行為が存するかぎり、」自分の時間を与えることで患者が慰められる場合もあるだろうという。なぜなら、人生は時間だからである。

土居は「人生において各自が本当に自分のものといえるものは時間だけである」「また時間は、それを他のものと分かつことができる」という時間の特性をあげ「時間は愛情の問題と密接な関係を持っている」と述べる。

そして「治療者が個人的に患者に与える時間については何のとりきめもないもの」として取り上げられるのがここでも森田療法である。土居は森田療法とずっと対話をしている。

土居はここで場所と時間をわけて考えている。私たちが治療構造、あるいは設定という言葉を使うときはおおむね同じことをしているだろう。しかしこれをわけて説明することは本当に適切なのだろうか、と思うことがある。ベルクソンへの興味もそのような疑問から始まっている気がする。私は最初、ベルクソンってなんでも時間で説明するんだな、空間はどこいった、生じてしまうものとしての空間は時間でどう説明するんだ、と思っていた。でもちょこちょこ読んでいると、ベルクソンこそ時間と空間を分けて考えることを疑った人なのではという気がしてきた。ベルクソンの持続 duréeという概念が空間化される時間という考えにつながるとしても、その拡がり étendueは均質で分割可能な空間とは異なる。異なるリズム、緊張、興奮、これらは時間によって区別される世界の運動にかかわるものであり、空間はその内側で現れたり消失したりしているのだろう。私は今ルワンダの人たちの音楽と踊りを思い浮かべている。彼らの物理的な空間がいかに破壊されようと彼らには彼らの時間と空間があり、それは流れ続け、彼らは存在する。私たちは共に在ることができるだろうか。共に在りたいと思う。

今日は火曜日。良い一日になりますように。

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プライバシーとかシークレットとか。

個室という環境で語られたり打ち明けられたりする秘密に対して「単にあわてふためくか、あるいは患者の要求をまともにうけてそれに答えようとして無理をするか、それともせめてもの同情をして終りにしてしまうか、三つの中のどれか一つ」にならないようにするにはどう対処すればいいか。土居健郎のこういう書き方にはユーモアがある。ご本人は大真面目なのかもしれないが、三つの中のどれか一つなんだ...患者の問題が千差万別であるという認識に乏しい人はたしかに秘密を打ち明けられることに対する耐性が低いかもしれない。秘密を打ち明けられることに対して、というより、自分が知らないことに対して、と広めに考えてもいいと思うけど、秘密というのは本人がそれを誰にもいわない、いいたくない、いってはいけない、と判断した事柄だから本人も伝え方がわからなかったりもする。土居は通常の診察室のやり方では個人の秘密(privacy)は保たれない、と書いているけど、そのあとの記述における秘密はsecretではないのかな。もちろんここでは場所の条件について書いているのでプライバシーのほうが適切だろうし、プライバシーが守られればシークレットもまだ「秘密」の領域で語れると思うけど。こちらから「何か秘密おもちですか」と聞く人はいないと思うけど。言えないから秘密なんだし。でもこちらが患者が、というか人間は秘密を含め、自分の知らない部分以上に、触れられたくない領域をもっている、という認識に乏しいと意図せず秘密に触れてしまうこともある。そして触れられたほうもそれによってはじめて「秘密にしてたのに!」と衝撃をうけるかもしれない。秘密が最初から秘密として本人に認識されているとは限らないのである。そしたらきっと、こんなプライバシーが守られない場所では何も話せない、と思うだろう。この場合のプライバシーは、人には入り込まれたくない領域がある、ということと、そこには触れられたくない秘密があるかもしれないのだ、という二重の意味をもつのでやはり訳はprivacyでいいのかもしれない。

患者には、とうか、いちいち言い直すが、人には誰にでも秘密がある、という事実(だよね?)に慎重であればそれが語られたり打ち明けられたりしたとき、土居があげた3つ(それ以外にもあるだろうけど。無視するとか、いらだつとか)のような反応をしないですむこともできる一方、その内容を知ろうとしない、踏み込まない、という判断もできる。土居が書いた三つは余白や余裕のなさを示す行為である。よって、治療者が役に立てる場所をつくりたいのであれば、それらを保障するための privacy が必要であり、そこで初めて患者は「話す/話さない」を決められるのである。そしてこの保障は治療者側にとっても必要である。

土居は場所の条件について書かれた箇所で少し唐突に自由連想について触れる。フロイトが、患者と一日中眼をあわせているのは堪えられないので患者を寝椅子にねかせて話させる方法を思いついた、と述べたことについて土居は検討する。これが精神分析の「場所的構成の設定」のはじまりであることに私も改めて思いをはせる。この設定は、『精神療法と精神分析』の第一章で述べられた「精神的距離」を実際の距離とし、治療者側の余裕を生み出す。治療者側の余白や余裕がないと秘密を守る(患者がそれを言葉にする場合もしない場合も)ことは難しいので、この設定は治療者のみならず患者の役にも立つ。

土居は、この設定によって「患者はこれまで問題の解決を徒に自分の外に求めていたのにひきかえ、自分の背後について自分を観察する治療者の存在によって、問題の出発点である自分自身を見つめることができるようになり、かくして問題の真の解決に至る道が開かれるのである。」とあっさり大きな達成への道筋を書いているが、この設定の導入がもつ侵襲性についてはここでは触れていない。

と、今日も土居健郎の文章からあれこれ書いてみた。こんなことやってたら一章どころか一生読み終わらないよ、と思うかもしれないが、こういうのは何度か読んでいる人の遊びみたいなものだから。私は、読書は、最初は何も考えずに全体を読み通したほうがいいと思っている。難しいとかわからないなんて当たり前なのだからとりあえず話きこうか、みたいな感じで読む。

患者の話を聞く場合も同じである。わからなくてもなんでも最初の語りは一生懸命耳を傾けてそのまんま聞くことがなにより大事だ。問うことはいつだってできる。

そうだ。「聞く」「訊く」の違いってあるよね、と先日、ドラマをみながらふと思った。「ききたい」というセリフがあってこれはどっちの「きく」なんだろうとか。大抵はどっちもなんだろうけどどちらかが強調されることもある。「きいてもいい?」という場合は「訊く」の意味が結構含まれてるだろうし、とか。

まあ、人の話をきく仕事をしているとこんなことばかり考えてしまうわけです。私だけではないと思う。

昨日も晴れたりうっすら雨が降ったりだったけど気温はそれほど高くなかった気がする。移動が長かったので起きている時間はアイデアを少しまとめることができた。頭使うとすぐ眠くなってしまうから大体うとうとしていたけど。

今日は月曜日。また一週間、がんばりましょう。今週もよろしくお願いします。

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地震、土居、眼鏡

夜中の地震には驚いた。東京も震度5弱だったそうだが、そこまで大きいとは感じなかった。食器棚などのロックはかかったが、本などが落ちることもなかった。直後は少し水がでにくいように感じたが数時間後には戻っていた。ケガをした人もいるということだし、断水や停電で困っている人もいるかもしれない。電車にも遅れがでていたりする。せっかくの日曜日だが安全第一で過ごそう。

今朝も土居の『精神療法と精神分析』のことを少し書いておく。

土居は、通常の医者の診察室においてもある種の精神療法は行なわれ得る、という場合の治療因子は医者の権威に対する信頼であると述べた。そして、日本で、医者の権威に対する信頼にもとづく精神療法効果を最大限に利用した精神療法は森田療法であるといった。同時に土居は森田療法が、単なるムンテラでは得られない治療効果をもつことに言及するが、ここでは詳細は書かれない。森田療法の専門家の医師が、土居は森田正馬を一番読んでいる人ではないか、といっていた。土居が森田療法を精神分析に対置させ、「甘え」概念を展開していく様子はほかの著書に詳しい。

土居は、患者が内心の問題を自由に話できる(誤植ですね)ようにするためには、開いている戸(物理的な戸だけでなく、秘密を保証する心理的な戸)を閉めることの重要性を説いたベルンフェルトの例をあげる。そして精神分析前史の誰もが知っているブロイエルとヒステリー患者の例をあげ、もし個室によって秘密が保証されても、その秘密に治療者が堪えられない時は、治療的関係が断絶することを示す。個室の中では起こる色々な出来事や現象に対する対処は次章以降に示されるが、土居が患者はひとりひとりすべて違うという当たり前ではああるが忘れられがちなことを強調しながら技法を論じているのは確かである。

今日はここまで。

少しでも作業を進めねば、と昨日ははりきって仕事にいったが途中で眼鏡を忘れたことに気づいた。手元の文字を読むことができないだけなので眼鏡がなくても生活はできるが読書はできない。まだコンビニしかあいていない時間で、しかしコンビニにも老眼鏡はなく、夕方まで外にでる時間はなかったので、オフィスにかろうじて置いてあった100円ショップで買った老眼鏡で対処した。領収書を書いたり契約書を確認したりするのはそれでよかったが頭がクラクラして本を読める感じではなかったので無理せず読まなかった。いいのか。よくない。でもしかたない。こういうことがないように遠近両用を買ってかけっぱなしに慣れていこうと思ったのになんどもなんども眼鏡をなくす。どうしたらいいのだろう・・・。とにかく今日は忘れない。まずそこから。

日曜日、無事に過ごせますように。

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治療場面の設定など。

土居健郎『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)をなんとなく再読してなんとなくメモしている今週、今日もやってみよう。


土居は「第2章 治療場面の設定」で前章のたとえを引き継ぎ「治療場面の設定とは舞台装置のことである」と述べる。このあとがかなり重要で「舞台装置が、そこで演じられる劇によって変化するように、治療場面の設定も、そこでどういう治療が行われるかということにより当然変わって来なければならない。」。「どういう治療」、つまり方針だろう。第一章で、土居は、治療者が治療方針をもたない場合「もし治療者にあり余るほどの人間的善意があったとしても、結局のところ患者は得る所がない」と述べた。私としては治療方針をもたないのはすでに善意が不足しているということではないかと思わなくはない。治療方針と目的、それと相関をなすのが「設定」である。土居はこの章において、これらは本来同時に論じらるべきとしながらもまず設定について説明を試みる。土居が最初に問題にするのは「場所の条件はそこで行なわれる精神療法の性質をどのように決定するか」である。

土居は自分がいたような大病院の診察室の例をあげ、個人の秘密(privacy)が保たれない場所で精神療法を行うことはできないという。しかし、だからといって診察室で精神療法過程が一切起こらない、というわけではなく、医者の診断と予後を聞いてわからなさという不安が軽減されたり、身体的な病気だと思い込んでいる神経症患者(精神病の場合はまた別の話)には診断自体が精神療法的効果をもたらしたりと、通常の医者の診察室においてもある種の精神療法は行なわれ得る、ともいう。ただそれは医者の権威に対する信頼が前提である。この部分は土居の森田療法に対する批判の布石である。とにかく「個人の秘密のない状況において行なわれる精神療法は、極めて不完全なものである。」
土居はさらに、個人的秘密がとりあつかわれ難い状況なのになぜ精神療法が行われているのか、医者も患者もそれほどのその不完全さを意に介しないのはなぜか、に言及する。このもう一歩先にいく書き方や思考は真似していきたいところである。


土居によると、なぜならそれは医者患者の双方にとって都合がいいから、である。打ち明け話をすること自体が苦痛を伴うものであり、それに耳を傾けてもらえないというのは一種の安堵を患者にもたらすかもしれない。そして医者だって助手や看護婦がいることでそれをきかないですむ。


よく患者さんが「こんな話聞かされたくないですよね」というが、私はきくのが仕事だからきかされているとは思わない。ただ聞くのがつらいときは確かにある。でもだからといって場所の条件を変えたりほかの人を使ったりしてそれをやめさせようとは思わない。また、患者が私に打明け話をする際の躊躇はそのこと自体を話題にする。大事なのは中身よりこのようなひとつひとつの判断ではないか。


今朝はバタバタして時間がないのでこのあたりで再読はおしまい。今月はもうまとまった時間がとれないけど8月末までの仕事がふたつあるからそっちを先にやらねば。千葉はまた雨の被害の心配があるという。九州は猛暑。気候は容赦ないが人の力はいつだってどこだって使えるはず。できることをやっていこう。

どうぞよい週末をお過ごしください。

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心の秘密性

今朝の空は秋っぽい。鱗雲っぽい。曇っている。風はない。最近、月って早い時間に出てるよね。この前も雲にまざって月をみつけたけど私がオフィスを出るころにはみえなくなってた。

今朝も土居健郎の『精神療法と精神分析』の「第1章 治療者患者の関係」に書かれている部分をとりあげる。土居は治療者と患者には精神的距離が必要であると述べた。しかしそのことは両者の間に感情の交流があってはいけないという意味ではない、むしろそれなくして精神療法は起こらないといってよい、と述べた。

これも「そんなの当たり前じゃん」とか「え?どういうこと?距離とったら感情の交流なんてできないじゃん」とか色々反応はあると思う。土居もフロイトも自分の言葉がどう誤解される可能性があるかをよく理解していたのだろう。前もって丁寧に対応している。

土居はいう。同情や共感や感情移入といった言葉によって現わされる心理的特質も「精神的距離の支配する場において働くのでなければ、真に有効であるということはできない。単なる同情だけならば、なにも治療者であることを要しない。」それはそうだ。治療にはこれらとは異なる心理的態度を要するのである。

土居はここでキェルケゴール『不安の概念』からの一節を引用する。

「彼はうち解けあった瞬間においても、自分の沈黙を守っていることによる、何かしら誘惑的なるもの欲情的なるものをもっていなければならない。かくして彼は人目のないひっそりとした状態を技巧的につくりだすことによって、心に秘密を抱いている人がそれにさそわれて忍び足にぬけでてきて、あたかも独語の際のように自分の心を軽くすることに楽しみを見出しうるように、しむけなければならない。」(1844、邦訳:岩波文庫、1954)

土居は「心理学的な観察者を演劇の役者にたとえていることに、読者の注意を促したい」という。しばしば演技は現実そのものよりも人の心に迫る。治療者も精神療法という劇において、治療者の役を演じているのだから通常の人間関係とは異なる。治療者と患者の間にはおのずから距離が存する。そのうち患者と治療者の間に相互作用が起こり、患者が今まで無意識に演じていた自己を発見するとその劇は完結する。

「そのためには治療者が、患者と「うち解けあった瞬間においても、自分の沈黙を守っている」ことが是非とも必要である。」(p15)

土居は本書『精神療法と精神分析』の初版から10年後、第12版発行に際して「秘密の観点」についてという文章を付け加えた。土居は初版で「個人の秘密に対する理解と耐容性を社会全体が失うことがあれば、治療はきわめて困難となり、事実上不可能となるかもしれない」と書いたがその頃にはその予測は現実になりつつあった。

土居は精神分析における「抵抗」のことを「秘密」といった。そしてこの秘密に対する理解と耐容性を治療者の条件とし、治療がなされるための社会の条件でもあると考えた。たとえば土居は精神病に対する社会的偏見を利用し「これは君たちの秘密なのだから。秘密だから大事にしまっておかなければいけない。」と秘密のなくなった彼らに新たに秘密をつくってやる必要性を述べた。

現代というかまさに今日、私たちは真逆の方向へ進んでいる。暴くという乱暴さに加えて晒すという下品さも加わった今の社会は、威勢のよさだけで中身もなく、排除的思考を隠さない言葉を専門家も平然と使っている。

土居は常にわかってしまわないことの重要性を説いた。一方、精神分析が秘密のヴェールをはぐ役割(主役)を演じてしまったことも指摘した。私たちは心の秘密性を宝物としなければならないはずなのに。治療者は、患者自身がまだ自分の秘密の存在を知らなくてもそれに開かれ、その秘密が展開するように導く必要がある。治療者がむりやり秘密のヴェールをはぐのではなく。

土居はフロム・ライヒマンとキェルケゴールの別の文章も引用し、治療者は、深い哲学的信念にもとづいた同情と科学的確信に発する敬意をもつ必要があること、そしてもし治療者に必要な程度の優越性があるとすれば、そのような同情と科学的確信を持ち得るという点にそれを見出せるだろう、と述べるのである。

今日も先達の言葉を噛みしめたり励まされたりしながらがんばろう。

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土居やフロイトやグリーンを読んだり。

休み明けなせいか、早速寝不足なせいか失敗が多い毎日。落ち込む。大丈夫だろうか、自分。

昨日、「精神的距離」が失われることによって生じる危機に陥らぬために、と土居が取り上げたのはフロム・ライヒマンFrieda Fromm-Reichmann(1889年10月23日 – 1957年4月28日)である。土居の『精神療法と精神分析』は1961年。土居が引用したライヒマンのPrinciples of Intensive Psychotherapyは1950年。邦訳がでるのは1964年である。精神病の精神分析に貢献したライヒマンについても書きたいことはあるがまたいずれ。ライヒマンは、きわめて重い障害を抱えた人々にも「資質(assets)」が備わっているとした。そして彼らが精神的な負債(liabilities)を資質(assets)へと転換することを示した。

土居は述べる。

「患者に接する際、現在は病んでおりしたがって自己は確立されていないが、しかし将来それを確立する能力を持っている者として、そのように潜在的には治療者として同等な者として呼びかける時、そこに精神的距離が保たれる、と考えられるのである。」

そして土居は「第12章 社会的条件と価値」において再びこの問題を詳述する、と脚注に書く。

ただ、これが12章のどの部分なのかよくわからない。「精神病患者を精神療法によって治療することの技術的困難も、その少なからぬ部分が、気ちがいに対する社会的不寛容と関係がある」という社会的条件が治療の限界となることとの関連なのか、土居がフロイトの1919年の論文「精神分析療法の道」(全16)とともに示す分析家による価値判断のことだろうか。どちらにしても治療者としての精神分析家の限界に関わる議論であることは間違いないだろう。

土居はフロイトの「患者は自らの固有の本質を解放し完成するべく教育されなければならない。」という文章を引用しているが、この部分をもう少し前から引用してくれたほうがよかったかもしれない。岩波版の訳で書いておく。

「患者は私たちと類似したものに向かってではなく、患者自身の本質の解放と完成に向かって導かれるべきです。」(p101)

また土居が書いているようにこの少し前の文章でフロイトは以下のように論じている。

「私たちがきっぱりと拒んだのは、救いを求めて私たちのもとに来た患者を、私たちの所有物にし、患者の運命を患者のために定め、私たちの理想を患者に押しつけ、高慢な創造主のごとく、私たちの似姿に患者を仕立て上げて大いに満足する、という行いです。」(p100)

土居も同じことを述べていることはすでに書いた。

フロイトや土居が繰り返し述べる治療者と患者の関係における治療者の姿勢は規則と通じ、精神療法を構造化するものなので一治療者としても何度も確認したい部分である。

それと同時に精神分析過程をよりメタで考えるために毎日色々読んでいるわけだが、私が相変わらず目をとめるのはアンドレ・グリーンであり昨日目を通していたのは時間論。“From the Ignorance of Time to the Murder of Time: From the Murder of Time to the Misrecognition of Temporality in Psychoanalysis”。Leticia Glocer Fiorini & Jorge Canestri 編 The Experience of Time: Psychoanalytic Perspectives に収録されている論文である。

これについてもメモしておきたいがもう時間がない。今日も暑くなりすぎませんように。台風がちょうどよく勢力をなくしてちょうどいい雨を九州にもたらしてくれますように。千葉に被害をもたらしたような豪雨がもうきませんように。自然災害のみならずトランプ政権によるICCの制裁やそれに対する日本の対応など心揺さぶられるニュースばかりだが今日もなんとかがんばりましょう。

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「精神的距離」とか。

涼しい、気がする。実際外に出たらどうなのかな。いいお天気みたいだけど。ほんと今年の夏は過ごしやすくて助かった。年とって色々弱っているのに仕事は増えるばかりなんだから体力奪われたくない。

さてさて、昨日は土居健郎が『精神療法と精神分析』の第1章で治療者が治療の方針をもつことの必要性を述べていると書いた。続きも読んでみよう。

土居は「治療の方針がきまっていないと、治療者患者の関係は先に定着したような職業的関係ではなく、一般の人間関係とかわらないものになってしまう危険が極めて大きい」という。「愛情と理解のスローガンをかかげて、自分の善意を患者におしつけること」をしないために、つまり「治療者の個人的要求を持ち込むこと」をしないために、あり余る善意で「患者の弱味につけこむ悪徳治療」をしないためにそれは必要なのである。

それはつまり、治療者と患者の関係には精神的距離を維持することが必要だということだ。土居は美学者エドワード・バロウEdward Bullough(28 March 1880 – 17 September 1934)の「精神的距離」Psychical distanceを引用して説明する。土居の本は引用も楽しく、幅広い本を読んで訳していたことがわかる。

ここでも土居がいっているのは当たり前のことで、患者と馴れあいの関係になってはいけないということである。「患者を助けることを自分自身の個人的要求の外におくことによって保つ距離」の重要性を論じるものはあまりないなか(今はあると思うが)、土居はそれに近い考えとしてキュビーKubie,S.L.のanalytic incognitoをあげる。私が「分析の隠れ身」という用語を知ったのは毎週木曜日に通っていた慶応心理臨床セミナーの小此木啓吾の講義だったと思う。でもここで土居がキュビーの著書の邦訳でこれを「分析の隠れ身」と訳した、と書いているのを読んでこれが土居の訳であるらしいと知った。

「分析家が個人として患者に未知の存在でなければならぬこと」、そうあることは転移の分析にとって重要である。治療者が患者と個人的かかわりをもってしまっては、患者は安心して自分をみせることができない。治療者の役割は患者を助けることであって個人的なかかわりをもつことではない。

「治療者の仕事は患者を助けることにはちがいないが、しかしもし治療者と患者の間にあるべき距離が失われて、患者の問題がそのまま治療者の問題になってしまったら、その治療者はもはやよき治療者となることはできない。」

なぜかといえば、これも治療者の個人的要求を持ち込むことと変わらないからである。

「なぜならこの場合治療者にとって患者を助けることが転じて自分を助けることになるからである。」

こういうことをすっと納得できるだろうか。教える立場にいるとこれがまったくわからないという治療者にも出会う。精神療法の場でなくても、相手のためとやっていたことを「そんなのおまえのためだろう」と突き返されるような場面はたやすく想像できると思うのだが。

さらに土居は「治療者が問題を持つ患者をいかに助けるかということに専心したとして、なおここに一つの心得るべき罠がひかえている」として「治療者が治療の成果の善し悪しにこだわって、もっぱら自分の個人的成功または失敗とうけとること」をあげている。「この場合は、治療者が患者の問題にまきこまれるのと反対に、患者の問題解決が単に治療者の自我をふくらませるかしぼませる道具となってしまう。すなわちやはり治療者患者の間の精神的距離は失われている。」

まさに、と思うが、実際はこのような治療者は多く、私はこの仕事を個人でやっていると思うこと自体が違うのではないか、と思っている。精神分析家はどこかしらの組織に属して、治療者患者の間の精神的距離を維持することを体験するため、少なくとも理解するために、自分も分析を受け、その結果、精神分析家として認定されているわけだし、そもそも人の心の治療に成功とか失敗とかって誰が決めるのか、という感じはする。もちろん「失敗」に関してはウィニコットをはじめとしていろんな次元で議論されてきたしすべきことではある。

もう準備しなくては。今日もあれこれあると思うけどがんばりましょー。

夏空に秋が混じってた
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土居健郎『精神療法と精神分析』冒頭

土居健郎は『精神療法と精神分析』の前書きで、執筆に際してフロイドの技法論、エクスタインの講義や著作、そして教育分析の影響を受けたと書いている。土居は教育分析によって傷ついたがその傷の意味を理解するプロセスで精神分析を理解するに至ったという。土居がこの本の執筆を依頼されたのが昭和32年、初版が昭和36年(1961年)、昭和47年には第12版、 2014年には第26版、2026年現在はどうかわからないが出版社のウェブサイトによると品切れ・重版未定である。読むべき心の治療の本がすぐに入手できない現状は困ったことである。繊細で敏感な心を守るために言葉をつくすのが精神分析的な精神療法だと思うが、権威に従う心を善とするかのような現代社会にこのような豊かな本は響かないのだろう。個人的には臨床家で土居に関心がある人には必読だとお伝えしたい。先日、いつも事例検討の場で大変お世話になっている友人たちにも聞かれたからそう伝えた。日本精神分析協会みたいな小さい場でも土居の「甘え」に関する発表をしたことは有意義だったんだな、と思えた。多くの人に読んで語り合ってほしい。

この本は「精神療法はこれを構造と過程の二つの面から考察することが最もわかりやすい。」という一文からはじまる。ここにすでに、サイコセラピーのストラクチュアルな側面について書いたエクスタインの影響がある。これももとはといえばもちろんフロイトの技法論の影響であり、フロイトのOn Beginning the Treatment(1913)「治療の開始について」(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)の冒頭が引用される。土居はフロイトを精読し、取入れ、自分の臨床感覚によって書きなおせた唯一の人だと思う。もちろん精神分析家なら多かれ少なかれ同じことはやっているが、土居ほどたしかな日常語で緻密にそれを行った人はいないだろう。

フロイトの「治療の開始について」(1913)は技法論集に収められている。邦訳は、藤山直樹監訳の岩崎学術出版社版の翻訳『フロイト技法論集』が現時点ではもっとも正確で新しいと思う。冒頭を引用する。

「格式あるチェスの腕前を書物から習得しようとしても、網羅的で体系的な説明が可能なのはその序盤と終盤だけであり、序盤に続いて展開する無限に変化しうる指し手をそのように説明することはできないとほどなく気がつくであろう。書物による学習の限界を補うためには、名人たちによって繰り広げられた対局を入念に研究するしかない。精神分析治療の実践のために定めうる規則にも同じような制約があてはまる。」

フロイトのこの論文も精神分析を学ぶ場合は必読だが、土居がこの章で論じたいのは「治療者患者の関係」なのでフロイトの論文の引用はこの冒頭部分だけである。ちなみに土居による「治療の開始」はこの本の第4章であり、ここも大変読みごたえがある。

同じ部分を土居の訳でみてみよう。土居の時代は「チェス」を「将棋」と訳しているのも味わい深い。

「高度な将棋の技術を書物からの習得しようとする者は、やがて知るであろう。書物にはただ序盤と終盤についてだけ、あますところなく組織的な説明が加えられているが、序盤につづいて展開される戦闘のーもし説明されたとしてもとても読みきれないほどのー複雑多様な駒の進め方については、少しも言及されていないことを。大家が互いに戦いを支えた対局を熱心に研究することだけが、このような指導上の欠陥を補うのである。おそらく、これに類した制約が、精神分析療法を実施する上に与えらえる規則にもあてはまるといえよう。」

いい訳だ。「大家が互いに戦いを支えた対局」という表現にみあう臨床を大家にならずともつみあげていきたいものである。

土居は、「規則と遊戯との関係は精神療法にもあてはまる」として、規則を精神療法の構造と呼び、その実際の進行を過程と呼ぶ。精神療法は治療者と患者という人間関係を軸とする。そしてそれは職業的関係として、普通の人間関係から区別して考えなければならない、という「至極当たり前の」前置きから土居ははじめる。このあとが土居がしょっちゅう言葉を変えて確認する事柄である。

「勿論治療者も人間であるから、彼自身助けを要することがないとはいえない。しかし彼が精神療法に従事するかぎり、その中で自分の満足を追求するこはせず、もっぱら患者の要求に応えるように努めねばならぬのである。」p4

土居もフロイトも緻密で誠実だ。「至極当たり前のこと」こそ忘れられているのだから意識をむけておくことは常に大事だ。土居がそれでもこんなことを強調しなければいけないのは

「(精神療法以外の一般の医学的治療の場合に)反して精神療法の場合は、治療は治療者患者の人間関係を軸として行なわれ、この関係を離れて別に客観的な治療は存在しないという点が、問題である。いいかえれば精神療法を精神療法たらしめるものは、外面的基準ではなく、その治療の特殊性ゆえの内面的規律である。」

だからである。「しかも」と続くこのあとの文章も精神療法を実際に提供する際のジレンマや悩みをよく拾ってくれている。なぜ治療者が治療方針をもつことが必要なのか、治療者が治療関係に個人的要求を持ち込まないようにすることがいかに困難か、は土居の実感だろう。これを実感を持って共有できるかどうかは、精神療法家としてものを考えられるかどうかのひとつの分かれ道なような気がする。

こうやって土居健郎を詳細に読んでいく会もフロイトのと同じようにやりたいが時間を合わせる余裕がないのでとりあえずひとりでやっていく。発表したりすれば対話が生まれることはわかったので協会を発表の場にしていけたらいいなと思う。発表にしても論文にしても査読を通らねばならないので、こぼれおちるものたちはこうやって個人的に書き連ねておけばいいかなと思う。

昨日の朝、今年の夏は涼しいなと思って遠回りしてオフィスへいったらやや熱中症みたいになってしまった。油断してはいけないですね。やや涼しすぎるかもくらいな環境で仕事するのが一番身体にも楽みたい。冷房大切。熊本も千葉も電気の状況はどうなのだろう。身体がつらいと気持ちもつらいし気持ちがつらいと身体もつらい。多方面からの支えが届きますように。私もできることやろう。今日もよろしくお願いします。

玉川上水旧水路は再整備の工事中。
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俳句 精神分析

朝

空がきれい。まだ凍空って感じでもない。今日は結社誌と小さなオンライン句会の投句締切。私がはじめた小さな句会なのだけどいつのまにか人が増えていろんな句が集まる。結社誌より気楽に出せるから面白い句も多い。毎朝、空を見て、つくおきして、と俳句になりそうなものはたくさんあるが切り取り方が難しい。でもとりあえず締切までにはださねば。

昨日、土居健郎の本を読んでいて一冊目は眠くなるばかりだったけど二冊目は吹き出してしまうところもあって楽しく読めた。土居健郎は再読になるけど何も覚えていないものだね、相変わらず。しかし、この書き方ははっきりしてて対話調で楽しい。

朝ドラばけばけを見ながらおトキちゃんは人の尊厳がどう維持されるかをよくわかっているんだなと思う。昨日の最後の場面、すごく良かったな。色々書きたいけど時間がない。細々とやることいっぱい。あー、明るい空。良い1日を。

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お菓子 精神分析 精神分析、本

大福、脱錯覚、「甘え」

朝焼けがきれいだった。今日はすっきり晴れるのかも。あんまり寒くないし。昨晩はとてもきれいに月が見えた。立待月。月は名前がついてなくてもいつもきれいだけどね。

昨日は下曽我駅前の松栄堂さんのお土産があってすごく遅い時間だったのにいただいてしまった。今日中って言われたし。開運勝餅大福と五郎力餅。三郎って読んでいたら五郎だった。包装の折り目のせいだけじゃなくて「五」の下の線が太くて上にかかってたから。ここのお菓子、甘すぎなくて本当に美味しかった。私も昔行ったことがあるらしいのだけど曽我梅林に行ったことは覚えているのだけどなあ。ハイキングに行くと大抵その町の和菓子屋さんがあるので1つ2つ買ってその場でいただいたりする。お茶を出してくれるところも多い。どこからきたの、とかいわれながら登ってきた山の話やその町の話をする。梅まつりがあれば屋台で買ってしまうだろうし記憶がないけどまたここのいただきたい。大福も美味しかった。開運しますように。

イスラエルのヒズボラ空爆、ガザに対してもそうだけど合意ってなんだろう、合意に違反っていえば攻撃が正当化される世界ってなんだろう。NY市長選でトランプとの対立姿勢が明確な民主党左派マムダニ市長が誕生したが、すごいエリートなのね。インド系移民であるとかムスリムであるとかを押し出すのではない方法で、つまり多様性を打ち出すのではない方法で格差拡大に対する政策を打ち出したのが勝因とも聞く。物価の高さはNYに住んでいる知人から聞いて驚いていたけどどうなるのか。私はアメリカンドリームが信じられていた時代の子供だと思うけどそんなもの本当にあったのか。なんでも時間をかけて現状となるとはいえ、アメリカがその脱錯覚に耐えるつもりがあればトランプ大統領を選ばないだろうし(現在の支持率が低いとはいえ)、働け働けでもなく取り締まり強化でもなく庶民が「普通に」暮らすために「普通の」ことをする(お金の流れを止めないとか)のってなんて難しいのだろう。ガザのことを考えているのに常にアメリカが背後にいるのが当たり前って思考を私がしているのもどうなんだよ、と思うが、

昨日は土居健郎の「甘え」概念に立ち返ってみた。相互退行の文脈で。たとえば、子どもが親に甘えるだけでなく、親が子どもに甘えるという一方向ではない依存、相互依存において投影しあう状況は自我境界を曖昧にする方向性で、それを退行と考え、記述すること。これもナルシシズムの文脈だけど。安易にナルシシズムを肯定するのではなく、しかし欲動の次元において作動する心的構造を探求しつづけること。脱錯覚できる心はどう成立するのか、しないのかとか考えるときにかなり射程の広い「甘え」概念はどう使えるのかな、とか。臨床的には「甘え」は瞬間的な一致の現れだと思うけど、とか。日本の精神分析家としては土居健郎を知っている世代の分析家が生きている間に対話できたらいいのだけど学べば学ぶほど大変な概念だと思う。

いいお天気。どうぞ良い1日を。

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未分類

2月20日(火)朝

この時間はすでにいろんな音がするなあ。雷おこしを食べた。歯にくっつきそうで怖かったけど大丈夫だった。歯医者嫌いだから歯医者にはよくいく。なんだそれ。歯医者は予防と治療がはっきり分かれてる。治療を受けたくないから予防する、つもりがクリーニングに行くたび不具合が見つかったりする。予防のつもりが治療することになってる。いやー。でもそういうものだね、いろんなことは。誰かを通してみないとわからないことがたくさん。友達と話しているうちに「病院にいったほうがいいのでは」と言われて精神科へ行ってみて「薬より心理療法では」と言われてこちらへくるという方も多いし。「そのくらい自分でどうにかしたら」という場合もあるし、「どうしてそこまで放っておいたの」という場合もあるし色々だけどね。私の場合、歯医者嫌いならそんなにお菓子食べるなよ、それが1番の予防になるでしょ、ってことなんだろうねえ、多分。ああ、辛い。

歌人で、俳人で造本作家の佐藤りえさんが発行している個人誌『九重』4号を読んでいた。俳人の今泉康弘さんが佐藤りえ論を書いている。お二人ともすごい。幻想怪奇俳句集『良い闇や』(2022)には夏目漱石『夢十夜』を踏まえた句があるとのことでその句に対する今泉康弘の評もいい。それが漱石のものと知っている必要はまるでない。佐藤りえが解釈した世界とそれをさらに解釈する今泉康弘の対話の姿勢が素晴らしいのだ、きっと。そもそも解釈というのは対話のすえに生じるものであるから多分そうなのだろう。漱石のものと知っている必要はないとはいえ『夢十夜』は本当にすごいよ。私は文学と臨床の両方に関わる病跡学をやりたいと思っていた時期が長かったのだけど土居健郎の『漱石の心的世界』とかにも影響を受けたのだろうねえ、覚えていないけど。あの本には『夢十夜』は入っていない。それはすごくまともな判断な気がする。どこか別の場所で書いてるかもしれないけどね。

さあ、色々大変だ。がんばろ。

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精神分析、本

『個性という幻想』『実践力動フォーミュレーション』

ツイートもしたが自分のための備忘録。精神分析関連の本。

12月の精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)は岡野憲一郎先生による「サリヴァンとコフートと自己心理学の流れ」の講義。私は司会を務めるので2022年10月に出たばかりのサリヴァンの本を読んでいる。KIPP主催のサリヴァンフォーラムに申し込むのをすっかり忘れていたが出席された方に聞くとサリヴァン(Sullivan,H. S 1892―1949)のオリジナリティはもとより阿部先生が大変個性的でとても面白い会だったそうだ。サリヴァンの翻訳といえば中井久夫先生のイメージが強いが、阿部先生が今回訳出された日本語版オリジナルの論集は個人の病理を実社会に位置付けるサリヴァンの主張の源泉を感じさせてくれるものだと思う。各論考の冒頭にある《訳者ノート》が大変ありがたい。

『個性という幻想』(講談社学術文庫)
著: ハリー・スタック・サリヴァン
編・訳: 阿部 大樹

「本書は初出出典に基づいて新しく訳出した日本語版オリジナルの論集である。ウォール街大暴落の後、サリヴァンが臨床から離れて、 その代わりに徴兵選抜、戦時プロパガンダ、 そして国際政治に携わるようになった頃に書かれたものから特に重要なものを選んで収録した。」(14頁)

ちなみにこの本に収録された12編のうち11編は、日本で唯一未訳の著書“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences”(1964) にも収められている、とのこと。

“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences” は1934年から1949年に亡くなるまでのサリヴァンの社会科学に関する17の論文を集めた著作らしい。題名からすれば精神医学と社会科学の融合となる。

サリヴァンは当時、米国精神分析の中心だった自我心理学に対してインターパーソナル理論を用いた精神分析をトンプソン Thompson,C.らと模索した。これがその後1960年代からのシェイファーらによる自我心理学内部からの批判とどのように連動したのか忘れてしまったかいまだ知らないでいるが、自我心理学に対する批判がその後の米国精神分析の多様化を導き、関係論の基盤となった。この辺は岡野先生のご講義で確認してから書いたほうがよさそう。書いてみるとなんだか曖昧。

次は、筆者の皆さんからということで編集者さんから送っていただいた実践の本。感謝。

『実践力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト法』 (岩崎学術出版社)

「事例から学ぶ連想テキスト法」の実践の記録。

第1章で土居健郎 『方法としての面接 臨床家のために』 (医学書院)に立ち戻らせる妙木浩之先生のさりげなさ。わかるわからないの議論をはじめ、「見立て」とは何か、ということを考えるときに土居先生のこの本は必須なのだ。

そして妙木先生考案の「連想テキスト法」とは、「事例概要を構成するナラティブ(物語)を一度分解し、さらに再構築するための方法」であり、フロイト『夢解釈』、ノーベル経済学賞受賞の心理学者ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の合わせ技として説明。「三角測量による客観性も、また同時参照によるリフレクションも働かない」よくあるスーパーヴィジョンの形式ではなくそれらを可能にする方法として考案された「連想テキスト法」はグループでの事例検討会に最適であり、私も妙木先生のフォーミュレーションのグループの初期メンバーとしてこの意義は確信して自分のグループの基盤にしている。

実践編に入る前の妙木先生の説明(1章)はもちろん必読だが、理論がないところにフォーミュレーションは成り立たないので基礎として知っておかねばならない精神分析的発達論のまとめ(3章)も役に立つ。実践編では主要な病理毎に一事例取り上げられ、その連想テキストが提示されその結果どのようなアセスメント/フォーミュレーションがなされたかが記述される。「ヒステリー」 の症例が取り上げられている(5章)のは力動的心理療法の歴史を考えれば当然だが価値がある。基礎を押さえつつ書くためのモデルとして手元に一冊置いておきたい。

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精神分析、本

わからないから

8月14日のイベントにお招きする川柳作家の暮田真名さん、言葉といえば私的にはこの人たちである飯間浩明さん、川添愛さん、山本貴光さんの鼎談を目当てに『ユリイカ』2022年8月号(青土社)を買った。最初に読んだのは鈴木涼美「ギャル的批判能力は時代おくれなのか」、あと山本ぽてと「語尾とうしろめたさ」。お目当てから先に読むとは限らないのさ。この二人のも注目していたけれど。

鈴木涼美さんが「一億総ライター的なSNS社会」と書いている。確かに。でもSNSにいるのはほんの一部の人たちでもある。実際、私の周りはSNSのアカウントを持っていてもほとんど使っていないし、臨床心理士資格認定協会に対する働きかけを行う(返事はまだない)時にもそれを思い知らされた。今再び話題になっている宗教や宗教二世のこともSNSによってこれだけ公にされる時代になったことは驚きだが、臨床で地道にそれらと関わってきた身としてはそこで公にされることの意味や影響については日々考えさせられる。報道されることもそれはその人のあるいはその出来事の一面である可能性については当たり前と思っている。事件は一人では起こせないのだ。そして自分がそこにどのような形で関わっているか、いないかなは誰にもわからないのだ。もしかしたら自分のつぶやいた一言がなんらかの影響を与えていたらとか考えたらきりなく物事は繋がっていくがそれはあり得ないことでは決してないだろう。

社会運動の研究家の富永京子さんがSNSでのたやすい共感についてツイートしていたが確かにSNSにはなにも知らないのに口調だけみたら(SNSは視覚的だね)親しい間柄みたいなのもたくさんある。

千歳烏山の小さなアパートに住んでいた頃、夜男性の声で電話があった。寝ぼけていた私は誰だっけと思いながら知っている人と思って適当に返事をしていた。相手がそういう口調だったから。そのうちに相手が適当なお世辞を言って「ごめんね」と電話を切った。あれはなんだったんだろう。SNSで生じていることもそんなに変わらないだろう。そういうことがもっと簡単に、人から見える場で行われるところはだいぶ違うけど。

人には決して他人にはわからない、自分にもわからない領域がある。勝手に悔やまれたり悲しまれたり「共感」されることに激しい怒りを喚起されることもある。わかろうとすること自体が結構暴力的なのだ。土居健郎が「わかる」ことにこだわり、藤山直樹は土居が序文を書いた著書で事例によってその侵入性を示した。『精神分析という営み ー生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)の最初の症例がまさにそうだ。人は簡単ではない。わかること、わかられることに一面的な価値を与えることはできない。だからなにというわけではない。ただそうなんだと思いながら、その人自身にも触れられないこころの領域を想定してそれを尊重したい、そうしながらそばにいたいな、そうするしかないもんね、わからないから、と私は思うのだ。

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精神分析 精神分析、本

日本の精神分析家の本

日本の精神分析家の数は多くありません。国際精神分析学会(IPA)所属の分析家でいえば1学級ほどの人数で、訓練のための分析を提供する訓練分析家となると数えるほどしかいません。(日本精神分析協会HP参照 http://www.jpas.jp/ja/)

だから精神分析なんて全然身近じゃない、かというとそうでもなく、精神分析家は意外と身近なのです。たとえば土居健郎先生、たとえば小此木啓吾先生、たとえば北山修先生、たとえば、、とあげていけば「あ、この人知ってる」という方は結構おられると思います。

精神分析家の先生方の発信力が強力、というか大変個性的なので、これまた少しずつですが、先生方の本について下記URLのブログでご紹介したいと思います。すでに書いたものもご関心があればどうぞご覧ください。

日本の精神分析家の本(妙木浩之先生)

日本の精神分析家の本(北山修先生、藤山直樹先生)

精神分析の本

ちなみに私は、大好きだった合唱曲、「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者が、この北山修先生だとは全く知りませんでした。

精神分析ってまだあるんだ、と言われることもありますが、精神分析は特殊な設定にみえて、というかそれゆえに、すごく生活に近く、先生方の本に出てくる人たちはみな、私たちが自分自身のなかにもみつけられる部分をお持ちです。あまり難しいことは考えず、できるだけ無意識にしたがって共有していけたらと思います。

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同時性

私は、精神分析家について何か書くとき「日本の」とか「今も実際に会える」とかあえて付け加えたくなります。それは「同時性」というのをとても大切に思うからです。同じ国に生まれて、同じ時代を生きて、同じ学問を愛して、同じ場所をともにするなんてとても特別なことのように思いませんか。

 たとえば私は、土居健郎先生とは同じ会場にいたことはあるけれど言葉を交わしたことはありませんし、土居先生の考え方やお人柄などはひとづてや本でしか聞いたことがありません。一方、小此木先生以降の東京の先生方にはご指導をいただいてもきましたし、日本精神分析協会の先生方は特に身近に感じています。だからといって土居先生は遠く感じるということではなく、実際にお会いできたことで遠くは感じないのです。

 私より若い世代の方にとって、小此木先生や土居先生は等しく遠いレジェンドのように感じられることもあるようですが、「実際に同時にここにいた」という事実、そして実際にその場で私が受けたインパクト、それは知らない相手に対して自分勝手に言葉を繰り出すことを難しくします。だから知ろうとする、対話を試みる。フロイトを読むのもそのためです。

 それに、過去の過ちを繰り返してならない、とばかりになされる試みがその過去にすでになされていたことを知ることもしばしばで、そんなときも知るのは自分の無知でしかありません。若いときにはそれこそ若さだからいいと思いますがもうそろそろそういうのはいいかな、という感じがしています。多分、またやるけど。

 同時というのは過去、現在、未来、という直線的な時間軸を超えていく概念だと私は思います。精神分析でいう「今ここ」が単純に「あのときそこで」と対比できないように、それは今より前も今より後も含みこむ生成されつつある時間なのだと思います。だから、私の中で生き続けている実際に同時にここにいた人たちをとても大切に思うのです。

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密、親密、秘密

6月に社会学の本を読んだよ、ということで気鋭の若手社会学者、中森弘樹さんの『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』を取り上げました。

この本、コロナ関係の本かと思ってしまいませんか?題名だけみると。でも違うのです。出版は2017年ですから。そのくらいコロナは親密性と責任について考えることを余儀なくしたウィルス、というかもはや出来事となったと思いませんか。

そして、コロナ関連の本が続々。本というか雑誌?みなさん、仕事が早くてすごいです。危機のときの情報の取り入れ方は人それぞれだと思いますが、私はネットニュースやSNSで流れてくる情報をぼんやり眺めながら、そのなかでも信頼している書き手が参照している元の資料や文献をみて、でもよくわからないから関連のもみて、とかやりながら自分の仕事をどうしていくかを考えています。終わりがない作業ですねえ、こういうのは。開業だと最後は自分で決めるしかないけれど。

研究者のみなさんはすでに視点が定まっているから「この視点でこの出来事を見た場合」という感じで書けているわけでしょうか。これが臨床との違いかなぁ。でもこういう雑誌を読むときもどの論考も大抵「今の時点で」というような言葉は入っているわけだから変わりゆくものとして取り込むことが大切なのかもしれませんね。

あ、「こういう雑誌」というのは2020年8月に出た『現代思想』のこと。今号は、パンデミックを生活の場から思考する、ということで「コロナと暮らし」という特集を組んでいます。目次は青土社さんのHPをご覧くださいね。

冒頭に挙げた中森さんの本、やはりコロナにも通ずるテーマですよね。親密性と責任。ここでは、【家族と「密」】という分類(分類、やや雑ではないか?と思わなくもないけどスピーディーな作業には必要かもしれない)で『「密」への要求に抗して』という論考を書かれています。

 まず、「コロナ離婚」という言説、あるいは社会現象を「ステイホーム」がもたらす親密圏への過負荷に対する私たちの不安感を示唆するもの、として捉えるところから始まるこの論考。

ワイドショー的な言葉の使い方はこうやって言い換えてもらうと急に自分のこととして考えられる言葉になるような気がします。これぞ専門家の役目かもしれません。

「密を避ける」、で「ステイホーム」、といってもそもそも「家族」って形式としては「密」ですよね、でもそこは前提だから議論は避けて通りますか、だとしたらそれはなぜでしょう、みたいな疑問を中森さんはきちんとしたデータをもとに書いておられて、「それを自明の前提として受け入れるとき、その背景にはどのような規範が存在しているのだろうか」という「問い」に変換していきます。

「そんなの当たり前じゃない?」というのは昨日書いたような「あっちがあるじゃない」というのとたいして変わらないような気がします。前提を顧みること、「前提が、現状に対してとりうる選択肢を狭めている」可能性を考えること、中森さんがここでしているのはそういうことかと思います。

「家族を特別視する背後にあるもの」を検討するために援用されるのは山田昌弘(2017)。私にとっては久しぶり。あとは読んでいただくのがいいと思うので詳しくは書きませんが、確かにコロナ禍のコミュニケーションのなかで、それぞれが前提としている「家族らしさ」ってあるんだなぁ、と思ったのは本当。そしてその前提から要求が生じ、いつの間にか大切にしたかったものはなんだったっけ、となることも確かにあると感じます。

中森さんはご著書でも「親密」をキーワードにされていましたが、ここでも家族にとどまらない親密な他者との関係について、まずは「親密圏」とはという概念から教えてくれます。これも昨日書いた「広場」の概念を考えることと私には重なってきます。

とサラサラ書いていたらなんかすごく長くなってきてしまいました。読みにくいですね。もしご興味のある方は、まずは本屋さんでちょっと見てみてください。他の方の論考も興味深いです。

中森さんのこの論考、最後はジンメルの「ある程度の相互の隠蔽」を引用し、「ステイホーム」においては、「秘密」「奥行き」、すなわち「距離」あってこそ生じるものの確保という課題が想定されるため、「「密」への要求に抗する新たな規範を構築してゆく必要がある」と結ばれています。

ここは土居健郎の「隠れん坊」とか「秘密」の概念と重ねて考えるところです、私の専門としては。

そういえばジンメルも「人間関係論」のテキストに出てくるなぁ。有名な社会学者です。

「人間関係」は本当に幅広くて複雑で難しいこともたくさんですが、目の前の誰か(とかSNS上の文字とか)のキャッチーな言葉に自分のことを当てはめたり、当てはめられたりしてしまう前に、「なんでこんな不安なのかなあ」とかまずは自分のこころの奥行きを使ってみてもよいかもしれません。本来であれば、そこは秘密の場所だと思うので。

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出自

小此木啓吾先生の古希とフロイトの誕生日を祝う学術集会が収められた『精神分析のすすめ』(2003、創元社)という本は冒頭に三浦岱栄先生(小此木先生が慶應の精神科に入局したとき(昭和30年、1955)の教授、『神経病診断治療学』の著者)との激しい葛藤が綴られている。ものすごく高度な戦いで、その中で「僕は精神分析に負けた!」といえる三浦先生がすごいなと思った、とTwitterで書いた。

本当にそう思う。「第一部 各研究の個人史的背景と次世代へ」と名付けられたこの最初のセクション「神経学との出会いー三浦岱栄先生と」でこのエピソードを話す小此木先生の討論者が狩野力八郎先生で、もうお二人ともいらっしゃらない。

小此木先生が書かれた何冊もの本、遅筆だったといわれる狩野先生の著作集、そして日本の内と外を橋渡しした土居健郎先生、北山修先生の著作などは精神分析は精神分析でも「日本の」精神分析について深く考えさせられる書き方がされている。

精神分析がクライン、ウィニコット、ビオンによって母子のメタファーを用いることでその潜在力を開花させたように、私たちも何かと出会うとき、自分という存在、自分の考えの由来を早期のできごとから探らざるを得ない、わけではないかもしれないが何かを人に伝えようとするときその基盤となった個人史に言及する人は多い。

出自を知る。多くの文学が描いてきたようにそれは類型化されるものではない。生まれることの理不尽を、生きることの理不尽を、私たちは感じながらどうにか生きている。自分とは違う誰かとの出会いがいかに生を揺さぶるとしても、その生を規定されたものとして諦めることなく、その潜在力を信じたい。

様々な報道を目にしてふとそんなことを思った。