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精神分析

前提を疑った話。

早朝、窓を開けたら北側から強い風がはいってきた。寒いくらいの風になってきた。昨日の日中はとても暑かったけれど。

さて、今日もしつこく、土居の「甘え」理論。私は土居には一度しか会ったことがないし、直接話したこともない。土居がどのような人だったかについては、すでに多くの人が、自分と土居との関係から、その思い出めいたものを話したり書いたりしている、ということは何回か書いた。

私は土居その人よりも、土居の「甘え」という概念に惹かれた。それが人間土居と切り離せないものであるならなおさら、土居が「人間フロイド」に書いたように、私もその書き物と「格闘」したいと思う。


昨晩した投稿。

土居健郎の「甘え」をそれなりに丹念に理解しようとしているつもりだが、どうしてそんなに素朴に母性に責任を負わせられるのか、と思うので、読みにくさはある。小此木啓吾の講義を受けていたときにもそれは感じていた。


思い浮かべたのは、土居のこんな記述である。「聖書と「甘え」」という論考から引用する。

>以上のべたことと関連していま一つのべておきたいことがある。それは現代の母子関係は伝統的なそれと比較して多分に変わってきているのではないかと思われる節のあることである。育児に専念する母親の数は近年著しく減った。女性は男女同権の旗印の下に社会に進出することを求め、極端な少子傾向が蔓延している。更に数少ない子供の育児もいきおい母親ペースで行われる。このことが人工栄養の普及によって可能となったことは疑いを寄れない。たしかに人工栄養の進歩は不可避的な理由で母乳が得られない場合、大きな恩恵をもたらすが、しかし人工栄養が授乳の様式を子供本位から母親本位に変化させることに大きく寄与したことが問題である。かくして母親は子供の甘えを受けとめる者ではなく、むしろ子供の甘えを規制する者となった。巷間用いられることの多い教育ママの呼称が何か侵入的な印象を伴い、すべてを包み込む従来の母親像から大きくずれていることはそのことを暗示する。甘えが何かよからぬものであるかのごとく見なされる傾向はこれとともに生まれたのである。もちろんそれでも「甘え」がなくなることはあり得ない。しかしそれはもはやうぶで素直な甘えではない。それはえてして甘ったれた、媚びるような、あるいはつけこむ甘えとなる。これはすぐれて現代的な現象と言わねばならぬのである。なおこの種の甘えを精神分析の考え方を借りて甘えの性愛化と呼ぶことができるであろう。(引用ここまで)

私はこれを読んで「なにいっちゃってんだろう」となった。「甘え」がよからぬものとされはじめたのはここからですと?私は、日々の臨床で多くの「母親」たちと会ってきたが、母乳神話にいまだ苦しめられる母たちの話もたくさんきいてきた。土居がそういっているわけではないが、「不可避的な理由で母乳が得られない場合」とは?となる。土居は、ここで、女性の社会進出、人工栄養の普及、母親による侵入、甘えの性愛化という、異なる水準の事柄を流れるように結び付けているが、こういうところにこそ丁寧でないと、「甘え」概念の使用はとても限定的になるのではないだろうか。


また、土居は「人工栄養が授乳の様式を子供本位から母親本位に変化させることに大きく寄与したことが問題である」という。この前提もどうかと思う。母乳による授乳は子ども本位であると?人工栄養による授乳は母親本位になりやすいと?授乳こそ子どもの欲求と大人の欲求が重なり合うところかもしれないが、それを区別することなどできないだろう。母乳だとどのくらい飲んだかわからなくて心配になる、とかそういうリアルな感情も授乳の様式の変化には含まれる。子どもと大人がともにいるときの複雑な感情を言葉にできるのは大人だけであるが。


また、人工栄養の普及は、母親以外の人間が授乳という行為に参加できるようになることでもあるので、誰がやってもいいわけである。父親だってできる。別の人にだってできる。養育の可能性は広がったわけで「かくして母親は子供の甘えを受けとめる者ではなく、むしろ子供の甘えを規制する者となった」ではないのである。

まだまだいいたいことはあるが、時間がない。ちょっとだけ書くか。

臨床状況によくあるのは、母親以外の養育者が引き受けない養育に必要な行為や感情的な負担を、母親が引き受け、その母親が引き受けきれない部分を子どもが引き受ける、という構図である。これはヤングケアラーの文脈でよくあるものかもしれない。だとしても、それを誰かの「甘え」として記述することはできない。

「甘え」は子どもにも大人にもある。そして「甘え」は相手に依存せざるをえない。閉じない、というよりも閉じる契機が最初からない。相手がいるということは、その相手には自分とは異なる欲望や限界があるということでもある。それによって「甘え」がなくなるわけではない。「甘え」が迷子になるだけである。

「甘え」の対象は予め決まっていて、その対象にはその義務を果たす必要がある、などと「甘え」はいっていないし、そういわれてもそんなことは不可能だろう。土居がするように「神」を甘えの対象として想定することはできる。しかし、甘える主体にとって重要なのは、対象が存在すると信じられることだけではなく、その対象が実際にどのように機能するかだろう。土居は、「聖書と『甘え』」において、信仰の対象としての神に対する「宇宙的甘え」なるものも記述している。これはやや遊びがはいっているのか、真剣に遊んでいるのかよくわからないが、「甘え」は人間の話である。結果として「甘え」と名づけることが適切であるような心の動きは、一人の心のなかだけで成立するものではない。「甘え」は、その人と相手とのあいだにしかない、といってもいいだろう。

環境は、子どもがそれを信じることによって成立するのではなく、実際に何かをしている。それは、心的表象としての対象や環境の機能を心がどのように経験するかに先立つものである。
「甘え」が対象を必要とする概念であることは間違いない。しかし、その想定が母親であっても、父親であっても、神であっても、それだけで事足りるわけではない。土居は力動という見方を大事にするではないか。その人がそこにいて、何をしているのか。あるいは、何をしていないのか、そして、それはどのような相手との関係のもとで生じているのか、そのとき相手にはなにが起きていると想像しているのか。あるいは想像なんてしていないのか。土居が精神分析的臨床のなかに「甘え」で説明できるなにかを見出したのであれば、それを母親の存在に集約できるはずもない。

書きなぐるように終えてしまうが今日はここまで。金曜日だ。週末だ。がんばりましょう。