早朝からすっかり明るいが陽射しはまだ日の出の色を残している。昨日はゲリラ豪雨で大変な思いをした人もおられたようだ。私はオフィスで雷の音を聞いたが雨の音は聞こえなかった。だいぶ降った時間があったようだが。仕事中、花火の音が聞こえたのでその時間の神宮は無事だったのだろう。
昨日は食事とセクシュアリティを関連づけて色々考えていたが全くそういう書き方をしていなかった。今日書くわけでもないが、「食事」と書くときは精神分析家としてというよりは臨床心理士として具体的な対応を思い浮かべることの方が多い。たとえば、ひきこもりや家出や別居など子どもが親と距離をとる方法は色々あるが、食卓を囲まないとかごはんに呼んでもなかなかこないとかは結構長引く問題の始まりだったりする場合もあるし、食事状況や間取りや部屋の使い方はその家庭の大切な部分をあらわしていたりするので尋ねることも多いし、自然に話題になることも多い。さっき書いたのはある程度大きくなってからの子供の状態のことだが、小さな子でも自分の居場所のなさをいろんなふうに伝えてくれる。自分の部屋までいかなくても自分のスペースをどう作るかという悩みについて話し合うことも多く、重要なのは広さとかではないと知るのもこちらの学びとなる。習いごとや推しやメイクやファッションの話もとても大事。素材は同じでも使い方やそこに込められているおもいは全く違って驚くことばかり。
空間の使い方といえば、今やっている東京オペラシティアートギャラリーの企画展「ほぼ、空」には驚かされた。オフィスから近いのでなにかはじまれば気楽にいくし、常設展の良さについては何度か書いているような気がする。今回はその常設展スペースから全てをとっぱらっての展示。時折見える空を探しながら森の中を歩くような体験だった。実際は「ほぼ、空」で森みたいのは僅かなのだけど自分でも驚くほどいろんなことを感じてしまった。キュレーターの方にもよるのかもしれないが、オペラシティのアートギャラリーはあまり広くない天井の高い箱がポンポンと配置されているゆったりした作りでそこを仕切るときもあれば広々つ使うときもあるのだが、今回は常設展の場所もだし、光の使い方も全然違って、このライトって個別に操作できるんだ、というわりと生活的な気づきがあったり、これまであったものがなくなったということに全く気づかず生活している可能性の高さに怖くなっていつもの景色を探すような気持ちになったり、今見ている景色が徐々に変わっていったり、突然失われたりする想像に悲しくなってゆっくり歩いたりもう一度引き返したり、風なんかないのに吹かれてきたかのように移動する葉っぱや土をそっと踏んだり、ここも大事なのは作品の数ではなく、空間の使い方だった。青木淳おすすめの本はほとんど読んだことがある本だったが、誰かを通じたまとまりとしてそれらを見るとまた新しい感じで手に取りたくなった。
今日は仕事の合間で内輪のオンライン勉強会をする。今回はセッティングについて話し合うが、その最終に展覧会のことも思い出しそうな気がしている。精神分析におけるセッティング、日本語だと「設定」と言われるものだが、これは国の状況によっても異なるとはいえ、テキストとしてはもう言われ尽くされているようなところもあるだろう。国際精神分析学会地域間精神分析百科事典(The IPA Inter-Regional Encyclopedic. Dictionary of Psychoanalysis)の項目も既に日本語に訳されているのでそちらが教科書がわりになると思う。
一方、事例検討の場などで真っ先に問題になるのも設定だったりするわけで、条件が揃わないと始められないという場合の条件をそれぞれがどのように内在化し、患者に説明しているかは聞かれなくても応えられる必要がある。これは頻度や場所など外的な設定だけをあらわしているわけでは全くないので、精神分析の組織の中で実際に精神分析臨床を営むみんなで自分の臨床実践に基づいた対話ができることはとても貴重だと思う。わざわざ高いお金と膨大な時間をかけて日本精神分析協会のなかで訓練し、そこで精神分析文化を守ろうとコミットしている人たちであれば制度と歴史と臨床は常に同時に語られる必要があることを共有できていると思うので、そう簡単に言葉にならないものたちの言葉にならなさを共有する時間になるだろう。組織にはただ所属するだけでも意味があるのだと思うが、精神分析で食べている私や精神分析文化を愛している人たちはそこにコミットしつづけることが大事なのだと思う。それは直接的な対話をしつづけるということでもあるのでこういう機会はこれまでどおり作っていこうと思う。
休みはほしいが夏休みまであと少し。がんばろー。ほんとみなさん熱中症にお気をつけてお過ごしください。

