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精神分析

プチ色々

鍵垢で一対一のやりとりを見せられている感じってなんだろう。「こっそり〜してもらいました」と言って全然こっそりじゃなくなされている「良いこと」ってなんだろう。プチナルシシズムによる葛藤なき開示。それによるプチ他害。誰に対しても同じ文句で近づきそれに反応する人と良いところだけで付き合っていく?そんなことできるはずないけどオンラインはそれができると錯覚させる力がある。幻想でごはんは食べられないけどごはんを食べる余裕のある人には幻想だけで構わないし、それで恋もできるし憎むことだってできる。私にとって今のところ利他も幻想。プチ他害をしていることに対する防衛。

鈴虫は今日もきれいな声。

精神分析は話されないこと書かれないことに関心を向ける。内輪だったら正論、薄っぺらいいつもの饒舌にプチナルシシズム、プチ意地悪、プチフェミニズム、プチ利他が混ぜこぜにされている背景を探る。そんな面倒なことをしたくない、今の状態が気持ちいい(ナルシシズムだから)人には必要とされないものだけどこれを必要として求めてくる人もいる。

沈黙している部分に注意を向ける。「これって中毒ですよね」と自分の症状への気づきを得る患者は多いがまさに。反復強迫を実感を持って表現するには中毒という言葉はぴったり。診断ではなく。特定の相手のことを考えるのが苦しいからぐるぐるぐるぐる相手を変えて反復される出来事。自分のことはとりあえず誰か相手を決めないと見えないことが多いから治療者をくるくる変えることはしないわけだけど治療でなければ相手を変えることはいくらでもできる。それこそネットの世界では無限に。AIもいるし。

悲しい寂しい苦しい辛い、少ない言葉と一緒に抱きしめていてほしい。そう願うこと、そうしてもらうことが当たり前ではなかったと気づくとき、私たちのこころは危機だ。あるべきところにそれがなかった。加害に関する論考を読みながらそれがもたらす悲劇に沈黙するしかなかった。

鈴虫が遠くなったけどさっきの一匹が分裂したようにあちこちで鳴いている。今日も私たちはプチかいりで自分を守りつつなんとかやっていくのだろうか。壊れないように崩れないように。自分も誰も信頼できないなかただそう願いながら。