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精神分析

境界とか協力とか。

たくさん歩いて、たくさん喋って、よく寝た。日焼けした。涼しさに油断して日焼け止めを忘れた。丸く穴ができる服をきていたがまるく赤くなってしまった。それにしてもよく寝てもまだ眠い。何度寝でもできそうな気がする。


机の上に積み上げられた資料をどうにかせねばならない。積み上げていてもそんなに問題なかったということは一気に捨ててしまってもそんなに問題ないのかもしれない。多分、実際そんな気がする。


ジャック・ラカンのセミネール、第4巻『対象関係』(Le séminaire Livre IV: La relation d’objet)の最終回(第24回、1957年7月3日)の講義「ハンス・フェティッシュから鏡の中のレオナルドへ」(De Hans-le-fétiche à Léonard-en-miroir)の資料もあった。ハンス論文におけるフェティシズムなど(雑)を論じた論文だが、書いてあるメモがひどい。珍しく読める字で書いてあるが、このときの講師は本当にこんな話をしたのだろうか、ということが書いてある。本自体は持っているからこういうのは捨ててしまおう。


原著がフランス語の本の資料と思しきものが多いが、難解。こんなの読んだの覚えていないよ、というものは資料を見直するより本を読み直したほうがいいのだからこれも捨ててしまおう。
という作業を続けていけばいいのだろけど、それだけでも相当の時間がとられそう。毎日少しずつやっていこう。


昔からの友達と会話しているとそこに特に一貫性がなくてもおしゃべりは続いていく。5人以上とかなると急にそっちの話題になったり、あっちからの質問に答えたり、みんなでどっと笑ったり色々ある。

SNSでもなんでもそうだけど、自分がいいたいことだけ、それが言える環境でだけ出していくやり方が多い昨今、人の話を聞きながら話すということができることは普通ではなく貴重になってしまったのかもしれない。

いつでもメッセージが送れたりする時代だから、とか理由付けは色々できるのかもしれないが、自分の都合最優先の人たちが「どうして自分のほしいものがもらえないのか、こんなにいっているに」みたいなことはインターネット時代以前からのこと。

ただ、たしかに、いつでもどこでも、が可能になってしまったことで境界という感覚が曖昧なことさえ気づかれなくなってきたというのはあるかもしれない。心のなかに境界概念がないと、身体で覚えていくしかない部分もあるので、外的な枠組みやルールの設定もそういうことを考えてしていく必要がでてきてしまう。トリックアートではないけど、壁に書いてあるだけドアを開けようとしたらノブを触れなかったみたいにしてはじめて気づくとかがふえているのではないかな。


乳児の場合は、生身でも身体ごと抱えられないと心のまとまりがつかない、ということがあるように感じるし、精神分析理論はその辺を十分に描写してきたと思う。病気や障害がある場合にも、本人がどうしても抱えきれないものを抱えやすくしたり、一緒に抱えたりする機能は支援者に必要だろう。私が問題にしているのはそういうことではない。自分にもあるはずのその機能を使って責任を引き受けることを、どうにかして避けようとする心のことである。

責任を引き受けたくない心というのが現代の課題なのだろう、とよく思ので、人の責任をたやすく肩代わりしない心も同時に育てていく必要があるということなんだろうな。でもそれって内的には関りを絶たれている状態なのでなかなか難しい。自分の思い通りにしたい、というのが基本的な欲望である人は少なくないというか、たとえそれが基本だとしても、それでは人を大切にできないからどうにかしていかないと、と本気で思えるようになるのは簡単ではない。そう思うまでの出来事ですでに弱っている場合もあるし、自分のそういう部分に出会うのは本当に苦痛である。相手が悪いということにしたくなる気持ちが強まるばかりのフェーズもある。だから、お互いいろんな守りや工夫や、心の強さ的なものを育てあっていかねばならない。となると、やはり基本は「協力」であって、それは「設定」を守れるかどうかということになるのだろう。


思い通りにしてあげられないことを責められたり、色々されたりしても、それがあなたのためだと私は思うからそうやっている、といえたとしても、いうほうもその時点でかなりダメージを受けていたりする。だから、心に関わる人には、たくさんの知識と、現場での経験から学び続けることがずっと必要ということになる。大変なことだ。


まあ、今週もあれこれ考えつつがんばりましょう。