6月に社会学の本を読んだよ、ということで気鋭の若手社会学者、中森弘樹さんの『失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論』を取り上げました。
この本、コロナ関係の本かと思ってしまいませんか?題名だけみると。でも違うのです。出版は2017年ですから。そのくらいコロナは親密性と責任について考えることを余儀なくしたウィルス、というかもはや出来事となったと思いませんか。
そして、コロナ関連の本が続々。本というか雑誌?みなさん、仕事が早くてすごいです。危機のときの情報の取り入れ方は人それぞれだと思いますが、私はネットニュースやSNSで流れてくる情報をぼんやり眺めながら、そのなかでも信頼している書き手が参照している元の資料や文献をみて、でもよくわからないから関連のもみて、とかやりながら自分の仕事をどうしていくかを考えています。終わりがない作業ですねえ、こういうのは。開業だと最後は自分で決めるしかないけれど。
研究者のみなさんはすでに視点が定まっているから「この視点でこの出来事を見た場合」という感じで書けているわけでしょうか。これが臨床との違いかなぁ。でもこういう雑誌を読むときもどの論考も大抵「今の時点で」というような言葉は入っているわけだから変わりゆくものとして取り込むことが大切なのかもしれませんね。
あ、「こういう雑誌」というのは2020年8月に出た『現代思想』のこと。今号は、パンデミックを生活の場から思考する、ということで「コロナと暮らし」という特集を組んでいます。目次は青土社さんのHPをご覧くださいね。
冒頭に挙げた中森さんの本、やはりコロナにも通ずるテーマですよね。親密性と責任。ここでは、【家族と「密」】という分類(分類、やや雑ではないか?と思わなくもないけどスピーディーな作業には必要かもしれない)で『「密」への要求に抗して』という論考を書かれています。
まず、「コロナ離婚」という言説、あるいは社会現象を「ステイホーム」がもたらす親密圏への過負荷に対する私たちの不安感を示唆するもの、として捉えるところから始まるこの論考。
ワイドショー的な言葉の使い方はこうやって言い換えてもらうと急に自分のこととして考えられる言葉になるような気がします。これぞ専門家の役目かもしれません。
「密を避ける」、で「ステイホーム」、といってもそもそも「家族」って形式としては「密」ですよね、でもそこは前提だから議論は避けて通りますか、だとしたらそれはなぜでしょう、みたいな疑問を中森さんはきちんとしたデータをもとに書いておられて、「それを自明の前提として受け入れるとき、その背景にはどのような規範が存在しているのだろうか」という「問い」に変換していきます。
「そんなの当たり前じゃない?」というのは昨日書いたような「あっちがあるじゃない」というのとたいして変わらないような気がします。前提を顧みること、「前提が、現状に対してとりうる選択肢を狭めている」可能性を考えること、中森さんがここでしているのはそういうことかと思います。
「家族を特別視する背後にあるもの」を検討するために援用されるのは山田昌弘(2017)。私にとっては久しぶり。あとは読んでいただくのがいいと思うので詳しくは書きませんが、確かにコロナ禍のコミュニケーションのなかで、それぞれが前提としている「家族らしさ」ってあるんだなぁ、と思ったのは本当。そしてその前提から要求が生じ、いつの間にか大切にしたかったものはなんだったっけ、となることも確かにあると感じます。
中森さんはご著書でも「親密」をキーワードにされていましたが、ここでも家族にとどまらない親密な他者との関係について、まずは「親密圏」とはという概念から教えてくれます。これも昨日書いた「広場」の概念を考えることと私には重なってきます。
とサラサラ書いていたらなんかすごく長くなってきてしまいました。読みにくいですね。もしご興味のある方は、まずは本屋さんでちょっと見てみてください。他の方の論考も興味深いです。
中森さんのこの論考、最後はジンメルの「ある程度の相互の隠蔽」を引用し、「ステイホーム」においては、「秘密」「奥行き」、すなわち「距離」あってこそ生じるものの確保という課題が想定されるため、「「密」への要求に抗する新たな規範を構築してゆく必要がある」と結ばれています。
ここは土居健郎の「隠れん坊」とか「秘密」の概念と重ねて考えるところです、私の専門としては。
そういえばジンメルも「人間関係論」のテキストに出てくるなぁ。有名な社会学者です。
「人間関係」は本当に幅広くて複雑で難しいこともたくさんですが、目の前の誰か(とかSNS上の文字とか)のキャッチーな言葉に自分のことを当てはめたり、当てはめられたりしてしまう前に、「なんでこんな不安なのかなあ」とかまずは自分のこころの奥行きを使ってみてもよいかもしれません。本来であれば、そこは秘密の場所だと思うので。