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精神分析

休み

半日でも、物理的に電波の届かない場所にいるというのは健康にいい気がする。自分の目と耳でキャッチしたり、他の人の動きや言葉を通して知ったり、教えてもらったり。そうやって、自分の体の限界の中で過ごす時間っていうのは、とても貴重な気がする。

もう何年も前のことになるが、伊豆のどこかの山を登ったときのことを思い出す。たしか、三日ぐらい続けて山を歩いていたのだと思う。休憩しようと思っていた場所にようやくたどり着くと、一気に視界が開けた。そこはものすごいにぎわいで、遊具で遊ぶ子どもたちの声が聞こえてきた。

あそこが天国なのか地獄なのか、よくわからなくなった。疲れきった体にとっては、「ああ、ようやくたどり着いた」という天国だったと思うのだけれど、それまで山の静けさの中にいたせいか、そのにぎわいに圧倒されてしまった。結局、私たちはそこで休まず、また山の中に戻って歩き続けた。

精神分析の良いところは、静けさの中で自分の声を聞けることだと思う。もちろん、そこにいる分析家の声も際立つが、どちらかというと沈黙のほうが際立つ。その沈黙によって心の中がざわめいたり、不安になったり、それを言葉にできない自分に気づいたりする。ある意味、沈黙のほうが饒舌なのだろう。

なんにしても、直接的な身体の感覚や心の動きを自分でキャッチせざるを得ない状況というのは、自分の生き方をどうにかしたいと考えるときには、必要なことなのではないだろうか。

通常、分析中に携帯電話に出ることはないが、もしあったとしても、それはそれで、何が起きていたのだろうという吟味の対象になる。自分の心の世界に外の世界を入れること、入れたくなること、入れる必要があること。それらはみんな異なることである。

うちと外の関係というのはとても複雑で、たやすく区切れるものではない。外の世界が浸透してきたり、侵入してきたり、いつの間にか境界がずらされているような感覚を覚えることもしょっちゅうある。だからこそ、こういう休みというのは必要に思う。

今日は休めないという人も、どこかで自分の心と体の輪郭を感じられるような機会があるといいのかもしれない。いずれにしても、それぞれにとって良い一日でありますように。

 

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家