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精神分析、本

珈琲

早朝のルーティンをこなし、珈琲を淹れた。淹れる、という漢字を使うのってこんな時だけかもしれない。「淹れる」はお湯にしか使わないのね。いや、そうでもないのか。ネット上にはいろんな情報があるから結局何が正解だかよくわからない。まぁいいか。すぐに忘れてしまうし、珈琲を淹れる、淹れた、と書くときにしか使っていないのだから。

以前、noteで、バイトしていた店のアイスココアの思い出を書いた。こっちのブログに移行したかどうか忘れてしまったがあれはとても美味しかった。一昨日かな、ここで書いた自転車もそうだけど思い出には必ずモノが登場する。臨床場面を描くときもそうだ。舞台上の小道具にスポットライトが当たるように私の記憶のなかでそれらは時折こうして浮かび上がり再びその記憶と私を交合わせる。

そういえばnoteは退会した。多くの方に読んでもらいたい場合には適したメディアだったみたいだけど、私はSEO対策(?)とかもよくわからないし、これも本当はどうかわからないけど運営上の問題を(ネットで)見聞きしてお金をかけるのをやめた。noteにはダッシュボードというのがあって、アクセス数がわかったのだけど相当の数の人が読んでくれていたらしい。でも私の周りでnoteをやっている人が時折呟いているアクセス数とかものすごい数だから私にはびっくりしてしまうこの数も大したものではないのかもしれない。私は小さいオフィスで地道に仕事をしているだけだからこういう場所で徒然にただ書くのがあっている気がする。

全ての記事を移行したわけではないが(理由はないが移行に疲れてしまった)大したことを書いていたわけでもないからまあいいかと思う。また同じようなことを書くだろう。

いろんなことは相対化することで意味が変わってしまう。その点、モノというのはただそこに、素朴に、確かに(だと思う。触れるし。)存在しているのがいい。マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』という書名が頭をよぎった。来月でる本のなかの一章を書かせてもらったけれど、そこにはモノが登場していない。そこにはどんな意味が、と一瞬思ったけど、すぐに登場している場面を思い出した。私の記憶なんて曖昧なモノだ。

何を書きたかったのか忘れてしまった。珈琲はコロンビアだ。紙のフィルターがどうにもドリッパーっていうのかな、フィルターをセットするあれに収まりが悪い。たぶん、円錐型じゃなくてなんだろう、台形形っていうのかな、それだからだと思う。円錐型も探せばあるけど近くにあるものを使ってしまうのもいつものことだ。お湯を注ぐと陶器のポットにリンリンときれいな音をたてて珈琲が落ちていく。ポットは21年前、北沢タウンホールに移る前の聖葡瑠の前にあった雑貨屋さんの閉店セールで買った。ポットが大好きで、どこの土地へ行ってもポットがあれば足を止める。友達と山中温泉にいったときに山中に工房を見つけて一目惚れしたポットがあったが、迷いに迷った挙句買わなかった。ポットはポストカードみたいに気軽に買えないし、数はいらないので迷って買わないことの方が多い。でも今もあのポットだけはこうして何度も思い出す。あの旅からも20年近くが過ぎた。金沢と山中温泉の旅。激しい頭痛というものをはじめて知ったのもそのときだったが、それも辛い思い出ではない。そのときのことを思い出すと今もちょっと可笑しい。楽しかったな。

聖葡瑠はもうない。移転後も何回か行ってマスターと言葉を交わした。素敵な人だった。独特の雰囲気を持つ常連さんも多くて、小さな店で写真や絵を眺めながらマスターと彼らの話を聞くのも楽しかった。こだわりの珈琲を几帳面な様子で丁寧に淹れてくれた彼は今はどうしているのだろう。だいぶお年に見えたけれど。

書きたかったことを忘れたのに文字を打ち続けてしまった。まだ少し出かける前にやることがあるのだった。

今夜は一年かけて読んできた『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』を読み終える。昨年度は『フロイト技法論集』を読んだ。これらについてもオフィスのHPやもうひとつのブログに書いた。来年はドラを読むが、この岩崎学術出版社版フロイトではいつか訳されるのだろうか。そもそも症例論集1、っていつ出るのかな。そもそも存在するのか。世界は存在しないのか。まあ、いいか。フロイトの翻訳はたくさんあるから色々読んでみれば。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生