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クリストファー・ボラス(Christopher Bollas)、最初の3作について少し。

クリストファー・ボラス(Christopher Bollas)の書誌情報も書いておく。

ボラスの生い立ちから精神分析家としての仕事、「真の自己」が存在するのかという問いにまで及ぶインタビューは『Granta 174: Therapy』に掲載。ウェブで読むことができる。

“The Orange Ship”

ちなみに最近のボラスの著書はEssential Aloneness: Rome Lectures on D. W. Winnicott (2023, Oxford University Press) や Streams of Consciousness: Notebooks 1974–1990 , 1991–2024 (2024, Karnac Books)。

これらの近著をだしたボラスの声は、2026年3月6日の『Granta Magazine』のPodcastで聴くことができる。ボラスは、そこで、精神分析と文学の関係、白昼夢の意味、そして現代の大きな危機に精神分析は何を語りうるのか、といったことについて話している。

Podcast | Christopher Bollas

さて、ボラスもほかの著者と同じく、同じ論考がいくつかの著書に登場したりもするが、とりあえずボラスの単著を並べてみる。これまでもこのブログでボラスの本については書いてきているので、それも少しまぜこみつつ、とりあえず第3作目までの情報を書いておく。


1987
Bollas, C. The Shadow of the Object: Psychoanalysis of the Unthought Known. New York: Columbia University Press.
邦訳:『対象の影――対象関係論の最前線』館直彦監訳、岩崎学術出版社、2009年。


→ ボラスの最初の著書。変形性対象、未思考の知、対象としての自己、気分、規範病、抽出的取り入れ、逆転移など、その後のボラスの理論の核となる概念がすでに展開されている。書名 ‟The Shadow of the Object“はフロイト『喪とメランコリー』の一節に由来する。

1989
Bollas, C. Forces of Destiny: Psychoanalysis and Human Idiom. London: Free Association Books.


→ 2作目。未邦訳。human idiom(人間固有のイディオム)などを展開。2019年に刊行されたRoutledge版はボラス本人による序文が加えられている。

出版社ウェブサイトの概要の一部を訳しておく。

「ボラスは、「宿命(fate)」と「運命(destiny)」についての古典的な考え方、およびウィニコットのthe true selfという概念をもとに、「人間のイディオム(the human idiom)」という概念を展開する。それによって、私たちが他者との相互作用を通して、自分自身に固有な「差異の弁証法」をいかに生き、展開していくのかを探究し、明らかにしている。とりわけボラスが考察するのは、患者が自分自身のイディオムと運命への欲動(destiny drive)を表現するために、精神分析家のパーソナリティの特定の部分をどのように用いることがあるのか、という点である。」

1992
Bollas, C. Being a Character: Psychoanalysis and Self Experience. London: Routledge; New York: Hill and Wang..

→ 3作目。未邦訳。人が生のなかで出会う対象に無意識的意味を付与し、その対象世界を通して自己の精神史を喚起していく過程が中心となる。


ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」と訳せるか。


>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。

Introduction(出版社のサイトのPreviewでも読める)の冒頭をなんとなく訳すと

>私たちは皆、ある特定の香りが、まるで子ども時代の遠い村から呼びかけてくるかのように感じられる、あの胸を打つ瞬間を知っている。過去へ手を伸ばし、遠い昔の自己体験のエッセンスに触れられるかのように。人生のとても特別な時期に流行した音楽を耳にしても、呼び起こされるのは単なる記憶というより、イメージや感情、身体の鋭敏さに満ちた内的で心的な星座である。たとえ「この匂い、子どもの頃、うちの庭にあった花の匂いだ!」と誰かに言葉で説明しようとしても、内的体験の質感を伝えきることはできない。

以上。プルーストやシェイクスピアが偉大なのはもちろん、それを自由に取り込んで精神分析理論と重ね合わせて書く仕方が魅力的。おお、マドレーヌ、とパウンドケーキを食べながらでも喚起される香り。

ここで思い出されるのが、ボラスが最初の著書で論じた変形性対象(transformational object)である。ボラスにとって重要なのは、対象そのものだけではなく、対象との出会いによって生じる変形の過程である。

この部分は国際精神分析学会(IPA)が無料で提供しているIREDという事典の日本語版でもすでに訳されている。そこから引用する。

>>Bollas(1987)は、母親が「全体的な対象として幼児にとって人間化される」前は、「母親は変形の領域あるいは源として機能している」と主張した。したがって、「母親は、他者としてまだ十分に同定可能ではないが、変形の過程として経験される。そして、この早期の存在の特徴は、大人としての生活の中で、 対象が変形のシニフィアンとしての機能のために求められる時、対象希求の特定の形式において生き続けている。」(1987)

Bollas の「対象の統合性」については、Bollas(1992, p4)は次のように書いている。

これもIntroductionの一部。
>>かなり驚きなのであるが、対象関係論では、個人の投影のコンテ イナーとして見なされている対象のもつ際立った構造にほとんど思考が向けられていない。確かに対象は私たちを持ちこたえてくれる。しかし、十分皮肉なことに、まさに対象が私たちの投影を保持してくれるからこそ、一つ一つの対象の構造的特徴がさらにより重要になってくるのである。と言うのも、再経験の際に、 自身の自然な統合性に従って私たちを処理してくれるコンテイナーに、私たちは、 私たち自身をも預けるのだから。(引用ここまで)

ボラスが続けて書くのはこんな感じ。
>たとえば、思春期初期に野球の技に由来する喜びの感情をシューベルトのハ長調交響曲に投影し、同じ週にガールフレンドへのエロティックな反応をサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に投影したとしよう。大人になってこれらの対象に出会えば、そこに蓄積された自己体験が喚起されるだろう。

ここまでで十分面白そうでしょう。まだまだあるから少しずつ書いていこうかな。ボラスは簡単ではない書き手だけど、ウィニコット同様、喚起的な言葉の担い手なのでたくさん読まれて、精神分析に浸透する文学や文化とともに臨床を考えていけたら楽しいと思う。

東京は今日は雨。無理しないでいきたいですね。今日もよろしくお願いいたします。

熊野神社の祭禮は今週末。
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映像 精神分析 読書

ブルーナー自伝、NHKスペシャル。

昨日の月はくっきり明るかった。夜、何もつけないと寝苦しいけど、帰り道は暑くない。夜は外の方が気温が低いってことか。

ウィニコットの1954年の論文「精神分析設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面」を館先生が『ウィニコットの臨床』の中で丁寧に読解しているよ、ということを昨日書いたと思うけどこの論文は『小児医学から精神分析へ ウィニコット臨床論文集』の第19章に入っている。監訳は北山修先生、この章の翻訳は岡野憲一郎先生。そういえば、北山先生からバサック先生との共著を送っていただいた。感謝。

そうそう、それでウィニコットを読み直そうとしたら別の本が目に入ってしまい、またそっちをパラパラしてしまった。一度読んだことがある本はパラパラで行きたいとこに辿り着けるが中身はぼんやりしか覚えていないのできちんと読むにはすぐ時間切れ。

『心を探して:ブルーナー自伝』(田中一彦訳、みすず書房、1993年)。Jerome Seymour Brunerは1915年生まれ、2016年没。101歳ということだね。原著はIn Search of Mind: Essays in Autobiography. (1983)。ということは70歳になる前に書かれた自伝ということ。このあと30年間も生きるなんて思わなかったのかもしれない。私が大学生の頃によく読んだ心理学者ばかり出てくる自伝。みなさん、交流があったのだねえ。

この時代の多くの心理学者はそうかもしれないけどブルーナーも精神分析というかフロイトを常に目の端に入れてる。精神分析はまだ歴史が浅いとはいえ、今でも参照されるのはフロイト、クライン、ウィニコット、ラカンだよね、外側からだと。とはいえ、ブルーナーは精神分析の体験があるので「分析では、いや私の分析では」と「私の」に傍点をふって強調するくらい中に入ったことのある人。フロイトをよく読んでいるなあ、と思う記述もあるし、フロイトのことは精神分析より好きみたい。

ブルーナーの最初の分析家はエドワード・ビブリング(Edward Bibring、1894-1959)。エリクソンのスーパーヴァイザーだったりした分析家だ。ウィーン、ロンドンとフロイトと行動を共にして1941年からBoston Psychoanalytic Society and Instituteで訓練分析家を務めている。ブルーナーは1953年の秋、コモンウェルス基金の研究奨励金で精神分析を受け始めた。彼らは同じユダヤ人として親しみのある関係だったようだが、ブルーナーは「私は、分析が「行われた」とは思わない。」と書いている。

ビブリングは長くパーキンソン病を患っており、亡くなってしまったため、ブルーナーは二人目の分析家を必要とした。彼の分析体験に関する記述を少し引用する。

「それは、精神分析が私の流儀ではないということだったのか。すべてそのせいということはありえなかった。というのも数年後、私が心底援助を求めていたとき、つまりごくあたりまえの関係がこわれて私の微慢で強情なプライドに耐えがたい苦痛を残した離婚の直後、私は数か月間「本気の」分析を、ある別の人(ビブリングはその後、彼の病気の合併症で亡くなっていた)から受け、苦痛の軽減と洞察という点で大きな恩恵にあずかったのだから。あの最初の失敗には、何かもっと深層のものがあったのだと思う。」

「しかし、この結果をもたらしたのは精神分析自体だったろうか。そこには何か別の、もっとやむにやまれぬものがあったかもしれない。ビブリングの病気は、私の父の病気と死の再現になる危険を、あまりにも孕んでいた。」

など、ブルーナーは自分の精神分析体験を振り返り「私のように知的に事を処理する人間の場合、充分ではないのかもしれない」と書いている。この場合の「知的」は「頭ではわかるんだけど」に留まってしまう、ということかもしれない。ちなみにボストン精神分析家研究所でのセミナーは分析家の友達ができたこと以外は大層手応えのないものだったようである。

深夜にNHKスペシャル「K2 未踏のライン 平出和也と中島健郎の軌跡」を見始めたがいたたまれなくなって最後まで見られなかった。また後日見るつもりだけど辛い。平出和也さんは田中陽希の「グレートトラバース」で知っていた。この番組は句友の番組でもあるので身近な人たちの悲しみを思えば思うほど見ていて辛かった。私は山育ちで登山でもスキーでも親しんできたが、山は本当に怖いということもどこかで植え付けられている。そういう恐れを超えてワクワクに従い、磨き上げた技でさらなる高みにチャレンジしたお二人には尊敬以外ない。お二人が滑落死されてからもう一年。改めてご冥福をお祈りしたい。

今日は水曜日。失敗は最低限にとどめてがんばりたい。

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Netflix 映像 映画 精神分析、本

Netflix『リディア・ポエットの法律』、館直彦『ウィニコットの臨床』

今朝も風がない。そういえば昨日は急に大粒の雨のが降ったり、何事もなかったかのように晴れたり変なお天気だった。日本の気候は変わってしまったのだろう、など話した。同じ日本でもすでに様々ということもいろんな土地に行くと知ることではあるけれど。奄美大島で出会ったスコールを思い出した。地元の人も呆れたように空を見ていた。

コロナ禍にNetflixに入会しなんでもかんでもみていたことも思い出になりつつある。本当はこの時期に起きたことをもっと詳細に語り合った方がいいと思うが・・・。私はコロナ禍でもそれほど変わらない生活を送れていたが、配信で映像を見るのが当たり前になったのはその頃からだ。といってもNetflix以外に手を広げることもなく(間違って入ってしまったAmazonプライムをもったいないから少し使ったことはある。あの誘導システムやめてほしい。)ちょっとした時間に断続的にみているものも多い。映画は断続的にみても面白度が下がるのでドラマシリーズを見ることが多い。あとアニメ。最近だと『リディア・ポエットの法律』という実話ベースの作品が面白かった。1885年生まれのイタリア人初の女性弁護士がモデル。『虎に翼」みたいでしょ。舞台はトリノ。ひどい話だが、リディアは女であるという理由で弁護士資格を剥奪される。冒頭からなんなんこいつらと怒りが湧くが、諦めないリディアが兄の助手として活躍しつつ自分の権利も取り戻していくような話なのだと思う。シーズン2まであるとのことだがまだ1の途中。兄の助手としてというあたりはエノーラ・ホームズっぽい。実話では弁護士資格を取り戻したのはなんと60歳を過ぎてからとのこと。ひどい。よく諦めずに戦ってくれた。

それにしても映像技術の進歩の速さよ。エジソン、リュミエール兄弟、情景からストーリー、トーキーからカラー、特殊効果、CG、SFXっていうのかな、あとVFX、ゴジラとかの特撮というのは特殊効果を使った撮影、という意味でいいのかな。私みたいな高校時代の写真部、つまり静止画像で満足している人でもこれらはすでに自然に触れていた技術だった。私はVHS時代の子どもだった。

ちなみに『映画が恋したフロイト』の著者、岡田温司先生は1954年生まれ。学生のときにリアルタイムでみたものをDVDで見直してきた世代。今なら配信でご覧になっていると思う。なんにしてもデジタル技術の発達に遅れることなく論考を発表しつづける情熱がすごい。

先週末の精神分析的心理療法フォーラムのシンポジウムでは舘直彦先生ともご一緒させていただいた。数年前に精神分析学会の教育研修セミナーで討論を務めたときにはじめてお会いして以来。今回、会場で「はじめまして」のご挨拶をする先生方ばかりとご一緒だったので少しでも知っているお顔があって安心した。もっともウィニコットの仕事をわかりやすく咀嚼してご著書を出されてきた館先生のお仕事は以前から身近だった。

シンポジウムでお会いしたときに2023年に出版されたきれいな水色の本『ウィニコットの臨床 症例との対話から生まれる「あること」の精神分析』をいただいた。2013年に出版された赤い本『ウィニコットを学ぶ 対話することと創造すること』とセットで持っておきたい一冊である。私は水色の本もすでに読んでいたけど著者の先生からいただける本は特別なのでありがたく頂戴した。

私がこの本で一番いいと思っているのは「第6章 Winnicottの治療論」。取り上げられている論文が「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1954)」なのがいい。詳しくはまた今度。今日もがんばりましょう。