カテゴリー
精神分析

伝記とか回想とか実際とか。

鳥たちが鳴き始めた。東の空がうっすらピンク。今朝は稲城市のお菓子の森「もみの樹」さんのフィグシリーズ。今回はキャラメルフィグ。これも個包装の袋がかわいい。


昨日、アンナ・フロイトのことを書きながら、フロイトの女性患者に対するひどい対応をドラで語りすぎる精神分析家もどうなのかしら、と思っていた。

フロイトのドラに対する拒絶や逆転移の行き詰まりに関しては、パトリック・J・マホーニー(Patrick J. Mahony)の1996年の著書 Mahony, P. J. (1996). Freud’s Dora: A psychoanalytic, historical, and textual study. Yale University Press.に詳細に書かれている。パトリック・マホーニーは日本の精神分析学会でも講演している。その講演記録、「ああ!可哀想なドラ みんな彼女の病気を知っていたのに Alas Poor Dora. They Knew Her Ill.」1997, 精神分析研究 ,41(2),85−100.は読書会などでも何度も読んだ。書籍のほうでは、マホーニーが何度も使うcoercion(強制)という言葉が心に残った。

マホーニーだけでなく、フロイトが女性患者に対して行ったことを批判する際に、ドラを取り上げる人は多い。それは、フロイト自身がヒステリーの性的起源に関する理論を示すために、そして転移の重要性を認識する契機となった症例として、ドラを取り上げたことにもよるのだろうけど、転移を十分に扱えなかったという問題でいえば、フェレンツィもフロイトが自分の陰性転移を分析しなかったことを問題にしているし、アンナ・フロイトにいたってはそれを本当に今でも「転移」と呼んでしまうのか、と私なら問題にしてしまう。


ただ、批判的な気持ちになったときこそ、事実やこれまでいわれてきたこととの丁寧な照合が必要なので、いずれ、アンナ・フロイトの伝記を読み直すことで、経験と概念が織りなす精神分析の理論に対する理解を深められたらと思う。今はとにかく時間がない。

それでもメモ的に少し書いておく。

フロイトを批判することと、精神分析を批判的に検討することは、同じではない。精神分析家のひとりとして、その内側にいる立場としては、精神分析の歴史を説明する際に、フロイトの誘惑説の放棄がどこまで説明原理になりうるかに慎重である必要があるように感じる。


これについては、私は、エリザベス・ヤング=ブリュール(Elisabeth Young-Bruehl, 1946–2011)の論文なども参照している。

Elisabeth Young-Bruehlのことは以前も取り上げたと思う。彼女は、哲学者、伝記作家で、精神分析家である。ハンナ・アーレントに師事し、ウェスレアン大学で哲学や政治思想などを教えたのち、精神分析の訓練を受け、臨床にも従事した。アーレントとアンナ・フロイトの伝記を執筆したことで知られ、歴史資料に基づく伝記研究と精神分析的な理解を結びつけた研究者である。このサイトが参考になるので関心がある方はチェックしてみてほしい。

彼女はYoung-Bruehl, E. (1988). Anna Freud: A biography. Summit Books.において、アンナ・フロイトの生涯と精神分析理論の発展を、父ジークムント・フロイトとの関係も含めて詳細に検討した。とりわけ、アンナ自身のぶたれるという空想や白昼夢、父親による分析経験と、フロイトの理論形成との関連に注目している。

翌年の論文Young-Bruehl, E. (1989) Looking for Anna Freud’s Mother. The Psychoanalytic Study of the Child 44:391-408では、父娘関係に焦点が当たりがちなアンナ・フロイトの伝記的理解に対して、母親との関係という視点を提示している。

そこでは、実母マルタだけでなく、叔母ミーナや養育に関わったヨーゼフィーネなど、複数の女性たちの存在を視野に入れることで、アンナの発達や対象関係をより複雑なものとして考える可能性が開かれる。


こうした研究の意義は、アンナ・フロイトの人生を父親との同一化やエディプスに還元せず、彼女が育った家族関係や養育環境の複雑さのなかに位置づけ直そうとする点にある。

しかし、当然ではあるが、伝記的事実と精神分析的解釈のあいだの距離には慎重である必要がある。著者自身、大胆な精神分析的推測を試みながら、その推測を歴史的事実として確定できないことを自覚している。


Young-Bruehlはこう書いている。
>To put the matter very simply: in psychobiography there is no next session; one cannot wait for further associations, transference manifestations, or acting-out episodes to lead beyond an interpretative impasse—to show that at this point in the work I am right, wrong, or some mixture of right and wrong.


訳はこんな感じか。
「ごく簡単にいえば、サイコバイオグラフィーには次のセッションがない。解釈が行き詰まったとき、その行き詰まりを乗り越える手がかりとなる新たな連想や転移の現れ、あるいは行動化acting-outが生じるのを待つことはできない。つまり、作業のこの時点で私の解釈が正しいのか、間違っているのか、あるいは正しい部分と間違っている部分が混在しているのかを、そこから明らかにすることはできないのである。」


金剛出版『精神療法 第52巻第5号 大人の自閉スペクトラム症(ASD)の精神療法』の[Review of Books Abroad]の欄で私が紹介したAnat Tzur Mahalel著Reading Freud’s Patients : Memoir, narrative and the analysandは、フロイトの精神分析を体験した患者たち自身の語りをもとにしている。そこでは、たとえ、分析家によって自分の症例が書かれ、その記述が何らかの形でまとまったとしても、被分析者の物語はネバーエンディング(♫)であり、終わるわけではない。当たり前だが。もちろん、回想録は、分析家とのセッションではなく、それもまた、特定の時点から過去を構成する物語ではあるが。

結構きちんと書いてしまった。疲れを感じて気づく。今日は事例検討会。今書いたことも意識しながらあれこれ考えて言葉にできたらいいなと思う。

良い一日になりますように。

「お菓子の森 もみの樹」のマロンフィグ