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精神分析

Web学会、朔太郎

誕生日祝いに故郷では有名なケーキ屋さんの焼き菓子が届いた。「朔太郎の詩」と名付けられたフィナンシェ。素敵でしょ。萩原朔太郎もこの地で生まれた。

この週末、日本心理臨床学会のWeb大会というのがはじまった。1ヶ月間様々な講演やシンポジウムをWeb上で視聴できる。

今年6月末、日本臨床心理士資格認定協会に対して教育研修制度に関する要望とコロナ禍に伴う制度の変更に関する議事録開示のお願いを書面で提出した。

全国の臨床心理士のみなさんから署名や助言、激励の形でご協力いただいたが1ヶ月を過ぎても受理のお返事がなく心配した。紙になったからといって個人情報の重要性が薄まるわけはなく、私たちはそれらの扱いを気にしていた。自分がどこの誰であるかを明確にしながら明らかに非対称の関係にある相手に向けてこういう活動をするのはなかなかエネルギーのいることで根拠はないが経験からくる不安がその都度顔を出した。戦いたいわけではない。ただ普通に、自分たちの仕事、ひいては生活に関わることなので知りたいしできることはやっていきたい、こう書けば極めて当たり前のことなのだが組織というのはなかなか難しく、反射的にパターン的にされがちな反応というのも推測してしまい不安になったりもした。人のこころって本当にこうやって動くんだな、と実感した。とにもかくにも内容に対する返答以前にまずはそれが無事に届いたかどうか知りたかった。ラブレターでも面接場面でもこういう運動においても想いを届けたい相手にアクションを起こしたらまずはそれが受け取ってもらえたかどうか捨てられたり破られたりしていないかどうか(こういう空想をしてしまうのが人のこころの厄介さ)気になるのは同じだろう。

2ヶ月が過ぎる前に書面でお返事がきた。安心した。ひとまず受け取っていただけた。今の時代、できたらメールでやりとりがしたかったのでそれも叶うようでホッとした。

内容についてはその話し合いの形式から検討をお願いしているところだが一歩一歩だ。

今回のWeb学会で私がまず注目したのは職能委員会企画のシンポジウムだった。会員動向調査の報告とそれに関する討論が組まれていた。データは大切だ。心理職としてどうあるべきかを話し合ったり技法を学んだりということはもちろん大切だが、それを可能にする基盤にもはや潜在的にではなく可視化された問題があるのを見て見ぬ振りすることはやってはいけないような気がした。

萩原朔太郎は『虚妄の正義』(講談社文芸文庫)というアフォリズム集の中で女性について様々な観点から様々なことを書いている。それはその後変わっていったりもするのだが結構面白い。

たとえば「女性教育の新発見」は「如何にして女共から、その野獣の爪を切り取ろうか?」という文章から始まる。興味深い。「職業婦人」についての記述はややうんざりするがアクチュアル。

現実的であることは大事だ。たとえば『絶望の逃走』には別れた妻が教えてくれた唯一の教訓を書いている。私が何よりもまず会員動向調査の報告に関心を向けたことと関係していそうで可笑しかった。

「観念(イデア)で物を食はうとしないで、胃袋で消化せよ」

「妻はいつも食事の時に、もっと生々した(いきいきした)言葉でこれを言った。「ぼんやりしてないで、さっさと食べてしまひなさい。」

ー「妻の教訓1(恐ろしき蒙昧)」『絶望の逃走』所収

かくして私たちの運動は女性としてのそれでもあるらしい。確かに代表者は皆女性だ。

対立したいわけではない。ただ明らかな非対称がある場合、それを少しでも均した状態からでないと対話も何も成立しないと考える。私がもし朔太郎の身近な読者だったなら彼に「女共」というのは「女と共にってことだよね」と言ってしまうな、きっと。